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2014/04/20

大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 龍骨 / 水蟲 了

 

龍骨 弘景曰舐之著舌者良雷斅曰五色具者上

白色黄色者中黑色者下。權曰忌鐡器序例虛而

多夢紛紜加龍骨千金方健忘用白龍骨遠志等

分爲末食後酒服方寸匕日三久服聰明益智慧

〇考工記曰天下之大獸五其第五曰鱗者註云

鱗ハ龍蛇之屬然ラハ龍蛇モ獸トモ云ヘシ

[やぶちゃん字注:「健忘」の「健」は(にんべん)ではなく「彳」(ぎょうにんべん)であるが、「健」とした。]

 

〇やぶちゃんの書き下し文

龍骨 弘景曰く、『之を舐めて舌に著く者、良し。』と。雷斅曰く、『五色具はる者、上。白色・黄色の者、中。黑色の者、下。』と。權曰く、『鐡器を忌む。』と。「序例」に『虛にして夢多く紛紜〔(ふんうん)〕たるに龍骨を加ふ。』と。「千金方」に『健忘に白龍骨・遠志等分を用ひ、末と爲して食後、酒にて方寸匕〔(はうすんひ)〕を服し、日に三たび久しく服さば、聰明にして智慧を益す』と。「考工記」に曰く、『天下の大獸、五あり、其の第五を鱗と曰ふ。』とは、註に云く、『鱗は龍蛇の屬、然らば龍蛇も獸とも云べし。』と。

[やぶちゃん注:かなり読み難い。送り仮名を勝手に相当送ってあるので、元画像を必ず参照されたい。なお、何故これが「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上」の最後に配されているのか訝しく思ったが、以下の引用論文や後掲する「本草綱目」の記載から、これら龍骨と称する化石類の出土が河川や湿地、水気を含んだ地層から多く出土することに由来するものらしい。

「龍骨」とは生薬の一種で大型哺乳類の骨の化石がその正体である。但し、現在でも医薬品として「日本薬局方」に掲載されている生薬であって鎮静・収斂効果が認められている。成分は主成分(五〇~八〇%)が炭酸カルシウムで他にリン酸カルシウムなどを含み、柴胡加竜骨牡蛎湯(さいこかりゅうこつぼれいとう)・桂枝加竜骨牡蛎湯などの漢方薬に配合される。竜骨の基原となるのはゾウ・サイ・馬・鹿・猪・牛などの仲間で、ナウマンゾウのように絶滅してしまった動物化石も多く含まれ、そこから伝説の龍の骨という仮説も生まれたものであろう。参照したウィキの「龍骨」には、ここで益軒が語るように、『本物は舐めると舌に吸い付く感じがするという。本物は化石であり、化石は多孔質なため水分を吸着しやすいからである』という科学的な根拠を附記してあり(但し、後掲する木内石亭の言うようにこれは通常、多くの岩石の属性ではある)、以下、『亀甲獣骨文字(甲骨文字)は、竜骨を持病の治療薬として求めた王懿栄が、文字の書かれた骨から発見したといわれる。また、北京原人の化石は竜骨の産地である周口店竜骨山で発見された』とも記す。

 私はかつて寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」の冒頭にある「龍」で、この龍骨と同義の「須羅牟加湞天(スランカステン)」について注を附した。非常に長いものであるが、私としては懐かしいものなので、以下に再録したい。

   *

 「須羅牟加湞天(スランカステン)」は“slangensteen”(オランダ語)で「スランガステン」「スランガステーン」とも記載する。「大辞泉」には「スランガステーン」で『蛇の石の意』とし、『江戸時代にオランダ人が伝えた薬。蛇の頭からとるといわれ、黒くて碁石に似る。はれもののうみを吸い、毒を消す力をもつという。蛇頂石。吸毒石』と載る。以下、今井功「江戸時代の竜骨論争」(PDFファイル)の記載をもとに引用・再構成させて貰った(引用部の句読点の一部を改変し、古文献の引用では恣意的に歴史的仮名遣に直して今回は漢字も正字化し、送り仮名及び読みを振った)。

