『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 館跡 附古墳
●館跡 附古墳
小名殿ケ谷 東南の山間にある、水田にして、東は山を負ひ、西に堀跡あり、俚俗傳へて長江太郎義景の館跡(くわんせき)なるべしといふ 山の裾に洞(ほら)あり、方四尺深三尺餘、洞中に五輪塔三基列す、二基は高三尺五寸、一基は小なり、皆(みな)四面に梵字を彫るのみ、其餘文字なし、長江氏の墓なるべし。
[やぶちゃん注:葉山町長柄にある。個人サイト「テキトーに鎌倉散歩」の「義景大明神へ参る!」にテキトーどころか子細な探訪録がある。必見。
「長江太郎義景」(生没年不詳)は鎌倉前期の武士。ウィキの「長江義景」によれば、鎌倉氏の一族で大庭(鎌倉)景継を父とする説と鎌倉景明を父とする説がある(当時の鎌倉党は養子関係が多く系図が錯綜している)とあり、『葉山町に館を構えてから長江を名乗ったらしい』(この地の長柄の地名由来と思われる)。『源平合戦では、縁戚の三浦氏と協力して源頼朝に与する。衣笠城の戦いでは敗れたが、そこから敗走したあと頼朝に合流し、鎌倉幕府黎明期の重臣となった』。『頼朝が征夷大将軍になった後、義景は伊勢大廟神宝奉行となった。また、義景は弓の名手としても高名であり、頼朝の信任が厚かった』。義景には三人の男子が居たが、『明義の系統は宝治合戦で滅亡、景行は桑良氏を称し、唯一師景の系統が長江家の家名を後世に伝えた』とある。
「方四尺深三尺餘」入口が一・二メートル四方で奥行は九〇センチメートル余。鎌倉のやぐらとしてはかなり小さい。ここは鎌倉時代は御府内と思われ、やぐらがあってもおかしくない(鎌倉にほぼ特異的に存在するやぐらが、ある別な場所にある場合、そこが当時の鎌倉御府内若しくはその直接の又は御府内にある寺院などの領地であったことを証左するというのが現在の定説である)。
「三尺五寸」一〇六センチメートル。]

