足袋つぐやノラともならず教師妻 杉田久女 附注版(再掲)
足袋つぐやノラともならず敎師妻
[やぶちゃん注:久女一番の代表句と言ってよい。それはスキャンダラスなものであり、そうしてあらゆる意味で久女伝説の濫觴ともなった句ではある。底本の久女の長女石(いし)昌子さんの編になる年譜の大正一一(一九二二)年の項によれば、『二月、「冬服や辞令を祀る良教師」(ホトトギス2)の句をめぐり家庭内の物議をかもす。このときの発表句は次の五句』として句を掲げる(以下、恣意的に正字化した)。
足袋つぐやノラともならず敎師妻
遂に來ぬ晩餐菊にはじめけり
戲曲讀む冬夜の食器漬けしまゝ
枯れ柳に來し鳥吹かれ飛びにけり
冬服や辭令を祀る良敎師
この連作の特に奇数句の流れは確かに鮮烈である。
さて、大野林火「近代俳句の鑑賞と批評」(明治書院昭和四二(一九六七)年刊)によれば、昭和二七(一九五二)年角川書店刊の「杉田久女句集」には、
足袋つぐや醜ともならず敎師妻
として収めている、とある。ところが、私の所持する立風書房版全集には、この句形が何処にも載っていないのである。これは如何にも不思議なことである。しかも、この初出形を知る人は少ないと思う(不肖、私も今回、この電子化作業の中で実は初めて知った)。以下、この一句について徹底的に追究した倉田紘文氏の素晴らしい論文「杉田久女の俳句――ノラの背景――」(PDFファイル)に拠りながら簡単に述べたい。
まず、この句は大正一一(一九二二)年の『ホトトギス』二月号に発表された句であるが、それが「杉田久女句集」(昭和二七(一九五二)年角川書店刊)では中七が、かく「醜ともならず」と推敲された形で入集されている、とある。ところが、再版本(昭和四四(一九六九)年角川書店刊)や私が底本としている立風書房全集では、初出の「ノラともならず」に再び改められている、とある。倉田氏は『久女は昭和二十一年に五十六歳で没しており、昭和二十七年の句集で「醜ともならず」となっていることについては、同句集が久女生前に自ら編集されていたということで理解できるが、再版及び全集で「ノラ」に改められたいきさつは分らない』と記しておられる。これについて倉田氏は注で小室善弘「鑑賞現代俳句」の言を引き、「ノラともならず」の斬新な措辞には及ばない、というような意見によって再び改められたのであろう、と記してはおられるが、後の全集に「醜ともならず」の句形が全く示されていないというのは、頗る奇怪と言わざるを得ない。また、作者の没後に『「ノラともならず」の斬新な措辞には及ばない、というような意見によって再び改められ』るなどということが行われているとしたら、これは文芸創作上、とんでもない行為ということになり、そう指示したのが何者であるのかは明らかにされなければならない。
考証部分はリンク先の原典で確認して戴くとして(大変興味深い)、まず倉田氏は本句が大正一〇(一九二一)年作と同定され、さらに「ノラ」は実はイプセンの「人形の家」の主人公であると同時に、当時、スキャンダラスな事件として新聞で報道され巷を騒がせた夫との離縁状の公開、そして情人宮崎龍介(辛亥革命の志士宮崎滔天の長男)へと走った歌人柳原白蓮その人であった、という極めてリアリズムに富んだ魅力的な推理を展開しておられる。最後には更に、この句の製作時期を大正一〇(一九二一)年の冬十一月初旬から十二月初旬(もっと厳密にいうなら立冬の日から投句稿が十二月十五日までに『ホトトギス』に必着するまでの閉区間)でなくてはならないと、快刀乱麻切れ味鋭く同定なさってもおられるのである(個人的にこういう拘った手法はすこぶる私好みである)。
ここで再び大野林火氏の評釈に戻ろう。氏はまず、この句集の句の『「醜」の意曖昧であ』るとして、「ノラ」の方を提示句としては採っている。これは無論、先の小室氏の謂いとともに肯んずるものではある。しかし彼は続いて、以下のように語り始めるのである(下線部やぶちゃん)。
