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2014/04/03

耳嚢 巻之八 狸人を欺に迷ひて死をしらざる事

 狸人を欺に迷ひて死をしらざる事

 

 ひとゝせ箱館奉行勤(つとめ)し羽太(はぶと)安藝守松前へまかるときとや、また歸る時の事にや、彼(かの)家來に小野繁司(しげつぐ)と云(いへ)る者有(あり)しが、供に離れ道中暮れけるまゝ旅宿まで唯一人野合(のあひ)にかゝりしに、向ふより老媼に男壹人付(つき)て來りける。道を歩行(あるきゆく)事、右又左とまよへる如く歩むさま何とも疑はしきに、よくよく見れば先へ一疋の狸たちて兩人を欺き化(ばか)す體(てい)たらくなり。憎き奴が仕業哉(かな)と、腰にさしける鼻ねぢりを引(ひき)拔き、右狸の近所へ近寄(ちかよる)に、狸は一しんに右兩人を欺き引(ひき)て、繁次が立寄(たちよる)に心づかず。繁次は鼻ねぢり引拔(ひきぬき)、唯一打(うち)に打(うち)殺し、かつぎて旅宿に至り、かゝる事にて能(よき)獵なせしと歡び、旅宿の家内傍輩打寄り、狸汁して一盃を樂しみけると、羽太直(じき)に石川某へ語りしと、石川の物語りなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:三つ前の妖狸譚の二発目。

・「欺に」は「あざむくに」と訓じている。

・「ひとゝせ」「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏で、以下に見るようにこの「羽太安藝守」正養なる人物は文化四年に松前氏を陸奥国梁川に移封するとともに奉行所を松前に移して松前奉行と改めたとあことから(次注参照)、一年前というのは得心出来る正しい謂いである。

・「箱館奉行」江戸幕府の遠国奉行の一つで老中支配。『北辺警護のため松前藩の領地であった東蝦夷地(北海道太平洋岸および千島列島)を上知した享和2年(1802年)2月箱館に蝦夷奉行が設置された。同年5月箱館奉行に改称。文化元年(1804年)宇須岸館(別名・河野館または箱館)跡(現在の元町公園)に奉行所を置き、これに伴い蝦夷地総社・函館八幡宮を会所町(現八幡坂の上)に遷座した。文化4年(1807年)和人地及び西蝦夷地(北海道日本海岸とオホーツク海岸および樺太(樺太は文化6年(1809年)北蝦夷地に改称))も上知、箱館奉行を松前奉行と改め松前に置いた。文政4年(1821年)和人地及び全蝦夷地を松前氏に還付し一旦松前奉行を廃した』。『幕末には乙部村以北と木古内村以東の和人地と全蝦夷地(北州)が再度上知され安政3年(1856年)再び箱館に箱館奉行が置かれる。開港地箱館における外国人の応対も担当した』とある。定員二~四名(内一名は江戸詰)で役高は二千石、役料千五百俵、在勤中は手当金七百両が支給された(ここまではウィキの「遠国奉行」の「函館奉行」に拠った。以下は平凡社「世界大百科事典」に拠るもの。ダブる箇所があるが内容のよりよい理解のために敢えて残した)。席次は長崎奉行の次で芙蓉間詰。幕府は,寛政一一(一七九九)年に蝦夷地御用掛を置いて東蝦夷地を仮上知し、享和二年に永久上知として蝦夷地御用掛を蝦夷奉行次いで箱館奉行と改めて蝦夷地の本格的な経営に着手した。文化四年に松前氏を陸奥国梁川に移封するとともに奉行所を松前に移して松前奉行と改めた。最初の奉行は戸川安論(やすとも:「世界大百科事典」は「安諭(やすのぶ」とするが、他の諸資料で訂した)とここに出る羽太正養(はぶとまさやす)であった。

・「羽太安藝守」羽太正養(はぶとまさやす 宝暦二(一七五二)年~文化一一(一八一四)年)。江戸後期の幕臣で旗本五百石。通称は左近・主膳・庄左衛門・安芸守。寛政八(一七九六)年五月に目付となり、同十一年の東蝦夷地幕領化の際、蝦夷地取締御用掛に任じられ、享和二(一八〇二)年に箱館奉行が新設されると戸川安論と共に着任。文化四(一八〇七)年に西蝦夷地も幕領となって箱館奉行は松前奉行に改称された。折しもロシア使節レザーノフが対日通商要求を拒否されたことから択捉島などを襲撃する事件が起き、正養は処理に苦慮した。彼は、ロシアは戦争を好まぬと判断していたが、戦闘によって日本側が敗退した責任を問われて同年十一月に罷免、逼塞を命じられた。この間の事情を記した「休明光記」は基本史料として貴重(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

