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2014/04/12

560000アクセス突破記念 邪戀 火野葦平

[やぶちゃん注:本作は徹頭徹尾、現実の社会のカリカチャアとしてのブラッキーなユーモアとシニシズムに終始するのであるが、読み終えると私は何か、いわく言い難いペーソスをも同時に覚えるのである。

 以下のテクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、昨日2014年4月11日を以って560000アクセスを突破した記念として作成公開した。【2014年4月12日 藪野直史】]

 

 邪戀   火野葦平

 

 多良嶽(たらだけ)のいただきにうすい雲がながれ、その雲は沈んで行く夕陽の光をうけて、橙(だいだい)いろに、茜(あかね)いろに、紫いろに、刻々と變化する。雲だけではなく、みどりの山肌に吹きみだれてゐる櫻、桃、梅などの花までが、光の魔法にかかつたやうに、その色を變へる。うぐひすがどこかで鳴いてゐるのが、このすばらしい色のしらべに伴奏をしてゐるやうだつた。そして、まだ眞紅の太陽が沈みきらないのに、すでに眞の室には大きな月がうす白く、しかしはつきりした溪谷(けいこく)のかげさへ見せて冴えかへつてゐた。この赤い太陽と靑い月とを、東西にながれてゐる松原川が、上流と下流とに二つながら映して、あまり早くないながれをきらめかせてゐる。かういふ美しい春のたそがれのなかにたたずめば、詩人は詩をつくりたくなり、畫家は繪をかきたくなり、歌手なら唄をうたひたくなるにちがひない。

 しかし、さつきから松原川の淵の岩に腰をかけてゐる玉章(たまづさ)は、銅像のやうにうごかず、憂愁にとざきれた顏つきをして、ためいきばかりついてゐるのだつた。彼女はなにかの容易ならぬ苦惱にとらはれて、景色のうつくしさなどはまつたく眼中にはないやうに見えた。詩人であり、畫家であり、歌手でもある才色兼備の玉章が、なにひとつ自分の才能を發揮しようとしないのは、いかに彼女の煩悶がふかいかがわかるのである。

(いつたい、どうしたらいいのかしら?)

 玉章はいくら考へてもなにひとつ名案が浮かんで來ないのだつた。そして、あげくのはてには、

(いつそ、死んでしまひたい)

 と、自棄的な感情にとらはれて、悲しげにまた吐息をつく。しかし、死ぬることとてさう簡單には行かないのである。自分一人が死ぬことによつて一切が圓滿に解決すればよいのだが、死ぬことによつてさらに問題は紛糺(ふんきゆう)するばかりか、父の鞍置坊(くらおきばう)や、一門の久保田派全體の沒落を早めるおそれが多分にあるのだつた。

 いよいよ黄昏(たそがれ)の光にとざされて行く松原川の淵に、玉章は顏をうつしてみた。昔、ドイツのライン川では、巖頭で梳りながら、ローレライの魔女が船人をなやましたといふが、玉章は反對に惱まされてゐるので、その姿は不景氣ですこしも颯爽としてゐるところはなかつた。しかし、美しいことはローレライの魔女にも劣らないかも知れない。綠の髮の中央には典雅な皿があり、形のよい背の甲羅は靑みどろいろに光つていひやうもない風情を示してゐる。なによりもふつくらとした二つの乳房が、ゆたかな胸のうへに、二つの巨大な寶石をちりばめた神聖な祭壇でもあるかのやうに、妖しくゆらめいてゐた。涼しい眼とやさしさうな嘴。かういふ彼女を見て胸をときめかさぬ男はあるまい。しかし、玉章はその自分の魅力といふものが今はうらめしくてならぬのであつた。

 (美しく生まれて來なければよかつた)

 玉章は悔恨にとざされた。だれでも女は美しからんことを望んでゐる。美しく生まれるか醜く生まれるかで、女の一生は左右される。幸福も不幸も女の場合は美醜とぢかにつながつてゐる。玉章とて自分が美女であることがうれしかつた。誇りに思ひ、ときにうぬぼれて倣慢(がうまん)になつたこともある。しかし、それが今このやうな禍(わざはひ)の種になつて來やうとは夢想だにしたことはなかつた。いま彼女は醜女をうらやましくさへ思つてゐるのだつた。

「やあ、こんなところにゐたのか。ずゐぶん探したよ」

 背後で聲がしたが、ふりかへらなかつた。その聲が父で、娘を探してゐた用件も、聞かないでもわかつてゐたからである。

 鞍置坊(くらおきばう)は娘の正面に廻つてきて、

「晩飯の時間になつてもお前が歸つて來んので、お母さんがとても心配してゐるよ。それでおれが探しに來たんぢや。さあ、玉章、いつしよに歸らう」

「御飯はいただきたくありませんわ」

「そんなこというたらいかん。この間から、ほとんど食事をとらんで瘦せるばつかりぢやないか。それ以上瘦せたら、折角の別嬪(べつぴん)が臺なしになる。さ、早く立ちなきい」

「お腹(なか)すきませんの」

「そんなことがあるもんか。飯を食はねばお腹はすくやうにできとるんぢや。お前を見ただけで腹ペコのことはわかつとる。これ以上食べないと病氣になるぞ。今夜はお母さんがお前の大好きな胡瓜もみをたくさん作つとる。茄子も燒いてある。さ、歸らう、歸らう」

 玉章はポロッと涙をおとした。

(愛情さへも、みんな政治の犧牲になつてしまふんだわ)

 父が、それ以上瘦せたら折角の別嬪がなしになる、といつたり、これ以上食べないと病氣になるぞといつたりした言葉は、父としての愛情よりも、いまは大事な玉を傷物にしてはたいへんといふ意味の方が強いことを、玉章は知つてゐた。さう考へれば、心づくしの胡瓜もみも、燒き茄子も、そんなにありがたい氣がしない。

 玉章がうつむいたまま默つてゐるのを見て、父はやさしく娘の肩に手をおいた。

「心配するな。兵子部(ひやうすべ)の奴がどんなにお前を所望しても、絶對にあんな成りあがり者のところに、お前をやりはせん。あいつは敵ぢや。あいつらのために、わしたち久保田派の天下だつたこの松原川が侵略された。その恨みが忘れられやうか。また、簒奪者(さんだつしや)のくせに、のめのめとお前を嫁にくれなどと、どの面(つら)さげていへるのか。盜人(ぬすちと)たけだけしいとは兵子部のことぢや。なう、玉章、心配することは要(い)らん。多良派(たらは)の千歳坊(ちとせばう)とお前とが緣組できたら、兵子部一門をふたたびこの松原川から驅逐(くちく)することができるのぢや。もうしばらくの辛抱、要するにお前の決心ひとつぢやて。いまが親孝行のしどきぢやよ」

 それでも玉章が返事をしないので、鞍置坊はちよつと眼を光らし、威嚴をつくつて、

「玉章、まさか、お前、まだ戰死した川之介(かはのすけ)のことを思うとるのぢやあるまいな?」

「いいえ、お父さん、そんなことはありませんわ」

「そんなら千歳坊との結婚をどうしてそんなに溢る。一門の名譽も、再建も、復讐も、すべてお前ひとりにかかはつとるのぢや。お前の戀人の川之介も、兵子部軍から殺されたのぢやないか。その仇が討ちたくはないのか。仇を討つためには、千歳坊と縁組する以外にはない。一石三鳥ぢやないか」

「お父さん、もうすこし考へさせて下さい」

「考へるところはひとつもないはずぢやがなァ」

 氣の弱い玉章はそれ以上父に抗(さから)ふことはできず、しぶしぶと淵の岩のうへに立ちあがつた。

 

          二

 

