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2014/05/31

杉田久女句集 231 節分の宵の小門をくゞりけり

  京都吉田に鈴鹿野風呂氏訪問 一句

  王城、草城、白川御夫婦、雄月氏等

 

節分の宵の小門をくゞりけり

 

[やぶちゃん注:これは編年式編集の角川書店昭和四四(一九六九)年刊「杉田久女句集」から、大正一三(一九二四)年のことであることが分かるが、底本年譜には記載がない。久女三十四歳。

「吉田」は京都府京都市左京区南部の地域名。

「鈴鹿野風呂」(すずか のぶろ 明治二〇(一八八七)年~昭和四六(一九七一)年)は俳人。本名、登。京都生。京都帝国大学卒。高濱虚子に師事し、『ホトトギス』同人。大正九(一九二〇)年の京大三高俳句会を母体として日野草城・田中王城らとともに『京鹿子』を創刊、同誌は後に野風呂が主宰となって関西に於けるホトトギス派の中軸となっていった。俳諧活動の傍ら学校でも教鞭をとり、戦後の一時期には旧制京都文科専門学校の最後の校長を務めている。『京鹿子』発行所でもあった吉田中大路町にあった生家は現在、野風呂記念館となっている(主にウィキ鈴鹿野風呂に拠る)。当時三十七歳。現代俳句協会の「現代俳句データベース」に載る彼の句を掲げておく。

 しぼり出すみどりつめたき新茶かな

 北嵯峨の水美しき冷奴

 雲を吐く三十六峯夕立晴

「王城」田中王城(明治一八(一八八五)年~昭和一四(一九三九)年)は俳人。京都生。本名、常太郎。初め、正岡子規の句風を慕い、中川四明にも学んだ。後に高浜虚子に師事し、『ホトトギス』同人となり、京都俳壇の第一人者となった。大阪俳壇の先進とともに関西全般に多くの門下を育て、また雑誌『鹿笛』を刊行した(思文閣「美術人名辞典」に拠る)。ネット上から句を引く。

 竹伐るやうち倒れゆく竹の中

 水取や廂につゞく星の空

 山茶花のあらたに散りぬ石の上

「白川」『京鹿子』同人の水野白川(本名、武)であろう。彼の句はネットでは次の一句しか見つからなかった。

 京なれやまして祇園の事始

「雄月」不詳。]

山之口貘「加藤清正」を訂正・注改稿

「加藤清正   山之口貘」のミス・タイプを訂正、思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証により注を全面改稿した。

2014/05/30

飯田蛇笏 靈芝 昭和十年(九十九句) Ⅷ

 

綺(かむはた)すをとめがふめる秋の土

  註。綺は神機の義、錦の薄き布を織るなり。

 

[やぶちゃん注:「綺」現代仮名遣では「かんはた」。日本古代の織物の名で幅の狭い紐状の織物。横糸に色糸を用いて織り縞を表している。朝服の帯や経巻の巻き緒(お)に使われている。綺(き)。平凡社「世界大百科事典」では、綾の古名で単色の紋織物を指す。中国では古く戦国時代にすでに「綺」の名称があり。「戦国策」鮑彪の注には『綺は文様のある繒』とある。「繒」は「かとり」で上質の平絹のこと。また「漢書」地理志の顔師古の注に『綺は今日いう細かい綾』とあって、元の「六書故」には、綺は彩糸で文様を織り出した錦に対して単色で文様を表わした織物である旨の記載がある。現存する作例、例えば馬王堆一号漢墓その他の出土例から古代の「綺」の特色を見ると殆んどが平地の経の浮紋織或いは平地の経綾の紋織になっている、とある。]

 

秋しばし寂日輪をこずゑかな

 

新凉の花知る揚羽雲のなか

 

  上高地行

 

秋口の粥鍋しづむ梓川

 

神葬る秋凉の灯に髫髮童どち

 

[やぶちゃん注:「髫髮童」は恐らくこれで「うなゐ」と訓じているものと思われる。本来は「髫髪」で「うなゐ」と読み、元は「項(うな)居(い)」の意かとされ、昔、七、八歳の童児の髪を項(うなじ)の辺りで結んで垂らした髪型、また、女児の髪を襟首の辺で切り下げておく髪型である「うないがみ」を指す。また、その髪型にした童児。若しくはそこから幼い子供の意となった。ここは最後の謂いであろう。]

 

巖がくり齒朶枯れなやむ秋日かな

 

洪水の林の星斗秋に入る

 

[やぶちゃん注:「星斗」は「せいと」で星辰(せいしん)、星のこと。]

 

大巖にまどろみさめぬ秋の山

 

秋猫乎地階の護謨樹に鈴鳴れる

 

渡り鳥山寺の娘は荏を摘める

 

[やぶちゃん注:「荏」は「え」で、シソ目シソ科シソ属エゴマ Perilla frutescens 変種エゴマ Perilla frutescens var. frutescens のこと。]

 

射とめたる稻すゞめ浮く榛の水

 

[やぶちゃん注:「榛」既注。音「ハン」、落葉低木のブナ目カバノキ科ハシバミ属 Corylus ハシバミ Corylus heterophylla var. thunbergii を指すが、実は本邦ではしばしば全くの別種である落葉高木のブナ目カバノキ科ハンノキ Alnus japonica に誤って当てる。先行句の用法から後者であろう。]

 

菩提樹下籠搖るとなく蟲鳴けり

 

桑かげのさやかに蓼の咲きにけり

 

  嵐峽

 

秋蠅もとびて大堰の屋形船

 

[やぶちゃん注:京都嵐山の中心を流れる大堰川(おおいがわ)の、古えの公家の船遊びを真似た観光遊覧の屋形船。明治初期からあった。]

 

雨やんで巖這ふ雲や山歸來

 

[やぶちゃん注:「山歸來」は「さんきらい」で、本来は生薬(地下の根茎を利尿・解熱・解毒薬として用いる)知られる単子葉植物綱ユリ目サルトリイバラ科シオデ属ドブクリョウ Smilax glabra のことを指すが、これは本邦に自生せず(中国・インドシナ・インドに分布)、ここでは同じように生薬として用いられる本邦にも産するシオデ属サルトリイバラ Smilax china の別名である。ウィキサルトリイバラを参照されたい。グーグル画像検索「Smilax chinaも併せてリンクしておく。]

 

團栗をもろに唅める山童

 

[やぶちゃん注:「唅める」の「唅」は底本では「唫」であるが、ようにこれは誤字誤用と思われるので敢えて訂した。]

 

貧農の齒が無い口もと年の暮

 

手をたれて寒くもあらぬ花圃に出ぬ

 

  山賤龍眼肉を啖ふとて、一句

 

死ぬばかりあまく妖しき木の實かな

 

鞴火のころげあるきて霜夜かな

飯田蛇笏 靈芝 昭和十年(九十九句) Ⅶ

 

大漁籃に日雨すぎつつ船の蠅

 

[やぶちゃん注:「大漁籃」は「おほびく」と訓じていよう。普通、捕獲した魚を入れおく「びく」は「魚籠」「魚籃」と書く。「日雨」既注。]

 

やまみづの珠なす蕗の葉裏かげ

 

娘のゑまひ錢をさげすみメロン買う

 

[やぶちゃん注:「買う」はママ。老婆心乍ら、「ゑまひ」は「笑まひ」「咲まひ」でほほえむこと、微笑。現代仮名遣では「えまい」。]

 

月見草墓前をかすめ日雨ふる

 

死火山の膚つめたくて草いちご

 

薤掘る土素草鞋にみだれけり

 

[やぶちゃん注:「薤」は「らつきよう(らっきょう)」若しくは「らつきよ(らっきょ)」で単子葉植物綱サスギカズラ目ネギ科ネギ属ラッキョウ Allium chinense のこと。中七「土素草鞋に」は「つち/すわらぢに」と読む。]

 

鎌かけて露金剛の藜かな

 

[やぶちゃん注:「藜」は「あかざ」と読み、普通に目にするナデシコ目ヒユ科 Chenopodioideae 亜科 Chenopodieae  アカザ属シロザ Chenopodium album 変種アカザChenopodium album var. centrorubrum である。イメージ出来ない方のためにグーグル画像検索「Chenopodium album var. centrorubrumを示しておく。]

 

行き行きて餘花くもりなき山の晝

 

[やぶちゃん注:「餘花」は「よか」で、初夏に入ってもなお咲き残っている桜の花を指す。夏の季語。]

 

   蘆川大溪谷

 

鳶啼けり溪こだまして餘花の晝

 

[やぶちゃん注:「蘆川大溪谷」現在の甲府市古関町にある芦川渓谷。標高一七九三メートルの黒岳に源を発する芦川は笛吹市芦川町から甲府市古関町を経、市川三郷町で笛吹川と合流する延長二十五キロメートルに及ぶ清流で、流域には名勝・奇勝が多く、現在でも自然がそのままに残っている貴重な渓谷である。天然のイワナやヤマメ釣りでも知られ、シーズンには大勢の釣り人が渓流釣りを楽しむ、と「公益社団法人やまなし観光推進機構」公式サイト「ふじの国やまなし 観光ネット」の芦川渓谷の紅葉にある。]

 

聖堂の燭幽かにて花圃の秋

 

[やぶちゃん注:「花圃」は「かほ」と読み、お花畠。花園。これ自体が秋の季語となっている。]

橋本多佳子句集「紅絲」 沼 Ⅴ 事ありて 

   事ありて

 

手繰れど手繰れど海に頭(づ)向けて凧落ちゆく

 

せめて瞋(いか)りあらばやすけし冷ゆる蹄

 

寒星ひとつ燃えてほろびぬ海知るのみ

 

何をか待つ雪着きはじむ松の幹

 

[やぶちゃん注:意味深長な前書であるが、年譜上から如何なる「事」であったかは全く知り得ない。]

杉田久女句集 230 橋本多佳子氏と別離 四句

  橋本多佳子氏と別離 四句

 

忘れめや實葛の丘の榻二つ

 

[やぶちゃん注:「實葛」は「みくず」で常緑蔓性木本のモクレン亜綱マツブサ科サネカズラ Kadsura japonica のこと。ビナンカズラ(美男葛)ともいうが、これは昔この蔓から粘液をとって整髪料に使ったことに由来する。葉は長さ数センチメートルで光沢があり、互生。通常は雌雄異株で八月頃開く花は直径一センチメートルほど。十枚前後の白い花被に包まれ、中央部分に雄蕊或いは雌蕊がそれぞれ多数、螺旋状に集まっている。雌花の花床は結実とともに膨らみ、キイチゴを大きくしたような真っ赤な丸い集合果をつくる。花は葉の陰に咲くが、果実の柄は伸びて七センチメートルにもなることがあり、より目につくようになる。単果は直径一センチメートルほどで、全体では五センチメートルほどになる。果実は個々に落ちて、あとにはやはり真っ赤なふくらんだ花床が残り、冬までよく目立つ(ここまでは主にウィキサネカヅラ」に拠る。グーグル画像検索「Kadsura japonica)。この「丘」とは櫓山荘のあった小倉北区中井浜櫓山(やぐらやま)のことと思われる。]

 

芋畠に沈める納屋の露けき灯

 

遊船のみよしの月に出でたちし

 

脱ぎ捨てし木の實のかさもころげをり

 

[やぶちゃん注:これらは橋本多佳子が、昭和四(一九二九)年十一月、夫豊次郎の大阪橋本組の創立者で父の橋本料左衛門の逝去に伴い、夫が本社(豊次郎は大阪橋本久美北九州出張所駐在重役であった)へ移ることとなり、櫓山荘から大阪帝塚山に転居したことを指す(豊次郎は昭和一二(一九三七)年九月に享年五十で逝去したが、櫓山荘は後の昭和一四(一九三九)年までは多佳子の別荘として使用された)。なお、この十一月二十三日には「ホトトギス四百号記念俳句大会」が大阪中央公会堂で開催され、それに出席した久女は多佳子と再会、多佳子は久女の紹介で多佳子終生の師となる山口誓子に初めて逢っている(この部分は立風書房一九八九年刊の「橋本多佳子全集」年譜に拠る)。久女三十九、多佳子三十歳。

杉田久女句集 229 昭和元年 箱崎にて 七句

  昭和元年 箱崎にて 七句

 

病間や破船に凭れ日向ぼこ

 

間借して塵なく住めり籠の菊

 

炭つぐや頰笑まれよむ子の手紙

 

筑紫野ははこべ花咲く睦月かな

 

山茶花の紅つきまぜよゐのこ餠

 

ゐのこ餠博多の假寢馴れし頃

 

ゐのこ餠紅濃くつけて鄙びたる

 

[やぶちゃん注:「箱崎」現在の福岡県福岡市東区箱崎。福岡市東区南部にあり、現在は東区区役所が置かれている東区の行政上の中心。古い町並みが残っており、筑前国一の宮で旧官幣大社の筥崎宮(はこざきぐう)などの神社や史跡が多く存在する(以上はウィキの「箱崎」に拠る)。底本年譜の大正一五・昭和元(一九二六)年の条に、『十一月、病気療養のため箱崎へ』とあり、『俳句に専心の心を固める』ともある。前掲の坂本宮尾氏の「杉田久女」には『入院治療するほどではなかったのであろう、しばらく福岡の箱崎で部屋を借りて静養』したとある。

「ゐのこ餠」「ゐのこ」は「亥の子」で旧暦十月即ち亥の月の最初の亥の日に行われる祭祀行事で主に西日本で見られるもの。亥の子餅を作って食べて万病除去や子孫繁栄を祈る、子供たちが地区の家の前で地面を搗いて回ったりする。玄猪・亥の子の祝い・亥の子祭りともいう。参照したウィキによると、古代中国で旧暦十月『亥の日亥の刻に穀類を混ぜ込んだ餅を食べる風習から、それが日本の宮中行事に取り入れられたという説』、『古代における朝廷での事件からという伝承もある。具体的には、景行天皇が九州の土蜘蛛族を滅ぼした際に、椿の槌で地面を打ったことに由来するという説である。つまりこの行事によって天皇家への反乱を未然に防止する目的で行われたという。この行事は次第に貴族や武士にも広がり、やがて民間の行事としても定着した。農村では丁度刈入れが終わった時期であり、収穫を祝う意味でも行われる。また、地面を搗くのは、田の神を天(あるいは山)に返すためと伝える地方もある。猪の多産にあやかるという面もあり、またこの日に炬燵等の準備をすると、火災を逃れるともされる』とある。ウィキ亥の子餅には、『名称に亥(猪)の文字が使われていることから、餅の表面に焼きごてを使い、猪に似せた色を付けたものや、餅に猪の姿の焼印を押したもの、単に紅白の餅、餅の表面に茹でた小豆をまぶしたものなど、地方により大豆、小豆、ササゲ、胡麻、栗、柿、飴など素材に差異があり、特に決まった形・色・材料はない』とあって、「摂津国能勢における亥の子餅」という項を設けて、そこには神功皇后と応神天皇に纏わる詳しい伝承が記されてある。応神天皇の誕生は神功皇后が三韓征伐から戻った筑紫での出来事であり、福岡との関連もありそうである。また、箱崎の筥崎宮参道沿いにある真言宗恵光院のタウンページ」記載にある「年間定例行事」の十一月に『初亥の日 いのこ金幣祭』というのがあり、『いのこまつりは地方により祝い方が異るが中国の行事(この日に餅をついて食べると万病がよくなる)を真似て古くは平安時代から伝わる風習があ』り、『いのこ節句というところもあればイロリの焚き初めといい季節の変わり目と考えているところ、稲の収穫を祝うところもある』とし、当院では愛染明王を御神体として、『すし桶と一升桝を用いてその中に明王の金幣を立て、いのこ餅、御神酒を供え季節の野菜や果物を盛りつけて』祀るとある。『すし桶や一升桝を使うのは家庭円満で益々繁昌、良縁、安産を願うという意味』の他に、『イロリを祝うまつり』で、『参詣者には金の御幣と供物のぎんなん、紅白の鏡もち、稲穂』が授けられるともある。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十二章 北方の島 蝦夷 6 和船について

M345
図―345

M346
図―346

 

 今や港は、米を下し魚を積み込む日本の通商戎克(ジャンク)で、一杯になっている。図345はその一つの写生で、割によく出来ていると思う。檣(マスト)のてっぺんは、折れているのではない。何等かの目的で、みなこんな風に傾いているのである。舟には全然塗料が塗ってなく、絵画的に見える。帆走しているのはめったに見当らないので、しょっ中碇を下しているように思われる。そして文字通り平底――竜骨は影も形もない――だから、追手の時だけしか帆走出来ない。舵は船に対して恐しく大きく、使用しない時には、妙な形に水から引き上げておく(図346)。鎖国していた時、政府は外国型の船舶を造ることを許さなかった。これは政府が、日本船のふたしかであることを知り、かかる船は嵐にあうと制御出来なくなるので、日本人はやむを得ず海岸近くを走っていたのだという。沿岸通商で、彼等は海岸に沿うて二日か三日帆走し、聊かでも、風や暴風雨の徴候が見えると、港湾に入り込み、嵐の来ること、或は嵐の吹き去るのを待つ。日本人は我々の船型が優秀であることを、即座に認めた。維新後外国風の船を造ることを禁ずる法律が撤廃され、今や彼等は、外国の船型に従って造船しつつある。この町にも、造船中のスクーナーが六、七艘あるが、いずれもいい形をしている。造船場は我国のと同じように見えるが、而も職工は全部日本人である。

[やぶちゃん注:私は船舶に暗いので、一部の和船関連の注は主に個人サイト「愛知県の博物館」の「菱垣廻船と樽廻船」を参考にさせて戴いた(菱垣廻船と桧垣廻船は孰れも「ひがきかいせん」と読んで同義である)。ここにリンクして謝すものである。

「通商戎克(ジャンク)」(「ジャンク」は「戎克」のルビ)原文は“trading junks”。「戎克(ジャンク)」は中国で古くから用いられてきた木造帆船の名で本邦では「唐船」と呼ばれて建造も行われている。形がやや似ているためにモースはかく書いたもののようであるが、以下に示する菱垣(ひがき)廻船の構造とはかなり異なるように思われる。因みに「Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス」の中でまさに「北前船」が“trading boat”と訳してあるのを見つけた。但し、ウィキの「弁財船」によると、北前船・菱垣廻船・樽廻船は総て弁才(べざい)船であるものの、菱垣廻船・樽廻船はほぼ同じであるのに対し、北前船は両船とは多少の違いを持つともある。ともかくも、図345の舷側に装飾的に付く「垣立(かきたつ)」の菱形(遠見であったからか、モースは菱形ではなく格子状に描いている)の模様から、これは千石船の名で知られた弁才(べざい)船の発展型である菱垣廻船と思われる。なお、この「垣立」というのは、船の中央部である胴(どう)の間(ま)の積載量を増やすため、即ち、荷物を山積みすることが出来るように両舷側部分を高くしたものである。

「檣(マスト)のてっぺんは、折れているのではない。何等かの目的で、みなこんな風に傾いているのである」菱垣廻船(弁財船)の帆の上げ下ろしには帆桁を帆柱の先端の蟬(せみ)と呼ばれる滑車を通して船尾に繩で通じ、轆轤(ろくろ)と呼ばれる人力の巻き上げ機で船室内から行われたが、思うにこの傾いた部分はその蟬(若しくはそれを含む部分)ではなかろうかと私には思われる。別に名称等があるやも知れぬ。識者の御教授を乞うものである。

「平底――竜骨は影も形もない――追手の時だけしか帆走出来ない」「菱垣廻船と樽廻船」の『■「竜骨」と「航(かわら)」』から引用する(一部の改行を省略、アラビア数字を漢数字に、記号の一部も変更させて戴いた)。

   《引用開始》

■「竜骨」と「航(かわら)」

西洋の船が竜骨(キール)という背骨のような構造を持つのに対し、弁材船はそれに相当するものとして航という部材を持っています。航とは敷(しき)ともいい、船首から船尾まで通す平らな船底材です。

▲航(かわら)

航の幅はかなり広く、複数の板を張り合わせた構造であるときもあります。弁材船は竜骨を持たないことで構造的に弱いとか横向きに流れるため逆風でも帆走が不可能とよく言われますが、これも間違い。航は厚さが三十センチメートル以上もあり、非常に丈夫な構造材です。江戸時代後期の千石積級の船で長さ四十六尺(十四メートル)、幅五尺(一・五メートル)が標準でした。また「根棚」とともに船底から大きく張り出しており、横に流れにくい構造になっています。

   《引用終了》

この「根棚」については、説明するよりもリンク先の「造船」の項を見て戴く方が分かりがよい。モースは「追手の時だけしか帆走出来ない」以下、本船の性能の悪さを書き並べてあるが、それらが概ね誤りであることについてはやはりリンク先の「弁才船の性能」の項に、

   《引用開始》

明治になって入ってきた西洋の船に対して、性能が劣っているようなイメージがありますが、実際にはかなりよい性能でした。

●切りあがり角度

弁才船は順風でしか走れないとよくいわれてきましたが、そんなことはありません。横風帆走を意味する「開(ひら)き走り」や逆風帆走を指す「間切(まぎ)り走り」といった語は、すでに十七世紀初頭「日葡辞書」に収録されています。浪華丸の航走実験では向かい風に対しては風の来る方向から左右六十度、横流れを含めても七十度を記録しています。弁才船の逆風帆走性能は、ジャンク(中国船)やスクーナ―型などの縦帆船(じゅうはんせん)に比れば劣りますが、 実習船の日本丸(四本マスト)のようなバーク型などの横帆船(おうはんせん)にややまさっています。弁才船の耐航性と航海技術の向上した江戸時代中期ともなると、帆の扱いやすさとあいまって風が変わってもすぐに港で風待ちすることなく、可能な限り逆風帆走を行って切り抜けるのが常で、足掛け四日も間切り走りを続けた例もありました。

   《引用終了》

と美事に説明されてある(浪華丸というのは大阪市の「なにわの海の時空館」にある実物サイズの忠実に復元された菱垣廻船の名)。モース先生、お分かり戴けましたか?

「舵は船に対して恐しく大きく、使用しない時には、妙な形に水から引き上げておく」「菱垣廻船と樽廻船」の「■舵」に『船体の割には舵は大型でしかも固定式ではなく、水深に合わせて引き上げることができるように吊り下げ式で』あって、これは本邦では『水深が浅い港も多かった』ことから、『岸にできるだけ近づくための工夫で』あったと述べてある。舵が大きい理由については、それが破損しやすく遭難し易い危険性を孕むものであったものの、舵が大きいと『横流れを防ぐウイングキールの働き』『すなわち、荒天時の安全性』を度外視して、航行『性能を重視した設計思想によるもので、今ではちょっと考えられないもので』あると述べられてある。

「ふたしかであること」原文“the unstable character”。何故、平仮名なのか分からないが、ここは素直に「不安定な性質であること」若しくは「航行性能が劣る」と訳してよいところである。

「外国風の船を造ることを禁ずる法律」ウィキの「船」の「歴史」「日本」の「江戸時代」の項に、江戸初期の寛永一二(一六三五)年に「大船建造禁止令」が施行され、船の五百石積以上の建造が禁止されたとある。但し、すぐに商船は対象外となり、鎖国を行っていたがゆえに外航船を建造する必要がなくなった日本では、逆に商船が帆走専用に特化改良され、弁才船が誕生、その発展型の菱垣廻船や樽廻船が江戸期を通じて大いに近海海運を発展させたという主旨の記載がある。この辺りもモースの認識にはかなり誤りが認められる。

「スクーナー」原文“schooners”。二本以上のマストに張られた縦帆帆装を特徴とする、洋式帆船の一種。最初にオランダで十六世紀から十七世紀にかけて使われ、後のアメリカ独立戦争の時期に北米で更に発展した。(ウィキの「スクーナー」に拠った。構造・性能等はリンク先を参照されたい)。]

山之口貘詩集「思辨の苑」――新全集との対比検証開始

思潮社の新全集は「思辨の苑」の底本を後の「定本 山之口貘詩集」(バクさん自身が決定稿と見做していた)版としており、詩集「思辨の苑」初版を底本としている思潮社旧全集によって僕が電子化したものとは冒頭の「襤褸は寢てゐる」から既に微妙な違いがあることが分かった。底本が異なる以上、本文の校合をする訳にはいかないことが分かったので、必要に応じて注記を全面改稿することにした(別に松下氏の書誌解題データも先に使用したPDF論文のものとは異なる追加記載が既にあることも分かった)。先は長いが面白い。また一からバクさんの詩を味わえるのだ。――



先程、本記事をツイッターでツイートしたところ、相互フォローしている「思潮社」アカウントからリツイートされた。これで実に気持ちよく新全集との対比検証を行える。実に実に爽快である。――

2014/05/29

北條九代記 卷第六  京方武將沒落 付 鏡月房歌 竝 雲客死刑(2)承久の乱【二十八】――鏡月房以下三名、詠歌により救わる

二位法印尊長は、十津川に逃籠り、淸水法師鏡月房、同じく弟子常陸房、美濃房三人は搦め捕れて、既に切るべきに極(きはま)る所に、鏡月房一首の歌をぞ詠じける。

  勅なれば身をば寄せてき武士(ものゝふ)の八十(やそ)うぢ川の瀨には立たねど

武蔵守泰時、この歌を感じて「命助けよ」と赦(ゆるさ)れけり。一首の歌に師弟三人命を繼(つが)るゝこそ深き惠(めぐみ)の陰德なれ。

[やぶちゃん注:〈承久の乱【二十八】――鏡月房、詠歌により救わる〉

「二位法印尊長」承久の乱の首謀者の一人。既注。この後、六年間十津川などに潜伏していたが、嘉禄三(一二二七)年六月、京において謀反を計画しているところを発見され、六波羅探題北条時氏の近習菅十郎左衛門周則(ちかのり)によって自害しようとしたところを逮捕、誅殺された。

「淸水法師」「淸水」は「きよみづ」である。

 以下「承久記」の底本通し番号93の中の一部。

 

二位法印尊長ハ、十津河ニ逃籠テ有ケレ共、不ㇾ被搦出。淸水法師鏡月坊、弟子常陸房・美濃房三人、被搦取テ、已ニ切レントスル所ニ、

「聯助給へ、腰折一首仕候ヲ、見參ニ入度」由、申ケレバ、「サラバ」トテ見セ奉ルニ、

  勅ナレバ身ヲバ寄テキ武ノ八十宇治河ノ瀨ニハ立ネド

武藏守、此歌ヲ感テ、「助ケヨ」トテ被ㇾ免。纔ノ一首ニメデ給ヒテ、師弟三人ノ命ヲツガルヽコソ、目出カリケル事也ケレ。

 

 以下、「吾妻鏡」承久三(一二二一)年六月十六日の条。

 

十六日己巳。相州。武州兩刺史移住六波羅舘。如右京兆爪牙耳目。廻治國之要計。求武家之安全。凡今度合戰之間。雖多殘黨。疑刑可從輕之由。經和談。四面網解三面。是世之所讃也。佐々木中務入道經蓮者。候院中。廻合戰計。官兵敗走之後。在鷲尾之由。風聞之間。聞之武州遣使者云。相構不可捨命。申關東可厚免者。經蓮云。是勸自殺使也。盍恥之哉者。取刀破身肉手足。未終命間。扶乘于輿。向六波羅。武州見其體。違示送之趣自殺。背本意由稱之。于時經蓮聊見開兩眼。快咲不發詞。遂以卒去云々。又謀叛衆於所々生虜之中。淸水寺住侶敬月法師。雖非指勇士。從于範茂卿。向宇治之間難宥。献一首詠歌於武州。仍感懷之餘。減死罪。可處遠流之由。下知長沼五郎宗政云々。

 勅ナレハ身ヲハ捨テキ武士ノヤソ宇治河ノ瀨ニタゝネト

今日。武州遣飛脚於關東。依申合戰屬無爲之由也。

○やぶちゃんの書き下し文

十六日己巳。相州、武州の兩刺史六波羅の舘へ移り住む。右京兆の爪牙耳目の如く、治國之要の計りを廻らし、武家の安全を求む。凡そ今度の合戰の間、殘黨多しと雖も、疑しき刑は輕きに從ふべしの由、和談を經(へ)て、四面の網(あみ)、三面を解く。是れ、世の讃へる所なり。佐々木中務(なかつかさ)入道經蓮は、院中に候じて、合戰の計りを廻るらし、官兵敗走するの後、鷲尾(わしのを)に在るの由、風聞の間、之を聞き、武州、使者を遣はして云はく、

「相ひ構へて命を捨つべからず。關東へ申し、厚免すべし。」

てへれば、經蓮云はく、

「是れ、自殺を勸むるの使ひなり。盍ぞ之を恥ぢざらんや。」

てへれば、刀を取り、身肉手足を破る。未だ命を終へざる間、輿(こし)に扶け乘せて、六波羅へ向ふ。武州、其の體(てい)を見て、

「示し送るの趣きに違へて自殺するは、本意に背く。」

の由、之を稱す。時に經蓮、聊か兩眼を見開き、快く咲(わら)ひて詞を發せず、遂に以つて卒去すと云々。

又、謀叛の衆、所々に於いて生虜(いけど)る中、 淸水寺(きよみづでら)住侶(ぢゆうりよ)敬月法師は、指せる勇士に非ずと雖も、範茂卿に從ひ、宇治へ向ふの間、宥(ゆる)し難けれど、一首の詠歌を武州に献ずれば、仍つて感懷の餘りに、死罪を減じ、遠流(をんる)に處すべきの由、長沼五郎宗政に下知すと云々。

  勅なれば身をば捨ててき武士のやそ宇治河の瀨にたゝねど

今日、武州、飛脚を關東へ遣はす。合戰無爲(ぶゐ)に屬するの由を申すに依つてなり。

●「佐々木中務入道經蓮」は頼朝流人時代以来の重臣であった佐々木経高(?(一一四二年~一一五一年の間)~承久三年六月十六日(一二二一年七月七日)のこと。以下、ウィキ佐々木経高によれば、近江の佐々木庄を地盤とする宇多源氏佐々木氏棟梁佐々木秀義の次男。平治元(一一五九)年の平治の乱で父が従った源義朝の敗北により、一門と共に関東へと落ち延び、伊豆に流された義朝三男頼朝に仕えた。佐々木四兄弟は治承四(一一八〇)年に挙兵した頼朝に従い、八月十七日には平兼隆の後見で勇士とされた堤信遠を討つべくその邸宅へと赴き、頼朝と平氏との戦いにおける最初の一矢を放った後、太刀を抜き戦い、兄の定綱と共に信遠を討ち取るが、二十日頼朝に従ったものの、頼朝は石橋山の戦いで敗れる。後、十月二十日の富士川の戦いで平氏は大敗、その挙兵後初の論功行賞に於いて経高ら兄弟は旧領佐々木庄を安堵されている。寿永元(一一八二)年十月十七日には生後二ヶ月余りの頼朝の嫡子頼家の産所から将軍邸へと入る際の輿を担ぎ、建久元(一一九〇)年十一月十一日、大納言(即辞任)に就任した頼朝の石清水八幡宮への参拝に随行している。建久三(一一九二)年九月十七日までに経高は中務丞に任ぜられている。建久四(一一九三)年九月七日、後白河法皇崩御後に荒廃していた御所の宿直を命じられ、建久五(一一九四)年十二月二十六日の鎌倉永福寺の供養、翌年三月十二日の東大寺供養、八月一日の三浦三崎遊覧、八月八日の相模日向山参詣、翌々年五月二十日の天王寺参詣では兄弟らとともに、頻繁に近しく頼朝に随行している。正治元(一一九九)年一月に頼朝が没すると、翌年の七月九日に淡路・阿波・土佐の兵を京に集めたことが後鳥羽上皇の怒りに触れて、八月二日に幕府から淡路・阿波・土佐三ヶ国の守護職を解任される。翌々年に出家して経蓮と称していた経高は、先の京での騒動に対する申し開きと、挙兵の初めに平兼隆を討って以来の自身の履歴を記した書状を長男の高重に持たせて幕府へ送り、それによって赦免を得た経高は十一月十三日、鎌倉へ参じて京で書写した法華経六部を頼朝の月命日に供養、十二月三日の帰京の際には頼家と面会して、先ずは一ヶ国を戻された。その日の後の談話では往時の忘れ難き話を述べては独り涙を拭いて退き、同席した和田義盛らはこれを聞いて貰い泣きしたという。建仁三(一二〇三)年十月に近江国八王子山に拠った比叡山宗徒を攻めよとの勅命を受けた経高は、出家して高野山に在った弟高綱から兵法の助言を受け、弟の盛綱・甥の重綱(高綱嫡男)らと共に軍を発し、宗徒らを退散させている。こうした経緯が泰時の降伏赦免という慫慂の背景にはあったのである。推定生年からは亡くなった当時は若くても六十八、最長で満七十九歳という驚くべき老齢であったのである。この悲惨な僧形の老兵の死を前にし、しかも当時の明恵ら高僧に深く帰依をした泰時であってみれば、これといって感動の巧みもない(逆にその愚直にして素直な詠みっぷりにこそ泰時は惹かれもしたのであろう)和歌をして鏡月房(敬月房)子弟三名の助命をしたという「吾妻鏡」の叙述順列は、すこぶる腑に落ちるという気がする。

●「鷲尾」現在の京都市東山区鷲尾町(わしおちょう)。]

萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「何處へ行く」(18) 「秋より冬へ」(後)

 

こゝろよき朝飯(あさげ)の後のストーブに

林檎を燒けば淡雪のふる

 

[やぶちゃん注:校訂本文は「朝飯」を「朝餉」と『訂』する。採らない。]

 

吉原のおはぐろ溝のほのぐらき

中にひかれる櫛の片われ

 

[やぶちゃん注:「おはぐろ溝」は原本では「おはぐろ構」。誤字と断じて訂した。校訂本文も「おはぐろ溝」とする。この一首は二首前と同じく朔太郎満二十六歳の時、大正二(一九一三)年十月十一日附『上毛新聞』に「夢みるひと」名義で掲載された五首連作の二首目、

 吉原(よしはら)のおはぐろ溝(どぶ)のほの暗(くら)き中(なか)に光(ひか)れる櫛(くし)の片割(かたわれ)

の表記違いの相同歌である。]

 

あはれなる落葉の上の戀がたり

み膝のうへの夕時雨かな

 

藤村のふるき詩集のあひだより

あせし菫の落ちし悲しさ

 

ほのかにも木立の影に煙草の灯

白きベンチのひかる夕暮

 

[やぶちゃん注:校訂本文では「煙草の灯」を「煙草の火」と『訂』する。採らない。]

 

赤城山鹿の子まだらに雪ふれば

故郷びとも門松をたつ

       □

[やぶちゃん注:この一首は朔太郎満二十四歳の時、『スバル』第三年第三号(明治四四(一九〇三)年三月発行)に「萩原咲三」名義で掲載された(「咲二」の誤りで校正漏れか誤植)三首の二首目、

 赤城山鹿の子まだらに雪ふれば故郷びとも門松を立つ

の表記違いの相同歌である。

 なお、表記通り、この次行の前の「門松をたつ」の「を」の位置の左側に『□』が配されて、本「秋より冬へ」歌群の終了を告げる。]

飯田蛇笏 靈芝 昭和十年(九十九句) Ⅵ

 

汗疹して娘は靑草のにほひかな

 

妹に買ふうるしぐろなる日傘

 

蚊遣火や遊里の海は眞の闇

 

[やぶちゃん注:「眞ンの闇」は「しんのやみ」と読んでいるようである。]

 

  興津農林省園藝試作場

 

白靴に場(には)の睡蓮夕燒けぬ

 

[やぶちゃん注:「興津農林省園藝試作場」は明治三五(一九〇二)年に静岡県庵原郡興津町(現在の静岡市清水区)に創られた農商務省農事試験場園芸部が大正一〇(一九二一)年に農林省園芸試験場として独立したもので、現在の茨城県つくば市藤本にある独立行政法人農業・食品産業技術総合研究機構の一つである果樹研究所の前身。ナシの豊水・幸水、リンゴのふじなどを育成、また、アメリカ合衆国首都ワシントンD.C.のポトマック河畔にある桜並木の桜は明治の末に当時の東京市長尾崎行雄が送ったものであるが、その桜の苗木の育成を担当したのは当時の農商務省農事試験場園芸部(現在独立分離したカンキツ研究興津拠点)でこのワシントンの桜と兄弟の桜が興津拠点に現在も植栽されており、薄寒桜と呼ばれて親しまれている、と参照したウィキ果樹研究所にある。]

 

禽むるる大椿樹下に黐搗けり

 

[やぶちゃん注:「大椿樹下」は「だいちんじゆか(だいちんじゅか)」と音読みしているものと思われ、「大椿」大きな椿の謂いであろうが、実は「椿」を「チン」という音は本邦で作られた慣用音で、正しくは「チュン」である。しかも「椿」を「つばき」とするのは国字であって、漢語としての「椿」はツツジ目ツバTheaceae 科テアエアエ Theeae 連ツバキ属 Camellia の常緑高木のツバキ類ではなく、形態も全く異なる落葉高木ムクロジ目センダン科 Toona 属チャンチン(香椿)Toona sinensis であり、しかも「大椿」(慣用音で「ダイチン」)と書くと、現実に存在する木ではなく、「荘子(そうじ)」の「逍遙遊」に出る、一(ひと)春を八千年とする太古のの地上にあったという霊木を指す(そこから「椿壽」で長寿の喩えともする)。また、珍しい出来事を「椿事」と書いて「チンジ」と読むのは似て非なる「樁」(音「トウ」)の「樁事」(漢語で単に「事」の意で「樁」は接頭辞)を「椿事」としてしまい、しかもその慣用音から「珍事」と誤用したという救い難い誤りなのである。因みに、ツバキの科名の“Theaceae”(テアケアエ)というは、以前、この科に含められていた茶、即ちチャ属 Thea に由来するもので、チャ(茶)属Theaは一九七〇年代にツバキ属に統合されて廃止消滅したが、科名としては何故か残った。廃止になった属名がラテン語の科名に使われているというケースはこのツバキ科だけだそうである(最後の部分はウィキツバキ科を一部参考にした)。]

 

僧の綺羅みづみづしくも盆會かな

 

[やぶちゃん注:「みづみづしくも」の「みづみづ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

杣の子に遲れ躑躅と夏ひばり

 

ほたる火を曳きつぶしたる艫繩かな

 

ねみだれて闇むしあつしほたる籠

 

溪下る大揚羽蝶どこまでも

i畫伯   山之口貘

 i畫伯

 

世の虛僞はすべて消滅すべく

i畫伯よ

藝術を眞に汝の生命に見ば

反省せよ、

よくも汝は琉球を馬鹿に見し

嗚呼汝よ!

