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2014/04/13

北條九代記 卷第六  宇治川軍敗北 付 上護覺心謀略(1) 承久の乱【二十四】――後鳥羽院、日吉神社へ戦勝祈願するも、官軍の劣勢に戦々恐々、謀叛支持派の公家の勧奨により取り敢えず宇治・勢多の防衛線に軍兵を派遣す

 鎌倉 北條九代記  卷第六

 

      ○宇治川軍敗北 付 上護覺心謀略

山田次郎重忠は、杭瀨川の軍破れて後、都に歸り參りて、事の由を奏聞す。要害共甲斐なく打落され、北陸道の軍勢も都近く攻寄ると聞えしかば、六月九日酉刻に、一院は御所願(ごしよぐわん)の御爲とて新院冷泉宮諸共に日吉(ひよし)へ御幸なる。東坂本梶井宮(かぢゐのみや)の御所へ入御(じゆぎよ)ましまし、翌日卯刻に都へ還御有て、四方の門を閉ぢられ、兎角の僉義(せんぎ)も仰出(おほせいだ)されざりしかば、謀叛結構の公卿、殿上人、「さるにても討手を遣して防がれてこそ」と、勸め申して手分をぞ致されける。山田次郎重忠に、山法師播磨竪者(はりまのりつしや)小鷹(こたか)坊、知性房(ちしやうばうの)丹後を始て、二千餘騎を差添へて、勢多の手へ遣さる。能登守秀康、平九郎判官胤義、少輔〔の〕入道近廣、佐々木彌太郎判官高重、中條下總守盛綱、安藝宗内(そうない)左衞門尉、伊藤左衞門尉、是等を先として一萬餘騎は供御瀨(ぐごのせ)へ向へらる。前中納言有雅卿、甲斐〔の〕宰相中將範義〔の〕朝臣、右衞門佐朝俊(ともとし)、武士には山城〔の〕前司廣綱、子息太郎、右衞門尉、筑後六郎左衞門尉、熊野の田邊〔の〕法印萬法橋、萬劫禪師、奈良法師護(どごの)覺心、圓音(ゑんおん)坊是等を初(はじめ)として一萬餘騎は宇治渡(のわたり)に向はられたり。長瀨〔の〕判官足立〔の〕源左衞門尉は、五百餘騎にて牧島(まきのしま)へ走(は)せ向ふ。一條宰相中將信能、二法印尊長は、一千餘騎にて一口(いもあらひ)へぞ向けられける。坊門大納言忠信は、一千餘騎にて淀(よど)へ向はる。河野(かうのゝ)四郎入道道信、子息太郎は、五百餘騎にて廣瀨にぞ向けられける。

 

[やぶちゃん注:〈承久の乱【二十四】――後鳥羽院、日吉神社へ戦勝祈願するも、官軍の劣勢に戦々恐々、謀叛支持派の公家の勧奨により取り敢えず宇治・勢多の防衛線に軍兵を派遣す〉章題は「宇治川軍(いくさ)敗北 付(つけたり) 土護(とごの)覺心謀略」と読む。以下、本章も分割する。なお、土護覺心については登場箇所で注する。

・「六月九日酉刻」承久三(一二二一)年六月九日午後六時頃。

・「新院」順徳院。

・「冷泉宮」後鳥羽天皇皇子頼仁親王(建仁元(一二〇一)年~文永元(一二六四)年)。母は内大臣坊門信清の娘西の御方。承元四(一二一〇)年に親王宣下を受ける。母の姉妹坊門信子が源実朝の室だった関係から建保七(一二一九)年の実朝横死直後は一時、後継の征夷大将軍候補に擬せられていたが、この承久の乱で父後鳥羽上皇らが配流されると、親王もこれに連座して備前国児島へと流され、同地にて薨去したとされる(ウィキ頼仁親王に拠る)。

・「日吉」滋賀県大津市坂本にある日吉大社。全国に約二千社ある日吉・日枝・山王神社の総本社で、通称、山王権現とも呼ばれる。現在、西本宮と東本宮を中心に四十万平方メートルの境内を持つ。社名の「日吉」は嘗ては「ひえ」と読んだが、第二次世界大戦後は「ひよし」を正式の読みとしている。文献上では「古事記」に「大山咋神亦の名を山末之大主神、此の神は近淡海國の日枝の山に坐し」とあるのが初見で、「日枝の山(ひえのやま)」とは後の比叡山のことを指す。牛尾山(八王子山)山頂に磐座(いわくら)があり、これが本来の信仰地であった。近江京遷都の翌年である天智天皇七(六六八)年に大津京鎮護のため大神神社の神を勧請、以降、元々の神である大山咋神よりも大己貴神の方が上位と見做されるようになり、「大宮」と呼ばれた。平安京遷都によって当社が京の鬼門に当たることから鬼門除け・災難除けの社として崇敬されるようになり、さらに最澄が比叡山上に延暦寺を建立、同密教で鎮護国家を標榜する一方、比叡山の地主神である当社を延暦寺の守護神として崇敬、中国の天台宗本山である天台山国清寺で祀られていた山王元弼真君に倣って山王権現と呼び、延暦寺では山王権現に対する信仰と天台宗の教えを結びつけて山王神道をも説いた(中世の比叡山僧兵が強訴のためにたびたび担ぎ出した御輿はこの日吉大社のもの)。天台宗が全国に広がる過程で日吉社も全国に勧請創建された(以上はウィキ日吉神社」に拠る)。