《引用開始》
この句については久女の略歴に触れねばならない。煩をいとわず記せば、明治二十三年鹿児島に生れた赤堀久女は、幼時、大蔵省官吏であった父の任地、琉球、台湾等に転住、のち、束京に移り、名門お茶の水高等女学校を卒業した。同級にのち理学士三宅恒方に嫁いだ加藤やす子がいた。やす子の文才は同輩に重きをなし、久女はひそかにやす子にライバル意識を燃やした。卒業翌年(明治四十二年)、上野美術学校群画科出身の杉田宇内と結婚、収入は乏しくも、苦しくも、芸術に生きる画家の妻たり得たよろこびを久女は持った。結婚と同時に杉田宇内は小倉の中学の図画の教師となった。久女は芸術家の妻でありたかったが、良人の宇内はただ謹直な図画の教師であり、一枚の絵も描こうとしなかった。久女はそれを責めたが、良人は謹直な教師であることに満足した。久女は金子元臣の注釈つきの源氏物語をひろげ、ノートに注釈と首引きで意訳の文章を書き綴ってみずからを慰める。しかし、良人には心の触れあうことなしの生活だったのであろう。遺子石昌子は「主として私の目に写つたのは、争ひがちの家庭生活」(『久女句集』あとがき[やぶちゃん注:ここは底本では割注でポイント落ち二行。])とその幼時を語るが、その争いでも久女だけがヒステリックに声を荒げ、良人宇内は黙々としていたのではないか。そのことがまた久女をますますいらだたしくさせたのであろうと推察する。
この句は田舎教師の妻として、凡々の日夜を送り、そこから脱しようとしない自分を嘲る句だが、その背景には三宅やす子が着々と文名を高めて行くことへのコンプレックスもあろう。いずれにしてもこの句は久女の我のつよさが露骨に出ている句であり、それが有名にもしたのだが、親しめない。「足袋つぐや」に一抹のあわれさがただようにしても――。しかし、久女を知るには欠くことの出来ない句といえようか。
《引用終了》
これをお読み戴いて、あなたはこの句の評釈が正統にして冷静なアカデミックな(私はアカデミズムをせせら笑う人間ではあるが、少なくともこれは俳句評論という公的認知の頂点にある書籍であることは疑いようがない。実際に多くの国語教師がこれを虎の巻とし、恰も自分が鑑賞したかのように(!)俳句の授業を実際にしている事実をかつて高校の国語教師であった私はよく知っている。詩歌俳諧ぐらい、一般の国語教師が避けようとする苦手な教材はないと言ってよく、実際に詩歌教材に関してオリジナルな授業案を創れる国語教師というのは一握りしかいないと思う。感想を書かせてお茶を濁す、やらずに読んでおきなさいというのはまだよい方で、受験勉強には不要という伝家の宝刀を抜いて堂々とスルーするのを正当化する下劣な同僚も悲しいことに実に多かった)「近代俳句の鑑賞と批評」と名打つに足るものであると思われるか? 私は断じて到底肯んじ得ないのである! それはまず、大野氏の引用が、大野氏自身が自分の中に創り上げてしまった歪んだ久女像に合わせて、極めて恣意的に情報のパッチ・ワークを行っているという事実に於いてである。
氏は最初に、全集年譜にも載らず、倉田氏の緻密な論文にさえも出ない、加藤(三宅)やす子を登場させて、この句の遙かな淵源としている。三宅やす子(明治二三(一八九〇)年~昭和七(一九三二)年)は作家で評論家、本名は安子。京都市生。京都師範学校校長加藤正矩の娘で久女とは同い年である。お茶の水高等女学校卒業後、夏目漱石・小宮豊隆に師事、昆虫学者三宅恒方と結婚するも、大正一〇(一九二一)年に夫が死去すると文筆活動に入って、大正十二年には雑誌『ウーマン・カレント』を創刊、作家宇野千代とも親しかった人物である(以上はウィキの「三宅やす子」に拠る)。この句は先に示した通り、大正十一(一九二二)年二月の発表句であり、それは確かに三宅やす子の文壇デビューと軌を一にしているようには見える。新しい女性の文化進出の旗手として登場してくる嘗つてのライバルやす子を、この時、小倉の中学教師の妻であった久女が強く意識したということは十分あり得る話ではある。