果てなく續くべきか汝の藝術は、

おれは汝の畫を求めし

人の氣の毒さに

汝の命は海路に絶えかしと祈る

世人を欺きし愚かなゑがき

汝の藝術は

常に虛僞にして、

とこしなへにのこらず、

汝よ、i畫伯よ

汝に欺かれしもの達を見よ――

しぼりしぼれる難苦の汗を

犧牲にせし報酬は

盲人の如く

心なく汝の畫を求めき。

i畫伯よ 汝は罪惡を祕めつゝ

面の皮は人二倍も厚く

そ知らぬ風す、

今のおれはエス樣もいらぬ

汝の罪を告白しなば――

i畫伯よ

汝の藝術の目覺めにもなれかし

 

[やぶちゃん注:底本では末尾に下インデントで『一九二一・七・一五』とある。大正一〇(一九二一)年十月一日附『八重山新報』に前の「情火立つの夜」とともに二篇が並載されたものと思われる。

 「エス樣」イエス様か。

 バクさんにして恐るべき個人攻撃、否、呪詛の詩である。この画家はバクさんの面識のない人物とは到底思えず、かつて親しく交わり心酔していた人物であったにも拘わらず、この時には激しく裏切られたという感懐を持っていたと推定出来ること、バクさんが彼をあえて「畫伯」と呼称していること、旧全集の年譜の大正八(一九一九)年の記載に当時十六だったバクさんがある著名な洋画家と親しく交流した事実が載ること、ところがバクさんの「私の青年時代」「ぼくの半生記」を読んでもその画家についての記載が全く現れないこと――等々から一つの推理が可能だとは思っている。但し、その人物の本名や雅号のイニシャルは「i」ではない。されば、私の憶測はここまでに止めておくこととはする。関心のある向きは旧全集を披見されたい。]

杉田久女句集 228 大正十四年 松山にて 五句

   大正十四年 松山にて 五句

 

上陸やわが夏足袋のうすよごれ

 

夏羽織とり出すうれし旅鞄

 

替りする墨まだうすし靑嵐

 

卓の百合あまり香つよし疲れたり

 

姫著莪の花に墨する朝かな

 

[やぶちゃん注:「姫著莪」は「ひめしやが(ひめしゃが)」で、単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属シャガ Iris japonica の近縁種ヒメジャガ(姫射干・姫著莪)Iris gracilipes 。常緑のシャガとは異なり冬には枯れる。花期は五~六月で直径四センチメートルほどの淡紫色の花を花茎に二、三個咲かせる。外花被片の中央は白色で、紫色の脈と黄色の斑紋があり、鶏冠状の突起がある(以上はウィキヒメシャガ」に拠る。グーグル画像検索「ヒメジャガ)。

 大正一四(一九二五)年五月二十四日の高浜虚子歓迎松山俳句大会出席時の吟詠。

 なお、この一句群の前に打たれたアスタリスクは前の箇所と同じくやはり特異で、しかもその意図が読者には判然としない。やはりこれは久女の中の隠された意識の一つの区切りのようにも思われる。]

橋本多佳子句集「紅絲」 沼 Ⅳ 枯山と狐

 

ラヂオ大きく枯山のふもとに住む

 

  裏山に狐が出て、我鶏舎を襲ふことあり

 

枯れはてゝ遊ぶ狐をかくすなき

 

枯れし木が一本立てり狐失せ

 

[やぶちゃん注:三句とも昭和一九(一九四四)年五月に大阪帝塚山から疎開のために移り住んだ奈良市あやめ池町四丁目(現在は南九丁目)の家の裏山。底本の昭和十九年の年譜記載によれば、『裏の松山に登ると、薬師寺の塔が見える』とあり、これは地図上で見る限り、現在の奈良国際ゴルフ倶楽部のある場所にあったものと推測される。]

橋本多佳子句集「紅絲」 沼 Ⅲ 童女童子

  久々にて洋子、博来る。父亡き後も健かに

  成長せしを喜びて 二句

 

童女童子来てすぐ枯れし崖のぼる

 

童子寝る凩に母うばはれずに

 

[やぶちゃん注:「洋子、博」多佳子の孫と思われ、年譜上の記載からはある程度の推測は可能であるが、不詳としておく。]

2014/05/28

杉田久女句集 227 大正十四年姉死去 二句

   大正十四年姉死去 二句

 

霧しめり重たき蚊帳をたたみけり

 

夏帶やはるばる葬に間に合はず

 

[やぶちゃん注:前書の「大正十四年」は誤記と思われる(底本にも右にママ注記が附されてある)。年譜によれば姉越村靜は大正一五(一九二六)年七月に逝去している。富士見書房平成一五(二〇〇三)年刊の坂本宮尾「杉田久女」によれば、『小倉から駆けつけたが葬儀に間に合わなかった』とあり、『三歳違いの姉は享年三十八』で、『草稿に久女は東京で最後に姉と会った日のことを、「いつになく新橋まで見送つてくれ優しく涙ぐんでゐた姉靜子」としのんでいる』と記す(引用元では「静子」であるが正字化した)。なお、久女には兄二人姉二人の五人兄姉の三女であったが、姉の一人は夭折している。]

情火立つの夜  山之口貘

 情火立つの夜

 

白き日は沈み――

夏野日の眞夜中……

何となくうら寂しい

盲目蛇の孤獨な鳴き聲は

庭の何處を漏れて來る、

孤燈の下に、

淡き光を浴びては

また合うふ日のロミを夢め見る

――優しき膚、熱き血潮、

安息は更にまたきみを描く

我知らず淡きエローの

光に溢るる笑、

嗚呼何となくもの寂しい

連想深き夜中の大氣

なほも なほも……

盲目蛇鳴く眞夜中

我はロミの姿に憧れて行く。

 

[やぶちゃん注:底本では末尾に下インデントで『一九二一・六・二四』とある。前の二作と同日の創作であるが、こちらは大正一〇(一九二一)年十月一日附『八重山新報』に次の「i畫伯」とともに二篇が並載されたものと思われる。但し、この詩にのみ「佐武路」のペン・ネームを附す(巻頭であったからか。但し、この詩が巻頭であったかどうかは底本では確認不能)。「ロミ」不詳。「エロー」はイエローか、はたまた“Eros”か。題名も「ほむらたつのよ」と読みたくなるサンボリスム的な謎めいた詩であるが、妙に気になる詩ではある。]

北條九代記 卷第六  京方武將沒落 付 鏡月房歌 竝 雲客死刑 (1)承久の乱【二十七】――官軍敗北、大臆病の後鳥羽院、帰り着いた武将らに門を開けず

      ○京方武將沒落 付 鏡月房歌 竝 雲客死刑

能登守秀康、平九郎判官胤義、山田次郎重忠は散々に打なされ、郎從どもは或は討たれ、或は落失せて、賴む影なくなり果てて、一院のおはします四辻殿へ參りたれば、武士共は「是より何方へも落行け」とて、門をも開かで突放さる。山田次郎、大音擧げて「大臆病の君に語(かた)はれ、今は内にだに入れられず、憂死(うきしに)せんずるは」とて南を指して打ちけるが、嵯峨野を心に懸けつゝ、西を遙に落行く所に、子息伊豆守に行合(ゆきあう)たり。桂川の邊にて、天野〔の〕左衞門尉、百騎計(ばかり)にて追詰めたり。人手にかゝらじとや思ひけん。山田父子は小竹の中に走り入て、腹搔切りて死ににけり。平九郎判官は、父子只二人、西山の方に行きて、心靜に自害をぞ致しける。天野〔の〕四郎左衞門は、首を延べて出でたりしを、即ち切りて捨てられたり。後藤大夫判官基淸は降人(かうにん)に出でたりしを、御許(ゆるし)なければ、子息左衞門尉基綱、申受(まうしう)けて切りにけり。他人に切せて、死骸を申受けて孝養(けうやう)せんには遙に劣れる事なりと人々、傾(かたぶ)け言合(いひあ)ひけり。駿河大夫判官惟宣は行方なく落失せぬ。

[やぶちゃん注:〈承久の乱【二十七】――官軍敗北、大臆病の後鳥羽院、帰り着いた武将らに門を開けず〉以下、本章も分離する。

「山田次郎重忠」(?~承三年六月十五日(西暦一二二一年七月六日)ここで後鳥羽院を「大臆病」と罵った、承久の乱に於ける官軍の名将であった彼を讃えて特に以下にウィキの「山田重忠」より、その事蹟を引用したい(アラビア数字を漢数字に代えさせて頂いた)。『治承・寿永の乱では父重満が墨俣川の戦いで源行家の軍勢に加わり討死したが、重忠はその後の木曾義仲入京に際して上洛し、一族の高田重家や葦敷重隆らと共に京中の守護の任に就くなどした。義仲の滅亡後、源頼朝が鎌倉幕府を創設すると尾張国山田荘(名古屋市北西部、瀬戸市、長久手市の一帯)の地頭に任じられ御家人に列する。しかし山田氏の一門は伝統的に朝廷との繋がりが深く、重忠は鎌倉期以降も京で後鳥羽上皇に近侍し、建保元年(一二一三年)には上皇の法勝寺供養に供奉するなどしている』。『承久三年(一二二一年)五月、後鳥羽上皇が討幕の挙兵をすると重忠は水野高康(水野左近将監)ら一族とともにこれに参じた。同年六月、京方は幕府軍を美濃と尾張の国境の尾張川で迎え撃つことになり、重忠は墨俣に陣を置いた。京方の大将の河内判官藤原秀澄(京方の首謀者・藤原秀康の弟)は少ない兵力を分散する愚策をとっており、重忠は兵力を集中して機制を制して尾張国府を襲い、幕府軍を打ち破って鎌倉まで押し寄せる積極策を進言するが、臆病な秀澄はこれを取り上げなかった』。『京方の美濃の防御線は幕府軍によってたちまち打ち破られ、早々に退却を始めた。重忠はこのまま退却しては武士の名折れと、三百余騎で杭瀬川に陣をしき待ちかまえた。武蔵国児玉党三千余騎が押し寄せ重忠はさんざんに戦い、児玉党百余騎を討ち取る。重忠の奮戦があったものの京方は総崩れとなり、重忠も京へ退却した』。『京方は宇治川を頼りに京都の防衛を図り、重忠は比叡山の山法師と勢多に陣を置き、橋げたを落として楯を並べて幕府軍を迎え撃った。重忠と山法師は奮戦して熊谷直国(熊谷直実の孫)を討ち取るが、幕府軍の大軍には敵わず京方の防御陣は突破された。幕府軍が都へ乱入する中で、重忠は藤原秀康、三浦胤義らと最後の一戦をすべく御所へ駆けつけるが、御所の門は固く閉じられ、上皇は彼らを文字どおり門前払いした。重忠は「大臆病の君に騙られて、無駄死にするわ」と門を叩いて悲憤した』。『重忠は藤原秀康、三浦胤義ら京方武士の残党と東寺に立て篭もり、これに幕府軍の大軍が押し寄せた。重忠は敵十五騎を討ち取る奮戦をしたが手勢のほとんどが討ち取られ、嵯峨般若寺山(京都市右京区)に落ちのび、ここで自害した』。『重忠の自害後、嫡子重継も幕府軍に捕らえられ殺害、孫の兼継は越後に流され後に出家、僧侶として余生を送った。山田氏は兼継の弟・重親の子孫が継承していった』。「沙石集」では『重忠を「弓箭の道に優れ、心猛く、器量の勝った者である。心優しく、民の煩いを知り、優れた人物であった」と称賛している。また、信仰心の篤い人物であったと云われ領内に数多くの寺院を建立したことでも知られている』。

「大臆病の君に語はれ、今は内にだに入れられず、憂死せんずるは」――「大臆病の天子に言ってやれ! 今は御所の内にさえ入ることが出来ず、このまま心に染まぬ捕囚となって犬死にするぐらいなら、今一度、敵と対して討ち死にせん!」という意である。「承久記」では「大臆病の君に語らはされて、憂死に死せんずるは」で少しニュアンスが違う感じがする。こちらは「大臆病の天子に騙られて、あたら無惨に犬死をすることとなったわ!」であろう。

「天野左衞門尉」幕府方武将天野政景。

「天野四郎左衞門」これはまさに前注の天野政景の実子で、しかし官軍に就いた天野時景である。梟首となった。

「傾け」非難し。

「駿河大夫判官惟宣」大内惟信(生没年不詳)のこと。清和源氏義光流平賀氏の一族で、大内惟義の嫡男。母は藤原秀宗の妹(承久の乱の首謀者藤原秀康の叔母に当たる)。参照したウィキの「大内惟信」によれば、元久二(一二〇五)年、『叔父の平賀朝雅が牧氏事件に連座して誅された後、朝雅の有していた伊賀・伊勢の守護を継承し、在京御家人として京の都の治安維持などにあたった。帯刀長、検非違使に任じられ、南都神木入洛を防いだり、延暦寺との合戦で焼失した園城寺の造営を奉行するなど重要な役割を果たした』。建保七(一二一九年)に第三代将軍源実朝が暗殺された後、『父惟義から惟信へ家督が譲られたと見られ、惟義の美濃国の守護も引き継いだ。しかし、鎌倉幕府は源氏将軍を断絶させた北条氏主導となり、源氏門葉であった平賀(大内)氏は幕府の中枢から離れていく事にな』り、『承久の乱では後鳥羽上皇方に付いて伊賀光季の襲撃に加わり、子息の惟忠と共に東海道大井戸渡の守りについて幕府軍と対峙した。敗北後、逃亡して』十年近くの間、『潜伏を続け、法師として日吉八王子の庵室に潜んでいた所を探知され』、寛喜二(一二三〇)年十二月に『武家からの申し入れによって比叡山の悪僧に捕らえられて引き渡された』ものの、『一命は許されて西国へ配流となり、ここに』幕府創生時、御家人筆頭であった『平賀義信以降、源氏一門として鎌倉幕府で重きをなした平賀(大内)氏は没落した』とある。

 以下、「承久記」(底本の通し番号86から93の半ばまで)。遙かに凄まじい。

 

 去程ニ、京方ノ勢ノ中ニ能登守秀泰・平九郎判官胤義・山田次郎重忠、四辻殿へ參リテ、某々歸參シテ候由、訇リ申ケレバ、「武士共ハ是ヨリ何方へモ落行」トテ、門ヲモ開カデ不ㇾ被ㇾ入ケレバ、山田二郎、門ヲ敲テ高聲ニ、「大臆病ノ君ニ語ラハサレテ、憂死ニ死センズルハ」トテ訇ケル。平九郎判官、「イザ同クハ坂東勢ニ向、打死セン。但シ宇治ハ大勢ニテアンナリ。大將軍ノ目ニ懸ラン事モ不定也。淀へ向テ死ン」トテ馳行ケルガ、東寺ニ引籠ル。駿河守ノ手者ノ中ニ、佐原次郎・天野左衞門尉馳向フ。次郎兵衞、「敵コソ多ケレ、アノ殿原ト軍シテ何カセン」トテ不ㇾ進。サレ共甥ノ又太郎、二十騎計ニテ馳向フ。平九郎判官是ヲ見テ、「ワ君ハ同一家ト云ナガラ、胤義ニハ芳志可ㇾ有トコソ覺へシニ、進寄コソウタテケレ。惡シ、アレ討トレ、者共」ト下知シケレバ、判官ノ子息太郎兵衞・次郎兵衞・高井兵衞太郎、追懸テユク。佐原又太郎一方ヲ懸破リテ、東寺ノ東ウラヲ南へ向テ落行ケリ。相近ニ追懸テ責ケレバ、「是ハ又太郎ニハ非ズ、藤内行成ゾ」ト名乘ケレバ、「何レ、只ウテヤウテヤ」トゾ責ケル。堀ノ際ニ被責攻テ、少シタメラフ所ヲ、太郎兵衞甲ノ鉢ヲハタト打落ス。又太郎早ワザノ者ニテ、馬ヲバ捨テ、堀ヲヒラト飛越、向ノ深田ニゾ立タリケル。太郎兵衞、「如何ニ狐ノバケハ顯レタリ」ト云へバ、又太郎、「殿原ヲモ見ソダテタリ。景吉ヲ打タリ共、勝間敷軍也。ワ殿原ヲ打テモ無用ノ事也」ト云へバ、判官子共返テ父ニ此由ヲ申ケレバ、各笑テ興ニ入。

●「訇リ」「よばはる」と訓じていよう。

●「佐原」「又太郎」佐原氏は胤義と同族の三浦一党である。「吾妻鏡」の建暦三(一二一三)年正月二日の実朝へ垸飯の儀の進物の役人の「二の御馬」として「三浦九郎左衞門尉」(胤義)と「佐原又太郎」の名が並置されてあり、系図では佐原景連の子に蛭河又太郎景義の名を見出せるが、彼か。

●「見ソダテタリ」「見育つ」は面倒を見て養育するの意であるから、わざわざ討たずに命を救ってやったのだ、の謂いか。

●「景吉」蛭河又太郎景義のことか。

 

 又、安西・金鞠カケシカバ、能登守・山田次郎モ落ニケリ。角田太郎・同彌平次、殊ニ進ケリ。彌平次、判官ニ組マント心懸テ、相近ニツト寄合スル所ニ、判官、馬ヨカリケレバ、ツト通ル。彌平次取ハヅス所ヲ、判官ノ郎等、三戸源八組デ落。互ニシタ、力者ニテ、キト勝負モ無ケル。彌平次ガ乘替落合フテ、三戸源八ガ首ヲ取。判官子息次郎兵衞・高井兵衞太郎、敵ニ被組隔テ、東山へ落行ケルガ、地藏堂ノ奧ナル竹ノ中へ引籠リテ、馬切殺シ、物具切捨、二郎兵衞云ケルハ、「高井殿、御邊ハ同一門ト乍ㇾ云、イトケナキヨリ兄弟ノ契ヲナシ、馳遊デ、御邊十七、兼義十六、只今死ン事コソ嬉シケレ。構テ強ク指給ナ。我モ能指ンズル」トテ、手ヲ取運指違テ、同枕ニゾ臥ニケル。

●「兼義」胤義次男と思われる「二郎兵衞」自身の本名。

 

 山田二郎ハ嵯峨ノ奧ナル山へ落行ケルガ、或河ノ端ニテ、子息伊豆守・伊預房下居テ、水ヲスタヒ飮デ、疲レニ臨ミタル氣ニテ休居タリ。山田二郎、「アハレ世ニ有時、功德善根ヲセザリケル事ヲ」ト云ケレバ、伊預房、「大乘經書〔寫〕供養セラル。如法經ヲコナハセテ御座ス。是ニ過タル功德ハ候ハジ」ト申セバ、山田二郎、「サレ共」ト云所ニ、天野左衞門ガ手ノ者共、猛勢ニテ押寄タリ。伊豆守、「暫ク打ハラヒ候ハン。御自害候へ」トテ、太刀ヲ拔テ立揚リ打ハラフ。其間ニ山田二郎自害ス。伊豆守、右ノ股ヲ射サセテ、生取ニ成テ被ㇾ切ニケリ。

 

 平九郎判官、散散ニ戰程ニ、郎等・乘替、或ハ落或ハ被ㇾ討テ、子息太郎ト親子二輪ニ成テ、東山ナル所、故畠山六郎サイゴノ人マロト云者ノ許へ行テ、馬ヨリ下テ入タリ。疲レテ見へケレバ、ホシイ洗ハセ、酒取出テスヽメタリ。暫ク爰ニ休息シテ、判官、鬂ノ髮切テ九ニ裹分テ、「一ヲバ屋部ノ尼上ニ奉ル。一ヲバウヅマサノ女房ニ傳へ給へ。六ヲバ六人ノ子共ニ一アテ取スベシ。今一ヲバワ御前ヲキテ、見ン度ニ念佛申テ訪ヒ給へ」トテ取スレバ、人マロ泣々是ヲ取、心ノ中コソ哀ナレ。

●「畠山六郎サイゴノ人マロ」畠山重忠の乱(北条義時の謀略)で亡くなった重忠の子「六郎」重保には、ウィキの「畠山重保」によれば、『子に時麿(小太郎重行)があったと伝え、目黒氏を称したという』とあり、この人物か。

●「鬂」鬢(びん)に同じい。

●「裹分テ」「つつみわけて」と訓じていよう。

●「屋部ノ尼上」不詳。彼の乳母か。

●「ウヅマサノ女房」既に注し、「承久記」にも載るように、『胤義の妻は二代将軍・源頼家の愛妾で男子を生んだ女性であり、頼家の死後に胤義の妻となっていた。実朝の横死後に仏門に入っていた妻と頼家の子の禅暁の将軍擁立を望んだが、執権北条氏の画策で将軍後継者には摂関家から三寅が迎えられ、その上に禅暁も殺されてしまう。『承久記』によれば、先夫(頼家)と子を北条氏によって殺されて嘆き悲しむ妻を憐れに思い、鎌倉に謀叛を起こそうと京に上ったと述べている』(引用はウィキ三浦胤義」より)。この女房はこの妻のことであろう。

 

 サテ胤義、ウヅマサニアル幼稚ノ者共、今一度見ントテ、父子二人ト人マロ三人、下簾懸タル女車ニ乘具シテ、ウヅマサへ行ケルガ、コノシマト云フ社ノ前ヲ過ケルニ、敵充滿タリト云ケレバ、日ヲ暮サントテ、社ノ中二親子隱レ居クリ。人マロヲバ草ニノセテ置ヌ。

●「コノシマト云フ社」木嶋坐天照御魂(このしまにますあまてるみたま)神社。京都市右京区太秦森ヶ東町にある。

 

 去程ニ古へ判官ノ郎從ナリシ藤四郎賴信トテアリシガ、事ノ緣有テ家ヲ出、高野ニ有ケルガ、都ニ軍有ト聞テ、判官被ㇾ討テカヲハス覽、尸ヲモ取テケウヤウセントテ、京へ出テ、東山ヲ尋ケルニ、ウヅマサノ方へト聞テ尋行程ニ、コノシマノ社ヲ過ケルニ、「アレ如何ニ」ト云聲ヲ聞ケバ、我主也。是ハサレバト思テ、入テ見レバ、判官父子居給ヘリ。「如何ニ」ト申セバ、「軍破レテ落行ガ、ウヅマサニアル幼稚ノ者共ヲ見ルカト思テ行程ニ、敵充滿タル由聞ユル間、日ノカクルヲ待ゾ」ト云へバ、賴信入道、「日暮テモ、ヨモ叶ヒ候ハジ、天野左衞門ガ手ノ者ミチテ候へバ」ト申ケレバ、「太郎兵衞、今ハ角ゴサンナレ、自害ヲセヨ」。太郎兵衞、「賴信入道ヨ、母ニ申ンズル樣ハ、『今一度見進ラセ候ハントテ參候ガ、叶間敷候程ニ、御供ニ先立、自害仕候。次郎兵衞胤連ハ高井太郎時義ニ被懸隔テ、東山ノ方へ落行候ツルガ、被ㇾ討テ候ヤラン、自害仕テ候ヤラン、行衞モ不ㇾ知候。去年春除目ニ、兄弟一度ニ兵衞尉ニ成テ候へシカバ、世ニ嬉シゲニ被思召テ、哀、命存へテ是等ガ受領・檢非違使ニモ成タランヲ、見バヤト仰候シニ、今一度悦バセ進ラセ候ハデ、先立進ラセ候コソロ惜アハレニ覺候へ』ト申セ」トテ、念佛申、腹搔切テ臥ヌ。未足ノ動ラキケレバ、父判官、是ヲ押へテ靜ニヲハラセテ、「首ヲバウヅマサノ人ニ今一度見セテ、後ニハ駿河守殿ニ奉リ、イハン樣ハ、『一家ヲ皆失フテ、一人世ニヲハセンコソ目出度ク候へ』ト申」トテ、西ニ向十念唱へ、腹搔切テ臥ヌ。

●「動ラキケレバ」「はたらきければ」と訓じていよう。

●「駿河守」幕府軍の兄三浦義村。

 

 藤四郎入道、此首ヲ取テ、社ニ火カケ、二ノ首ヲ持テ泣々ウヅマサへ行テ、女房ニ見セ奉リケレバ、抱キカヽヘテ、人目ヲモツヽマズ、恥ヲモ不ㇾ顧、泣悲事、譬ン方モナシ。藤四郎入道申ケルハ、「只今、敵亂入テ奪取候ナンズ。『後ニハ駿河守殿ニ進ラセヨ』ト被仰置候ツル。今ハ給リ候ハン」ト申ケレ共、力ヽへ惜ミテ不放給ケルヲ、兎角シテ乞取テ、駿河守殿ニ奉ル。一腹一生ノ兄弟トシテ、思合ヒタリシ中ナレバ、實ニ哀レニ覺へテ涙ヲ流シ、ソヾロニ袖ヲゾシボラレケル。首ヲバ「武藏守殿へ進ラセヨ」トテ被ㇾ送。其外ニ、散散ニ落行ヌ。或ハ又所々ニテ生取、被ㇾ切ケル。

●「武藏守」北条泰時。

 

 京方軍破テ、サテモ一院ハサリ共トコソ被思召シカ共、忽ニ王法盡サセマシマシテ、空ク軍破レバ、如何ナル事ヲカ被思召ケン。

 天野四郎左衞門尉、首ヲ延テ出タリケルヲ、相模守、武藏守へ被ㇾ申ケレバ、可ㇾ被ㇾ切トテ被ㇾ切ケリ。後藤大夫判官基淸、降人ニ成タリシヲ、子息左衞門尉基網申受テ切テケリ。「侘人ニ切セテ死骸ヲ申請、孝養シタランニハ、頗ル劣リ也」トゾ人々カタブケ申ケル。駿河大夫判官惟宣ハ行衞モ不ㇾ知落失ヌ。

●途中の改行は底本のママ。ここは所謂、段落番号はないので、そのまま続けて電子化した。

 以下、「吾妻鏡」の承久三(一二二一)年六月十五日の条も見ておく。

〇原文

十五日戊辰。陰。寅尅。秀康。胤義等參四辻殿。於宇治勢多兩所合戰。官軍敗北。塞道路之上。已欲入洛。縱雖有萬々事。更難免一死之由。同音奏聞。仍以大夫史國宗宿彌爲勅使。被遣武州之陣。兩院。〔土御門。新院〕兩親王令遁于賀茂貴舟等片土御云々。辰刻。國宗捧院宣。於樋口河原。相逢武州。述子細。武州稱可拜院宣。下馬訖。共勇士有五千餘輩。此中可讀院宣之者候歟之由。以岡村次郎兵衞尉。相尋之處。勅使河原小三郎云。武藏國住人藤田三郎。文博士者也。召出之。藤田讀院宣。其趣。今度合戰。不起於叡慮。謀臣等所申行也。於今者。任申請。可被宣下。於洛中不可及狼唳之由。可下知東士者。其後又以御隨身賴武。於院中被停武士參入畢之旨。重被仰下云々。盛綱。秀康逃亡。胤義引籠于東寺門内之處。東士次第入洛。胤義與三浦佐原輩。合戰數反。兩方郎從多以戰死云々。巳刻。相州。武州之勢著于六波羅。申刻。胤義父子於西山木嶋自殺。廷尉郎從取其首。持向太秦宅。義村尋取之。送武州舘云々。秉燭之程。官兵宿廬各放火。數箇所燒亡。運命限今夜之由。都人皆迷惑。非存非亡。各馳走東西。不異秦項之災。東士充滿畿内畿外。求出所遁戰場之歩兵。斬首拭白刄不有暇。人馬之死傷塞衢。行歩不安。郷里無全室。耕所無殘苗。好武勇西面北面忽亡。立邊功近臣重臣。悉被虜。可悲。當于八十五代澆季。皇家欲絶。

今日。關東祈禱等結願也。屬星祭々文。民部大夫行盛相兼草淸書。及此期。官兵令敗績。可仰佛力神力之未落地矣。

○やぶちゃんの書き下し文

十五日戊辰。陰る。寅の尅、秀康・胤義等、四辻殿に參ず。宇治・勢多兩所の合戰に於いて、官軍、敗北す。道路を塞ぐの上、已に入洛を欲す。縱ひ萬々の事有りと雖も、更に一死を免かれ難きの由、同音に奏聞す。仍つて大夫史(たいふのし)國宗宿彌(すくね)を以つて勅使と爲し、武州の陣に遣はさる。兩院〔土御門・新院。〕・兩親王は賀茂貴舟(きぶね)等の片土に遁れしめ御(たま)ふと云々。

辰の刻、國宗、院宣を捧げ、樋口(ひぐち)河原に於いて、武州に相ひ逢ひ、子細を述ぶ。武州、院宣を拜すべしと稱して、馬より下り訖んぬ。共(とも)の勇士五千餘輩有り。

「此の中に、院宣を讀むべきの者、候ふか。」

の由、岡村次郎兵衞尉を以て、相尋ねるの處、勅使河原(てしがはら)小三郎云はく、

「武藏國住人藤田三郎は、文博士(もんはかせ)の者なり。」

と。之を召し出だす。藤田、院宣を讀む。其の趣き、

『今度の合戰、叡慮に於て起らず、謀臣等の申し行ふ所なり。今に於ては、申し請くるに任せて、宣下せらるべし。洛中に於いて狼唳(らうえい)に及ぶべからずの由、東士に下知すべし。』

てへり。其の後、又、御隨身(ずいじん)賴武を以つて、院中に於いて武士の參入を停められ畢んぬるの旨、重ねて仰せ下さると云々。

盛綱・秀康、逃亡す。胤義、東寺の門内に引籠るの處、東士、次第に入洛し、胤義と三浦・佐原の輩と合戰すること數反(すへん)にして、兩方の郎從、多く以つて戰死すと云々。

巳の刻、相州・武州の勢六波羅に著く。申の刻、胤義父子、西山の木嶋に於いて自殺す。廷尉の郎從、其の首を取り、太秦の宅へ持ち向ふ。義村、之を尋ね取り、武州の舘へ送ると云々。

秉燭の程、官兵が宿廬、各々放火し、數箇所、燒亡す。運命、今夜に限るの由、都人、皆、迷惑す。存ずるに非ず、亡ずるに非ず、各々東西に馳走(ちそう)す。秦項(しんこう)の災ひに異ならず。東士、畿内・畿外に充滿し、戰場を遁れる所の歩兵を求め出だして、首を斬り、白刄を拭ふに暇(いとま)有らず。人馬の死傷、衢(ちまた)を塞ぎ、行歩(ぎやうぶ)、安からず。郷里(がうり)に全く室無く、耕す所に殘苗無し。武勇を好む西面・北面、忽ち亡び、邊功(へんこう)を立つる近臣・重臣、悉く虜(とら)へらる。悲むべし、八十五代の澆季(げうき)に當り、皇家、絶へんと欲す。

今日、關東の祈禱等の結願也。屬星祭(ぞくしやうさい)の祭文は、民部大夫行盛、草・淸書を相ひ兼ぬ。此の期に及びて、官兵、敗績せしむ。佛力・神力の未だ地に落ちざるを仰ぐべし。

●「寅の尅」午前四時頃。

●「大夫史國宗宿彌」小槻国宗(おづきのくにむね)。「大夫史」は太政官弁官局の大史から五位の位階(大夫)に昇る者。

●「藤田三郎」藤田能国。「吾妻鏡」には寿永三年三月五日に父藤田三郎行康が摂津での平家征伐に先登して討死した勲功によって頼朝が武蔵国の遺跡を『子息能國傳領すべきの旨』命じた記事に初出し、建久三(一一九二)年六月一日にはその『弓馬の藝を繼ぐ故に』恩賞が与えらえおり、建久六(一一九五)年三月十日の頼朝東大寺再建供養には随兵にその名を見出せ、実に文武に秀でた人物であったことが窺える。

●「文博士」狭義には文章博士(もんじょうはかせ)は大学寮の教官であるが、ここが単に文才があることを指しているようである。

●「狼唳」狼藉に同じい。

●「院中に於いて武士の參入を停められ畢んぬる」この「武士」とは朝廷軍のこと。

●「巳の刻」午後四時頃。

●「秦項の災」秦の始皇帝が六国と戦って次々とこれを滅ぼし天下を統一するも、始皇帝の没するや、楚の項羽と漢の劉邦によって国は覆えされ、さらに引き続いて項羽と劉邦との覇権争いが続いた、二、三十年に及ぶ戦災や苛政による人民の禍いをいう。

●「郷里に全く室無く、耕所に殘苗無し」故郷では帰るべき家も完膚なきまでに壊され焼き尽くされなくなってしまい、農地は荒らされて一本の苗さえも残っていない。

●「邊功を立つる近臣・重臣」京を離れた国々を武功として授かった主上の近臣や重臣。前に近衛の衛士であるところの「武勇を好む西面・北面」の武士が出るからそれとの対句表現を狙ったものであろう。

●「八十五代」当時の今上天皇であった仲恭天皇は第八十五代天皇。承久の乱に組した父順徳天皇(当時満二十三歳)の企略に基づき、承久三(一二二一)年四月二十日に譲位され、実に未だ二歳六ケ月での践祚であった。

●「澆季」「澆」は軽薄、「季」は末の意で、道徳が衰えて乱れた世。世の終わり。末世。

●「屬星祭」陰陽道の掌る星祭りで個人の運命を支配する属星を祭り、開運厄除けを祈願する。この場合、直接的個人としては総大将である泰時のそれか。

●「民部大夫行盛」政所執事にして評定衆であった二階堂行盛。

●「敗績」大敗してそれまでの功績を失うこと。]

柴田天馬訳 蒲松齢 聊斎志異 宅妖

 宅妖たくよう

 大司寇だいしこう一の甥にあたる長山の李翁の家には、あやしいことが多かった。
 あるとき、見ると、広間に大きな肉紅色の春櫈こしかけがおいてあるのだ。李の家には、もとから、そんな物はなかったから、怪しみながら近よってなでてみると、手につれて曲るぐあいが、まるで肉のようにやわらかだった。李は驚いてあとずさったが、ふりかえって見ると、四足を動かして、だんだん壁の中にはいって行った。
 また、きよらかな、ながい、白い棒が壁に立てかけてあるのを見て、近よって、それを持とうとすると、ぐにゃりと倒れて、うねうね壁にはいって行き、やがて見えなくなってしまった。
 康熙十七年、王俊升おうしゅんしょうという秀才が、その家で子弟に教えていたが、ある日暮れ、燈火をつけてから、靴をはいたまま寝台に寝ていると、三寸ばかりの小人が外からはいって来て、ちょっとひとまわりして、また、行ってしまった。しばらくすると、二つの小さな腰かけをになってきて座敷にすえた。それはまるで子どもたちがつかう玉蜀黍とうもろこししんでこしらえたもののようだった。また、しばらくすると、二人の小人が、一つの棺をかついではいって来た。棺は長さがやっと四寸ばかりのもので、それを腰かけの上においた。そして、まだかたづかないうちに、一人の女が数人の廝婢めしつかいをつれてやって来た。みんな前のような小人ばかりである。女は※衣もふくをきて、麻ひもで腰をしぼり、頭を白い布でつつんでいたが、袖で口をおおい、おうおうと泣く声ほ、大きな蠅のようだった。[やぶちゃん字注:「※」=「衤」+「衰」。]
 王は、しばらく見ているうちに、からだに霜がかかったように、ぞっとしてきたので、わっといって駆けだそうとした。が、寝台の下にころげ落ちたまま、わなわなして、立つことができなかった。
 うちの人たちは、その声を聞きつけて、みんな集まったが、部屋の小さな人物は、もう見えなかった。

  注

一 清朝の刑部尚書である。

■原文

 宅妖

長山李公、大司寇之姪也。宅多妖異。
嘗見廈有春凳、肉紅色、甚修潤。李以故無此物、近撫按之、隨手而曲、殆如肉耎。駭而卻走。旋囘視、則四足移動、漸入壁中。
又見壁間倚白梃、潔澤修長。近扶之、膩然而倒、委蛇入壁、移時始沒。
康熙十七年、王生俊升設帳其家。日暮、燈火初張、生著履臥榻上。忽見小人、長三寸許、自外入、略一盤旋、即復去。少頃、荷二小凳來、設堂中、宛如小兒輩用梁䕸心所製者。又頃之、二小人舁一棺入、僅長四寸許、停置凳上。安厝未已、一女子率廝婢數人來、率細小如前狀。女子※衣、麻綆束腰際、布裹首、以袖掩口、嚶嚶而哭、聲類巨蠅。[やぶちゃん字注:「※」=「衤」+「衰」。但し、原参考引用元では「※衣」を「衰衣」とする。]
生睥睨良久、毛森立、如霜被於體。因大呼、遽走、顛床下、搖戰莫能起。
館中人聞聲畢集、堂中人物杳然矣。

[やぶちゃん注:私は個人的にこの掌篇の怪異を殊の外、偏愛している。それはその怪異が何らの動機も不吉の前兆ともされずに、ただ投げ出されてあるからである。真に恐ろしい幽霊屋敷、怪談のとはかくなるものをいうと私は信じて疑わないからである。]

耳嚢 卷之八 狂歌逸の事

 

 狂歌秀逸の事 

 

 今は故人なり、橘宗仙院は狂歌の才ありて度々その秀逸を聞しが、或日狂歌よみと人のもてはやせし、興名もとの木阿彌といへるおのこ宗仙院へ來りしに、法印いへるは、御身狂歌に妙を得しと聞く、我等も狂歌を詠出せし事あり、一首卽席の吟を聞度(ききたし)とありしかば、題給り候樣、木阿彌乞(こひ)けるゆゑ、花といえる事を詠めとありければ、

  散ふかと人みなおもひ煩へば花にも風は百病の長

言下に詠るを、法印も深く感嘆せしとなり。 

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。狂歌シリーズ。既にお馴染みの面々が登場する。

・「橘宗仙院」冒頭に「今は古人となりし」とあり、「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏であることを考えると、「卷之三 橘氏狂歌の事」に既注済の「橘宗仙院」元孝であるが、彼は延享四(一七四七)年八十四歳で没しており、これ次に示す「もとの木阿彌」の狂歌師としての事蹟からは当て嵌まらないように思われる(元孝の没年には「もとの木阿彌」は未だ二十三歳で狂歌師として知られてはいない)。耳嚢 巻之七 幽靈恩謝する事で同定候補とした同じく奥医で法印であった次代の「橘宗仙院」元周(もとちか 享保一三(一七二八)年~?)なら「もとの木阿彌」の活躍年代と生没年では一致するから最有力か。没年が不詳なのが痛い。彼は寛政一〇(一七九八)年に七十一歳で致仕している(彼の次の代ならば元春になるが、これは「もとの木阿彌」の生没年代との関係からは考え難い)。

・「もとの木阿彌」耳嚢 巻之七 郭公狂歌の事で既注。狂歌師元木網(もとのもくあみ 享保九(一七二四)年~文化八(一八一一)年)。姓は金子氏、通称は喜三郎、初号は網破損針金(あぶりこのはそんはりがね)。晩年は遊行上人に従って珠阿弥と号した。壮年の頃に江戸に出、京橋北紺屋町で湯屋を営みながら国文・和歌を学び、同好の女性すめ(狂名、智恵内子(ちえのないし)。彼女も「耳嚢 巻之三 狂歌流行の事」に既出)と結婚後、明和七(一七七〇)年の唐衣橘洲(からころもきっしゅう)宅での狂歌合わせに参加して以来、本格的に狂歌に親しむようになる。天明元(一七八一)年に剃髪隠居して芝西久保土器町に落栗庵(らくりつあん)を構え、無報酬で狂歌指導に専念した。数寄屋連をはじめ門人が多く、「江戸中はんぶんは西の久保の門人だ」(「狂歌師細見」)と称されて唐衣橘洲・四方赤良(大田南畝)と並ぶ狂歌壇の中心的存在となった。寛政六(一七九四)年には古人から当代の門人までの狂歌を収めた「新古今狂歌集」を刊行している(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

・「興名」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『狂名』。「興」(面白おかしい)でも意味は通らないことはないが、一般名詞としてはないので、訳では狂名とした。

・「散ふかと人みなおもひ煩へば花にも風は百病の長」「散ふかと」は「ちらふかと」又は「ちろふかと」で、

……散ってしまうかと人は皆、心煩う――さすれば花にとっても風は百薬ならぬ百病の長(ちょう)……

「風」に「風邪」を掛ける。「散る」「花」「風」がまず縁語で、しかも「煩ふ」「風(邪)」「百病」を別に縁語として利かす。橘宗仙院は奥医師であるから、病いを全体に配して狂歌師同士の挨拶の一首と巧んだ。 

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 秀逸の狂歌の事 

 

 今は故人となられた、橘宗仙院殿は狂歌の才、これあり、度々その秀逸なる一首をものされては世間に知られておられたが、ある日のこと、狂歌師として世上にてもて囃されておった狂名「もとの木阿弥」と申す男が、この宗仙院の元を訪ねて参った。

 法印の曰く、

「御身、狂歌に妙を得(う)と聞く。我らも狂歌を詠み出だすこと、これあれば、一首即席の吟を聞きとう存ずる。」

との仰せなれば、木阿弥、

「題を給りたく存じまする。」

と乞うたによって、

「されば――花――といえることを詠まれよ。」

との仰せに、

 

  散ふかと人みなおもひ煩へば花にも風は百病の長 

 

