芥川龍之介手帳 1-4
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[やぶちゃん注:底本では頭に『1月25日分破損』という編者注がある。]
○【1月26日】 今までぼくは彼等の愛の中に生きた これからは彼等をぼくの愛の中に生かしてやる たとへその境に彼等がぼくをにくみぼくが彼等をにくむ事があらうとも 海軍士官の話をかきつゞける 間歇的にくるYの memory に壓倒された
[やぶちゃん注:「海軍士官の話」大正五(一九一六)年九月刊の『新思潮』に「猿――或海軍士官の話――」(後に「猿」として第一作品集「羅生門」に所収された)として発表される作品。遠洋航海を終えて横須賀港に入った軍艦が舞台で、主人公の「私」は士官候補生である。
「Y」龍之介にとって恐らくは生涯のトラウマとなった失恋の相手吉田弥生。その破局(陸軍中尉との縁談話が持ち上がっていた弥生に対し、求婚の意志を親族に話すも伯母フキを初め芥川家全体から強く反対されてそれを龍之介は受け入れた)はこの前年大正四年の早春のことであった(推定一月か二月の初旬か。その顛末を綴った井川恭宛書簡の日附は二月二十八日附である)。]
○【1月27日】 夜山本から平塚の入院をしらせて來た その時己の心には victor の感じがうすいながらあつた 人間は同胞の死をよろこぶものらしい 恐しいが事實だ 上瀧へ手紙を出した
[やぶちゃん注:「山本」山本喜誉司。既注。なお、龍之介の大正一四(一九二五)年二月発行の『中央公論』に発表した「学校友だち」では、『山本喜譽司 これも中學以來の友だちなり。同時に又姻戚の一人なり。東京の農科大學を出で、今は北京の三菱に在り。重大ならざる戀愛上のセンティメンタリスト。鈴木三重吉、久保田萬太郎の愛讀者なれども、近頃は餘り讀まざるべし。風采瀟洒たるにも關らず、存外喧嘩には負けぬ所あり。支那に棉か何か植ゑてゐるよし』とある。
「平塚」府立第三中学校時代の友人平塚逸郎(ひらつかいちろう 明治二五(一八九二)年~大正七(一九一八)年)。「学校友だち」では特に最後に彼を挙げて、次のように綴っている。
§
平塚逸郎 これは中學時代の友だちなり。屢僕と見違へられしと言へば、長面瘦軀なることは明らかなるべし。ロマンティツクなる秀才なりしが、岡山の高等學校へはひりし後、腎臟結核に罹りて死せり。平塚の父は畫家なりしよし、その最後の作とか言ふ大幅の地藏尊を見しことあり。病と共に失戀もし、千葉の大原の病院にたつた一人絶命せし故、最も氣の毒なる友だちなるべし。一時中學の書記となり、自炊生活を營みし時、「夕月に鰺買ふ書記の細さかな」と自ら病軀を嘲りしことあり。失戀せる相手も見しことあれども、今は如何になりしや知らず。
§
なお、次の【1月28日】の私の注も必ず参照のこと。
「victor」勝者。ここについては敢えて英語表記したところに龍之介の内発的呵責による抑制を私は微かに感じる。
「上瀧」上瀧嵬(こうたきたかし 明治二四(一八九一)年~?)龍之介の江東小学校及び府立三中時代の同級生。一高には龍之介と同じ明治四三(一九一〇)年に第三部(医学)に入り、東京帝国大学医学部卒、医師となって、後に厦門(アモイ)に赴いたと関口安義氏の新全集の「人名解説索引」にある。龍之介の「學校友だち」では巻頭に『上瀧嵬 これは、小學以來の友だちなり。嵬はタカシと訓ず。細君の名は秋菜。秦豐吉、この夫婦を南畫的夫婦と言ふ。東京の醫科大學を出、今は厦門(アモイ)の何なんとか病院に在り。人生觀上のリアリストなれども、實生活に處する時には必ずしもさほどリアリストにあらず。西洋の小説にある醫者に似たり。子供の名を汸(ミノト)と言ふ。上瀧のお父さんの命名なりと言へば、一風變りたる名を好むは遺傳的趣味の一つなるべし。書は中々巧みなり。歌も句も素人並みに作る。「新内に下見おろせば燈籠かな」の作あり。』とある。文中の「秦豐吉」(明治二十五(一八九二)年~昭和三十一(一九五六)年)は、翻訳家・演出家・実業家。