生物學講話 丘淺次郎 第十章 卵と精蟲 四 精蟲 (3) 精子とその発生
(い)猿 (ろ)猫 (は)犬 (に)もぐら (ほ)馬 (へ)鹿 (と)兎]
さて精蟲は實際如何なる形のものかといふに、「えび」・「かに」や、蛔蟲などの精蟲の如くに著しく他と形の異なつたものもあるが、これらは寧ろ例外であつて、一般には高等動物でも下等動物でも殆ど同じである。人間のでも犬・猫・馬・牛のでも、乃至は「はまぐり」・「あさり」・珊瑚・海綿の如きものでも、精蟲といへば皆形が相似たもので、いづれも小さな頭から細長い尾が生じ、これを振り動かして液體の中を泳ぎ廻ることが出來る。尤も詳細に調べると、動物の種類が違へば、その精蟲お形にもさまざまの相違があり、精蟲を見ただけでその種類を識別し得る如き場合もあるが、多くはたゞ頭が長いとか、眞直ぐであるとか曲つて居るとか、全體が少し大きいとか小さいとかいふ位の比較的些細な相違に過ぎぬ。かくの如く精蟲には一種固有の形が定まつてあり、普通の細胞とは餘程形狀が違ふから、出來上つて游いで居る精蟲を見たのでは、それが各々一個の細胞であるか否かは容易に判斷し難い。
[やぶちゃん注:『「えび」・「かに」や、蛔蟲などの精蟲の如くに著しく他と形の異なつたものもある』エビ・カニを含む甲殻類の一種である甲殻亜門顎脚綱貝虫亜綱ミオドコパ上目ミオドコピダ目ウミホタル亜目ウミホタル科ウミホタル Vargula hilgendorfii や同じ貝虫亜綱ポドコーパ目 Podocopida に属するカイミジンコ類には異様に巨大な精子が持つ一群がいるようである。「ナショナルジオグラフィック
ニュース」の「貝虫類の巨大精子、古代の進化戦略か」で興味深い説明と画像が見られる。それによれば、貝虫類の巨大な精子は体長の最大十倍の長さにまで達するケースがあるとする(人間の場合、以下で丘先生が述べるように、平均的な精子の長さはおよそ〇・〇五ミリメートル(五〇ミクロン)で、ヒト成体(身長)の三万分の一にも満たない)。『この巨大な精子が古代にさかのぼる進化上の適応戦略の一環として現れたものなのかどうかを調査するため、ブラジルの1億年前の堆積層から発掘された保存状態の非常に良い5匹の貝虫類の内臓をX線で分析した。すると、巨大精子そのものは朽ち果てていたが、おそらく最も重要と考えられるオスの器官が残っていた。巨大精子を体の外へ押し出すポンプの役割をする射精器官(ゼンカー器)だ』。『研究チームの一員で滋賀県にある琵琶湖博物館のロビン・スミス氏は、「この射精器官を持っているのは、巨大精子を生成する貝虫類に限られる」と話す。さらに、同じ堆積層から発見された2匹のメスの化石標本には、巨大な生殖腔(せいしょくこう)が備わっていた』。『研究チームのリーダーでドイツのミュンヘンにあるルートヴィヒ・マクシミリアン大学(通称ミュンヘン大学)のレナーテ・マツケ・カラズ氏は、「このような精子受容器は、精子を抱えているときにしか膨張しない。つまり、この2匹のメスは死ぬほんの直前に交尾を行っていたはずだ」と話す』。『巨大精子の役割については、おそらくクジャクの尾と同じもので、メスを引き付けるための手段だと研究チームは結論付けている』。『 その巨大さにはメスの生殖腔に“栓をする”効果もあったようで、ほかのオスと交尾できないようにするための意味もあったという。子どもを育てるための栄養源だった可能性もある』。『巨大精子が効果的な適応戦略であるなら、ほかの動物の中にも同じ戦略で進化したものがいるはずだと思うかもしれない。その通り、実際にいるのだ。カエルや巻貝、昆虫の中には、貝虫類と同様に並外れて巨大な精子を持つ種がある 』と記されている。実に面白い。我々が人体の十倍の精子を放出していたらと考えるとだな……これはもう……「進撃の巨人」だわ!……。また、回虫の方では、文科省の助成を受けているサイト「運動超分子マシナリーが織りなす調和と多様性」のビデオ・アーカイブの中に、宇部工業高等専門学校島袋勝弥氏の「アメーバ運動する豚回虫精子」を見出せた。それによればこれは線形動物門双腺綱旋尾線虫亜綱回虫目回虫上科回虫科回虫亜科
Ascaris 属ブタカイチュウ(豚回虫)Ascaris suum の精子の動画で、『豚回虫の精子には鞭毛がなく、
アメーバのように動きます。豚回虫の精子はMSPと呼ばれる独自の細胞骨格タンパク質を使ってアメーバ運動をします』とある。これは確かに変わってるわ……見てると……これ……殆んど「影が行く」(映画「遊星からの物体X」の原話)……じゃん!]
[精蟲の發生]
精蟲の出来るところは睾丸の内であるが、大概の動物では、睾丸はほかの臟腑と同じく腹の内に隱れてある。例へば魚類などでは睾丸は腹の内にある白い豆腐のやうなもので、俗にこれを「白子」と名づける。たゞ獸類だけは睾丸は特別の皮膚の嚢に包まれ、腹から外に垂れて居る。顯微鏡で調べて見ると、獸類の睾丸は細い管の塊つた如きもので、その管の壁を成せる細胞が漸々變形して精蟲と成るのである。即ち始め普通の細胞と同じく、原形質の細胞體と嚢狀の核とを具へた細胞が一歩一歩變化し、核は小さくなつて精蟲の頭となり、細胞體の一部は延びて精蟲の尾となり、いつとはなしに精蟲の形が出來上ると、終に他の細胞の仲間から離れ、輸精管を通過して粘液と共に體外へ排出せられるに至る。されば精蟲は形は著しく違ふが、やはり各々一個の細胞であつて、たゞ特殊の任務を盡すために、それに適する特殊の形狀を有するだけである。出來上つた精蟲は、自由に運動して恰も獨立せる小蟲の如くに見えるが、睾丸の組織から離れ出す前には慥に親の身體の一部を成して居たので、この點に於ては精蟲も卵も毫も違はない。
殆どすべての動物で卵細胞が球形なるに反し、精蟲が絲の如き形を呈するのは何故かといふに、これは雙方ともその役目に應じたことで、始めはいづれも普通の細胞であるが、卵の方は出來るだけ多量の滋養分を含むに適した形を採り、精蟲の方は出來るだけ自由な運動を成し得るやうな形を取つたのである。自由に運動するには身體の輕い方が便利で、抵抗を受けぬためには身體の細い方が宜しい。また同じ一斗〔約十八リットル〕の餅でも、大きな鏡餅にすれば一つか二つより造れぬが、金柑程の小餅にすれば幾千個も出來る如く、小さければ小さい程數が多く出來る利益がある。それ故、精蟲は卵に比べると遙に小さいのが常で、人間などでも精蟲の長さが僅に三粍の五十分の一にも足らず、頭の幅は三粍の千分一にも達せぬから、その體積は卵に比べて僅に二百萬分の一にも當らぬ。その代り多いことは實に驚くばかりで、卵が年々僅に十數個より成熟せぬに反し、精蟲は毎囘何萬疋も排出せられる。