と淀みなく即座に詠じたを、法印も深く感嘆なされた、とのことで御座った。

柴田天馬訳 蒲松齢 聊斎志異 辛十四娘

 辛十四娘しんじゅうしじょう

 広平こうへいひょう秀才は正徳のころの人で、若い、気がるな酒のみだった。
 あるとき、朝早く歩いていると、美しい娘が、小奚奴ボーイ一を従え、露を踏み、履襪たびをぬらして行くのに会い、いい女だと思ったのである。
 夕がた、酔って帰って来る道ばたに故蘭若ふるでらがあって、その中から出て来たのは、さっきの麗人であった。馮の来るのを見ると、すぐ身をかえして中にはいった。
 馮は、ひそかに考えた、美しい娘が禅寺にいるはずはないと。で、驢馬ろばを門につなぎ、怪しい娘を見届ける気で中にはいった。垣はたえだえにくずれ落ち、階上には細草おぐさが毛氈を敷いたようにはえている。馮がぶらついていると、身なりの小ぎれいな、ごましおの老人が出て来て、
 「客人は、どこから来られたのじゃ」
 聞く。馮は、
 「ふと、この古寺に来たので、ちょっと、うかがいたいと思ったんです。老人はなんでここにこられたんです?」
 「わしは、寄るべがないので、しばらくこの寺を借りて、家内・子どもを落ちつかせているのです。来てくださったんだから、お酒がわりにお茶でもいれましょう。お寄りなされ」
 すすめられてはいって行くと本殿のうしろに一かまえの庭があって、石の路が、きれいに掃除されて草もなく、部屋にはいると、簾幌カーテン牀幌ねだいがけから、香霧が、噴きつけるように漂ってくるのであった。やがて席につくと老人は、
 「わしの姓はしんといいますじゃ」
 と言って姓字をのべた。
 馮は酔いに乗じて、
 「娘ごは、まだ、おつれあいがないと聞きましたので、みずからはからず、鏡台をあげたいと思って来たんです」
 辛は、にこにこしながら、
 「家内に相談してみますでな」
 と言うので、馮は筆を求めて詩を作った。それは、

  千金玉杵せんきんぎょくしょをもとむ。
  いんぎんに手みずからもつ。
  雲英うんえいにもし意あらば、
  みずからため元霜げんそう

 というのである。主人は笑って、そばのものにそれをわたした。しばらくするとじょちゅうが来て、辛に何かささやいた。辛は馮に、待っていてくれとあいさつしてたちあがり、幕を引きあげて奥にはいっていった。そして、こそこそ三口四口話して出てきた。馮は、きっと、よい返事があるだろうと思っていた。しかし、辛はすわりこんで笑いばなしをするばかりで、ほかの事は何も言わないのだ。馮は耐えられなくなって、
 「どうです。聞かせてください」
 と言うと、辛は、
 「あなたは、えらいかたです。久しくしたっているのです。しかし私の考えは言えませんじゃ」
 馮は、かたく話してくれと頼んだ。すると辛は、
 「子どもは十九人で、嫁にいったのが十二人あります。かたづけるのは家内まかせで、わしは取りあわんことになっていましてな」
 と言うのである。
 「小生は、今朝小奚奴をつれて露にぬれながら歩いていた人がほしいんです」
 辛は答えなかった。二人は黙って向かいあっていた。すると、奥からやさしい声が聞こえてきたので馮は酔いに乗じて簾をかかげ、
 「妻にもらえんければ顔でも見て、それで、満足しましょう」
 と言った。簾の鉤の動く音を聞くと、内では、みんな立ちあがって、驚きながめるのであった。そのなかに、袖を振り、かみをかたむけ、すらりと立って帯をいじりながら、はいってくる人を見ている紅い着ものの人がいた。
 部屋じゅうが騒ぐのをみて辛は怒った。そして数人の下男に言いつけ、馮を外に突き出した。馮は酒がいよいよまわってきたので、草の中に倒れてしまった。すると瓦や石が雨のように乱れ落ちてきたが、幸いにしてからだには当たらなかった。
 しばらくていると、驢馬がまだ路ばたで草を食っているのが聞こえたので、起きあがって驢馬にまたがり、ふらふらしながら行くのであったが、おぼつかない夜だったので、途を誤って谷あいにはいった。狼が歩いたりふくろうが鳴いたりするのである。馮は、ぞっと身の毛をよだたせ、うろうろ見まわしたがどこだか少しもわからなかった。と、はるかに木だちの中から、燈火がちらちらもれているので、たぶん村落だろうと思って、そこをさして馳せつけると、仰いで見るような高い門があった。鞭で門をたたくと中で、
 「どこのかたです。こんな夜中においでになったのは」
 と聞く人があった。馮が路に迷ったのだと言うと、
 「お待ちなさい、主人に申しますから」
 馮は足をならべてくぐいのように待っていたが、しばらくするとかんぬきをははずして扉を開き、たっしゃそうな下男が出て来て、馮に代わって驢馬をひいてくれた。
 案内に従って中にはいった。たいそうりっぱな部屋で、座敷には燈火が輝きわたっていた。しばらくすわっているうちに、婦人が出て来て、姓名をたずねた。馬が名を告げると、ややあって数人の靑衣こしもとが一人の老夫人を助けて出て来た。そして、
 「郡君ぐんくん四がおいでです」
と言った。馮が起立して、うやうやしく拝礼しようとするのを老夫人は止めて座につかせ、自分もすわって、
 「おまえは馮雲子ひょううんしの孫ではないかね」
 と言うので、馮が、
 「そうです。どうしてごぞんじなんです」
 と聞くと老夫人は、
 「おまえは、わたしのとお甥なのじゃ。わしは鐘漏並歇としをとっ五て老いさきがないのに、骨肉しんみのなかでいながら、とんとぶさたをしていますじゃ」
 と言うので、馮は、
 「わたしは小さいときに父を失ったもんですから、わたしの祖父のころの人は、十人のなかで一人も知らないくらいなんです。まだお会いした事がありませんが、どうぞ教えていただけませんか」
 と言うと、老夫人は、
 「おまえ、いまにわかるよ」
 と言うので、馮はふたたび聞かなかった。そして向かいあったまま考えていた。すると老夫人が、
 「おまえ、こんな夜ふけにどうしてここへ来たのです」
 馮は胆力を誇ろうと思って、今夜であった事を詳しく話した。老夫人は、にこにこして、
 「たいへんよい事じゃ。まして、おまえは人に知られた秀才じゃから、縁者の恥になりほせぬ。野狐なぞがいばることはでけんのじゃ。おまえ心配するにおよばん。わしが、うまく呼んであげるからの」
 馮は、はいはいと礼を言った。老夫人は側の者に、
 「わしは辛家の女の子を知らんが、そんなに、よいかの」
 すると腰元が、
 「あれには十九人娘があって、都翩々有風格みなひとがらでございます。あなたが娶りたいとおっしゃるのは、何番めですかしら」
 馮は言った、
 「年が、かれこれ十五あまりなんです」
 「それは十四番めの娘でございます。三月ちゅう、母親について郡君あなたをお寿いわいにまいりましたのに、どうしてお忘れあそばしたんです?」
老夫人は、にこにこして
 「そんなら、蓮のはなった高いくつをはいて、履のなかに香くずをいれ、しゃでうえをいて歩いていたのかえ?」
 「そうでございます」
 そこで、
 「あのこは、おめかしが、うまいのだね。そしてほんとに美しかったよ。甥の賞鑒めききは、あやまっとらん」
 と言って老夫人は腰元に向かい、
 「小狸をやって呼んで来さしなさい」
 腰元は、はいと言って部屋を出たが、しばらくたってからはいって来て、
 「辛家の十四娘を呼んでまいりました」
 と言った。
 すぐ紅衣の娘が来て老夫人の前にひれふし、拝礼しようとするのを老夫人は引きとめて、
 「ゆくゆくは、うちの甥嫁じゃ、女中の礼をしなさるな」
 娘は立ちあがって、紅衣の袖を低く垂らし、すらりと立っている、その髪をなでつけて、耳環をいじりながら、
 「十四娘、近ごろうちにいて、どんなことをしてじゃ」
 「ひまな時には、ただ挑繡ぬいとりをしております」
 と答えたが、ふりむいて馮を見ると、はにかんで不安そうな顔をしていた。
 老夫人が、
 「これは、わしの甥で、熱心におまえと縁ぐみをしたがっているのじゃ。なぜ路に迷わせたり、一晩じゅう谷を歩かせるようなめに、あわしたのだえ?」
 と言うと、娘は、うつむいたまま黙っていた。
 「わしがお前を呼んだのは、ほかではない。甥のために、仲人をしようと思うてじゃ」
 娘が黙っているばかりなので、老夫人はねだいを掃除して、ふとんを敷くように言いつけ合巹とこいりをさせようとするのだった。娘は、はにかみながら、
 「帰って父や母に申します」
 「わしがお前のために、仲人をするのじゃ。なんのまちがいが、ありましょうぞ」
 「父母は、郡君あなたのおおせにそむくようなことはありますまいが、こんなに早々では、わたくし、おおせにしたがえません」
 おだやかな顔つきなのだが、どこやらに強い気持ちが漂っていた。老夫人は、にこやかに、
 「小娘ながら志を動かせぬのは、まったく、わたしの甥嫁ほどある」
 と言って娘の頭上から金のかんざしの一つを抜いて馮にわたし、家に帰って吉日をきめるように言いつけた。そして腰元に娘を送りかえさした。遠くの方で鶏のうたうのが聞こえるのである。老夫人は下男に命じて驢馬をひかせ、馮を送り出させた。数歩の外に出て、ふりかえると、村舎いなかやはもうなくなって、ただ松、ひさぎがくっきり黒く、蓬の穂が墓をおおっているはかりだった。馮は、しばらく考えてから、やがてそこが薛尚書せつしょうしょの墓であることに気づいた。薛尚書というのは、もと、馮の祖母の弟であったので、馮を甥と言っていた。馮はゆうれいにあったのだと悟ったが、十四娘が何者であるかわわからなかったので、嘆息して帰ってから、心の中で、でたらめに日どりをきめて待ってはいたが、幽霊の約束が頼みになるとは思われなかった。それでまた蘭若てらに行ってみると、荒涼たる殿宇おどうがあるばかりである。土地の人に聞くと、寺内でときどき狐を見かけると言った。馮はひそかに、もし、あんな麗人がもらえるなら、狐でも、いいと思った。
 やがてその日が来た。馮は思い切れないで、家や路を掃除させ、かわるがわる下男をやってながめさせたけれども、夜半になっても音さたがなった。馮は望みを失ってしまったが、にわかに、門外が騒がしいので、急いで出てみると、ぬいとりをしたほろが庭にとまって、腰元が娘を助け下ろし、靑廬しきじょうちゅうにすわらせた。しかし常例の妝奩きょうだいなどはなくて、ただ二人の髯の長い男が、酒甕ぐらいの大きな撲満ぜにがめ六を一つかつぎこみ、肩を休めると、それを部屋の隅に置いたのである。
 馮は麗人を得たの喜んで、それが異類あることなどは少しも気にしなかった。あるとき女に、
 「君の家では、なぜ死鬼しんだものをあんなに尊敬するんだね」
 と聞くと女は、
 「薛尚書へきしょうしょは今では五都巡環使ごとじゅんかんしで、何百里の間の間の幽霊も狐も、みな尚書に従っているんです。それでお墓にお帰りになる時はまれなんです」
 馮は蹇修なこうど七を忘れなかった。あくる日、お墓に行って祭りをして帰ってくると、二人の腰元がいわいに来て、貝や錦を机の上に置いて帰った。馮が女に言うと、女はそれを見て、
 「これは郡君の物ですわ」
 と言った。
 村に楚という銀台ぎんだい八があって、その公子は小さいときから馮といっしょに学問をした仲でたいそう相狎こころやすかったので、馮が狐の妻をもらったというのを聞いて、披露のしゅうぎ九をおくった。そして披露宴に来て、祝い酒を飲んで帰ったが、数日後また手紙で招いた。女は馮に、
 「いつか公子が来た時、わたし壁の穴から、のぞいて見たんですが、猿のような目で鷹のような鼻で、長くつきあう方ではありません。行ってはいけませんよ」
 と言うので、馮は招宴に行かなかった。すると、あくる日、公子は約束にそむいたといって責めに来て新作をせた。そこで馮は遠慮のない批評をしたが、嘲笑わるくちがまじっていたので、公子は、ひどく恥じ、いやな思いをして帰っていった。その晩、馮がねまで笑いながら話をすると、女は悲しそうに、
 「公子はおおかみのようなかたで、れては、いけないんです。あなた。あたしの言うことを聞かないから、いまに災難が来ますよ」
 と言うのであった。
 馮は、それを聞くと笑いながら謝った。そしてその後、公子に会うごとにお世辞を言って機嫌をとったので、前のへだても少しずつとけていった。
 おりから提学ていがく一〇の試験があった。公子は第一番だったので、へらへら喜んでいた。[やぶちゃん特例注:原文は「會提學試、公子第一、生第二」とあるから、馮は次席であったんである。これを訳から落すとちょっと以下の展開が摑みにくくなるので特に注した。]
 ある日、公子は使いをよこして馮を迎えた。いっしょに飲もうというのである。馮は断わったが、しきりに招くので、しかたなしに出かけて行った。来てみると、それは公子の初度たんじょう一一いわいだった。賀客が満ちあふれ、盛大な宴会が開かれていた。公子は高慢な顔をして試験のかきものを出して馮に見せた。親しい学友たちは肩をかさねて歎賞した。そのうちに酒が幾まわりかして、広間では音楽がかなでられ、笛や鼓の音が入り乱れて、客も主もたいそう楽しかった。と、公子は馮に向かって、
 「ことわざに、場中文じょうちゅうぶんを諭ぜずということがあるが、このことばのあやまりであることをいま知ったよ。ぼくが君より上に出られたわけはだね、はじめの数語が少しまさっていたからなんだね」
 公子がこう言うと、一連の人たちは、みんなほめたたえたが、馮は酔っていたので、こらえきれず大笑した、
 「はっ、はっ、はっ。 君は今になっても、まだ文章のためにこうなったと思ってるのか?」
 馮のことばを聞いて一座の人たちは色を失った。そして、公子は、気が結ぼれるほど恥じもし怒りもした。そのうちに客はだんだん去ってしまった。馮も、やはり逃げるように帰ったが、酒がさめてから後悔して女に話した。女は、わびしげな顔をして、
 「あなたは、ほんとに郷曲いなか儇子あわてもの一二なのね。君子に対して軽はずみなことをすれば、自分の徳をなくなすし、小人に対してすれば自分の身を殺すことになりますのよ。あなたには遠からずさいなんが来るでしょう。あたし、あなたのおちめを見てはいられませんから、これぎり、別れたいと思うんです」
 女は真剣なのである。馮は心配して泣いてあやまり、後悔していると言うと、女は、
  「もしも、あたしを留めようと思うんだったら、これからは、戸を閉めて遊び仲間と手を切る、むだな酒は飲まないと、はっきり約束をしてください」
 と言うので、馮はまじめに女のことばに従ったのである。
 十四娘は勤倹な一面灑脱しゃだつなたちであった。毎日縫いものや織りものに精を出していて、時には里帰りをすることもあったが、泊まってくることはなかった。また、暮らしの金を払った残りは撲満ぜにがめに投げ入れるのだった。こうして毎日、門をしめ、たずねて来る者があれは、下男に言いつけて、ことわらせた。
 その翌日、楚公子から手紙が来たが、女は焼き捨てて馮に聞かせなかった。またその翌日、馮は城内にくやみに行って、死んだ人の家で公子に会った。すると公子は馮の手を取って、飲みに来いと、ひどく誘うのだった。さしつかえがあるからと言って、ことわったが、公子は圉人ばていくつわをひかせてつれて行った。
 公子の家に来ると、すぐ洗腆さけさかな一三いつけた。馮は、また早く帰りたいと言ったけれども、公子は、無理に引きとめ、家の姫を出してことかせ音楽をやらせるのであった。
 馮は根がかまわないたちだったし、先ごろから家に閉じこもって、ひどくいらいらしていたところへ、いきなり、ひどく飲んだので気が大きくなり、なんの考えもなく、酔い倒れてしまった。
 公子の妻の玩氏がんしは、ひどい焼きもちやきで、腰元や妾に化粧をさせないほどだった。二、三日前、女中が公子の書斎にはいっているところを玩氏につかまり、杖で頭を打たれ、頭が裂けて即死してしまった。公子は馮が嘲弄したというので、馮に遺恨をふくみ、毎日しかえしを考えているところへ、この事があったので、酔わして無実の罪に落とそうとはかり、馮が酔って寝ているのに乗じて、女中の死骸を寝台のそばにきこんだ。そして扉を閉めて、行ってしまった。
 馮は朝まだきに酒がさめ、はじめて自分が卓の上に寝ているのに気がついた。起きて枕や寝台をさがし歩いていると、何やら、やわらかいものが足にさわった。手でなでてみると人間なのである。馮は主人が、子供を伴睡とぎによこしたのだろうと思って、また、それを踏んでみたけれども動かないのだ。馮はたいそう驚いて、部屋の外に出て、どなった。すると下男たちが、みんな起きてきた。彼らの持っている燈火で照らし出されたのは女の死骸だった。下男たちは馮を下手人だと言って騒ぎたてた。そこへ公子が出てきてその場を調べ、氷河が逼奸ごうかんしようとし女中を殺したのだと言い張って、馮に無実の罪をきせ、馮をとらえて広平の役所に送った。
 翌日、はじめて、その事を知った十四娘は澘然さんぜんとして、[やぶちゃん特例注:「澘然」は正しくは「潸然」(サンゼン・センゼン)で、涙が流れるさま、さめざめと涙を流すさま、の意。]
 「今日のことがあろうとは早くから知っていた」
 と言った。そして日取りを考えては、獄中の馮に金をおくってやるのであった。
 馮は府尹ふちじに調べられたが、言いひらきができなかった。朝夕拷問を受けるので、皮肉がすっかり落ちてしまった。そこへ女が会いに来た。その顔を見ると、胸がふさがって物も言えなかった。女は落し穴の深いのを知り、冤罪えんざいに服して刑をまぬかれるようにすすめた。馮は泣いてそれに従った。女の行き来を人は咫尺ちかくにいながら見ることができなかった。
 女は帰ってくると部屋にこもって泣いていたが、急に女中をどこかへやって、何日かひとりで暮らしていた。そして仲人婆さんに頼んで、禄児という良家の娘を買った。じゅうごになる花のように美しい娘であった。寝起きから、飲み食いまでをともにして、その、かあいがりようといったら、ほかの子供たちとは、まるで違っていた。
 馮は誤殺を承認したので、絞殺に擬せられた。そのたよりを持って帰った下男は、声もでないほど泣くのであったが、女はそれを聞いても平気で、気に止めぬようであった。が、死刑の日がきまると、女は、はじめて、あわてふためき、夜も昼も出歩いて足を休める間もなかった。そして、いつも寂しいところで泣いていた。寝も食いもしないほどだった。
 ある日、夕がた、狐の腰元が、ひょっこり帰って来た。女はすぐに起ちあがり、手を引きあって人のいないところに行き、ひそひそと話していたが、出て来たときには、すっかり、にこやかになっていて、ふだんのように家事をかたづけていたのであった。
 翌日、下男が獄舎に行くと、馮はことづけたのである、奥さまに一度来て、長の別れをするようにと。で下男はそのとおりを伝えたのであるが、女は、いいかげんな返事をして、少しも悲しまず、平気でいたから、家の者は、ひそかに、むごいと言って非難するのだった。
 楚銀台は免職されて、平陽の観察が特に聖旨を奉じて馮生の事件を裁くことになった、といううわさがわくように言い伝えられた。下男はそれを聞くと喜んで奥さまに知らせた。女も喜んで下男を役所にやって探らせた。下男が行った時には、馮はもう獄舎から出されていて、たがいに悲しんだり喜んだりしているとき、突然、公子が捕まってきた。ただ一鞠ひとしらべですっかり事情がわかったので、馮は許されて家に帰り、妻を見ると、はらはらと涙を流す、女もまた相対して泣くのであった。
 しかしなんで上聞に達したかが、どうしてもわからないので馮が不思議がると、女は笑って腰元を指さし、「これが、あなたの功臣なの」
 と言った。馮は驚いて、わけをたずねた。
 これより先、女は腰元を都にやって、馮の冤罪を宮廷のお聞きに達しようとしたのである。腰元は都についたが、宮中は神さまが守護しているので、御溝おほり一四のあたりをうろつくばかりで、幾月かはいられなかった。で、腰元は、やりそこないはしないかと心配し、一度帰って相談しようと思っていると、天子が大同府に御幸みゆきになるということを聞いたので、腰元は先に行って流れわたりの遊女になって待っていた。そし天子の寵愛を受けたのである。天子は腰元が風塵よのつねの者のようでないのを疑われた。すると腰元は涙を流すので、天子が、どんな、つらい事があるのかと聞かれると、腰元は申し上げた、
 「わたくしは原籍が広平で、生員しゅうさい馮某の娘なのでございます。父が冤罪で牢獄に入れられ死にそうになっておりますので、とうとうわたくしを勾欄くるわに売るようなことになったのでございます」
 花のような顔から、涙の露が、ほろほろこぼれ落ちるのである。帝はあわれに思って、百両の金を賜わった。そして、おたちになる時、冤罪の顚末てんまつを、こまかにおたずねになり、紙と筆を出して姓名を書きとめてから、ともに富貴を受けようではないか、とおっしゃった。
 腰元は申し上げた、
 「ただ父子おやこが、いっしょになりたいと思うばかりでございます。華膴ぜいたくをいたそうとは存じません」
 天子は、うなずいて、おたちになった。
 腰元が事情を話すと、馮は涙に目をひからせ、急いで腰元を拝したのである。
 それからまもなくのことだが、女は、だしぬけに言うのであった。
 「あなたと縁を結ばなかったなら、あたし、どこへいったって心配なんかなかったと思いますわ。あなたがつかまった時あたし戚眷間しんるじゅうを奔走したんですが、一人だって相談にのってくれる人がなかつたんです。その時の悲しさといったら、まったく、お話もできないくらいです。今度塵世よのなかを見て、つくづくいやになりました。あなたのためによいつれあいをいときましたから、あたし、これでお別れいたします」
 それを聞くと馮は泣き伏したまま起きあがらなかった。それで女は思い止まったのである。その夜、禄児を馮の侍寝とぎにやったけれど、馮は拒んで納れなかった。朝になって見ると、十四娘の容光が、めっきり落ちていた。そして一月あまりもすると、だんだんふけて半年ほどたったら、まっ黒ないなかのばあさんみたいになってしまった。けれども馮はだいじにして少しも変わらなかった。すると女は、また別れ話を持ち咄して、
 「あなたには、もういつれがあるじゃありませんか、なんで、こんな鳩盤ばあさん一五に用があるんですの?」
 と言った。しかし馮は前のように、ただかなしみ泣くばかりであった。それから、また一月)ほどして、女はにわかに病気になった。飲み食いもせず、弱って閨闈ねやに寝ているのである。馮は父母にかしずくように侍湯薬かんびょうしたが、まじないもききめがなく、とうとう死んでしまった。馮は死ぬほど悲しんで、腰元に賜わった金で、とむらいをすましたが、数日後、腰元も見えなくなったので、禄児を本妻にした。
 その年がすぎると男の子ができた。しかし毎年不作が続いて、家はだんだん落ちぶれて行くのだ。夫婦ともくふうがつかないので、向かいあって悲しむばかりだったが、ふと思いだしたのは部屋の隅の撲甕ぜにがめあった。十四娘がその中に銭を投げ入れるのをつねづね見ていたが、いまでも、まだあるかと思って、そばに行き、豉具とうふつぼ一六やしおつぼなどが、いっぱい並べて置いてあるのを取りのけて、はしでその中を探ってみたが、堅くて箸ははいらぬのだ。仕方がないので打ち割ると、金があふれ出たので、とみに豊かになったのである。
 その後、下男が太華たいかに行ったら、十四娘が靑騾あおうまに乗り、腰元が駿馬にまたがってついてくるのに会った。下男が胆をつぶしてあきれていると、
 「馮さまはごぶじかえ?」
 と、たずねた。
 「ご主人にいっておくれ。あたしは、もう仙人になっています。喜んでくださいまし、とね」
 言ってしまうと見えなくなった。

  注

一 奚は下男。小奚奴は僮すなわち童僕のこと。ボーイと訳しておく。唐の李駕は、小奚奴に古錦囊を負わせ、句を得るとその中に投入したという。[やぶちゃん特例注:この「李駕」は「李賀」の誤りである。]
二 むかし温嶠という人が、妻をうしなって後妻をさがしているおりから、おばの劉氏が、娘のつれあいを見つけてくれと頼んだ。娘を見ると、姿もよしりこうらしくもあるので、住い婿は得がたいが、自分ぐらいでよいか、ときくと、おばは、おまえのようなのは、とても望むことはできないだろう、と答えたのであった。その後、温嶠は報告して、門地や官等が自分より少しも劣らないのを見つけたと言い、結納に玉の鏡台を送ってやった。おばはたいそう喜んだ。それで、いよいよ結婚をする時になって、婿が温嶠自身なのを見た娘は、紗の扇を開きながら、笑って、あたし、もとから、この人だろうと思っていたんですと言った。それから、婿を自薦することを、鏡台をおくる、というのである。
三 昔、裴航という人が、藍橋を過ぎ、のどがかわいたので、ある家の婆さんに、飲むものをくださいといったら、婆さんは娘の雲英に一碗の飲みものを持って来さして、航に飲ました。美しい娘であった。航が妻に欲しいというと婆さんが、あたしは仙人になる霊丹を持っているが、それをく玉製の杵と臼とがないので困っている。もし玉の杵と臼とを持ってきたら娘をあげましょうと答えた。そこで藍航は方方たずねて、やっと玉製の杵と臼とを手に入れ、それを婆さんにやって雲英を娶った。もちろん婆さんは霊丹を飲んで仙人となった。藍航と雲英も、のち、やはり仙人となった。[やぶちゃん字注:「く」は底本では「搗(つ)く」でルビではない。これは底本の注がポイント落ちであるためにルビが読み難くなるためであるが、私のテクストでは同ポイントとしているので向後はこれらをルビ化し、本注記も略すこととする。]
四 漢の武帝が、王太后母蔵児を尊んで、平原郡君としたのが、郡君の始めである。
五 魏の田予が「年七十を過ぎて位にいるのは鐘鳴り漏尽きて夜行くがごとし罪人なり」と言ったので、老人のことを、鐘漏、というようになった。
六 土でこしらえ銭を入れる穴がある、満ちるとうちわって出す、それで撲満というのである。今の貯金玉と思えばよい。
七 伏義の臣蹇修は媒をつかさどっていた。
八 宋史職官志に「銀台天下の奏状を掌収す」とある。通政司である。
九 婚礼後三日めに開く宴会である。
一〇 提学とは、提督学改すなわち学政使のことで、各省の教育をつかさどり、三年を期として、省内をめぐって試験をするのである。
一一 初度は出生した日のことで、誕生の祝日のことをいう。
一二 荀子に、郷曲優子、とあって、注に、軽薄巧慧の子なり、とある。
一三 洗は清潔にすること。腆は厚くすること。書経に、洗腆致用致酒、とある。
一四 長安の御溝は、楊溝ともいう、楊を上に植えてあるからだ。また羊が角で垣墻をいためるのを防ぐために、溝をほって羊をへだてるようにしてあるから、羊溝とも禁溝ともいうのである。そして、終南山の水を引いてあるのが、宮中を通ってくるおんで、御溝ともいう、と中華古今の注にある。
一五 唐の任瓌が、妻の杜正倫をおそれて、女には、三の畏るべき時代がある。その一つは、少妙にして生き菩薩のような時だ。その一つは、児女満前にして九子魔母のような時だ。その一つは、五、六十になって薄く妝粉を施し、あるいは靑く、あるいは黒く、鳩盤荼のような時だ、といった。鳩盤荼というのは、鬼の名である。
一六 豉または豉豆ともいう。黒大豆を蒸してわらで覆い、かびが出たら水をまぜかめに入れて泥で封をしておき、久しくそのままにしておくのである。黴が出てから塩、薑、椒を加えて、甕に入れる遣り方もある。各種の大豆でつくられる。ここでは豉具を、豆腐壺、としておく。[やぶちゃん字注及び特例注:「水をまぜ」の部分、「水を(まぜ)」とあるが丸括弧を除去した。下の「(かめ)」に引かれた記号の衍字と思われる。これは今は比較的知られるようになった、私が殊の外好む調味料「豆豉トウチ」である。ご存じない方はウィキの「豆チ」を参照されたい。]

■原文

 辛十四娘

廣平馮生、正德間人。少輕脱、縱酒。
昧爽偶行、遇一少女、著紅帔、容色娟好。從小奚奴、躡露奔波、履襪沾濡。心竊好之。
薄暮醉歸、道側故有蘭若、久蕪廢、有女子自内出、則向麗人也。忽見生來、即轉身入。
陰念、麗者何得在禪院中。縶驢於門、往覘其異。入則斷垣零落、階上細草如毯。彷徨間、一斑白叟出、衣帽整潔、問、
「客何來。」
生曰、
「偶過古刹、欲一瞻仰。翁何至此。」
叟曰、
「老夫流寓無所、暫借此安頓細小。既承寵降、有山茶可以當酒。」
乃肅賓入。見殿後一院、石路光明、無復蓁莽。入其室、則簾幌床幙、香霧噴人。坐展姓字、云、
「蒙叟姓辛。」
生乘醉遽問曰、
「聞有女公子、未遭良匹。竊不自揣、願以鏡臺自獻。」
辛笑曰、
「容謀之荊人。」
生即索筆爲詩曰、

 千金覓玉杵
 殷勤手自將
 雲英如有意
 親爲擣玄霜

主人笑付左右。少間、有婢與辛耳語。辛起慰客耐坐、牽幕入。隱約三數語、即趨出。生意必有佳報、而辛乃坐與嗢噱、不復有他言。生不能忍、問曰、
「未審意旨、幸釋疑抱。」
辛曰、
「君卓犖士、傾風已久。但有私衷、所不敢言耳。」
生固請之。辛曰、
「弱息十九人、嫁者十有二。醮命任之荊人、老夫不與焉。」
生曰、
「小生祇要得今朝領小奚奴帶露行者。」
辛不應、相對默然。聞房内嚶嚶膩語、生乘醉搴簾曰、
「伉儷既不可得、當一見顏色、以消吾憾。」
内聞鉤動、群立愕顧。果有紅衣人、振袖傾鬟、亭亭拈帶。望見生入、遍室張皇。
辛怒、命數人捽生出。酒愈湧上、倒蓁蕪中。瓦石亂落如雨、幸不著體。
臥移時、聽驢子猶齕草路側、乃起跨驢、踉蹡而行。夜色迷悶、誤入澗谷、狼奔鴟叫、豎毛寒心。踟躕四顧、並不知其何所。遙望蒼林中、燈火明滅、疑必村落、竟馳投之。仰見高閎、以策撾門。内有問者曰、
「何處郎君、半夜來此。」
生以失路告。問者曰、
「待達主人。」
生累足鵠竢。忽聞振管闢扉、一健僕出、代客捉驢。
生入、見室甚華好、堂上張燈火。少坐、有婦人出、問客姓字。生以告。逾刻、靑衣數人、扶一老嫗出、曰、
「郡君至。」
生起立、肅身欲拜。嫗止之坐。謂生曰、
「爾非馮雲子之孫耶。」
曰、
「然。」
嫗曰、
「子當是我彌甥。老身鐘漏並歇、殘年向盡、骨肉之間、殊多乖闊。」
生曰、
「兒少失怙、與我祖父處者、十不識一焉。素未拜省、乞便指示。」
嫗曰、
「子自知之。」
生不敢復問、坐對懸想。嫗曰、
「甥深夜何得來此。」
生以膽力自矜詡、遂一一歷陳所遇。嫗笑曰、
「此大好事。況甥名士、殊不玷於姻婭、野狐精何得強自高。甥勿慮、我能爲若致之。」
生稱謝唯唯。嫗顧左右曰、
「我不知辛家女兒、遂如此端好。」
靑衣人曰、
「渠有十九女、都翩翩有風格。不知官人所聘行幾。」
生曰、
「年約十五餘矣。」
靑衣曰、
「此是十四娘。三月間、曾從阿母壽郡君、何忘卻。」
嫗笑曰、
「是非刻蓮瓣爲高履、實以香屑、蒙紗而步者乎。」
靑衣曰、
「是也。」
嫗曰、
「此婢大會作意、弄媚巧。然果窈窕、阿甥賞鑒不謬。」
即謂靑衣曰、
「可遣小貍奴喚之來。」
靑衣應諾去。移時、入白、
「呼得辛家十四娘至矣。」
旋見紅衣女子、望嫗俯拜。嫗曳之曰、
「後爲我家甥婦、勿得修婢子禮。」
女子起、娉娉而立、紅袖低垂。嫗理其鬢髮、捻其耳環、曰、
「十四娘近在閨中作麼生。」
女低應曰、
「閒來只挑繡。」
囘首見生、羞縮不安。嫗曰、
「此吾甥也。盛意與兒作姻好、何便教迷途、終夜竄谿谷。」
女俛首無語。嫗曰、
「我喚汝、非他、欲爲阿甥作伐耳。」
女默默而已。嫗命掃榻展裀褥、即爲合巹。女然曰、
「還以告之父母。」
嫗曰、
「我爲汝作冰、有何舛謬。」
女曰、
「郡君之命、父母當不敢違。然如此草草、婢子即死、不敢奉命。」
嫗笑曰、
「小女子志不可奪、真吾甥婦也。」
乃拔女頭上金花一朵、付生收之。命歸家檢曆、以良辰爲定。乃使靑衣送女去。聽遠雞已唱、遣人持驢送生出。數步外、歘一囘顧、則村舍已失、但見松楸濃黑、蓬顆蔽冢而已。定想移時、乃悟其處爲薛尚書墓。薛故生祖母弟、故相呼以甥。心知遇鬼、然亦不知十四娘何人。咨嗟而歸、漫檢曆以待之、而心恐鬼約難恃。再往蘭若、則殿宇荒涼。問之居人、則寺中往往見狐狸云。陰念、『若得麗人、狐亦自佳』。
至日、除舍掃途、更僕眺望、夜半猶寂。生已無望。頃之、門外譁然。屣屣出窺、則繡幰已駐於庭、雙鬟扶女坐靑廬中。妝奩亦無長物、惟兩長鬣奴扛一撲滿、大如甕、息肩置堂隅。生喜得麗偶、並不疑其異類。問女曰、
「一死鬼、卿家何帖服之甚。」
女曰、
「薛尚書、今作五都巡環使、數百里鬼狐皆備扈從、故歸墓時常少。」
生不忘蹇修、翼日、往祭其墓。歸見二靑衣、持貝錦爲賀、竟委几上而去。生以告女、女視之、曰、
「此郡君物也。」
邑有楚銀臺之公子、少與生共筆硯、相狎。聞生得狐婦、餽遺爲餪、即登堂稱觴。越數日、又折簡來招飮。女聞、謂生曰、
「曩公子來、我穴壁窺之、其人猿睛而鷹準、不可與久居也。宜勿往。」
生諾之。翼日、公子造門、問負約之罪、且獻新什。生評涉嘲笑、公子大慚、不懽而散。生歸、笑述於房。女慘然曰、
「公子豺狼、不可狎也。子不聽吾言、將及於難。」
生笑謝之。後與公子輒相諛噱、前郤漸釋。
會提學試、公子第一、生第二。
公子沾沾自喜、走伻來邀生飮。生辭、頻招乃往。至則知爲公子初度、客從滿堂、列筵甚盛。公子出試卷示生。親友疊肩歎賞。酒數行、樂奏作於堂、鼓吹傖儜、賓主甚樂。公子忽謂生曰、
「諺云、『場中莫論文。』此言今知其謬。小生所以忝出君上者、以起處數語、略高一籌耳。」
公子言已、一座盡贊。生醉不能忍、大笑曰、
「君到於今、尚以爲文章至是耶。」
生言已、一座失色。公子慚忿氣結。客漸去、生亦遁。醒而悔之、因以告女。女不樂曰、
「君誠郷曲之儇子也。輕薄之態、施之君子、則喪吾德、施之小人、則殺吾身。君禍不遠矣。我不忍見君流落、請從此辭。」
生懼而涕、且告之悔。女曰、
「如欲我留、與君約、從今閉戸絶交遊、勿浪飮。」
生謹受教。
十四娘爲人勤儉灑脱、日以紝織爲事。時自歸寧、未嘗逾夜。又時出金帛作生計。日有贏餘、輒投撲滿。日杜門戸、有造訪者、輒囑蒼頭謝去。 一日、楚公子馳函來、女焚爇不以聞。翼日、出弔於城、遇公子于喪者之家、捉臂苦邀。生辭以故。公子使圉人挽轡、擁之以行。
至家、立命洗腆。繼辭夙退。公子要遮無已、出家姬彈箏爲樂。
生素不羈、向閉置庭中、頗覺悶損、忽逢劇飮、興頓豪、無復縈念。因而酣醉頽臥席間。
公子妻阮氏、最悍妒、婢妾不敢施脂澤。日前、婢入齋中、爲阮掩執、以杖擊首、腦裂立斃。公子以生嘲慢故、啣生、日思所報、遂謀醉以酒而誣之。乘生醉寐、扛尸床間、合扉徑去。
生五更酲解、始覺身臥几上。起尋枕榻、則有物膩然、紲絆步履、摸之、人也。意主人遣僮伴睡。又蹴之、不動而殭。大駭、出門怪呼。廝役盡起、爇之、見尸、執生怒鬧。公子出驗之、誣生逼奸殺婢、執送廣平。
隔日、十四娘始知、潸然曰、
「早知今日矣。」
因按日以金錢遺生。
生見府尹、無理可伸、朝夕搒掠、皮肉盡脱。女自詣問。生見之、悲氣塞心、不能言説。女知陷阱已深、勸令誣服、以免刑憲。生泣聽命。女還往之間、人咫尺不相窺。
歸家咨惋、遽遣婢子去。獨居數日、又託媒媼購良家女、名祿兒、年已及笄、容華頗麗、與同寢食、撫愛異於群小。
生認誤殺擬絞。蒼頭得信歸、慟述不成聲。女聞、坦然若不介意。既而秋決有日、女始皇皇躁動、晝去夕來、無停履。每於寂所、於邑悲哀、至損眠食。
一日、日晡、狐婢忽來。女頓起、相引屏語。出則笑色滿容、料理門戸如平時。
翼日、蒼頭至獄、生寄語娘子一往永訣。蒼頭復命。女漫應之、亦不愴惻、殊落落置之。家人竊議其忍。
忽道路沸傳、楚銀臺革爵、平陽觀察奉特旨治馮生案。蒼頭聞之喜、告主母。女亦喜、即遣入府探視、則生已出獄、相見悲喜。俄捕公子至、一鞫、盡得其情。生立釋寧家。歸見闈中人、泫然流涕、女亦相對愴楚、悲已而喜。然終不知何以得達上聽。女笑指婢曰、「此君之功臣也。」
生愕問故。
先是、女遣婢赴燕都、欲達宮闈、爲生陳冤。婢至、則宮中有神守護、徘徊御溝間、數月不得入。婢懼誤事、方欲歸謀、忽聞今上將幸大同、婢乃預往、偽作流妓。上至句闌、極蒙寵眷。疑婢不似風塵人。婢乃垂泣。上問、「有何冤苦。」婢對、
「妾原籍隸廣平、生員馮某之女。父以冤獄將死、遂鬻妾句闌中。」
上慘然、賜金百兩。臨行、細問顛末、以紙筆記姓名、且言欲與共富貴。婢言、
「但得父子團聚、不願華膴也。」
上頷之、乃去。
婢以此情告生。生急拜、淚眥雙熒。
居無幾何、女忽謂生曰、
「妾不爲情緣、何處得煩惱。君被逮時、妾奔走戚眷間、並無一人代一謀者。爾時酸衷、誠不可以告愬。今視塵俗益厭苦。我已爲君蓄良偶、可從此別。」
生聞、泣伏不起。女乃止。夜遣祿兒侍生寢、生拒不納。朝視十四娘、容光頓減、又月餘、漸以衰老、半載、黯黑如村嫗、生敬之、終不替。女忽復言別、且曰、
「君自有佳侶、安用此鳩盤爲。」
生哀泣如前日。又逾月、女暴疾、絶食飮、羸臥閨闥。生侍湯藥、如奉父母。巫醫無靈、竟以溘逝。生悲怛欲絶。即以婢賜金、爲營齋葬。數日、婢亦去、遂以祿兒爲室。
逾年舉一子。然比歳不登、家益落。夫妻無計、對影長愁。忽憶堂陬撲滿、常見十四娘投錢於中、不知尚在否。近臨之、則豉具鹽盎、羅列殆滿。頭頭置去、箸探其中、堅不可入、撲而碎之、金錢溢出。由此頓大充裕。
後蒼頭至太華、遇十四娘、乘靑騾、婢子跨蹇以從、問、
「馮郎安否。」
且言、
「致意主人、我已名列仙籍矣。」
言訖、不見。

