耳嚢 巻之八 林霊素の事
林靈素の事
或る襖(ふすま)、又長押(なげし)上の繪に、趙果老(てうくわらう)の鶴を吐(はく)の形あり。鶴なれば趙果老にはあらず、林和靖(りんわせい)にもあらんかと見れども、一體の模樣左にも非ず。ある人儒家畫家に尋(たづね)しに、林靈素(りんれいそ)なるべし。列仙傳の内に、林靈素、噀水一口、化成五色雲、々中有金龍獅子仙鶴、躍殿前云々。
□やぶちゃん注
○前項連関:「七夕」トンデモ由来譚からアヤシイ仙人画の人物同定・由来譚で連関。
・「林靈素」(Lín Líng sù ?~一一一九年)は北宋末の道士。字は通叟、本名は霊噩(れいがく)。温州永嘉(現在の浙江省)の人。初め僧となったが、修行の厳しさに堪えかねて道士に転向、道教に心酔していた徽宗の信任を得てつねに側近として侍した。徽宗が教主道君皇帝と称して道観を各地に建てて道士を優遇することとなったのも、彼の慫慂によるものであった。しかし後に信任に甘えて横暴な振る舞いが多くなった結果、徽宗の怒りに触れて故郷に追放となり、後、楚州(現在の安徽省淮安県)に流されて没した(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。夢幻を善くし、特にその中でもここに出る水を口に含んで空中に吐き出すと、そこに五色の雲とともに金色の龍が現れたという奇瑞で知られている。大谷大学教授佐藤義寛氏のサイト内のこちらで「列仙全傳」の彼のこの奇瑞の図が見られる。また、サイト「雄峯閣
―書と装飾彫刻のみかた―」の「林霊素」には富山県高岡市伏木曳山祭りの上町山の山車に施されたその彫刻が出る。因みに、私はここの伏木中学校及び伏木高等学校の出身で、この曳山祭りというのは各町内所有の山車をぶつけ合う、別名「けんかやま」とも呼ばれる祭りで、山車に轢かれたり挟まったりして、たびたび死傷者が出る荒っぽいものであった。六年いたうちに数度見たが、そもそもが私は祭り嫌いで、残念ながら、この山車の彫刻の記憶も全くない。
・「趙果老」中国の代表的な仙人の名数である八仙の一人張果(生没年不詳)のことであろう。敬意を込めて「張果老」とも呼ばれる。唐代、玄宗(六八五年~七六二年)に招かれて様々な方術を見せ、天宝年間に尸解したとされるが、正史にも名を連ねており、多くの伝承を残す人物である。以下、ウィキの「張果」によると、幾つもの不確かでしかも知られた伝承によれば、『恒州の条山にこもり、近隣を歩き回り、数百歳と自称していた』が、高宗の皇后則天武后(六九〇年~七〇五年)『に招かれ、山を降りた時に死に、死体が腐敗していたにもかかわらず、後日、その姿は発見された』という。『張果は白い驢馬に乗り、一日に数千里を移動した。休むときに驢馬を紙のように折り畳んで箱にしまい、乗る時には水を吹きかけて驢馬に変えたという』。開元二二(七三四)年、玄宗は通事舎人(内舎人――和名では「うどねり」と読む――の別称。皇帝側近)の裴晤(ひご)『を使わして張果を迎えようとしたが、また死んでしまった。裴晤は死体に向かって玄宗の意を伝え、張果は息を吹き返した。玄宗は改めて中書舍人』徐嶠(じょきょう)『を送り、張果は朝廷に出仕することになった』。『張果は、玄宗に老いていることを問われ、髪を抜き、歯をたたき割った。すぐに黒髪、白い歯が生えてきたという。また、玄宗が娘の玉真公主を自分に嫁がせようとしているのを予言したこと、酒樽を童子に変えたことなどさまざまな方術を行った。食事は酒と丸薬だけしかとらず、方術について問われると、いつもでたらめな回答をしたと言われる。師夜光や邢和璞という方術を行うものたちにも正体を見定めることはできなかった』。