『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 大崩
●大崩
旗立山の麓南に面せる海岸をいふ古(いにしへ)此地の山岳崩れて海に入れりと、其の山足は三浦三崎に通す。永正中三浦道寸、北條早雲の爲に住吉城を攻落され、新井城へ退却の時、此所にて敵兵を支へしといふ。
[やぶちゃん注:以下は底本ではポイント落ちで全体が一字下げ。]
鎌倉九代記曰、早雲住吉城に取かけ、日夜責めたりければ。こゝをも落され引きけるを旗を進め、貝太鼓を鳴し、時を作りて追かけしかは、秋谷の大崩にて踏止りて支へたり、此道は高山崩れて海に入、片岸の細道一騎打にして、高低平らかならずといへども、勝誇たる北條方の大軍岸、涯がけともいはす峯に登り海にひたり込懸けしかは道寸叶すして父子一所になり、雜兵合せて二千餘騎、三浦新井の城に楯籠る。
[やぶちゃん注:ここはまず、私偏愛の、本誌の発刊の十年後の明治四一(一九〇八)年一月に発表された、泉鏡花の「草迷宮」の冒頭を引用せずんばならず(底本は岩波版一九四一年刊「鏡花全集 卷之十一」を用いたが、読みは振れるもののみに限った。踊り字「〱」「〲」は正字化した)。
向うの小澤に蛇(じや)が立つて、
八幡長者の、をと娘(むすめ)、
よくも立つたり、巧んだり。
手には二本の珠(たま)を持ち、
足には黄金(こがね)の靴を穿き、
あゝよべ、かうよべと云ひながら、
山くれ野くれ行つたれば…………
一
三浦の大崩壞(おほくづれ)を、魔所だと云ふ。
葉山一帶の海岸を屏風で劃(くぎ)つた、櫻山の裾が、見も馴なれぬ獸の如く、洋(わだつみ)へ躍込(をどりこ)んだ、一方は長者園の濱で、逗子から森戸、葉山をかけて、夏向き海水浴の時分(ころ)、人死(ひとじに)のあるのは、此の邊では此處が多い。
一夏激(はげし)い暑さに、雲の峰も燒いた霰のやうに小さく焦げて、ぱちぱちと音がして、火の粉になつて覆(こぼ)れさうな日盛(ひざかり)に、是から湧いて出(で)て人間に成らうと思はれる裸體(はだか)の男女(だんぢよ)が、入交りに波に浮んで居ると、赫(くわつ)とたゞ金銀銅鐵、眞白(まつしろ)に溶けた霄(おほぞら)の、何處に龜裂(ひゞ)が入つたか、破鐘(われがね)のやうなる聲して、
「泳ぐもの、歸れ。」と叫んだ。
この呪詛(のろひ)のために、浮べる輩(やから)はぶくりと沈んで、四邊(あたり)は白泡(しらあわ)となつたと聞く。
又十七ばかり少年の、肋膜炎を病んだ擧句が、保養にとて來て居たが、可恐(おそろし)く身體(からだ)を氣にして、自分で病理學まで研究して、0ʼ(れいコンマ)などと調合する、朝夕(てうせき)檢温氣で度を料はかる、三度の食事も度量衡(はかり)で食べるのが、秋の暮方、誰(たれ)も居ない浪打際を、生白い痩脛(やせずね)の高端折(たかはしより)、跣足(はだし)でちよびちよび横歩行(よこあるき)で、日課の如き運動をしながら、つくづく不平らしく、海に向って、高慢な舌打して、
「あゝ、退屈だ。」
と呟くと、頭上の崖の胴中(どうなか)から、異聲を放つて、
「親孝行でもしろ――」と喚(わめ)いた。
爲に、その少年は太(いた)く煩ひ附いたと云ふ。
そんなこんなで、そこが魔所だの風説は、近頃一層甚しくなつて、知らずに大崩壞へ上るのを、土地の者が見着けると、百姓は鍬を杖支(つゑつ)き、船頭は舳(みよし)に立つて、下りろ、危い、と聲を懸ける。
實際魔所でなくとも、大崩壞の絶頂は藥研を俯向けに伏せたやうで、跨ぐと鐙(あぶみ)の無いばかり。馬の背に立つ巖(いはほ)、狹く鋭く、踵(くびす)から、爪先から、ずかり中窪(なかくぼ)に削つた斷崖(がけ)の、見下ろす麓の白浪に、搖落(ゆりおと)さるゝ思(おもひ)がある。
さて一方は長者園の渚へは、浦の波が、靜(しづか)に展(ひら)いて、忙(せは)しく然(しか)も長閑に、鷄の羽たゝく音(おと)がするのに、唯切立(きつた)ての巖(いは)一枚、一方は太平洋の大濤(おほなみ)が、牛の吼(ほ)ゆるが如き聲して、緩(ゆるや)かに然も凄(すさま)じく、うゝ、おゝ、と呻(うな)つて、三崎街道の外濱(そとはま)に大畝(おほうねり)を打つのである。
右から左へ、わずかに瞳を動かすさへ、杜若咲く八ツ橋と、月の武藏野ほどに趣が激變して、浦には白帆の鷗が舞ひ、沖を黑煙(くろけむり)の龍が奔る。
是だけでも眩(めくるめ)くばかりなるに、蹈む足許は、岩の其の劍(つるぎ)の刄(は)を渡るやう。取縋(とりすが)る松の枝の、海を分けて、種々(いろいろ)の波の調べの懸るのも、人が縋れば根が搖れて、攀上(よぢのぼ)つた喘(あえへ)ぎも留(や)まぬに、汗を冷(つめた)うする風が絶えぬ。
