北條九代記 蒲原の殺所謀 付 北陸道軍勢攻登る 承久の乱【二十二】――砥並・志保・黒坂合戦、幕府軍連戦連勝
心安く押通り、越中と加賀の境なる、砥竝(となみ)山に掛りて、黑坂(くろざか)と志保山(しほのやま)と兩道のありけるを、砥竝へは仁科(にしなの)次郎、宮崎左衞門むかひたり。志保山へは糟屋有名(ありな)左衞門、伊王左衞向ひけり。加賀國の住人林、富樫(とがし)、井上、津旗(つばた)、越中國の住人野尻、河上、石黑の者共京方として、七百餘騎集り、殺所を切(きり)塞ぎて、防(ふせぎ)戰ふといへども、大軍の寄手なれば、叶はずして、砥竝、志保、黑坂悉く破れて、次第次第に攻上(せめのぼ)る。
[やぶちゃん注:〈承久の乱【二十二】――砥並・志保・黒坂合戦、幕府軍連戦連勝〉
「砥竝山」砺波山は倶利伽羅山の旧称。倶利伽羅山は木曽義仲の倶利伽羅峠の戦いでよく知られ、これはまさに直前の部分に出た「火牛の計」でも知られる古戦場(この時代には「古」ではない)である。
「黑坂」北黒坂(倶利伽羅峠北東麓)と南黒坂(同峠南東麓)があるが、戦略的には恐らく両方である(倶利伽羅峠の戦いで義仲は両所に軍を配位置している)。
「志保山」能登国と越中国の国境の古い山名。現在の石川県宝達山から北に望む一帯の山々を指す。ここも寧ろ、義仲の志保山の戦い(自軍の源行家が敗走、倶利伽羅合戦勝利後の義仲が反撃に転じた戦い)で知られる。
以下、「承久記」(底本の編者番号53パート)の記載。最後の部分は、「北條九代記」では次のシークエンスの頭となる。
越中ト加賀ノ堺ニ砥竝山ト云所有。黑坂・志保トテ二ノ道アリ。トナミ山へハ仁科次郎・宮崎左衞門向ケリ。志保へハ糟屋有名左衞門・伊王左衞門向ケリ。加賀國住人林・富樫・井上・津旗、越中國住人野尻・河上・石黑ノ者共、少々都ノ御方人申テ防戰フ。志保ノ軍破ケレバ、京方皆落行ケリ。其中ニ手負ノ法師武者一人、カタハラニ臥タリケルガ、大勢ノ通ルヲ見テ、「是ハ九郎判官義經ノ一腹ノ弟、糟屋ノ有名左衞門尉ガ兄弟、刑喜坊現覺ト申者也。能敵ヲ打テ高名セバヤ」ト名乘ケレバ、タレトハ不ㇾ知、敵一人寄合、刑部坊ガ首ヲトル。式部丞、砥竝山・黑坂・志保打破テ、加賀國ニ亂入、次第ニ責上程ニ、山法師美濃豎者觀賢、水尾坂ヲ掘切テ、逆茂木引テ待懸タリ。]