■⑤終■北條九代記 蒲原の殺所謀 付 北陸道軍勢攻登る 承久の乱【二十三】――水尾坂無血通過 / 【巻第五~了】
かゝる所に、山法師(やまぼふし)に美濃竪者觀賢(みののりつしやくわんけん)とて惡僧あり。京方(きようがた)に參りて、法師原(ほふしばら)、若大衆(わかたいしう)、近邊の百姓等二千四五百人を集めて、水尾坂(みづのをざか)を掘(ほり)切りて、逆茂木引きて待(まち)掛けたり。式部丞朝時、加地〔の〕入道を初(はじめ)て、又軍の評定あり。「此所(こゝ)は又むつかしき殺所なの要害にしてしかも味方の人數は長途(ちやうど)に疲れたり。軍を致すとも、はかばかしかるべからず。何とか計(はから)ひ候はん。さればとて、味方の兵一人も大切なり、討たせては候ふべからず」と取々に申されける所に、小出四郎左衞門尉、進み出て申しけるは、「山法師は心淺く、百姓は臆病なる者にて候、只先(まづ)使を立てて敵の有樣引見られ候べし。其上に違義(ゐぎ)あらば又術(てだて)も候はん」とて我が手の郎從、畑野(はたのの)太郎、河瀨〔の〕藤次両人を遣し、觀賢が方へ云(いひ)遣りけるやうは「只今打通るは北條式部丞朝時、隨ふ軍勢四萬餘騎、京都に攻上る所なり。無用の我執(がしふ)を起し小勢にて妨げられ候とも、一時に蹈(ふみ)破り候はん。然れども沙門にてましますゆゑ、禮義の爲に案内をば致す所なり。關を開きて通さるべし」とぞ云ひ遣しける。觀賢、思(おもひ)の外の大軍にあぐみて、百姓等は我々にて始終叶(かなひ)難く覺えければ、「さん候、京方以後の御咎(とがめ)を存ずる故に、一旦かくは構へて候。義勢は是までなり、逆茂木引除けて御通りあるべし」と返事して、皆散々に開退(あけの)きければ、使歸りて此由を申すに、「思の外なる事かな」とて、事故なく打通り、漸(やうや)う既に海津(かいづ)の浦より、今津の宿(しゆく)を打過ぐるに、今は手を差す者もなく、夜を日につぎて、都を指してぞ攻上(せめのぼ)られける。
[やぶちゃん注:〈承久の乱【二十三】――水尾坂無血通過〉
「美濃竪者觀賢」慈光寺本では「觀嚴」で、岩波新古典文学大系「保元物語 平治物語 承久記」の付録にある「承久記 人物一覧」の「観厳」の項の記載を援用すると、『生没年未詳。系譜等未詳。比叡山延暦寺の僧。流布本』(以下に引用)『には「山法師美濃豎者観賢」が水尾坂を防いだと語り、勢多の戦いでは』「美濃ノ竪者觀源」『とも見える。吾妻鏡は』「美濃竪者觀嚴」として二ヶ所に出、『三穂崎を一千騎で守り、敗れたのち結城朝光に預けられている』(承久三(一二二一)年六月二十五日の条で乱の張本たる面々の六波羅引渡しの記載中)。既注であるが、「竪者」とは竪義(りゅうぎ)者のこと。立義者・立者などとも言う。「リュウ」は慣用音で「立てる」の意味。「義を立てる」「理由を主張する」ということを指す。諸大寺の法会に当たって行われた学僧試業の法に於いて、探題(論題提出担当の僧)より出された問題について、自己の考えを教理を踏まえて主張する僧で、一山の修行僧の中でも最も選れた学僧が選ばれる。
「水尾坂」慈光寺本で「美濃竪者」が防衛についたと思われる「三尾ガ崎」であろう。岩波新古典文学大系「保元物語 平治物語 承久記」の脚注に、『水尾崎。近江国。現、滋賀県高島郡高島町。三尾山の麓にある琵琶湖西岸の崎』とあるが、二〇〇五年に高島市が発足して高島郡は消滅している。いろいろ調べてみたところ、この三尾山というのは地図で現認出来る同市の南にある岳山(標高五六五メートル)の、北側にあるピーク(標高二四九)のことを指すらしい。
「義勢」見せかけの強がり。虚勢。
「海津の浦」地名としての海津は高島市マキノ町海津であるが、これでは水尾坂(三尾坂)から遙か北に戻ってしまうので、現在の高島市の琵琶湖湖岸の浦全体を指していると考えられる。
「今津の宿」現在の近江今津であるが、実はここも先の水尾坂(三尾坂)よりも北である。やや、地理上から見ると齟齬がある表現である。北条朝時の本隊が「漸う既に海津の浦より、今津の宿を打過ぐる」頃には、という謂いか。それでも私の不審は晴れないのであるが。
なお、「承久記」では前に示した底本の編者番号53パートの最後の箇所に「式部丞、砥竝山・黒坂・志保打破テ、加賀國二亂入、次第二責上程ニ、山法師美濃豎者觀賢、水尾坂ヲ掘切テ、逆茂木引テ待懸タリ。」とあるだけで、この「北條九代記」のシークエンスは何をもとにしたものか明らかとなっていない。]
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これを以って「北條九代記」の巻第五を終わった。
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