七代目松本幸四郎の甥。東京帝国大学法科大学卒業後、三菱商事(後に三菱合資会社)に勤務する傍ら、ゲーテ「ファウスト」などのドイツ文学の翻訳を行い、昭和四(一九二九)年刊行のレマルクの「西部戦線異状なし」の翻訳はベストセラーとなった。昭和八(一九三三)年に東京宝塚劇場に転職、昭和十五(一九四〇)年には同社社長となった(同年より株式会社後楽園スタヂアム(現在の東京ドーム)社長も兼務(昭和二十八(一九五三)年迄同社会長)。敗戦後直後に戦犯指定を受けるも、昭和二十二(一九四七)年から東京帝都座に於いて日本初のストリップ・ショーを上演、成功を収めた。昭和二十五(一九五〇)年には帝国劇場社長国産ミュージカルの興業で成功を収める。後、日本劇場社長時代に小林一三に買収され、東宝社長となった(以上はウィキの「秦豊吉」によった)。同じく龍之介の「学校友だち」では、『秦豊吉 これも高等學校以來の友だちなり。松本幸四郎の甥。東京の法科大学を出、今はベルリンの三菱に在り、善良なる都會的才人。あらゆる僕の友人中、最も女に惚れられるが如し。尤も女に惚れられても、大した損はする男にあらず。永井荷風、ゴンクウル、歌麿等の信者なりしが、この頃はトルストイなどを擔ぎ出すことあり。僕にアストラカンの帽子を呉れる約束あれども、未だに何も送つて呉れず。文を行るに自由なることは文壇の士にも稀なるべし。「ストリントベリイの最後の戀」は二三日に訳了せりと言ふ。』とある。]
○【1月27日】 平塚を見舞 殆何事もなかつた Spitzen だが
犬が二匹共犬ころしにころされたらしい かはいさうだ おやぢがふさぎきつてゐる
Fを思ふ
[やぶちゃん注:「Spitzen」ドイツ語で「シュピッツェン」と発音し、尖ったとか、辛辣な、皮肉なという意味であるが、これはどうも前日の記載の「victor の感じがうすいながらあつた」のを受けての、自省的な冷徹な「辛辣な、皮肉な」の謂いとも思われる。
しかしこの「Spitzen」の解釈は難解である。
即ち、この「殆何事もなかつた」という感懐は――実は龍之介が平塚逸郎の病態悪化やその療養生活に対して、「殆何事も」シンパシーを感じ得なかった、「皮肉な」ことに――という謂いにまずは採れる。しかし――
――本当にそうだろうか?
寧ろ私は――昨日、平塚が入院したということを聴いた時に、図らずも『その時己の心には victor の感じがうすいながらあつた 人間は同胞の死をよろこぶものらしい 恐しいが事實だ』とまで醒めた露悪的な感想を記してしまった自分自身が、実際の平塚を見舞ってみたところが、『殆』内心に於いて昨日感じたような『victor の感じ』も『同胞の死をよろこぶ』恐ろしい感覚に基づく落着きも何も『何事もなかつた』のだ、「皮肉な」ことに――
という謂いであると私は解釈したいのである。そう解釈した時、私には龍之介が「Spitzen だが」と記した思いを最も腑に落ちて理解出来るのだと言ってもおこう。大方の御批判を俟つものではある――あるが――私はその反論に恐らく肯んずることは出来ないとも言っておきたい。悪しからず――
実は既にお気づきのことと思うが、この平塚逸郎をモデル(特に、この時の見舞いのシークエンスはすこぶる印象的に綴られてある)に龍之介は後年、私のすこぶる附きで好きな一篇「彼」(大正一六(一九二七)年一月一日(実際には崩御によってこの年月日は無効となる)発行の雑誌『女性』に掲載され、後に『湖南の扇』に所収)をものしているのである。リンク先の私の電子テクストでは、かなりマニアックな分析を含む注も附してある。是非、お読み戴きたい。「彼」は無論、創作であり、龍之介特有のポーズもそこここに見られはする。例えば、彼の「victor の感じ」は美事にKに外化されてはいる。――しかし――どうだろう? そのトリック・スターのすり替えなど、実はどうでもいいことではあるまいか? この時、漠然とした「生」の勝者としての意識を持っていた龍之介が、この「彼」を書いた晩年の時点にあっては、まさに尾羽打ち枯らした、平塚以上に救い難い/救われ得ぬ――敗者――としての認識の中にあった以上(これは誰が何と言おうと私は譲るつもりはない)、私は決して龍之介は――自己に繋がる全人的な事実を――実は――少しも枉げてなどいないのだと――感ずるのである。……