 さて、今井氏の論文でまず登場するのは平賀源内である。彼は江戸中期、宝暦一〇(一七六〇)年に源通魏というペン・ネームで「竜骨辨」という小冊子を江戸で出版し、そこで古来、竜骨と呼ばれる代物は、龍の骨なんぞではない、龍なんぞという生物はいないんだとブチ上げた。その後、宝暦一一(一七六一)年『の春、長崎出島のオランダ商館長ハイスホールン(M.Hujishom)が外科医バウエル(George Rudolf Bauer)や大通詞吉雄幸左衛門らをひきつれて、江戸へ参府した。江戸本石町の長崎屋は彼らの定宿である。このとき、平賀源内は長崎屋を訪れ讃岐小豆島産の竜骨をバウエルに見せて、これはいわゆるスランガステーンであるか否かとたずねている。スランガステーンとは南蛮渡来の石薬のことである。バウエルはその通りだといい、インド特産のスランガステーンが日本にも産することに驚いている。源内はこの頃から竜骨は象骨であると主張しだしている。バウエルは源内に小豆島産の竜骨を象の化石骨と説明したのではなかろうか』とある。

 即ち、ここで我々は龍骨=スランガステーン=太古の象の骨の化石という命題に対面する訳である。続いて宝暦一二(一七六二)年に源内は湯島で五回目の物産会(これは近世博物学の重要なエポックであった)を催しているが、その出品数は実に二千点を超え、その中の目ぼしいものについては翌年、「物類品隲(ぶつるいひんしつ)」全六巻に纏めており、その中で源内は龍骨について、『龍骨 讚岐小豆島産。上品。海中にあり。漁人、網中に得たりと云ふ。其の骨、甚だ大にして形體、略(ほぼ)具(そなは)る。之を舐(な)むれば、舌に着き、之を用ふれば、其の効驗、本草の主治と合す。是れ、眞物疑ふべきなし。近世漢渡の龍骨あり。是れ一種の石にして眞物にあらず。木化石に近し。』『龍角 小豆島産。長さ六尺餘。徑、尺に近きものあり。上、黑く、中、黑白灰色、相雜(まざ)る。骨よりは、肌、密なり。亦よく舌に着く。』『竜齒 小豆島産。その形象の、齒に似たり。大いさ六~七寸、骨に着きたるものあり。』と記し、先の主張をやや後退させて、『象の化石骨であることはほぼ間違いない』と考えていながら、『源内は慎重に断定をさけている』(以下、引用は特に断らない限り、今井氏の当該論文による。以下、この注は略す)。