・「東坂本梶井宮」現在は京都市左京区大原にある名刹三千院(天台宗)の前身。もともとは八世紀は最澄の時代に比叡山に建立された円融房を起源とし、のちに比叡山東麓の坂本(現在の大津市坂本)に移され、たび重なる移転の後、明治四(一八七一)年になって現在地に移ったもの。「三千院」或いは「三千院門跡」という寺名はこの近代の移転以後に使われるようになったもので、それ以前は「円融房」が正式の寺名であったらしく、他に「梶井門跡」「梶井御所」「梶井宮」「梨本門跡」「円徳院」などと呼ばれていた(以上はウィキ三千院」に拠った)。

・「卯刻」午前六時頃。

・「甲斐宰相中將範義朝臣」範茂(のりもち)の誤り。藤原氏。後掲する「承久記」流布本でも誤っているのでそのまま引き写したことが分かる。

・「子息太郎、右衞門尉」「右衞門尉」広綱の子息太郎は「左衞門尉」の誤り。「承久記」参照。

・「牧島」現在の京都府宇治市槇島町。宇治橋の北方下流。

・「淀」現在の宇治川と桂川と木津川が合流して淀川となる辺りと思われる。

・「廣瀨」上記のやや下流の現在、水無瀬神宮のある大阪府三島郡島本町広瀬附近か。

 

 以下、「承久記」(底本の編者番号54・55・56パート)の記載。

 

 去程ニ山田次郎重忠ハ、杭瀨川ノ軍破テ後、都へ歸參テ、事ノ由ヲ申。「海道所所被打落北陸道ノ勢モ都近ク責寄」ト聞へシカバ、一院、何ト思召分クル御事共ナク、六月九日酉刻ニ、一院、新院・冷泉宮引具シ進ラセテ、日吉へ御幸ナル。二位法印尊長ハ、巴ノ大將ノ御供セラレタリケルヲ、組落シテ打バヤト頻ニ目ヲカケ支度セラレケルヲ、子息新中納言ノ「尊長ガ君ニ目ヲ懸進ラセ候ゾ。但シ實氏死候テ後コソ、如何ニモ成セ給候ハメ」トテ、中ニ押隔々々セラレケレバ、サトラレタリト思ヒテ左右ナクモ不ㇾ組。

 東坂本梶井御所へ入セ給。天台座主參ラセ給テ、終夜御物語申サセ給ヒ、「君ヲ守護シ奉候ハンズル大衆ハ、皆、水尾崎・勢多へトテ馳向候ヌ。是ハ如何ニモ惡ク候ナン」ト被ㇾ申ケレバ、「今日ハ猶モ宇治・勢多被ㇾ堅テコソ御覽ゼラレメ」ト、謀叛結構ノ公卿・殿上人・武士共、各進メ申上ル。卯刻ニ都へ還御、四辻宮へ入セ給テ後ハ、四方ノ門ヲ被ㇾ閉、兎角ノ儀モ不ㇾ被ㇾ仰。

 月卿雲客、「サルニテモ打手ヲ向ラルべシ」トテ、宇治・勢多方々へ分チ被ㇾ遣。山田次郎重忠、山法師播磨豎者・小鷹助智性坊・丹後、是等ヲ始トシテ、二千餘騎ヲ相具シテ勢多へ向フ。能登守秀康・平九郎判官胤義・少輔入道近廣・佐々木彌太郎判官高重・中條下總守盛綱・安藝宗内左衞門尉・伊藤左衞門尉、是等ヲ始トシ三萬餘騎、供御瀨へ向フ。佐々木野前中納言有雅卿・甲斐宰相中將範義・右衞門佐朝俊、武士ニハ山城前司廣綱・子息太郎右衞門尉・筑後六郎左衞門尉、熊野法師ニハ田部法印・十萬法橋・萬劫禪師、奈良法師ニ土護覺心・圓音、是等ヲ始トシ三萬餘騎、宇治橋へ相向フ。長瀨判官代・足立源左衞門尉、五百餘騎ニテ牧島へ向フ。一條宰相中將信能・二位法印尊長、一千餘騎ニテ芋洗へ向フ。坊門大納言忠信、一千餘騎ニテ淀へ向ハル。河野四郎入道通信・子息太郎、五百餘騎ニテ廣瀨へトテゾ向ヒケル。

 

・「巴ノ大將」は西園寺公経。尊長にとっては自分の妹の夫であったが、ここは親幕派である西園寺が幕府に通じているとして(事実であった)暗殺を謀ろうとしたと語っているのである。]

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