 話は、三年ほど前にさかのぼる。

 鹿島(かしま)にあつた春日大明神が奈良に遷座(せんざ)することがきまると、その造營の騷ぎはひとかたではなかつた。責任者である建築奉行、兵部大輔(ひやうぶだいすけ)は頭がうづいた。金がふんだんにあつて、どんな豫算でも立てられるのならよいが、どうもあまり贅澤もできさうにない。また、兵部大輔には別の考へもあつたので、すこぶる頭をなやました。彼は俊敏な役人で、その能力を高く評價きれてゐたが、ヤリ手といふことは強慾で、非情で、策略家だといふ意味も多分にふくんでゐる。彼はこの大造營を機に、少々はうまい汁も吸ひたいといふ腹があるのだが、ない袖はふられぬといふわけで、どこをどうごまかして私腹を肥やしたらよいのか、急には名案が浮かんで來なかつた。名譽心や自尊心もつよいから、すぐに揚げ足をとられるやうなまづいことはやりたくないのである。

 しかし、やはり智惠者であるから、やがて妙策を思ひついた。

(人件費が一番大きい。これを削ることが良策だ)

 山から材木を伐りだし、これを運び、切り組み、神社に構築する。完成までに要する人間の數とその賃銀は莫大だ。

「よし」

 と、奉行は言葉に出してつよくうなづき、會心の笑みを浮かべた。

 兵部大輔は匠道(しやうだう)の祕法知つてゐた。部下に命じて、童子(どうじ)人形を無數に作らせた。別に手をかけることはせず、大ざつばに木材をけづり、人間の形だけをこしらへさせた。大きくつくると材木もたくさん要るので、三尺くらゐの背丈にし、着物の必要もないやうに、背に甲羅に似たものをくつつけさせた。そして、これに加持(かぢ)して、魂をふきんだのである。

 祕法の靈驗はたちまちあらはれて、それまでは無精(むせい)の木彫り人形にすぎなかつた童子たちがクワァと眼をひらき、手足をふつてうごきだしたのである。

 兵部大輔は童子の大群にむかつて演説した。

「これからの諸君の任務は重い。春日大明神造營の神聖なる仕事が、完成するかしないかは、すべて諸君の雙肩にかかつてゐる。われらは大いに諸君に期待してゐる。神のため、人のため、骨身おしまず働いてもらひたい」

「承知いたしました」

 と全員が答へた。

 奉行はそのうちの一人を近くへ寄びよせた。

「お前はなかなか出來がよいやうである。よつて、全體の監督を命じる」

「ありがたうございます」

「名前がなくては不便ぢや。わしがこしらへた童子だから、兵部の間に子の字を入れて兵子部(ひやうすべ)と命名しよう。どうぢや?」

「結構に存じます」

「それでは、兵子部、部署につけ」

 このときから、營々たる童子群の勞役がはじまつた。その勤勉實直なことはおどろくばかりである。しがない木材から魂をあたへられて、生き物に昇格せてもらつた禮心(れいごころ)手つだつて、いきさかも怠けるところがなかつた。それまで使はれてゐた人夫たちはすべて失業してしまつて、新しくあらはれた妙な子供の勞働者たちを、あつけにとられて眺めてゐるばかりだつた。今なら勞働組合でもできてゐて、クビキリ反對の運動がおこり、春日明神の建築現場は赤旗にとりかこまれるところであらうが、そのころは庶民になんの力もなかつた時代だから、ただ代表者が懇願に來ただけである。それも兵部大輔に一蹴されると、失業者たちは泣き寢入りになつた。

 造營はおどろくほどの早きですすんだ。兵部大輔は大よろこびだ。

「感心な者どもぢや」

 と、お世辭をいつておだてあげた。

 愚直な童子たらは褒められると、さらに圖に乘つて馬力をかけた。このため、春日明神は豫定の半も經たぬうちに、りつぱに完成した。無論、莫大な剰餘金(じやうよきん)が兵部大輔のふところにころげこんだことばいふまでもない。奉行のブランはことごとく圖にあたつたのである。

 盛大な竣工式がもよほされた。當日のすばらしいにぎはひのさまは舊記にたくさん書きのこされてゐるが、不思議なことに、どの文獻を渉獵(せふれふ)しても、童子人形のことが書かれてゐない。いふまでもなく、これは兵部大輔の陰謀で、彼は後世にこのことが傳へられることを恐れたのである。そこで、記録係に嚴命をくだしたのみならず、兵子部はじめとする童子群を竣工式に列席せしめなかつた。童子たちはその日を樂しみにし、その日こそ自分たちの勞のむくいられる日として、指折り數へ待つてゐたのに、竣工式はかれらの知らぬ間にすんでしまつた。

「いよいよ、明日は思ふ存分樂しめるぞ」

「苦しい重勞働だつたなあ」

「でも、おれたちの力で、お宮ができたんだ。おれたらが第一の功勞者といつてよい。明日はうんと御馳走してもらへるだらう」

「底ぬけ騷ぎをやらうな」

「めでたい、めでたい」

 こんな風に童子たちが、胸をわくわくさせながら、宿舍になつてゐた三笠山の裏手の森で、翌日を樂しんでゐたその日、竣工式がおこなはれてゐたのであつた。案内の通知狀は來てゐた。しかし、兵部大輔はわざと日附をまちがへさせておいたので、童子たちはまんまと一杯食はされたわけである。

 翌日になつて、これを知つたとき、兵子部をはじめ童子たちは泣いて口惜しがつた。しかし、通知狀の書きあやまりときけば、いかんともする術はなかつた。

 兵部大輔はいかにも氣の毒にたへぬ樣子で、兵子部をなぐさめた。

「とんだ手ちがひができたものぢやなう。通知狀を書いた祐筆奴(ゆうひつめ)、不都合きはまる。しかと叱りおいた。ぢやが、これもわしの罪、忙しさにまぎれて點檢をせなんだのが手落ち、許してくれ」

 祐筆を叱つたどころか、褒美をとらせたことはいふまでもない。

 兵子部は涙を浮かべて、

「昨日、式場にわたくしどもの姿がなかつたことをお氣づきにはならなかつたのですか」

「とんと氣づかなかつた」

「これだけ大勢の者が、しかも當然、參列しなければならぬわたくしどもが、式場にゐないことに氣づかれなかつたといふのは、お恨みに存じます。お氣づきになつて、早速お使ひを下さいましたならば、すぐに參上できましたのに、……」

「なにぶん眼のまはる忙しさでな。帝(みかど)の御きげんを奉仕するだけで、もう一杯一杯だつたもんだから……」

 天皇陛下をもちだされると、童子たちも二の句がつげない。うるさくなつて來ると、すぐに帝をもちだして、とどめをさすやりかたは日本役人の歴史的習慣のやうであつた。

 兵部大輔は金銀蒔繪の箱から、慰熨(のし)をつけた一枚の紙をうやうやしくとりだした。

「兵子部、これを帝からお前たちに賜はつた。ありがたくお受けせよ」

 奉行がかへつた後、それをひらいてみると、春日大明神の造營に、あづかつて功があつたことに對する感謝狀であつた。

 

          三

 

 童子たちはなほ待つてゐた。竣工式には洩れても、遷座祭には招待されるであらうと思つたし、その前になにぶんの褒美をくだされるにちがひないと信じたからである。

 ところが、いつまで經つてもその沙汰がないので、みんなから依賴をうけて、兵子部が兵部大輔のもとに伺候した。行つてみると、以前とは打つてかはつた大邸宅に變つてゐる。ペンペン草の生えてゐた釘貫門(くぎぬきもん)のかはりに、金銀のかざりのついた冠木門(かぶきもん)が新しくつくられてあり、花の咲きみだれたひろい庭には、石燈籠や水鉢やが典雅にしつらはれ、他には優美な遊び舟が浮いてゐた。これを見ただけで、兵部大輔がこんどの造營でどんなに儲けたかがはつきりわかつた。

(これもみんな、おれたらの血と汗のおかげだ)

 兵子部は腸(はらわた)の煮えくりかへる思ひをしながら、それでも面にはあらはさず、庭の芝生に膝をついて、兵部大輔の出て來るのを待つた。やがて、奉行が肩を怒らせて、尊大な樣子で緣側にあらはれた。