異史氏曰、「輕薄之詞、多出於士類、此君子所悼惜也。余嘗冒不韙之名、言冤則已迂、然未嘗不刻苦自勵、以勉附於君子之林、而禍福之説不與焉。若馮生者、一言之微、幾至殺身、苟非室有仙人、亦何能解脱囹圄、以再生於當世耶。可懼哉。」

2014/05/27

萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「何處へ行く」(17) 「秋より冬へ」(前) 

 秋より冬へ

 

ニツケルのしやぼんの箱にゆがみたる

顏のうつるも悲し初秋

 

ニコライの尼が僧衣のま白なる

カフスのうへにたゞよへる秋

 

[やぶちゃん注:「ニコライ」現在、群馬県前橋市千代田町にある前橋ハリストス正教会亜使徒大主教聖ニコライ聖堂か(同教会公式サイトはこちら)。]

 

いへばえに君がくちびるほのかにも

秋の憂の來りゞよふ

 

[やぶちゃん注:原本は以下の通り。

 

いへばへの君がくちびるほのかにも

秋の憂の來りゞよふ

 

しかしこれでは意味がよく通らない。これは恐らく古語の「言へば得(え)に」の誤りと思われる。「に」は打消しの助動詞「ず」の連用形の古形で、「口に出して言おうとするが、そうするとしかし、うまく言うことが出来ない」の意である。校訂本文もそう採って「いへばえに」と訂する。]

 

夜をこめてまどろみもせむあかつきの

白熱燈の消ゆる侘しさ

 

[やぶちゃん注:「侘しさ」の「侘」は原本では「佗」。誤字と断じて訂した。校訂本文も「侘しさ」とする。]

 

かぎりなく一直線につゞきたる

街を盡くれば白き海みゆ

 

[やぶちゃん注:「冬」は抹消。]

 

ほのかにも瓦斯のにほひの漂へる

勸工場のくらき敷石

 

[やぶちゃん注:原本は「觀工場」。誤字と断じて訂した。校訂本文も「勸工場」。この一首は、朔太郎満二十六歳の時、大正二(一九一三)年十月十一日附『上毛新聞』に「夢みるひと」名義で掲載された五首連作の三首目、

 ほのかにも瓦斯(がす)のにほひのただよへる勸工塲(くわんこうぜう)の暗(くら)き鋪石(しきいし)

の表記違いの相同歌と判断する。この「くわんこうぜう」はママ。底本全集校訂本文では「くわんこうば」と訂するが従わない。誤りとしても朔太郎が音韻上、これで詠んだ可能性を排除出来ないからである。無論、「勸工塲」は正しくは「くわんこうば」が正しい読みではある。老婆心ながら再注しておくと、勧工場(かんこうば)とは明治・大正期に一つの建物の中に多くの店が入って種々の商品を陳列・即売した一種のマーケットのことで、明治一一(一八七八)年一月に政府の殖産興業政策の方針に沿って東京府が麴町辰の口(現在の千代田区内)に常設商品陳列場としての「東京府勧工場」を開設したことに始まる(ここには前年に東京上野公園で開催された第一回内国勧業博覧会に展示された出品物も移されて陳列された。当時の出品点数は合計三十五万点、入場者合計五千二百人に及んだとされる)。後には本格的なデパートの進出により衰退した。勧商場。]

耳囊 卷之八 蛙合戰笑談の事

 

 蛙合戰笑談の事

 

 番町法眼坂(はふげんざか)の邊、折ふし蛙の合戰ありとて近邊の者見物に出(いづ)る事あり。ある時小笠原氏承りて咄(はなし)けるは、一體小笠原など住(すみ)ゐするあたり殊の外蛙多く、屋敷ごとに炭だわらの古きなどへ取入(とりいれ)て、夜ぶん僕(しもべ)など右法眼坂の邊へ捨(すて)けるゆゑ、おのづから數多(かずおおく)、右の内には斃(たふれ)たるも數(かず)あれば、きのふ蛙合戰(かはづかつせん)ありしと、いゝのゝしりけると語りぬ。 

 

□やぶちゃん注

○前項連関:雀軍(いくさ)から「蛙合戰」で直連関。但し、一般に蛙合戦とは蛙の雌雄が多数集まってくんずほぐれつ交尾する群婚を指すが、この話柄は真相暴露物で、ただ蛙がよく出る辺りで獲ってはあの坂の辺りに捨てていたという如何にもな詰まらぬオチである。

・「法眼坂」現在の千代田区三番町と四番町の境にある坂(グーグル・マップ・データ)。現在は東郷坂(東郷平八郎邸西側にあることに由来)・行人坂(目黒のそれとは別)とも呼ぶが、古くはかく呼んだもののようである。

・「小笠原氏」嘉永年間(一八四八年~一八五三年)に板行された尾張屋版切絵図を見ると、法眼坂の南西裏二番町通に面したところに「小笠原金十郎」とある。岩波版長谷川氏注によると、文化(「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏)頃は小笠原政宜(まさのり)とある。この辺り、東の半蔵濠と千鳥ヶ淵、西側の外濠に挟まれており、蛙が確かに多そうに思われる。 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 蛙合戦(かわずかっせん)という笑い話の事 

 

 番町法眼坂(ほうげんざか)の辺りにて、しばしば、蛙の合戦がある、と称しては近辺の者どもが見物に出るという話を聴く。

 しかし、ある時、法眼坂近くに屋敷を構えておらるる小笠原殿がこの噂を耳に致いて、

「……一体、拙者の住まう辺り、これ、殊の外蛙が多く出ましてのぅ……五月蠅いやら、気味悪いやら……近隣の屋敷毎に、庭や縁先に出でたる蛙は、これ、炭俵の古きものなんどへ片っ端から捕っては投げ入れ……どこもかしこも、夜分ともなれば、その満杯になったるを、下僕なんどが、かの法眼坂の辺りの空き地へ、ざあっと捨てるが、日常茶飯のことなれば……自ずからあの辺りの蛙の数、これ、多なって……また、その内には、これ、踏みつけたり、握り潰したり、棒にてしたたかに殴ったり致いたによって既に死んだるものも、これ、数多(あまた)あればこそ……それを知らざる者どもの見て、『昨夜、蛙合戦がまた法眼坂にてあった』なんどと、言い騒ぎ立てて御座るものと存ずる。……」

と私に語って御座った。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十二章 北方の島 蝦夷 5 北海道駒ヶ岳/水夫たちとその舟唄

M342m343

図―342[やぶちゃん注:上図。]

図―343[やぶちゃん注:下図。]

 

 翌日は強風で、岸には大きな波が打ちよせた。私は、これは色々な物が打ち上げられたに違いないと思った。そこで一行勢ぞろいをして、大きに期待しながら出かけたが、このような場合によくある如く、殆ど何も打ち寄せられていなかった。私は漁夫の残物堆から、面白い貝を若干ひろった。漁夫の家は、低くて、厚く屋根を葺いた奇妙な形をしていて、その各々が、屢々えらい勢で吹く風の力をそぐ為の、竹を編んだ垣根でかこまれている(図312)。同じ様に風の暴力にさらされる、ノース・カロライナ州ビューフォートの漁夫の小屋は、函館の小屋に似ている。私の家の外廊からは港がよく見え、二十五マイル向こうにはコモガタケと呼ばれる火山が聳えているが、そのとがった峰は、周囲の優しい斜面と顕著な対照をしている。この火山は、今は休息していて、峰にかかる白い雲のような、静かな煙を出している丈だが、三十年前爆発した時には、火山岩燼や石を入江に投げ込んだ(図343)。

[やぶちゃん注:「翌日」明治一一(一八七八)年七月十七日。矢田部日記には『午前試驗室ニ至リ……明朝探底(ドレヂ)ノ用意ヲ爲セリ』(磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」から正字化して示した。『……』は磯野先生の省略か原本のママかは不詳)とあるから、この昨日完成したラボラトリーに行く前の早朝にビーチ・コーミングに出掛けたものと思われる。

「残物堆」原文は“the refuse piles”。廃物・滓・芥の山。

「面白い貝」データ記載がないのがすこぶる残念。

「竹を編んだ垣根でかこまれている」「函館の古写真10景」というページの上から三枚目(明治九(一八七六)年・背景は函館山)の手前にある建物の周囲にモースのスケッチによく似た垣根が見られる。

「ノース・カロライナ州ビューフォート」ノースカロライナ州南部の東海岸の広大な砂嘴が形成されたところにあるビューフォート。現在はウォーター・フロントのリゾートとして知られているようである。「第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所」の冒頭で、『私は日本の近海に多くの「種」がいる腕足類と称する動物の一群を研究するために、曳網や顕微鏡を持って日本へ来たのであった。私はフンディの入江、セント・ローレンス湾、ノース・カロライナのブォーフォート等へ同じ目的で行ったが、それ等のいずれに於ても、只一つの「種」しか見出されなかった。』と出る(表記はママ)。

「コモガタケ」原文“Komgatake”。底本では直下に石川氏の『〔駒ヶ岳〕』という割注がある。北海道森町(ちょう)・鹿部(しかべ)町・七飯(ななえ)町に跨る標高千百三十一メートルの成層活火山北海道駒ヶ岳。剣が峰と砂原岳からなる双耳峰で私の好きな山容である。

「二十五マイル」四〇・二キロメートル。ちょっと長過ぎる。現在の地図で函館から山頂直線で三十二・九キロメートル、これでは内浦(噴火)湾に突き抜けてしまう。これは寧ろ、当時のモースが所持していた北海道地図が不正確であったことを示すものであろう。

「三十年前爆発した時」「三十年前」は不審。ウィキの「北海道駒ヶ岳」によれば、この明治一一(一八七八)年から二十二年前の安政三(一八五六)年九月二十五日午前九時頃に大噴火し、新たな火口(安政火口)が形成されたとあり、その際の死者は約十九~二十七名。噴出物量は約〇・三平方キロメートルとある(それ以前だと百八十四年も前の元禄七(一六九四)年の大噴火になってしまう。なお、現在見るような双耳峰と馬蹄形カルデラはその当時から二百三十八年前に遡る寛永一七(一六四〇)年に起きた噴火及びそれに先駆けて発生した大規模な山体崩壊によって形成されたもので、その後も何度か噴火を繰り返しているが、モースが見た山容は距離から見ても現在のそれと大きくは変わらないものと思われる。

「火山岩燼」原文“cinders”。「かざんがんじん」と読む。「燼」は燃え残り、燃えさしのこと。“cinder”は地質学用語で火山から噴出した噴石の意。

「入江」北側の内浦(噴火)湾。]

 

 港内をあちらこちらと漕ぐ水夫達は、南の方の水船を漕ぐ水夫達のそれとは全然違う、一種奇妙な歌を歌う。それは音楽的で、耳につきやすい。

M344

図―344

 

 水未達は堂々たる筋骨たくましい者共で、下帯以外には何物も身につけず、朽葉林檎みたいに褐色である。船を漕ぐのに、彼等は橈(かい)を引かず、押すのであるから、従って舳(へさき)の方を向いている。橈の柄の末端には、木の横木がついている。彼等は一対ずつをなして漕ぎ、漕刑罪人を連想させる。橈座は単に舷に下った繩の環で、この中に橈を通す。写生図(図344)は、米を積んだ舟である。舟によっては、片舷に六、七人漕手がいるのもあり、これ等の人々が口々に歌う奇妙な船唄が、水面を越して来るのを聞くと、非常に気持がよい【*】。

 

※ 日本の極南方、鹿児島湾で、私は水夫達が同じ歌を歌うのを聞いた。その後米国へ帰った時、霹国の芸人団がセーラムを訪問し、「ヴォルガ水夫の歌」と呼ばれる歌を歌ったが、これが非常に強く、函館の歌を思わせた。かかる曲節は、容易に北露からカムチャッカへひろがり、千島群島を経て蝦夷へ入り得るであろう。

 

[やぶちゃん注:このシークエンス、モースは日本のヨイトマケの唄等を今まで奇妙で非音楽的と表現してきたことを考えると、重ねて表現しているこの記憶に残る舟唄は極めて例外的にモースの耳に心地良かったことを示唆している。所謂、ソーラン節や江差追分(若しくはその系統の舟唄)の類であろうと思われる。但し、この注にあるようなロシアの舟歌を起源とするというのは如何なものか? 因みに、ウィキの「ソーラン節」では起源を青森県野辺地町周辺の「荷揚げ木遣り唄」から変化したとし、原曲は江戸中期の流行り歌説を挙げ、『当時の御船歌と呼ばれる儀礼の歌や小禾集という俗謡集に"沖のかごめに"と言う一節に酷似した歌詞があり、その流行歌がやん衆』(春の漁期に合わせて東北や北海道各地から西海岸の漁場へ集まって来た出稼ぎ漁師のこと)『とともに、北海道にわたったという』とある。また、ウィキの「江差追分」(コンマを読点に変えた)には、『渡島半島の日本海沿岸に位置する桧山郡江差町が発祥の地で』、『江戸時代中期以降に発生したとされている。信濃の追分節に起源があるとするのが定説のようである』とし、その経緯は『信濃国追分宿の馬子唄が、北前船の船頭たちによって伝わったものと、越後松坂くずしが謙良節』(けんりょうぶし:越後の民謡「松坂」が変化したもので、新潟県新発田市出身の検校松波謙良が作ったとされる。越後の瞽女や座頭・船人たちが「松坂」を各地へ持ち回ったために、日本海側の各県で唄われている。秋田・青森・北海道の一部では、検校が「松坂」を唄ったために「検校節」と呼ばれる。「検校節」の名が、なまって「けんりょう節」になり、松波謙良の名と結び付いて「謙良節」となった。以上は暁洲舎「日本の民謡 曲目解説」に拠った)『として唄われていたものが融合されたとされている。今の江差追分の原形として大成させたのは、寛永年間、南部国の出身で、謙良節の名手であった座頭の佐之市によるものであると云われている。その後,歌い継がれる間に幾多の変遷を経て,浜小屋節や新地節など多くの流派が発生』したとある。モース先生、ロシア起源というのはちょっと戴けませんね。

「橈」原文は“oar”。ウィキの「櫂」には『英語では、ボートなどで使用する船べりに支点を持つものを"oar"(オール)と呼び、カヌーなどに用いる船べりに支点を持たないものを"paddle"(パドル)と言って区別するように、日本語でも、それぞれを「櫂」(かい)と「橈」(かい)と書いて区別することがある』とある。この場合、舷側に固定されて下がった繩を支点とするから、立派なオール「櫂」の類いと言い得るであろう。

「朽葉林檎」原文“russet apples”。朽葉色のリンゴ、表面にサビの入ったリンゴのこと。説明するよりグーグル画像検索「russet applesを見た方が早い。]

飯田蛇笏 靈芝 昭和十年(九十九句) Ⅴ

 

初夏の嶺小雨に鳶の巣ごもりぬ

 

初夏の卓朝燒けのして桐咲けり

 

わが浴むたくましき身に夏の空

 

海黝ろむ艙庫は暑き日を抱けり

 

大槐樹盆會の月のうす幽し

 

虹消えて夕燒けしたる蔬菜籠

 

虹たつや常山木に顫ふ烏蝶

 

[やぶちゃん注:双子葉植物綱シソ目シソ科クサギ(臭木)Clerodendrum trichotomum ウィキの「クサギ」によれば、日当たりのよい原野などによく見られる落葉小高木で、和名は葉に悪臭があることに由来する。『葉は大きく、長い葉柄を含めて』三〇センチメートル『にもなり、柔らかくて薄く、柔らかな毛を密生する。葉を触ると、一種異様な臭いがするのがこの名の由来である。花は』八月頃に『咲く。花びらは萼から長く突き出してその先で開く。雄しべ、雌しべはその中からさらに突き出す。花弁は白、がくははじめ緑色でしだいに赤くなり、甘い香りがある。昼間はアゲハチョウ科の大型のチョウが、日が暮れるとスズメガ科の大形のガがよく訪花し、受粉に与る。果実は紺色の液果で秋に熟し、赤いがくが開いて残るためよく目立つ。この果実は鳥に摂食されて種子分散が起きると考えられている』とあり、また『葉には名の通り特異なにおいがあるが、茶の他に、ゆでれば食べることができ若葉は山菜として利用される。収穫時には、臭いが鼻につくが、しばらくすると不思議なくらいに臭いを感じなくなる。果実は草木染に使うと媒染剤なしで絹糸を鮮やかな空色に染めることができ、赤いがくからは鉄媒染で渋い灰色の染め上がりを得ることができる』とある。「烏蝶」は「からすてふ(からすちょう)」で、鱗翅(チョウ)目アゲハチョウ上科アゲハチョウ科アゲハチョウ亜科アゲハチョウ属 Papilio に属するアゲハチョウ類で、特に選ぶならばカラスアゲハ Papilio bianor を指すと考えてよいか。]

 

深山寺雲井の月に雷過ぎぬ

 

[やぶちゃん注:「深山寺」は「みやまでら」であろうが、こう呼称する地名や寺院は複数ある。福井県敦賀市深山寺か。但し、出雲にも同様の地名がある。識者の御教授を乞う。私は暫く一般名詞として採って鑑賞しておく。それで何らの問題はない。]

 

瀧霧の颺りて樅のこずゑまで

 

[やぶちゃん注:「颺りて」は「あがりて」と読む。]

 

ながれ出て舳のふりかはる鵜舟かな

 

[やぶちゃん注:「舳」は「へ」。舳先。]

自分   山之口貘

 自分

 

數多の精蟲に打ち勝ちし我は

今自分の生の初めをかへり見る

おゝ 冷たく感ずる危機の刹那

――ほつと吐き出すさだめの溜息

生の中で流汗絶えず――

コツコツして居る自分

これが我に如何ほどの幸福であらう

生れ出づる歡喜!!

嗚呼生れ出し我は

勝利者どもの競爭の巷に

第二の爭鬪をせねばならぬ――

おゝ麗しき美術の持主よ

     (將來の我に云ふ)

汝の愛しい美術に……

鍛へ鍛ふよりのこの腕もて

數多の勝利者達よ油斷なく進め

おゝ然らば自身を我は

赤い日の下で――――

汗は止め難き――――

汝等の力の

幾百倍の源を穿つて

寒き日にもまたどんな日も

汗かいて汗かいて

すべての頭を踏みにじり

得難い……好きな――

美術の持主に

 

[やぶちゃん注:底本では末尾に下インデントで『一九二一・六・二四』とある。前の「私の務」と同日の創作で、同じく大正一〇(一九二一)年八月十一日附『八重山新報』に二篇が並載されたものと思われる。但し、この詩にのみ「佐武路」のペン・ネームを附す(巻頭だからか。

 このペン・ネームは本名の山口重三郎の名の「三郎」に由来するものか。

 旧全集年譜の、この詩の発表より二年前の大正八(一九一九)年の条に『この頃、仲村渠らっと文芸同人誌「ほのほ」を、宮古島出身の下地恵信らとガリ版刷りの同人誌「よう樹」を創刊。ペンネーム山之口サムロ』とあるから、これは「さぶろ」ではなく「さむろ」と読むものらしい。

 因みに、この仲村渠(明治三八(一九〇五)年~昭和二六(一九五一)年)は「なかむら かれ」と読む。那覇生まれの詩人で本名は仲村渠致良(「なかんだかり ちりょう」又は「なかんだかれ ちりょう」と読むものと思われる。「仲村渠」はこの三文字で苗字であって沖縄独特のものである)。「琉球新報」公式サイト「沖縄コンパクト事典」の仲村渠によれば、北原白秋主宰の『近代風景』に参加、昭和七(一九三二)年頃、詩人グループ『榕樹』派(先に出たガリ刷同人誌か)を結成、戦後は『うるま新報』記者とある(下地恵信は不詳。)。

 「コツコツ」の後半は底本では踊り字「〱」。既に述べたように、この翌年の秋、バクさんは画家を志して上京する。

 冒頭「數多の精蟲に打ち勝ちし我は」で始まる激烈にしてストイックなこの一篇、私には――バクさんの「雨ニモ負ケズ」――であるように感じられる。]

杉田久女句集 226 秋月とコスモス 五句

 

   秋月とコスモス 五句

 

月の頰をつたふ涙や禱りけり

 

熱涙拭ふ袂の緋絹や秋袷

 

われにつきゐしサタン離れぬ曼珠沙華

 

[やぶちゃん注:曼珠沙華の句では群を抜く久女ならではの佳句である。]

 

コスモスくらし雲の中ゆく月の暈

 

コスモスに風ある日かな咲き殖ゆる


[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年三十二歳の時の句群。久女は前年からメソジスト教会に通うようになり、この年の二月に洗礼を受け、十二月には夫宇内も受洗している。]

橋本多佳子句集「紅絲」 沼 Ⅱ

 

冬の日を鴉が行つて落して了ふ

 

風の中枯蘆の中出でたくなし

 

子を思ふとき詩を欲るときを枯木立つ

 

枝交へ枯れし柘榴と枯れし桜と

 

威し銃おどろきたるは吾のみか

 

威し銃おろかにも二発目をうつ

 

[やぶちゃん注:これら一連の句群には明らかに今まで多佳子が用いたことのない口語的発想や新しい表現方法を模索しようとしている跡がありありと見えるが、未だうまくはいっていない。]

北條九代記 卷第六  宇治川軍敗北 付 土護覺心謀略(4) 承久の乱【二十六の二】――宇治の戦い決し、京方敗走す

土護(とごの)覺心は、散々に戰うて、「今は叶ふまじ。軍(いくさ)は是迄ぞ」とて、南を指して落ちて行く。敵三十騎計(ばかり)にて遁さじとて追掛くる。覺心は元來歩立(かりだち)の達者なれば、三室堂の僧坊まで飛が如くに走入りて、客殿を見れば、住持の僧かとおぼしくて睡居(ねむりゐ)たる、其の前に物具を脱置(ぬぎお)きて、剃刀のありけるに、水甕を取具(とりぐ)して緣に出て頭(かしら)を剃りて居たる所に、敵續きてうち入りつゝ、物具の傍(そば)に居ける僧を、敵ぞと心得て、取て抑へて首を取りてぞ歸りける。一舉の謀(はかりごと)に、無慚ながらも命を助り、奈良の方へ落行きたり。熊野の田邊法印は、子息千王禪師を討たせながら其身は泣々(なくなく)熊野にぞ歸りにける。宇治の渡(わたり)京方已に敗北して、横川(よかは)の橋、木幡山(こはたやま)、伏見、岡屋(をかのや)、日野、勸修寺(くわんしゆじ)に至まで、落人多く道々(みちみち)に討たれたり。供御瀨(ぐごのせ)、鵜飼瀨(うかひのせ)、廣瀨、槇島所々に向へられし京勢共、宇治の北の在家に、火の手の上(あが)るを見るよりも我先にと落失(おちう)せて、殘る兵一人もなし。夜に入りければ、寄手は次第々々に靜に川をぞ越えられける。

[やぶちゃん注:〈承久の乱【二十六】――宇治の戦い決し、京方敗走す〉

「土護覺心」不詳。底本の人物一覧にも出ない。不敵な坊主で興味があるのだが――いや寧ろ、この戦乱の最中に客殿で居眠りをしていて、人違いされ有無を言わさず首を掻かれてしまった三室戸寺の如何にも運のない凡僧、その横で素知らぬ振りで心静かに頭を剃って「愚僧は本明星山三室戸寺住持誰某にて御座る」なんどとうそぶいているシーンにこそ私の興味はある――というべきであろう。識者の御教授を乞うものである。

「三室堂」京都府宇治市莵道滋賀谷(とどうしがたに)にある明星山三室戸寺(みょうじょうざんみむろとじ)。寺院。本尊千手観音。西国三十三所第十番札所。本山修験道別格本山であるが、創建の正確な事情については不詳。公式サイトはこちらで、その略誌では光仁天皇勅願の精舎とする。宇治橋からは東北へ約一・五キロメートル程離れている。しかしここ、「南を指して落ちて行く」というのは不審。「承久記」本文にはないから、「北條九代記」の筆者の筆が滑った位置誤認と思われる。

「田邊法印」熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)の統轄にあたった熊野別当であった快実(?~承久三(一二二一)年)。底本の人物一覧によれば、「紀伊国続風土記」によれば、この「田邊法印」は快実のことであり、「熊野別当系図」によれば、『熊野別当法印湛憲の子とある。別称小松法印。』以下に見るように「承久記」古活字本(流布本)の原文では、『彼が戦いに敗れて後、』ある畠の中に這い隠れて九死に一生を得た話が載る(「北條九代記」ではその詳細はカットされている)が、『乱後捕われて処刑された(流布本・慈光寺本・吾妻鏡等)』とあり、「北條九代記」の次の章の「雲客死刑」でも六条河原で処刑されたとある。

「夜に入りければ」六月十四日の夜。前に引いた「吾妻鏡」の同日の最後の部分の書き下し文を再掲しておく。『武州、武藏前司等、筏(いかだ)に乘りて河を渡す。尾藤(びとう)左近將監、平出(ひらで)彌三郎をして民屋を壞(こぼ)ち取りて筏を造らしむと云々。武州、岸に著くの後、武藏・相摸の輩、殊に攻め戰ふ。大將軍二位兵衞督有雅卿・宰相中將範成卿・安達源三左衞門尉親長等、防戰の術を失ひて遁れ去る。筑後六郎左衞門尉知尚・佐々木太郎右衞門尉・野次郎左衞門尉成時等、右衞門佐朝俊を以つて大將軍と爲し、宇治河邊に殘留して相ひ戰ひ、皆、悉く命を亡(うしな)ふ。此の外の官兵、弓箭(きゆうぜん)を忘れ、敗走す。武藏太郎、彼の後へ進み、之を征伐せしめ、剩(あまつさ)へ、火を宇治河北邊の民屋に放つの間、自(おのづか)ら逃げ籠るの族(うから)、煙に咽(むせ)びて度を失ふと云々。武州壯士十六騎を相ひ具し、潛かに深草河原に陣す。右幕下の使ひ〔長衡。〕、此の所に來て云はく、「何(いづ)れの所に迄(いた)らば渡り有るや。見奉るべし。」の由、幕下の命有りと云々。武州云はく、「明旦(みやうたん)入洛すべく候。最前に案内を啓(けい)すべし。」てへれば、使者の名を問ふに、「長衡。」と名謁(なの)り訖んぬ。則ち、南條七郎を以つて長衡に付け、幕下の許へ遣はし、其の亭(ちん)を警固すべきの旨、示し付くと云々。毛利入道・駿河前司、淀・芋洗(いもあらひ)等の要害を破りて、高畠(たかばたけ)邊に宿す。武州、使者を立てるに依つて、兩人、深草に到ると云々。相州、勢多橋に於いて官兵と合戰す。夜陰に及びて、親廣・秀康・盛綱・胤義、軍陣を棄てて皈洛(きらく)し、三條河原に宿す。親廣は、關寺(せきでら)の邊に於いて零落すと云々。官軍佐々木弥太郎判官高重以下、處に誅せらると云々。』。

「勸修寺(くわんしゆじ)」私は勧修寺「くわうじゆうじ(かじゅうじ)」と読むのだとばかり思っていたが、ウィキの「勧修寺」によれば、現在の京都市山科区にある皇室と藤原氏に所縁の門跡寺院真言宗山階派大本山亀甲山勧修寺(開基醍醐天皇・開山承俊・本尊千手観音)の寺名は「かんしゅうじ」「かんじゅじ」などとも読まれることもあるものの、寺では「かじゅうじ」を正式の呼称としているとある一方、『山科区内に存在する「勧修寺○○町」という地名の「勧修寺」の読み方は「かんしゅうじ」である』とあり、ここでも本文は明らかに寺名ではなく地名であるからすこぶる正しいルビということになる。由緒ある寺社の名称を地名として用いる場合に漢字表記や読み方を変えて憚るということはしばしば見られる習俗である。

 以下、「承久記」の当該パート(底本通し番号82~85相当)を示す。 

 奈良法師土護覺心、散々ニ戰テ、今ハ叶間敷トヤ思ケン、落行ケルヲ、敵三十騎計ニテ追懸タリ。覺心元來歩立ノ達者成ケレバ、馬乘ヲモ後ロニ不ㇾ著、三室堂ノアル僧房へ走入テ見レバ、坊主カト覺シタテ、白髮ナル僧アリ。彼ガ前ニ物具脱デ置テ、髮ソリノ有ケルニ、水カメヲ取具シテ緣ニ出テ、頭ヲソラセテ居タリ。敵續テ來リケレバ、坊主無何心物具ノソバニ居タリケルヲ、敵ゾト心得テ、取テ押へテ首ヲ取。ムザンナリシ事也。其後、覺心ハ奈良ノ方へゾ落行ケル。

 熊野法師田部法印ガ子息千王禪師トテ、十六歳ニ成ケルガ、親子返合散々ニ戰ケルガ、千王禪師被取籠被ㇾ討ヌ。法印ハ落行ケルガ、馬ヲ捨テ、アル畠ノ中ニ這隱タリ。敵數多續テ上ヲ越ケレ共、是ヲ不ㇾ知ハ、偏ニ權現ノ御タスケニコソト、賴敷ク覺へテ哀ナリ。
・「熊野法師田部法印」先に注した田辺別当家の快実のこと。


 去程ニ京方ノ軍破ケレバ、皆々落行所ヲ、横河ノ橋・木幡山・伏見・岡ノ屋・日野・勸修寺ニ至迄、所々ニテ組落シ組落シ是ヲ討。サレバ坂東勢共、一人シテ首ノ七ツ八、取ヌ者モナシ。惣判官代、宇治ノ北ノ在家ニ火ヲ懸タリケレバ、是ヲ見テ、供御ノ瀨・ウカヒ瀨・廣瀨・槇島、所々ニ向タル勢共、皆落行テ、留マル者一人モナカリケル。少輔入道親廣、近江關寺ヨリ引分レテ行ケルガ、四百餘騎ニ成ニケル。其モ次第々々ニ落散テ、三條河原ニテハ百騎計ニ成ニケリ。爰ニテ夜ヲ明ス。

 武藏守、其子ノ太郎・伊具次郎、僅ニ五十騎計ノ勢ニテ、深草河原ニヲ取。人是ヲ不ㇾ知、駿河守ハ淀近所ニ堂ヲコボチ、桴ニ組デ河ヲ渡シ、高畠ニ陣ヲ取。武藏守、「泰村、爰ニ候。小勢ニテ打寄ラセ給へ。可申合事アリ」ト宣ケレバ、駿河守三十騎計ニテ來リ加ケル。
・「惣判官代」不詳。「吾妻鏡」の叙述と照らし合わせると、火をつけたのは「武藏太郎」泰時長男北条時氏である。
・「桴」「いかだ」と読む。
・「駿河守」三浦泰村。]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅9 黑羽光明寺行者堂 夏山に足駄を拜む首途哉   芭蕉

本日二〇一四年五月二十七日(陰暦では二〇一四年四月二十九日)

   元禄二年四月  九日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年五月二十七日

である。

 

夏山に足駄(あしだ)を拜む首途(かどで)哉

 

  黑羽光明寺行者堂

夏山や首途を拜む高あしだ

 

[やぶちゃん注:第一句目は「奥の細道」。「曾良随行日記」に、

 

一 六日ヨリ九日迄、雨不止(やまず)。九日、光明寺ヘ被招(まねかる)。晝ヨリ夜五ツ過迄ニシテ歸ル。

 

とあるから、四月九日の吟である(「夜五ツ過」午後八時過ぎ)。第二句目は「曾良書留」。

「光明寺」余瀬の天台宗修験寺光明寺。文治二(一一八六)年に那須与一が阿弥陀仏を勧請して建立、その後は廃れて永正年間(一五〇四年~一五二一年)に津田源弘によって修験堂として再興されたが、明治の廃仏毀釈によって廃絶、現存しない。芭蕉が訪れた当時の修験堂先達は第七代権大僧都津田源光(つだもとみつ)法印の妻は浄法寺図書桃雪高勝の妹であった。余瀬の翠桃宅に近かった。

「行者堂」修験道開祖役行者を祀る。一本歯の高下駄が安置されてあった。

 本句と別にもう一句、曾良の「俳諧書留」には、

 

   同

汗の香に衣ふるハん行者堂

 

とが載るが、これ、「雪まろげ」には、

 

光明寺行者堂 汗の香に衣ふるハな行者堂 曾良

 

とあるので採らない。句柄としても「夏山や」の並べるに格が堕ち過ぎる気がする。但し、芭蕉はしばしば捨てた句を曾良に与えた形跡があるように私には思われ、これがそうでないとは言い切れぬとは思うが、曾良作の誤伝とするのが現在の主流のようではある。

 「奥の細道」では前に述べた通り、記載の時系列操作が行われている。煩を厭わず、既に掲げた「黒羽」の段を再掲しておく。

   *

黑羽の舘代浄坊寺何某の方ニ音信ル

おもひかけぬあるしのよろこひ日夜語

つゝけて其弟桃翠なと云か朝夕勤

とふらひ自の家にも伴ひて親属の

方にもまねかれ日をふるまゝに

ひとひ郊外に逍遙して犬追ものゝ跡

を一見し那すの篠原をわけて玉藻の

前の古墳をとふそれより八幡宮に詣

与市宗高扇の的を射し時別ては我

国氏神正八まんとちかひしも此神社

にて侍ときけは感應殊しきりに覚らる

暮れは桃翠宅に歸る

修驗光明寺と云有そこにまねかれて

行者堂を拜す

  夏山に足駄をおかむ首途哉

   *

■異同

(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)

〇与市宗高扇の的を射し時  → ●與市扇の的を射し時]

2014/05/26

橋本多佳子句集「紅絲」 沼 Ⅰ

 沼

 

水鳥の沼が曇りて吾くもる

 

沼氷らむとするに波風たちどほし

 

頭(づ)勝ちなる鳩の身すぐにくつがへる

 

   家近き沼に死にし男女を悼みて 三句

 

凍(い)て死にし髪吾と同じ女の髪

 

金色の焚火一炷二人の死

 

置かれある情死の天の寒き晴れ

 

[やぶちゃん注:二句目の「一炷」は「いつしゆ(いっしゅ)」と読み、一般には香をひと炷(た)きくゆらせること及びまたその香、又は一本の灯心を指すが、ここは情死の現場検証であろうか、そこでたく焚火の火を手向けの香や灯心に擬えたものであろうか。但しこの三句、あまり上手くは詠めていない。素材負けしている。]

 

置かれある情死の天の寒き晴れ

杉田久女句集 225 江津湖の日 十一句

  江津湖の日 十一句

 

[やぶちゃん注:角川書店昭和四四(一九六九)年刊「杉田久女句集」には大正一一(一九二二)年の句群として入っているが、実際にはその前年大正十年九月に熊本の江津湖畔に住んでいた『ホトトギス』で親しくなった斎藤汀女(後の中村汀女。当時二十一歳。久女より十歳若い)を訪ねた際の嘱目吟である(言っておくと同句集の大正十年パートには一句しか載っておらず、明らかに編集上の奇異な感じを与える。ここにはもしかすると、宇内との結婚生活を続けることとなった同年には実母さよから『夫が俳句を嫌うのなら俳句をやめるように説得された』(底本年譜)といった事情も影響しているのかも知れない。即ち、俳句をやめた『振りをしていた』可能性である)。

「江津湖」は「えづこ(えずこ)」と読む。現在の熊本県熊本市東区及び中央区にかかって存在する湖。上(かみ)江津湖と下(しも)江津湖に分かれた瓢簞型を成し、間を加勢川が繋いでおり、上江津湖の東側半分が中央区に属している。「水前寺江津湖公園」公式サイトの
解説を参照されたい。本句群でも水棲植物が多く詠まれているが、特に九州の一部だけに自生する食用の淡水産稀少藍藻類である真正細菌藍色細菌門藍色細菌綱クロオコッカス目クロオコッカス科スイゼンジノリ Aphanothece sacrum の発生地として知られる。スイゼンジノリ(水前寺海苔)は茶褐色で不定形、単細胞の個体が寒天質の基質の中で群体を形成、郡体は成長すると川底から離れて水中を漂う。但し、現在も上江津湖に国天然記念物「スイゼンジノリ発生地」はあるものの、一九九七年以降に於いて水質の悪化と水量の減少によりここのスイゼンジノリはほぼ絶滅したと分析されている(現在、自生地としては福岡県朝倉市の黄金川一箇所のみ)。本種は熊本市の水前寺成趣園の池で発見され、明治五(一八七二)年にオランダの植物学者スリンガー(Willem Frederik Reinier Suringar)によって世界に紹介された。因みにこの種小名“sacrum”は英語の“sacrifice”で「聖なる」を意味する。これは彼がこの藍藻の棲息環境のあまりの清浄なさまに驚嘆して命名したものという。ただ近年では人口養殖に成功し、食用に生産されている他、スイゼンジノリの細胞外マトリックス(Extracellular Matrix:生物細胞の外側を外皮のように覆うように存在している超分子構造体。)に含まれる高分子化合物の硫酸多糖であるサクラン(Sacran:種小名に由来)が重量比で約六一〇〇倍もの水分を吸収する性質を持つことから保湿力を高めた化粧水に応用されたり、サクランが陽イオンとの結合によってゲル化するという性質を利用、スイゼンジノリを原料に生産したサクランを工場排水などに投入してレアメタルを回収する研究などが行われているという(以上は主にウィキスイゼンジノリ及びそのリンク先に拠った)。ここで藻を刈っているのは晩夏初秋の湖に繁茂してしまった水草を刈っているようにも見えるが、その「刈藻の香」というところなど、多量に刈り揚げて干された生臭い雑草としての水草類のそれとは思われず、この食用にされるスイゼンジノリや後の句に掲げられる染料ややはり食用に供されるミズアオイ(後注参照)のイメージを想起してよいものと私には思われる。この句群、さながら、水棲水辺植物博物句集の体(てい)を成してすこぶる附きで私には面白い。さればこそ久女も、ここで句には詠まれていないかも知れぬスイゼンジノリのことを私が長々と注したことを、きっと許してくれる、と私は思うのである。]

 

遊船の提灯赤く搖れあへる

 

藻の花に自ら渡す水馴棹

 

[やぶちゃん注:「水馴棹」は「みなれざを(みなれざお)」と読み、水底に挿して船を進める竿のこと。古語。]

 

水莊の蚊帳にとまりし螢かな

 

藻を刈ると舳に立ちて映りをり

 

藻刈竿水揚ぐる時たわみつゝ

 

[やぶちゃん注:「藻刈竿」藻を刈るために用いる専用の道具。藻刈器。現在ネット上で販売されているものを画像で視認すると、鎌の柄が非常に長い形状を成すものが多い。ここでもその柄が驚くほど長いものを想起出来る。]

 

湖畔歩むや秋雨にほのと刈藻の香

 

舟人や秋水叩く刈藻竿

 

水葱(なぎ)の花折る間舟寄せ太藺中

 

[やぶちゃん注:「水葱」単子葉綱ツユクサ目ミズアオイ科ミズアオイ Monochoria korsakowii の別名。ウィキミズアオイ」によれば、「万葉集」では「水葱」として求愛の歌に詠まれるなどして古くから湖や川辺に住まう人々に親しまれてきたもので、青紫色の花は染物に利用された他、食用に供されることもあり、食用にする場合は若芽や若葉を塩茹でにして流水によく晒し、汁物・煮物・和え物に用いるとある。「太藺中」は「ふとゐ/なか(ふとい/なか)」と読んでいよう。「藺」は畳表に使われる湿地や水中に植生する単子葉植物綱イグサ目イグサ科イグサ Juncus effusus var. decipens のこと。別名トウシンソウ(燈芯草)。夏の季語。]

 

漕ぎよせて水葱の花折る手のべけり

 

藻に弄ぶ指蒼ざめぬ秋の水

 

羊蹄(ぎしぎし)に石摺り上る湖舟かな

 

[やぶちゃん注:「羊蹄」やや湿った道端や水辺・湿地などに植生する双子葉植物綱ナデシコ目タデ科スイバ属ギシギシ Rumex japonicas のこと。若芽や若葉は山菜食用に、根は皮膚薬になる。]

2014/05/25

杉田久女句集 224 櫓山山莊虛子先生來遊句會 四句

 

  櫓山山莊虛子先生來遊句會 四句

 

潮干人を松に佇み見下せり

 

花石蕗の今日の句會に缺けし君

 

[やぶちゃん注:「缺けし君」底本では「缺」は「欠」。]

 

秋山に映りて消えし花火かな

 

石の間に生えて小さし葉雞頭

 

[やぶちゃん注:「雞」は底本の用字。これは大正一一(一九二二)年十月に長崎に西下する高浜虚子を迎えた、橋本多佳子豊次郎夫妻の櫓山荘での句会風景である。実際には既にこの年の三月二十五日に同じ櫓山荘で虚子は長崎旅行の帰途に句会を開いている(底本と同じ立風書房一九八九年刊の「橋本多佳子全集」の多佳子年譜による)。この時、久女の年譜によれば橋本夫妻は句会を見学とあり句会自体には参加していない。従って私は二句目にある「缺けし君」と久女が愛おしんでいるのは、実は多佳子であると思うのである。この後より久女は本格的な久女の句作指導(絵も描かされたと多佳子の言を載す)を受けるようになる。底本の久女の年譜には虚子来訪三月の記事がなく、逆に多佳子の年譜にはこの十月の虚子再訪の記事がない。何か、奇妙である。]

橋本多佳子句集「紅絲」 凍蝶抄 Ⅵ / 凍蝶抄 了

 

冬雲雀そのさへづりのみぢかさよ

 

拠るものゝ欲しけれど壁凍るなり

 

あふれいづる涙冬蝶ふためき飛び

 

掌(て)に裹む光悦茶碗凩堪へ

 

蕗の薹寒のむらさき切りきざむ

 

寒念仏ひゞくやひゞきくるもの佳(よ)し

 

木樵ゐて冬山谺さけびどほし

 

冬の森若人にすぐ谺して

 

空林や流れのあれば紅葉しづめ

篠原鳳作初期作品(昭和五(一九三〇)年~昭和六(一九三一)年) 了 / 篠原鳳作全句電子化終了

 

郊外に住みて野分をおそれけり

 

歸省子のもてる小さきクロス哉

 

龜の子のはひ上りゐる浮葉かな

 

船蟲のひげ動かして機嫌かな

 

[やぶちゃん注:「船蟲」の「蟲」は底本では「虫」。]

 

いねがての團扇はたはたつかひけり

 

蜻蛉追ふ子等の面も夕やけぬ

 

案山子翁裏にも顏のかかれけり

 

渡り鳥仰ぐ端居となりにけり

 

竜胆に今年の雲の早さかな

 

[やぶちゃん注:「竜胆」は底本のママ。
 こ
れを以って初期作品は終わる。以上で底本の俳句編の電子化を終了した。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十二章 北方の島 蝦夷 4 モース先生はやっぱりアメリカ人――ビールとビーフ・ステーキがお好き――

 だが、まだ私の住居の問題が残っていた。私は日本食で押し通すことは出来ないし、この町には西洋風のホテルも下宿もない。役人が二人、町を精査するために差し出された。午後三時、彼等は西洋館に住んでいるデンマーク領事の所で、我々のために二部屋を手に入れたと報告した。そこですぐ出かけて行くと、この領事というのは、まことに愛橋のある独身の老紳士で、英語を完全に話し、私が彼と一緒に住むことになってよろこばしいといった。一方長官の官吏は、下僕二人と共に、椅子二脚、用箪笥、卓子(テーブル)、寝台、上敷、枕、蚊帳その他ブラッセル産の敷物に至る迄、ありとあらゆる物を見つけて来た。かくて私は、私自身何等の経費も面倒もかけることなくして、最も気持よく世話されている。毎日正餐には、いい麦酒(ビール)一本とビーフステーキ――これ以上、人間は何を望むか?