『玄宗は高力士に相談し、張果に毒酒を飲ませ、本当の仙人か見定めることにした。張果は「うまい酒ではない」といい、焦げた歯をたたき落とし、膏薬を歯茎に貼って眠った。目を覚ました時には歯は生えそろっていたという。そのため、玄宗は真の仙人と認め、銀青光祿大夫と通玄先生の号を与えた』。『玄宗は道士の葉法善に張果の正体を問うた。葉法善は「正体を話すと、言った瞬間に殺されるので、その後で張果に命乞いを行って欲しい」と約束をとりつけた上で、張果の正体が混沌が生まれた時に現れた白蝙蝠の精であると話した。言い終わると、葉法善は体中の穴から血を流して死んだ。玄宗は張果に冠を脱ぎ、裸足になって命乞いをした。張果が葉法善の顔に水を吹きかけるとすぐに蘇生したという』。『張果は恒州に帰ることを願ったため、詔により許された。天宝元年』(七四二年)に今度は玄宗が『再び召し出したが、張果は急死してしまった。葬儀の後、棺桶を開くと死体は消えており、尸解仙になったと噂された』。『玄宗はこれを機に神仙を信じるようになったと言われる』。著作に開元二二(七三四)年に『献上した『丹砂訣』及び『陰符経太無伝』『陰符経弁命論』『氣訣』『神仙得道霊薬経』『罔象成名図』が伝えられ』、「隋唐演義」や「東遊記」にも登場する。『また、同時代の道士・羅公遠との術比べでは、及ばなかったという説話も伝わっている』とある。
・「林和靖」実在した宋代の詩人林逋(りんぽ 九六七年~一〇二八年)。字は君復。ウィキの「林逋」によれば、『杭州銭塘(浙江省)の出身。若くして父を失い、刻苦して独学する。恬淡な性格で衣食の不足もいっこうに気にとめず、西湖の孤山に盧を結び杭州の街に足を踏み入れぬこと20年におよんだ。真宗はその名を聞いて粟帛を賜い、役人に時折見回るよう命じた。薛映・李及が杭州にいたときは彼らと終日政談し、妻子をもたず、庭に梅を植え鶴を飼い、「梅が妻、鶴が子」といって笑っていた。行書が巧みで画も描いたが、詩を最も得意とした。一生仕えず盧のそばに墓を造り、「司馬相如のように封禪の書を遺稿として用意してはいない」と詠み、国事に関心がないことを自認していた。その詩が都に伝わると仁宗は和靖先生と諡した』とある。
・「列仙傳の内に、林靈素、噀水一口、化成五色雲、々中有金龍獅子仙鶴、躍殿前云々」「列仙傳」は、この書名が正しいとすれば、前漢の伝劉向著と伝えるもの(但し、偽書説も根強い)。赤松之から玄俗に至る歴代の七十余人に及ぶ仙人の伝記集。黄帝や老子・東方朔らも含まれる。しかし、実は少なくとも私の知る「列仙伝」には彼は載っていない。また、この解説にある文字列も今のところ、出典が不明である。取り敢えず、この漢文部分を訓読して以下に示しておくこととする。識者の御教授を乞うものである。この「列仙傳」とは書名ではなく、仙人伝の総称として用いているか。
林靈素は、水を噀(ふ)くこと一口、化して五色の雲と成り、雲中に金龍・獅子・仙鶴有りて、殿前に躍ると云々。
■やぶちゃん現代語訳
林霊素の事
しばしば、とある所の襖や、また、長押(なげし)の上に描かれたり彫られたりして御座る絵に、趙果老(ちょうかろう)が鶴を吐くという図柄を見る。
鶴であるとすれば、これは趙果老ではなく、鶴を殊の外愛した詩人林和靖(りんわせい)であろうかと見てみると、どうも、全体の図柄から見ても、どうも違う感じがする。
ある人が儒家や画家にこうした図の人物は、一体誰なのかと訊ねてみたところ、
「それは林霊素(りんれいそ)で御座ろう。「列仙伝」の内に、
『林霊素、噀水一口、化成五色雲、々中有金龍獅子仙鶴、躍殿前云々。』
と御座る。」
との答えで御座った由。