「なに用で參つた?」

 うるささうな語調である。

「實は……」

 兵子部はいひよどんだが、暫時(ざんじ)のためらひの後、童子たら全員の希望をつたへた。

 兵部大輔は眉をよせて、

「なに? 褒美? 褒美はとらせたではないか」

「なにもいただきませぬ」

「かしこくも、もつたいなくも、帝の感謝狀を賜はつたのに、なにもいただかぬとは、たはけ者奴」

「あれは一枚の紙片にすぎません」

「無稽なことを申すな。帝の感謝狀以上の褒美がどこにあらうか。そのうへに、まだなにかくれとはあきれはてた慾張りどもぢやわい」

「あれきりでございますか」

「いふまでもないこと」

「それはあんまりでございます。わたくしどもは、長い月日、晝夜の區別もなく、汗をながし、營々として、早くお宮をつくりあげようと……」

「そんな繰り言、きく耳持たぬ。歸れ」

 緣(えん)の板をふみ鳴らして、兵部大輔は奧へ引つこんでしまつた。

 三笠山のふもとにかへつて來た兵子部がこのことを告げると、さすがに暗愚で忍耐づよい童子たらも怒りだした。一樣にブツブツと唇を尖らせて愚痴をいつたり、恨みを述べたり、兵部大輔の冷酷を罵倒したりしたので、だんだん唇が嘴に似て來た。しかし、かれらはどうしたらよいかはわからないのである。こんなに苛(いぢ)められてゐても、木材であった身に入魂してもらつた恩義はわすれかねてゐたので、復讐のため、全員が兵部屋數へ亂入するまでの決心はつかなかつた。はじめて人間へ不信を感じたのだが、傳説の掟はきびしく、あたへられた魂の所在については、つねに上下の區別が歷然として、童子たちは直接兵部大輔を攻擊することもできないのであつた。

 しかし、今度は兵部大輔の方が童子たちをうるさく思ひはじめた。ほつておくとまたなにやかやと面倒なことをいつて來るかもわからない。すでに利用價値はなくなつたのだから、もうゐなくてもよいのである。ゐない方がよいのである。そこで、兵部大輔はふたたび匠道の祕法をおこなつて、童子たちを身邊から遠ざけようと考へた。といつて、いつたん魂をふきこんだ者をもとの木材にかへしてしまふのは、殺人行爲に等しくなつてしまふので、人間としての精を拔いてしまふことにした。

 前とは逆の形式の加持(かぢ)がおこなはれた。匠道の祕法に對しては、童子たちはまつたく抵抗ができない。兵部大輔は童子たちから人間の言葉を封じとつてしまふと、部下に命じて、頭のてつぺんを削(けづ)らせ、ことごとく川のなかに投げすててしまつた。このときから、兵子部をはじめとする童子たちは、河童に生まれかはつたのである。奈良地方ではカハソウと呼ばれた。

 忍耐にも限度がある。もはや復讐の鬼となつた河童たちは、やたらにこのあたりの子供たちを川へ引きずりこみはじめた。腐れると尻子玉(しりこだま)をぬいて食べた。どういふ匠道の祕法からかはわからないが、削られた頭はいつか皿と變つて、そこに水分がなければ、力も拔け、氣分もわるくなるやうになつた。つねに、まんまんと頭の皿に水をたたへて居れば、人間の子供はもちろん、大人でも、牛でも馬でも繁々と川へ引きこめるほどの力が出て來るのだつた。それなのに、その強い力を當面の敵である兵部大輔に用ゐることができなかつた。やはりきびしい傳説の掟による。精をぬかれて、人間から河童に沒落したけれども、魂そのものはなほ殘つてゐたからであつた。そこで、かれらは江戸の仇を長崎でといふ筆法にならつたわけではないが、子供たちを川へ引きこみはじめたのである。そして、

「いつか、憎い兵部大輔の子供を引きこんでやる」

 その念願に燃えてゐた。

 ところが、この行爲は春日大明神の忌諱(きゐ)にふれた。この正義感にあふれる檢事のやうな神樣は、うむをいはさず、兵子部以下カハソウ全員を追放して、九州へ流してしまつた。

 なぜ九州くんだりまでも放逐したかといふと、九州が河童の本場だからである。昔、インド・デカン高原の北方につらなり、ヒマラヤ山脈のふもとにひらけたタマラカン沙漠を通過して、近東方面から河童の大軍が東方へ移住した。水をもとめての放浪であつた。かれらは蒙古から中國を經て、日本にわたり、美しい川の豐富な九州に住みついた。その大頭目が筑後川の九千坊である。そのほか、九州各地の河川にはそれぞれ河童の頭目が住んでゐる。さういふところへ退ひやれば、兵子部一門もあまりのさばれまいと、春日大明神は考へたのであつた。

 

           四

 

 「たいへんなことになりましたな」

 と、部下たちは西への旅の途中で、頭目兵子部の顏を見てはためいきをついた。奈良から九州までは途方もなく遠かつたので、カハソウたちはへとへとに疲れ、流謫(りうたく)の傷心と相まつて、たれも元氣がなかつた。早くどこの川でも沼でもよいから、休みたかつた。普通なら馬の足跡に雨水がたまつたところにさへ、三千匹も入ることができる河童のことであるから、せまい沼でも池でもよかつたのだ。しかし數萬をかぞへる大部隊では、相當にひろい場所を必要とした。ことに、春日大明神の命によつて、關門海峽から東には絶對に棲息することを禁じられてゐたので、重い身體をひきずるやうにして、西へ西へと旅しなければ仕方がなかつた。

 部下たちが愚痴をこぼすたび、

「元氣を出せよ。九州までたどりつけば、きつと住み心地のよい川か湖かがあるから」

 兵子部隊長は部下をはげまし、大聲で士氣を鼓舞(こぶ)するのがつねだつたが、實はかれ自身が失意にうちのめされてゐて、ともすると、勇氣がにぶり勝ちになるのだつた。

 やつと關門海峽までたどりつくと、斥候(せきこう)のため先發した數匹の河童が、一隊の到着を待ちかまへてゐた。

 兵子部は息をはずませてきいた。

「どうぢや、新しいよい棲家(すみか)が見つかつたか?」

 斥候兵は本隊に劣らぬほどの疲れはてた顏つきで、

「よいところはたくさんございます」

「それはありがたい」

 兵子部のをどりあがるやうな語調とともに、大勢の部下たちもよろこびでどよめいた。

「しかし……」と、斥候は眉をよせて、聲をくもらせた。眼にふかい愁ひがただよつてゐる。

「しかし、どうしたのぢや。早く、その新しい棲家のあり場所を報告しろ」

「住み心地のよいひろい川はたくさんあります。けれども空家はありません。どこの川にも先住者が居りまして、早くから自領と定め、眷屬(げんぞく)をもつて堅めてゐます。特に筑後川は大頭目九千坊ががんばつて居りまして寄りつくこともできません。ここにいちいち報告は申しあげませんが、どこの川にもひとかどの頭目が繩張りをつくつてゐまして、他所者の入る餘地などまつたくありません。まして、三匹や五匹ならともかく、三萬ものわれわれ眷屬が棲める川など、一つもないといつてよろしいでせう。方々の頭目に逢つて、わけを話して賴んでみましたが、どこでも締めだしをくらひました」

 この報告に、たつた先まで歡喜でどよめいた河童たちは、いちどきにしなびはてた。

 兵子部は焦躁の面持で、なほも斥候兵にたたみかけた。

「空(あ)いた川は一つもないといふのだな?」

「はい、一つもありません」

「どこの川でも、絶對にわれわれを入れないといふのだな?」

「はい、さやうです」

「そんなら、どこかの川で、弱さうな一族はないか」

「弱さうな一族?」

 鸚鵡(あうむ)がへしした斥候河童は、ちよつと首をひねつて考へこんだ。あまり經たぬうちに、膝をたたいた。

「ございます、ございます」

「どこぢや?」

「佐賀の松原川に、鞍置坊(くらおきばう)といふ老頭目が居ります。これはもはや中風(ちゆうぶ)の出たヨボヨボ隊長でありまして、その部下の數も多くはなく、弱兵ばかりのやうに見うけました」