然(さ)ればとて、これがためにその景勝を傷(きずつ)けてはならぬ。大崩壞の巖(いはほ)の膚(はだ)は、春は紫に、夏は綠、秋紅(くれなゐ)に、冬は黄に、藤を編み、蔦を絡(まと)ひ、鼓子花(ひるがほ)も咲き、龍膽(りんだう)も咲き、尾花が靡けば月も射す。いで、紺靑(こんじやう)の波を蹈んで、水天の間(あひだ)に絲の如き大島山に飛ばんず姿。巨匠が鑿(のみ)を施した、靑銅の獅子の俤(おもかげ)あり。その美しき花の衣は、彼(かれ)が威靈(ゐれい)を稱(たたへ)たる牡丹花(ぼたんくわ)の飾(かざり)に似て、根に寄る潮(うしほ)の玉を碎くは、日に黄金(こがね)、月に白銀、或(あるひ)は怒り、或は殺す、鋭(と)き大自在の爪かと見ゆる。
二
修業中の小次郎法師が、諸國一見の途次(みちすがら)、相州三崎まはりをして、秋谷(あきや)の海岸を通つた時の事である。
件(くだん)の大崩壞の海に突出でた、獅子王(ししわう)の腹を、太平洋の方(はう)から一町ばかり前途(ゆくて)に見渡す、街道端(ばた)の――直ぐ崖の下へ白浪が打寄せる――江の島と富士とを、簾(すだれ)に透かして描(ゑが)いたやうな、一寸した葭簀張(よしずばり)の茶店に休むと、媼(うば)が口の長い鐵葉(ブリキ)の湯沸(ゆわかし)から、澁茶を注(つ)いで、人皇(にんわう)何代の御時(おんとき)かの箱根細工の木地盆(きぢぼん)に、裝溢(もりこぼ)れるばかりなのを差出(さしだ)した。(以下略)
先の長者園も出てきて、注するにもってこいである。以下、「稲生物怪録」をインスパイアしつつ、神隠しにあった幼馴染の少女菖蒲、そして、亡き母の手毬歌が聴こえてくる……鏡花幻想の白眉である……
「鎌倉九代記」とあるが、時代からお分かりの通り、これは浅井了意のそれでは無論なく、近世軍記の一つで、しばしば「鎌倉九代記」と略称されてしまう「鎌倉公方九代記」の巻五の「六 三浦道寸討死 付 新井城歿落 幷 怨霊」からの引用である(「南総里見八犬伝」の個人研究サイト「犬の曠野」の「八犬伝読解関連資料(軍記・随筆など)」の資料に電子化されてあるものから、同条の頭から当該部分までを恣意的に正字化して示す。
*
三浦介義同は去ぬる明應三年九月に義父時高を討つて新井の城を乘り受領して陸奧守に補せられ從四位下に任ぜらる。入道して道寸と號す。子息荒次郎は彈正少弼に補せられ義意と號して上總國の守護眞里谷三河守が壻となし隣交の盟約を厚うして新井の城に仕居ゑ道寸は相州岡崎の城に居住し管領の命に從ひ幕下に屬し相州の中郡を知行して威勢近邊に雙びなく光彩門戸になつ。相武兩國の武士來り從ふ。彼の岡崎の城は昔右大將頼朝卿の御時に三浦大介義明が弟岡崎惡四郎義實が居城として三浦の一族數代持續けし所なれば要害思ふが儘に支度して墻壁高く壘塹深ければたとひ數萬の軍兵ありとも容易く攻寄り難き名城なり。然るに北條新九郎入道早雲既に小田原の城を打取り大庭の城を攻め落すと雖、岡崎の城は猶管領に屬して守りしかばいかにもして岡崎を手に入れ相州一國を平均に取鎭めばやと思ひ立ちて永正九年八月十三日伊豆相模の勢を催し岡崎の城に押寄せたり。城中強く防ぎ堅く守つて寄手を打つこと數知らず。早雲謀を以つて攻むれば城中手段を變へて防ぎ戰ふ。敵味方の鬨の聲に太山も崩れて海に入り廣原も湧きて峰に續くかと覺えけり。寄手の方より大道寺太郎荒川又四郎を先として土肥の富永三郎左衞門田子の山本太郎左衞門妻良の村田市之助以下の軍兵力を竭して攻めたりしかば城中より佐保田豐後守大森越後守を初として二百餘騎木戸を開きて切て出づる。寄手の大勢之を押包みて一人も餘さず討取らんとす。城兵少しも機を呑まれず四方八面に當つて追靡け打開き一以て千に配り精氣既に白虹を貫き勇猛又秋霜よりも烈し。兩陣互に振ひ打つて風の廻るが如く焰の渦卷くに相似たり。されども運の傾く所孫呉李衞が術策も其甲斐なく一二の木戸を攻破られ寄手いやが上に攻めかけしかば城兵心ばかりは進めども散々に追込まれ頭をも差出すべき力もなし。今は叶ふべからず一先づ此城を落ちて重ねて軍兵を催し鬱陶を散ずべしとて大將道寸入道を初として佐保田大森以下の兵搦手より落ちて同國住吉の城にぞ籠りける。早雲押續きて住吉の城に取懸け日夜攻めたりければ爰をも落されて鎌倉を指して引きけるを旗を進め貝太鼓を鳴らし鬨を作り追懸けしが秋谷の大崩にて踏止まりて支へたり。此道は高山崩れて海に入り片岸の細道一騎打にして高低平ならずと雖、勝ち誇りたる北條方の大軍岸崖ともいはず峰に登り海に浸りて追懸けしかば小坪秋谷長坂黑石佐原山の難所をも攻崩されて道寸叶はずして父子一所になり雜兵倂せて二千餘騎三浦新井の城に立籠る。]
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