兄貴の手紙 山之口貘
兄貴の手紙
大きな詩を書け
大きな詩を
身辺雑記には飽き飽きしたと来た
僕はこのんで小さな詩や
身辺雑記の詩などを
書いているのではないけれど
僕の詩よ
きこえるか
るんぺんあがりのかなしい詩よ
自分の着る洋服の一着も買えないで
月俸六拾五円也のみみっちい詩よ
弁天町あぱあとの四畳半にくすぶっていて
物音に舞いあがっては
まごついたりして
埃みたいに生きている詩よ
兄貴の手紙の言うことがきこえるか
大きな詩になれ
大きな詩に
[やぶちゃん注:【2014年7月22日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。注を一部削除した。】初出は昭和一八(一九四三)年四月号『新文化』(第一書房発行)。
「兄貴」十歳違いの長兄重慶であろう(昭和十八年当時のバクさんは四十歳)。既注済であるが、再度示す。底本全集年譜によれば、『洋画家として既に沖縄画壇に重きをなしていた』と、大正六(一九一七)年の八月に十四歳のバクさんが沖繩の美術集団「丹青美術協会」の会員となった記載に載る。重慶は同協会の幹事であり、バクさんはその手助けをしたともある。あまり知られているとは思えないが、バクさんは若き日は画家を志していた。最初のバクさんの昭和十三年に刊行した詩集「思弁の苑」の表紙の唐獅子を描いたのも彼であった。この兄重慶は敗戦から三か月後、この詩の発表から約二年半後の、昭和二〇(一九四五)年十一月、栄養失調で亡くなっている。「月俸六拾五円」これも既注済みであるが、バクさんはこの時(昭和一四(一九三九)年六月より)東京府職業紹介所に勤務していた。生涯唯一度の定職であったが、この詩を発表した五年後の昭和二三(一九四八)年三月に退職、純粋に詩人として生きることを決意するに至るのであった。参考までに記しておくと昭和十八年当時の大卒銀行員初任給は七十五円、白米十キログラムは三円五十七銭であったから、単純換算で現在の三万六千円相当で、妻子持ちの彼にはとんでもない低賃金であった。
「弁天町あぱあと」昭和一二(一九三七)年十二月に静江さんと結婚したバクさんは、牛込区弁天町(現在の新宿区弁天町)のアパートで新生活を始めている。昭和十三年八月に処女詩集「思弁の苑」を、二年後の昭和十五年十二月に第二詩集「山之口貘詩集」を刊行、昭和十五年の五月から十月にかけては山雅房(第二詩集の刊行元)の「現代詩人全集」の編纂、本詩発表の半年後の昭和十八年十月には金子光晴・伊藤桂一・安西均らを擁した詩誌『山河』の同人となっている。また私生活では昭和十六年六月に長男重也君が誕生するも、翌十七年七月に亡くなっている(以上は底本全集年譜に拠る)。
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兄貴の手紙
大きな詩を書け
大きな詩を
身邊雜記には飽き飽きしたと來た
僕はこのんで小さな詩や
身邊雜記の詩などを
書いているのではないけれど
僕の詩よ
きこえるか
るんぺんあがりのかなしい詩よ
自分の着る洋服の一着も買えないで
月俸六拾五圓也のみみっちい詩よ
辨天町あぱあとの四疊半にくすぶっていて
物音に舞いあがっては
まごついたりして
埃みたいに生きている詩よ
兄貴の手紙の言うことがきこえるか
大きな詩になれ
大きな詩に
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