しかし何より二人が同級生であったのは東京女子高等師範学校附属お茶の水高等女学校を卒業した明治四〇(一九〇七)年以前の話で(大野氏は久女の卒業年を一年間違えているので注意)、ここまでに実に十五年以上の隔たりがある。この句の情念が、その後、連絡も文通もなかった(と思われる)、十五年も前の特定の同級生に対するライバル感情を濫觴とする、などという仮説は私なら鼻でせせら笑う(後文で「その背景には三宅やす子が着々と文名を高めて行くことへのコンプレックスもあろう」と述べておられるが、これは一体、如何なる一次資料から論証されるものなのか? 亡き大野氏に訊いてみたい気が強くする。そのような特殊な偏執的淵源があるとすれば、倉田論文も、当然、それを示さないはずはない)。ともかくもこの三宅やす子を枕、否、額縁とするこの評釈の論理展開や論理的正当性は――その推理の出典や情報元の提示が殆んどない上に、如何にもな推量表現だらけの文末を見ただけでも――失礼乍ら、どう考えても全くないと私には思われるのである。
次に、夫宇内が美術の教師でありながら一枚の絵も描こうとせず、「久女はそれを責めたが、良人は謹直な教師であることに満足した」とあるが、これはどうも、久女の小説「河畔に棲みて」の「十一」辺りからの謂いであろうということに注意せねばならない。同小説は明らかなモデル私小説ではある。しかし『小説』である。大野氏は恰もこれらを何らかの客観的な事実記録や、杉田家をよく知る親族知人の確かな証言によって書いているかのように読める(但し、私は次に示す二冊の「杉田久女句集」に石昌子さんの書いた文章を読んでいないので、その中にそうした叙述が全くないと断言は出来ない)。しかし、続く叙述から見えてくるのは、これらは寧ろ、既に出来上がってしまっていた久女伝説に基づく尾鰭や曲解・噂の類いを都合よく切り張りした謂いであるという強い感触なのである。しかもそこで大野氏は「満足した」「良人には心の触れあうことなしの生活だったのであろう」と鮮やかな断定と、久女の心に土足で踏み込んで指弾するような推定を附しては、結局、読者をして――我儘な久女は強烈な欲求不満のストレスを抱え夫を追い詰め、病的なまでに只管にその利己的な鬱憤を溜めに溜めていったのだ――と思わせるように仕向けているとしか読めない点に注意しなければならない。
続く長女昌子さんの引用であるが(この割注の書名は正確ではない。句集名は「杉田久女句集」である。また、ここには「あとがき」とあるから、これは大野氏の著作が後に改訂されたものと考えれば(私の所持するものは昭和五五(一九八〇)年刊の改訂増補八版である)、これは昭和二七(一九五二)年の角川書店版「杉田久女句集」ではない。何故なら、その巻末の石昌子さんの文章は「あとがき」という題名ではなく「母久女の思ひ出」であり、「あとがき」と題する昌子さんのそれは昭和四四(一九六九)年の角川書店版「杉田久女句集」の巻末にあるものだからである。但し、残念ながら私は両原本ともに所持しないので内容の確認は出来ない)、ここで大野氏は昌子さんの幼時の記憶として「主として私の目に写つたのは、争ひがちの家庭生活」という箇所をのみ採り、そこから畳み掛けるように「その争いでも久女だけがヒステリックに声を荒げ、良人宇内は黙々としていたのではないか。そのことがまた久女をますますいらだたしくさせたのであろうと推察する」と、またしても久女の異様なヒステリー状態の想像を安易に開陳し、しかも「推察」という語で読者をナーバスで病的な久女像へと確実に恣意的に導こうとしているのが見てとれる。
