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2014/04/08

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 34 松浦佐用彦葬儀

M335

図―335

 

 私の特別学生の一人で、私がことのほか愛していた松浦が、昨夜病院で、あの脚気という神秘的な病気が原因して死んだ。彼は大部長いこと病気していたので、私は度々病院へ見舞に行った。すると彼は、学校の仕事がどんな風に進行しているかを質ね、最後の瞬間まで興味を持ち続けていた。私は、私が埋葬地まで一緒に行ってやったら、彼の同級の学生達をよろこばせるであろうということを聞いた。彼の母や妹や親類たちは、五百マイルも南の方にいるので、来ることが出来なかった。学生は百人ばかり集り、我々は棺が出て来る迄しばらく待った。棺というのは長い装飾の無い箱を、白い布で包んだもので、四人が肩にかつぎ、その前には一人の男が長い竹の竿から、長くて幅の狭い布をさげた物を持って行った(図335)。私はこの旗を、同様な場合に見たことがあるので、聞いて見たら、単に死者の名前と生国とを、書いたものだとのことであった。最も先頭には、松浦の名前を書いた、長い木の柱をかついだ男が行った。これは一時的の墓標なのである。組織的な行列というようなものはなく、我々は自分勝手に遺骸に従ったが、而も態度は真面目で、秩序立っていた。学生はすべて和服を着ていて、女の学校の一学級に似ていた。彼等の多くは外国風の麦藁帽子をかぶり、彼等の下駄は固い土台道路で、奇妙な響を立てた。殆ど二マイル半ばかりも歩いて、我々は墓地へ着いた。ここは大きな木や、花や、自然そのままの景色に富み、非常に美しい場所であった。我々が通り過ぎた人々は、行列の中に外国人がいるので、いぶかしげに見送った。

[やぶちゃん注:この若き愛弟子松浦佐用彦の葬送の三段落に及ぶシークエンスは(本書でこれだけの分量が一人の学生のために割かれているという事実だけでも極めて例外的であることに気付かれたい)、モースの、そして何より――二十一で夭折した――たった一年付き合っただけでかのモース先生から素敵な献辞を墓に刻まれた(後掲する)――プエル・エテルヌス松浦佐用彦の魂のために――総ての原文を示しておきたい。最初は恐らくは大学の寄宿舎から日暮里の谷中墓地へと向かう野辺の送りである(モースは「昨夜病院で」「死んだ」とあり、翌日の埋葬で、図335から寝棺の土葬である)。

   *

One of my Japanese special students, Matsura, of whom I was very fond, died at the hospital last night of that mysterious disease called beri-beri. He had been ill for some time and I had often been to the hospital to see him; he would inquire how the work was getting along and kept up his interest to the last moment. I learned that it would gratify the students of his class if I would accompany them to the burial-place; his mother, sister, and relatives lived five hundred miles south, and could not come. About a hundred students gathered, and we waited some time for the coffin to appear. This was a long plain box covered with white cloth and borne on the shoulders of four men; a man in front carrying a long bamboo pole from which was hanging a long, narrow strip of cloth (fig. 335). I had noticed this flag on similar occasions, and learned that it gave simply the name of the deceased and the province from which he came. In advance of all was a man carrying a long wooden post upon which was Matsura's name; this was a temporary grave-post. There was no organized procession. We followed the body in an irregular manner, but with sober and orderly demeanor. All the students were in native dress and resembled a class from a woman's college. Many of them wore our form of straw hat and their clogs made a curious clatter on the hard roadbed. A walk of nearly a mile and a half brought us to the cemetery, a very beautiful place with large trees, and flowers, and much natural scenery. The people we passed looked in curious wonder at seeing a foreigner in the procession.

   *

「松浦」ここでモース自身が記しているように、モースの愛してやまなかった学生松浦佐用彦(まつうらさよひこ 安政四(一八五七)年~明治一一年(一八七八)年七月五日)。既に「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集 24 ホイスト・ゲーム / 松浦佐用彦のこと」で注しているが、ほぼそのままに再掲したい。上谷桜池氏の「谷中・桜木・上野公園裏路地ツアー」(非常に優れたサイトである)の「谷中墓地」に松浦佐用彦の墓碑の詳細が載る。HP下部に『そう遠くない将来当サイトを閉鎖する予定です。何の保証も致しかねますがソースフリーですので、ご利用ください。』とあるので、ほぼ全文と画像二枚(墓碑と裏面のモースの献辞文)を引用させて頂く。この場を借りて上谷桜池氏に感謝申し上げる(病気療養中とのこと、どうか御大切に)。

