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« その日その時   山之口貘 | トップページ | 橋本多佳子句集「信濃」 昭和二十年 Ⅳ »

2014/04/11

沖繩よどこへ行く   山之口貘

 

 沖繩よどこへ行く

 

蛇皮線の島

泡盛の島

 

詩の島

踊りの島

唐手の島

 

パパイヤにバナナに

九年母などの生る島 

 

蘇鉄や竜舌蘭や榕樹の島

仏桑花や梯梧の真紅の花々の

焰のように燃えさかる島 

 

いま こうして郷愁に誘われるまま

途方に暮れては

また一行ずつ

この詩を綴るこのぼくを生んだ島 

 

いまでは琉球とはその名ばかりのように

むかしの姿はひとつとしてとめるところもなく

島には島とおなじくらいの

舗装道路が這っているという

その舗装道路を歩いて

琉球よ

沖縄よ

こんどはどこへ行くというのだ 

 

おもえばむかし琉球は

日本のものだか

支那のものだか

明っきりしたことはたがいにわかっていなかったという

ところがある年のこと

台湾に漂流した琉球人たちが

生蕃のために殺害されてしまったのだ

そこで日本は支那に対して

まずその生蕃の罪を責め立ててみたのだが

支那はそっぽを向いてしまって

生蕃のことは支那の管するところではないと言ったのだ

そこで日本はそれならばというわけで

生蕃を征伐してしまったのだが

あわて出したのは支那なのだ

支那はまるで居なおって

生蕃は支那の所轄なんだと

こんどは日本に向ってそう言ったと言うのだ

すると日本はすかさず

更にそれならばと出て

軍費償金というものや被害者遺族の撫恤金とかいうものなどを

支那からせしめてしまったのだ

こんなことからして

琉球は日本のものであるということを

支那が認めることになったとかいうのだ

それからまもなく

廃藩置県のもとに

ついに琉球は生れ変わり

その名を沖縄県と呼ばれながら

三府四十三県の一員として

日本の道をまっすぐに踏み出したのだ

ところで日本の道をまっすぐに行くのには

沖縄県の持って生れたところの

沖縄語によっては不便で歩けなかった

したがって日本語を勉強したり

あるいは機会あるごとに

日本語を生活してみるというふうにして

沖縄県は日本の道を歩いて来たのだ

おもえば廃藩置県この方

七十余年を歩いて来たので

おかげでぼくみたいなものまでも

生活の隅々まで日本語になり

めしを食うにも詩を書くにも泣いたり笑ったり起こったりするにも

人生のすべてを日本語で生きて来たのだが

戦争なんてつまらぬことなど

日本の国はしたものだ 

 

それにしても

蛇皮線の島

泡盛の島

沖縄よ

傷はひどく深いときいているのだが

元気になって帰って来ることだ

蛇皮線を忘れずに

泡盛を忘れずに

日本語の

日本に帰って来ることなのだ 

 

[やぶちゃん注:【2014年7月10日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証した際、複数個所のミス・タイプを発見し訂正した上、さらにタイトルを除いた本文は新全集清書原稿に則って本文を改稿、それに合わせて注の一部も改稿した。】思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」(清書原稿を底本に採用)と対比検証により、旧全集の「竜舌蘭」を「龍舌蘭」に変更、

「一行づつ」を「一行ずつ」に変更、

連続する一連になっている「この詩を綴るこのぼくを生んだ島」と「いまでは琉球とはその名ばかりのように」の部分に行空けを施した。

 詩題の中の「沖繩」の「繩」はママ(新全集は「縄」)。

 初出は昭和二六(一九五一)年九月号臨時増刊『婦人倶楽部 講和記念臨時号』(九月十五日発行)で、後、昭和二九(一九五四)年六月十三日号『週刊タイムス』に再掲されている。

 ここに記される以前の沖繩の前史については、例えばウィキの「沖縄県の歴史」などを参照されたい。

「九年母」ムクロジ目ミカン科ミカン亜科ミカン連ミカン属コウキツ(香橘)Citrus nobilis Lour. var. kunep Tanaka のこと。クネンボの方が知られる。他にクニブ、沖繩方言では九年母木(くんぶぬき/くぬぶんぎ/ふにゃらぎ)と呼び、沖縄在来の柑橘カーブチーやオート―及び本土の温州蜜柑の祖先とされる蜜柑品種の一つ。名の由来については種を植えてから実がなるのに九年かかる、「クニブ」という音の「ニブ」がヒンディー語の「酸味の強い小さいレモン」の意でそれが語源ともされる。本来はインドシナ半島原産で南中国を経て琉球に渡り、羽地(はねじ:現在の名護市)で栽培が盛んに行われたことから羽地蜜柑とも呼ばれた。果皮は厚く表面に凹凸が見られ、味は濃厚で酸味が強く、テレピン油に似た独特の香りを特徴とする。十六世紀室町期には琉球から日本本土にも伝えられて栽培もされ、果実サイズが大きなために持て囃された。水戸黄門はこれをマーマレードにして食したという記録も残っている。中でも美味しさを誇る琉球産は重宝されたという。江戸期までは日本本土に於ける柑橘の主要品種であったものの、その後、紀州蜜柑が広まり、また近代に至って大正八(一九一九)年からのミカンコミバエ(双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目ハエ下目ミバエ上科ミバエ科 Bactrocera 属ミカンコミバエ Bactrocera dorsalis)の侵入阻止のための移出禁止措置がとられてからは生産量が激減、今では沖縄本島にも数本しか残っていない貴重な木となってしまった(以上は主に、非常によく纏められてあるpuremcolumn 氏のブログ「The Herb of Ryukyu」の「クネンボ 01 柑橘の母」の記載及び同記載のリンク先などを参考にさせて戴いた)。

