基地日本 山之口貘
基地日本
ある国はいかにも
現実的だ
歯舞・色丹を日本に
返してもよいとは云うものの
つかんだその手はなかなか離さないのだ
国後・択捉だってもともと
日本の領土とは知りながらも
返せと云えばたちまちいきり立って
非現実的だと白を切るのだ
ある国はまた
もっと現実的なのだ
奄美大島を返しては来たのだが
要らなくなって返したまでのこと
つかんだままの沖縄については
プライス勧告を仕掛けたりするなどが
現実的ではないとは云えないのだ
踏みにじられた
日本
北に向いたり南に向いたりして
夢をもがいているのだが
吹出物ばかりが現実なのか
あちらにもこちらにも
吹き出す吹出物
舶来の
基地それなのだ
[やぶちゃん注:【2014年7月1日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証した際、ミス・タイプを発見、本文を訂正、注の一部を改めた。】初出は昭和三二(一九五七)年一月号『世界評論』(発行所は東京都中央区銀座西の世界評論社)。
「プライス勧告」以下、こちら「戦後沖縄/米軍民政府統治と自治権拡大闘争」のページより全文を引用する。『1954(昭和29)年3月、米国民政府は軍用地料を10年分一括で支払うことを提示しました。これに対し、地主の意向を受けた立法院は「土地を守る四原則」を決議、島ぐるみの反対運動を展開しました』。『米国民政府はこれらの原則は非現実的であるとして無視し、各地で強制収用を続行しました。沖縄住民の抵抗はますます激しくなり、これを受けた琉球政府は1955(昭和30)年5月、ワシントンに代表団を送り、「土地を守る四原則」を直接米国政府に訴えました。この要請にもとづき、米国下院軍事委員会はプライス議員を団長とする調査団を沖縄に派遣しました』。『ところが、翌年アメリカ議会に報告されたプライス勧告は、沖縄住民の悲願である日本復帰には一言も触れず、沖縄におけるアメリカの統治の経緯と現状をのべ、長期にわたって米軍が沖縄を統治することの利点などがあげられていました。沖縄住民の期待を完全に裏切る内容だったこの勧告に対し、沖縄各地で反対集会が開かれ、1956(昭和31)年夏には「島ぐるみ闘争」に発展していきました』。『こうした沖縄側の抵抗に対し、米国民政府はオフリミッツ(米軍関係者の民間地域への立ち入り禁止)を発動して経済的なダメージをあたえました。その結果、琉球政府は米軍基地として土地を使用することを認め、米国民政府は適正価格での補償を約束して、最終的に決着しました』。]