「犬が二匹共犬ころしにころされたらしい かはいさうだ おやぢがふさぎきつてゐる」「おやぢ」は養父芥川道章で、どうも飼っていた犬が野犬扱いされて殺されたものらしい。犬嫌いの芥川にしては、この「かはいさうだ」は異例に見えるが、以下の後の二十九日の記事に「おやぢが犬のしんだのでしょげてゐる」というのを見ると、どうもこれは――犬が「かはいさう」――というのではなくて――「おやぢがふさぎきつてゐる」のが「かはいさうだ」――という意味と思われる。
「F」塚本文。]
○【1月29日】 久米から赤門雜誌の事をきく 成瀨久米とパウリスタヘゆく Art の Monism Polygenism についてはなす 矢代をとふ 夜熱が少しあるやうだ おやぢが犬のしんだのでしよげてゐる
E flat by Chopin ――變ホ調
[やぶちゃん注:「赤門雜誌」不詳。一つの推測であるが、これは同年四月一日の創刊に動きつつあった『新思潮』のことではあるまいか? 『新思潮』という雑誌名を出さないのはやや不審ながら、ウィキの「新思潮」によれば、『新思潮の名は前任者の了解を取れば誰でも使用する事が出来た』とあることから、久米がそうした『新思潮』の復刊の方向で動いていたことをこれは指すのかもしれないとも思われるのだが。識者の御教授を乞う。
「パウリスタ」大正二(一九一三)年に銀座に開店した珈琲店で、現在、場所を変えて同じ銀座に現存する。同社の公式サイトの「小説の中のパウリスタ」には、『カフェーパウリスタの真前が時事新報社でした。時事の主幹は文壇の大御所と言われた菊池寛です。その菊池に原稿をとどけるために芥川龍之介はパウリスタを待ち合せの場として利用しました。龍之介の小説の中によくパウリスタが登場するのはこの理由です』とあり(これは無論、この記載より後の事実に基づく)、また参考として全日本珈琲商工組合連合会「日本コーヒー史上巻」から、『カフェーパウリスタは横浜の西川楽器店から「自動ピアノ」を購入、五銭白銅貨を入れると好みの名曲が一』曲聞けるなどという趣向でコーヒーの客寄せをした、とある。岩波版新全集の「彼 第二」の注で、三島譲氏は『一九一一年一二月に京橋区南鍋町二丁目(現、中央区西銀座六丁目)開業、他のカッフェと異なって女給を置かず、直輸入のブラジルコーヒーを飲ませる店として名高く、文士の常連も多かった。店内には自動オルガンを備え、五銭の白銅貨を投入すると自動的に演奏した。「グラノフォン」(gramophone 英語)は蓄音機の商標名であるが、この自動オルガンを指していると思われる。』とも記しておられる。「彼 第二」のリンク先は私の電子テクストで、やはりマニアックな分析と注を附してある。御笑覧戴ければ幸いである。
「Monism」一元論。平凡社「世界大百科事典」によれば、世界と人生との多様な現象をその側面乃至全体に関して、ただ一つの(ギリシア語のモノス“monos”)根源、即ち、原理乃至実在から統一的に解明し、説明しようとする立場をいう。単元論(singularism)とも呼ばれ、二つ及びそれ以上の原理乃至実在を認める二元論や多元論に対立する。哲学用語としては近世の成立で、ドイツの哲学者クリスティアン・ヴォルフ(Christian Wolff 一六七九年~一七五四年:ドイツ啓蒙主義を代表する哲学者・数学者。ライプニッツの哲学を継承して合理主義の哲学体系を演繹的に構成することを試み、その思想はカントへと引き継がれた)が初めて、唯一の種類の実体を想定する哲学者のことを一元論者と呼んだ。即ち、一切を、精神に還元するところの唯心論や、物質に還元する唯物論、精神と物質とをともにその現象形態とする第三者に還元する広義の同一哲学などは総て一元論に属する、とある。
