鹿と借金 山之口貘
鹿と借金
山の手のでぱあとの一角に
珈琲の店を経営しているとかで
うまい珈琲を
ごちそうしたいと彼は言った
岬の方には釣舟をもっているとかで
釣へも案内したいと彼は言った
なかでも自慢なのは鉄砲とかで
いずれそのうちに
鹿を射止め
鹿の料理をごちそうしたいとかれは言った
ぼくはかれに逢うたんびに
いまにもそこに出て来そうな
鹿だの釣だの珈琲だのをたのしみにして
かれの顔をのぞいては
まだかとおもったりしないではいられなかった
ところがどうにも仕方のないことがあって
ぼくはついにかれに
金を借りてしまったのだ
そのかわりみたいにそれっきり
ごちそうの話がひっこんでしまって
金の催促ばかりが出てくるのだ
[やぶちゃん注:【2014年7月7日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。初出注を追加した。】初出は昭和二九(一九五四)年二月増大号『小説新潮』。]