日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 30 新富座での観劇 Ⅰ
今朝私は、子供達と、劇場へ行った。その建物は新しく、日本では最善且つ最大で、一千五百人を収容することが出来る。照明には瓦斯(ガス)を使用し、換気法もよく行われ、総体としてよい興行館である。形は四角く、桟敷は広間の左右と背後とにあり、舞台に面する桟敷は非常にとされているのは、桟敷ボックスである。我国の劇場で、座席が列をなして並んでいるのとは異り、広間は六フィート四方、深さ一フィート強で、大人四人と子供二人とが坐り得る広さの区割に、わけてある。通路はこれ等の区劃と同じ高さにあり、区劃の縁は幅四インチであるから、人は劇場に入ると先ず通路を歩き、次に釣合いをとりながら、これ等の区劃をしきる横棒の上をつたい歩いて、自分の場所まで行く。この建物は住宅のすべてと同様、自然その儘の木材で出来上っていて、ペンキ、油、ワニス等は更に使ってなく、塡材などもしてない。天井は見受る所、幅三フィートの板で出来ていた。これから二つの大きな瓦斯集合燈架(シャンデリア)がぶら下り、また脚光にも瓦斯が使用してあった。図332は往来から、この劇場を極めてザッと写生したもので、その前面にかかっているのは、俳優達を色彩あざやかに描いた絵である。
[やぶちゃん注:種々のネット上の記載を勘案した結果、私はこれは明治一一(一八七八)年の六月七日に近代劇場として満を持してリニューアルされた新富座であろうという結論に達した(これについて疑義のあられる方は反証を御呈示の上で御連絡戴ければ、即座に検証を再検討する用意がある)。以下、ウィキの「新富座」より引用する。『新富座(しんとみざ)は、明治8年(1875年)に守田座を改称して設立された株式会社組織の劇場。経営者は12代目守田勘弥。所在地は京橋区新富町6丁目36・37番地(現在の中央区新富2丁目6番2号)』である。『明治9年(1876年)11月、日本橋区数寄屋町の火災で類焼し、翌年4月、新富町4丁目に仮劇場を設営。明治11年(1878年)6月7日、ガス灯などを配備した近代劇場を新設し大々的な洋風開場式を行う』。『太政大臣・三条実美をはじめ各外国公使らも貴賓として開場式に招待された。西洋劇場に倣って、日本で初めて夜芝居興行を行う。リットンの戯曲『Money』を翻訳した『人間万事金世中』(明治12年(1879年)3月)やウエルノン一座を招いて『漂流奇談西洋劇』(明治12年(1879年)9月)を上演、九代目市川團十郎による活歴が行われるなど、明治時代中期の演劇改良運動の場となった』。『明治21年(1888年)9月26日、新設予定の歌舞伎座に対抗するため市村座・中村座・千歳座と四座同盟を結ぶ。その後の新富座は歌舞伎座と歩調を合わせながら明治の歌舞伎黄金時代を築くことに貢献していった』。『明治43年(1910年)松竹が買収して同社の経営下に移る。そして大正12年(1923年)9月1日の関東大震災で被災するとそのまま再建されず劇場は廃座となった。現在、跡地は京橋税務署と東京都中央都税事務所が建っている』とある新富座である。モースは「その建物は新しく、日本では最善且つ最大で、一千五百人を収容することが出来る。照明には瓦斯(ガス)を使用し、換気法もよく行われ、総体としてよい興行館である」と述べている。これ以上、条件がぴったりくる劇場は他にはないように私には思われるのである。
「広間は六フィート四方、深さ一フィート強」広間の升席が1・8平方メートルで、その升席自体が30・48センチメートル床下に掘り下げられている、ということを意味する。
「区劃の縁は幅四インチ」一〇・一六センチメートル。この細い升席の枠(モースは「横棒」、原文“the aisles”(「いろいろな座席間の通路」の意)と言っている)の上を歩くのは巨体のモースには、これ、ちょっとしんどかったであろう。
「塡材」原文は“wood filling”。補強用の木材の充填材。
「三フィート」九十一センチメートル。
「脚光」原文“the footlights”。フットライトそのままの方が今は通りがいい。]
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