   《引用開始》

大森貝塚発掘者モースの助手・東京大学創生期の動物学者。名、佐譽彦。高知県出身。明治10年(1877)モース博士がアメリカから来日し、東京大学の教授となると、モース教授の動物学教室に集まった俊才の一人。モースと共に大森貝塚を調査する。病気のため学生のときに没する。

墓は、谷中霊園乙6号2側。正面「高知県松浦左用彦墓」。東京大学有志により建てられた。裏に、モースの献辞文が英語で書かれている。モースが遺した唯一の石碑である。墓碑裏には、享年22歳とある。

A Faithful student, a sincere freiend. a lover of nature. Holding the belife that in moral as well as in physical questions. "The ultimate court of appeal is observation and experiment, and not authority" Such was Matsura. Edward S. Mors

「忠実な学生、誠実な友人、自然を愛する人。モラールにおいてのみならず物質的な問題でも“最後に訴えるべき所は、権威ではなく、観察と実験だ”との信念を持ち続けた。これが松浦だった。」

 

Matsuurasayohikoa

 

Matsuurasayohikob

 

モースの献辞文

 

   《引用終了》

モースの哀しみとともに如何に彼が弟子佐用彦を愛したかが、この素敵な献辞とここの本文のモースの描写からひしひしと伝わってくるではないか(上谷桜池氏に再掲させて戴いた謝意を改めて謝しておきたい)。

 次に、磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」からも松浦に関わる記載を引用しておきたい。注も含めて少し長めの引用となるが、ここには前の上谷桜池氏の記された事蹟や墓碑銘との齟齬があり、またモースの叙述の死因などの誤り(後注する)もあるため、どうしても総ての引用が必要である(注記記号番号を当該近くの本文に全角で入れ込んだ)。

   《本文引用開始》

松浦佐用彦は嘉永六年(一八五三)生まれの土佐藩士で、幼少の頃父を失った。おそらく明治七年の後半に東京開成学校に入り(12)、明治九年に佐々木、種田、松村とともにその予科を終了、東京大学理学部に進んだ。江ノ島でモースを助けているから、モースの一番弟子である。佐々木とともに大森貝塚発掘に初めからかかわり、モース渡米中にも彼と佐々木が発掘の中心となったことは、すでに記した。秀才だったといわれ、将来を嘱望されていたが、モースがアメリカから戻ってわずか二箇月半後の明治十一年七月五日にチフスで急逝した。家は零落していて、母に死亡通知を送ったが、返事はなかったという(13)。

 これから四十五年後に佐々木は、飯島魁の追憶として次の一文を残している。

 「明治十二年の頃[飯島]博士と余の二名東京大学綜理の命に依り大森介墟の発掘に従事した。此際両人同所に出張すること二週間計り此際両人に対し旅費として、日当五拾銭を給せらる。両人協議の上にて往復旅費を仕払ひ、残金にて帰途神田橋際の某牛店で必ず夕食した。尚一本の爛酒の余裕あり。此分は常に博士の特有にして之にて大ひに鋭気を養はれた」(14)

 しかし、明治十二年に二週間にもわたる発掘が再開されたとの記録は何もないし、明治十年の発掘には飯島は参加していない。これは佐々木の記憶違いで、文中に「博士」とあるのは松浦佐用彦である可能性が高い(15)。もし、そうとすれば、若くして世を去った松浦の面影を伝える唯一の記事である。

   《本文引用終了》

「佐々木」は同じ生物学科第一回生の級友でモースの弟子佐々木忠二郎(安政四(一八五七)年~昭和一三(一九三八)年)。忠次郎とも書く。後の昆虫学者で近代養蚕学・製糸学の開拓者)、「飯島」(いさお 文久元(一八六一)年~大正一〇(一九二一)年)は同じくモースの弟子で動物学者。浜松城下(現在の浜松市)の藩士の家に生まれ、明治八(一八七五)年に東京開成学校入学、同十年に年に東京大学に入ってモースの教えを受けた。卒業後にドイツに留学、明治十九年に東京帝国大学教授となった。昭和前半までの動物分類学者の中で昆虫学者以外の大半が彼の薫陶を受けている。海綿の研究で世界的に著名であるほか、「人体寄生動物編」(明治二一(一八八八)年)は日本寄生虫学の濫觴となり、また「日本の鳥目録」明治二四(一八九一)年)は日本人による鳥類研究及び現和名の出発点となった。「動物学提要」(大正七(一九一八)年)は明治大正の日本動物学を集大成した名著で草創期に適した幅広く堅実な学者であった(ここは磯野先生の執筆になる「朝日日本歴史人物事典」を主に参照した)。