・「松前」岩波版長谷川氏注に、『渡島半島南西部の日本人居住地域。松前藩があった』とある。松前藩の起源はウィキの「松前藩」によれば、『松前藩の史書『新羅之記録』によると、始祖は室町時代の武田信広(甲斐源氏・若狭武田氏の子孫とされる)である。信広は安東政季より上国守護に任ぜられた蠣崎季繁の後継者となり蠣崎氏を名乗り、現在の渡島半島の南部に地位を築いたという。蠣崎季広の時には、主家安東舜季の主導のもとアイヌの首長である東地のチコモタイン及び西地のハシタインと和睦し(夷狄の商舶往還の法度)』、『蝦夷地支配の基礎を固め、その子である松前慶広の時代に豊臣秀吉に直接臣従することで安東氏の支配を離れ、慶長4年(1599年)に徳川家康に服して蝦夷地に対する支配権を認められた。江戸初期には蝦夷島主として客臣扱いであったが、5代将軍徳川綱吉の頃に交代寄合に列して旗本待遇になる。さらに、享保4年(1719年)より1万石格の柳間詰めの大名とな』ったとある。本話柄の頃(「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏)からそれ以降の松前藩について、同「19世紀」の項には、『享和2年(1802年)5月24日に7年間に及ぶ上知の期間を迎えたが、蝦夷地の返還は行われなかった。文化4年(1807年)2月22日に西蝦夷地も取り上げられ、陸奥国伊達郡梁川に9千石で転封となった。なお、この際に藩主であった松前道広が放蕩を咎められて永蟄居を命じられた(一説には密貿易との関係が原因に挙げられているが、当時の記録には道広が遊女を囲ったとする風聞に関する記事が出ており、放蕩説が有力である)』。『文政4年(1821年)12月7日に、幕府の政策転換により蝦夷地一円の支配を戻され、松前に復帰した。これと同時に松前藩は北方警備の役割を担わされることにもなった。嘉永2年(1849年)に幕府の命令で松前福山城の築城に着手し、安政元年(1854年)10月に完成させた。日米和親条約によって箱館が開港されると、安政2年(1855年)2月22日に乙部村以北、木古内村以東の蝦夷地をふたたび召し上げられ、渡島半島南西部だけを領地とするようになった。代わりに陸奥国梁川と出羽国村山郡東根に合わせて3万石が与えられ、出羽国村山郡尾花沢1万4千石を込高として預かり地になった。また、手当金として年1万8千両が支給された。元治元年(1864年)に松前崇広が老中になると、乙部から熊石まで8ケ村が松前藩に戻された。しかし、手当金700両が削減された。領地の上知や箱館の繁栄のせいで、松前藩の経済状態は、藩士も城下の民も苦しいものになった』とある。

・「小野繁司」ママ。以下は一貫して「小野繁次」であり、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版にはここも「小野繁次」とあるので訳ではそれに統一した。

・「野合」野間(のあい)で野原のこと。

・「まよへる」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「機(はた)へる」で、長谷川氏は『機を織る。へるは経(たていと)を機(はた)織り機に掛けるために整える。左右にじぎざぐに歩くさまをたとえた』とある。

・「鼻ねぢり」鼻捻り。暴れ馬を制するための道具で先端に紐を輪にしてつけた五十センチメートル程の棒で、その輪を馬の鼻に掛けて捩じって制する。岩手県有形民俗資料データベースの岩手大学「博物館学」「博物館実習」のこちらで実物と解説が見られる。所謂、武家の家臣は、こうしたものを携帯するのが当たり前であったということであろうか? その辺りがやや不審ではある。識者の御教授を乞うものである。

・「石川某」不詳。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 狸が人を欺いたところが逆に迷って己れが死んだことさえ知らなんだという事

 

 一年前のことである。

 箱館奉行を勤めて御座った羽太安芸守正養(はぶとあきのかみまさやす)殿が――新たに松前奉行となられて松前へ参る時のことであったか、はたまた、その就任直後に江戸へ帰参なさるる時の事であったか――かのお方の御家来衆のうちに小野繁次と申す者が御座ったと申す。

 所用の御座って供の者に遅れ、大分、主(あるじ)一行より遅参致いたによって先を急いだものの、さて、道中も暮れて参ったれば、ともかくも旅宿まではと、これ、ただ一人、淋しい野っ原を辿って御座ったと申す。

 すると、向うの方より老いたる媼(おうな)に男が一人附いて、これ、来るに出逢って御座ったと申す。

 ところが、その二人の、これ、道を歩き行く感じは――右によろよろ――また――左によろよろ――と、まさに何やらん、不思議に行き惑うように歩むさまなれば、これ、如何にも疑わしゅう感ぜられたによって、よくよく先を見てみれば、これ、二人の先へ――一匹の――狸――これ、立って御座って――あろうことか――まさに両人を欺いて化かす体(てい)が、これ、見てとれたと申す。

 繁次は、

『……これは……如何にも憎き畜生めの仕業じゃ!』

と憤り、やおら、腰に差してご座った鼻ねじりを引き抜くと、かの先を導かんとしておる狸のすぐ近くへと何食わぬ顔にて寄り近づいた……ところが……

――狸はこれ一心にかの媼と男の両人を欺き導いて御座ったによって

この繁次が、すぐ間近にまで立ち寄って御座ったことにも、これ、一向、気づかずに御座ったと申す。

 そこで繁次は、咄嗟に、懐の鼻ねじりを引き抜くと、

「えぃ! やっ! タッ!!」

と、これ、まさにただ、一打ちに打ち殺したと申す。

 さてもそうして、何と! この妖狸の遺骸を担いでは近くの旅宿へと至り、

「――かくかくのことにて――ははは! いや! よき猟(かり)を致いたわ!」

と歓び、旅宿の家内・傍輩、これ、悉く呼び寄せては、

――これ

――狸汁に致いては

――酒なんど

――楽しんだと申す。……

 

……さてもこれ、羽太正養殿御自身が、石川某(なにがし)へと語ってたものと、石川殿の物語りで御座ったよ。

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