ところが翻って、私が底本としている立風書房版全集の石昌子さんの編になる、まことに素晴らしい年譜の叙述を見ると、これ――相当に印象が違う――のである。これは無論、永年、異常なまでに歪曲された久女伝説に基づく久女像を正そうと努力されてきた昌子さん(底本全集出版の一九七九年当時で既に七十八歳であられた。ネット上の情報では既に鬼籍に入られている)の中で、美化された母親像への正のバイアスがかからなかったとは言わない。昌子さんご自身の人生経験も当然そこに加わった述懐ともなってはいよう(因みに御主人の石一郎氏(故人)はスタインベックの「怒りの葡萄」の翻訳で知られる米文学者)。しかしともかく、その叙述はどうみても大野氏が誘導するような――内部崩壊寸前の愛情の通わぬ夫婦や狂気へと只管走る悲劇の才媛の物語――なんぞでは、これ、全くないのである。
幾つかの記載を見てみよう。
昌子さんの母の記憶は『玩具を玩具箱にしまってくれた母、その箱が張り絵で美しかったこと、破いた絵本を和綴じにして人形の絵など描き、ワットマン紙で表紙をつくってもらった』という映像に始まり、小倉での生活は『この頃の宇内は釣やテニスを趣味とし、玄海の夜釣や沖釣などをたのしんだ。田舎育ち』(宇内の実家は愛知県西加茂郡小原)『の野性的な一面があり、久女の方はおだやかな人といえた』(大正三(一九一四)年の項)。翌五年から俳句にのめり込んでいった久女は、大正六年一月の『ホトトギス』台所雑詠に初めて五句掲載、虚子や鳴雪の好評を得て、大正八~九年まで句作はすこぶる順調であったが、他の注で述べるように大正九年八月の実父の納骨に赴いた信州で腎臓病を発症、東京の実家へ帰ったのを機に離婚問題が起きた。同年の項には『小倉での生活が痛ましすぎると実家では考えた。旅暮らしの家庭生活に波風が多く、二十代は泣いて暮らしたと久女はよく言ったが、編者にはおとなしい静かな印象しか残っていない』(当時久女三十歳)とある。翌大正十年七月に小倉へ戻るが、その項には以下のようにある(下線やぶちゃん)。
《引用開始》
編者の記憶では、宇内は腹の悪い人ではないかわり単純で、久女の離婚したいという気持を夜昼責めたてた。亭主関白ともいえる時代だったので、久女は泣きの涙で家を飛び出さねば喧嘩は止まなかった。宇内は病的なくらい執拗で、久女を怒らせ、目を吊り上げるまでにしなければすまなかった。怒れば久女の方が強かったにせよ、怒らせるまでに挑発するのはいつも宇内の方であった。中学教師は嫌いといった久女の言い分は表面的な単純なものではなく、宇内の性格的なものに対する批判と非難が籠っている。
《引用終了》
「怒れば久女の方が強かった」という辺りはご愛嬌であるが、寧ろ、昌子さんはちゃんと真実をなるべく公平に語ろうとしていることが、ここからも逆に垣間見れるとも言えよう。これ以降、久女のキリスト教への接近・宇内の受洗・久女の教会からの離反、などが記されるが省略する(また、久女の人生を大きく狂わせ、まさに天地が裂けたに等しかった『ホトトギス』除名(昭和一一(一九三六)年十月)もあるが、これも宇内との関係ではないからこの注釈では記さない)。この頃から逝去するまでの部分の年譜上には、宇内との軋轢や具体な記載は殆んど書かれていない。敢えて附記しておくなら、昌子さんは昭和一六(一九四一)年に次女光子さんの結婚式のために上京して来た久女について、『精神に精彩なく、悲痛で胸が痛んだ』と記され、また最後の対面となった昭和一九(一九四四)年七月の上京(実母赤堀さよの葬儀のため)対面の項には、『何時にもなくあせりも消えて、落ちついていた』『「俳句より人間です」「私は昌子と光子の母として染んでゆこうと思う」「子供を大切に育てなさい」「もし句集を出せる機会があったら、死んだ後でもいいから忘れないでほしい」といっ』たとある。『自分に好意を持たない人とは没交渉だったにちがいないが、編者宅では子供を遊ばせてくれ、子どもにやさしかったし、「子供をあまり叱ってはいけない。のびのびした子に育てるように」と言いおいて帰った』とある。翌昭和二十年十月末に福岡市郊外大宰府の県立筑紫保養院に入院、翌昭和二一(一九四六)年一月二十一日、この病院で腎臓病の悪化により久女は誰にも看取られず孤独に亡くなった。満五十五歳であった(久女は明治二三(一八九〇)年五月三十日生まれである)。夫宇内は小倉を引き上げて実家の愛知に戻ったが、その際、久女の遺品は句稿・文章・原稿などを含め、宇内の手で収集整理がなされていた。この事実、夫宇内の優しさもしっかりと押さえておくべきことであろう(宇内は実際、当時の教え子たちからも非常に人気があったという)。宇内は昭和三六(一九六二)年五月十九日に七十八歳で亡くなった。
