芭蕉布 山之口貘
芭蕉布
上京してからかれこれ
十年ばかり経っての夏のことだ
とおい母から芭蕉布を送ってきた
芭蕉布は母の手織りで
いざりばたの母の姿をおもい出したり
暑いときには芭蕉布に限ると云う
母の言葉をおもい出したりして
沖縄のにおいをなつかしんだものだ
芭蕉布はすぐに仕立てられて
ぼくの着物になったのだが
ただの一度もそれを着ないうちに
二十年も過ぎて今日になったのだ
もちろん失くしたのでもなければ
着惜しみをしているのでもないのだ
出して来たかとおもうと
すぐにまた入れるという風に
質屋さんのおつき合いで
着ている暇がないのだ
[やぶちゃん注:昭和三二(一九五七)年八月号『キング』。バクさんの沖繩再訪の一年半前の詩である。バクさんの郷愁が如何に募っていたかが伝わってくる詩である。
「芭蕉布」ウィキの「芭蕉布」によれば、『芭蕉布(ばしょうふ)とは、バショウ科の多年草イトバショウ』(単子葉植物綱ユリ亜綱ショウガ目バショウ科
イトバショウ Musa liukiuensis 又は Musa
balbisiana var. liukiuensis
(こちらのページに詳しい)『から採取した繊維を使って織られた布のこと。別名蕉紗』。『沖縄県および奄美群島の特産品で、薄く張りのある感触から、夏の着物、蚊帳、座布団など多岐にわたって利用される』。『肌衣によく用いられる絹織物の芭蕉織とは、全くの別物である』。五百年の歴史があるとされ、『琉球王国では王宮が管理する大規模な芭蕉園で芭蕉が生産されていた』。『庶民階級ではアタイと呼ばれる家庭菜園に植えた芭蕉で、各家庭ごとに糸を生産していた。現在の沖縄島では大宜味村喜如嘉が「芭蕉布の里」として知られる』。『一反の芭蕉布を織るために必要な芭蕉は200本といわれ、葉鞘を裂いて外皮を捨て繊維の質ごとに原皮を分け(より内側の繊維を用いるものほど高級である)』、『灰によって精練作業を行うが、芭蕉の糸は白くはならず薄茶色である』。『この無地織か、ティーチ(シャリンバイ)の濃茶色で絣を織るものが本土では一般的な芭蕉布と認識されているが、沖縄では琉球藍で染めたクルチョーと呼ばれる藍色の絣も人気が高い』。『太平洋戦争後、進駐したアメリカ軍によって『蚊の繁殖を防止する為』として多くのイトバショウが切り倒され、絶滅の危機に瀕して』おり、『近年では、紅型の特徴的な美しい黄金色を染めるフクギや、アカネ、ベニバナを用いることもある』とウィキの「芭蕉布」にある。
「上京してからかれこれ/十年ばかり経っての夏のことだ」バクさんの上京、これが二度目のそれとすれば、大正一三(一九二四)年で、それから「十年ばかり」とすると、十年後は昭和九(一九三四)年か昭和十年代の初めとなる。発表は昭和三二(一九五七)年ではあるが、「二十年も過ぎて今日になった」という感懐は昭和十九年、その頃からずっと永く詩作の時まで続いてきたもので、詩の雰囲気自体は昭和二十年代初期を感じさせるように思う(バクさんが驚くべき長い時間推敲を重ねることは既に見てきた通りである)。先の注で書いたが、バクさんの母カマトは、昭和二六(一九五一)年六月に与那国の『弟重四郎の家で死亡。その訃を聞いても帰る旅費もなく、一夜白湯を飲んで遙かに通夜をした』と年譜に記されてある。「カマトおかあ」の亡くなられる少し前の思いと私は読みたいのである。
「いざりばた」サイト「着物が着たくなったら、着物用語集」のこちらに、「居坐機(いざりばた)」とあり、『居坐機(いざりばた)とは、最も古くから使われていた手織機で、床に座り、機に張る経糸(たていと)を織り手の腰当てに結び、腰の屈伸で糸の張り具合を調節しながら織ります。明治の頃までは農家の自家用として広く用いられていました。動力を用いる力織機(りきしょっき)に比べ、時間は掛かりますが暖かみのあるものが出来上がります。現在では、結城紬(ゆうきつむぎ)や越後上布(えちごじょうふ)などを織るのに用いられています。下機(したばた)や地機(じばた)とも呼ばれています』。『また、腰掛の高い手織機は、高機(たかばた)と呼ばれています』とある。芭蕉布を織るための機織(はたおり)部屋の謂いであろう。【2014年6月28日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。】]