[やぶちゃん注:「ブラッセル」原文“Brussels”。原文でお分かりの通り、ベルギーの首都ブリュッセル。中世、フランドルは優れた織物を産したが、ブリュッセルはその中心であった。]

私の務   山之口貘

 私の務

 

世人よ 汝等よ

見よ!!

日没の頃の我が沈默を

おれの働きの一時の憩ひだ

日よ……

強き強き日輪の光よ

おれは働きつゝ

腹の中で汝に囁く

――おゝ汝のギラギラする

  光の中にあつて

  塵埃の中を盲人

  困難の中を

  偉大な偉大な力を担ひ

  かくて果てなき地平を

  おれはひねもす這ひ行く

  力出せば――

  何處かに甲斐の賜は

  日よ汝の光より

  価價ある光輝を放ち

  苦を忍び來るおれの身を

  手まねきつゝ歡喜湛えて

  幸福の地に呼ぶ

噫々

!! と

たのもしき大自然の地平とを

無言に 只無言に

 

[やぶちゃん注:底本では末尾に下インデントで『一九二一・六・二四』とある。大正一〇(一九二一)年八月十一日附『八重山新報』に次の「自分」と合わせて並載されたものと思われる。「ギラギラ」の後半は底本では踊り字「〱」。

義父の逝去を悼む仙人掌の花の妖精

義父の逝去を悼む仙人掌の花の妖精今朝咲く――

2014052509010000

2014052509030000

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅8 黒羽 田や麥や中にも夏の時鳥  芭蕉

本日二〇一四年五月二十五日(陰暦では二〇一四年四月二十七日)

   元禄二年四月  七日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年五月二十五日

である。

 

  しら河の關やいづことおもふにも、先(ま

  づ)秋風の心にうごきて、苗みどりにむ

  ぎあからみて、粒々(りふりふ)にから

  きめをする賤がしわざもめにちかく、す

  べて春秋のあはれ、月雪のながめより、

  この時はやゝ卯月のはじめになん侍れば、

  百景一ツをだに見(みる)ことあたはず。

  たゞ聲をのみて、默して筆を捨(すつ)

  るのみなりけらし

田や麥や中にも夏の時鳥(ほととぎす)

  元祿二孟夏七日

 

麥や田や中にも夏はほとゝぎす

 

[やぶちゃん注:第一句目は「曾良書留」を諸本の引用と解説により、推定し得る原型に近い状態で再現したが、「曾良書留」は下五が「夏時鳥」であるので、諸本の相似句から「の」を補った。また底本は「麦」とするが正字化した。なお、下五を、

 

田や麥や中にも夏のほとゝぎす

 

とした形で「雪まろげ」にも載る。第二句は「茂々代草」(ももよぐさ:其流/楚舟/秋花編・寛政九(一七九七)年跋・真蹟を模刻したものとする)所収の句形で、句の後に、

 

  右は淨法寺桃雪亭にての吟也

 

と付記するとあり、更に底本注によれば「安達太郎根」(あだたらね:渭北編・宝永元(一七〇四)年成立)には、この句の真蹟が浄法寺にあるとしるす、とある。とすればこれが初案であろう。

 「曾良書留」の前書によって初めてこの句が知られた白河の関を詠んだ能因法師の和歌、

 

 都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の關

 

をベースにした句で、これから越える白河の関の景観に思いを馳せつつ吟じた句ことが分かる。能因の秋の景と今の初夏のそれとの様変わった自然を視覚と聴覚で際立たせた句であるが、事大主義的な長々しい前書なしにはその重層性が読み切れない。山本健吉氏も『表現が未熟で、この句だけでは充分に意味が汲み取れない』と評されておられる。無論、「奥の細道」には不載。]

2014/05/24

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 城蹟

    ●城蹟

木古庭の北小名畠山あり、登八町許、土俗八町坂と呼ぶ、新編相模國風土記に曰、山上芝地にして、濶方十五間、三方に土手の形殘る、何人の居蹟なるかを傳へず、或云、畠山重保の城蹟(じやうせき)と、此地名に據(よつ)て附會せしなるべし、此の山續逸見村の屬に、木戸ケ谷の名あり、是(これ)大手(おほて)の蹟(あと)なるべし、若くは逸見(へんみ)五郎の居蹟ならんか。

[やぶちゃん注:横須賀市公式サイトの「田浦を歩く」の「畠山城跡には、『十三峠の付近に、畠山城跡と伝えられるところがある。これには2つの説があって、一つは、昔ある武将がこの城にたてこもったのを水路を断って亡ぼそうと計ったが、武将は馬を敵の見えるところに引き出して白米をもって馬を洗って見せた。それを遠くから見て米を水と思った敵将はついに水攻めをやめて、軍を解いたという。また、一説には三浦大介の妹の長子である畠山重忠が衣笠城を攻めるときに作った城(または館)だとも伝えられている。この山は、当時畠山勢の進軍の先兵の物見にでも使われたのではないかといわれている。この北方の山の下には、「矢落」(やおちまたはやおとし)と呼ばれる地名も残っている』とある。詳細なルートは「悠歩悠遊」の「畠山」がよく、地図はここがよい。

「畠山重保の城蹟と、此地名に據て附會せしなるべし」と一蹴しているが、私は直前の直近にある「木古庭の不動の瀧」の創建の由来に重保の父重忠が関わっているのがどうも気になって仕方がない彼に所縁の城砦状の屋敷があったとしてもおかしくはないと思われる。

「逸見五郎」「吾妻鏡」の建暦三年五月六日の条の、和田義盛の乱で和田方で討死した名簿の中に逸見五郎・同次郎・同太郎が載る。この人物か。但し、この一族の出自は必ずしも知られた名門甲斐源氏を源流とする逸見氏とは断定出来ないらしい。寧ろ、彼らはまさにこの三浦郡逸見村の出で逸見氏を名乗ったのかも知れないという推測記載が個人ブログ「中世史の見直し」の武田創世その一 逸見光長についてにあるからである。]

飯田蛇笏 靈芝 昭和十年(九十九句) Ⅳ

  四月三日朝、墨石君の案内にて南北君と共

  にサンルイス丸へ遊びにゆく

 

鳶鷗帆も吹きかすむ港かな

 

[やぶちゃん注:「墨石」「南北」ともに門弟らしいが、不詳。「サンルイス丸」個人ブログ「座敷牢」の「ガタルカナル戦日本海軍石油事情(昭和17年度油送船別南方還送油なぜか捕獲オランダ油送船一覧付き)」という記事のデータの中に『到着日時及び入港地 8月6日 大連(満州石油)/船名 サンルイス丸/積載油内容 揮発油及び原油 約12,200』という記事を見出したのみ。どこの港なのかも不明である(感触としては次の二句から淡路島の福良港かも知れない。二句後の「福良港」の注を参照されたい)。二人の人物とともに識者の御教授を乞うものである。]

 

  洲本金天閣にて

 

餘花の峯うす雲城に通ひけり

 

[やぶちゃん注:Yoshiyuki Nakayama 氏のサイト「スバルワールド」の「すばる“旅”レポート」の「淡路人形浄瑠璃と潮風香る島の城下町・洲本を訪ねる」に洲本八幡神社(金天閣)あり、そこに『三熊山北麓の洲本八幡神社に藩主の迎賓館として建てられたものを、明治維新後、城外に移築。大正時代に洲本八幡神社内に移設され』、現在は『県指定の重要有形文化財で、内部の装飾金具や欄間の彫刻には、江戸工芸技術の粋がつくされ』、『建物の各所に見られる卍の印は蜂須賀家の家紋で』あるとある。『三熊山北麓の洲本八幡神社』は淡路島の、現在の洲本市小路谷(おろだに)にある洲本城(別名三熊城)の麓にある、地図上では「上八幡神社」とあるそれと思われる。]

 

  福良港

 

かもめ飛ぶ觀潮の帆の遲日かな

 

[やぶちゃん注:「福良港」鳴門海峡に面した淡路島の南端、兵庫県南あわじ市にある港。天然の良港で、かつて大鳴門橋の開通以前は徳島県鳴門市の撫養港との間に鳴門フェリーがあり、四国と阪神を結ぶトラック輸送の動脈を担っていた時期もあったが、現在では鳴門の渦潮を見る遊覧船(観潮船)の発着港として多くの観光客に利用されている。その他にもかなり大型の船が出入り出来る貨物港と漁港としての機能もあるとウィキ福良港にある。先の停泊していたサンルイス丸に乗船してみたのもここかも知れない。]

 

  四月十八日、鴻翔君と共に國寶展に赴き南

  蠻屛風其他長崎風俗の古名畫を見る。三句

 

寺院(エケレシヤ)の實る寒竹巖に垂る

 

伴天連が蠑螺をのぞく頸の珠數

 

殉教者(マルチリ)に天國(ハライソ)さむき露のいろ

 

官邸の薄暑をいづる花賣女

 

取に大つぶてなる初夏の雨

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十二章 北方の島 蝦夷 3 ラボ、瞬時にして完成す 附 僕の好きな俳優時任三郎の先祖がここに登場する事

 朝飯後矢田部教授と私とは、長官を訪問した。彼は威厳のある日本官吏である。我々が名乗りをあげるや否や、彼は、文部卿の西郷将軍から手紙を、また文部大輔から急信を受取っている、そしてよろこんで我々を助けるといった。私は彼に向って、言葉すくなく、我々が必要とする所のものを述べた。第一が実験室に使用する部屋一つ、これは出来るならば容易に海水を手に入れ得るため、埠頭にあること。第二が曳網に適した舟一艘。彼は我々を海岸にある古い日本の税関へ向わしめ、我々は一人の官吏につれられてそこへ行った。私は私が実験所として希望していたものに、寸分適わぬ部部屋二つを、そこに見出した。それ迄そこに住んでいた人達は、私の方が丁寧に抗議したのだが、追放の運命を気持よく受け入れつつ、即座に追出された。次に私は遠慮深く彼に向って、私が二部屋ぶっ通しの机を窓の下へ置くことと、棚若干をつくつて貰い度いこととを、図面を引いて説明しながら話した。一時間以内に、大工が四人、仕事をしていた。その晩九時三十分現場へ行って見たら、蠟燭二本の薄暗い光で、四人の裸体の大工が、依然として仕事をしていた。翌朝にはすべて完成、部庭は奇麗に掃除され、いつからでも勉強にとりかかれる。一方長官は、船長、機関士達、水夫二人つきの美事な蒸汽艇を手に入れ、これを我々は滞在中使用してよいとのことであった。私の意気軒昂さは、察してくれたまえ。私は仕事をするための舟に就ても、部屋に就ても、絶望していたのである。然るに十二時間以内に、完全な支度が出来上った。私は江ノ島に於る私の困難と、舟や、仕事の設備をするのに、何週間もかかったことを思い出した。ここでは、この短い期間に、私が必要とする設備は、すべて豊富に準備出来たのである。

[やぶちゃん注:「長官」磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、矢田部良吉の「北海道旅行日誌」の七月十六日の日記には『朝五時函館港ニ着ス……開拓使大書記官時任爲基ニ會ヒ、此度渡航ノ旨趣ヲ話セシ所、甚深切ニ周旋ヲ爲シ、其宜シキ「ラボレートリ」を與ヘ、且つ小ナル汽船ヲ貸セリ。「ラボレートリ」ハ運上所即チ船改所ノ内二室ニテ、海水ニ接近尤(モツト)モ便利ナリ』とある(恣意的に正字化した)。この「開拓使大書記官時任爲基」がモースのいう「長官」で、ウィキ時任為基によると、時任為基(ときとうためもと 天保一三(一八四二)年~明治三八(一九〇五)年)は日本の内務官僚・政治家。府県知事・元老院議官・貴族院議員。薩摩藩士時任為徳の長男として薩摩国鹿児島郡鹿児島城下新屋敷通町で生まれ、明治四(一八七一)年八月に新政府に出仕し、東京府典事(知事―権知事―参事―権参事―典事)に就任、翌明治五年七月に開拓使八等出仕となった。明治八(一八七五)年九月には千島樺太交換条約締結に際して理事官としてサンクトペテルブルクへ出張してもいる。その後、札幌本庁民事局長・開拓大書記官(モース来訪時はこれ)・函館県令・北海共同競馬会社会長・函館支庁長などを歴任、明治二〇(一八八七)年一月、宮崎県知事に就任するも五月には元老院議官に転じた。翌年二月には高知県知事、以後、静岡県・愛知県・大阪府・宮城県の各知事を歴任、明治三一(一八九八)年に貴族院勅選議員に任じられて死去するまで在任した。因みに、私の好きな俳優の時任三郎は彼の子孫であるともある。

「文部卿の西郷将軍」西郷隆盛の弟であった第三代文部卿西郷従道(つぐみち)。文部卿の在任期間は明治一一(一八七八)年五月二十四日から明治一一(一八七八)年十二月二十四日まで。因みに、以前に注したが、モースが前年に来日した際には文部卿は不在であった。明治七(一八七四)年五月十三日に台湾出兵に抗議して木戸孝允が第二代文部卿を辞任して以来、実に四年近くに及ぶ間、文部大輔(副大臣相当)の田中不二麿が文部卿の職務を代行していていたのである。これで明治政府に於いて如何に文部行政が軽んじられていたかがよく分かり、しかもそれをよく支えたのがこの文部大輔田中不二麿であったのである。

「文部大輔」このモースの北海道行の時もそのまま田中不二麿が文部大輔を勤めていた(田中の文部大輔在任期間は明治七(一八七四)年九月二十七日から明治十三(一八八〇)年三月十五日までで、司法卿に配置換えとなっている。これは政府内に未就学児の増加と学力低下を招いたとする批判が強まった結果であった。ここまで前の注も含め、ウィキの文部大臣日本及び田中不二麿に拠った)。]

橋本多佳子句集「紅絲」 凍蝶抄 Ⅴ

   夫の兄料左衛門逝く、夫歿後何くれとなく

   暖き手をのべらしれし思ひ悲しさに堪へず

 

肩かけやどこまでも野にまぎれずに

 

肩かけの裡(うら)に息して人の死へ

 

刈田の火赤し人亡しと思うとき

杉田久女句集 223 柿の花 目白實家 五句

  柿の花 目白實家 五句

 

灯れば蚊のくる花柿の葉かげより

 

雨に來ぬ人誰々ぞ柿の花

 

[やぶちゃん注:「來ぬ」ここは無論、久女なればこそ、雨の中、退院した彼女を、わざわざ「きぬ人」、訪ね来てくれた人を、ではなく、「こぬ人」、来てくれないつれない人を、執拗(しゅうね)く数え上げているのである。]

 

花柿に簾高く捲いて部屋くらし

 

障子しめて雨音しげし柿の花

 

苑の柿まだ澁切れぬ會式かな

篠原鳳作初期作品(昭和五(一九三〇)年~昭和六(一九三一)年) ⅩⅨ

町中となりし田圃の案山子かな

 

一刀をた挾む兵兒の案山子かな

 

[やぶちゃん注:「兵兒」は「へこ」と読み、鹿児島地方で、十五歳以上二十五歳以下の青年を指す語である。「へこ」には褌(ふんどし)の意があるが、「日本国語大辞典」には、これは同地方で十五歳になった者に対して正月二日に近親血縁者が祝いに行き、手拭いと褌を贈る儀礼「へこかきいわい」が済んだ男子の意を語源とするか、とある。また、男子や子供用のしごき帯を兵児帯と呼ぶが、これ自体が元は薩摩のまさに前に出した兵児(へこ)が用いた帯びであったことに由来するという、ともある。私の母は鹿児島の出身であったが、これらは私の全く知らない事柄で、まっこと、目から鱗であった。]

 

雨の蘆てらして戻る夜振哉

 

[やぶちゃん注:「夜振」老婆心乍ら、「よぶり」と読み、夏の夜にカンテラや松明などを灯して時に振り動かし、それに向かって寄ってくる魚を獲る漁法の名。火振り。]

 

鰯雲月の面にかかりそむ

 

サボテンの影地に濃ゆき良夜哉

 

石切のほつたて小屋や葛の花

 

潮騷のとほくきこゆる門火かな

自伝 山之口貘 (昭和三〇(一九三五)年五月東京創元社刊「現代日本詩人全集 第十四巻」所収)

[やぶちゃん注:以下は、昭和三〇(一九三五)年五月東京創元社刊の「現代日本詩人全集 第十四巻」に「思辨の苑」「山之口貘詩集」が全篇収録された際(同十四巻は岡崎清一郎・山之口貘・菊岡久利・大江満雄・藤原定・坂本遼・淵上毛銭を収録)に書かれたもの。旧全集の第一巻全詩集の末に「資料」として附されたものを底本とした。]

 

 自伝

 

 本名山口重三郎。明治三十六年九月十言沖縄の那覇の生れである。沖縄県立一中に学んだ。中学の二年生の頃、女性のことを気にするやうになつて、詩を書くことを覚え、詩にこるみたいに初恋にもこり出して、許婚の仲にまでまとめあげた。その頃からぼつぼつ「琉球新報」「沖縄朝日新聞」「沖縄タイムス」等の郷里の新聞に詩を書いたりした。

 大正十一年の秋上京したが、約束の父からの送金がないため放浪状態になつてしまつた。大正十二年の九月一日の関東大震災のおかげで、一時、帰郷したのであるが、当時、父が、鰹節製造の事業失敗したばかりのところで、家を失ひ、家族は四散し、ぼくはぼくで、許婚の女性からは棄てられ、その上、二度目の恋愛にも破れたといふ風なことばかりが重なり合つて、かうした環境が、ぼくの放浪を本定りにしたやうなもので、どうやら、詩にかぢりついて生きたくなつたのもそれからなのである。

 大正十三年の夏、着の着のまゝで詩稿だけを携へて、ぼくはまた上京、昭和十四年の五月頃までの大半を、一定の住所を持たずにすごした。それでも時には、書籍問屋の発送荷造人になつたり、暖房屋になつたり、お灸屋になつたり、汲取屋にもなつてしまつたり、あるひは、隅田川で、ダルマ船の船頭さんの助手みたいになつて、鉄屑の運搬を手伝ひながら水上で暮したり、または、ニキビ、ソバカスの薬の通信販売などの職を転々とした。昭和十四年六月から、二十三年の四月頃までの戦時戦後を通じては、官吏として、職業紹介その他の事務に携つた。現代は、時に、小説に似たもの随筆に似たものなど書いて、兼業にしてゐる。はじめて、詩を発表したのが、昭和六年の四月の「改造」で、「夢の後」「発声」の二篇がそれである。その後は、改造社の「文芸」、「中央公論」「むらさき」「新潮」「公論」「人間」河出書房の「文芸」その他の雑誌、新聞等に発表して今日に及んでゐるのだが、寡作であることと、生活上の止むを得ない事情から、詩の専門誌には、殆ど、発表の機会を持つことが出来なかつた。

 著作には、処女詩集「思弁の苑」がある。昭和十三年に巌松堂の「むらさき」出版部から出版した。昭和十五年には、「思弁の苑」に、新作十二篇を加へて、山雅房から、「山之口貘詩集」として出版した。

 なほ、昭和十五年五月から、十月まで、平田内蔵吉とともに、「現代詩人集」全六巻を編纂して、山雅房から出版した。

 振り返つてみると、大正十一年から十三年のあたりへかけては、前に述べた事情のなかにあつて、生れた土地にゐながら、すでに住む家もなかつた。根は、やけくそなのであつたが、世間に対しては詩人ぶつて、友人知人親せきなどに迷惑をかけて歩き廻り、やがて、爪弾きや後指によつて追ひまくられてしまつて、しまひには、海岸や公園に宿をとつたりするやうになつた。

  恩人ばかりをぶらさげて

  交通妨害になりました

  狭い街には住めなくなりました

とうたひ、その詩稿などを携へて再度上京したのである。その間に、増野三良訳で、タゴールの詩集三冊を読んだ。「新月」「園丁」「キタンヂャリ」がそれであつた。

 しかし、上京はしたものゝ、すぐにはどうにもなる筈がなかつた。しばしば、自殺をおもひ立つのであつたが、そのたびに詩には未練がましく、もう少し書きたいといふ気持をどうすることも出来ないで、とうとう自殺をしたつもりで生きることに決めたのである。この決心は、ぼくから、見栄も外聞も剝ぎとつてしまつて、色色なことをぼくにさせることが出来たのである。それは職歴にも反映してゐるやうだ。

[やぶちゃん注:引用詩は詩集「思辨の花」の掉尾(同詩集中、最も古い創作であることを意味する)の三連からなる詩話」の第二連目である。但し、同誌集では、

 

恩人ばかりを振ら提げて

交通妨害になりました。

狹い街には住めなくなりました。

 

である。]

病んだ日   山之口貘 / 山之口貘新全集による既刊詩集未収録詩篇の電子化に突入

[やぶちゃん注:以下、思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の「既刊詩集未収録詩篇」を底本として、旧全集に載るものにあってはそれも参考にしつつ、新全集の編集権を侵害しないようにするため、ここでは順編年(古い詩篇から新しい詩篇へ、で思潮社版は逆編年形式を採用している)という、我々にとっては馴染み易い(と私は――概ね逆編年に拘るバクさんには悪いが――思っている)形で順次、電子化してゆく。また新全集は正字採用であるが、今まで通り、戦中・戦前の作品については私のポリシーに則り、恣意的に正字化する。なお、私にとって、一般のバクさんの詩篇と同列に扱うことにやや違和感を感ずる一部詩篇(具体的には依頼製作の校歌)については別に纏めて電子化する。]



 病んだ日

 

掠む病の憎々しさ

動けむものは はらはらと

小さき暗きアトリエに

涙はこぼる。

友は皆――――

夏の日を

のんびりとした新綠の原へと

嗚呼羨まし羨まし

彼等活氣滿つものは、

田舍の道に

いかで我は日向とれんや。

悲しきものの貧しき吐息

思ひ寢にきみの顏夢見

ひとしきりまた重たき

涙はこぼる

哀れなものの身のはかなさ

病に戰ふ興奮も湧かぬ

嗚呼…………

虛弱き身の■憊を

名殘■く晴らしてくれよ

眞紅の血潮

神の救ひの情は待ち遠し。

 

[やぶちゃん注:底本では末尾に下インデントで『一九二一・五・一五』とある。底本編者が判読に迷った箇所は編集権を尊重するため■に変えた(底本では、判断に迷った箇所は( )で示されてある。以下、この注は略す)。因みにそれぞれ、底本では「■憊」の「■」は「困」、「名殘■く」の「■」は「な」と推測されてある。松下博文氏の解題によれば(以下同じ)、大正一〇(一九二一)年十月一日附『八重山新報』に掲載された。同誌は石垣島に拠点を置く旬刊地方紙で、この年の三月一日に比嘉統煕(ひがとうき:検索をかけると明治二九(一八九六)年の最初の沖縄県民の米国移民の中に同名を見出せるが同一人物か)によって創刊(実際の創刊号発行は二月。「石垣市教育委員会市史編集課 八重山近・現代史略年表」の八重山近・現代史年表 明治12年~昭和20年8月14日までに拠る)されたもので、以下見るようにバクさんの最初期の詩歌発表の主な舞台となった。バクさん、当時十八歳、旧全集年譜によれば、この前年頃には大杉栄の影響を受け、在学していた沖繩県立第一中中学校(現在の沖縄県立首里高等学校)から目をつけられていた。また当時既に『沖繩朝日新聞』『沖繩タイムス』『琉球新報』などに盛んに詩を発表していたが、家庭的には、父重珍が事業に失敗(この二年ほど後にはバクさんの一家はばらばらになったと推定されている)、バクさんは中学四年で中退(当時の旧制中学校は五年制。バクさんは中学受験に一度失敗しているために一つ年が上になっている)、九月には大正八(一九一九)年に婚約していた呉勢(ぐじー)から一方的に婚約解消を申し渡されてもいた。この詩が発表された凡そ一年後、大正一一(一九二二)年の秋、バクさんは画家を志して最初の上京を果した。本詩に象徴的に現われる屈折した心理は、まさにそうした波乱の前後の心象をよく写しているように思われる。【2014年7月3日追記】『八重山新報』についての解説を追加した。]

山之口貘 初期詩篇(原題「詩集 中学時代」)八篇全面改稿終了 

山之口貘の旧全集の「初期詩篇」――これは実はバクさん自身によって

詩集 中学時代

という表紙が作られてあった――の全八篇について、昨日入手した新全集、思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と校合した。一部では新全集に従わなかった部分もあるが、新全集の松下博文氏の解題によって、この旧全集八篇の順列が編年であって、所謂、バクさんの既刊詩集が採っている逆編年でなかった事実が分かったことは、まず大きな収穫であった。それらも含めて、ブログの電子テクストを八篇総てに亙って改稿したので改めてカテゴリ「山之口貘」の過去記事で、再読して戴けると幸いである(記事自体を新たに起こすことはしなかった)。バクさんとの旅の始まりに相応しい発見が幾つもあった――バクさん、ありがとう 

2014/05/23

生物學講話 丘淺次郎 第十章 雌雄の別 一 別なきもの (2)

 海中に住む「うに」・「ひとで」・「なまこ」などは外形を見て雌雄のわかるものは殆どない。解剖して體の内部を調べても、雌雄の別が明に知れぬことさへ屢々ある。このやうな類でも雄の體内には睾丸があり雌の體内には卵巣があるが、睾丸と卵巣とはその在る場處も一致し、見た所も極めてよく似たもので、僅に色が少しく違ふ位である。卵の粒の粗い動物ならば、卵巣は一目して卵の塊の如くに見えるが、「なまこ」などでは卵が頗る小さくて肉眼は到底見えぬから、顯微鏡を用ゐなければ雄か雌かの鑑定がむつかしい。「うに」の卵巣は雲丹を製する原料で、生のを燒いて食ふと甚だ甘い。また「なまこ」の卵巣は「このわた」中の最も甘い處で、これを乾したものを「くちこ」と名づける。いづれ鯛や「ひらめ」の「子」と違つて卵粒は見えぬ。これらの動物には輸卵管とか輸精管とか名づくべきものが殆どなく、精蟲は睾丸から、卵細胞は卵巣から直に體外へ出されるが、その出口の孔にも雌雄の相違は全くない。卵が極めて小さから、その産み出される孔も甚だ小さくて、雄の精蟲を出す孔と何ら異つた所はない。「うに」では肛門の周圍に五つ、「ひとで」では五本の腕の股の處、「なまこ」では頭部の背面の中央に一つ、生殖細胞の産み出される孔があるが、注意して見ぬと知れぬ程の小さなものである。

[やぶちゃん注:「くちこ」ナマコは雌雄異体で(従って厳密にはここ「雌雄の別なきもの」でナマコの話を持ち出すのは少し私には違和感がある。丘先生は外見上及び未成熟体を解剖した際の実体視印象からかく述べておられるのであるが、それでもちょっと文句を実は言いたいのである)、普通はマナマコの紐状の卵巣を指す。成熟した卵巣はナマコの口吻に近い体内に形成されることから「クチコ(口子)」とも呼ばれる。別に「海鼠子(このこ)」「撥子(ばちこ)」とも呼ぶ。ナマコは一月から三月になると産卵期を迎えて発達肥大した卵巣を持つようになる。主な産地としては古くは能登・丹波・三河・尾張の四ヶ所が知られているが、とりわけ能登半島の旧鳳至(ふげし)郡(現在は珠洲郡と統合して鳳珠(ほうす)郡)穴水湾産の「くちこ」は古い歴史を持っている。生でも食すが、一般的には平たく干したものが高級珍味として親しまれている。干口子(ほしくちこ)の製法は、十二月下旬から一月にかけて採取した生口子を一合分(約五十匹分、凡そ十数キログラムにもなる雌ナマコの、その僅かな卵巣が用いられる)塩水でよく洗い、それを纏めたものを、細い磨き藁に掛けたり、簀子の上に並べたり、また上製品では横に渡した糸に跨がせるようにして吊るして干したりする。この時、水滴が早く落ちるように先端を指で纏めるため、高級品の仕上がりは平たい三角形状となるが、これが三味線の撥によく似ていることから、「バチコ」とも呼ばれるのである。述べたように小さな一枚のために使用するナマコが多量に必要なため、非常に高価なものとなる。今、販売サイトを管見しても掌に載るサイズで五千円前後はする。そのままでも食せるが、私は軽く炙ったものをお薦めする。一部参考にしたウィキこ」には『お吸い物・熱燗に入れても良い』とあるが、勿体なくて残念ながらそれはやったことがない。はっきり言って、料亭などで頼むと目ん玉が飛び出るほど高いが、それでも一度は食してみることをお薦めしたい本邦にのみある珍味の逸品である。]

大和本草卷之十四 水蟲 介類 海鏡

【外】

海鏡 嶺表錄異記ニアリ此地ニテ月日貝ト云大ナリ

其カラ兩片ノ内一片ハ赤ク一片ハ白シ但本草ニハ悉ニ不合

時珍兩片相合成形ト云ニハ似タリ其カタチヒラシ

〇やぶちゃんの書き下し文

【外】

海鏡 「嶺表錄異記」にあり。『此地にて月日貝と云ふ。大なり。其のから、兩片の内、一片は赤く、一片は白し。』と。但し、「本草」には悉〔(すべて)〕に合はず。時珍は、『兩片相ひ合して形を成す。』と云ふには似たり。其のかたち、ひらし。

[やぶちゃん注:「外」とするが、少し同定を試みるならば、まさに名にし負はばなのは本邦でも採れる斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ上科マルスダレガイ科のカガミガイPhacosoma japonicum である。しかし、益軒も指摘するように、この「海鏡」に相当する「本草綱目」の記載である「海月」の条を読むと、カガミガイPhacosoma japonicum では殻の内側は、時珍の述べているように「瑩滑」(艶やかな輝きで滑らか)ではないのである。一方、「海鏡」という文字を見ていると私などは、同じように円形に近く、そのような真珠光沢を持つものとして、真っ先に斧足綱翼形亜綱カキ目イタヤガイ亜目ナミマガシワ上科マドガイ科のマドガイPlacuna placenta が浮かべるのである。こちらはそれこそ、その内側が「雲母」様であり、古くから中国・フィリピン等に於いて家屋や船舶の窓にガラスのように使用され、現在でも、ガラスとは一風違った風合いを醸し出すものとして、照明用スタンドの笠や装飾モビール等の貝細工に多用されているのは周知の事実である。私は「兩片相ひ合して形を成す」という点では、この二種が時珍のいう「海月」=「海鏡」であろうと踏んでいる。実は既に私は「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部 寺島良安」の「海鏡(うみかゞみ)」の項でそのように同定したのである。ところが、実はここでは「月日貝」という呼称とその色彩上の特異さからは、これはもう――少なくとも「嶺表錄異記」の言っているのは――間違いなく斧足綱カキ目イタヤガイ亜目イタヤガイ科ツキヒガイ
Amusium japonicum japonicum であると同定出来るのである。現在の和名も、まさにここに述べられるように、表が夜の如く赤紫色を呈して暗く、裏が真昼のように真っ白であることから月日貝である。グーグル画像検索Amusium japonicum japonicumで確認されたい。『「本草」には悉に合はず』(「嶺表錄異記」と「本草綱目」のいう「海鏡」の解説が以下の、左右が合わさって初めて一つの形を成す(貝殻一方ではある想定される形の不完全な半分にしか見えない)・平たいという二点を除いて、合致しない)と益軒が不満を述べるのは尤もなことで、両者の記載は実は全く異なった貝を「海鏡」と呼んでいるからなのだと私は思うのである。

「嶺表錄異記」唐の劉恂(りゅうじゅん)撰の嶺南地方(中国南部の五嶺(南嶺山脈)よりも南の地方。現在の広東省・広西チワン族自治区・海南省の全域及び湖南省と江西省の一部を含む地方。嶺表ともいう)の地誌物産誌。]

耳嚢 巻之八 雀軍の事

 雀軍の事

 

 文化五年四月、遠州見附(みつけ)宿の辰藏といへる者濱松の問屋へ贈りし狀を、予が許へ來る是雲(ぜうん)と稱する法師の語り見せける。其文に、森町大洞院の奧八町計(ばかり)の間、雀合戰のありて、其有樣誠にめづらし。東西に分れ、西方の雀の内に鳩程あるもあり。東は平常の通(とほり)。又凡(およそ)五六町隔(へだて)て鳶烏集りゐ、斃(たふれ)たる雀を取(とり)くわんとするを、鷹來(きたつ)て鳶烏を追ふて相戰ふ。雀の勢ひ強く、鳶も鷹も叶わざる體(てい)なり。一昨日の合戰に、東方の雀を取んとするを、雀一羽鳶の頭へ喰ひつき、其内に外の雀戰ひをわすれて鳶に取かゝる。西方の雀七八羽飛來(とびきたり)、漸く鳶を助けたり。誠に討死せし雀の數多く、今日迄六日程の事に御座候。其近邊茶屋飴賣夥敷(おびただしく)、見物人拾町計の間、誠に爪も立申(たちまう)さず。尤(もつとも)合戰の始(はじま)り、晝七つ時分より入相の鐘をかぎりの由認たり。昔より鳥獸蟲介(ちうかい)の爭ひ戰ふ事もあれど、雀の戰ひ鳶鷹の助力珍し。辰藏が作りし事なるや、奇事なれば爰に記す。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。やや法螺に近い話であるが、鈴木氏の注によるとこうした鳥類の合戦はしきりに語られたものらしく、後の松浦静山(天保一二(一八四一)年没)の随筆「甲子夜話」にも、『湯島のあたりで雀が合戦をしたとの噂を記し』、『よく調べたところ、雀と椋鳥が闘ったのであ』ったと記載があり、雀と椋鳥との合戦という噂話は、幕末の宮川政運の随筆「宮川舎漫筆」(文久二 (一八六二)年)『にもあり、これは文政七』(一八二四)『年七月廿五日のこと。ことわざにも、闘雀人を怖れずというのがある』と記しておられる。

・「雀軍」「すずめいくさ」と読む。

・「文化五年」「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏であるから、ホットな噂話である。

・「遠州見附宿」東海道五十三次の第二十八番目の宿駅。現在の静岡県磐田市中心部。「見附」という名は都から下向すると初めて富士山が見える場所であることに由来するともいう。

・「濱松」浜松宿は見附宿の次の第二十九番目の宿駅。現在の静岡県浜松市中心部。

・「森町大洞院」橘谷山大洞院。曹洞宗。応永一八(一四一一)年にここに錫杖を留めた恕仲天誾(じょちゅうてんぎん)禅師を開山とする。底本の鈴木氏注に、『静岡県周智郡森町大字橘。曹洞宗大本山総持寺直末。足利義持の帰依をえた名刹』とある。森町の公式サイトやその他の記載によれば、境内には森の石松の墓や清水の次郎長の碑があり、寺には「消えずの灯明」「世継のすりこぎ」「結界の砂」など恕仲禅師にまつわる数々の伝説があって「伝説の寺」と呼ばれるとあり、これもそうした伝説の寺に相応しい話柄ではある。

・「八町」約八七三メートル。

・「五六町」約五四五~六五五メートル。

・「拾町」一・〇九キロメートル。

・「晝七つ時分より入相の鐘」当年の旧暦四月の日没時刻を調べてみると、凡そ午後六時四〇分から七時〇三分の間であるから中をとると、午後四時半前後から始まって午後六時五〇分頃まで、この雀合戦は実に二時間半近く、しかもそれが一週間ほども(「今日迄六日程」)続いた計算になる。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 雀戦(すずめいく)さの事

 

 文化五年四月のこと、遠州見附宿の辰藏と申す者、浜松の問屋を営む知己へと送った手紙を、私の元へよく来る是雲(ぜうん)と称する法師が、なかなか面白いものなればとて見せてくれ、委細を語った話。その文(ふみ)に――

