かれの戦死 山之口貘
かれの戦死
風のたよりにかれの
戦死をぼくは耳にしたのだが
まぐれあたりの
弾丸よりも
むしろ敗戦そのことのなかに
かれの自決の血煙りをおもいうかべた
かれはふだん
ぼくなどのことを
おどかすのではなかったのだが
大君の詩という詩集を出したり
あるいはまた
ぼくなどのことを
なめてまるめるのでもなかったのだが
天皇は詩だと叫んだりしていたので
愛刀にそゝのかされての
自害なのではあるまいか
[やぶちゃん注:【2014年7月19日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証した結果、本文を新全集の清書原稿に変更、さらに注を一部追加した。】検討の末、この一篇は思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の清書原稿を底本本文とすることとした。旧全集では「かれの自決の血煙りをおもいうかべた」の、
「血煙り」が「血煙」
「そゝのかされての」が「そそのかされての」
である。
初出は昭和二四(一九四九)年六月号『魔法』(底本の松下博文氏の解題によれば発行所は「原地社」(東京都渋谷区千駄ヶ谷)とあり、掲載誌の元タイトルは、
彼の戦死 天皇は詩である――平田内蔵吉
とある。また原稿の詩篇目次には、
平田内蔵吉の戦死
ともあると記しておられる。
「かれ」は松下氏の解題を待つまでもなく、「大君の詩という詩集を出したり」によって詩人平田内蔵吉(ひらたくらきち 明治三四(一九〇一)年~昭和二〇(一九四五)年)であることが分かった(以下、事蹟部分はサイト「名詩の林」の「平田内藏吉」にある事蹟及びウィキの「平田内蔵吉」を参考にし、また後に「名詩の林」に載る作品の中の数篇を引用させて戴いた。但し、詩は一部に正字と新字の混在があるので恣意的に正字に統一した。歴史的仮名遣の誤りはママである)。
平田は兵庫県赤穂市に薬種商の長男として生まれ、第七高等学校造士館(現在の鹿児島大学)を経て大正一一(一九二二)年に京大医学部入学。翌年、西田幾多郎哲学に魅かれて文学部哲学科に転部し、大正一五・昭和元(一九二六)年卒業、後に西田哲学に疑問を覚え、京都府立医大に入学し医学界に復帰、昭和五(一九三〇)年には漢方医学を独自に発展させた平田式心理療法(熱針術)を提唱し、昭和一一(一九三六)年にはオリジナルな操練法、経絡式中心操練法を考案、「国民体育」として発表している(平田は自らが創始した療法体系を「皇方医学」(皇法医学)と名付けている)。彼は坐の哲学と日本精神の真髄を追究したり、吉凶判断も研究したりするなど思想的な動揺が激しく、精神的遍歴の後に本居宣長・平田篤胤の世界に辿りつき、「真の哲学」を処女出版、民間治療・東洋運命学の研究に就きつつ詩作し、処女詩集「大君の詩」・第二詩集「考える人」・第三詩集「美はしの苑」がある。「現代詩人全集」「歴程詩集」にも作品を寄せている。陸軍中尉として従軍した沖縄戦線において大里村で戦死した。なお、劇作家平田オリザは彼の孫である。
平田内蔵吉は恐らくバクさんが『歴程』同人となった(昭和一一(一九三六)年十月。バクさん三十三歳の時)のと同時期に同同人となったものと思われ、その頃からのバクさんの知己であった(平田はその後に『歴程』編集人も務めている)。昭和一五(一九四〇)年には平田とバクさん二人で山雅房刊の「現代詩人集」(全六巻)の編纂に携わっており、同年十二月にバクさんが同じ山雅房から出した「山之口貘詩集」(初版本)の改訂版である「定本 山之口貘詩集」の「あとがき」には『なほ、初版本で、目次にある作品番号と旧歴年号、木炭と詩集ケースのデザイン、肖像写真の撰定などは、當時の山雅房と深い親交のあつた詩友平田内蔵吉氏の厚意によつて配慮されたものである』とある通り、平田内蔵吉はバクさんが公言出来る数少ない真の『詩友』であった。
*
理由 平田内藏吉
言葉のない葉が落ちてくる
理由のいへないポプラの葉
それは天の命令により
默つてしづかに舞ひおりる
理由の無い刃
理由のない彈丸
その交響には音がない
命令に理由なし
命令に理由を聞くな
命令に理由を云ふな
斷固たる咆哮がきこえる
斷固たる突擊がはじまる
葉ははらはらと落ちてる
始めてみる靜けさ
それをいぶかる顏の
額の横筋が著(し)るく
はじめて聽くしづけさを
眼(まなこ)ひらいて觀つめてゐる
花は明(あか)い
空は碧い
おお 理由よ どこへ行つた
どこへ行つた
*
水魚 平田内藏吉
川底はいつまでも搖れつづけ
水はその中を流れて行つた
渦巻き たばしり またうづまき
水源(みなもと)はふるひ動いて 魚らは隱れ
水はめぐりめぐり 流れはよどみ
溢れては復 流れて行つた
谷に止(とど)められ
山にさへぎられ
水は苦しみながら 溢れて行つた
溢れては復 流れて行つた
魚らは迷いながら躍つて行つた
水はその水量(みづかさ)に涙を加へ
魚らは右に左に旋轉した
水は止まつて忍び泣き
激しては大聲あげて 泣きつづけた
ついに心怒つた魚らは
今は身を捨てて
身を跳ねて
ためらふ水を勵した
*
墨色小景 平田内藏吉
三角形やアルファベットの問題集をすてて
山崎山の岩上に坐る
夕立雲南に湧いて空を呑み
駈け歸る一本野道の彼方に
小さい祖母の傘もつた姿がよろめき
鳴る神のひびきととどろきせまつて
一聲呼べば雨は急いでふりかかる
*
鯨 平田内藏吉
鯨らは群れて、空高く
息の潮を噴いて行つた
そのシロナガスクジラの列
母鯨らは乳をたくはえて
困難な海の哺育を試みながら
東へ東へ濤をおしわけ
兒鯨は鰯と小蝦にその口をあけて
弟鯨は前肢の鰭をゆりはやめ
鼻高擧げて進んで行くころ
サスマタたちがあらはれた
鯨らは躍り跳ね鬪ひ暴れて
八十呎(フィート)の身長を水面に浮かせ
八十六噸(トン)の體重を波間に沈め
海の陣形をひた守りながら
さらに東へ突進した
サスマタの倒した屍たちは
海流に隨つてただよつて行つた
その一匹の右側を白く
その一匹の左側を玄く
波はゆすつて洗つて行つた
鯨らは只一筋に進んで行つた
逆巻く海もその潮も
いまは鯨らに従つて行つた
*
グーグル画像検索「平田内蔵吉」をリンクしておく。]
« 耳囊 卷之八 幽魂貞心孝道の事 | トップページ | 篠原鳳作句集 昭和一一(一九三六)年九月 蟻よバラを登りつめても陽が遠い »