「よし」と、兵子部はうなつた。「その榎原川を攻めおとすのぢや。それ以外の方法はない。人口問題を解決するために、人間どもが戰爭ばかりしてゐる意味がいまわかつた。戰つて奪ふの一手ぢや」

「侵略戰爭をおこすのですか」

「生きるためには仕方がない。……ものども、勇氣を出せ。ふるひたて。葦(あし)の劍をとれ。これより佐賀の松原川にむかつて進軍する。われらの生命と生活とをかけて、乾坤一擲(けんこんいつてき)の大勝負をいどむのぢや。敵がいかに強くとも、量をもつて押しよせれば勝利はこつちのもの、必勝の信念をもつてたたかへ。住むに家なくして山野にのたれ死にするか、新しい快適の棲家を得るか、二つに一つぢや。兵子部一門浮沈のわかれ目、ぬかるでないぞ」

「おおうう」

 と、部下たちも雄(を)たけぴの聲をあげた。勇ましい鬨(とき)の聲といふよりも、やけくその喚(わめ)きといつた方がよかつた。絶望は勇氣の根源となる。途中少からぬ落伍者を出して、ほとんど虛無的となりつつあつた河童の一團は、わづかに見つけた一つの希望にむかつて、猛然と立ちあがつた。

 やがて、佐賀の松原川で合戰がはじまつた。おどろいた鞍置坊(くらおきばう)一門は侵略者をむかへて、壯烈にたたかつた。けれども、戰爭はあつけなく終つた。久保田派のうちでも、鞍置坊の部下には豪勇の者が多かつたのだが、なにしろ數が段ちがひであつた。人海作戰(じんかいさくせん)にひつかかつたやうなものである。戰死者は兵子部軍の方が段ちがひに多かつたのに、全體の比率から行くと、鞍置坊方は全滅に近い損害をうけることになつて、遂に涙をのんで白旗をかかげた。

 兵子部は滿足した。多くの部下をうしなつたけれども、松原川を占領することができて、とにかく安住の地を得たのである。その會心の氣持から、全面的降伏をした鞍置坊軍に寛大な措置(そち)をとつた。松原川の一角で、多良嶽(たらだけ)が正面に見える鈴ヶ淵を敗北者にあたへたのである。

 しかし、このとき、勝利者たる兵子部に、思ひもかけぬ一つの大きな惱みが生じたのであつた。戀である。

 

          五

 

 生まれてはじめて味はふ感情であつた。兵子部は胸中をさわがせ、全身の血をたぎらせる奇怪な衝動に、われながら當惑した。春日大明神造營のときにも、松原川攻擊のときにも、嘗て感じたことのなかつた不思議なこころのうごき。

(一體、これはなんとしたことか。おれは病氣になつたのではないか)

 自分で自分がわからない。ただひとつ、わかつてゐるのは、明けても暮れても、玉章(たまづさ)の面影が忘れられないことだけであつた。

 (すばらしい女だ)

 苦しい熱いためいきをついて、兵子部は合戰の日以來のことを思ひだす。

 松原川の亂戰のなかでは、武勇傳もあれば、滑稽な曲藝のやうな組み打ちもあり、戰鬪がこはくて逃げまはる卑怯者の醜態もあつた。水中でたたかひ、土堤でたたかひ、岩や木のうへでたたかひ、凄絶をきはめてゐた。兵子部軍は葦、鞍置坊軍は芒(すすき)をひらめかして、そのかちあふところから火花を散らしてゐたが、兩軍のなかで、どららにもひときは目だつた荒武者が一人づつゐた。攻擊軍の方では隊長の兵子部である。もともと神社造營のための大工として、木材人形に入魂させられただけなので、武術の心得などはなかつたのだが、絶望から來る必死の勇と、隊長としての責任觀念とから、自分でも想像してゐなかつた不思議な力がどこからか湧きでて、兵子部の武者ぶりはめざましかつた。部下たちもこれに鼓舞されて、よくたたかつた。

「卑怯者、逃げるな」

 兵子部は一匹の敵を岩のうへに追跡した。その河童はさつきからおろおろしてゐて、滿足に芒の劍をふりかざしたこともない。しかし、敵軍のうちでは責任ある階級の者らしく、他の河童にしきりに突擊命令をくだしてゐた。けれども、自分は突擊するどころか、危險の少い場所をえらんでは退却ばかりしてゐた。

 兵子部は岩のうへで、彼をおさへつけ、葦の劍をうちおろさうとした。その腕をなに者かにつかまれた。兵子部はふりかへつた。下敷きになつて、

「助けてくれ。殺さんでくれ」

 と泣き聲で喚きつづけてゐた弱蟲河童は、その拍子にまた逃げてしまつた。

「わたくしがお相手になりませう」

見ると、女河童であつた。兵子部はぎよつとした。自分の部隊にも女河童はたくさんゐるが、非戰鬪員であつて戰鬪には參加してゐない。敵もさうかと思つてゐた。ところが自分に挑戰してきたのは女であつた。のみならず、その美しさはいひやうがない。女は笑つてゐるときよりも怒つてゐるときの方に、妖しい美しさがにじみでるものだが、侵略者へのはげしい怒りがその女河童の眼に燐のやうに燃え、兵子部は威壓された。

 思はず、ぼんやりとなつた瞬間、すきまじい勢で、芒の太刀をうちかけられた。あやふく受けることができたが、足をすべらせて岩から川に落ちた。すぐ立ちなほつて女とたたかつたけれども、ともするとたじたじとさせられた。それは兵子部の心に、

(敵でも、こんな美しい女を斬つてはならぬ)

 といふ側隱(そくいん)の情のわいたことが、太刀先をにぶらせたものといへやう。

 亂戰のうちに、いつか女河童を見うしなつたが、それからは兵子部は敵とたたかひながら、女の姿を求める氣特になつてゐた。見つけたときには、自分の部下がさんざんにやられてゐた。

 兵子部は部下を助けようとはせず、女河童の武者ぶりに見とれた。

 この女河童が鞍置坊の娘玉章(たまづさ)であつた。岩のうへに追ひつめた兵子部がもう一擊でたふさうとした臆病河童は、彼女の戀人の川之介であつた。川之介は玉章には救はれたが、たうとう、攻擊軍の名もなき雜兵に殺されてしまつた。そして、戰が經つたのである。

(すばらしい女だ。あんな女を妻にしたい)

 休戰條約が締結され、鞍置坊一門が鈴ヶ淵に蟄居(ちつきよ)してから、兵子部はもう矢も楯もたまらず、さう思ふやうになつてゐた。そこで、正式に、鞍置坊を通じて求婚したが、

「しばらく返事を待つてもらひたい」

 といふ返事だつた。

 兵子部は忍耐した。實は、松原川を侵略占領したことについては、内心多少は良心のうづきを感じてゐたので、このうへ、さらに戰勝の餘波をかつて、強壓的に女をさしだせとまではいへなかつた。また、そのため第二次大戰がおこるとすれば、兵子部の名聲も地に落ちることになる。松原川攻擊のときにはやむにやまれぬ必要からといふ理由があつたが、女に惚れたからといふのでは大義名分が立たぬ。兵子部は苦しんだ。彼は日夜、思ひなやみ、馬鹿のひとつ覺えのやうに、心中で同じ言葉ばかりをくりかへした。

(一體、どうしたらよいか?)

 

          六

 

(一體、どうしたらいいのかしら?)

