生物學講話 丘淺次郎 第十章 卵と精蟲 五 受精 (3) 第十章~了
各卵細胞の周圍には何十疋も精蟲が集まつて來るが、最初の一疋が卵からの突起に迎えられてその内に潛り込むと、卵細胞は直に少しく收縮して表面に一枚の膜を生ずる。そして一旦この膜が出來た上は、他の精蟲は如何に卵細胞に接せんと努めても、これに隔てられて到底目的を達することは出來ぬ。その有樣は恰も既に他に嫁した娘に緣談を申し込んだのと同樣である。但し豫め藥を用ゐて卵を麻醉させて置くと、一つの卵の中へ幾疋もの精蟲が續々と入り込む。世間には「娘一人に婿八人」といふ譬があるが、受精のために一卵細胞の周圍に集まる精蟲は隨分多數に上るのが常で、これらが皆尾を振り動かして卵の中へ頭を突き入れやうと努力するために、卵が轉がされて居るのを屢々見掛ける。卵細胞は濃い粘液に包まれたもの、膠質の膜を被るものなどが多いから、卵細胞に近づくまでには、精蟲はこれらを貫き進まねばならず、そのため精蟲の頭の先端は往々穴掘り道具の如き形を呈して居る。多數の精蟲は各々我一番に卵細胞に達せんと、粘液や膠質の中を競爭して進むが、この競爭は精蟲に取つては實に生死の別れ目で、第一著のもの一疋だけは目的どおりに卵細胞と相合し、新な一個體となつて生存し續け、第二著以下のものは悉く拒絶せられ、暫時踠いた後疲れ弱つて死んでしまふ。生物界には、個體間にも團體間にも到る處には劇しい爭があるが、まだ個體とならぬ前の精蟲の間でも、競爭はかくの如く劇烈である。
[やぶちゃん注:「踠いた」は「もがいた」と読む。]
精蟲は卵と相合することが出來ねば死に終るが、卵細胞の方も精蟲に遇はねばそのまゝ亡びる。單爲生殖をする若干の動物を除けば、卵が發育するには精蟲と相合することが絶對に必要で、若し精蟲に遇ふ機會がなければ、たとひ卵が生まれても決して育たぬ。牝雞ばかりでも食用に適する立派な卵を産むが、これから雛を孵すことは出來ぬ。尤も近來は藥品を用ゐて、種々の動物の卵を精蟲なしに或る程度まで發育せしめることが出來て、蛙の卵などはたゞ針の先で突いただけでも獨りで發育せしめ得ることが知れたが、かやうな人工的の單爲生殖法で、何代までも子孫を繼續せしめることが出來るか否かは頗るはしい。元來卵細胞は子の發育に要するだけの滋養分を貯へて居り、蜜蜂類の如き同一の卵が、受精せずとも發育する例もあるから、或る刺激を受けて、不自然に發育することも當然有り得べきことであるが、自然界に於て單爲生殖がたゞ特殊の場合に限られて居ることから考へると、精蟲の働は決して單に卵細胞に刺戟を與へるだけではない。若し藥品を用ゐて、完全に精蟲の代りを務めしめることが出來るものならば、人間社會も行く行くは女と藥とさへあれば濟むわけで、男は全く無用の長物となるであらうが、自然に單爲生殖をする動物でさへ、一定の時期には必ず雄が生じて雌雄で生殖することを思ふと、雄の必要なる理由はなほ他に存することが知れる。されば如何なる生物でも有性生殖に當つては、卵細胞と精蟲とが相合することは絶對に必要であつて、決して長くこれを缺くことは出來ぬ。いつまでも種族を繼續させるためには、その種族の卵と精蟲とを何らかの方法によつて、いつかどこかで相合せしめることが絶對に必要であるが、このことを眼中に置いて、各種生物の身體の構造や生活の狀態を見渡すと、その全部が悉く卵と精蟲とを出遇はしめるために出來て居る如くに感ぜられる。生物の生涯は、食うて産んで死ぬにあるとは已に前に述べたが、物を食ふのは即ち卵細胞や精蟲を成熟せしめるためで、子を産むのは即ち卵細胞と精蟲との相合した結果である。そして産み得るためには、自身の生殖細胞と異性の生殖細とを出遇はしめるやうに全力を盡して努めねばならぬ。飢と戀とが、浮世の原動力といはれるのはこの故である。また死ぬのは、卵と精蟲とが相合して後繼者が出來たために最早親なるものの必要のなくなつたときで、死ぬ者は殘り惜くもあらうが、種族の生存から見ると頗る結構なことである。
かやうに考へると受精といふことは、生物界の個々の現象を解釋すべき鍵の如きもので、生物の生涯を了解するにはまづ受精の重大なる意義を認めねばならぬ。生物の生涯が、受精の準備と受精の結果とから成り立つことを思ふと、各個體が生殖細胞を生ずるといふよりは、寧ろ各個體は生殖細胞のために存するといふべき程で、各個體は生まれてから死ぬまで、常に生殖細胞の支配を受けて居るというて宜しい。生物個體の一生は恰も操り人形のやうなもので、舞臺だけを見ると、各個體が皆自分の料簡で、思ひ思ひの行動をして居る如くであるが、實は卵細胞と精蟲とが天井の上に隱れて絲を操つて居る。鹿が角で突き合ふのも、「くじやく」が尾を廣げるのも、七つ八つの女の兒が紅や白粉を附けたがるのも、若い書生が太い杖を持つて豪傑を氣取るのも、その操られて居ることに於ては相均しい。そして、精蟲と卵細胞とがかく操る目的は何かといへば、受精によつて種族を長く繼續せしめることにある。「女の女たる所以は卵巣にある。卵巣を除き去つた女は決して女ではない。」というた有名なる醫學者があるが、これは女に限つたことではなく、生物個體の性質は、肉體上、精神上にも、その生殖細胞の性と關係するところが頗る深い。つぎの二章に於ては専らこれらの相違に就いて述べる積りである。
[やぶちゃん注:『「女の女たる所以は卵巣にある。卵巣を除き去つた女は決して女ではない。」というた有名なる醫學者がある』この今ならトンデモ発言として締め上げられてしまう発言をした『有名なる醫學者』は調べ得なかった。是非とも識者の御教授を乞うものである。]
*
これを以って「
« 杉田久女句集 206 病床景Ⅱ | トップページ | 飯田蛇笏 靈芝 昭和九年(百七句) Ⅹ 河童供養 ――澄江堂我鬼の靈に―― »