 京都の松岡恕庵(寛文八(一六六八)年~延享三(一七四六)年:儒者にして本草学者。門弟に本草学者として大成する小野蘭山や物産会で源内と接触があったと思われる医師戸田旭山がいる。)が、宝暦一二(一七六二)年に版行した「用薬須知」後編巻四の蕃類薬中には、『スランガステン 石也。或人云ふ、蛇頭石也と。白黑の二色あり、よく腫物の膿を吸也。鹽漉石なり。』と記し、明和二(一七六五)年、博物学者田村藍水の弟子であった後藤梨春の「紅毛談」(おらんだばなし)には、『すらんがすてん 蕃人のいはく、此のもの蛇の頭に生る石なりといふ。其の形、碁石のごとく、其の色、白きもあり、黑きもあり、また黑白相間もあり。按ずるに、しぜんのかたちと見えず。よく腫物の膿を吸ふ。其の吸ひたる石を水中へ入るれば、また膿をことごとく吐出せるを、取りあげて干して幾度も用ゐる。近比(ちかごろ)、和方にも、四國より出る龍骨を、このなりにこしらへ用ゐるに、すらんがすていんに効能相かはらずと云へり。蛇頭の石といへるも、龍骨よりもこしらへ成すは、蕃人の聞き傳への誤りにてもあるや。或る人曰く、潮漉石にても此ものを作るといへり。』と載る。今井氏によると、この『四國より出る龍骨を、このなりにこしらへ』たのは、筆者梨春の師であった田村藍水であり、彼はこの実験によりスランガステーンは竜角と同一物あると断定していると記す。そして医学史研究家の岩崎克己氏の言を引いて、『スランガステーン(slazlgensteen)とは蛇の石の意味で原産地はインド、古来インドでは蛇を崇拝し、蛇の頭の中に奇蹟を行なう力のある宝石が蔵されているという信仰があった。蛇の毒に特効のあるといわれる蛇石の名称の由来はこのへんからおこったらしい。解毒剤としてのスランガステーンがヨーロッパの学者の注意をひきはじめたのは、ようやく17世紀の末葉のことだが、これを科学的に考察したものは18世紀以前にはあらわれなかった』とする。以下、『したがってスランガステーンと竜骨とを比較検討した田村藍水や平賀源内の態度は注目されてよいだろう。天明7年(1787)に老中となった松平定信の「阿蘭陀名日語」という手沢本に輸入品目が列記されている。そのなかに薬種その他として

象牙 犀角 牛角 水牛角鹿角 ウニカウル 丹僣 蛇石 ルサラシ オクリカンキリ

などがある。この蛇石はスランガステーンのことである。これが動物の牙や角と区別されているところをみると、石薬として加工されたものであるらしい』と纏めておられる。その後、今井氏は「雲根志」で有名な愛石家木内石亭(享保九(一七二五)年~文化五(一八〇八)年)の文章を引く。寛政六(一七九四)年に彼が著わした「竜骨記」である。そこで石亭は、

『予の龍骨の記は、龍骨か龍骨に非ざるかを爭ふにあらず、六十年來見聞する國々より穿出せる産所・形狀・時日を人の需(もとめ)に應じて記すのみ也。考究は後の君子に讓るのみ』(以上は序)

『本朝に龍骨あること古來知る人なし。近世好事の者、取得て弄とす。首尾全體の物は未だ見ず。頭・齒・角・腕・爪等なり。大小あり。頭、大なるは、口中に人一人を隱すベし。齒、大なるは、木枕二つ合したるばかりにて、上下四十八枚あるいは三十六枚、小なるは、頭は獅子頭ばかり、角、長さ二尺あるいは三尺、色、漆のごとく、堅剛玉の如し。古今物産家の考へ一ならず、あるひは言ふ、龍は靈物なり、生死あるものに非ずと。今、弄石家に弄翫する物入、象骨なりと。また或は龍に非ず象に非ず、石の骨に似たる一種の石□[やぶちゃん字注:今井氏による判読不明の□。]なりとも言ふ。また龍は骨を換へ、蛇は皮を脱すと。この説を取る時は、眞龍の骨なるべしと云ふ人もありて究極しがたし。元文已來[やぶちゃん注:元文年間以来。西暦一七三六年から一七四一年迄の期間。]、諸國の山海に穿出する龍骨少なからず。しかれども其の説疑しきは省き、且つ予が鈍筆の稠る[やぶちゃん字注:「とどこほる」と読ませているか。]を厭ふて見聞する所十が一をここに記すのみ。当時、藥舗にある新渡の龍骨甚だ疑はし。古渡のごとき物、近年舶※[やぶちゃん字注:※=「舟」+「來」。:舶来。]なき故に鹿角を燒きて賣るとも云ふ。本草綱目に曰く、龍骨砥めて舌に着く物は眞、着かざる物は疑物也と。予、此の説はとらず。万物石に化するもの皆悉く、舌に付くなり。また一つの考へあり。海中より上りたるは、外、黑色、内、白きもの、よく舌につく。山より掘り出だすのは、外、黄色、内、白色、光沢ある物、稀にあり。舌に粘らず。燒いて後、舌に付き、藥舗、鹿角に酢を塗つて燒くと云ふ。燒かざれば、舌に付かざる故なり。醫は舌に付物を眞と云ふ。おかしきなり。木化石・介化石の類、すべて初め、白色、後、黑色、年を經て玉と變ずるものなり。初め白色の時、悉く舌につく。また一種、和産の舌着石と云ふ物あり、諸所より出づ。田村氏の紅毛の『すらんがすていん』は即ち龍骨なるべしとて長崎にて譯官吉雄・楷林二氏に質(ただ)す、これ眞物なりと云ふ。また東都にて紅毛人外科『はうる』と云ふ者に質す、眞物本邦に出る事を聞きて大いに驚くといふ。蛮産の黑、多く堅し。和産は軟なり。されどもすべて同じ物なり。予、思ふに、竜骨、象骨にあらざることは角をもつても知るべし』