   《注記引用開始》(半角数字を全角に変えた)

(12) 松浦佐用彦の名前の初出は『文部省雑誌』八号所載の明治七年二月現在の「東京外国語学校英語学下等第四級」の名簿中である(飯島魁も同級)。一方、『文部省雑誌』十五号の明治七年七月現在の東京開成学校名簿にはまだ名前がないが、明治八年二月刊の『東京開成学校一覧』では「理学予科第四級」に佐々木忠二郎とともに松浦の名が載っているので、東京開成学校への進学は明治七年秋と思われる。

(13) 11章注(9)、三四三頁。[やぶちゃん注:当該注に引かれる『谷津直秀、科学、八巻』『一九三八年』とある雑誌の当該頁を指す。]

(14) 佐々木忠次邸、動物学雑誌、三四巻、一〇一頁、一九二二年。

(15) 12章注(7)。[やぶちゃん注:当該注に引かれる『佐原真、考古学研究二四巻三・四合併号頁、一九七七年。[大森貝塚発掘に関連する文書の大半を再録]』とある注。]なお、佐々木と松浦の大森貝塚発掘は明治十年十一月十九日から十二月一日まで(一二〇頁)だから、この記述の「二週間」とほぼ一致する。

   《注記引用終了》

 さて、以上の磯野先生の記述を見ると、佐用彦の生年(従って没年齢も)及び死因について、モースの記載や他の資料との大きな違いが認められる点にまず着目せねばならない。磯野先生は佐用彦の生年を、

 嘉永六(一八五三)年

とされているのに対し、上谷桜池氏は、

 安政四(一八五七)年

で墓碑には

 享年22歳

と明記されている旨記載がある(私は彼の墓の墓碑銘を実見していないが、享年二十二歳は間違いないであろう。なお、上谷桜池氏はリンク先の記載で没年を誤って前年にしておられるので注意されたい)。これは一体どちらが正しいのであろう? 但し、この磯野先生の嘉永六年(一八五三)生まれという記載は一九八七年刊の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」に出典が示されていない点、また磯野先生は別に十年後に発表された「東京大学創立百二十周年記念東京大学展 学問の過去・現在・未来 第一部 学問のアルケオロジー」(書籍版は一九九七年刊)の「揺藍期の動物学教室」では他と同様に『松浦佐用彦(1857―1878)』と記しておられることなどから、佐用彦の生年は享年二十二歳(当然数え)とある墓碑に従って暫くは安政四(一八五七)年としておきたい。ただ、数奇な運命を辿った彼にして四つ年のサバを読んでいた可能性はないことはあるまいとは思われる。識者の御教授を乞うものではある。

