解體 山之口貘
解 體
食べものの聯想を添えながら人を訪ねる癖があるとも言へる
ほんとうではあるが高尙ではない私なのである
私との交際は、 つきあはないことが得策なのである
主觀的なので誰よりもひもじい私なのである
方々の食卓に表現する食欲が枯木のやうな情熱となつて生えてゐるのである
もうろうと目蓋は開いたまゝなのである
私の思想は死にたいやうでもある
私の體格は生きたいやうなのである
私は、 雨にぬれた午後の空間に顏をつつこんでゐるのである
身を泥濘に突きさして私はそこに立ち止まつてゐるのである
全然なんにも要らない思想ではないのである
女とメシツブのためには大きな口のある體格なのである
馬鹿か白痴かすけべえか風邪のかの字にも價しない枯れた體格なのである
精神のことごとくが、 あるこうるのやうに消えて乾いてしまふた體格なのである
なんと言つたらよいか
私は材木達といつしよに建築材料にでもなるであらうか。
[やぶちゃん注:「添え」「ほんとう」はママ。【2014年6月22日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証した際、一部の新字を正字化していなかったのを訂正、さらに注を全面改稿した。】初出は昭和四(一九二九)年四月発行『現代詩評』第二号(発行所は東京市外世田ヶ谷若林・詩人協会。思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の解題によれば、前月三月発行の同誌創刊号の『會員動勢』の欄に一月から二月にかけての『新入會員』として『山之口獏』(「獏」はママ)の名が載るとある。
原書房刊「定本 山之口貘詩集」では句読点が除去されて最後の句点以外は字空けとなり、さらに一行目に、
食べものの聯想を添へながら人を訪ねる癖があるとも言へる
と、歴史的仮名遣の訂正が入り、五行目に、
方々の食卓に表現する食欲が 枯木のやうな情熱となつて生えてゐるのである
という字空けが施されてある。【二〇二四年十月二十六日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて(当該部はここから)、正規表現に訂正した。]