『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 長者園
●長者園
旅館長者園は眺望もすぐれたる處に位置を占め、右は葉山の浦里より逗子の出鼻を隔てゝ鎌倉の山つゞき、七里が濱片瀨までも煙の中に姿を見せ、藍一色に畫(ゑが)かれたる江の島は近く白波の末に浮び、左の方洋々たる海上に雲の如く霞の如く見え隱(がく)れする伊豆の大島、富岳正面に見えて、眞に一幅の畫圖(ぐわづ)、誰が見ても好保養地なるを頷(うなづ)くべし。
甞て東京の有志者兩三名、此の地に遊びて、風光絶美なるを賞し、海水浴場を開かばやと、計畫成る、素よりこれ寂莫の濱(ひん)、纔かに風波を凌げる、漁家三四戸ありしを取崩して、廣く地所を購入し、園を結び開館したるは、明治二十年なりき、近年葉山に御用邸をしつらはせられ、逗子の地又昔時(せきじ)の逗子ならず長者園も年々浴客の絶ゆることなし。
麥藁笠深くかぶり、白き肌着を身にまとひて濱邊に下る男女の客、手を連ねて、浪の山山飛び越へ飛び越へ遊び戯むるゝ少年、磯打つ波は雪をくづし霰をちらし、砂(いさご)を嚙むで走しる。
[やぶちゃん注:見え見えのタイアップ記事である。
「長者園」葉山長者ヶ崎にあった旅館兼料亭。山野光正氏のブログ「Kousyoublog」の「三浦半島八景のひとつ、葉山の長者ヶ崎海岸」に、『現在の長者ヶ崎海岸に併設する県営駐車場の付近に明治に入って長者園という旅館兼料亭があり、葉山御用邸の建設頃から観光客や天皇行幸の際の随行団のお泊り所として繁盛しており、いつしか、その長者園の名にちなんで長者ヶ崎と呼ばれるようになったという』。『長者園は長蛇園とも呼ばれ、それにあわせて長蛇ヶ崎と呼ばれたこともあった。その長蛇園の方の由来として、当初長蛇園と名づけたが気持ち悪いので長者園に改めたとされ、その名付の基として東宮侍講として明治天皇に仕えた漢学者三島中洲の詠んだ漢詩に由来するともいう。また、その岬が大蛇の蛇の背のように見え、大蛇が棲んでいたという伝承もあり、そこに由来するとも呼ばれる』とあり、この『長者園には志賀直哉も泊まったといい、与謝野晶子もこの地を歌に詠んでいる』とある。リンク先には山野氏の撮影になる美しい風景写真の他、長者ヶ崎の伝承やここを舞台とした泉鏡花の「草迷宮」についての記載などがあり、すこぶる附きで必見である。]
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