 次に佐用彦の死因である。モースは「あの脚気という神秘的な病気」“that mysterious disease called beri-beri”と述べている。“beri-beri”とはビタミンB₁欠乏による脚気のことを指す英語である。語源はスリランカの公用語の一つであるシンハラ語で、十七世紀にオランダの医師がこの病気をインドで発見した際に現地語であるシンハラ語で命名したもの。その意味はネット上では “I cannot, I cannot”に意とまずあり、シンハラ語の入門サイトを見ると「~できない」というのを確かに「ベリ」というように見受けられる。他にそこから派生したのかどうかは不明ながら「弱いこと」「虚弱なこと」ともある(孰れにせよ、不謹慎乍らなかなか面白い語源である)。さて、まずモースは「彼は大部長いこと病気していたので、私は度々病院へ見舞に行った」“He had been ill for some time and I had often been to the hospital to see him” と述べている点に着目する。チフスは腸チフス(サルモネラ菌の一種チフス菌(Salmonella enterica serovar Typhi)を病原体とする)・パラチフス(同じくサルモネラ菌の一種パラチフス菌(Salmonella enterica serovar Paratyphi A)を病原体とする)・発疹チフス(発疹チフスリケッチア(Rickettsia prowazekii)を病原体とする)を総称する語であるが(学名はウィキの「チフス」に拠る)、この内、佐用彦の場合、発疹チフスは除外してよいと思われる。何故なら、発心チフスに特徴的な全身性発疹からモースが病名を脚気に誤る可能性はまずないと考えるからである。さらに死に至ったとすれば佐用彦のそれは比較的症状の軽いパラチフスではなく、重症例では死に至る可能性がある腸チフスと考えられる。ところが三つのチフスに共通することではあるが、腸チフスの場合、感染後一、二週間で症状が始まり、二、三日で重症化、一、二週間も高熱が続いて『体力の消耗を起こし、無気力表情になる(チフス顔貌)』(主に参照したウィキの「腸チフス」より引用)という、所謂、腸チフスは急性・亜急性の感染症であり、「大部長いこと病気していたので、私は度々病院へ見舞に行った」というモースの言う事実が何だかしっくりこないのである(但し、リンク先の記載には回復後もチフス菌を一年ほど排出し続ける場合があるとも記されてあるから、幾分よくなったとしても高熱による体力消耗と残存菌による慢性的病態を示すこともあるとは考えられる)。更に言えば、腹部や胸部(見舞客には見えにくい場所ではある)にピンク色の斑点が現れるバラ疹が腸チフスの特徴的でもあり、これがあればモースならば脚気ではなくチフス若しくは他の何らかの感染症ではないかと気づきそうなものである。何より、エドワード・モースの兄チャールズは、エドワードが十一歳の一八五〇年に腸チフスのために急死しており、腸チフスを脚気と見誤るとはどうしても思えないのである。

 ところがいろいろ調べてみると、明治期、森鷗外絡みで知られる陸軍の脚気惨害や、漱石の「こゝろ」の「先生」の両親が相次いで腸チフスで亡くなっているように、脚気はチフスと並んで戦場で兵士が罹患して戦病死に至る病気の最たるものであったことが分かる。さすれば、モースが脚気といい、磯野先生の記載がチフスとあるのは実は、それほどとんでもない齟齬とは言えない気もしてくる。即ち――佐用彦は慢性的な脚気の症状によって入院生活を余儀なくされ、そこで腸チフスに院内感染したか若しくは以前からキャリア(保菌者)であったものが免疫力の低下によって発症したかして、既に脚気衝心によって有意に弱っていた心臓が、腸チフスの高熱によって致命的な心不全を起こし、亡くなった――と考えても少しもおかしくないと私は思うのである。これについては門外漢の私の勝手な推理であるからして大方の御批判を俟つものではある。

 以下、本文の後注に入る。

 

「特別学生」今までにも出てきているが、ここで注しておくと、この原文の“special students”というのは現在では所謂、正規の学生と区別した選科生・聴講生の謂いであるが、ここでのモースの謂いは、所謂、生物学科を専攻(選科)した学生という謂いであるように思われる。

「彼の母や妹や親類たちは、五百マイルも南の方にいるので、来ることが出来なかった」「五百マイル」は約805キロメートル。佐用彦の故郷はネットの検索によって現在の高知県高知県長岡郡大豊町黒石であることが判明した(大豊町の広報誌と思われる「おおとよ よとりすと」の記事に佐用彦生誕の地として顕彰碑が『出身地の黒石公民館近くに記念碑が完成』とある)。地図上で東京―黒石間の直線距離は585キロメートルほどであるが、行路実測と考えれば納得出来る距離である。……それにしても、モースが磯野先生の記された『家は零落していて、母に死亡通知を送ったが、返事はなかったという』事実を知っていたら、どんなにか更に悲傷したに違いない。恐らく、この事実は学生や日本人の学校関係者には知られていたに違いないが、モースの気持ちを考えて、皆がモースには上記のような嘘をついたものと思われる。モースを取り巻く当時の日本人の、如何にも優しい心配りが垣間見られるではないか!