「Polygenism」多元発生論。前に「Monism」を並置しているから、多元論(pluralism)と同義で用いているようである。平凡社「世界大百科事典」によれば、原語は,複数形を意味するラテン語“pluralitas”をエリウゲナが用いたことに遡り得るが、哲学の用語としては前注に出した十八世紀のウォルフが観念論者を思惟する単独の自我のみを認める自我論者(Egoisten)と複数の思惟する存在者を認める多元論者(Pluralisten)とに分けたことに始まり、カントにも全く同じ用法があるという。今日では複数の実在によって世界乃至人生の全体又は部分、特にその変化・多様を顧慮して説明する立場を指し、二元論はその一種であって、ともに一元論に対立する、とある。
「矢代」美術史家・美術評論家の矢代幸雄(明治二三(一八九〇)年~昭和五〇(一九七五)年)。東京帝国大学英文科卒業(龍之介より一年上)。東京美術学校(現在の東京芸術大学)や第一高等学校で教職を務めた後、欧州へ留学、ボッティチェッリ研究を行い、その滞在中に川崎造船社長で美術収集家であった松方幸次郎のロンドン・パリでの絵画購入に同行、印象派や当時評価を高めつつあったポスト印象派の作品購入をアドヴァイスして「松方コレクション」(後に一部が国立西洋美術館の常設コレクションとなる)の形成に大きく貢献した。帰国後は東京美術学校教授、昭和一一(一九三六)年に美術研究所(現在の東京文化財研究所)所長に就任、戦後は大和文華館初代館長として活躍し、文化財保護委員会の委員を務めた。米のハーヴァード大学、スタンフォード大学でも教鞭を取っている(以上はウィキの「矢代幸雄」に拠った)。龍之介が後の「その頃の赤門生活」(初出は昭和二(一九二七)年二月二十一日付『帝國大學新聞』に、「その頃の赤門生活(二十七) 芥川龍之介氏記」のシリーズ記事見出しに、「眞夏の卒業式に冬服で汗みどろ」の題と「三十圓が拂へなくて除名處分を受けた頃」の副題を付して掲載)。の掉尾の「六」で、
§
僕は二年生か三年生かの時、矢代幸雄、久米正雄の二人と共にイギリス文學科の教授方針を攻撃したり、場所は一つ橋の學士會館なりしと覺ゆ。僕等は寡(くわ)を以て衆にあたり、大いに凱歌を奏したり。然れども久米は勝誇りたるため、忽ち心臓に異狀を呈し、本郷まで歩きて歸ること能はず。僕は矢代と共に久米を擔(かつ)ぎ、人跡絶えたる電車通りをやつと本郷の下宿へ歸れり。 (昭和二・二・一七)
§
と記している中に登場する矢代幸雄である(リンク先は私の電子テクスト)。
「E flat by Chopin ――變ホ調」恐らくは最も知られたショパンの変ホ長調の「夜想曲第二番作品9-2」(Nocturne No.2 E-flat major Op.9-2)と思われる。ピアノ曲好みの龍之介の嗜好が窺えるメモである。]
○【1月31日】 甲の前で乙をほめるのは甲が全く乙らをしらないか or 乙に感心してゐる時に限る 甲が乙を輕蔑してゐたら決して乙をほめない
目と烙印と
Fを思ふ
[やぶちゃん注:「甲の前で乙をほめるのは甲が全く乙らをしらないか or 乙に感心してゐる時に限る 甲が乙を輕蔑してゐたら決して乙をほめない」何の小説の素材か不詳。何かピンとこられるものがあった方は是非、御教授を乞うものである。
「目と烙印と」不詳。]
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以上の記載についてはまだ言い足りていない部分が多過ぎる。……ここには実は芥川龍之介のホモ・セクシャリズムが強く働いている。……これは研究者の中では半ば知られたことではあろうが、それを正面切って語った『学術』論文はない。……また何れはこれ全体をリニューアル・リロードしたいと考えている。……
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