「榕樹」ガジュマル(既注)のこと。

「ところがある年のこと/台湾に漂流した琉球人たちが/生蕃のために殺害されてしまったのだ……」「生蕃」は「せいばん」と読み、原義は中国語で中央の教化に従わない原住の人々を指すが、特に第二次大戦前の日本統治時代に台湾の高山族(高砂族)のうち、漢民族に同化していなかったものを指して用いた語。以下は牡丹社(ぼたんしゃ)事件・征台(せいたい)の役・台湾事件などと呼称される台湾出兵の火元となった宮古島島民遭難事件(中国・台湾では遭難船が到着した場所に因んで八瑤灣(ばつようわん)事件と称する)を指す。以下、ウィキの「宮古島島民遭難事件」によれば、日清修好条規の結ばれた明治四(一八七一)年に琉球王国の首里王府に年貢を納めて帰途についた宮古・八重山の船四隻の内、宮古船の一隻が台湾近海で遭難、漂着した六十九人のうち三人が溺死、台湾山中を彷徨った生存者のうち五十四名が台湾原住民によって殺害されたという事件を指す(その際に首狩りが行われたともされる。リンク先参照)。日本政府は事件に対して清朝に厳重抗議したが、『原住民は「化外の民」(国家統治の及ばない者)であるという清朝からの返事があり、これにより、日本政府は』明治七(一八七四)年に明治政府及び日本の軍隊による最初の海外派兵である台湾出兵を行った。事件の詳細はリンク先を参照されたい。

「軍費償金というものや被害者遺族の撫恤金とかいうものなどを/支那からせしめてしまったのだ」「軍費償金」は軍費賠償金。戦争で敗戦国が戦勝国の消費した軍費を償うために支払う金銭で、「撫恤金」の「撫恤」は「ぶじゅつ」と読み、憐れみ慈しむことで、見舞金のことをいう。上記のウィキの「宮古島島民遭難事件」にも戦後処理の項があるが、ここは同じウィキの「台湾出兵」の「収拾への交渉」から引用しておく。『明治政府は、この出兵の際に清国への通達をせず、また清国内に権益を持つ列強に対しての通達・根回しを行わなかった。これは場合によっては紛争の引き金になりかねない失策であった。清国の実力者李鴻章、イギリスの駐日大使パークスは当初は日本の軍事行動に激しく反発した。その後、イギリス公使ウェードの斡旋で和議が進められ、8月、全権弁理大臣として大久保利通が北京に赴いて清国政府と交渉した。大久保は、ルジャンドルとフランス人法学者ボアソナードを顧問として台湾問題を交渉』、『主たる交渉相手は総理衙門大臣の恭親王であった』。『会談は難航したが、ウェードの仲介や李鴻章の宥和論もあって』、同年十月三十一日に「日清両国互換条款」が調印された。『それによれば、清が日本軍の出兵を保民の義挙と認め、遭難民に対する撫恤金(見舞金)10万両(テール)、戦費賠償金40万両』 計50万両を『日本側に支払い、生蕃取締を保証するということになり、それと引き換えに、日本は』明治七(一八七四)年十二月二十日『までに征討軍を撤退させることに合意した。また、清国が日本軍の行動を承認したため、琉球民は日本人ということになり、琉球の日本帰属が国際的に承認されるかたちとなった』とある。この結果、『日本と清国との間で帰属がはっきりしなかった琉球だったが、この事件の処理を通じて日本に有利に働き、明治政府は翌1875年(明治8年)、琉球にたいし清との冊封・朝貢関係の廃止と明治年号の使用などを命令した。しかし琉球は清との関係存続を嘆願、清が琉球の朝貢禁止に抗議するなど外交上の決着はつかなかった』。そして明治一二(一八七九)年に明治政府が強引に行った『琉球処分に際しても、それに反対する清との1880年(明治13年)の北京での交渉において、日本は沖縄本島を日本領とし八重山諸島と宮古島を中国領とする案(分島改約案)を提示したが、清は元来二島の領有は望まず、冊封関係維持のため二島を琉球に返還したうえでの琉球王国再興を求めており、また、分島にたいする琉球人の反対もあり、調印に至らなかった。琉球の帰属問題が日清間で最終的に解決するのは、日清戦争における日本の勝利を待たなければならなかった』とある。

「その名を沖縄県と呼ばれながら/三府四十三県の一員として/日本の道をまっすぐに踏み出したのだ」明治一二(一八七九)年三月に琉球藩(ウィキの「琉球藩」によれば、明治五(一八七二)年の廃藩置県の翌年に琉球国王尚泰は明治政府によって強制的に琉球藩王とされると同時に華族とされ、これによって琉球藩が設置された。これを「第一次琉球処分」と呼ぶとある)は廃止、王府の支配が終了、沖縄県が設置された。

「廃藩置県この方/七十余年」本詩の発表された昭和二六(一九五一)年は廃藩置県から七十九年後である。]

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