応召 山之口貘
応召
こんな夜更けに
誰が来て
のっくするのかと思ったが
これはいかにも
この世の姿
すっかりかあきい色になりすまして
すぐに立たねばならぬという
すぐに立たねばならぬという
この世の姿の
かあきい色である
おもえばそれはあたふたと
いつもの衣を脱ぎ棄てたか
あの世みたいににおっていた
お寺の人とは
見えないよ
[やぶちゃん注:【2014年7月22日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。注を追加した。】初出は昭和一七(一九四二)年三月十六日附『帝国大学新聞』で、翌年の昭和十八年五月発行の『国民詩選 昭和十八年版』及び昭和十九年十月発行の『歴程詩集(二六〇四)』にも再録された。
この召集令状、赤紙を受け取っているのはバクさんではない(当時、バクさんは数えで四十歳で、この年までの国民兵役の招集上限は四十歳、翌昭和十八年にこれは四十五歳まで引き上げられたが、幸い、バクさんは招集されていない)。一つの可能性としては底本年譜の昭和十七年の項の冒頭、『春、甥山浦俊彦を鹿児島の連隊まで送って行く』とある、この甥の可能性が高いようには思われる。
「お寺の人とは/見えないよ」本来、召集令状は当該地の役所役場の兵事係吏員が応召者本人に直接手渡しすることになっていたから、この僧侶はおそらく役場の給仕などの仕事を日常的に兼務していたものであろう。本詩のミソはまさに赤紙配達人が平素見慣れた寺のお坊さんであったというところにもある。ここには戦争という非人間的な壁の前で呆然とする、血の通った人間の姿が垣間見られる。
但し、私は実は、戦後に主張された、ある種の作品に対しての「反戦」という評論家らの思想的評価に対して、ある意味で深い猜疑を持っているということをここで敢えて述べておきたい。
無論、誰が読んでもそう読める作品は確かに、ある。しかし、そうしたものは普通は検閲されて無惨に伏字や発禁となり、多くの作者は特高に捕縛されて転向を余儀なくされた。
しかし、俳句や詩といった短詩形文学の場合、その象徴的特性によって、如何ようにも読み取れるものが圧倒的に多い(そういう回避的戦略を幾人かの良心的作家が確信犯として採ったとも言えるし、逆にそんな反戦意図のないものを無理矢理に反国家主義・社会主義思想の象徴とされて指弾された不幸な作家も多い。個々の例は挙げないがシュールレアリスムの洗礼を受けた美術家や新興俳句の作家たちの蒙った不幸はまさにそれである)。
だからこそ私は、検閲をかいくぐった奇蹟とされ、現在、この弛んだ今の世に在って、非常に高く「反戦」作品として高く称揚評価されるものを見ても、必ずしもそれに香を炷(た)く気分にはなれないものもまた多いということも事実なのである。
バクさんの戦前戦中の幾つかの詩の中にも今、「反戦詩」として高く再評価されているものが幾つもある。私も無論、それらの詩の反戦性には素直に肯んずるものであり、それに対して反駁しようというものでは毛頭ない(実際に先に掲げた詩の幾つかに対して私は私の感懐として「反戦」「反戦詩」という言葉を安易に弄してきた。その点でここで敢えて「反戦詩」という語を云々することに対しては無論、内心忸怩たるものを感じてはいる)。しかし私に言わせれば、「反戦詩」というぺらぺらの勲章やレッテルを、戦後の評論家たちによって、詩史の中で自分の詩に張り附けられていることを、果してバクさんは/少なくともバクさんは、果して快く思っているだろうか?……と考えるとき……私は何だか逆に妙に鬱々とした気分に堕ちてしまうのを常としているのである……
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應召
こんな夜更けに
誰が來て
のっくするのかと思ったが
これはいかにも
この世の姿
すっかりかあきい色になりすまして
すぐに立たねばならぬという
すぐに立たねばならぬという
この世の姿の
かあきい色である
おもえばそれはあたふたと
いつもの衣を脱ぎ棄てたか
あの世みたいににおっていた
お寺の人とは
見えないよ
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