明恵上人夢記 38
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一、同十五日の夜、夢に、乳一鉢を持てり。白き犬一疋有りて、之を食はむと欲す。即ち覺め了んぬ。又、宰相殿、消息を以て物を申す事有り。不慮に院より之を沙汰せらると云々。盛りなる事也と覺ゆ。
[やぶちゃん注:後半の「又~と云々」と止める記述法は彼の今までの夢記述の常套ではあるが、「即ち覺め了んぬ」とある以上、二度寝や覚醒時幻覚とは思われないから、この「又」以下は二つ目の夢記述ではなく、事実記載と考えるべきであろう。しかし明恵がそれを一つの条にそのまま記述したということは、その「宰相殿、消息を以て物を申す事有り。不慮に院より之を沙汰せらる」という覚醒後の翌日十六日の出来事(これが「38」夢を見た十五日の昼の出来事である中ならば、明恵は夢の前にそれを記載したはずである)がまさにその直前に見たこの夢によってシンボライズされたもの――予知夢――であったと明恵自身は認識していたことを示していよう。
「同十五日」建永元(一二〇六)年六月十五日。
「宰相殿」先の「27」夢に出た明恵と親交のあった藤原道家、九条道家(建久四(一一九三)年~建長四(一二五二)年)か。再注すると、摂政九条良経長男で鎌倉幕府第四代将軍藤原頼経の父で、京都九条通に東福寺を建立した。この夢の元久三(一二〇六)年三月(四月二十七日に建永改元)の父良経の急死によって十三歳で九条家を継いでおり、その後も栄進を続け、まさに飛ぶ鳥を落とす栄華の頂点にあった人物である。当時は権中納言・左近衛中将で、偶然であろうか、まさにこの元久三年六月十六日に左近衛中将から左近衛大将に就任している。なお、承久の乱後は朝廷で親幕府派の岳父西園寺公経が最大実力者として君臨していたため、政子の死や頼経の将軍就任も手伝って彼は安貞二(一二二八)年には関白に任命され、貞永元(一二三二)年に後堀河天皇が践祚すると道家は外祖父として実権を掌握、摂政となった長男教実が早世したために再び摂政次いで関白となったが、次第に幕府得宗家に反意を持つようになり、寛元四(一二四六)年に執権北条時頼によって頼経が将軍職を廃されるに至って政治生命を断たれてしまった(以上はウィキの「九条道家」を参照した)。
「院」後鳥羽院。当時二十六歳。因みに、明恵は三十三歳。
「不慮に院より之を沙汰せらる」これは推測するに、以下の「42」夢の前書に示されるようにこの年建永元(一二〇六)年十一月に後鳥羽上皇が明恵に栂尾の地を下賜されることについての、内々の内定通知ではなかったかと思われる。
「盛りなる事也と覺ゆ」は明恵の夢解釈をも射程に入れた心内語であるが、訳は如何にも難しいと感じた。]
■やぶちゃん現代語訳
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一、同十五日の夜見た夢。
「私は手に乳(ちち)を満たした一鉢(いっぱつ)を持っている。白い犬が一匹いて、しきりにこれを飲もうとじゃれてくる……」
というところで覚醒してしまった。
さてもこの夢を見た後の、その日の夜が明けてからのことであるが、宰相殿より直々に、文を以って私に、とある大事なる用件が伝えらるるという出来事が、これ、御座った。その文面によれば、不意に後鳥羽院様がその大事の沙汰をなされたとのことで御座ったが……さてもまっこと、如何にも『気の充実せる思いの、これ、致すことじゃ!』と感じた。