弾を浴びた島 山之口貘
弾を浴びた島
島の土を踏んだとたんに
ガンジューイとあいさつしたところ
はいおかげさまで元気ですとか言って
島の人は日本語で来たのだ
郷愁はいささか戸惑いしてしまって
ウチナーグチマディン ムル
イクサニ サッタルバスイと言うと
島の人は苦笑したのだが
沖縄語は上手ですねと来たのだ
「ガンジューイ」=「お元気か」
「ウチナーグチマディン ムル」=「沖縄方言までもすべて」
「イクサニ サッタルバスイ」=「戦争でやられたのか」
[やぶちゃん注:【2014年6月27日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証により、注の一部を追加した。】初出は昭和三八(一九六三)年三月号『文藝春秋』で、その後、同年十二月には十二月号「現代詩手帖」にも再掲された。沖繩帰郷から実に五年後に絞り出した苦渋の一篇であった。
本詩については、底本通りの電子化を行っていない。底本では詩中の沖繩方言部分にはそれぞれ方言部の最終字(具体的には「ガンジューイ」の「イ」・「ウチナーグチマディン ムル」の「ル」・「イクサニ サッタルバスイ」の「バスイ」の「イ」)の右にポイント落ちでそれぞれ『(1)』『(2)』『(3)』の注記記号が附され、詩の後に一行空きがなされた後、二字下げのポイント落ちで、
(1)お元気か
(2)沖縄方言までもすべて
(3)戦争でやられたのか
と後注されている。また、清書原稿を基にした新全集では注記記号が『*1』『*2』『*3』となっており、後注が『*1 お元気か』『*2 沖縄方言までも すべて』(字空けが入っているのに注意)『*3 戦争で やられたのか』(字空けが入っているのに注意)となっている以外、本文の異同はない。
私は二十の時にこの詩に出逢って以来、今に至るまで、この詩を偏愛するものであるが、実は今もずっとその最初の違和感が持続し続けている。それは個人的にこの注記記号の詩文中への挿入が、今一つ好きになれないでいるということである。これによって心内での私の朗読――バクさんの肉声の「うちなーぐち」――はその都度、中断され、無意識に後注に視線が右往左往してしまうからである。寧ろ、注を「読」んで記憶したら、それらを視界から消去して今一度、沖繩方言としてのここに散りばめられたそれを――そのままに「詠」むべきである――と私は思っている。如何にも偉そうではあるが、そうした私の愛するこの詩への思いの中で、注記記号の省略と注記表記の変更さらに詩本文と注記との間を有意に空けるという恣意的な操作を行った。バクさん、お許しあれ――
昭和三三(一九五七)年十月末、五十五歳の時、バクさんは実に三十四年振りで占領下の沖繩に帰省した(大正一三(一九二四)年の二十九の時の二度目の上京以来)。母校県立首里高等学校(但し、バクさんは旧制県立第一中学校で四年生で中退している)を皮切りに各高等学校などで講演を行い、大城立裕ら若き沖繩の作家や詩人らと逢い、約一ヶ月半滞在して翌年初に帰京した。この直後の昭和三十四年四月には先の再版『底本山之口貘詩集』で第二回高村光太郎賞している。しかし、この詩に示されたようにバクさんは沖繩の激しい変化に大きなショックを受け、この年の夏の終わりまで詩が書けない(参考にした底本年譜では『仕事ができない』とある)状態が続いた。
最後に。私はこの詩に就いては、「沖縄」の文字が入っている点に於いて、そしてこれがバクさんの、若き日の故郷への痛恨詩であることからも、どうしても正字で表記したくなる願望を押さえきれない(私は「縄」という新字が生理的に嫌いである。また実は「弾」も「蝉」同様に「彈」や「蟬」でないとむずむずする人間なんである)。戦後の詩であるが、私の我儘で敢えて正字化した詩篇本文を以下に示したい(さらに言えば私は実は沖繩方言に限らず、方言を外来語のようにカタカナ書きするのを生理的に激しく嫌悪する人間であるが、流石にそこまでの表現操作はバクさんに悪いので諦める)。
彈を浴びた島
島の土を踏んだとたんに
ガンジューイとあいさつしたところ
はいおかげさまで元氣ですとか言って
島の人は日本語で來たのだ
郷愁はいささか戸惑いしてしまって
ウチナーグチマディン ムル
イクサニ サッタルバスイと言うと
島の人は苦笑したのだが
沖繩語は上手ですねと來たのだ
バクさん、ごめんね――]