萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「午後」(9) たそがれ Ⅵ / 「午後」 了
ある宵のオペラの序幕合唄隊(コーラス)の
中に見し人わすられぬ哉
[やぶちゃん注:「合唄隊」はママ。底本校訂本文は「合唱隊」と訂する。従わない。]
花祭女王の君が車ひく
あはれなる子は涙ながして
岡山の高等學校の庭にさく
だありやの花こすもすの花
[やぶちゃん注:「岡山の高等學校」第六高等学校(現在の岡山大学)。以前にも注したが、朔太郎は明治三九(一九〇六)年満十九歳の三月に群馬県立前橋中学校を卒業後、同年中に前橋中学校補習科や早稲田中学校補習科を経て、翌四十年九月に熊本の第五高等学校第一部乙類(英語文科)に入学したが、同年七月に第一学年を落第、同月、岡山の第六高等学校を受験して合格、同年九月に同校第一部丙類(独語文科、独語法科)に入学している。因みに但し、結局、定期試験を受けずに問題視されて六高も翌明治四十二年七月に落第、翌四十三年四月には慶応義塾大学部予科一年に入学するも同月中に退学(理由不明)、同年六、七月頃には六高もまた退学している(当時、チフスに罹患しており、表向きの退学理由はそれであるように底本年譜の記載では読めるように書かれてある)。学歴の仕切り直しは明治四四(一九一一)年五月の応義塾大学部予科一年の再入学であるが、ここもまたしても六ヶ月後の同年十一月に退学し、これが萩原朔太郎の最終学歴となった。]
冬枯れの畑の上に工場の
煙たなびく角筈のあさ
[やぶちゃん注:「角筈」(つのはず)は旧淀橋区、現在の東京都新宿区の南西部にかつてあった地名。現在の新宿区西新宿・歌舞伎町・新宿の一部に相当する。因みに参照したウィキの「角筈」によれば地名の由来は『諸説あるが、新宿区教育委員会では』『角筈周辺を開拓した渡辺与兵衛の髪の束ね方が異様で、角にも矢筈にも見えたことから、人々が与兵衛を角髪または矢筈と呼び、これが転じて角筈となった』という『説を有力としている』とある。「角筈」とは一般名詞としては、弓矢の筈(矢の端の弓の弦に番える切り込みのある部分。矢筈)を動物の角で作ったもののことをいう。
この一首の次行に、前の「角筈のあさ」の「の」位置から下方に向って、最後に以前に示した特殊なバーが配されて、この「たそがれ」、そして上位歌群「午後」の終了を示している。]