橋本多佳子句集「信濃」 昭和十七年 Ⅴ 木曽馬籠 十一句
木曽馬籠 十一句
加藤かけい氏に御案内頂き、永昌寺に泊る
かけい氏は即日雨の中を歸へられた
牡丹にあひはげしき基礎の雨に逢ふ
ひとをかへすおだまきの雨止むまじく
薄荷の葉嚙んで子供等雨が降る
おだまきやどの子も誰も子を負ひて
入學の一と月經たる紫雲英道
[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「紫雲英道」は「げんげみち」又は「れんげみち」と読む。]
薄荷の葉嚙みすてし唇(くち)巒氣ひゆ
[やぶちゃん注:「巒氣」は「らんき」と読み、山中で感じられる特有の冷気を指す。]
山吹の黄の鮮らしや一夜寢し
牡丹照るしづけさに仔馬立ねむる
牡丹照り鷄は卵を抱きをり
吾去りて山は蠶飼の季(とき)むかふ
燕來ぬ山家の障子眞白に
[やぶちゃん注:昭和一七(一九四二)年の春、次女国子とともに木曽馬籠へ旅行した際の句群。
「加藤かけい」(明治三三(一九〇〇)年~昭和五八(一九八三)年)は俳人。名古屋生。少年の頃に大須賀乙字に師事し、その没後は高浜虚子に師事、実兄加藤霞村と『名古屋ホトトギス会』を結成したが、昭和六(一九三一)年に『ホトトギス』を離脱、水原秋櫻子の『馬酔木』に入り、更に昭和二三(一九四八)年には山口誓子の『天狼』に移って同人となり、『荒星』『環礁』を主宰した。句集に「夕焼」「浄瑠璃寺」など(思文閣「美術人名辞典」などに拠る)。「俳句空間―豈weekly句」の冨田拓也氏の選句他から拾っておく。
靑蘆や水の蟹江の鮒鯰
かはほりやわがふところに人の遺書
たましひのぬけゆくおもひ初螢
草競馬人生の涯まつさをに
凧の子に天の扉のいま閉まる
糞の上瑠璃絢爛の揚羽蝶
萬綠に靑きラムネの白激す
くちなしのはなのねぢれのあぶな繪よ
菫掘るむらさきの時間に耽り
麥爛熟太陽は火の一輪車
うぐいすやわが絶命も妙なるかな
「永昌寺」岐阜県中津川市馬籠にある臨済宗妙心寺派西沢山永昌寺。島崎藤村の先祖島崎七郎左衛門が弘治四・永禄元(一五五八)年に開創したと伝えられている島崎家代々の菩提寺。本尊釈迦如来。藤村は多佳子が訪れたこの翌昭和一八(一九四三)年に七十一歳で大磯の自宅で亡くなって大磯の地福寺に葬られたが、分骨された遺髪と遺爪がこの菩提寺永昌寺に埋葬された(藤村の妻冬子と三人の娘もここに眠っている)。
「おだまき」「をだまき」が正しい。苧環。紡いだ麻糸などを内側を空にして球状に巻いた糸玉のこと。糸を順々に巻きつけて端から引き出す。糸を巻きつけてあってまたそこから繰り出すことから、静御前の和歌、
しづやしづ しづのをだまき くりかへし 昔を今に なすよしもがな
で知られるように「繰り返し」の序詞のように用いられる語である。ここでは絶え間なく繰り返し降る、その木曽路の篠突く雨を、「おだまきの雨」「おだまきや」と転じて用いているものと思われる。]
« 杉田久女句集 128 くゞり摘む葡萄の雨をふりかぶり | トップページ | 橋本多佳子句集「信濃」 昭和十七年 Ⅵ »