として、本邦の竜骨の産地を列挙する。今井氏は、『つまり石亭は、首尾全体のそろわない段階で竜骨の正体を明らかにすることはできないが、材質からみればどんな化石も似たような性質をもっており、竜骨もスランガステーンも同じものだとしている。彼があっさりと象骨説を否定したのは、角の有無だけでなく、日本には象がいないという単純な前提があったからではなかろうか』とされ、木内石亭のロマン的な意識の中には、拭い難い竜のイメージが残存していたように思われるとする。以下、本論文の最後の章、「竜骨の正体」となる。

   《引用開始》

 石亭の「竜骨記」が書かれてから17年後の文化8年(1811)に 阿波の小原春造(峒山)という人が「竜骨一家言」をあらわした。彼はそのなかで

「かって竜骨若干を得てこれをよく調べてみると、みな象の化石骨であった.牙の大きなものは長さ三四尺径六七寸で、これをよく見るとその体質紋理すべて象牙と同じである。一般の人が竜骨と誤称するものには最近輸入されたものが多い。これも象の化石骨である」

と述べ、さらに

「象の化石を竜骨というが、象の化石骨だけが竜骨ではない。山類水族をとわず、すべての化石骨をみな竜骨と称している。何の骨かわからなくなった朽骨でも同様である。だから竜骨が化石骨であることはあたりまえである」

 として、竜骨の正体に明快な結論を下した。彼は確信をもって象骨であることを主張している。このころになると、もう竜の実在説も薄れていた。平賀源内の「竜骨辨」が上梓されてから半世紀にして、ようやく竜骨は仮空の竜の骨ではなく、いろいろな動物の化石骨であるということと、日本に象が棲んでいたということが明らかになったわけである。

 こうして、江戸時代の竜骨論争は幕を閉じるが、同じころにイギリスのデービィがスランガステーンの正体――それは材質そのものについてであったが――をつきとめている(J.Davy: An Analysis of the Snakestone, Asiatic Reserch vol. XIII,1820)。その方法はいかにも科学的で、徹底している。

 「スランガステーンを吹管にあてると、石は次第に白く変色し、実質が少し減少する。しかも臭気は発しない。これを稀硝酸中に入れると、ほんの僅かばかりの泡が短時間たち上る。石を粉末にしてアンモニア溶液を加えると、多量の沈澱物を生ずる。この沈澱物を濾過したあとの溶液に稀善蓚酸を加える時、懸濁を生ずる。結果としてスランガステーンは燐酸石灰と少量の炭酸石灰および稀少の炭素との化合物であることが明瞭である。したがって、それはなかば仮焼した骨の合成物と異なるところがない。いな、骨そのものである」と。

   《引用終了》

 スランガステーンを軸にした近世の智のドライヴの面白さが味わえる論文である。是非是非、全文を一読されんことをお薦めして、この「龍骨」の注を終わりとする。

 

