フォト

カテゴリー

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 20250201_082049
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の Pierre Bonnard に拠る全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

無料ブログはココログ

« 論旨   山之口貘 | トップページ | 鏡   山之口貘 »

2014/03/05

大儀   山之口貘

 

   大 儀

 

躓いたら轉んでゐたいのである

する話も咽喉の都合で話してゐたいのである

また、

久し振りの友人でも短か振りの友人でも誰とでも

逢へば直ぐに、

さよならを先に言ふて置きたいのである

あるひは、

食べたその後は、 口も拭かないでぼんやりとしてゐたいのである

すべて、

おもうだけですませて、頭からふとんを被つて沈澱してゐたいのである

言いかへると、

空でも被つて、側には海でもひろげて置いて、人生か何かを尻に敷いて、膝頭を抱いてその上に顎をのせて背中をまるめてゐたいのである。

 

[やぶちゃん注:【2014年6月25日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。この注を追加した。】初出は昭和一一(一九三六)年六月号『四季』。思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」解題によれば、同誌の「後記」に神保光太郎が『詩の寄稿家、山之口、山村、小高根諸氏はいづれも敬愛するわれわれの友である』と記しているとある。

「あるひは」はママ。

 「定本 山之口貘詩集」では句読点が総て除去され、一文途中の読点は字空けとなっている。

【二〇二四年十月二十八日追記・改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いて正規表現への訂正をしているが、驚くべきことに、国立国会図書館デジタルコレクションの初版本は、多量の落丁があることが判った。それは「無題」右の「九八」ページで終って、その左丁が、突然、「一一五」ページとなって、「雨と床屋」の最終部分の四行だけが載っているのである。本書內の十六ページ分が、ごっそり脱落しているのである。これは、実に「夜景」・「生活の柄」・「論旨」・「大儀」・「鏡」・「喰人種」・「自己紹介」・「立ち往生」の八篇分が全く載らず、前に述べたように、「雨と床屋」の八行からなる詩篇の前半四行が載っていないのである。しかも、本国立国会図書館デジタルコレクションの底本詩集のどこを探しても、この呆れ果てた落丁についての修正や差し込みなどは――ない――のである。バクさん、最終製本の校正をしなかったのか? それとも、国立国会図書館に献本する際に、間違って、校正前の不良落丁本を提出してしまったものか? この驚くべき事態は、思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の解題にも記されていないのである。国立国会図書館デジタルコレクションでは、同詩集は一冊しか、ない。途方に暮れた。しかし、★――一つの光明はあった――★のである。本詩集発行から二年後、バクさんは、この「思辨の苑」の全詩篇五十九篇と、同詩集刊行後に創作した詩十二篇を追加して第二詩集「山之口貘詩集」(昭和一五(一九四〇)年十二月山雅房刊)を出しており、その原本が国立国会図書館デジタルコレクションのここ(左のリンクは標題ページ。奥附はここ)にあるから、である。仕方がないから、これで、正規表現を、落丁の八篇と一篇の前半部について校訂することとする。但し、この「山之口貘詩集」の九篇が「思辨の苑」と全く同じである確証はない。バクさんは、詩一篇を完成させるのにも、驚くべき多数の改稿をするからである。また、初出は勿論、先行する詩集からの再録するに際しても、頻繁に改作を行うからである。これは、しかし、私が四苦八苦してやるよりも、所持する思潮社一九七五年七月刊「山之口貘全集 第一巻 詩集」と、上記の「新編」版で、校異されているものと、勝手に抱っこにオンブで、信頼することとする(実は、これは、実は、殆んど信頼出来るものではない。何故かって? 一九七五年七月刊の全集の「詩集校異」の冒頭『思弁の苑』のパートには、『誤字、誤植を訂正し、句読点とくりかえし符号をとりのぞき、若干の行かえと表記の訂正もほどこされている。そのうち』(☞)『おもなものを』(☜)『列記しておく』とやらかしてあるからである。一方、最大の頼みの綱である「新編」版は、第一巻が出たっきり、もう十一年になるのに、残りの二巻以降は未だに出版されていないのだ。しかも、校異は、最後の第四巻に付されることになっているんだ! おいッツ! 俺が生きている間に、全巻! 出せよ! そうしないと、キジムナーに化けて、呪い殺すぞッツ! 本篇はここ。]

« 論旨   山之口貘 | トップページ | 鏡   山之口貘 »