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2014/03/26

耳嚢 巻之八 宗祇宗長歌の事

 宗祇宗長歌の事

 

 宗祇、宗長連れ出(いで)行脚してある馬宿(うまやど)に宿もとめしに、若き女勝手において帶を解(とき)、又は帶をしめ、風車を手に持(もち)て泣(なき)、また捨(すて)ては泣ける故、兩人不審し、是(これ)全(まつたく)亂心なるべしといゝしが、宗長詠(よめ)る、

  戀すれば身はやせにけり三重の帶廻して見ればあじきなの世や

 宗祇之を聞(きき)て、左にあるべからずとて、

  みどり子がなきが記念の風車廻して見ればあじきなの世や

と詠ぜしとかや。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。和歌技芸譚であるが、底本の注で鈴木氏は、『連歌史上の最高峯である宗祇が、高弟の宗長と連れ立って行く途中、頓才を競うというのは類型説話である』が、『後世の仮託であるにしてもこの例は出来が悪い。次の芭蕉嵐雪の取合せの方がまだ巧みである』と酷評されておられる。私も二首の和歌はこれ狂歌の類いで俳言の味わいもなく、宗長の読みの浅さが目立つばかり、しかも前のリアルな悲惨哀れなる光景が光景だけに、如何にも後味の悪い話柄と感じる。これは「耳嚢」中では珍しく、私にとっても厭な一篇である。

・「宗祇」(応永二八(一四二一)年~文亀二(一五〇二)年)言わずもがな乍ら、室町時代の連歌師。生国は紀伊とも近江とも言われ、姓は飯尾とされる。別号に自然斎(じねんさい)・見外斎。連歌を高山宗砌(そうぜい)・専順・心敬に学び、文明四(一四七二)年には東常縁(とうのつねより)より古今伝授を受けた。上京の種玉庵に三条西実隆や細川政元ら公家や大名を迎えては連歌会等を開き、また越後の上杉氏・周防の大内氏らにも招かれて連歌を講じた。長享二(一四八八)年には北野連歌会所奉行・将軍家宗匠となった。文亀二年七月三十日宗長・宗碩(そうせき)らに伴われて越後から美濃に向かう途中、箱根湯本の旅宿に没して駿河桃園(現在の静岡県裾野市)定輪寺に葬られた。享年八十二歳。連歌の代表作には「水無瀬三吟百韻」(長享二(一四八八)年)や「湯山三吟百韻」(延徳三(一四九一)年)がある。(ここまでは主に講談社「日本人名大辞典」に拠った)。ウィキ宗祇には、『宗祇は、連歌本来の伝統である技巧的な句風に『新古今和歌集』以来の中世の美意識である「長(たけ)高く幽玄にして有心(うしん)なる心」を表現した。全国的な連歌の流行とともに、宗祇やその一門の活動もあり、この時代は連歌の黄金期であった』と記す。

・「宗長」(文安五(一四四八)年~天文元(一五三二)年)は駿河国島田(現在の静岡県島田市)に鍛冶職の子として生まれた。号は柴屋軒。寛正六(一四六五)年に出家し、後に駿河の今川義忠に仕えたが、義忠が戦死すると上洛、宗祇に師事して連歌を学び、「水無瀬三吟百韻」「湯山三吟百韻」などの席に列した。また大徳寺の一休宗純に参禅し、大徳寺真珠庵の傍らに住んで、宗純没後は山城国薪村(現在の京都府京田辺市)の酬恩庵に住んで宗純の菩提を弔った。明応五(一四九六)年、駿河に戻って今川氏親に仕えた。文亀二年に宗祇が箱根湯本で倒れた際にはその最期を看取っている。宗祇没後は連歌界の指導者となり、有力な武将や公家との交際も広く、三条西実隆・細川高国・大内義興・上杉房能らとも交流を持ち、今川氏の外交顧問であったとも言われる。永正元(一五〇四)年には斎藤安元の援助により駿河国丸子の郷泉谷に柴屋軒(現在の吐月峰柴屋寺)を結び、京駿を頻繁に往還、大徳寺山門造営にも関わり、その晩年の見聞を記した「宗長手記」は洒脱な俳諧連歌の生活の外、当時の戦乱の世の世相・地方武士の動静などを綴った優れた記録である(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

・「馬宿」駅馬・伝馬に用いる馬を用意しておく家、又は自分の馬で旅をする者が宿に泊まる際にその馬を宿で預かるが、その馬を預かる設備のある宿屋のことをいう。後者で採る。

・「記念」底本では「かたみ」と鈴木氏がルビを振っておられる。ここまで和歌類にはルビを振らぬことを私の原則としてきたので、ここは本文に入れずに注で示した。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 宗祇と宗長の和歌の事

 

 宗祇(そうぎ)と高弟宗長(そうちょう)とが連れ立って風雅行脚の旅に出、ある馬宿(うまやど)に宿を得た折りのことで御座った。

 その宿屋の身内と思しい若き女が、見通せる厨(くりや)の口にて、

――しきりに帯を解いては締め――また解いては締め

――玩具の風車を手に取っては泣き――またそれを投げ捨てては泣く

といったことを繰り返すのを垣間見て御座った。

 両人ともに不審に思うた。

 宗長は哀れと思いつつも、

「……これは……全くの……乱心にて御座いましょうのぅ……」

と師に耳打ち致いて、一首、

  恋すれば身は痩せにけり三重の帯廻してみればあじきなの世よ

と詠んで御座った。

 すると、宗祇は凝っと女から目を離さず、

「――そうでは――ない――」

と呟かれると、

  みどり子がなきが記念の風車廻して見ればあじきなの世や

と詠じたと申す。

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