杉田久女句集 201 秋雨や瞳にこびりつく松葉杖
かな女樣來訪。十月振りの來訪とぞ嬉し。
秋雨や瞳にこびりつく松葉杖
[やぶちゃん注:「かな女」杉田久女とともに大正期を代表する女流俳人長谷川かな女(かなじょ 明治二〇(一八八七)年~昭和四四(一九六九)年)。本名カナ。東京日本橋生。私立松原小学校卒業後、小松原塾で学び、明治三六(一九〇三)年、十六歳で三井家に行儀見習いで入ったが心臓の病気により辞し、明治四二(一九〇九)年二十二歳の時、英語の家庭教師でホトトギスの俳人であった富田諧三(後の長谷川零余子)と結婚、その頃より自身も句作を始め、大正二(一九一三)年には高浜虚子が女性俳人育成のために始めた婦人俳句会『婦人十句集』の幹事役を務めた。大正一〇(一九二一)年に夫零余子が『枯野』」を創刊して主宰となるとそれをよく助けた。昭和三(一九二八)年に零余子が死去し、その直後に新宿柏木の自宅が全焼、埼玉県浦和市(現在のさいたま市)に転居した。また夫の俳誌を『ぬかご』と改題、後に『水明』を創刊して没年まで主宰した(以上はウィキの「長谷川かな女」に拠った)。久女より三つ年上で、大正六(一九一七)年以来の『婦人十句集』の先輩で盟友でもあった(無論、夫零余子とも親しかった)。本句の大正九(一九二〇)年当時は三十三歳。久女にはこの時の、腎臓病による入院時を綴った随筆「病院の秋」がある(末尾に『大正九年十月十八日 病床にて認む』」というクレジットがある)が、冒頭にまさに雨の中を見舞いに来たかな女が描写されており、そこに『御病氣以來、十月ぶりで外出なさったといふかな女樣を、四年ぶりで拜し』(底本の第二巻所収のものを用いたが恣意的に正字化した)とあるから、この「松葉杖」をついているのはかな女である。]
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