 この憂悶は玉章の方も同樣であつた。父鞍置坊からは、多良(たら)派の千歳坊と緣組するやうにくどかれてゐる。千歳坊は五千近い部下を擁(よう)してゐる頭目であるから、もし二人が結婚すれば、兵子部へ對抗する一大勢力をきづきあげることができる。兵子部一門は戰爭のときに大半をうしなひ、いまは六千匹くらゐしか殘つてゐない。鞍置坊はかならず復讐と失地同復とができると信じてゐるので、なにがなんでも玉章と千歳坊とを夫婦にしたがつた。彼にとつては無力な川之介が戰死したことがもつけの幸ですらあつた。

 ところが、娘がなかなか、うんといはないのである。考へさせてくれといふ。

「考へるところなんて、なにもないぢやないか」

 鞍置坊ははがゆくて仕方がない。まつたく、どこから考へたつて、考へる餘地があらうとは思へなかつた。

 しかし、封建性の權化(ごんげ)である鞍置坊には、大きな盲點があつた。女心である。娘が不思議な心情にあることなど、父には想像もつかぬことだつた。不思議な心情――憎い敵であるはずの兵子部に對する慕情である。このごろの玉章の心のなかで、兵子部の姿はしだいに濃く大きな影となりつつあつた。

(なんといふ男らしい人であらう)

 理窟でも、常識でも、判斷のできない奇怪な感情、理性をもつておさへてもわきあがつて來る息苦しい情熱――玉章はもはや死ぬほどの煩惱(ぼんなう)のなかにあつた。美男子の川之介を戀人として格別不滿を持たずにゐたのだが、合戰がはじまつたとき、その臆病さにあきれはてた。たれでも土壇場(どたんば)になるとその正健をあらはす。そのかとの眞の價値はぎりぎりの場に立つたときしかわからない。日ごろ立派な口ばかりきいてゐたのに、川之介の行動は卑怯といふより、嘔吐(おうと)の出さうな醜態であつた。死んでよかつたとは思はないけれども、今は戀人の戰死をそんなに惜しむ氣持もない。いや、玉章の心の奧の奥には、だらしない川之介の死をよろこんでゐる殘忍な氣持がひそんでゐなかつたとはいへない。彼女の胸のなかには、いまや、たつた一人の男性、敵將兵子部がゐるだけであつた。

「玉章、お前、まだ考へとるのか。多良派の方からは催促が來とるぞ。早い方がええんぢや。兵子部の成りあがり者奴等が、この松原川の地理に通ぜぬうちに、復讐戰をやらねばならぬ。この間は不意打ちをかけられたので、敗けをとつたが、おもむろに作戰を練つてやれば、こちらに分がある。な、玉章、早く決心してくれ」

「あたしはもう戰爭はいやでございます」

「だれも戰爭の好きな者はない。ぢやが、相手が相手なら仕方はない」

「そんなことおつしやつて、今はもう平和ではありませんか。この平和に強ひて波風を立てなくてもよろしいではありませんの」

「たはけ奴、お前はこのままでええといふのか。この屈辱に甘んじてゐるといふのか。傳統ある松原川を他所者(よそもの)に奪はれながら、泣き寢入りしろといふのか。おれは絶對にいやぢや。あくまでも兵子部族をこの松原川から放逐してしまふまで戈(ほこ)はおさめぬ」

「でも、兵子部軍にはとても勝ち目がないわ」

「だから、多良派と組まうとしとるのぢやないか。それくらゐのことがわからんか。なんでもええ、一日も早く、千歳坊と祝言してくれ」

「お父さん、もうすこし、もうちよつとでいいから、考へさせて……」

「一體なにを考へるのか。おれにはわからん。その考へといふのをいうてみれ」

「いいえ、それは……」

「よろしい、あと一日待つ。明後日、はつきり返事をするのだぞ」

 

          七

 

 玉章の考へてゐることが、兵子部に傳はつたならば、悲劇はおこらなかつたかも知れないが、まつたく傳はらなかつたために、意外に早く破局が來た。

 玉章を戀ひこがれながら、どうしたらよいかわからなかつた兵子部は、有明海の龍神にうかがひを立てた。ところがこれが途方もない神樣で、すでに盲目同樣になつてゐた兵子部へ、おだやかでない託宣をたれたのである。龍神はおごそかにいつた。

「兵子部よ、お前の望みがかなふ方法がたつた一つある。それがお前にできさへすれば、玉章はお前のものになる」

「あの女と夫婦になれるのでしたら、どんなことでもいたします」

「よし、では、本日以後、千人の子供を自分に獻じよ」

 兵子部はよく意味が飮みこめなかつたので、

「と申しますと?……」

「お前たちは子供を川に引きずりこんで、尻子玉をぬくのが專門ではないか。おれは尻子玉は要らぬから、お前たらがそれを拔いたあとの屍骸を、おれのところに獻(ささ)げればよい。千人目がおれの食膳にのばつたとき、玉章はまちがひなく、お前の女房になるであらう。どうぢや?」

「やります」

 兵子部は斷乎として答へた。

 その日から、松原川にはひんぴんとして子供が引きこまれはじめた。嘗て、冷酷な兵部大輔に復讐するため、奈良の川に子供を引き入れて、春日大明神に追放されたことなど、兵子部はきれいに忘れてゐるやうだつた。玉章を得たい一心で、眼も心もくらんでゐた。彼は部下にむかつて、一日も早く千人の數にとどくよう、子供を引きこめと命令をくだしたが、そのとき眼の色は狂氣に近い光を放つてゐた。奈良のときは全員に復讐の氣持があり、關門海峽でも全員に侵略の意志があつたので、兵子部の命令にも颯爽としたところがあつたが、いまは、單に自分一個の思ひをとげようといふエゴイズムからの命令なので、それには暴君の專制政治のにほひがしてゐた。

「たくさんの子供を早く引きこんだ者に、褒美をとらせる」

 そんなことをいひだすやうになつて、兵子部はもはや一個のギャングの親分の樣相を呈して來た。子分たちにまかせず、自分も率先して子供を引きこむ仕事に沒頭した。

 松原川が危險な川となるにおよんで、人心は騷然となつて來た。子供はもちろん、子を持つ親はおびへ、領主鍋島日峰はこの河童の害をのぞくために、みづから陣頭指揮をとつて乘りだして來た。

 松原川の川上に淀姫神社がある。鍋島の殿樣は家來とともにそこへ參拜し、神前にぬかづいてカハソウ征伐の悲願を立てた。悲願の五ツ巴である。鞍置坊の復讐の念も悲願であれば、有明海の龍神の千人の子供を食べようといふ希望も一種の悲願といへた。それについて語るとまた別の長い物語になつてしまふが、龍神は天草島にゐる鬼神と、つねに海と陸とで葛藤(かつとう)をつづけて居り、あるとき約束しあつた繩張り確保のために、どうしても千人の子供を必要としてゐるのであつた。これらの悲願も大きなものであらうが、兵子部の悲願がさらに輪をかけて狂熱的であることはいふまでもあるまい。

(どんなことがあつたつて、玉章をおれのものにするんだ)

 兵子部はもはや阿修羅(あしゆら)に近かつた。

「どうもこのごろ、大將は變だぞ。奈良のときとはまるでちがふぢやないか」

「あんまり子供を引きこんでると、また奈良の二の舞を演じるのが心配だ。殿樣まで出て來て、カハソウ征伐の祈願をはじめたから、淀姫神からまた追放されるんぢやないか」

「今度追つぱらはれたら、もう行くところはない」

「大將に忠告したらどうか」

「だめだめ、おれが何度も忠告したんだ。だが、絶對にききはしない。それどころか、やめさせようとすると――なにもいはんでおれを助けてくれ。賴む。……なんていつて、涙をながすんだよ。どうもをかしい」