「女の学校の一学級に似ていた」以前にも同様の感じを記しているが、ここはまさに袴を穿いたむくつけき男ばかりの一団、それが粛々とある程度の秩序的な列となっているのが、モースにはスカートを穿いた女子学生の一クラス分のように、すこぶる奇異に見えたというのである。そうしてこの叙述から、日常的にはそうした整列をモースが見る機会がなかったことを意味し、所謂、学生を訓令や集会で強制的に整列させるような習慣が当時はなかったという意外な事実も知れて興味深いではないか。

「外国風の麦藁帽子」ウィキの「麦わら帽子」に、阿部猛「起源の日本史 近現代篇」(同成社)によれば、『日本の麦わら帽子は、町役人の河田谷五郎が外国人の帽子を手本に作った(1872年)のが始まりとされる』とある。西暦一八七二年はこの佐用彦の葬送から遡る六年前、明治五年である。因みに同明治五年は公的に政府によって旧礼服が廃されて洋式が採用された年でもあった。

「土台道路」原文“the hard roadbed”。“roadbed”は道路の基礎土台である路床の意。一般には舗装道路を造る際に地面を掘り下げて地ならしをして堅くした地盤をいうが、これはそうしたまさに舗装道路を期した工事の途中であったものか? だとするとまさにこの佐用彦の葬送の友達らの下駄音は、同時にまさに帝都東京の近代都市化を告げる響きでもあったことになる!

「一マイル半」約2・4キロメートル。試みにモースの宿舎近くの現東大正門付近から谷中までを、本郷通りを北上して右に折れ、言問通りを抜けて団子坂を下るコースで計測すると2・9キロに相当する。なお、当時の学生の寄宿舎は教師館と同じく現在の東京大学の敷地内にあったと思われる。]

M336

図―336

 

 墓地の入口には、一種の迎接小舎があり、ここで棺架ごと棺をこの木製支持台にのせ、墓標は、棺に立てかけた。間もなく、頭を奇麗に剃った、仏教の僧侶が一人、葉のついた小枝を持って現れ、それを棺の両端に近く一本ずつ立てかけ、次に華美な錦襴の衣を着、蠟燭に火をつけ、棺の横にひざまずいて、時々持って来た小さな鈴を叩きながら、祈禱をつぶやき始めた(図336)。彼が彼の唇で立てた音は、巨大な熊蜂が立てるであろう音を思わせた。私には明瞭な言葉は一つも聴取れなかったし、またつぶやくことには休止も無かった。学生が数名、近くに立っていた。他の学生達は道路の傍に立っていて、中には小さな日本の煙管を吸う者もあった。彼等はこの祭儀には、全然無関心らしく、見受けるところ、これはうるさい事だが、我慢しなくてはならぬのだと思っているらしかった。私と一緒にいた矢田部教授は、ここにいる百人の学生の中で、仏教なり神道なりを信じる者は、恐らく一人もあるまいが、而も彼等もすべて、母親や姉妹達が感情を害さぬ為、このようにして埋葬されることであろうといった。それにも拘らず、彼等は静かで真面目で、低い調子で話し、厳粛に、上品に、彼等の学友に対して、最後の回向(えこう)をするのであった。墓はすくなくとも七、八フィートという、非常に深いものであった。棺がその中へ降されると、学生の多くは傘で、土をすこし押し入れ、また一握の土を取りあげて、投げ込む者もあった。これ等の、真面目な顔をした若者達が、墓の周囲に集り、そして静かに四散して行く有様は、悲しい気持を起させた。

[やぶちゃん注:原文。

At the entrance to the cemetery was a sort of reception shed, where the bier with the coffin was placed resting on two wooden supports; the grave-post was rested against the coffin. Soon a Buddhist priest with clean-shaven head came out bearing sprigs of leaves which he leaned against the side of the coffin, one near each end; he then put on his rich brocade robes, lighted the candle, knelt down beside the coffin, and began mumbling a prayer, occasionally tapping a little bell which he had with him (fig. 336). The sound he made with his lips reminded one of the sound a huge bumblebee might make. I could not distinguish an articulate word, nor a pause in the mumbling. A few students stood near. Others were on the side of the road, some smoking their little Japanese pipes; they seemed to be utterly indifferent to the service, apparently regarding it as rather a bore, but one that had to be endured. Professor Yatabe, who was with me, told me that among the crowd of a hundred students there was probably not one who believed in the Buddhist or Shinto religion, but all would be buried in this way so that their mothers and sisters would not feel hurt. Yet they were quiet and serious, talked in low tones, and were paying their last tribute to their departed schoolmate with sobriety and dignity. The grave was very deep, seven or eight feet, at least. After the coffin had been lowered into it many of the students pushed in a little earth with their umbrellas; others took up a handful of earth and tossed it in. It was a sad sight, these soberfaced young men gathering about the grave and then quietly dispersing.

