喪のある景色 山之口貘 / 山之口貘詩集 新作分十二篇電子化開始
山 之 口 貘 詩 集
[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年十二月二十日山雅房から刊行された。全七十一篇からなるが、冒頭の十二篇が新作で、以下の五十九篇は先行する「思辨の苑」をそのまま再録したものであるから、それらは省略して、新作分十二篇、及び、戦後の昭和三三(一九五八)年七月十五日原書房から刊行された、この山雅房再版である「定本 山之口貘詩集」(これは国立国会図書館デジタルコレクションでは見ることが出来ない)に新たに附された「あとがき」と「附記」を恣意的に正字に直して掲げる。戦後の「あとがき」と「附記」は新字とするのが正しいが、附記は、正字体の「思辨の苑」絡みであること、「附記」を正字にしておいて、その前の「後記」のみが新字であるというのは私の趣味に反することから敢えて正字とした。悪しからず。なお。所持する思潮社一九七五年七月刊「山之口貘全集 第一巻 全詩集」は山雅房初版本を親本としている。【2014年6月26日追記】入手した思潮社新全集二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」が拠った、その決定版である原書房「定本 山之口貘詩集」とは異同があるので、これ以降の詩篇全部を、対比検証し、注で追記を行った。ここの注も一部を改稿した。【二〇二四年十一月三日追記・改稿】このバクさんの第二詩集「山之口貘詩集」(昭和一五(一九四〇)年十二月山雅房刊。処女詩集「思辨の苑」の全詩篇五十九篇と、同詩集刊行後に創作した詩十二篇を追加したもの)の新作分を、国立国会図書館デジタルコレクションの原本(左のリンクは表紙。扉の標題ページ。次を開くと、著者近影がある。目次はここからで、最後に『自二五八三至二六〇〇』とある。なお、バクさんの詩集内の配列は「思辨の花」と同じで、最新のものから古いものへの降順配置である。これには、バクさんらしい新しい詩をこそ自分としては読んで貰いたいという詩人の矜持というか、光栄が感じられる。目次の後の標題はここで、奥附はここ)で、正規表現に補正を開始する。当該部はここ。なお、原本では標題が太字のように見えるが、これは活字が大きいために、黒インクがくっきりと印字されているに過ぎないので、太字にはしていない。 ]
喪のある景色
うしろを振りむくと
親である
親のうしろがまた親である
その親のそのまたうしろがまたその親の親であるといふやうに
親の親の親ばつかりが
むかしの奧へとつゞいてゐる
まへを見ると
まへは子である
子のまへはその子である
その子のそのまたまへはそのまた子の子であるといふやうに
子の子の子の子の子ばつかりが
空の彼方へ消えいるやうに
未來の涯へとつゞいてゐる
こんな景色のなかに
神のバトンが落ちてゐる
血に染まつた地球が落ちてゐる。
[やぶちゃん注:【2014年6月26日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証した際、ミス・タイプを発見、本文を訂正、さらに注も全面改稿した。】初出は昭和一五(一九四〇)年七月号『中央公論』。底本解題によれば初出の目次のタイトルは「喪のある風景」とある。なお、この詩は戦後も『琉球新報』などに再録されるが、特に目を引くのは昭和三三(一九五八)年四月文理書院刊の「道徳―高校生の生きかた2―」というおぞましい(と私は感ずる)本にも収録されている。原書房「定本 山之口貘詩集」では最後の句点が除去されてある。]
« ものもらひの話 山之口貘 / 詩集「思弁の花」 後記 詩集「思弁の花」(金子光晴の序文を除く)全電子化終了 | トップページ | 橋本多佳子句集「信濃」 昭和十七年 Ⅳ 蕗畑ひかり身にしつなつかしき »