「氣がちがつてるんぢやないか」

「さうとも思はれんが、……」

 河童たちは集まると、かならずかういふ評定をするのであつたが、頭目兵子部の行動の意味はまつたく理解できなかつた。しかし、不可解ではあつても、兵子部の行動には一種をかしがたい嚴肅なものがあつて、部下たちを彼と同樣の子供引きこみ作業に沒頭させる力をもつてゐた。奈良以來、河童たちは兵子部に心服してゐる。松原川に安住の地を得させてくれた恩義も感じてゐるし、部下のなかには兵子部を英雄として、額に肖像をかかげ、共産黨のやうに、いつでもかつぎまはりたいと考へてゐる者もあるほどだつた。なにかわからないが、とにかく部下たちは兵子部に協力し、裏切者は出なかつた。無論、子供を引きこめば、おいしい尻子玉にありつけるといふ物質慾も手つだつてゐたわけであらう。かくして、松原川における被害は續出した。

 五ツ目の悲願は玉章である。しかし、彼女の兵子部に對する慕情は、まつたく表にあらはれないものであつたので、たれ一人知つてゐる者がなかつた。けれども、玉章は遂にかなしい決意をしなくてはならなくなつた。愛する兵子部が突如として、子供を松原川に引きこむといふ殘忍無類の行動をはじめたからである。しかも、それが自分を得るための行動と知つて茫然となつた。有明海の龍神に仕へてゐる魚で、彼女と親しい者が或るときそのことを知らせてくれた。玉章は卒倒せんばかりにおどろき、そのとき、自分がなにをなすべきかを知つた。

(あたしさへゐなければいいんだわ)

 或る夜、玉章は胡瓜の花に靑苔を塗つた毒藥をあふいで自殺した。

 鞍置坊夫婦は愕然とした。しかし、かなしみよりも政治の方が大切だつたので、玉章の死を發表せず、なほ生きてゐることに裝つた。娘を餌(ゑさ)に、多良派の千歳坊から、軍資金をとるだけとらうといふ魂膽であつたし、兵子部もいつそう荒れさせて、淀姫神から追放させるか、鍋島の手に捕へさせるか、どららかにしようとふ下心もあつたのである。

 戀人の死んだことなど知らない兵子部は、いよい自分の目的達成に邁進(まいしん)した。しかし、あせりはやは失敗のもととなる。近ごろは松原川に近づく子供がゐなくなつてゐたために、すこし遠くまで出かけて行くやうになつてゐたが、子供の守りは嚴重だつた。このため、途に兵子部は鍋島藩の豪傑、渡邊馬之丞にとらへられてしまつた。馬之丞は子供人形をつくり、これを囮(をとり)にしたのであつた。兵子部は周圍が全部岩でできてゐるせまい牢屋に入れられた。大將がとらへられたので、兵子部一門も逼塞(ひつそく)してしまつた。有明海の龍神は地團太ふんで、催促をしたり、請求したりしたが、カハソウたちは龍神の命令はきかなかつた。

 鍋島の殿樣はときの名工、記田(きだ)の萬匠(まんしやう)が、木で河童を彫らせ、淀姫神社に奉納した。松原川の河童の害はやんだ。殿樣は名君とたたへられ、尊敬された。こんなこととは知らず、愛する頭目をうしなつた河童たちは、もう生きてゐる氣もなくなつたやうに、川底に沈んで泣いてゐた。

 松原川に異變がおこつた。淸いながれであつたのに、急にどろどろした靑苔いろになつて、たへがたい臭氣をはなつた。すべての魚は死滅して、川面に白い腹を見せて浮きあがり、ながれとともに有明海に出て行つた。このにほひをかいだ者は頭痛がして病氣になり、うつかり水にぬれた者はそこだけ腐つて膿(うみ)が出た。しかし、これも數日のことで、また松原川はもとの淸流にかへつた。悲しみのあまり死んで溶けてしまつ兵子部一門の河童たちが、川の水をにごしたのであるから、ひとりもゐなくなつてしまへば、また淸水(せいすゐ)にかへる道理であつた。

 殿樣の命をうけて、渡邊馬之丞は兵子部を斬首(ざんしゆ)するため、牢に出かけて行つた。岩の戸をひらいてみると、河童はゐなかつた。どろりとした青苔やうの液體が、牢のなかにたまつてゐるだけであつた。馬之丞は鼻をつまんだ。形容することのできない異臭であつた。そのとき以來、豪傑馬之丞は神經に異常をきたし、白痴となつて一生を終つたといふことである。

 時やよしとばかりに、鞍置坊は娘玉章の死を發表した。むろん自殺とはいはなかつた。病名は腦細胞血管の破裂であつた。

 

■やぶちゃん注

 

・「多良岳」は長崎県と佐賀県の県境にある多良山地の中央に位置する山で標高は九百九十六メートル、周辺は多良岳県立自然公園に制定されており、山頂には太良岳神社がある。多良岳北東の多良川と糸岐川に挟まれた裾野の上部に位置する森林は現在、「多良岳水源の森」として水源の森百選に指定されている(以上はウィキの「多良岳」に拠った)。

 

・「松原川」嘉瀬川から佐賀県佐賀市大和町大字尼寺で分かれ、佐賀市中心部を流れる多布施川(たふせがわ)の分流。多布施川は約四百年前の江戸時代に「治水の神様」と呼ばれた成富兵庫茂安が嘉瀬川から分岐となるところに石井樋(いしいび)を築き、嘉瀬川の流れを調整して佐賀平野の水害防止する一方、佐賀の城下町の農業用水、生活用水を送る施設とした人工河川である(多布施川の部分はウィキの「多布施川」に拠った)から、この松原川自体もそれ以後に形成された二次河川である。しかも本作の舞台となっているように実際にこの松原川には河童伝承が残っている。佐賀市松原の佐嘉(さが)神社(すぐ横をこの松原川が流れる)には松原河童社があり、鉢巻をした兵主部(ひょうすべ:河童に似た妖怪。後注参照)像が祀られてある。岩代まどか・林田爽氏の妖怪愛好サイト「さくらがおか」内の「佐賀県 松原河童社 兵主部(ひょうすべ)像」に写真入りで解説があり、そこに載る当社の解説文によれば、

   *

   河童の木像「兵主部」(ひょうすべ)

 河童にまつわる話は各地に伝わっています。河川やクリークの多い佐賀県にも様々な話があります。この木像はかつて松原川に棲でいた河童の兵主部と云われています。

 昔、春日の大神が奈良に遷座する折、河川の工事を命じられた奉行、兵部大輔は工事の作業員が不足していた為、多くの人形にまじないをかけ働かせました。工事が終わったあと、用済みとなった彼等を人形に戻し川に投げ捨ててしまいます。これを憎んだ人形は河童に姿を変え、人間に復讐を始めます。兵主部の一派は松原川に棲み、子供達を川に引きずり込んで命を奪いました。時の城主鍋島直茂はこの河童の横暴を抑えるために、川上にある淀姫神社に願を掛けます。そして、犠牲者があと一人で千人になろうとした時、兵主部は捕らえられます。捕らえられた兵主部は、「これからは子供達を護りますからどうか元の人形に戻してください。」と頼み、以来この木像となって子供達を水難より護り続けているということです。

 全国的に鉢巻をした河童は大変珍しいものですが、この姿は河川工事を請け負った人足の姿であり、兵主部は奉行の兵部に仕えたことで、主は兵部ということであろうとされています。

   *

とある。火野はこの伝承をきっかけとして本作を創作したものと思われる。

 

・「玉章」玉梓とも書く。ここでは美女河童の名であるが、元来は「たまあずさ」の転で、原義は古代に於いて使者が手紙を梓(あずさ)の木に結びつけて持参したことから、手紙・便りの美称で、古来、響きの良さからか、女性名によく用いられた。

 

・「鞍置坊」という名は河童駒引伝説との関連を匂わせる。

 

・「久保田派」河童の一党の名であるが、現在の佐賀市松原の佐嘉神社の五・五キロメートル西方にある嘉瀬川西岸に久保田という地名を見出せるが、ここに由来するか?

