『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 旗立山
●旗立山
長者園の後丘をいふ、治承四年北條父子、此山上に旗押立てゝ和田義盛と戰ふ故に此名ありと。其顚(いただき)に登れば、長者が崎の風光杖履の下に落ちて、東は三浦の三崎より城が島の遠景、伊豆の大島、下田の邊より富岳西に聳えて、筥根大山の諸嶺、近くは稻村が崎、七里が濱、江の島を望み、三面大海を控へて、吹くや汐風の。碧波渺漫(へきはべうまん)としてはてもなく、目に遮るものとてはほのめく白帆の影のみ。
[やぶちゃん注:冒頭の「逗子案内」の部分に注したように、現在、多くの情報が先に出た葉山町堀内にある鐙摺山の別名を旗立山としているが、本記載はこのように全く別な山として自信を持って記載している。次の「大崩」の冒頭で筆者は大崩は「旗立山の麓南に面せる海岸」としており、この叙述に従えば、国土地理院の地図で南面の大崩と北の下山口の間の、旗を立てたように電波塔の記号の立つピーク(本文の「丘」が相応しい)がそれと読める。
「和田義盛と戰ふ」誤解を生まぬようにするならば「和田義盛とともに戰ふ」である。この位置からは所謂、治承四(一一八〇)年八月二十四日の由比ヶ浜・小坪合戦後に続く、三浦氏に対する平家方畠山重忠らの衣笠城合戦(二十六日。二十七日に落城)の前哨戦の一齣ということになる。
「杖履」は「ぢやうり(じょうり)」と読む。外出のための杖と履物で足元の意。]