萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「午後」(6) たそがれ Ⅲ
寒き風は吹くと思ひぬ故郷の
赤木牧場の古榎(ふるえのき)より
[やぶちゃん注:「榎」は原本では「櫌」。この字は鋤・犂(すき)や鍬、若しくは動詞でこなす・うちくだくの意で誤字であるから、校訂本文に従って「榎」とした。赤木には複数の牧場が現存するが、ネット上の調査では同定出来なかった。御存じの方は御教授を乞うものである。この一首は、前の一首と同じく『スバル』第二年第四号(明治四三(一九〇二)年四月発行)に掲載された、
寒き風吹くと思ひぬ故郷の赤城の牧の古榎より
の類型歌。]
靑山の原に捨てたる文がらを
行方も知らず吹く冬の風
靴ぬぐとかの玄關の鋪石に
涙おとしぬ放浪の子は
[やぶちゃん注:原本では「鋪」は「石」+「甫」であるが、誤字と断じて、校訂本文に従い、「鋪」とした。]
君よぶと口笛ふきてかくれたる
昔の家の靑桐の花
ステツキを振りつゝ街を行くことの
悲しくなりぬ何となけれど
さかづきをかちと合はせて靴音と
樂の響のうづまきに入る
寒き夜もあひ抱き跳ること知らぬ
この島びとは憐れなるかな
[やぶちゃん注:「跳る」の「跳」はママ。校訂本文は「踊る」とする。「この島びと」不詳。]
歌舞伎座の運動場にて見し人を
伊香保の町の石段に見き
[やぶちゃん注:「歌舞伎座」原本は「歌舞妓座」。誤字として訂した。校訂本文も「歌舞伎座」とする。「歌舞伎座の運動場」というのは当時の歌舞伎座の内部に存在した施設である。ウィキの「歌舞伎座」によると、『歌舞伎座は、明治の演劇改良運動の流れを受けて開設された。この運動の提唱者の一人でジャーナリストの福地源一郎(福地桜痴)と金融業者の千葉勝五郎の共同経営で、1889年(明治22年)、東京市京橋区木挽町に開設された』ものを第一期とするが、「建物の変遷」の項の「第一期(1889年竣工)」によれば、この時の観客席は三層構造となっており、『3階の一幕見席の後ろには運動場を作り、ここに食品、小間物などの売店があ』ったとある。ちょっとイメージしにくいが、現在の遊戯室のような、スペースのことであろうか。識者の御教授を乞うものである。]