「……森町大洞院の奧の、八町ばかりの広地にて、雀合戦がこれあり、そのありさまは、まことに珍しいものであった。

――東西の軍(ぐん)に分かれ、西方(せいほう)の雀の内には、これ、鳩ほどもある大きなる雀が認められた――東軍は普通通りの雀の群れ――。

――また、その東西の対峙する箇所より、およそ五、六町も隔てて、鳶(とび)やら烏(からす)やらが数多集(つど)っており、雀両軍の、戦さによって斃(たお)れ伏した雀を、これ、取って食おうとするを、そこに鷹が飛び来たって加勢致し、その鳶や烏を追って相い戦う。

――いや、何より、雀の勢いが恐ろしく強く、かの鳶も、かの鷹も、およそ叶わぬ体(てい)で御座った。

――一昨日の合戦にあっては、鳶が、東方(ひがしがた)の討たれたる雀を取らんとするを、雀一羽、その鳶の頭(かしら)へと、ガッ、と喰いついて、暫くすると他の雀も、本来の雀戦さをそっちのけに致し、この鳶へと飛びかかる。

――すると、そこに西方(にしがた)の雀がこれ、七、八羽ほども飛び来たったかと思うと、なんと、その東方の雀に苛まれて御座った、その鳶を、美事、救い出して御座った。

――誠に、討死する雀の数、これ、はなはだ多く、その合戦、この手紙を記しておりまする今日(きょうび)まで――実に六日ほども――続いて御座る。

――また、その戦さ場の近辺には、これ、茶屋や飴売りの仮小屋・屋台が夥しゅう出で、また、この戦さを見んとする見物人、実に十町ばかりの間に、まっこと、立錐の余地もなきほどに押し寄する、という始末で御座る。

――もっとも、この合戦は一日中行われておるのではなく、その始まりは昼七つ時分にして、それより、入相の鐘を限りとして、必ず戦さを停止(ちょうじ)する、という決まりがあることを認(みと)む……」

とあった。

 昔より鳥獣や虫や魚介やらの類(るい)が、人の如く争い戦うと申すことは、これ、よぅあることでは御座れど、雀の戦さに鳶や鷹が助力すると申すは、これ、なかなかに珍しきことでは御座る。

 これ、辰蔵なる者の作り話であろうか? いや、ないとは限るまい。

 奇なる出来事なれば、ここに一応、記しおくことと致す。

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 木古庭の不動の瀧

    ●木古庭の不動の瀧

龍谷山と號す、木古庭の鎭守なり。堂の邊に瀧あり。高一丈七尺、幅三尺、不動瀧と唱ふ。水田に灌漑す。

[やぶちゃん注:以下の引用は、底本では全体が一字下げ。]

新編相模國風土記曰元祿の末、水涸(かれ)て用水に乏しかりしに、寶永四年、本圓寺住職日進。陀羅尼品(だらにほん)を讀誦して祈誓す、依て水舊に復すといふ、此事扁額に記し、今に堂前に掲(かゝ)く、爾來報賽(ほうさい)の爲(ため)、村民等毎月二十七日の夜、此堂に集會し、題目を唱ふ。

[やぶちゃん注:三浦郡葉山町木古庭(きこば)小字大沢に「木古庭不動尊」として現存するが、現在ここは一キロほど離れたところにある日蓮宗大明山本圓寺の持分(境外堂)となっている。本圓寺公式サイトに「瀧不動堂」として詳細な解説があり、それによれば、鎌倉幕府開幕前、不動明王の熱心な信者であった畠山重忠が衣笠城に三浦大介義明を攻めたが、その際、『木古庭の畠山という場所に城を築き、守り本尊の不動明王像を安置して戦勝を祈り、戦ったところ、御利益があって勝利し』『凱旋の後、重忠公が像をこの滝谷山に勧請すると、一夜のうちに山から清水がこんこんと湧き出で、一條の滝となったという』縁起が語られてある。

「元祿の末」元禄は十七年に宝永元年に改元。

「寶永四年」西暦一七〇七年。]

萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「何處へ行く」(16) 「春のたはむれ」(後)

あやうくもこと定まりし別れ路を

またかゝること言ひて泣かせ給ふか

 

[やぶちゃん注:「あやうく」はママ。]

 

荒(すさ)み樽心のこのごろ君をえて

夜も日もわかず消息を書く

 

「許せ」「否輕き眩暈(めまい)す」かの夜の

暖爐はげにもあつすぎしかな

 

[やぶちゃん注:「眩暈」の「暈」は原本では「曇」。誤字と断じて訂した。改訂本文も「眩暈」とする。そのルビ「めまい」はママ。改訂本文は「暖爐」を「煖爐」とするが、従わない。]

 

若き身のわれが奏するマンドリン

ちゝろちゝろと泣くが哀しき

 

キユラソオの淡きにほひの漂へる

くちびるをもて吸はれけるかな

 

[やぶちゃん注:「キユラソオ」フランス語“curaçao”。キュラソー。リキュールの一種。オレンジの果皮から香気をラム酒やブランデーに浸出させた甘い洋酒。カクテルに用いる。元来はのキュラソー島(カリブ海南部ベネズエラ沖にあるオランダ自治領)産のオレンジを用いたことに由来する。]

 

寢室の窓のガラスに息かけて

君が名をかく雪どけの朝

 

[やぶちゃん注:いつもと同じく、最後の一首の次行に、前の「雪どけの朝」の「ど」の左位置から下方に向って、最後に以前に示した黒い二個の四角と長方形の特殊なバーが配されて、「春のたはむれ」歌群の終了を示している。]

飯田蛇笏 靈芝 昭和十年(九十九句) Ⅲ

 

觀潮の帆にみさごとぶ霞かな

 

[やぶちゃん注:「みさご」タカ目タカ亜目タカ上科ミサゴ科ミサゴ属 Pandion のタカ類の総称。主に海岸に棲息し、好んで魚を捕食することから魚鷹(うおたか)の異名を持つ。漢字では「鶚」「雎鳩」と書く。和名は、高空から水中に突入して足で獲物を摑み取ることから「水さぐる(ミズサグル)」「水探(ミクサ・ミサゴ)」「水捜し(ミゾサガシ)」等の意とする説、水沙の際にいることから「水沙(ミサコ)」の意とする説、獲物を捕らえた際の水音に由来するという説等がある。]

 

かすみだつ漁魚の眞靑き帆かげかな

 

[やぶちゃん注:「漁魚」は「ぎよぎよ(ぎょぎょ)」か。]

 

かすみだつ林坰の日をただ行けり

 

[やぶちゃん注:「林坰」は「りんけい」と読み、郊外の意。]

 

陽の碧くむら嶺の風に燕來ぬ

 

下萌や白鳥浮きて水翳す

 

つゆとめし靑麥旭ざす地靄かな

 

八重雲に山つばき咲きみだれけり

 

鵯のゐてちるともなしに溪の梅

 

  昭和十年二月十八日午前十時半、溘焉と

  して長逝し給ふ坪内逍遙先生を悼み奉る。

 

聖逝けり雙柿舎の草靑むころ

 

[やぶちゃん注:「雙柿舎」「さうししや(そうししゃ)」と読み、静岡県熱海市水口町(みなぐちちょう)にある坪内逍遙終焉の屋敷。大正九(一九二〇)年から没する(享年七十六)までの晩年を過ごした。庭にカキの木が二本あったことから、早稲田大学での同僚であった会津八一により命名された。逍遥の没後は早大に寄贈されて現在も大学の管理下にある(以上はウィキ双柿舎に拠る)。]

 

貧農の煙りのうすき花の山

 

靴下の淡墨にしてさくら狩り

 

[やぶちゃん注:「淡墨」は「うすずみ」と読んでいよう。]

 

  動物園

 

花どきの空蒼凉と孔雀啼く

 

  武田鶯塘氏の訃音に接す、われは雲ふか

  かき山盧にこもりゐて。

 

雲しろむけふこのごろの花供養

 

[やぶちゃん注:「武田鶯塘」(たけだおうとう 明治四(一八七一)年~昭和一〇(一九三五)年)はジャーナリスト・俳人。本名、桜桃四郎(おと しろう)、桜桃は俳号。博文館で雑誌『少年世界』『太陽』等を編集、後に『毎日電報』『中外商業新報』等の社会部部長を歴任、俳句は尾崎紅葉の紫吟社に学び、後、俳誌『南柯』を発刊、主宰した。句集に「鶯塘集」(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。]

篠原鳳作初期作品(昭和五(一九三〇)年~昭和六(一九三一)年) ⅩⅧ

 

掌に唾一吐きや年木樵

 

月の菊白とも見ゆれはた黄とも

 

大根干すうなじ打つたる霜雫

 

馳せよりて後ろ押しけり稻車

 

合住みの友を賴りや風邪籠り

 

もろ共に肥えて蝗のめをと哉

 

掛乞のおそれをなして歸りけり

 

[やぶちゃん注:「掛乞」は「かけごひ(かけごい)」と読み、掛け売り(代金後払いの約束で品物を売ること)の代金を取り立てに来る人のこと。]

 

おでん屋の湯氣の中なる主かな

 

書出しを留守のとぼそに挾みけり

 

[やぶちゃん注:「書出し」掛け売りで買い、その溜まっている代金の請求書。特に年末の決済のための請求書。勘定書。つけ。]

 

おでん屋をぬくもり出づるきほひ哉

 

[やぶちゃん注:これらの四句、偶然かも知れないが連続したものとして読め、さすれば、つっぱらかって偉そうにしかも安いおでん如きをつけで食っていた詩人、そのおでん屋の気のいいしかも気の弱い主人というシチュエーションが小気味いい組み写真となるよう思われるのであるが、如何?]

 

斑猫に足の運びを早めけり

 

[やぶちゃん注:「斑猫」は鞘翅(コウチュウ)目オサムシ亜目オサムシ上科ハンミョウ科ナミハンミョウ Cicindela japonica 、所謂、ミチオシエである。人が近づくと一、二メートル程飛んで直ぐ着地するという行動を繰り返し、その過程で度々、後ろを振り返るような動作をする本種の習性をうまく詠み込んでいる。なお、「斑猫」全般については、私の「耳嚢 巻之五 毒蝶の事」の注で詳細を述べておいた。是非、参照されたい。]

 

道をしへ落陽の方へ返しけり

 

畦ゆけば畦ゆけばとぶ螽かな

 

[やぶちゃん注:「螽」は「いなご」と読む。]

 

御佛の小さき障子や洗ひをり

橋本多佳子句集「紅絲」 凍蝶抄 Ⅳ

 

かじかみて脚抱き寢るか毛もの等(ら)も

 

鶏と猫雪ふる夕べ食べ足りて

 

猫歩む月光の雪かげの雪

 

みぞれ雪涙にかぎりありにけり

 

暮れてゆく樹々よこの雪は積らむ

 

[やぶちゃん注:やや読みが不詳。「くれてゆく//きぎよ/この/ゆきは//つもるらむ」と私は読むが、暫く御批判を俟つ。]

 

ねむたさの稚児(ちご)の手ぬくし雪こんこん

 

燃ゆる薪雪に置かれて焰立つ

 

牡丹雪さはりしものにとゞまりぬ

杉田久女句集 222 父の忌 二句

 

  父の忌 二句

 

御僧に門の雪搔く忌日かな

 

御僧に蕪汁あつし三囘忌

 

杉田久女句集 221 燭とりて菊根の雪をかき取りぬ

燭とりて菊根の雪をかき取りぬ


[やぶちゃん注:この句は前の、

  昌子猖紅熱 十二月

北斗凍てたり祈りつ急ぐ藥取り

の句と連作であろう。この雪は熱を冷やすために夜に搔き採っているのであろう。]

杉田久女句集 220 北斗凍てたり祈りつ急ぐ藥取り

 

  昌子猖紅熱 十二月

 

北斗凍てたり祈りつ急ぐ藥取り


[やぶちゃん注:長女昌子は当時満九歳。これは昌子が預けられていた宇内の実家へと病気の急を聴いて駆け付けたその際の景か、それとも小康を得た久女が昌子を宇内の実家から東京へ引き取った後に発症したとすれば東京の景か、孰れかは不詳。後者か。]

殺意が押し開けてしまつた  山之口貘

 殺意が押し開けてしまつた

 

梅雨がお前の髮の毛を濕らせてゐるときに、夕暮が松林に降りてあたりが物寂しくなつたときに、二條の麻繩が私(わし)の手に絡んでしまつた。

もうお前が仕事から歸へらねばならぬ時刻(とき)が來た戀人よお前は冷汗ですつかり白粉を洗ひおとしてしまへ、お前の着物や洋傘をすつかり友達のと取換へてしまへ、お前は變裝せねばならぬ

私(わし)の重たい苦悶の扉を 殺意が押し開けてしまつた。

お前の許婚は遠い南の國の涯で、私(わし)からお前を奪つた誇りを打ち忘れ、彼は彼の学業(まなび)を怠り 心配をすつかり私(わし)の方へ集めてゐる。

私(わし)の詩の愛好者よ 戀人よ 私(わし)はお前が女であることを知つてゐる。よく知つてゐる。そうしてお前の許婚は富豪の息子である。お前の母は頑固な商人である。

あゝお前の許婚はお前のうつくしい世評を奪ひ、お前の知識と情とを ずるずると貪慾の牢に引き摺る
 

夜は都會の隅々にしのびいり 墓場の番小屋には灯がついた

お前の唇から諦らめの憂鬱がのぞいてゐる。私(わし)はお前の目蓋のかすかな皺の心配を知つてゐる

私(わし)はお前の許婚に、私(わし)の一番大切なお前の死を感知させねばならない。癇癪が私(わし)を生命掛けに怒らせてゐる。私(わし)の視線は電氣のやうに顫えあがり 私(わし)の嗅覺は溜息をついて待ちかねてゐる……

あゝ 戀人よ

お前の無言の唇を開けよ。

 

[やぶちゃん注:大正七(一九一八)年~大正一〇(一九二一)年の間(バクさん十五歳から十八歳)に創作された「初期詩篇」群八篇の掉尾にあるもの。逆編年配列である、旧全集の於ける残存すると考えられたバクさんの最も古い詩篇ということになる。一部に特異な改行部があるため、ブログ幅に対応させて以上のような仕儀をとった。問題の箇所は「お前は冷汗ですつかり白粉を洗ひおとしてしまへ、お前の着物や洋傘をすつかり友達のと取換へてしまへ、お前は變裝せねばならぬ」で、これは前からの続きではなくて、一字下げになっているからである。しかも、それが更に改行される場合(最初の「あゝ暗い廢顏の……」の一箇所)には今までの改行法(前行より一字下げ)と異なり、下げずに前行と同じ高さで改行されてあるからである。近々手元に入る新全集詩篇との校合を待ちたい。本詩を以って底本とした旧全集である思潮社一九七六年刊「山之口貘全集 第一巻 全詩集」に載る詩篇の全篇電子化を終了した。
 
二〇一四年五月二十四日追記思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と校合した。新全集では先の「むかしのお前でないことを」で「燈」が使用されており、ここは「灯」となっているので、ママとした。また、松下博文氏の解題によれば、これらの纏まった詩八篇は表紙に「◎詩集 中学時代/控原稿/詩稿 自一九一八年 至一九二一年/八篇(製作順)/山之口貘」と書かれてあり、『以下、製作時期の古い順に「むかしのお前でないことを」から「殺意が押し開けてしまつた」までの八篇を収める』とある。従って、この詩は大正七(一九一八)年~大正一〇(一九二一)年の間(バクさん十五歳から十八歳)に創作された「初期詩篇」群八篇の内、最も新しいものということになるので、ここに訂する。




奇しくも今日、思潮社版の新しい「山之口貘全集Ⅰ 詩篇」を入手予定。まだまだバクさんとの旅は続く――

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十二章 北方の島 蝦夷 2 函館山

M340

図―340 

 やがて奇妙な舟と魚の香のまん中に上陸した我々は、町を通りぬけて、小高い所にある、ハリス氏の住宅へ着いた。ここから見下す町の景色は、実によい。途中私は、路傍の植物にはっていた蝸牛(かたつむり)(オカモノアラガイ科)を一握りつまみ上げた。植物の多くは、我国のに似ている。輸入された白花のしろつめくさ(クローヴァー)は、我国のよりも花が大きく、茎も長く、そして実によい香がする。町は殆ど島というべきで、本土とは砂頸によってつらなり(図310)。火山性の山の、高さ一千二百フィートのを、美しい背景として持っている。町の大部分は低地にあるが、上流階級の家はすこし高い所の、山の裾に建っている。家は重い瓦で覆われるかわりに、板葺の上に、大きな、海岸でまるくなった石をぎつしり並べ、見た所甚だ奇妙である。図341は砂頸へ通じる往来から見た町の、簡単な外見図である。私はしょっ中、メイン州のイーストポートのことを考えている。これ等二つの場所に、似た所とては更に無いが、爽快な、新鮮な空気、清澄で冷たい海水、魚の香、背後の土地はキャムポベロを思わせ、そして私のやっている曳網という仕事がこの幻想を助長する。

M341

図―341 

[やぶちゃん注:図341は現在の赤レンガ倉庫の中央西側の函館湾に面した通り(函館市末広町)辺りから函館山方向を見たスケッチであることが山並みと右手の海、道の左側に建つ赤レンガ倉庫に似た切妻屋根の建物から分かる(グーグル・ストリートビュ北海道函館市末広町13−)。

「ハリス氏の住宅」これは恐らく宣教師としてのハリスが建てた最初の函館美以教会会堂(前年明治一〇(一八七七)年落成)かその近くと思われる。同教会の後身である函館山麓の現在の弁天末広通にある日本基督教団函館教会の位置とかなり一致する。但し、モースのスケッチでは函館湾を見下ろす角度が有意にあるので、もう少し函館山を登った辺りかも知れない。

「蝸牛(オカモノアラガイ科)」原文“snails ( Succinea )”。石川氏は「オカモノアラガイ科」と訳しているが、腹足綱有肺亜綱柄眼(マイマイ)目オカモノアラガイ超科オカモノアラガイ科 Succinea 属であるから「オカモノアラガイ属」が正しい。代表種であるオカモノアラガイ(陸物洗貝)Succinea lauta は長円形の独特の美しいフォルムをしている(「微小貝データベース」のSuccinea lautaを参照されたい)。

「砂頸」原文“sand-neck”。砂州。

「火山性の山の、高さ一千二百フィートのを」函館山。「一千二百フィート」は三六五・七六メートルであるが、現在の函館山の標高は三三四メートルである。ウィキの「函館山」によれば、約一〇〇万年前の『海底火山の噴出物が土台になり、その後の噴火による隆起・沈下を繰り返して大きな島として出現。海流や風雨で削られて孤島になり、流出した土砂が堆積して砂州ができ』、約五〇〇〇年前に『渡島半島と陸続きの陸繋島になった。 函館市の中心街はこの砂州の上にある』とある。

「メイン州のイーストポート」既注であるが、モースの故郷メイン州(彼はポートランド生まれ)はアメリカの本土四十八州中で最東端に位置する州であるが、そのまた最東端の都市が漁師町イーストポートである。ここの沖は西半球最大の渦潮である“Old Sow”(オールド・ソー:年老いた雌ブタ)で知られ、若き日のモースはここでしばしば海洋生物の観察採取を行っていた。]

「キャムポベロ」原文“Campobello”。先のイーストポートからさらに東に行った、北アメリカ大陸の北東端のファンディ湾の中のパサマクウォディ湾内に浮かぶカナダ領のカンポベロ島。但し、地図上で見ると、陸とは国境を跨った橋によってアメリカ側のルーベックとのみ繋がっているという変わった島である。メイン湾の北東端、カナダのニューブランズウィック州とノバスコシア州の間に位置し、ごく一部はアメリカ合衆国のメイン州にも面している。ファンディ湾は世界一潮の干満が激しい場所の一つとして知られており、その潮差は最大十五メートルに及び、海洋生物学者モースにとってはまたとない好調査地であった。さらに言えば、第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所冒頭で、『私は日本の近海に多くの「種」がいる腕足類と称する動物の一群を研究するために、曳網や顕微鏡を持って日本へ来たのであった。私はフンディの入江、セント・ローレンス湾、ノース・カロライナのブォーフォート等へ同じ目的で行ったが、それ等のいずれに於ても、只一つの「種」しか見出されなかった。然し日本には三、四十の「種」が知られている。』と記す通り(『フンディの入江』がファンディ湾のこと)、この湾にはモースの専門であるアメリカでは希少種であるシャミセンガイの一種が棲息していたことから、このカンポベロ島周辺が彼の専門研究対象の棲息する馴染みの採取地でもあったことが分かる。]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅7 奈須雲岩寺佛頂和尚舊庵 木啄も庵はやぶらず夏木立

本日二〇一四年五月二十三日(陰暦では二〇一四年四月二十五日)

   元禄二年四月  五日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年五月二十三日

である。

 

木啄(きつゝき)も庵(いほ)はやぶらず夏木立

 

木啄も庵はくらはず夏木立

 

[やぶちゃん注:第一句「奥の細道」。「曾良書留」には、

 

  四月五日 奈須雲岩寺ニ詣て、佛頂和尚舊庵を尋

 

とある。「曾良随行日記」に、


一 五日 雲岩寺見物。朝曇。両日共ニ天氣吉(よし)。


と記す。「小文庫」「泊船」ともに、

 

  佛頂禪師の庵をたゝく

 

と前書する。第二句目は曾良本「奥の細道」の見せ消ちで、底本は第一句同様に中七を「庵はやぶらず」と改めている。

「奈須雲岩寺」栃木県大田原市雲岩寺にある臨済宗妙心寺派の東山(とうざん)雲厳(うんがん)寺。大治年間(一一二六年~一一三一年)に叟元によって開基され、弘安六(一二八三)年に執権北条時宗を大檀那として梨勝願法印の寄進により仏国国師によって開山されたと伝える。

「佛頂和尚」(寛永一九(一六四二)年~正徳五(一七一五)年)は常陸国鹿島生で元は鹿島の瑞甕山根本寺(ずいおうざんこんぽんじ:茨城県鹿嶋市宮中在)住職、当時は宝光山大儀寺(茨城県鉾田市在。根本寺の北北西約十六キロ)中興開山であった臨済僧。根本寺は直近にある鹿島神宮と領地争いがあってその訴訟のために根本寺末寺で江戸深川にあった臨川庵(後に臨川寺)に長く滞在、天和二(一六八二)年頃、近くに住んでいた芭蕉は彼を師として禅修業をしたと推測され、これより前、貞享四(一六八七)年八月十四日出立の、弟子の曾良と宗波を伴って仲秋の月を見に出かけた「鹿島詣」では、弟子に譲った根本寺に泊めて貰って師と再会している(月見は生憎の雨で果たせず句を作っている)。この仏頂はしばしばこの雲厳寺に山居して修業していた。芭蕉が非常に尊敬し、二歳年長であるとともに、「舊庵」「山居の跡」などとあるが、芭蕉よりも二十一年も長生きした(芭蕉は元禄七(一六九四)年満五十歳で没している)人物(遷化の地はここ雲厳寺ではあったが)であるので注意されたい。

 第一句の「やぶらず」に軍配。「くらはず」は禅味に欠く。

 問題は「奥の細道」では実は時系列が入れ替えられて、これより後の行程で創作された「夏山に足駄を拜む首途哉」が「黒羽」の段の始まりの直後に配されてある。そのため、ここでも前に示した「黒羽」の段と次に続く「雲巖寺」の段の異同その他を示し、「黒羽」の段についても今一度次の「夏山に」の句の注で煩を厭わず全文を附しておくこととする。それが「奥の細道」への礼儀ともなろうと考えるからである。

   *

黑羽の舘代浄坊寺何某の方ニ音信ル

おもひかけぬあるしのよろこひ日夜語

つゝけて其弟桃翠なと云か朝夕勤

とふらひ自の家にも伴ひて親属の

方にもまねかれ日をふるまゝに

ひとひ郊外に逍遙して犬追ものゝ跡

を一見し那すの篠原をわけて玉藻の

前の古墳をとふそれより八幡宮に詣

与市宗高扇の的を射し時別ては我

國氏神正八まんとちかひしも此神社

にて侍ときけは感應殊しきりに覚らる

暮れは桃翠宅に歸る

修驗光明寺と云有そこにまねかれて

行者堂を拜す

  夏山に足駄をおかむ首途哉

當國雲岸寺のおくに佛頂和尚山

山居の跡有

  竪横の五尺にたらぬ草の庵

  むすふもくやし雨なかりせは

と松の炭して岩に書付侍りといつそや

きこへ給ふ其跡みむと雲岸寺に杖を

曳は人々すゝむて共にいさなひ若き

人おほく道の程打さはきておほえす

彼麓に至る山はおくあるけしきにて

谷道はるかに松杉くろく

苔したゝりて卯月の天今猶寒し

十景盡る所橋をわたつて山門に入

さてかの跡はいつくの程にやと後の山ニ

かけのほれは石上の小庵岩窟ニ

むすひかけたり妙禪師の死

關 法雲法師の石室を見るか

ことし

  木啄も庵はくらはす夏木立

ととりあへぬ一句を柱に殘侍し

   *

■異同

(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)

〇与市宗高扇の的を射し時  → ●與市扇の的を射し時

〇佛頂和尚山山居の跡    → ●佛頂和尚山居の跡[やぶちゃん注:衍字と思われる。]

〇後の山ニかけのほれは   → ●後の山によぢのぼれば

 

■やぶちゃんの呟き

「竪横の五尺にたらぬ草の庵/むすふもくやし雨なかりせは」……縦横が五尺(約一・五メートル)にも足らぬ庵ともいえぬ言えぬ庵であるが、そんな小庵を結ぶことさえも私には忸怩たる思いで一杯だ――あぁ! 雨さえ降らなかったなら、こんなものはいらぬのになぁ!……

「十景」雲巌寺には寺内に名勝十景(海岩閣・竹林・十梅林・雲龍洞・玉几峯・鉢盂峯(ぼうほう)・水分石・千丈岩・飛雪亭・玲瓏岩)があった。但し、実際には海岩閣・竹林・十梅林の三つは山門内にある。

「橋」雲巌寺五橋(獨木橋・瑞雲橋・瓜※橋[やぶちゃん注:「※」=「瓜」+「失」。]・涅槃橋・梅船橋)の一つ、瓜※橋(かてつきょう)。ここは角川文庫版本文脚注に拠った。

「石上」は「せきしゃう」と清音で読む。

「妙禪師の死關」「妙禪師」は南宋の臨済僧高峰原妙(一二三八年~一三九五年)。十五年間に渡って隠棲し杭州西天目山(現在の浙江省杭州市)にあった洞窟張公洞師子岩に「死關」という扁額を掲げて門外不出一五年にして五十七歳でそこで遷化したと伝える。

「法雲法師」幾つかの注は南朝梁の高僧法雲(四六七年~五二九年)で、境内の大岩の上を居所とし、終日談論したという人物を当てるが、頴原・尾形注はそれを誤りとし、「続伝燈録」に大寂巌という岩窟(?)に座禅したと伝える宗代の法雲派の禅僧大通善本かとする。前者であるとするなら、順列がすこぶるおかしい気はする。

「石室」石でできた岩窟。

「とりあへぬ一句」即興の一句。

 頴原・尾形両氏は角川文庫版評釈には(引用内引用の分での補正した文字の傍点「・」を省略し、漢文の送り仮名を排し、ここのみ古文・漢文引用部分を総て恣意的に正字化した)、

   《引用開始》

 実際には黒羽滞在の三日目にあたる四月五日の雲巌寺訪問の記事を、「夏山に」の句のあとに別掲したのは、芭蕉がこの郊外引杖(いんじょう)に、黒羽における交歓・観光とは別の意義を認めていたからである。前作『笈(おい)の小文(こぶみ)』には、旅について述べた一節に、「山野海濱(かいひん)の美景に造化の功を見、あるは無依(むえ)の道者の跡をしたひ、風情(ふぜい)の人の實(まこと)をうかがふ。(中略)もしわづかに風雅ある人に出合ひたる、悦びかぎりなし」云々(うんぬん)という文言が見えるが、前章を「風雅ある人に出合ひたる」交歓のよろこびをつづったものとすれば、これは「無依の道者の跡」を慕っての参堂の記ということができる。無依の道者とは、万境に接するも少しも心のとらわれることのない道人をいう。捨身行脚(しゃしんあんぎゃ)をめざした芭蕉にとって、第二の門出に際し、親しく教えを受けた尊敬する師家の、万境を放下した山居修行の跡を尋ねることの意義は小さくなかった。

 本文の運びもまた、最初に仏頂の道歌を掲げ、次いで引杖の次第、禅徒澄心の場の幽邃(ゆうすい)な風景、石上の草庵の形状に及び、「妙禪師の死關」「法雲法師の石室」という対句を置いて、仏頂の道歌に和した「木啄も」の一句をもって結ぶという、さながら「遊雲巖寺老師韵幷序」[やぶちゃん注:「雲巖寺に遊び老師の韵を次ぐ幷びに序」と読む。「韵」は韻を踏んだ台詞であるから、先の道歌を指す。]とでも題すべき、五山禅林の文学を思わせる趣致をたたえている。

   《引用終了》

と評してある。私は寧ろ、「奥の細道」の旅に死出の覚悟をさえ持って出た芭蕉が、内心忸怩たる思いの中で過ごしたこの長逗留の通人の懶惰な一時を自発的に斬り捨てて、再度、覚悟の旅の始まりとして認識した禅機こそがここに「在る」のだと思われてならない。]

2014/05/22

大和本草卷之十四 水蟲 介類 馬刀

馬刀 トブ貝ニ似テ小ナリ泥ミゾニ生ス海ニハナシ色黑キ

故ニ烏貝トモ云本草ニモ蚌ニ似テ小ナリトイヘリ其外

ミゾ貝ニヨク合ヘリ蚌ト一類ニテ小ナリ馬刀ヲマテト訓ス

ルハアヤマレリ。クロヤキニシテ胡麻ノ油ニ和シ小兒ノ頭ノ白禿

瘡ニ付ル驗アリ本草ニハ此方ノセス

〇やぶちゃんの書き下し文

馬刀(みぞがい/からすがい)[やぶちゃん注:右に「ミソガイ」、左に「カラスガイ」のルビ。] どぶ貝に似て、小なり。泥みぞに生ず。海には、なし。色、黑き故に烏貝とも云ふ。「本草」にも蚌に似て小なり、といへり。其の外、みぞ貝によく合へり。蚌と一類にて小なり。馬刀を「まて」と訓ずるはあやまれり。くろやきにして胡麻の油に和し、小兒の頭の白禿瘡〔(しらくも)〕に付ける。驗〔(しるし)〕あり。「本草」には此の方、のせず。

[やぶちゃん注:ここでは有意に小さいという観点からイシガイ科ドブガイ属 Sinanodonta に属する小型のタガイ Sinanodonta japonica(ドブガイB型)に同定しておくが、私は実は「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」の「馬刀(からすがい)(かみそりがい)」ではそれをカラスガイGristaria Plicata 及び琵琶湖固有種メンカラスガイCristaria plicata clessini (カラスガイに比して殻が薄く、殻幅が膨らむ)に同定している。前項「蚌」の私の注も参照されたい。「馬刀」とは斬馬刀のことで、本邦では所謂、長い打刀である野太刀を指す。因みに、国立国会図書館蔵の底本と同本には同箇所の頭書部分に付箋があって、

馬刀 南部遠野川ニアリ石カタガヒトカ云リ

とある。「イシカタガイ」という地方名は現認出来ない。

『「本草」にも蚌に似て小なり、といへり』「本草綱目」の「介之二」の「馬刀」の「集解」の最後に以下のように記す。

時珍曰、「馬刀似蚌而小、形狹而長。其類甚多、長短大小、濃薄斜正、雖有不同、而性味功用、大抵則一。

「其の外、みぞ貝によく合へり」意味がよく分からない。この「馬刀」は本来はミゾガイではないが、よく似た形状であるミゾガイとよく交配し、雑種をつくるということであろうか。それとも「馬刀」はしばしばミゾガイと混同されるという謂いか。識者の御教授を乞う。

「マテ」言わずもがな乍ら、本邦の和名としてのマテガイは海産の斧足綱異歯亜綱 incertae 目マテガイ上科マテガイ科マテガイ Solen strictus である。

「白禿瘡」頭部白癬。主に小児の頭部に大小の円形で白色の落屑(らくせつ)面が出来る皮膚病で白癬菌の感染によるもの。痒みがあって毛髪が脱落する。難治性のものはケルズス(Celsus)禿瘡(とくそう)という。

『「本草」には此の方、のせず』「本草綱目」には「馬刀」の「殻」と「肉」に分けて、主治や処方が載るが、確かにざっと見た所ではこの症例へのこのような処方は見当たらない(疔瘡に肉の生の汁を塗付するというのはある)。本邦独自のものかも知れない。]

耳嚢 巻之八 痳石の事

 痳石の事

 

 淸水勤番をなしける倉持忠左衞門は、森田が門弟にて笛を吹き、予が許へも來りしが、或時暫く來らざる事あり。一體堅直なるおの子なりしが日を隔て來り、不計(はからざる)煩しき事ありてとだへぬ、いゝしに、奇なる病を請(うけ)て大きになやみし由。其譯は、前々痳疾(りんしつ)の愁(うれひ)もありしが、絶(たえ)て其愁ひ忘れしに、與風(ふと)他へ行しに、通じを催しけるに任せ用場(ようば)へむかひしに、いさゝかしたゝり候迄(にて)、通氣はしきりなれど一滴も出ず。陰莖の先につまりて、えぐる如くいたみければ、せんすべなく漸く歸宅して臥りけるが、其夜は眠る事もあたはず。是は小便へいならんと、醫師にも見せ藥用もなし、また人の傳へに、山中に生(しやうず)るさるおがせをめば痳疾に妙なる由故、猿おがせを取寄(とりよせ)細末にして砂糖に和して呑(のみ)けるが、右猿おがせの驗(しるし)にや、餘程通じもつきて少しく難儀を忘れしに、明けの日小用なしけるに、又候(またぞろ)鈴口いたみ、通氣をおさえけるに與風(ふと)手をやりみれば、何か指にさわる尖(とげ)の如くいたむゆゑ、物こそあれと、百計しけるに漸く一物を鈴口より取出しぬ。凡(およそ)長さ貮分(ぶ)程巾(はば)壹分程にて、色うるみ鼠色ともいへる石なり。所謂齒のしほの如く、かたき物なり。夫(それ)より全快して、常に服し、右石を鹽(しほを)以(もつて)よく淸め洗ひて、後世の者の心得のため祕め置(おき)しとて見せけるが、倉持が申(まうす)が如く、諸醫に見せけるが、石痳(せきりん)の石と云(いふ)もあれど至(いたつ)て小さきもの細末なるは見しが、かゝるはいまだ見ずといゝけるよし、倉持かたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:疾病物の尿路結石事例。話柄としては長いが、これも所謂、民間療法シリーズの一種としても見ることが出来る。

・「痳石」「りんせき」と読む。腎臓や尿管・膀胱などの尿路結石を指すものと思われる。ウィキの「尿路結石」をリンクしておくが、ここで主人公倉持の尿道から出たそれは決して特異なものとは思われない。調べてみると、長崎県佐世保市高砂町の「きたやま泌尿器科医院」の公式サイト内の尿路結石のページに、尿路結石の中でも八〇%を占めるものがシュウ酸カルシウムを主成分とする結石で、その形状は金平糖状又は表面がギザギザな形になるため、小さくても尿管に引っ掛かり易く、排出され難い、とある。実際、画像検索でみるとまさに尖った結晶の集合体で、倉持が排出したのはその一片という感じが強くする。訳は以下の淋病との非医学的誤解を避けるために「結石」とした。

・「淸水勤番」「淸水」は清水徳川家。清水家。江戸中期に徳川氏一族から分立した大名家御三卿(ごさんきょう)の一つで、始祖は第九代将軍家重次男徳川重好(他の二家は第八代将軍吉宗次男徳川宗武を始祖とする田安家と同じく吉宗四男徳川宗尹(むねただ)を始祖とする一橋家)。「勤番」は諸大名の家来が交代で江戸・大坂の藩邸また遠方要地に勤めることをいうから、ここは特に御三卿清水家に配された幕臣の警護職ということか。

・「森田」能楽囃子方笛方の森田流。名人笛彦兵衛(檜垣本彦兵衛)を芸祖とし、千野与一左衛門・牛尾玄笛と相伝、流祖森田庄兵衛光吉が一家を成して徳川家康に抱えられた。江戸時代には観世流の座付として活動した。四座筆頭の観世流座付であるところから江戸時代には幕府・紀州藩を始めとして諸藩に森田流の役者が抱えられていた。但し、明治末に宗家は絶えている(以上はウィキの「森田流」に拠る)。岩波版長谷川氏注に『当時七世庄兵衛光浮』とある。

・「いゝしに」底本では右に『(ママ)』注記がある。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では正しく『と言(いひ)しに』となっている。

・「痳疾」淋疾。性病である尿道が炎症を起こして尿が出にくくなる淋病のこと。因みにこの「痳」に字の正字のように見えてしまう「痲」という字は実は音「マ・バ・メ」で、しびれ・痺れるの意で、麻疹(はしか)を指す全く別の漢語であったが、これも「痳」と混用された。

・「いさゝかしたゝり候迄(にて)」底本には本文の「(にて)」の右に『(尊經閣本)』とあってそれによって補った旨の傍注がある。

・「小便へいならん」底本では「へい」の右に『(閉)』と傍注する。

・「尖(とげ)」は底本のルビ。

・「通氣」力むと、体感としては尿道を尿が通じようとしている風には感ずる、ということらしい。

・「さるおがせ」菌界子嚢菌門チャシブゴケ菌綱チャシブゴケ目ウメノキゴケ科サルオガセ属 Usnea の地衣類の総称。樹皮に付着して懸垂する糸状の地衣類で、ブナ林など落葉広葉樹林の霧のかかるような森林の樹上に着生する。その形は木の枝のように枝分かれし、下垂する。日本ではおよそ四十種が確認されており、世界では六百種を超えるとされる。和名は「猿尾枷」「猿麻桛」などと書き、「霧藻」「蘿衣」ともいう(以上はウィキの「サルオガセ」に拠った。グーグル画像検索「サルオガセ」)。

・「長さ貮分程巾壹分程」長さ約六ミリの幅三ミリ程。まさに「尖」、針状の結晶であったらしい。

・「齒のしほ」歯石のことか。

・「石痲の石」これは無論、症状から見ても、倉持がかねてより慢性罹患している淋病とは別な尿路結石である。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 結石の事

 

 清水家勤番(しみずけきんばん)を致いておる倉持忠左衛門は、観世流笛方森田流の門弟にして、笛を巧みに吹き奏で、私のところへもしばしば訪ねて参る者で御座るが、ある時、暫く来訪致さぬことが御座った。がっちりとした体形にて真正直なる男で御座ったが、かなり日が経ってから再来致いて、

「……不測の、煩しきことどもの御座って、まっこと、御無沙汰致いて御座った。」

と詫びた上、

「……実は……まっこと、奇妙なる病いに罹り……いや、もう、大いに苦しみましてのぅ……」

との由。その仔細を聴けば……

   *

……拙者……前々より長患いの淋疾(りんしつ)によって不快な思いずっと続けておりましたが……ここのところはずっと、絶えてかの苦しみものぅなって、淋の病いのこと、これ、すっかり忘れておりました。……ところがある時、ふと、私用にて他所(よそ)へと参り、小用を催したによって何ということものぅ、そこの厠へと向かいました……ところが……ちょろっと……ほんの少しばっかり出て御座っただけにて、ウン! と力めば、尿が出でんとする気配は頻りに御座れど、これ、後は一滴も出でんので御座る。……陰茎の先が明らかに詰った感じが致いて、その先が、これまた、小刀で抉ったかの如く痛み、それがまた消えませなんだによって、せん術(すべ)ものぅ、足元もおぼつかぬ体(てい)にて、ようよう帰宅致いて、横になってはみたものの、一物の激痛、これ、恐ろしいばかりに劇しいものにて、結局、その夜は眠ることも出来ませなんだ。……さても翌日、

「……これはもう……小便の閉(へい)となったに相違ない。……さても死に至る様態じゃ……」

と、早々に医師にも見て貰い、処方を出いて貰(もろ)うては服用もなし、また、それ以外にも、知れる人がりの話によれば、

――山中に生ずるところの猿尾枷(さるおがぜ)と申す草を煎じて呑めば、痳疾本復絶妙――

なる由聴きましたによって、その猿尾枷なるものをも取り寄せ、細かな粉に致いて、砂糖を和しては、日に何度も呑んでおりましたところが……これ、この猿尾枷の効験(こうげん)ででも御座いましょうものか……以前のように、全く普通に小水が出ずるようになり、少しく下(しも)の難儀を忘れて御座いました。……ところが、そんな全快致いたかと喜んだ、翌朝のこと、小用致いて御座ったところが……またぞろ、一物の鈴口が俄かに痛みだし、またまた……何物かが排尿が抑えたる感じの致せばこそ……ふと、竿に手をやってみましたところが……何やらん……触れた指に……これ、陽物のまさに内側より

――ツン!

