夢を見る神 山之口貘
夢を見る神
若しも生れかはつて來たならば
彫刻家になりたいもんだと云ふ小說家
若しも生れかはつて來たならば
生殖器にでもなりすますんだと云ふ戀愛
若しも生れかはつて來たならば
お米になつてゐたいと云ふ胃袋
若しも生れかはつて來たならば
なちすになるかそれんになるかどちらになるのかあのすぺいん
若しも生れかはつて來たならば
なんにならうと勝手であるが
若しも生れかはつて來たならばなんにならうと勝手なのか
とある時代の一隅を食ひ破り神の見知らぬ文化が現はれた
こがね色のそれん
こがね色のなちす
こがね色のお米
こがね色の彫刻家
こがね色の生殖器
あゝ
文明どもはいつのまに
生れかはりの出來る仕掛の新肉體を發明したのであらうか
神は鄕愁におびえて起きあがり
地球のうへに頰杖ついた
そこらにはゞたく無數の假定
そこらを這ひ摺り廻はつては血の音たてる無數の器械。
[やぶちゃん注:初出は昭和一四(一九三九)年三月号『知性』(河出書房発行)。
原書房昭和三三(一九五八)年刊の「定本 山之口貘詩集」では、十一行目を、
なちす になるか それん になるか どちらになるのか あのすぺいん
とし、また最終行を、
そこらを這ひ摺り廻つては血の音たてる無數の器械
と「廻はつては」を「廻つては」とし、句点を除去する(「定本 山之口貘詩集」も恣意的に正字化補正した)。
この詩が昭和十五年刊行の詩集にあるということは驚異に値すると私は思う。そこでは最後に地球「はゞたく無數の假定」としての「そこらを這ひ摺り廻はつては血の音たてる無數の器械」としての相対化されてあるあらゆる政治思想が、正当化されて行く戦争状態に対し、強烈な否定が示されていることは誰が読んでも明白であるからである。この反戦詩が官憲の目を逃れていたとは(後掲される現在、バクさんの「反戦詩」として比較的知られている「紙の上」よりも遙かに直裁的であるにも拘わらず、だ)、何か私にはとても痛快無比なこと、なんである。【2014年6月26日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。注を一部追加した。】
【二〇二四年十一月五日追記・改稿】このバクさんの第二詩集「山之口貘詩集」(昭和一五(一九四〇)年十二月山雅房刊。処女詩集「思辨の苑」の全詩篇五十九篇と、同詩集刊行後に創作した詩十二篇を追加したもの)の新作分を、国立国会図書館デジタルコレクションの原本(左のリンクは表紙。扉の標題ページ。次を開くと、著者近影がある。目次はここからで、最後に『自二五八三至二六〇〇』とある。なお、バクさんの詩集内の配列は「思辨の花」と同じで、最新のものから古いものへの降順配置である。これには、バクさんらしい新しい詩をこそ自分としては読んで貰いたいという詩人の矜持というか、光栄が感じられる。目次の後の標題はここで、奥附はここ)で校訂した。当該部はここから。]