耳嚢 巻之八 又 (芭蕉嵐雪の事)
又
右に同じき咄しなれど少し趣意も違ひ、いづれ後に附合(つけあは)せし事ならん。芭蕉翁と嵐雪行脚して、山の上に二人休(やすら)ひたりしが、右山の下にて、唯あじきなく廻しこそすれと口ずさみける女の聲しけるをきゝて、いかなる事にや、あの句を下にして、前を附(つけ)すべきとて、嵐雪、
本復の憂身に帶の長すぎて
と云けるを、芭蕉翁、左にあるまじ、我附(つく)べしとて、
ひとり子のなき身の跡の風ぐるま
と云て、兩人山を下りて、彼(かの)泣ける女子(をなご)に尋(たづね)しに、果して芭蕉が附句の通り、子を失ひし女の口ずさみなりとぞ。
□やぶちゃん注
○前項連関:極めて相似的シチュエーションの仮託作の別譚であるが、遙かにこちらの方がよい。それは前話が明らかな倒叙的書き方で、狂女の凄愴な映像をあからさまに描いて読後の後味がひどく悪いのに対して、ここでは「唯あじきなく廻しこそすれ」という謎掛け染みた上五に、嵐雪が恋路に迷って痩せさらばえた「娘」の身の自己愛としての憐れを附句したのを、師芭蕉が「母」たる子を失った「若き女」の絶対の悲しみとして読み解き、それが最後に解き明かされるという形式の中で、我々がこの哀れなる「女」の映像を決して直視しない点でよく出来ている(鈴木氏の謂いを借りれば、『まだ』しも『巧みである』)。謂わば前の宗祇宗長のそれは薄気味悪さを漂わす狂女物(それは過去の時制に生きる女だけの悲惨な夢幻能的世界でさえある)の失敗作のようであり、この芭蕉嵐雪のそれはしみじみとした現在能(そこでは寧ろ、控えめの朧げな憐れを催させる子を失った若き女の面影が読むものの心の内だけに果敢なくも美しい夢幻のように浮かび上がるのである)余香を伝えるからだと私は思うのである。
・「又」この又は現代語訳ではおかしなことになるので「芭蕉嵐雪の事」と読み替えた。
・「嵐雪」服部嵐雪(承応三(一六五四)年~宝永四(一七〇七)年)は蕉門十哲の一人芭蕉第一の高弟。江戸湯島生。元服後約三十年間に亙って転々と主を替えながら武家奉公を続けた。芭蕉への入門は満二十一歳の延宝三(一六七五)年頃で(芭蕉満三十一歳)、元禄元(一六八八)年一月には仕官をやめて宗匠として立ち、榎本其角とともに江戸蕉門の重鎮となったが、後年の芭蕉が説いた「かるみ」の境地には共感が出来ず、晩年の芭蕉とは殆んど一座していない。それでも師の訃報に接しては西上し、義仲寺の墓前に跪いて一周忌には「芭蕉一周忌」を編んで追悼の意を表すなど、師に対する敬慕の念は終始厚かった。青壮年期に放蕩生活を送り、最初は湯女を、後には遊女を妻としたが、晩年は俳諧に対して不即不離の態度を保ちつつ、専ら禅を修めた。内省的な人柄でそれが句にも表われて質実な作品が多く、嵐雪門からは優れた俳人が輩出し、中でも大島蓼太の代になって嵐雪系(雪門)の勢力は著しく増大した(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。
・「本復の憂身に帶の長すぎて」は「ほんぷくのうきみにおびのながすぎて」と読む。未だに恋の憂いの病いから解き放たれることなく、すっかり痩せ細ってしまったこの身には帯が長すぎる、というのである。
■やぶちゃん現代語訳
芭蕉と嵐雪の発句の事
先の話柄と同じい咄(はなし)にては御座るが、少しばかり趣意も違い、まあ、孰れも後の世にて附会致いた作り話にてはあろうものの、別に一話の、これ、御座れば添えおくことと致す。
芭蕉翁と高弟の嵐雪、これ、ある折り、行脚致いて、とある峠にて、二人して一休み致いて御座った。
とその峠を少し下った辺りより、
唯あじきなく廻しこそすれ
と若き女の声にて、か細く口ずさむのが聴こえた。
芭蕉翁は、
「……あれは……如何なる謂いで御座ろう……さても、あの句を下の句にし、前句を附けてみられよ――」
との仰せなれば、嵐雪、
本復の憂身に帯の長すぎて
と附けた。
すると芭蕉翁は、凝っと眼を閉じたまま、
「――そうでは――御座るまい。……一つ、我らが附け申そう――」
と、静かに、
ひとり子のなき身の跡の風ぐるま
と詠まれた。
そうして両人、峠を下ったところが、じきに、かの句を詠んだと思しい、しきりに涙にむせんでおる女子(おなご)の御座った。
そこで、翁は、
「……御身は先に『唯あじきなく廻しこそすれ』とお詠みになられなんだか?……」
と優しく訊ねられた。
女子は泣きながら、静かに肯んじた。
されば、
「……そも……かの句……これ、如何なる謂われの御座るものかのぅ?……よろしければ……お聴かせ下さらぬか?……」
と訊ねた。
すると果して芭蕉が附句致いた通り、
「……はい……妾(わらわ)は先に……がんぜない子(こぉ)を……失(うしの)うて御座いますれば……かく……口ずさんで御座いました……」
と答えた。
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