   *

「迎接小舎」原文“reception shed”。“shed”は小屋であるから葬儀や墓参のための応接用の小屋である。

「ここにいる百人の学生の中で、仏教なり神道なりを信じる者は、恐らく一人もあるまいが、而も彼等もすべて、母親や姉妹達が感情を害さぬ為、このようにして埋葬されることであろう」この矢田部良吉の発言は、如何に当時の東大生が先進的な理性集団であると同時に、正しく孝心的で親愛に満ちた人々であったことを如実に物語る実に貴重な証言であると言えよう。

「回向」原文“tribute”。“paying their last tribute”とあり、“pay tribute”は追悼する、弔辞を述べるの意である。

「七、八フィート」2・1から2・4メートル強。モースが「非常に深い」と言っているということは、少なくとも当時のアメリカの場合は、もっと浅かったことを意味していて興味深い。

「学生の多くは傘で、土をすこし押し入れ」この日は雨の中の葬列であったらしい。そういえば、図335の棺の後に続く述べ送りの先頭のにいる人物は傘をさしている。]

 

 私は立派な墓石や、記念碑を、沢山見た。石脈から切り出したままの、不規則な外囲を持った、自然の板石で出来たのもある。岩の平たい割面には、字句が刻んであった。これ等は神道の墓であるとのこと。ここに、二つの非常に異る教の表号が、相並らんで立っている……私は同じ宗教の二つの流派が、それぞれの墓地を、生きている時よりも遠か離れて持っている、我米国を想った。

[やぶちゃん注:原文。

   *

I noticed many fine gravestones and monuments, some being made of natural slabs of rock with irregular contours just as they were quarried from the ledge. Upon the smooth cleavage face of the rock were cut inscriptions; these, I was told, were Shinto graves. Here were the signs of two widely different cults side by side, and I thought of our own country, with its two branches of a single religion, each with its own cemetery, wider apart in death than they were in life.

   *

「不規則な外囲を持った、自然の板石で出来たのもある」佐用彦の現在の墓もそうした一つであるが、この時はまだ最初に書かれた葬列の先頭の者が持っていた「松浦の名前を書いた、長い木の柱」が建てられたばかりであった。現在の墓は翌明治一二(一八七九)年に大学有志らによって建てられたものらしい。モースは同年九月三日に帰米の途に就いているから、それ以前、例えば佐用彦の祥月命日である七月五日に建立されたものか。

「私は同じ宗教の二つの流派が、それぞれの墓地を、生きている時よりも遠か離れて持っている、我米国を想った」「流派」には底本では直下に石川氏の『〔旧教と新教〕』という割注がある。モースのキリスト教嫌いのスパイスが最後に効かされてある(以前にも述べたが、磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によって少し詳しく説明しておくと、モースの父ジョナサン・キンボール・モース(ビーバーや野牛の毛皮を扱う商人であった)は厳格なプロテスタントで、ディーコン(deacon:執事。信者の中から選ばれる教会役員。)を務めるほどの信仰の人であったが、『科学には無関心、というより

科学に関心をもつなど邪道』とするタイプの人であったらしい。さらに先に示した兄チャールズが腸チフスで亡くなった際、『この兄の葬儀の折りに牧師は、洗礼を受けていなかったチャールズは死後に地獄の業火に苦しめられると説教し』、十一歳のエドワードはこれに激しいショックを受け、『生涯消えぬ傷となり、彼はやがて宗教、とくにキリスト教に強い批判を抱くにいたったのである』と磯野先生は述べ、『反対に父親の方は、長男の死以後ますます宗教的に厳しくなり、その厳格さが原因でエドワードはしなしば父と衝突』し、『それも彼の宗教への反感を強めたようだ』と記しておられる)。

 最後に。

 サイト「大森周辺情報」の「松浦佐用彦」で彼の恐らく唯一の写真を見ることが出来る(磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」一七五頁にある東京大学動物学教室蔵とあるものと同じ)。

 ……puer eternus 松浦佐用彦……この彼の名は、「万葉集」にも詠まれてある、かの、新羅に出征船出した恋人大伴狭手彦(おおとものさてひこ)を見送って手を振り続け、悲しみの果てに遂にそのまま石になってしまったという伝説の――松浦佐用姫(まつらさよひめ)――と同名ではないか……モースがこの伝説を聴いていたら、どう思ったであろう……本邦での日本人に対する外国人の捧げたエピタフ(墓碑銘)の嚆矢かとも思われる悼辞を一片の自然石に変じた佐用彦に捧げたモースは……そんなことを……ふと今……私は考えているのである……]

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