と突き刺さるような痛みを感じました。……それは明らかに……指に立たんとする棘(とげ)の如き痛みにて、さればそれは

――何か、ある物が一物の管(くだ)の内につまっておる

といったような感じにて御座いました。されば……いろいろ……その……試みまして……ようやっと、その妖しの一物を鈴口より取り出いたので御座る。

――凡そ長さは――二分(ぶ)ほど、幅は一分ほど

にして、

――色は――水気を持ったる、濁った鼠色といった感じの

「石」で御座った。所謂、歯磨きを怠りますると歯の間に歯石と申すものが出来まするが、丁度、あれに似たようなもので御座って、いや、もう、石の如く固い物にて御座った。……いや……それよりすっかり全快致いて、かくも常(つね)の体(からだ)に服しました。……されば、その石をば塩を持ってよく洗い清め、後世の医師や似たような病いに悩むめる御仁の心得のために、秘かに残しおいて御座いまする。……

   *

と申し、持参致いたそれを私に見せて呉れた。

 確かに倉持の申すが如き不可思議なる物にて、倉持によれば、

「……諸医に見せましたところが、『尿路の結石というものはあるが、それらは至って小さいものにして、砂粒の様なるもの、粉末のようなるものならば、これ、見たことがあるものの、このように太き針のようなるものというは、これ、いまだに見たことがない』

と言うておったとのこと。

 以上は私が直に倉持から聴いた話にして、実物も確かに見せて貰ったもので御座った。

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 秋谷寺

    ●秋谷寺

紫雲山秋谷寺と號す、淨土宗、鎌倉光明寺末なり、開山祐崇、本尊三尊阿彌陀、慶安元年鑄造の大鐘あり。

[やぶちゃん注:紫雲山秋谷寺正行院(しょうぎょういん)と呼んでいる。三浦地蔵尊第二十番札所。私は訪ねたことがない。yun​**a​ke2​00*​氏のブログのかか様地蔵の記事が、この寺の地蔵群の画像も興味深くてよい。ご覧あれ。]

萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「何處へ行く」(15) 「春のたはむれ」(前) 

 春のたはむれ

 

沈みゆくセロの響きに神經の

ふるふがごとき春の夕暮

 

行きづりの袢纏ばらが惡口(わるくち)を

こわがる君とあねもねを買ふ

 

[やぶちゃん注:「行づり」「こわがる」はママ。「袢纏」は原本では「纏」の字が「糸」でなく「衤」であるが、校訂本文を採った。]

 

たゞよへる祭の夜の灯の海に

我等は赤き帆をあげて行く

 

歌舞伎座のかへりに我をつゝみたる

床しきマントわすられぬひと

 

[やぶちゃん注:「歌舞伎座」は原本では「歌舞妓座」。以下に掲げる相同歌で訂した。この一首は、朔太郎満二十六歳の時の、大正二(一九一三)年十月十一日附『上毛新聞』に「夢みるひと」名義で掲載された五首連作の一首、

 歌舞伎座(かぶきざ)のかへりに我(われ)をつつみたる床(ゆか)しきマント忘(わす)られぬひと

の表記違いの相同歌である。]

 

ヰオロンの小夜曲(セレネード)ともきゝ居りぬ

世にも悲しき訴へごとを

飯田蛇笏 靈芝 昭和十年(九十九句) Ⅱ

 

野球見の大日輪に魂醉へり

 

潮干舟新月は帆にほのめきぬ

 

[やぶちゃん注:「潮干船」は「しほひぶね(しおひぶね)」で潮干狩りをする人を乗せる船。春の季語。]

 

  筑波登山、二句

裏筑波燒け木の鳶にうす霞む

 

[やぶちゃん注:「燒け木」落雷に燃え焦げた高木か。]

 

東風吹くや岩戸の神の二はしら

 

[やぶちゃん注:筑波山は男体山と女体山から成る双耳峰で、筑波山神社は筑波山南面の海抜二七〇メートルにある拝殿地以上を社地とし、男体山(標高八七一メートル)の神を筑波男ノ神(つくばおのかみ・筑波男大神)=伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、女体山(標高八七七メートル。こちらの方が高いので注意)かの神を筑波女ノ神(つくばめのかみ・筑波女大神)=伊弉冊尊(いざなみのみこと)とする。但し、厳密には神道では男女夫婦神は二人で一柱と数える。]

 

  淡路別春莊にて

 

能舞臺幕料峭と夜風たつ

 

[やぶちゃん注:「淡路別春莊」現在の淡路島(兵庫県洲本市由良町由良)に厚生寮淡路別春荘という名の建物があるが、同一物かどうかは不明。この能舞台はその旅宿(?)に附設されたものであろう。中七は「まく/れうせうと(りょうしょうと)」と読む。「料峭」とは春風が未だ肌に薄ら寒く感じられるさまをいう。「料」は「撫でる」「触れる」の意、「峭」は山が尖るさまから転じて厳しいことを意味し、「春寒(はるさむ)」とほぼ同義ながら、それよりもより肌を刺すような寒い初春の風をいう。春の季語。以上は清水哲男氏の「増殖する俳句歳時記」のページの記載を参考にさせて頂いた。]

篠原鳳作初期作品(昭和五(一九三〇)年~昭和六(一九三一)年) ⅩⅦ

 

風波の麥生進むが如くなり

 

ほとばしる枝の眞靑や立穗梅

 

[やぶちゃん注:「立穗梅」穂立ちという語があり、これは稲の穂が出ることを指すから、丁度その八月上旬頃の梅木立という謂いか。]

 

大兵でおはし給ふなる寢釋迦哉

 

舊正や屋敷屋敷の花樗

 

芝山やそこここ立てる霜圍ひ

 

海苔採女はだしのままの家路哉

 

[やぶちゃん注:「海苔採女」は「のりとりめ」と読んでいよう。]

 

海苔採りに沖つ白波たちそめぬ

 

海苔採りにあきし心や遠霞

 

醉ざめの面て伏せゐる火桶哉

 

霜圍ひ覗き覗きて園巡り

 

水涕のすすりあへなくなりにけり

 

破(ヤ)れ障子兒澤山と見えにける

 

鏝入れしままの火桶に招じけり

 

寒卵溜るばかりに貰ひけり(微恙)

橋本多佳子句集「紅絲」 凍蝶抄 Ⅲ 雪はげし抱かれて息のつまりしこと / 雪はげし夫(つま)の手のほか知らず死す

 

雪はげし抱かれて息のつまりしこと

 

[やぶちゃん注:多佳子の代表句の一つ。しかし、不倫好みの昨今の風潮の中で、かの多佳子を誤解する向きはもっと多佳子の句を読まねばならぬ。最低でも次の句と並置されていることに気付かねばならぬし、多佳子にしてみれば、この句は独り歩きをさせずに「雪はげし」二句としてペアで読まれなければならないと感じていたはずである。この抱かれた相手は亡き夫豊次郎であり、それ以外には、ない、からである。普通ならば崖淵の危うさを持つ妖しい句が不思議に猥雑に堕すことがないというのも、これ、多佳子マジックなのである。句集上限の昭和二二(一九四七)年当時、多佳子四十八歳。

 

雪はげし夫(つま)の手のほか知らず死す

 

[やぶちゃん注:「夫(つま)」は万葉以来、広義に夫婦や恋人が互いに相手を呼ぶ称でもある。従って事実に即せばこれは「知らず死す」という下五から亡き「夫」豊次郎のことを指した追懐句と読める句ではある。ところが、「夫」という文字と並置される前句の主観性によって導き出されるのはやはり、「つま」である多佳子を主体とした詠である。さすれば――「夫の手のほか知らず死す」ことを既にして決しているところの、凄絶な美しさを持った貞節なる未亡人が、激しく吹雪く雪を凝っと見つめている――という景が自ずと見えてくることになる。少なくとも私はそのようなものとしてこの組み句を読んできたということを申し添えておく。]

橋本多佳子句集「紅絲」 凍蝶抄 Ⅱ

 

箸とるときはたとひとりや雪ふり来る

 

鴉過ぎ怺へこらへし雪ふり来る

 

[やぶちゃん注:「怺へ」は「こらへ」と読む。]

 

雪墜(づ)る音髮を洗ひて眼つむれば

杉田久女句集 219 病後小景

 

山茶花や病みつゝ思ふ金のこと

 

泣きしあとの心すがすがし菊畠

 

母留守の菊にそと下りし病後かな

 

個性(さが)まげて生くる道わかずホ句の秋

 

妬心ほのと知れどなつかし白芙蓉

 

螺線(ねじ)まいて崖落つ時の一葉疾し

 

雞頭大きく倒れ浸りぬ潦

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら。前に注したように「雞頭」は「けいと」と読んでいよう。「潦」は「にはたづみ(にわたずみ)」と読み、雨が降って地上に溜まっては流れる水をいう。]

 

櫛卷にかもじ乾ける菊の垣

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら。「櫛卷」は「くしまき」で女性の髪の結い方の一つ。紐で結んだりせず、束髪を櫛に巻きつけて頭頂部に留めるだけの簡単な髪型。「かもじ」は「髢」「髪文字」。頭の「か」は「かみ(髪)」「かずら(髢)」などの頭音で、「もじ」は文字言葉(ある馴染みの単語の後半部を省いてその語の頭音又は前半部分を表わす仮名の下に付いて品よく言い表したり、婉曲に言い表わしたりする一種の女房詞)。狭義には、婦人が髪を結う際に豊かにするために添える毛、添え髪・入れ髪をいうが、広義には「おかもじ」で髪全般を指す女房詞でもある。ここでの久女は病み上がりであるから、髪全体という意の後者であろう。]

 

夫へ戻す子等の衣縫ふ冬夜かな

杉田久女句集 218 退院

  退院

 

菊に掃きゐし庭師午砲に立去れり

杉田久女句集 217 始めて歩む日

  始めて歩む日

 

病癒えて菊にある日を尊めり

 

菊もわれも生きえて尊と日の惠み

最後の歎願をもつて   山之口貘

 最後の歎願をもつて

 

其處に通りかゝつてゐる女(ひと)よ 私(わ

 し)は私(わし)の前を知らん振りの氣まづ

 い態(なり)で通り過ぎようとするお前を知

 つてゐる

水は私(わし)の跫下でせゝら笑ひ 星辰(ほ

 しくづ)はあをい光を撤らし

 あゝ暗い廢頽の魔術を私(わし)にかけてゐ

 る。しかも人々はみんな私に醜聲をぶつかけ

 て消え去つた。

だのにお前は何故過去の想出の一言(ひとこと)

 でさへ私(わし)の口から出るのを拒まうと

 するのだ?

否え 否え 私(わし)は決して聲をかけない

 つもりでゐる

 世間の拙い連想から 私(わし)の聲をお前

 は迷惑だと思つてゐはせぬか

 そうしてお前は 乞喰になつた私(わし)の

 眼球(めのたま)をお前のあかい舌をもつて

 侮蔑(はづか)しめはしまいか

 

靜寂は市街の涯から涯へのたうち狂ひ

 羞恥(はぢらひ)はお前の耳の側を過ぎ去

 り お前の溜息を奪つて私を苦しめてゐる

けつど其處に通りかゝつてゐる女(ひと)

 よ あゝ私は決して聲でもつて物語らうと

 は思はない。

お前の踵の一瞬(わづか)の躊躇(ためらひ)

 を私(わし)に報告(しら)しめてくれ 

 お前の視線の端を私(わし)におくつてく

 れ

あゝ私(わし)は私(わし)の最後の嘆願の

 口を押し開いてお前に乞はねばならないの

 に

何故知らん振りの氣まづい態(なり)で私

 (わし)の前を通り過ぎようとするの

 だ? 私(わし)の戀人よ!

 

[やぶちゃん注:大正七(一九一八)年~大正一〇(一九二一)年の間(バクさん十五歳から十八歳)に創作された作品。思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と校合したが、以下に示すように一部、新全集ではなく、旧全集の表記に従った部分がある。一部に特異な改行部があるため、ブログ幅に対応させて以上のような仕儀をとった。問題の箇所は「あゝ暗い廢頽の魔術を私(わし)にかけてゐる。しかも人々はみんな私に醜聲をぶつかけて消え去つた。」及び「世間の拙い連想から 私(わし)の聲をお前は迷惑だと思つてゐはせぬか」と「そうしてお前は 乞喰になつた私(わし)の眼球をお前のあかい舌をもつて侮蔑(はづか)しめはしまいか」の三箇所で、これらは前からの続きではなくて、一字下げになっているからである。しかも、それが更に改行される場合(最初の「あゝ暗い廢頽の……」の一箇所)には今までの改行法(前行より一字下げ)と異なり、下げずに前行と同じ高さで改行されてあるからである。

「歎願」題名ではこれで、詩の終わりから三行目では「嘆願」となっているのは、新全集に従った。ここは新全集が解題でわざわざ断っている箇所で、旧全集がかく変えてしまった事実が明らかとなったからである。

「跫下で」「跫下で」の読みは不明。音ならば「キヨウカ(キョウカ)」であるが一般的な熟語とは思われない。「跫(あしおと)の下。足音の元。」という謂いで、意味は通ずるように私は感ずる。新全集ではこれを「足下」とするが、採らない。私は原稿を見ていないが、旧全集がわざわざかく表記しているということは原稿がそうなっている可能性を示唆するものだからである。「跫」と「足」は正字・新字の関係にはないからで、これは新全集の方針にも反することである。但し、確かにそう改変する「そつか(そっか)」で読みは自然とはなるという思いはする。新全集編集者はこれを誤字と採ったものらしい。しかし、やはり私は従えない。「跫下」では読みは不詳なものの、意味が分からなくなるとは言えないからである。

「思つてゐはせぬか」の感嘆符の斜体化は新全集に拠った。最後の感嘆符は表記通り、普通である。

「乞喰」これも新全集は「乞食」とするが、採らない。「喰」は国字であり、「食」とは正字・新字の関係にないからである。これは新全集の方針にも反することである。新全集編集者はこれを誤字と採ったのであろう。しかし、やはり私は従えない。「乞喰」でも、おや? と思いながらも、「こじき」と読み過ごすことが出来、意味が分からなくなるとは言えないからである。

 底本の連続する次行送りの一字下げを無視して表記すると、

 

 最後の歎願をもつて

 

其處に通りかゝつてゐる女よ 私は私の前を知らん振りの氣まづい態で通り過ぎようとするお前を知つてゐる

水は私の跫下でせゝら笑ひ 星辰はあをい光を撤らし

 あゝ暗い廢頽の魔術を私にかけてゐる。しかも人々はみんな私に醜聲をぶつかけて消え去つた。

だのにお前は何故過去の想出の一言でさへ私の口から出るのを拒まうとするのだ?

否え 否え 私は決して聲をかけないつもりでゐる

 世間の拙い連想から 私の聲をお前は迷惑だと思つてゐはせぬか

 そうしてお前は 乞喰になつた私の眼球をお前のあかい舌をもつて侮蔑しめはしまいか

 

靜寂は市街の涯から涯へのたうち狂ひ羞恥はお前の耳の側を過ぎ去り お前の溜息を奪つて私を苦しめてゐる

けつど其處に通りかゝつてゐる女よ あゝ私は決して聲でもつて物語らうとは思はない。

お前の踵の一瞬の躊躇を私に報告しめてくれ お前の視線の端を私におくつてくれ

あゝ私は私の最後の嘆願の口を押し開いてお前に乞はねばならないのに

何故知らん振りの氣まづい態で私の前を通り過ぎようとするのだ? 私の戀人よ!

 

のようになる(ルビを除去して示した)。【二〇一四年五月二十四日追記】以上は、二〇一四年五月二十四日に行った新全集との校合によって、一部の表記の特異性が判明したため、全面的に改稿した。

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅6 黒羽秋鴉亭 山も庭にうごきいるゝるや夏ざしき   芭蕉

本日二〇一四年五月二十二日(陰暦では二〇一四年四月二十四日)

   元禄二年四月  四日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年五月二十二日

である。

 

  秋鴉(しうあ)主人の佳景に對す

山も庭にうごきいるゝるや夏ざしき

 

  秋鴉主人の佳景に對す

山も庭もうごき入(いる)るや夏坐敷

 

[やぶちゃん注:第一句は曾良の「俳諧書留」。第二句は「雪まろげ」(正しくは「雪滿呂氣」・曾良編・周徳校訂・天明三(一七八三)年刊・河合曾良(慶安二(一六四九)年~宝永七(一七一〇)年)没後六十七年後の刊行)のものであるが、今栄蔵氏は新潮古典集成の注で「庭も」は誤記と推定されている。「曾良随行日記」によれば、これは四月四日の句である(以下、注参照)。

「秋鴉主人」黒羽大関藩館代浄法寺図書桃雪高勝の別号。芭蕉はこの四日に余瀬の彼高勝の実弟の鹿子畑翠桃忠治の屋敷から彼の屋敷に招かれ、十一日まで滞在し、十五日にも訪れ、翌十六日に余瀬へ戻って、現在の栃木県那須郡那須町大字高久へと出立した。この句は、恐らくは最初に高勝邸を訪れた今日の挨拶句である。この秋鴉亭について曾良は「俳諧書留」に、

 

淨法寺圖書何がしは那須の郡黑羽のみたちをものし預り侍りて、其私の住ける方もつきづきしういやしからず。地は山の頂にさゝへて、亭は東南にむかひて立り。奇峯亂山かたちをあらそひ、一髮寸碧繪にかきたるやうになん。水の音鳥の聲、松杉のみどりもこまやかに、美景たくみを盡す。造化の功のおほひなる事、またたのしからずや。

 

と記している(引用は山本健吉「芭蕉全発句」に載るものを参考に、一部原本誤字と思われる箇所を補正、正字化して示した)。今氏によれば、この句の「山」はこの秋鴉亭の庭の借景としての遠景にある山を指し、「伊勢物語」七十七段『「山もさらに堂の前に動き出でたるやう」という面白い表現をふまえて趣向した』ものとされる。

 今氏は第二句を誤字とされるが、寧ろ、私は第二句目のダイナミズムの方が吹っ切れて面白い。自動詞・他動詞の五月蠅い国語学的指摘は不要で、ここはまさに――借景の翠なす山々も風雅清涼なる庭も渾然一体となって座敷の中の壺中天となる――と私は読みたい。本句は「奥の細道」には出ない。「黒羽」の段を以下に示す。光明寺の「夏山に足駄をおかむ首途哉」の句は実は時系列では後の句で、そこで再度示して注するので、ここでは本文のみを示して、注はしない。

   *

黑羽の舘代浄坊寺何某の方ニ音信ル

おもひかけぬあるしのよろこひ日夜語

つゝけて其弟桃翠なと云か朝夕勤

とふらひ自の家にも伴ひて親属の

方にもまねかれ日をふるまゝに

ひとひ郊外に逍遙して犬追ものゝ跡

を一見し那すの篠原をわけて玉藻の

前の古墳をとふそれより八幡宮に詣

与市宗高扇の的を射し時別ては我

国氏神正八まんとちかひしも此神社

にて侍ときけは感應殊しきりに覚らる

暮れは桃翠宅に歸る

修驗光明寺と云有そこにまねかれて

行者堂を拜す

  夏山に足駄をおかむ首途哉

   *

■異同

(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)

〇与市宗高扇の的を射し時  → ●與市扇の的を射し時

 

■やぶちゃんの呟き

「犬追物の跡」:後掲される殺生石所縁の妖狐九尾狐の化身である玉藻の前を捕らえるため、犬を騎射する「犬追物(いぬおふもの)」の弓術技を練習した跡とも、狐は犬に似ていることからこの九尾狐退治自体を犬追物と称したとも伝える。

「那須の篠原」これは那須野一円の通称であるが、ここでは現在の大田原市の篠原地区にある玉藻の前の神霊を祭った玉藻稲荷神社がある。歌枕としても知られ、源実朝の、

 もののふの矢並つくろふ小手の上に霰たばしる那須の篠原

辺りの和歌がイメージされていたのかも知れない。

「古墳」は先の妖狐玉藻の前の狐塚で、同稲荷神社の一キロメートルほど北東にあったが、現在は原形を留めておらず、塚跡の標柱のみが残っている。

「八幡宮」大田原市南金丸にある応神天皇を祀る那須総社金丸八幡宮那須神社(略して那須神社と呼称している)。但し、「平家物語」で、この地の出身とされる那須与一宗隆が屋島合戦で義経に命ぜられて扇の的を射る際に祈願したとされるのは、ここではなく、那須湯本にある温泉大明神(ゆぜんだいみょうじん)であるともされる。

 なお、こことこの後の「雲巖寺」の段は実際の訪問の順列をかなり入れ替えて圧縮してある。頴原・尾形両氏は角川文庫版評釈で、この部分の創作的再構成について以下のように高く評価されている。

   《引用開始》

 この半月近い滞在記事の整理ぶりは、まことにあざやかで、四日の雲巌寺訪問の一条を翠桃兄弟を中心とする記事から切り離すとともに、犬追物の跡・玉藻の前の古墳などを巡覧した十二日の篠原逍遙と、十三日の金丸八幡参拝とを、一日の記事にまとめあげ、九日の光明寺参詣をその後へ回してある。桃雪・翠桃かたの往返は、その前にまとめて掲出しているが、主語が次々と転換するテンポの早い叙述が、交歓のよろこびを伝えて効果的だ。

 光明寺参詣を最後に回したのは、「夏山に」の句を配する関係からで、ここを陸奥への第二の出発点として旅に勇む芭蕉の心おどりが、軽快に響いてくる。

   《引用終了》

 旧蹟も玉藻の前と弓術の那須与一という連関をスラーのように続けて美しい。事実、「奥の細道」を読む者は、まさか奥羽へのトバ口でしかない、しかも句も示されていないこの黒羽で」半月にもなんなんとする滞留を続けていたとは実は思わない(但し、「日夜語り續けて」「桃翠など云ふが朝夕(てうせき)勤めとぶらひ」「自らの家にも伴ひて親屬の方にも招かれ」「日を經るまゝに」という畳みかけにそれは匂わされてあり、しかもそれが何か、芭蕉のからすれば実は有難迷惑だったという陰のニュアンスさえも私には感じられるのは深読みであろうか)。]

2014/05/21

戀人よ私に解いて下さいませ   山之口貘

 戀人よ私に解いて下さいませ

 

闇の眞面目な惡戲に、私(わし)は私(わし)

 の快感から大切なものを無駄に費しました。

 あゝ私(わし)は私(わし)の肉體にめぐり

 あふ春の空氣に

だけれど春の草原よ戀人よまぼろしよ 立ち去

 れと被仰らずにどうぞ私(わし)の膝がそな

 たの膝に触れるように坐らせて下さい

戀人よあの廓の中では 年中春を裝ふた淫亂の

 魔物が腐れかゝり 神經が麻痺し

 否え私(わし)は決して彼等にたはむれない

 つもりでゐる。

 

あゝ人間と人間とに春がやつて來て私の鼻孔は

 膨らみ唇がむくむくうごいてゐます……

戀人よお許し――どうぞ私(わし)の肉體にめ

 ぐりあふてゐる春を知らん振りで見逃さずに、

 耐え切れない接吻の奥深くへ私(わし)をや

 つて下さいませ

私(わし)は櫻の花辨(はなびら)の無駄な想

 像に飽いてしまひました

ねえ どうぞ戀人よ第一の新しいこゝろみを人

 間と人間との春の接吻の奥深くで私(わし)

 に解いて下さいませ。

 

[やぶちゃん注:大正七(一九一八)年~大正一〇(一九二一)年の間(バクさん十五歳から十八歳)に創作された作品。思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と校合した。一部に特異な改行部があるため、ブログ幅に対応させて以上のような仕儀をとった。問題の箇所は「否え私(わし)は決して彼等にたはむれないつもりでゐる。」で、これは前からの続きではなくて、一字下げになっている独立行からである。一応、全体はこれまでの改行法と同じく改行した部分を一字下げにしたが、この部分に限ってはバクさんはそうしない可能性が高いので(次の「最後の嘆願をもつて」がそうなっている)、ここでもそれに準じた(意味がよく分からない方のために屋上屋すれば、私が「つもりである」の更なる二字下げは行なっていないことを言っている)。底本の連続する次行送りの一字下げを無視して表記すると、

 

 戀人よ私に解いて下さいませ

 

闇の眞面目な惡戲に、私は私の快感から大切なものを無駄に費しました。 あゝ私は私の肉體にめぐりあふ春の空氣に

だけれど春の草原よ戀人よまぼろしよ 立ち去れと被仰らずにどうぞ私の膝がそなたの膝に触れるように坐らせて下さい

戀人よあの廓の中では 年中春を裝ふた淫亂の魔物が腐れかゝり 神經が麻痺し

 否え私は決して彼等にたはむれないつもりでゐる。

 

あゝ人間と人間とに春がやつて來て私の鼻孔は膨らみ唇がむくむくうごいてゐます……

戀人よお許し――どうぞ私の肉體にめぐりあふてゐる春を知らん振りで見逃さずに、

 耐え切れない接吻の奥深くへ私をやつて下さいませ

私は櫻の花弁の無駄な想像に飽いてしまひました

ねえ どうぞ戀人よ第一の新しいこゝろみを人間と人間との春の接吻の奥深くで私に解いて下さいませ。

 

のようになる(ルビを除去して示した)。【二〇一四年五月二十四日追記】以上は、二〇一四年五月二十四日に行った新全集との校合によって、一部の表記の特異性が判明したため、全面的に改稿した。

篠原鳳作初期作品(昭和五(一九三〇)年~昭和六(一九三一)年) ⅩⅥ



探梅や裏御門より許さるる

 

蜜柑山晝餉の煙上りけり

 

儲けなき鰯をうつて歩きけり

 

枯野道鰯車の續きけり

 

遊び女のながきいのりや東風の宮

 

[やぶちゃん注:「東風の宮」太宰府天満宮のことか。]

 

砂掘りて松露燒く火を育てけり

 

[やぶちゃん注:「松露」菌界ディカリア亜界担子菌門ハラタケ亜門ハラタケ綱ハラタケ亜綱イグチ目ヌメリイグチ亜目ショウロ科ショウロ Rhizopogon roseolu。参照したウィキの「ショウロ」によれば、『二針葉性のマツ属 (アカマツ・クロマツなど)の樹下で見出され、本州・四国・九州』に自生する。『子実体は歪んだ塊状をなし、ひげ根状の菌糸束が表面にまといつく。初めは白色であるが成熟に伴って次第に黄褐色を呈し、地上に掘り出したり傷つけたりすると淡紅色に変わる。外皮は剥げにくく、内部は薄い隔壁に囲まれた微細な空隙を生じてスポンジ状を呈し、幼時は純白色で弾力に富むが、成熟するに従って次第に黄褐色ないし黒褐色に変色するとともに弾力を失い、最後には粘液状に液化する』。『胞子は楕円形で薄壁・平滑、成熟時には暗褐色を呈し、しばしば』一~二『個の小さな油滴を含む。担子器はこん棒状をなし、無色かつ薄壁、先端には角状の小柄を欠き』、六~八『個の胞子を生じる』。『子実体の外皮層の菌糸は淡褐色で薄壁ないしいくぶん厚壁、通常はかすがい連結を欠いている。子実体内部の隔壁(Tramal Plate)の実質部の菌糸は無色・薄壁、時にかすがい連結を有することがある』。『単純な球塊状の子実体を形成することから、古くは腹菌類の一種として扱われてきたが、マツ属の樹木に限って外生菌根を形成することや、胞子の所見・子実体が含有する色素成分などが共通することに加え、分子系統学的解析の結果に基づき、現在ではヌメリイグチ属に類縁関係を持つとして、イグチ目のヌメリイグチ亜目に置かれている』。『安全かつ美味な食用菌の一つで、古くから珍重されたが、発見が容易でないため希少価値が高い。現代では、マツ林の管理不足による環境悪化に伴い、産出量が激減し、市場には出回ることは非常に少なくなっている。栽培の試みもあるが、まだ商業的成功には至っていない』。『未熟で内部がまだ純白色を保っているものを最上とし、これを俗にコメショウロ(米松露)と称する。薄い食塩水できれいに洗って砂粒などを除去した後、吸い物の実・塩焼き・茶碗蒸しの具などとして食用に供するのが一般的である。成熟とともに内部が黄褐色を帯びたものはムギショウロ(麦松露)と呼ばれ、食材としての評価はやや劣るとされる。さらに成熟が進んだものは弾力を失い、色調も黒褐色となり、一種の悪臭を発するために食用としては利用されない』とある。私の亡き母は鹿児島の大隅半島中央の岩川に育ったが、若い頃にはよく兄とともにこのショウロを採りに行ったと語っていた。私は哀しいかな、食べたことがない。]

 

住吉の垣のうちなる松露搔

 

[やぶちゃん注:「住吉」恐らくは現在の鹿児島県鹿児島市住吉町(ちょう)であろう。旧鹿児島城下下町住吉町で鹿児島市の中部に当たり、桜島の対岸の薩摩半島東の根元にある。]

橋本多佳子句集「紅絲」 凍蝶抄 Ⅰ 

句集「紅絲」

[やぶちゃん注:「こうし」と読む。昭和二六(一九五一)年六月一日交目黒書店刊。昭和二二(一九四七)年から同二十六年までの作品四百十三句を収録する。序文は山口誓子。誓子の序文は著作権存続中のため、省略する。なお、これ以降の句集は戦後の作であることから、新字体とする。]

 

 凍蝶抄

 

凍蝶に指ふるゝまでちかづきぬ

 

凍蝶も記憶の蝶も翅を欠き

 

凍蝶を容(い)れて十指をさしあはす

 

凍蝶のきりきりのぼる虛空かな

杉田久女句集 216 再び入院 大正9(1920)年10月

  吾妻病院へ再入院 十月

 

トランプや病院更けて石蕗の雨

 

子等を夢見て病院淋し石蕗の雨

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「石蕗」は「つわ」でキク亜綱キク目キク科キク亜科ツワブキ属 Farfugium japonicum を指す。和名は「艶葉蕗(つやばぶき)」、「艶のある葉の蕗」から転じたとされる。]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅5 黒羽 秣負ふ人を枝折の夏野哉 芭蕉 / 「奥の細道」黒羽の少女「かさね」について

本日二〇一四年五月二十一日(陰暦では二〇一四年四月二十三日)

   元禄二年四月  三日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年五月二十一日

である。「曾良随行日記」によればこの前日四月二日は裏見の滝を見た後、上鉢石町五左衛門方を出立、現在の栃木県日光市の(旧今市市)瀬尾(せのお)及び同市川室(かわむろ)から同市大渡(おおわたり)を経由して、現在の栃木県塩谷郡塩谷村内船入(ふにゅう。鬼怒川の渡し場。船生)へ着き、そこから同村内の玉入(たまにゅう)へ、雷雨の中を午後一時半着、宿が劣悪だったために無理を頼んで名主の家に泊している。この三日は朝から快晴、午前七時半に玉入を出立、鷹内・矢板・沢村(現在は孰れも栃木県矢板市内)から大田原市内を抜け、栃木県北東部の黒羽(旧黒羽町(くろばねまち)。現在、大田原市黒羽)へと辿り着いた。「曾良随行日記」によれば、とりあえずこの句は四月三日の句と推定出来る。

 

  陸奥(みちのく)にくだらむとして、下

  野國(しもつけのくに)まで旅立(だち)

  けるに、那須(なす)の黑羽(くろばね)

  と云(いふ)所に翠桃何某(すいたうな

  にがし)の住(すみ)けるを尋(たづね)

  て、深き野を分(わけ)入る程、道もま

  がふばかり草ふかければ

秣(まぐさ)負(お)ふ人を枝折(しをり)の夏野哉

 

  那須にて

馬草(まぐさ)苅(かる)人を枝折の夏野哉

 

[やぶちゃん注:第一句目は「陸奥鵆(むつちどり)」(桃隣編・元禄一〇(一六九七)年跋)で、句は「曾良書留」にもこの句形で載り、そこでは前書に、

  那須余瀨(よぜ)、翠桃を尋ねて

とする(「那須余瀨」は旧黒羽町の西方の地名)。第二句は「蕉翁句集」(『蕉翁文集第一冊「風一」』・土芳編・宝永五(一七〇八)~六年頃)の句形。後者が実景のように読め、これが初期形であるが如何にも絵葉書のように平面的で、効果的なパースペクティヴを見せる前者が遙かによい。しかし芭蕉は「奥の細道」ではこの自作を切り捨てて、以下に示す掬すべき掌編をものしたのであった。

「翠桃」江戸で旧知であった蕉門鹿子畑豊明(かのこばたけとよあきら)の俳号。彼の実兄は黒羽大関藩館代(留守居役)浄法寺(じょうぼうじ)図書(ずしょ)高勝で、彼も俳句をものして桃雪と号し、兄弟ともに芭蕉を手厚く接待し、芭蕉はここ黒羽で「奥の細道」の旅で最も長い、十三泊(十六出立)という異例の逗留をしている。本句はその挨拶句である。なお、当時二十八、兄は年子で二十九の若さであった。

「枝折」道標べ。目印。

 「陸奥鵆」所収のものは、この第一句を発句とするその折りに巻かれた七吟歌仙で(但しこれは後にかなりの推敲が施されたものらしく、そこからも第二句が初案であったと私は見る)、脇句は、

  靑き覆盆子(いちご)をこぼす椎の葉 翠桃

と主の翠桃が付けている。「覆盆子」は木苺。

 以下、「奥の細道」の今日の当該旅程箇所を示す。

   *

那すの黑はねと云處に知人あれは

これより野越にかゝりて直道を

ゆかむとす遙に一村を見かけて

行に雨降り日暮るゝ農夫の

家に一夜をかりて明れは又

野中を行そこに野飼の

馬あり草刈おのこになけきよれは

野夫といへ共さすかに情しらぬには

あらすいかゝすへきやされ共此野は東

西縱横にわかれてうゐうゐ敷旅人の

道ふみたかへむあやしう侍れは

この馬のとゝまる處にて馬を返し

給へとかし侍ぬちいさきものふたり馬の跡し

たひてはしるひとりは小娘にて

名をかさねと云聞なれぬ名のやさし

かりけれは        曽良

  かさねとは八重撫子の名成へし

頓て人里に至れはあたひを鞍つほに

結付て馬を返しぬ

   *

■異同

(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文。なお、「うゐうゐ」の後半は原本では踊り字「〱」)

〇東西縱横     → ●縱横

〇ひとりは小娘にて → ●ひとりは小姫にて

 

■やぶちゃんの呟き

 私は十六の時、古典の授業でこのシークエンスを習って以来、「奥の細道」中、同じ折りに読んだ「象潟」に次いで、忘れ難い印象的な章段である。

 角川文庫版の頴原・尾形両氏の評釈(この文庫のカバー画はまさにこのシーンである)によれば、本章段は(太字は底本では傍点「ヽ」)、

   《引用開始》

「草刈る男に嘆きよれば」云云の叙述の背後には、陸奥(みちのく)を舞台とした謡曲『錦木(にしきぎ)』の「けふの細道分け暮らして、錦塚はいづくぞ、かの岡に草刈るをのこ心して、人の通ひ路明らかに教へよや」の文言が二重写し的に焼きつけられていよう。その「草刈るをのこ」と、古雅の名を持った「小姫」、それに『蒙求』にも収められて著聞する「管仲随ㇾ馬」[やぶちゃん注:底本には片仮名送り仮名があり、読み下せば「管仲馬に随ふ」。](『韓非子』説林)の話を思わせる「野飼ひの馬」という、この世ならぬ道具立てによって織りなされた夢幻劇は、渺々(びょうびょう)たる那須野の旅の幻想的な風趣を伝えて余薀(ようん)がない。

   《引用終了》

とあり、新潮古典集成の「芭蕉文集」の富山奏氏の注には、「馬のとどまるところにて馬を返したまへ」の部分に「蒙求」のそれと並べて、「奥の細道」でやはりこの後の素材となる謡曲「遊行柳」の「老いたる馬にはあらねども、道しるべ申すなり」などを趣向とした旨の記載がある。安東次男氏は「古典を読む」版ではこの「撫子」は「大和撫子(河原撫子)」(ナデシコ目ナデシコ科ナデシコ属カワラナデシコ Dianthus superbus var. longicalycinus)であるが花は単弁で、八重咲のそれはセキチク(ナデシコ目ナデシコ科ナデシコ属セキチク Dianthus chinensis)の改良種(天然種ではない)であって(分類と学名は私が附したもの)、この曾良の句は『野の撫子に八重はないはずでだが、はて、「かさね」とはよほど慈んで育てているのか、と読んでよい。丹精すればいずれは八重に咲く、という余情もある。セキチクの改良種の実際を知っていないとこういう句は出てこない。大和撫子を女童の愛称に執成(とりな)した例は、『源氏物語』にも出てくる』とし、「帚木」「常夏」の帖の証左を掲げてさえある(なお、個人的にはこの安東の語釈は興味本位の解釈として知的には面白いのであろうが、私はやや生理的不快感を感じることを申し添えておく)。

 しかし乍ら、私にとってこうした典拠詮索は、この章段にいらない。

 芭蕉の「奥の細道」には虚構が多いとされる。それを私も嘗て教師時代に鬼の首を取ったように述べては、荻原井泉水はこれを、現実的事実と文学的真実は違うと言っている、などと分かったようなことを偉そうに語っていた。しかし、私は芭蕉はやはりリアリズムの人であったと今は思うのである。無論、その実体験での感懐をより効果的に示すために、事実や時制に改変は加えられていることは確かな事実であっても(厳密な意味での虚偽記載事実の認定)、一つの創作物である「奥の細道」の中の、印象的なシークエンスには必ず、芭蕉が実際に見聴きし体験した事実という裏打ちがあり、そこでの感懐の核心に於いては何らの虚偽はない、というのが私の今の「奥の細道」への思いなのである(それを「文学的真実」などと呼ぶ必要は実はない。客観的事実とは観察者・測定者によって全く異なるという「事実」は既に原子物理学者らによって認められている科学的「事実」だからである)。

 であるからして私は典拠なんどより何より、この芭蕉と少女「かさね」の出逢いが確かな事実であり、馬を追いながらついてくる彼女、そして「かさね」よりもっと小さな少年である弟の情景が、ありありと見えること、感じることこそが、本文を鑑賞する上で最も、否、唯一、大切なことなのだと信じて疑わないのである。

 これは研究者の間では比較的知られたことであるが、この「かさね」との邂逅は確かな事実であることが、芭蕉のこの「奥の細道」が終わった翌年の以下の文章によって証明されるのである。それは芭蕉が知人から、生まれた女児の名付け親を頼まれた際に(この事実そのものが我々の芭蕉のイメージからはやや意外である)、「重(かさね)」という名を授けたことを述べた文章である(引用は山本胥氏の「奥の細道事典」に載るものを参考に原本の脱字・衍字を補正し、正字化して示した)。

 