 

・「茄子」次注の下線部を参照。

 

・「兵主部」ここでは作品内時間に於いて松原川を支配している河童様妖怪(但し、本文ではそのルーツ木材由来で本来の未確認動物である河童とは全く違うものではある)に人間が与えた固有の名前として用いられているが、これはウィキの「ヒョウスベ」によれば以下のようにある(下線やぶちゃん)。『ひょうすべは、日本の妖怪の一種。佐賀県や宮崎県をはじめとする九州地方に伝承されて』おり、『河童の仲間と言われ、佐賀県では河童やガワッパ、長崎県ではガアタロの別名ともされるが』、『河童よりも古くから伝わっているとも言われる』。『元の起源は古代中国の水神、武神である兵主神であり、日本へは秦氏ら帰化人と共に伝わったとされる』。『元々武神ではあるが日本では食料の神として信仰され、現在でも滋賀県野洲市、兵庫県丹波市黒井などの土地で兵主神社に祀られている』。『名称の由来は後述の「兵部大輔」のほかにも諸説あり、彼岸の時期に渓流沿いを行き来しながら「ヒョウヒョウ」と鳴いたことから名がついたとも言われる』。佐賀県武雄市では、嘉禎三(一二三七)年、武将橘公業(きんなり:後注参照)が『伊予国(現・愛媛県)からこの地に移り、潮見神社の背後の山頂に城を築いたが、その際に橘氏の眷属であった兵主部(ひょうすべ)も共に潮見川へ移住したといわれ、そのために現在でも潮見神社に祀られる祭神・渋谷氏の眷属は兵主部とされている』。『また、かつて春日神社の建築時には、当時の内匠工が人形に秘法で命を与えて神社建築の労働力としたが、神社完成後に不要となった人形を川に捨てたところ、人形が河童に化けて人々に害をなし、工匠の奉行・兵部大輔(ひょうぶたいふ)島田丸がそれを鎮めたので、それに由来して河童を兵主部(ひょうすべ)と呼ぶようになったともいう』。『潮見神社の宮司・毛利家には、水難・河童除けのために「兵主部よ約束せしは忘るなよ川立つをのこ跡はすがわら」という言葉がある。九州の大宰府へ左遷させられた菅原道真が河童を助け、その礼に河童たちは道真の一族には害を与えない約束をかわしたという伝承に由来しており、「兵主部たちよ、約束を忘れてはいないな。水泳の上手な男は菅原道真公の子孫であるぞ」という意味の言葉なのだという』。『別名にはひょうすえ、ひょうすぼ、ヒョウスンボ、ひょうすんべなどがあ』り、『河童の好物がキュウリといわれることに対し、ひょうすべの好物はナスといわれ、初なりのナスを槍に刺して畑に立て、ひょうすべに供える風習がある』。『人間に病気を流行させるものとの説もあり、ひょうすべの姿を見た者は原因不明の熱病に侵され、その熱病は周囲の者にまで伝染するという』。『ナス畑を荒らすひょうすべを目擊した女性が、全身が紫色になる病気となって死んでしまったという話もある』。『また、ひょうすべはたいへん毛深いことが外観上の特徴とされるが、ひょうすべが民家に忍び込んで風呂に入ったところ、浸かった後の湯船には大量の体毛が浮かんでおり、その湯に触れた馬が死んでしまったという』。『似た話では、ある薬湯屋で毎晩のようにひょうすべが湯を浴びに来ており、ひょうすべの浸かった後の湯には一面に毛が浮いて臭くなってしまうため、わざと湯を抜いておいたところ、薬湯屋で飼っていた馬を殺されてしまったという話もある』と記す。『鳥山石燕らによる江戸時代の妖怪画では、伝承の通り毛深い姿で、頭は禿頭で、一見すると人を食ったようなユーモラスな表情やポーズで描かれている』(引用元に画像有り)。『これは東南アジアに生息するテナガザルがモデルになっているともいわれる』とある。

 

・「兵子部軍から」ママ。

 

・「鹿島にあつた春日大明神が奈良に遷座することがきまる」東国随一の古社であり、藤原氏の氏神として崇敬された茨城県南東部の鹿島台地に鎮座する鹿島大明神は、参照したウィキの「鹿島大明神」によれば、神護景雲二(七六八年)には奈良御蓋山(みかさやま)の地に藤原氏の氏社として春日社(現在の春日大社)が創建されていたとされ、鹿島からは武甕槌神(たけみかつちのかみ)が第一殿に勧請された(他は現在の千葉の香取神社から経津主命(ふつぬしのみこと)が第二殿が、大阪の枚岡(ひらおか)神社から天児屋根命(あめのこやねのみこと)が第三殿に、同じ枚岡から彼の比売神(ひめがみ:妻)である天美津玉照比売命(あめのみつたまてるひめのみこと)が第四殿に勧請されている)。これら四柱(本来は夫婦神は二人で一柱と数えるから三柱が正しいと思う)の中でも特にこの鹿島神が主神であったと見られており、そもそも春日社の元々の祭祀自体も鹿島社に対する遥拝に発したものと見られている、とある。

 

・「兵部大輔」橘諸兄の子奈良麻呂の子で兵部大輔(兵部省長官)であった橘島田麻呂(たちばなのしまだまろ 生没年不詳)。橘氏長者。延暦一六(七九七)年に春宮亮(とうぐうのすけ)に任ぜられて皇太子安殿親王(あてのみこ。後の平城天皇)に仕えた。詳細な経歴は伝わらないが、娘で桓武天皇の女御となった常子の薨伝によれば正五位下兵部大輔に至ったとされ、子女に恵まれて子孫から多数の公卿を輩出している(以上はウィキの「橘島田麻呂」に拠った)。「久留米地名研究会」のブログの古川清久氏の「佐賀県に橘諸兄を祀る神社がある 潮見神社」によれば、『春日神社側の伝承として、「北肥戦志」に次の記録がある。(若尾五雄「河童の荒魂」(抄)『河童』小松和彦責任編集。シリーズ『怪異の民俗学3』より転載)『「昔橘諸兄の孫、兵部大輔島田丸、春日神宮造営の命を拝した折、内匠頭某という者九十九の人形を作り、匠道の秘密を以て加持するに、忽ちかの人形に、火たより風寄りて童の形に化し、或時は水底に入り或時は山上に到り、神力を播くし精力を励まし召使われる間、思いの外大営の功早く成就す。よってかの人形を川中に捨てけるに、動くこと尚前の如く、人馬家畜を侵して甚だ世の禍となる。此事遥叡聞あって、其時の奉行人なれば、兵部大輔島田丸、急ぎかの化人の禍を鎮め申すべしと詔を下さる。乃ち其趣を河中水辺に触れまわししかば、其後は河伯の禍なかりけり。是よりしてかの河伯を兵主部と名付く。主は兵部という心なるべし。それより兵主部を橘氏の眷属とは申す也。」』『さらにこの論文で若尾氏は、島田丸の捨てた人形は日雇いの「川原者」ではなかったかと推測している』と記され、『「奈良麻呂の変」後、橘氏のかなりの部分が殺され半数が没落しますが、それを悲しんだ犬養三千代が敏達天皇に働きかけ、春日大社の造営に奈良麻呂の子島田丸を抜擢させます』。『その背後には、釘を使わぬ古代の寺院建築の技術を持った職能集団(河童とか兵主と呼ばれた)が囲い込まれていたのではと考えています』とあって更に、先の「ひょうすべ」の記載に出て来た橘公業(きんなり)は橘奈良麻呂の子孫で、嘉禎三(一二三七)年『にこの地の地頭となって赴任し、奈良麻呂の父橘諸兄をも合わせ,その他諸神を配祀して鎮守社としたと伝え』、それが現在の橘諸兄と河童を祀る潮見神社となったものとする旨の記載がある。

 

・「帝」春日大社創建とされる神護景雲二(七六八年)当時の天皇は女帝で第四十六代孝謙天皇が淳仁天皇を経て重祚した第四十八代称徳天皇。

 

