生物學講話 丘淺次郎 第十章 卵と精蟲 五 受精 (1)
五 受精
動物植物ともに單爲生殖により卵細胞のみで繁殖する場合もあるが、これは寧ろ例外であつて、まづ卵と精蟲とが相合しなければ子が出來ぬのが一般の規則である。卵細胞と精蟲との合することを受精と名づける。雞のやうな大きな卵と極めて微細な精蟲とが相合する所を顯微鏡で見ることは困難であるが、小さな卵ならばこれに精蟲が入り込む有樣を實際に調べることは何の困難もない。例へば夏雌の「うに」を切り開いて成熟した卵細胞を取り出し、海水を盛つた硝子皿の中に入れ、これを顯微鏡で見て居ながら、別に雄の「うに」から取り出した精蟲を海水に混じたものを、一滴その中へ落し加へると、無數の精蟲は尾を振り動かして水中を游ぎ、卵細胞の周圍に集まり、どの卵細胞も忽ち何十疋かの精蟲に包圍せられるが、その中たゞ一疋だけが卵細胞の中へ潜り込み、殘餘のものは皆そのまゝ弱つて死んでしまふ。以上は人工受精と名づけて臨海實驗場などで、學生の實習として年々行ふことであるが、注意して觀察すると、なほさまざまなことを見出す。まづ第一には精蟲が卵に出遇ふのは、決して目的なしに游ぎ廻つて居る中に偶然相觸れるのではなく、殆ど直線に卵を目掛けて急ぎ行くことに氣がつく。その際精蟲は恰も目無くして見、耳なくして聞くかの如く、最も近い卵を狙つて一心不亂に游ぎ進むが、これは如何なる力によるかといふに、下等動物の精蟲が、悉く砂糖や林檎酸の溶液の方へ進み行く例を見ると、或は卵が何か或物質を分泌し、それが水に混じて次第に擴がつて近邊に居る精蟲を刺激し、精蟲はその物質の源の方へ游ぎ進むので、終に卵に達するのかも知れぬ。いづれにせよ、卵は精蟲を自分の方へ引き寄せる一種の引力を有し、精蟲はこの引力に對して到底反抗することが出來ぬものらしく見える。
[やぶちゃん注:「卵が何か或物質を分泌し、それが水に混じて次第に擴がつて近邊に居る精蟲を刺激し、精蟲はその物質の源の方へ游ぎ進むので、終に卵に達するのかも知れぬ」ここで丘先生によって語られるところの受精の際に見られる精子の卵に対する正の走化性の存在は、植物から動物まで広く見られる現象であって、精子が最初に同種の卵を識別した上、更には精子を卵まで導くシステムが厳然としてあることは間違いないことは明らかとなっている。但し、卵が放出する精子誘引物質が種によって異なることが知られてはいるものの、放出されるその精子誘引物質が極微量であることから、その化学物質が同定されている動物種は未だ十種に満たず、その分子メカニズムも殆ど解っていないのが現状である(以上は東京大学の二〇一三年の報告になる吉田学氏他の「ホヤ精子走化性の種特異性をもたらす精子誘引物質の構造の違いを解明」の記載を参照した)。]