中島敦 南洋日記 二月五日
二月五日(木) 晴 ペリリュウ
十時出帆。みどり丸はちちぶ丸より稍大なり。オイカワサン舟に在り。岩山頗る多く風景佳。ペリリュウに近づくにつれ、海水綠茶色となる。浚渫愈により積上げられたる砂の山。一時半着。暑し。砂濱。向ひの島。鵬南運輸にトランクを置き國民學校に入り校長と語る。三時、授業終了と共に生徒等と鵬南のトラックに乘り、アシヤスに向ふ。海岸。干潟。丈低き稚郁子。(昭和初頭の大暴風雨の時、在來の椰子樹悉く倒れたれば、現在のものは、其の時以來のものなりと。二十年足らずの譯なり)攀援類。島民家屋、格納庫。三時半公學校着。獨りぐらしの岡本校長の家に入る。校内前のアバイにサーカスかかれり。カフェーもあり。少しく散歩するに、池あり崖ありて公園風の所に出づ。後に聞けば、興發にて憐鑛を掘りしあとに水の溜れるなりと。夜、校長と平松氏(氣の毒なるひねくれ者)と共にサーカスを見に行く。滿員。直ぐに出て、公學校の教室に、島民女子靑年圍の舞踊練習を見る。一人、ときゑとかいふ中々巧きがあり。又、ちやもろらしき容貌のものもあり。羽衣。夜間飛行頻り。平松氏の所に行き三十分程話す。久しぶりに豚肉。
[やぶちゃん注:太字「ちやもろ」は底本では傍点「ヽ」。
「」疋田康行氏の論文「戦前・戦時期日本の対インドシナ経済侵略について」(ネット上でワード文書によりダウンロード可能)の中の「1 南方進出の組織化 (1)南進特殊会社の乱立」の冒頭に(下線部やぶちゃん)、
《引用開始》
日本の南方進出のための特殊会社にはすでに台湾銀行があったが、第一次世界大戦および満洲事変を契機として、特殊会社の「乱立」が生じている。まず、1914年10月に海軍がドイツ領南洋諸島を占領したあと、西村拓殖株式会社・南洋殖産株式会社の両社が設立されてサイパン島に甘蔗作農民の移民事業を行なったが、1920年恐慌によって破綻し入植農民が飢餓状態に陥ったことから、1921年11月に東洋拓殖会社が両社への救済投資を行ない、さらに両社をもとに東洋拓殖の子会社として南東興発株式会社(1921年10月、南洋会社要覧によれば1919年11月)が設立された。同社は、南洋群島を中心的事業地として多方面に事業展開を行ない、南興水産・南太平洋貿易・海洋殖産・南興真珠・南洋石油・鵬南運輸・日本真珠・南方産業などの子会社・投資会社を獲得して行った。1931年には、南洋興発合名会社を設立してオランダ領ニューギニアのマノクワリで棉作・ダマル栽培を開始し、東南アジアでの事業活動を本格化した。
《引用終了》
と出、南東興発株式会社の傘下であることが分かる。
「みどり丸」先に示した秩父丸は総トン数一万七千五百二十六トンであるから、それより大きいとなると検索で掛からないはずがないのだが、不明。不審。識者の御教授を乞う。
「平松氏(氣の毒なるひねくれ者)」初対面で個人名を挙げながら、敦がかく評するのはかなり異例。余程の「ひねくれ者」らしい。「ひねくれ者」の私にはそそられる人物である。そもそも「氣の毒なる」と形容するところに敦の幾分かのこの不思議な「ひねくれ者」「平松氏」への興味が感じられもする。人寂しいこともあろうが、だからこそ「平松氏の所に行き三十分程話」しもしたという気が私にはするのである。
「憐鑛」リン鉱石、グアノであろう。十一月二十三日に既注。
「ときゑ」日本名であるが、現地人の娘であろう。
「羽衣」本邦の羽衣伝説を舞踊化した教材舞踊であろう。]
« 萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「午後」(9) たそがれ Ⅵ / 「午後」 了 | トップページ | 飯田蛇笏 靈芝 昭和八年(四十四句) Ⅲ »