・「釘貫門」門柱の上部に二本の貫(ぬき)を通して下に扉をつけただけの簡単な門。屋敷の通用門や町の入口・関所などに設けられた。

 

・「冠木門」左右の門柱を貫が進化した棟木として左右の柱の上に被ったような横木(冠木)によって構成した門。古くは下層階級の家に用いられた造りであるが後には諸大名の外門などにも多く用いられた。

 

・「奈良地方ではカハソウと呼ばれた」とあるが、柳田国男の「山島民譚集(一)」の「河童ニ異名多シ」を何箇所か見てみると(筑摩文庫版全集を底本としつつ、本文は歴史的仮名遣に戻して恣意的に正字化した。但し、本文拗音はここでは読み易さを考えママとし、ルビ(これは底本の現代仮名遣のママ)は読み易くするため適宜拗音化した)、

   *

予ガ如キモ幼時之ヲ「ガタロ」ト称ヘタリ。「ガタロ」ハ恐ラクハ川太郎ノ義ナラン。「カッパ」ハ即ちチ川童(カワワッパ)ニシテ「ワッパ」トハ小児ヲ意味スル近世ノ俗語ナリ。畿内及ビ九州ノ一部ニテハ「カハタロウ」、尾張ニテハ「カワランベ」又ハ川小僧、伊勢ノ山田ニテ川小法師、同ジク白子(シロコ)ニテ川原小僧ト云ヒ〔物類稱呼二、本草綱目釋義四十二其ノ他〕、筑前ニ「カウラワロウ」、肥後ニ「ガアラッパ」ナドト云フモ同ジ事ニテ、要スルニ此物ノ人間ニ比シテ形小ナルコトヲ意味スルノミ。

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 九州の或地方ニテハ、河童ヲ「カハノトノ」ト呼ブト聞ク。南ハ日向(ヒュウガ)大隅(オオスミ)辺ニテハ之ヲ「ヒヤウスヘ」ト云ヒ、又「スヰジン」(水神)ト云フ。此等ハ何レモ尊敬ヲ極メタル稱号ニシテ、正シク一般ノ河童動物説ヲ否定スルニ足ルモノナリ。

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佐賀縣ニテハ河童ヲ「カハツソウ」ト云フ由〔佐賀縣方言辭典〕。「カハツソウ」ハ川ノ僧ノ義ニモ非ズ、水ノ神タル川濯神(カハスソガミ)トモ直接ノ関係無ク、全ク河童ヲ以テ川獺(カハウソ)ノ類ト考ヘタル爲ノ名稱ナルガ如シ。

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などと記されてあり、国際日本文化研究センターの「日本妖怪データベース」の全国の河童の類似呼称のデータでも「カワソウ」は高知県での河童の呼称として出ている。

 

・「昔、インド・デカン高原の北方につらなり、ヒマラヤ山脈のふもとにひらけたタマラカン沙漠を通過して、近東方面から河童の大軍が東方へ移住した。水をもとめての放浪であつた。かれらは蒙古から中國を經て、日本にわたり、美しい川の豐富な九州に住みついた。その大頭目が筑後川の九千坊である。そのほか、九州各地の河川にはそれぞれ河童の頭目が住んでゐる」火野の河童の原産棲息域からの本邦への伝播過程が明確に示された貴重な河童の博物誌である。ここまで河童の生物学的ルーツを鮮やかにはっきりと言い切った確信犯は他にはいないと私は思っている。

 

・「斥候(せきこう)」現在「せっこう」と発音し表記しているが、正しい表記は歴史的仮名遣で「せきこう」である。

 

・「鈴ヶ淵」不詳。

 

・「領主鍋島日峰」肥前佐賀藩の藩祖とされる(実際には正式には藩主になっていない)鍋島直茂(天文七(一五三八)年~元和四(一六一八)。戒名は高伝寺殿日峯宗智大居士。詳しい事蹟はウィキの「鍋島直茂」などを参照されたいが、実質上の藩祖とされる部分をそそこから引いておく。慶長五(一六〇〇)年の『関ヶ原の戦いでは、息子の勝茂が当初西軍に属して積極的に参戦したが、直茂は東軍勝利を予測しており、先ず尾張方面の穀物を買い占めて米の目録を家康に献上』、『関ヶ原での本戦が開始される以前に勝茂とその軍勢を戦線から離脱させている。その後直茂は、家康への恭順の意を示すために九州の西軍諸将の居城を攻撃することを求められ、小早川秀包の居城久留米城を攻略、次いで立花宗茂の居城柳川城を降伏開城させた。更に直茂は、他の東軍諸将と共に島津への攻撃まで準備したが、こちらは直前に中止となった。一連の九州での鍋島氏の戦いは家康に認められ』、肥前国佐嘉(さが)三十五万七千石が辛うじて安堵された。当時の主君であった龍造寺『政家が隠居すると、子の高房は幕府に対して佐賀藩における龍造寺氏の実権の回復をはたらきかけた。しかし、幕府は直茂・勝茂父子の龍造寺氏から禅譲を認める姿勢をとり、隆信の弟・信周や長信らも鍋島氏への禅譲を積極的に支持した。このため、高房は直茂を恨んで憤死した』。『その後直茂は、龍造寺一門へ敬意を表しながらも、その影響力を相対的に弱めた。勝茂もその施策を継承し、自分の弟・忠茂、長子・元茂、五男・直澄に支藩を立てさせて本藩統治を強固にし、龍造寺旧臣達の恨みを押さえ込んでいった。ただ、直茂は龍造寺氏・家中への遠慮があったためか、自らは藩主の座に就くことはなく初代藩主は勝茂となった。そのため直茂は藩祖と称される』とある。

 

・「淀姫神社」佐賀市街からは西北西に三十キロメートル以上離れた佐賀県伊万里市大川町大川野にある。社名は祭神の与止日女命 (よどひめのみこと)に由来する。与止日女命はまたの名を豊玉姫命(とよたまひめのみこと)といい、海神大綿津見神(おおわたつみのかみ)の娘に当たる水神である(だから直後でカハソウらは「淀姫神からまた追放されるんぢやないか」と心配しているのである。但し、佐賀県北部を流れる松浦川の鎮守であるが、この川は唐津湾に注いでおり松原川との直接の水系関係はない)。また、祭神の一柱が武神として知られる建御名方神 (たけみなかたのかみ)=諏訪大明神であり、この神社に伝わる「眉山の獅鬼退治」において獅鬼(「ししおに」と読むか)の頭を矢で射ぬいたのはこの諏訪大明神であったとあり、武運長久・必勝成就の神様とある(引用は公式サイト内。トップは)。また、九州の河童伝承ではしばしば河童を制圧する神として登場する天神菅原道真もここには祭られているから、河童退治の戦勝祈願にはもってこいというわけででもあろう。

 

・「悲願の五ツ巴」まず「鍋島の殿樣」の「カハソウ征伐の悲願」、そうして「鞍置坊の復讐の念も悲願」と「有明海の龍神の千人の子供を食べようといふ希望も一種の悲願」、それに「兵子部の」「さらに輪をかけて狂熱的」な「悲願」で四つ、残る一つは後に説明されるが、玉章の兵子部への切ない秘密の恋の悲願で「五ツ巴」ということになるのである。

 

・「龍神は天草島にゐる鬼神と、つねに海と陸とで葛藤をつづけて居り、あるとき約束しあつた繩張り確保のために、どうしても千人の子供を必要としてゐるのであつた」もしこ「れについて」調べてこ注を「語るとまた別の長い物語になつてしま」いそうなのでご容赦あれ。何か、御存じの方の御教授を気長にお待ちすることと致す。悪しからず。

 

・「渡邊馬之丞」不詳。

 

・「記田の萬匠」不詳。

 

・「木で河童を彫らせ、淀姫神社に奉納した」現在の淀姫神社には河童木造はない。前に注した佐嘉神社蔵のそれをモデルとしたものであろう。

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