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2014/04/27

チェロ   山之口貘   附注 渕上毛錢の詩と俳句

 チェロ

 

   むかしに戻って会いに来たように渕上君の手

   紙が舞い込んで来た。十年前に僕のきいたと

   ころでは、未来のチェロ弾きだった彼なのだ

   が、詩集の序文を書けと来た。序文の素人は

   面喰ったが、くされ縁だから書けという。

 

十年前の

未来のチェロ弾きよ

チェロは弾かずに

うたったか

きけばずいぶん

ずいぶんながいこと

チェロを忘れて仰臥ているとか

チェロの背中もまたつらかろう

十年前の

あのチェロ弾きよ

チェロは鳴らずに

詩が鳴った

 

[やぶちゃん注:【2014年7月22日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。注を一部改稿・追加した。】思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」は本篇は清書原稿を底本としているが、序詞の「むかしに戻って会いに来たように渕上君の手紙が舞い込んで来た。」にはご覧の通り、読点が打たれており、また「仰臥」には二字に対して「ね」一字のルビを附してある。

 昭和一八(一九四三)年一月詩文学研究会(東京市麻布区霞町)発行の「淵上喬詩集 誕生」の序文が初出で、後に同年二月号『歴程』及び翌一九四四年十月発行の『歴程詩集(2604)』にも再録されてある。

「渕上君」淵上毛錢(大正四(一九一五)年~昭和二五(一九五〇)年)は詩人。以下、私は全く未知の詩人であったので、ネット上の以下のページを参照して以下を記載した。ここに示して御礼申し上げる。参照させて頂いたのは、根本啓子氏のサイト「水燿通信」の「174号 淵上毛錢 紹介」(この方は私が卒論で取り上げた尾崎放哉の評論もものしておられ、無論、先方は私を御存じないのだが、私にはすこぶる馴染み深い方である)、しょーすけ氏のブログ「わらじいっぱいピアニストの音楽三昧」の「淵上毛錢~水俣の偉人②~」、及び淵上毛錢の詩による女声合唱組曲「約束」より 無門のページである。

本名、喬。熊本県水俣市陣内の旧家の次男として生まれた。十三歳で九州学院に入学するが、相当な素行不良で、翌年に青山学院中等部に転校するもやはり学業を怠ってチェロに熱中し、無頼の生活を繰り返すうちに自然退学、この頃の無頼放浪の生活の中、行きつけの喫茶店でバクさんと出逢っている(山之口貘全集年譜では昭和四年の項に『この頃、淵上喬(毛銭)を知る』とある。)。昭和七(一九三二)年十七歳の時、上野にあった音楽学校の夜間部補修科に入学し、チェロを専攻した。翌一九三三年頃に(恐らくは結核性)胸部疾患に罹患、熊本大学附属病院に三ヶ月入院した後、徴兵検査のため水俣に帰るも激痛に襲われ、結核性股関節(一部記載は脊椎とする)カリエスへと診断され、以後は郷里で病臥することとなった。昭和一三(一九三八)年頃からは、殆んどベッドに横になったままの生活を強いられたものの、その間に昭和二〇(一九四五)年には介護を担当していた看護婦と結婚、三人の子をもうけ、「水俣青年文化会議」を組織して機関紙『無門』(『淵上毛錢の詩による女声合唱組曲「約束」より 無門』のページによれば、『一生、名門の亡靈と戰ひ通』すという彼のポリシーの表現とある。引用部の漢字は私のポリシーから正字化した。詩を含めて以下も同じ)を創刊したり、また音楽会・演劇上演・自然科学講座や漱石研究会などの催しの開催や相談役などを務め、三十五年の短い生涯を精力的に生きた。なお、俳号及びペン・ネームとした「毛錢」については、『病氣と戰爭はもうせんとの洒落にはあらずも、全體の飄逸感をとる、芋錢を愛敬してゐる』(しょーすけ氏の「淵上毛錢~水俣の偉人②~」に基づく)と本人が述べているとある。以下、参考にさせて頂いた根本啓子氏のサイト「水燿通信」の「174号 上毛錢 紹介」に載る詩と俳句の幾つかを示す(恣意的に正字化した)。

   *

 

 緣談

 

蛙がわづかに

六月の小徑に

足あとを殘し

 

夜が來て

芋の根つこに

蛙が枕したとき

 

村の

義理と人情が

提灯をとぼして

 

それもさうだが萬事おれにまかせて

嫁に貰ふことにして

そんな話が歩いてゐた

 

濕つた夜に

ふんわりと緣談はまとまり

漬物を嚙み煙管は鳴つた

 

蛙は

その頃 もめん糸の

雨にうたれてゐた

 

   *

 

 椿

 

奥深い山道に

赤い椿がぽてぽて

落ちつくしても

また 咲く

まこと この人間の

循環の理を信じる

術なさ

 

   *

 

 或ル國

 

悲シイコト辛イコトヲ

堆ミ積ネテ

山ヨリモ高ク

心ヲナセバ

風ノ音モ

鳥ノ鳴ク聲モ

マアナントヨクワカルコトヨ

 

   *

 

 死算

 

じつは

大きな聲では云へないが

過去の長さと

未來の長さとは

同じなんだ

死んでごらん

よくわかる。

 

   *

 以下、俳句の中で私の琴線に触れたものを幾つか示す。

   *

 

炎天に千万の蟻彷徨す

 

秋冷の空深々とバツハかな

 

梅干すや情欲的なにほいする

 

[やぶちゃん注:「にほい」は引用元のママ。]

 

さからはず谷のふかみへ落葉かな

 

泣きやまぬ子と黄昏の枯野かな

 

木枯の行方をさぐる夜半かな

 

ひとすじを地球に殘す田螺かな

 

[やぶちゃん注:「すじ」は引用元のママ。]

 

うらみちの小まがり多き邪宗の町

 

ふるさとの雪を語りし娼婦かな

 

我執しかとマントにくるみ風の中

 

貸し借りの片道さへも十萬億土

 

   *

……いや……これ……バクさんの友達らしいわ……

 なお、バクさんには「淵上毛銭とぼく」(昭和二五(一九五〇)年六月号『詩学』)と題する評論がある。後日、電子化したい。最後に正字化したバクさんの「チェロ」を掲げておく(「渕上」の「渕」は迷ったがママとした)。

   *

 

 チェロ

 

   むかしに戻って會いに來たように渕上君の手

   紙が舞い込んで來た。十年前に僕のきいたと

   ころでは、未來のチェロ彈きだった彼なのだ

   が、詩集の序文を書けと來た。序文の素人は

   面喰ったが、くされ緣だから書けという。

 

十年前の

未來のチェロ彈きよ

チェロは彈かずに

うたったか

きけばずいぶん

ずいぶんながいこと

チェロを忘れて仰臥ているとか

チェロの背中もまたつらかろう

十年前の

あのチェロ彈きよ

チェロは鳴らずに

詩が鳴った

 

   *]

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