萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「何處へ行く」(8) 又は若き日の芥川龍之介と萩原朔太郎の驚くべき第三種接近遭遇
君が手に銀貨はなるゝ一刹那
浪にかくれぬ黑き男は
(江の島にて即興)
[やぶちゃん注:「一刹那」は原本では「一切刹」。誤植と断じて訂した。校訂本文も無論「刹那」と訂する。このシチュエーションは江の島裏手南側にある稚児ヶ淵を下った先、第一岩窟の前方にある海食崖下の魚板石(まないたいし)の光景である。
私がテクスト化した明治三一(一八九八)年八月二十日発行の『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」の「江島」の部の「江島案内」の中の龍窟を概説した後に(私の当該テクストに送り仮名を追加し、句読点・濁点・ルビなどを変更したり増やして読み易く補正した。太字は底本では傍点「●」)、
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窟(いはや)を出れば、前に平坦なる巨岩あり。其の幅、七・八間、之を魚板石といふ。其の形、魚板(ぎよはん)に似たるを以て名づく。竚立(ちよりつ)すれば、風光の美なる兒(ちご)が淵に優(まされ)り。人をして轉々歸るを忘れしむ。但し、激浪、常に來りて岩角(いはかど)を齧めば、或ひは全身飛沫を蒙ることあり。
此邊に潜夫群居して、遊客の爲めに身を逆さにし、海水に沒入し、鮑若しくは海老・榮螺等を捕へ來る。又錢貨を投ずれば、兒童、水底に入りて之を探り、或ひは身を水上に飜轉(ほんてん)して、遊客の笑觀に供す。亦、一興といふべし。
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とある。この朔太郎の体験は、まさにこの記事の書かれた数年後の経験である。
そもそも、この「魚板石」での漁師たちのパフォーマンスは、今から三百年以上も前の、貞亨二(一六八五)年に板行された最古の鎌倉地誌である水戸光圀の「新編鎌倉志卷之六」にさえ既に記されている。以下もその私の電子テクストから引こう(一部を読み易く変えた)。
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魚板石(マナイタイシ)
龍穴(リウケツ)の前にあり。面平(ヲモテタイヒラ)かにして魚板(マナイタ)の如し。遊人或は魚を割(サ)き、鰒(アハビ)を取(ト)らしめて見(ミ)る。此の石上にて四方を眺望すれば、萬里の廻船數百艘、海上にうかめり。豆・駿・上・下總・房州等の諸峯眼前に有り。限り無き風景なり。
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ついでに、やはり私の電子化しているエドワード・モースの「日本その日その日」E.S.モース(石川欣一訳)の「第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所」からも同じシークエンスを引用しておこう。
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翌朝我々は夙く起き、長い往来を通ってもう一軒の茶屋へ行った。ここは実に空気がよく、そして如何にも景色がよいので、私は永久的に一部屋借りることにした。海の向うの富士山の姿の美しさ。このことを決めてから、我々は固い岩に刻んだ段々を登って、島の最高点へ行った。この島には樹木が繁茂し、頂上にはお寺と神社とがあり、巡礼が大勢来る。いくつかの神社の背後で、島は海に臨む断崖絶壁で突然終っている。ここから我々は石段で下の狭い岸に降り、潜水夫が二人、貝を求めて水中に一分と十秒間もぐるのを見た。彼等が水面に出て来た時、我我は若干の銭を投げた。すると彼等はまたももぐつて行った。銅貨ほしさにもぐる小さな男の子もいたが、水晶のように澄んだ水の中でバシャバシャやっている彼等の姿は、中々面白かった。
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ちなみにこれは明治一〇(一八七七)年の夏の情景である。
――そうして――ここからが私の注の真骨頂だ(既にその「新編鎌倉志卷之六」の当該項に私が附している注をほぼそのまま引く)。
萩原朔太郎といえば芥川龍之介だ!
芥川龍之介と江の島との関連で余り取り上げられることがないが、芥川龍之介の未完作品「大導寺信輔の半生」の最終章「六 友だち」には、その掉尾に、このまさに魚板石付近を舞台にした印象的なエピソードが語られているのである! やはり私のテクストから当該部を引用しておく。
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信輔は才能の多少を問はずに友だちを作ることは出來なかつた。標準は只それだけだつた。しかしやはりこの標準にも全然例外のない訣ではなかつた。それは彼の友だちと彼との間を截斷する社會的階級の差別だつた。信輔は彼と育ちの似寄つた中流階級の靑年には何のこだわりも感じなかつた。が、纔かに彼の知つた上流階級の靑年には、――時には中流上層階級の靑年にも妙に他人らしい憎惡を感じた。彼等の或ものは怠惰だつた。彼等の或ものは臆病だつた。又彼等の或ものは官能主義の奴隸だつた。けれども彼の憎んだのは必しもそれ等の爲ばかりではなかつた。いや、寧ろそれ等よりも何か漠然としたものの爲だつた。尤も彼等の或ものも彼等自身意識せずにこの「何か」を憎んでゐた。その爲に又下流階級に、――彼等の社會的對蹠點に病的な惝怳を感じてゐた。彼は彼等に同情した。しかし彼の同情も畢竟役には立たなかつた。この「何か」は握手する前にいつも針のやうに彼の手を刺した。或風の寒い四月の午後、高等學校の生徒だつた彼は彼等の一人、――或男爵の長男と江の島の崖の上に佇んでゐた。目の下はすぐに荒磯だつた。彼等は「潛り」の少年たちの爲に何枚かの銅貨を投げてやつた。少年たちは銅貨の落ちる度にぽんぽん海の中へ跳りこんだ。しかし一人海女(あま)だけは崖の下に焚いた芥火の前に笑つて眺めてゐるばかりだつた。
「今度はあいつも飛びこませてやる。」
彼の友だちは一枚の銅貨を卷煙草の箱の銀紙に包んだ。それから體を反らせたと思うと、精一ぱい銅貨を投げ飛ばした。銅貨はきらきら光りながら、風の高い浪の向うへ落ちた。するともう海女はその時にはまつ先に海へ飛びこんでゐた。信輔は未だにありありと口もとに殘酷な微笑を浮べた彼の友だちを覺えてゐる。彼の友だちは人並み以上に語學の才能を具へてゐた。しかし又確かに人並み以上に鋭い犬齒をも具へてゐた。…………
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この本文中に「或風の寒い四月の午後、高等學校の生徒だつた彼は彼等の一人」とあるが、龍之介の一高卒業は大正二(一九一三)年七月であるから、これは明治四四(一九一一)年か翌年の四月、若しくは卒業年の大正二(一九一三)年四月の間の出来事となる。私は龍之介の謂いから、このシチュエーションは正に明治の最後の江の島を活写していると読む。
そうして――
――そうして、この一首の朔太郎の短歌の存在によって!
――その同じ稚児が淵の魚板石のロケーションのフレームの中に!
――後に盟友となる若き日の萩原朔太郎もまた!
――その恋人とともに写っていることが証明されたのである!…………
最後に。
私はこの一首を若き日に読んだ瞬間、
『……この恋人が銀貨を投げた一刹那に「浪にかくれぬ黑き男」とは――朔太郎自身だな……』
と独りごちたものだった。……
そうして――
――そうして、私の瞼に浮かんだ映像は
――かの
――つげ義春の
――「海辺の叙景」
――そのエンディングのコマだった……
……朔太郎よ……彼女は確かに……君のファム・ファータルだったのだよ…………]