鼻の一幕 山之口貘
鼻の一幕
かつておまえは見て言った
もしも自分があんなふうに
鼻がかけてしまったら
生きてはいまいとおまえは言った
生きてはいまいとおまえは言ったが
自分の鼻が落ちたとみると
なんとおまえはこう言った
命があれば仕合わせだと言った
命があれは仕合わせだと
おまえは言ったがそれにしても
物のにおいがわかるのか
鼻あるものらがするみたいに
この世を嗅いだり首をかしげたりするのだが
どうやらおまえの出る番だ
いかにも風とまぎらわしげに
おまえは顔に仮面をして
生きながらえた命を抱きすくめながら
鼻ある人みたいに登場したのだが
もののはずみかついその仮面を外して
きつねの色だか
たぬきの色か
鼻の廃墟もあらわな姿をして
敗戦国のにおいを嗅いだ
[やぶちゃん注:【2014年7月22日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証した際、ミス・タイプを発見、本文を訂正、さらに注に追加をした。】初出は昭和二二(一九四七)年新年号『中央公論』。ここまでが戦後の作品である。思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」は本篇では清書原稿を底本としている。そこでは連分けが施されていて読み易い。新全集のそれを以下に全篇示す。
鼻の一幕
かつておまえは見て言った
もしも自分があんなふうに
鼻がかけてしまったら
生きてはいまいとおまえは言った
生きてはいまいとおまえは言ったが
自分の鼻が落ちたとみると
なんとおまえはこう言った
命があれば仕合わせだと言った
命があれは仕合わせだと
おまえは言ったがそれにしても
物のにおいがわかるのか
鼻あるものらがするみたいに
この世を嗅いだり首をかしげたりするのだが
どうやらおまえの出る番だ
いかにも風とまぎらわしげに
おまえは顔に仮面をして
生きながらえた命を抱きすくめながら
鼻ある人みたいに登場したのだが
ものゝはずみかついその仮面を外して
きつねの色だか
たぬきの色か
鼻の廃墟もあらわな姿をして
敗戦国のにおいを嗅いだ
このバクさんの詩は徹頭徹尾、寓話(コメディア・デラルテ)である(と私は読む)点、バクさんの詩の中でも特異な部類に属するものと私は思うのであるが、個人的には非常に好きな詩の一つである。]