さて、ここで、大野氏の物言いと昌子さんのこれらの叙述とを煩を厭わず再掲して比較してみよう(大野氏の割注と改行は除去した)。
《石昌子さんの叙述》
編者の記憶では、宇内は腹の悪い人ではないかわり単純で、久女の離婚したいという気持を夜昼責めたてた。亭主関白ともいえる時代だったので、久女は泣きの涙で家を飛び出さねば喧嘩は止まなかった。宇内は病的なくらい執拗で、久女を怒らせ、目を吊り上げるまでにしなければすまなかった。怒れば久女の方が強かったにせよ、怒らせるまでに挑発するのはいつも宇内の方であった。中学教師は嫌いといった久女の言い分は表面的な単純なものではなく、宇内の性格的なものに対する批判と非難が籠っている。
《大野林火氏の叙述》
しかし、良人には心の触れあうことなしの生活だったのであろう。遺子石昌子は「主として私の目に写つたのは、争ひがちの家庭生活」とその幼時を語るが、その争いでも久女だけがヒステリックに声を荒げ、良人宇内は黙々としていたのではないか。そのことがまた久女をますますいらだたしくさせたのであろうと推察する。この句は田舎教師の妻として、凡々の日夜を送り、そこから脱しようとしない自分を嘲る句だが、その背景には三宅やす子が着々と文名を高めて行くことへのコンプレックスもあろう。いずれにしてもこの句は久女の我のつよさが露骨に出ている句であり、それが有名にもしたのだが、親しめない。
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前者は親しく久女の傍にいた肉親である長女の生(なま)の証言である。後者は赤の他人の、スキャンダラスなものを女に帰する傾向の強い普遍的な男性の属性を有する一人の男の(それが「俳人」であろうが何であろうが実は余り関係ない)、不完全な伝聞と、ただの憶測に基づく記述である。
先に述べた昌子さんの母に対するバイアスを考慮に入れるとしても、この叙述は同一の夫婦の心的複合を叙述しながら、ほぼ正反対のそれとなっているといってよい。そうしてこれは、単に――母と娘対女と男――の感じ方の相違――どころの騒ぎではなく(但し、女流俳人に対する評価にはこの評者の側の性差の問題が「絶望的」なまでに影響すると私は思っている。これは女流歌人や小説家等よりも、シンボリックな要素が大きい俳句の場合、遙かに「絶望的」に顕著なのである)、明らかに――この大野林火氏の認識そのものに致命的な誤りがある――としか私には言いようがないのである。
大野林火(明治三七(一九〇四)年~昭和五七(一九八二)年)は、まさに昌子さんの言った「亭主関白ともいえる時代」に生きた〈男〉の俳人である。そうした彼にして「いずれにしてもこの句は久女の我のつよさが露骨に出ている句であり」「親しめない」という如何にもなそっけなく、乱暴な評言は反対に実に私には腑に落ちるのである。その代わりに、異様なまでに、ここまでの枕や分析が長いのは、まさに〈男〉の俳人としての大野が(単なる俳人としてではない!)〈女〉としての久女(「女の俳人としての久女」ではない!)を断罪しているに過ぎぬからである。私は過去現在未来を通して、少なくともこの句に対する大野氏のこの「鑑賞と批評」は「鑑賞」なんぞでも「批評」なんどでもない、只管、バレだらけになった小道具をふんだんに使った、おぞましく誤った、男の女への、物言いの安舞台でしかないと断ずるものである。こんな特定の女性を性差別した評論は差別文書として糾弾されるべきシロモノである!]