 以下、「大和本草」の注に戻る。

 この「大和本草」の「龍骨」の叙述は末尾の「考工記」以下の部分を除いて、概ね李時珍の「本草綱目 鱗之一」の巻首に載る「龍」の部の「龍骨」の項に基づいたものである。以下にその冒頭部を引いておく。

   ※

龍骨

「別錄」曰生晉地川谷、及太山岩水岸土穴中死龍處。采無時。

弘景曰今多出梁、益、巴中。骨欲得脊腦、作白地錦紋、舐之著舌者良。齒小强、猶有齒形。角強而實。皆是龍蛻、非實死也。

剡州・滄州・太原者為上。其骨細紋廣者是雌、骨粗紋狹者是雄。五色具者上、白色、黃色者中、黑色者下。凡經落不淨、及婦人采者、不用。

今並出晉地。生硬者不好、五色具者良。其靑・黃・赤・白・黑、亦應隨色與臟五芝、五石英、五石脂、而「本經」不論及。

春水時至、魚登龍門、蛻骨甚多。人采骨卽此魚之骨乎。又孫光憲「北夢瑣言」云前一物如藍色、紋如亂錦、人莫之識。則龍亦有死者矣。

宗奭曰不一、終是臆度。曾有崖中崩出一副、肢體頭角皆備。不知蛻耶。斃耶。謂文言死龍之骨、若以爲蛻、終是臆

寇諸皆兩疑之。竊謂龍、神豢龍氏醢龍以食。「述異記」云漢張華得龍肉。

   ※

「弘景」六朝時代の医師で科学者でもあった陶弘景(四五六年~五三六年)。

「雷斅」(「斅」は「學」の正字)南北朝の劉宋の薬学家。

「權」「本草綱目」の「龍骨」の「気味」の項に『權曰有小毒。忌魚及鐵器。』とある。「權」は唐代の医家甄權(けんけん)のことであろう。

「「序例」に『虛にして夢多く紛紜〔(ふんうん)〕たるに龍骨を加ふ。』と」「序例」は一巻の書の序文・凡例に当たる章をいう。本書の場合は何も言わなければ通常は「本草綱目」のそれを指す。「本草綱目」の「序例下」の「陳藏器諸虛用藥凡例」の中に『虛而多夢紛紜、加(龍骨。)』と出る。「紛紜」(連声(れんじょう)で「ふんぬん」とも読む)とは物事の入り乱れていること。事がもつれること。また、その乱れ・もめごと・ごたごたをいう語であるから、ここは幻覚幻聴などを伴った神経症や精神病又は広く心神耗弱状態の病態を指しているように思われる。

「千金方」は唐代の道士で医家であった孫思邈(しばく)の著わした中国臨床医学の百科全書ともいうべき「備急千金要方」又は「千金翼方」を指すものであろう。「本草綱目」にも多く引かれており、「龍骨」の「附方」の項にまさに、『食後酒服方寸匕、日三。(「千金」)』とある。

「方寸匕」一辺が一寸の四辺形の計量器で、茶匙に似る(「匕」は匙の意である)。漢方では一方寸匕の容量は凡そ二・七ミリリットル、重量にすると金石類の粉剤ならば約二グラム、草木類の粉剤なら約一グラムに相当する(こちらの漢方医学の度量衡を参照した)。

「考工記」「周礼」の篇名で工芸に就いて述べたもの。前漢時代、「周礼」が人々に知られるようになった際、同書を構成する天・地・春・夏・秋・冬の六官の内の冬官の司空篇がすでに欠けていた。そこで司空の役目に相当する内容を前世の工芸に詳しい者の記録によって補ったものがこの篇とされる。清の江永の「周礼疑義挙例」によれば、この篇のもととなった記録は、その内容や語彙から見て、春秋戦国時代の東周の斉の国人が纏めたものと考えられている(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。]

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