みちのく行脚の時、いづれの里にかあらむ、賤(しづ)がこむすめの六つばかりとおぼしきが、いとさゝやかに、えもいはずをかしかりけるを、名をいかにいふとゝへば、かさねとこたふ。いと興有る名なり。都の方にてはまれにもきゝ侍ざりしに、いかに傳て何をかさねといふにやあらん。我子あらば、此名を得させんと、道連れなる人にたはぶれ侍しを思ひ出でゝ、此たび思はざる緣(ゑにし)に引かれて名付親となり

 

     賀ㇾ重(かさねをがす)

 

   いく春をかさねがさねの花ごろも

     皺(しは)よるまでの老(おい)もみるべく

 

 山本胥氏はこの後に、この『「かさね」を、私は旅の恋と感じたが、フランスの詩人ボンヌフォアは、『奥の細道論』の中で、「詩の世界の妖精(ようせい)と考えている」と述べている。言葉こそ違うが、当を得た解釈である』と述べておられるが、私は今回、このボンヌフォアの評言に深く感動した。

 「かさね」はまさしく、私が求め続けている、私の中の永遠の少女であることを気づかせてくれたからである――]



義父の逝去のため、名古屋に6日間いたが、僕はそれ以前に、この6日間のこのシンクロニティ「奥の細道」を三日分、自動更新する設定にしていた。――今になって、
義父は妻だけでなく、僕にさえも迷惑をかけないようにと心遣いをして呉れていたのだったと思うのだ。――心から冥福を祈るものである――

2014/05/20

義父長谷川世喜男会葬御礼 妻より

Gihukaisouonnrei

文中の「一日」というのは、父が最も可愛がっている私の姪(妻の妹の娘)の結婚式の日で、実は式後に見舞いに行くという、式で珍しく昼間からしたたかに酒を飲んだ彼を、私が止めたからであった。

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅4 裏見の瀧 しばらくは瀧に籠るや夏の初め   芭蕉

本日二〇一四年五月 二十日(陰暦では二〇一四年四月二十二日)

   元禄二年四月  二日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年五月 二十日

である。日光の続き。東照宮参拝の翌朝の午前八時頃に上鉢石町五左衛門方を出でて裏見の滝へ向かった。

 

  うらみの瀧にて

しばらくは瀧に籠るや夏(げ)の始(はじめ)

 

  日光山に上り、うらみの瀧にて

郭公(ほととぎす)うらみの瀧のうらおもて

 

うら見せて涼しき瀧の心哉

 

[やぶちゃん注:第一句は「島之道集」(玄梅編・元禄一〇(一六九七)年序)の前書と表記。「奥の細道」では、

 

暫時は瀧に籠るや夏の初

 

という表記である。第二句目は「やどりの松」(助給(雲鼓)編・宝永二(一七〇五)年刊か)、第三句は「宗祇戻」(そうぎもどし・風光編宝暦三(一七五三)年刊)。

 「裏見の瀧」は栃木県日光市清滝丹勢町(たんぜまち)にある瀧。現在は瀧の上部にあった岩が崩落して裏から見ることが出来なくなっている。日光からは西へ約六キロほど離れた峻嶮の地であるが、二人はその日ここを往復し、早くも正午過ぎには鉢石を立っている。

 知られた第一句の「夏(げ)」は夏安居(げあんご)で、元来はインドの僧伽に於いて雨季の間は行脚托鉢を休んで専ら阿蘭若(あらんにゃ:寺。院)の内に籠って座禅修学することを言った。本邦では雨季の有無に拘わらず行われ、多くは四月十五日から七月十五日までの九十日を当てる。これを「一夏九旬」と称して各教団や大寺院では種々の安居行事がある。安居の開始は結夏(けつげ)といい,終了は解夏(げげ)というが、解夏の日は多くの供養が行われて僧侶は満腹するまで食べることが出来る。雨安居(うあんご)とも単に安居ともいう(平凡社「世界大百科事典」の記載をもとにした)。ここは瀧の裏手の岩窟に入って涼んだのを、夏安居の初めと洒落たものである。僧体の芭蕉曾良であればこそ奥羽行脚という夏安居(修行)の始まりにも擬え得るであろう。「奥の細道」では前に曾良の「剃捨て黑髪山に衣更」の句もあって如何にも相応しく響き合う。

 第二句の「うらおもて」について私は、山のあちこちで囀る不如帰の鳴き声が、入った瀧の裏にあっても聴こえ、それが微妙に木霊し合い、まさに瀧音と相俟って、何が「うら」であり、何が「おもて」であるのかという、虚実皮膜も反転するような不可思議にして爽快な思いを抱いたと、芭蕉はいいたいのだと読む。瀧の裏に回ったことがある人にはこれはすこぶる実感としてある。少なくともアイスランドの Seljalandsfossセリャラントスフォスで私はそれを実感したのである(リンク先は私の撮った同瀧の写真。前後に数枚ある)。

 第三句の「うら」は擬人化された瀧の「裏(うら)」「内(うら)」「心(うら)」である。なお、この後の須賀川で書かれた杉風宛書簡(四月二十六日附書簡)には曾良の書簡が添付されていてそこにこの句が載るが、そこでは、

 

   日光うら見の瀧

 ほとゝぎすへだつか瀧の裏表 翁

 うら見せて涼しき瀧の心哉 曽良

 

何と第二句目の異形句が載り、しかもこの「うら見せて」は芭蕉の句ではなく、曾良の句としてあるという(これは「おくのほそ道 総合データベース 俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡」の「おくのほそ道 六 日光山の章段」の注のデータを参照した)。

 以下、「奥の細道」の当該部。

   *

廿余丁山を登(ノホ)ツて瀧有岩洞

の頂より飛流して百尺千岩の

碧潭に落岩窟に身をひそ

め入て瀧の裏よりみれはうら

みの瀧と申伝え侍る也

  暫時は瀧にこもるや夏の初

   *

■異同

(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文で、一部に歴史的仮名遣で読みを附した。今回は自筆本に送り仮名を附した)

〇碧潭に落つ         → ●碧潭に落ちたり]

2014/05/19

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅3 日光 あらたうと靑葉若葉の日の光

本日二〇一四年五月 十九日(陰暦では二〇一四年四月二十一日)

   元禄二年四月  一日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年五月 十九日

である。「奥の細道」の旅ではこの日、日光へ辿りついた。

 

あらたうと靑葉若葉の日の光

 

あなたふと木(こ)の下闇(したやみ)も日の光

 

  日光山にて

たふとさや靑葉若葉の日のひかり

 

  日光山登臨之時

あらたふと若葉靑葉の日の光

 

  日光に詣(けいす)

あらたふと木の下闇も日の光

 

[やぶちゃん注:第一句目は「奥の細道」。仮名遣としては、正しくは、

 

あらたふと靑葉若葉の日の光

 

である。

 第二句目は「随行日記」中の「俳諧書留」の、第三句目は「初蟬」(風国編・元禄九(一六九六)年刊)の、第四句目は「鏽鏡」(さびかがみ・舎羅編・正徳三(一七一三)年刊)の、第五句目は「茂々代草」(ももよぐさ・其流等編・寛政九(一七九七)年刊)の句形で、この第五句は真蹟が伝存する。

 但し、第二句目の「随行日記」中の「俳諧書留」のそれは「室八島」と題して、

 糸遊(いとゆふ)に結(むすび)つきたる煙哉

 あなたふと木(こ)の下闇(したやみ)も日の光

 入かゝる糸ゆふの名殘かな

 [やぶちゃん注:「糸ゆふの名殘かな」を見せ消ちにして次句。]

 入かゝる日も程々に春のくれ

 鐘つかぬ里は何をか春の暮

 入逢(いりあひ)の鐘もきこえず春の暮

と載る。即ち、実は現在、日光山での名吟として知られる本「あらたうと靑葉若葉の日の光」という句の原形は日光ではなく、室の八島で創作されたものなのである。これについて安東次男は「古典を読む おくのほそ道」で、

   《引用開始》

 「あなたふと木の下闇も日の光」は、通説、日光参詣の句(「青葉若葉」)の初案だとされているが、室の八島で出来たと考えるしかあるまい。木花咲耶姫の弥生尽日(花じまい)なら木下闇だとしゃれている。安産の神様よりも糸遊の方に結びつきたがる風情の「煙」の句と合せて読むと、新しい社の前でいささか出鼻をくじかれた俳諧師の春の限が、なかなか面白く現れる。この祭神とこの日に限って「木下闇」という季語をとくべつに許したくなる句だろう。とはいうものの、これを室の八島の段にしるすほど、大胆には流石(さすが)なれなかったか。上・下句をそのまま、中七文字に出闇の工夫をほどこして、このあとの日光の段に移している。つれて「糸遊(煙)」の句は紀行から捨てられた。書留の残三句は室の八島ではないということもあったろうが、先に惜春に寄せた留別吟(「行春や」)がある以上、重出になる。

 結局、室の八島に筆を尽すことなど、どこから考えても無理があったようだ。「同行曾良が曰」の内容は「…謂也」までと読むべきだろうが、以下の記述も含めてこの段には芭蕉自身の興はまったくしるされていない。『ほそ道』中、異例のことである。

   《引用終了》

と述べている。私は先の「室の八島」の最後で、そ『の段自体、「奥の細道」の最初の訪問地であるにも拘わらず発句を示しておらず、まただからこそこの中途半端な博物学的俳文も、作中、極めて例外的に、著しく精彩を欠いているように私には見える』と批判したことに些か内心忸怩たるものを感じていたが、この安東の評を読んで少し安心した。

 初案の「木の下闇」では木蔭の闇にさえも神君家康公の恩沢が余すところなく射し入ってあるという寓意があからさまであったものが、決定稿ではその理窟が字背に後退し、鮮やかな緑にハレーションする陽射しという自然の美が美事に浮き出て来て、まことに美しく、しかも素直な神々しさへの感慨が心地よい(但し、あくまで「自然」に対してであって、「日光東照宮」という建物に対してではない。後述)。

 以下、「奥の細道」の「日光」の段を手前で宿した(虚構。後述)仏五左衛門の章から「裏見の瀧」の手前までを示しておく。

   *

卅日日光山の麓に泊るあるしの

云けるやう我名を佛五左衞門と云

萬正直を旨とする故に人かくは

申侍まゝ一夜の草の枕も打と

けて休み給へと云いかなる佛の

濁世塵土に示現してかゝる

桑門の乞食順礼こときの人を

たすけ給ふにやとあるぢのな

す事に心をとゝめて見るに唯

無智無分別にして正直偏固

のもの也剛毅木納の仁にちか

きたくひ痴愚の淸質尤尊

ふへし

卯月朔日御山に詣拜す往昔此

御山を二荒山と書しを空海

大師開記の時日光と改たまふ

千歳未來をさとり給ふにや今此

御光一天にかゝやきて恩澤八荒に

あふれ四民安堵の栖穩也猶

憚多くて筆を指置ぬ

 あなたふと靑葉若葉の日の光

黑髪山は霞かゝりて雪いまた

白し

  剃捨て黑髪山に衣更  曽良

同行曽良は河合氏にして惣五郎

と云芭蕉の下葉に軒をならへて予か

薪水の労をたすく此たひ松嶋

象泻の眺共にせむ事をよろ

こひ且は羈旅の難をいたはり旅

立暁髮を剃て墨染にさまをか

へて惣五を改て宗悟とす仍て

黑髮山の句有衣更の二字力有て

きこゆ

   *

■異同

(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文で、一部に歴史的仮名遣で読みを附した)

〇順礼            → ●巡礼

〇朴納            → ●朴訥

〇智愚            → ●氣稟(きひん)

〇あなたふと靑葉若葉の日の光 → ●あらたふと靑葉若葉の日の光

〇同行曾良          → ●曽良

〇と云            → ●といへり

〇いたはり          → ●いたはらんと

〇さまをかへて        → ●さまをかへ

 

■やぶちゃんの呟き

「卅日」は虚構。元禄二(一六八九)年三月は小の月で二十九日で終わりで、「卅日」はなかった。但し、これについては頴原・尾形の角川文庫の評釈に、『実際は二十九日であっても「卅日」の字を宛てた例は他にもある』とあり、この日附自体は大きなフィクションとは言えない。しかし問題は他にある。事実は彼らがこの「佛五左衞門」なる人物の宿に泊まったのは曾良の随行日記によって四月一日の夜で、しかも実はそれはその後に書かれている日光参拝と同日であり、芭蕉は時系列を恣意的に入れ替えているのである。

 私は若い時からずっと、この「佛五左衞門」の章が気になっていた。頴原・尾形(その他の諸家も)は角川文庫の評釈で、

   《引用開始》

 その前夜の記事の中で、「いかなる仏の濁世塵土に示現して」といっているのは、仏五左衛門の名に興じ、かれを前ジテの里人、自身を諸国一見のワキ僧に比した、夢幻能の擬態にもとづく〝俳諧〟にほかならない。

 「ただ無智無分別にして」云々(うんぬん)という文言の中にも、後ジテの仏の示現への期待が破れ、一介の愚直ないなか者を見いだした失望軽侮の微苦笑と、その世間智に汚れぬ一徹な正直さをたたえる愛情とが、表裏二様に複雑にからみあった形で含まれ、隠微な笑いをかもしている。

 仏の示現を期待した能のワキ僧の姿勢は、右の諧謔(かいぎゃく)のスタイルより謹直のスタイルへと筆づかいを改めた東照宮参詣の条にまで響いていって、「あらたふと」という神威賛仰(さんごう)の声調に結晶する。日光山は皇家鎮護・国土安寧を祈願して開かれた山で、東照権現は江戸時代人にとって、天照大神に次ぐ絶対神格だった。

   《引用終了》

と述べている。複式夢幻のパロディというのは、それはそれで面白い。恣意的に時系列を転倒させたのも、確かにそれを狙ったものに違いない。違いないが、それにしても、かの「神」君家康公を祀る日光の前に『佛五左衞門』『濁世塵土』『桑門の乞食巡礼』『唯だ無智無分別』『偏固』『朴訥』『痴愚』という強烈な表現の羅列はどうか? それ以上に私は素直に納得は出来ないことがあるのである。それはまさに、『猶ほ憚り多くて筆を指し置きぬ』と芭蕉が記すところに、である。もしも諸家が評するように「佛五左衞門」のエピソードが、その後の日光山の神威への夢幻能を洒落た対称的呼び水として機能しているのであるのならば、この、「これ以上は、とてものことに、神威、これ、畏れ多御座るによって筆を措く」なんどと如何にもな弁解を述べ添えた上に、かの名吟を、はたして芭蕉が配するであろうか? という素朴な疑問なのである。どうも私はこの『憚り多くて』という語が好きではないのである。芭蕉にして、ここにその語を使わざるを得ない、何か、内的なアンビバレントな感懐が潜んでいるように思われてならなかったのである。

 今回、このプロジェクトで、永年、積ん読(どく)で放置した数多の芭蕉関連書を、今更ながら斜め読みする機会を得たが、その中の一冊に、まさにこの私の積年の疑問を氷解させて呉れる(納得させて呉れる)ものを見出した。山本※(「亻」+「胥」。さとし)「奥の細道事典」(講談社一九九四年刊)の第二章「未知との出会い」の『「筆をさし置ぬ」の真意』一節であった。非常に長くなるが、私にとって眼から鱗の論なればお許し戴きたく思う。山本氏はまず、先に示した日附の問題を確信犯の虚構と検証した上で、

   《引用開始》

[やぶちゃん注:前略。]『奥の細道』をかなりあとでしたためたとはいえ、芭蕉の思い違いとはどうしても考えられない。さらに、ある種の感動をもって東照宮に接し、その晩五左衛門の家に泊まっているのに、五左衛門宅に泊まった翌日、東照宮に参拝した、と勘違いするはずはない。それにもかかわらず、虚構の三十日をつくり上げ、『奥の細道』全体の構想からすると、とくに必要とは思えない仏五左衛門の話にかなりの量の筆を残したということに意味がある。

 芭蕉が日光を訪ねたのは、紹介状をたずさえたことからしても、前もって日程に組み込んであったはずである。それにもかかわらず、日光についての記載は、空海(くうかい)大師(実は天平神護二年、勝道上人の開基)が名づけた地名の由来の後、「猶博多くて筆をさし置ぬ」と、直接の描写は一言ももらしていない。芭蕉は俳諧を業とする。目や心に映った事象を言葉に託し、他人に訴えるのが職業と解してよい。『奥の細道』をまとめたのも、自分の体験を通して得たものを、人々に知らせたかったからに他ならない。その芭蕉が、「筆をさし置ぬ」と書くのは、「自己否定」にもなりかねない。その危険をあえておかしてまでこう書き残したのは、それを通して、自分の日光に対する気持ちを、読者に読み取ってもらいたかったからに違いない。

「猶憚多くして」という表現は、対象物を悪(あ)しざまに言いたい気持ちを伏せるときに用いることが多い。「今此御光(みひかり)、天にかゝやき」と芭蕉がいう「御光」をおおかたの解説書は東照権現(とうしょうごんげん)の威光と説明している。私もこれまでそう信じていた。ところが再三読み返すうちに、すぐ前にあげている、「日光と改給(あらためたま)ふ」た空海ととるのがもっとも妥当である、と考えるようになった。この「御光」を東照権現とする根拠は、「卯月朔日(うづきついたち)、御山に詣拝す」と書きはじめた「御山」を、東照宮と解するからである。ところが芭蕉は、「むかし御山を二荒(ふたら)山と書いていたが、空海大師開基のときに日光と改めた」と述べている。だから芭蕉が詣拝した御山は、東照宮ではなく、「日光」そのものの自然だった、と読み取れる。

 日光東照宮は、日本人の感覚からすると、異例としかいいようがないほど華美にかざりたてた社である。こういう造作は、どう考えても芭蕉好みとは思えない。

 さらに、仏五左衛門について「気稟(きひん)の清質尤尊ぶべし」と述べた直後、日光の記載に移ったのが気にかかる。「気実の清質」とはうらはらの気持ちを東照宮に対していだいた、と言いたかったのである。そうすれば、わざわざ虚構の期日を付してまで記した仏五左衛門の話を、ここに取り上げた理由ものみ込める。「筆をさし置ぬ」と空白にした、真の東照宮像を読者に伝えるため、と考えてもおかしくない。俳詔は、短い言葉に万感をこめて表現するので、あいまいさが残るものである。」

 

    (ふ)

  あらたうと青葉若葉の日の光

 

 この句は室(むろ)ノ八嶋(やしま)で詠(よ)んだ「あらたふと木の下暗も日の光」を、『奥の細道』執筆のとき手直しした、ということは前に述べた。木の葉越しに、日の光が糸のように降りそそぐ室ノ八嶋は、この句にぴったりのところといえる。この句の「日の光」は、やはり太陽の光でなくてはいけない。自然の光と解釈したほうがわかりよい。木もれ陽(び)を詠んだ句を、わざわざここに持ってきた理由は、「猶憚多くて筆をさし置ぬ」の気持ちの延長線上にあるのではなかろうか。「日の光」を「東照権現」とするのは誤りで、自然をそこなう権力の象徴としか思えない東照宮の日光にも、仏五左衛門のような「日の光」もいる、というように解釈することもできる。いかさま芸術を照らし出す自然の光、と解釈してもよい。

 それにしても、日光描写の前後に、わざわざ仏(ほとけ)と墨染(すみぞめ)という仏教に関係ある人間像をはさんだのも、わけがありそうである。神の名を借りた虚構の偶像を、無智無分別(むちむふんべつ)かもしれないが、清質の人間像ではさみ打ちしたつもりかもしれない。

 もしそうだとすれば、芭蕉はしたたかな反権力主義者とも思えてくる。日光東照宮を通りいっぺんの造型物と見たのではなく、権力の象徴ととらえたのだろう。だから、配される側の代表として、仏五左衛門をすぐ前に演出した。すると、「唯無智無分別」という、ふつうなら悪(あ)しぎまにいう文字の重みがずっしりと響いてくる。さらに、「濁世塵土(ぢよくせじんど)」「正直偏固(へんこ)」「剛毅朴訥(がうきぼくとつ)」と、権力への対抗語が、これでもか、これでもかと言わんばかりに並んでいる。空海大師の「千歳未来をさとり給ふにや」というくだりも、こういう事態を見越しての言葉で、芭蕉自身の主観が少なからず含まれている。

 芭蕉が、故郷の上野(うえの)(三重県)を後に江戸へ出てきた当時、江戸幕府は町づくりの最中だった。芭蕉は水道工事などに従事しながら糊口(ここう)をしのいでいる。苦学しながら、どうにか俳諧を身のよすぎにできた人間だから、今様にいうと、れっきとした労働詩人である。

 よきにつけ、悪(あ)しきにつけ、徳川幕府が後世に残した唯一の遺産は、東照宮だといわれる。しかし私は、この杉並木をおいてないと考えている。芭蕉が辿(たど)ったころは、まだ樹齢三十~五十年くらいで、歴史の重みは感じられなかっただろうが、現在、樹齢約三百四十年の巨大な杉が三七キロメートルにわたり一万五〇〇〇本を数える。もし、芭蕉が現在これを見たとすれば、日光についての感興も異なったのではないか。東照宮をしのぐ建築物なら、他に数多いが、これだけの並木道は世界中どこをさがしてもないし、いくら近代文明を駆使しようが、今後つくることは不可能に近い。

 日光に着いた芭蕉は、まず、江戸から持参した江北山清水(こうほくざんせいすい)寺からの紹介状をもって、養源院を訪ねた。清水寺と深い関係にあった養源(ようげん)院は、水戸頼房(よりふさ)の養母の妹おろくの冥福(めいふく)を祈って建てられた寺院で、日光山の衆徒でもあった。寺そのものは現存しないが、東照宮社務所の裏手を登ったところに、その跡が見られる。

 芭蕉は、養源院の使僧とともに御別所を訪ね、東照宮拝観を願い出た。どうやら日光を訪ねたのは、東照宮拝観が目的で、そのためにわざわざ江戸からの紹介状も準備した。ところが先客があったため、かなりの時間待たされた末、ようやく東照宮を拝観したが、それについて芭蕉は口をとざして語らない。その夜は上鉢石(かみはついし)町の五左衛門方に泊まった。『曾良日記』には、その個所に「壱五弐四」と書き込んであるが、おそらく宿賃なのだろう。仏五左衛門は、誇張があるにしろ、芭蕉にとって感じのよい人物だったようだ。芭蕉は、快晴の翌日、さっさと裏見(うらみ)ノ滝を見物に出かけた。

 

 廿余丁(にじゆうよてふ)山を登つて滝有(あり)。岩洞(がんとう)の頂(いただき)より飛流して百尺(はくせき)、千岩の碧潭(へきたん)に落(おち)たり。岩窟(がんくつ)に身をひそめ入て、滝の裏よりみれば、うらみの滝と申伝(まうしつた)え侍(はべ)る也(なり)。

  暫時(しばらく)は滝(たき)に籠(こも)るや夏(げ)の初(はじめ)

 

 滝の多い日光のうちでも、裏見(うらみ)ノ滝は、華厳(けごん)、霧降(きりふり)とともに日光三名瀑(さんめいばく)と呼ばれてきた。流れをまたいで降り、そそぐ滝の裏手へ近づけるので、裏見ノ滝と名づけられた。明治三十五(一九〇二)年の大風で、滝の上部がくずれたが、芭蕉の訪れたころはいまよりかなり迫力のある滝だったはずである。芭蕉は、「暫時(しばらく)は滝に籠るや夏の初」と涼しげな句を残しているが、「碧潭(へきたん)」と書き留めた流れの青さが目にしみるようだった。

 芭蕉は、裏見ノ滝で日光の自然を代表させているが、『曾良日記』によると、そのあと含満ケ淵(がんまんがふち)を訪ねている。岩や岸を嚙(か)む急流である。「弘法(こうぽう)の投筆」と呼ばれる絶壁にきざまれた梵字(ぼんじ)は、ここを開いて寺を建てた晃海(こうかい)が、修学院山順の書した「憾満(かんまん)」の字をきざませたもので、コウカイがクウカイに転じたものと思われる。芭蕉よりいくらか前の時代の話で、芭蕉が日光を訪れたころ、この含満ケ淵は人のうわさに上るようになっていた。

 あたりには、晃海の弟子がきざんだ地蔵が列をつくるが、いくら数えても、そのたび

ごとに数が異なることから、化け地蔵とも呼ばれる。

   《引用終了》

――まさにこれである! 私は山本氏の主張に激しく賛同する。それ以外にはない。この見解のみが、永年の間、私の心に巣食っていたどうしようもないと思っていた曇りを鮮やかに払拭して呉れるものだからである! どうか、氏の著作をお読み戴きたい。実際に「奥の細道」を踏破された方にのみ見えてくる、とても素晴らしい作品である。]



本記事はシンクロの当日の予約公開を数件登録した際に、登録したと思いこんでいて、その直後に
義父の突然の逝去の混乱があって名古屋に旅立ち、それから10日後も経った今日(5月29日)になって脱漏していたことに気付いた。それでもこの記事は僕にとっての今回の「奥の細道」再読の最初の驚くべき発見でもあるため、シンクロさせないと標題にも反し、何より僕自身が癪なので公開日時は「5月19日00:00」とした。特に先般、楽しみに読んでいますとメールを下さった未知の方には心よりお詫び申し上げねばならない。向後ともよろしくお願い致します。【2014年5月29日記】

2014/05/18

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅2 室の八島 糸遊に結びつきたる煙哉   芭蕉

本日二〇一四年五月 十八日(陰暦では二〇一四年四月二十日)
   元禄二年三月二十九日
はグレゴリオ暦では
  一六八九年五月 十八日
である。「奥の細道」の旅ではこの日、室の屋島へ辿りついている。 

 

 室八島(むろのやしま)

糸遊(いとゆふ)に結(むすび)つきたる煙哉 

 

入(いり)かゝる糸ゆふの名殘かな 

 

入かゝる日も程々に春のくれ 

 

鐘つかぬ里は何をか春の暮 

 

入逢(いりあひ)の鐘もきこえず春の暮 

 

[やぶちゃん注:第一句目は曾良自筆の「随行日記」中の「俳諧書留」の句(なお、そこには三月二十九日という日附が附されてある。最終推敲形としての本句の成立が十一日後のことであったことを指すか。因みに三月二十九日には芭蕉は日光の手前の鹿沼に着いている)。第二句目は同じく「随行日記」中の「俳諧書留」の句で、この句を見せ消ちにして第三句目が改稿として示されてある。第四句及び第五句も同じく「随行日記」中の「俳諧書留」の句で、第五句には真蹟懐紙があり、そこには、

 田家にはるのくれをわぶ

という前書があるという。句の底本としている中村俊定校注の岩波文庫版「芭蕉俳句集」では第四句目の脚注に、前の「入かゝる」の句の別案かとしており、私もこれら第二句以降の四句総てを第一句目の初期稿と見、ここに並べた。但し、安東次男は「古典を読む おくのほそ道」ではこの第二句以降の四句を総て次の鹿沼までの途中吟と断じている。

 「室八島」は栃木県栃木市惣社町にある大神神社(おおみわじんじゃ)で、名の由来は境内にある池の八つの島を指すということになっているが、これはこじつけっぽい(後述)。

 「糸遊」は陽炎(かげろう)のこと。語源は未詳で歴史的仮名遣を「いとゆふ」とするのは平安時代以来の慣用であってその正当か否かは不明である。「糸遊」という漢字表記も、はもともとあった陽炎を意味する和語としての「いとゆふ」若しくは「いとゆう」に、「陽炎」の意の漢語である「遊糸(ゆうし)」という熟語を転倒させて当て字にした表記に過ぎない。晩秋の晴天の日、蜘蛛の子が糸を吐きながら空中を飛び、その糸が光に輝いてゆらゆらとゆれて見える現象が原義であって、漢詩に出る漢語の「遊糸」もそれを指すという、と「大辞泉」にはあるが、語の成立史を見る限りでは私は必ずしも肯んずることが出来ない。

 第一句や第二句の心象は、

……古人は多く歌枕として詠む際、水気の「煙」とともに「室の八島に立つ煙」と詠じたものだが、いまその実景に接してみると、その煙は、今まさに、暮れゆく春の野に燃える陽炎と縺れ合っては、天に立ち昇って、消え行かんとしているかのように見える……

というニュアンスであろう。この「煙」というのが分かり難いが、安東次男の「古典を読む おくのほそ道」の「室の八島に話す。同行曾良が曰」の注に、
   《引用開始》
下野(しもつけ)国の歌枕。栃木市惣社にある大神(おおみわ)神社。「いかでかは思ひありとも知らすべき室の八島の煙ならでは」(詞花集・恋、藤原実方)を初見として、勅撰集が二十二首。かなり通俗な名所である。社前の八島ノ池に立つ水雲を釜(やしま)の煙に豊て、コノハナサクヤビメ伝説に付会したものらしいが、芭蕉たちが尋ねたときの社殿は天和二年(七年前)の再建で(天正十二年に戦火で全焼している)、池の面影なども無かったようだ。
 曾良がこの旅に用意した手控(てびかえ)に、「煙カト室ノヤシマヲ見シホドニヤガテモ空ノカスミヌルカナ」「五月雨ニ室ノヤシマヲ見渡セバ煙ハ波ノ上ヨリゾタツ」の二首(共に千載集)を書抜き、脇に「名ノミ也ケリトモ、跡モナキトモ」と注記がある。「人を思ふおもひを何にたとへまし室の八島も名のみなりけり」(続後拾遺集)「跡もなき室の八島の夕けぶり靡くと見しや迷なるらむ」(新拾遺集)後からの書入でなければ、景勝には初からあまり期待を寄せていなかったか。
 それにしても旅の最初の歌枕で、俳譜師が句の一つもしるさず、予め知っていたか、もしくは行けば自(おの)ずと知れた程度の縁起ばなしを、わざわざ他人の口から語らせて責塞(せめふさぎ)とした書きぶりは気になる。とりあえず同行(どうぎょう)の人柄の一端を見せて楽みは後日にとっておく紹介の手には違ないが、句を詠む興がなかったわけではない。[やぶちゃん注:後略。]
   《引用終了》
として、この後の二句を示しているのが、十分条件を満たす注とは言える。それでも何故、室の八島と「煙」がペアになるかは、今一つ判然としない憾みがあるから、水垣久氏のサイト「やまとうた」の「歌枕紀行 室の八島」から引用しておく。「室の八島」というのは『歌枕の本などをみると、もともと下野国とは何の関係もなく、宮中大炊(おおい)寮(づかさ)の竃(かまど)のことを言ったらしい。「むろのやしまとは、竃をいふなり。かまをぬりこめたるを室といふ。(中略)釜をばやしまといふなり」(色葉和難集)。つまり、竃=塗り込めた釜、を宮中の隠語(?)で「室の八島」と謂い、これがいつしか下野の国の八島に付会された、ということである。そうして、この辺りを流れる清水から発する蒸気が「室の八島のけぶり」と見なされた。これを、恋に身を燃やす「けぶり」に喩えて、多くの歌が詠まれたのである』とある。しかし「清水から発する蒸気」なんて当たり前には想起出来ない。さればこの「煙」も、そしてまた芭蕉の句の陽炎と絡む「煙」も、想像上の「煙り」と採った方が無難である。また、以下に掲げた「奥の細道」の同段の記載もその淵源を匂わせてくれている。即ち、大神神社の主祭神は大物主命であるが、配祭神が木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)であり、彼女についてはウィキの「コノハナノサクヤビメ」によれば、『日向に降臨した天照大神の孫・ニニギノミコトと、笠沙の岬(宮崎県・鹿児島県内に伝説地)で出逢い求婚される。父のオオヤマツミはそれを喜んで、姉のイワナガヒメと共に差し出したが、ニニギノミコトは醜いイワナガヒメを送り返し、美しいコノハナノサクヤビメとだけ結婚した。オオヤマツミはこれを怒り「私が娘二人を一緒に差し上げたのはイワナガヒメを妻にすれば天津神の御子(ニニギノミコト)の命は岩のように永遠のものとなり、コノハナノサクヤビメを妻にすれば木の花が咲くように繁栄するだろうと誓約を立てたからである。コノハナノサクヤビメだけと結婚すれば、天津神の御子の命は木の花のようにはかなくなるだろう」と告げた。それでその子孫の天皇の寿命も神々ほどは長くないのである』とし、『コノハナノサクヤビメは一夜で身篭るが、ニニギは国津神の子ではないかと疑った。疑いを晴らすため、誓約をして産屋に入り、「天津神であるニニギの本当の子なら何があっても無事に産めるはず」と、産屋に火を放ってその中でホデリ(もしくはホアカリ)・ホスセリ・ホオリ(山幸彦、山稜は宮崎市村角町の高屋神社)の三柱の子を産』み、その『ホオリの孫が初代天皇の神武天皇である』とあること、またよく知られるように永遠に煙を登らせ続ける富士山の本宮浅間大社は彼女を主祭神としているから、まさに火煙(ひけむり)とは縁が深いからである。

 第三句・第四句の「春の暮」は入相の鐘の鳴るはずの日暮れである以上に行く春、暮春を意味し、しみじみとした入相の鐘、それを撞かぬ里、それが聴こえぬこの鄙にあって、一体、何を惜春のよすがとすればよいのか、というのであるが、やや陳腐で底が浅い印象は免れない。因みに山本健吉は、「芭蕉全句」で、この二句は「新古今和歌集」の能因法師の和歌、

 山里の春のゆふぐれ來てみれば入相の鐘に花ぞ散りける

を踏まえるという説があると紹介、『意識にはあったであろう』と述べている。

 にしても、第一句・第二句は古歌歌枕に付会させたものの、実景が今一つ見えてこず、句としてのドゥエンデも私には全く感じられない。安東氏や角川文庫版の頴原・尾形氏の評釈にある通り、日光への道程をわざわざ三里(約十一・八キロメートル)も遠回りして折角訪れた歌枕であったが、その実際の景観は残念ながら芭蕉が想像していたものとは大きく異なり、期待は美事に裏切られてしまったというのが真相であったように思われる。既にお分かりのことと思うが、芭蕉はこの句を「奥の細道」には採っていない。既に前の「行く春や」の句で惜春の情を詠じた芭蕉にしてみれば、句格も下がる季重ねは不要と判断したものではあろう。

 以下、「奥の細道」の「室の屋島」の段を見ておこう。 

   *

室の八嶋に詣ス曽良か曰此神は

木の花さくや姫の神と申て冨士一

躰也無戸(ウツ)室に入て燒たまふ

ちかひのみ中に火火出見のみこと

うまれ給ひしより室の八嶋と申又煙を

讀習し侍るもこの謂也將このしろと云魚を禁す

緣記の旨世に伝ふ事も侍し

   *

■異同
(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文で、一部に歴史的仮名遣で読みを附した)

〇曽良 → ●同行(どうぎやう)曾良

■やぶちゃんの呟き

「將このしろと云魚を禁す」「はた、このしろといふうをきんず」と読む。「將」は、また。「このしろ」は条鰭綱新鰭亜綱ニシン上目ニシン目ニシン亜目ニシン科ドロクイ亜科コノシロ Konosirus punctatus。寿司でお馴染みのコハダの成魚である。ここに示された本種の食の禁忌について、私は既に寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚」の「鰶(つなし)」(コノシロ Konosirus punctatus )の項で詳述注をものしているので参照されたい(ここに引用するにはあまりに膨大なので省略するが、この「室の八島」のことにも言及しているので是非ともお読み戴きたい)。また、安永七(一七七八)年に刊行された高橋蓑笠庵梨一の「奥の細道」注釈書である「奥細道菅菰抄(おくのほそみちすがごもしょう)」には以下のような「このしろ伝説」が記されてある(「おくのほそ道総合データベース 俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡」の「大神神社(室の八島)について」に引用されてあるものを参考に恣意的に正字化した)。

   *

むかし此處に住けるもの、いつくしき娘をもてりけり。國の守これを聞給ひて、此むすめを召に、娘いなみて行ず。父はゝも亦たゞひとりの子なりけるゆへに奉る事をねがはず。とかくするうちに、めしの使數重なり、國の守の怒つよきときこえければ、せむかたなくて、娘は死たりといつはり、鱸魚(ろぎよ)を多く棺に入て、これを燒きぬ。鱸魚を燒く香は、人を燒に似たるゆへなり。それよりして此うをゝ、このしろと名付侍るとぞ。歌に、あづま路のむろの八島にたつけぶりたが子のしろにつなじやくらん。此事十訓抄にか見え侍ると覺ゆ。このしろは、子の代にて、子のかはりと云事也。此魚上つかたにては、つなじと云。

   *

なお、文中の「鱸魚」は条鰭綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目スズキ科スズキ Lateolabrax japonicus で全く種が異なり、生物学的には誤った記述である。また、寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚」の「鰶(つなし)」でも述べたが、ここに出るのと同じような各地の伝説に於いてコノシロを焼くと人を焼く臭いがするとするが、全くの誤りである。これは秦の始皇帝の故事を起源とし、始皇帝が真夏の巡行先で死去するも、権力奪取を画策した宰相李斯(りし)と宦官趙高がそれを秘匿、龍馭の中で腐りゆく始皇帝の遺骸の死臭を誤魔化すために大量の魚を積んだ車を並走させたが、その際に一説にコノシロが用いられたとする、それに基づいた誤伝承である。コノシロ(子の代)と祀るコノハナノサクヤビメの伝説及び「コノ」の類音による共感呪術的禁忌のように私には思われる。

 この「奥の細道」の「室の八島」の段は句もなく、特に芭蕉の感懐も記されていないのであるが、ここはまさに「同行」と後から添える、本旅の道連れである門弟河合曾良を紹介し、その碩学ぶりを称揚するためのものであったのだと考えてよい(角川文庫版の頴原・尾形両氏の評釈にもそうある)。曽良は、慶安二(一六四九)年に信濃上諏訪生まれで、芭蕉より五歳年下で元禄二(一六八九)年当時は四十歳)二十の頃に伊勢長島に赴き、岩波庄右衛門のと名乗って藩主松平良尚に仕え、その後、伊勢長島藩を出て江戸移り、神主となるため、後に幕府神道方となる吉川惟足(きっかわこれたる)に就いて学び、広汎な国学の知識や各地方の地誌を身につけていたのであった。

 ともかくもこの「室の八島」の段自体、「奥の細道」の最初の訪問地であるにも拘わらず発句を示しておらず、まただからこそこの中途半端な博物学的俳文も、作中、極めて例外的に、著しく精彩を欠いているように私には見えるということを最後に述べおく。]

2014/05/16

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅1 行くはるや鳥啼きうをの目は泪   芭蕉

本日二〇一四年五月 十六日(陰暦では二〇一四年四月十八日)

   元禄二年三月二十七日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年五月 十六日

である。三百二十五年前のこの日、芭蕉は「奥の細道」の旅に旅立ったのである。

 

  千じゆといふところにて舟をあがれば、

  前途三千里のおもひ、むねにふさがりて、

  幻のちまたに離別のなみだをそゝく

行(ゆく)はるや鳥啼(なき)うをの目は泪(なみだ)

 

行春や鳥啼魚の目は泪

 

行くはるや鳥は啼うをの目は泪

 

  常陸下向(ひたいちげかう)に江戸を

  出(いづ)る時、送りの人に

鮎の子の白魚送る別(わかれ)かな

 

[やぶちゃん注:第一句目は「鳥之道集」(玄梅編・元禄一〇(一六九七)年序)で「奥の細道」「泊船」と相同句形。第二句目は後掲する自筆本「奥の細道」の表記。第三句目は永機本「奥の細道」の句形である。

 第四句目は「俳諧 伊達衣」(等躬編・元禄十二年自序)に載る句で、この句は「続猿蓑」「泊船」では、

  留別

と前書し、また「赤冊子草稿」(土芳自筆・宝永五(一七〇八)、六年頃)には、

 此句松嶋旅立の比送りける人に云出侍れども、位あしく仕かえ侍ると、直に聞えし句也

と記す(位あしく仕かえ」は、品格が悪くて旅立ちの発句としては釣り合わず差し支えがある、といった謂いであろう)であり、現在、芭蕉は「旅立ち」の句として作句したこの発句を捨てて、「行はるや」の句に仕立て直したものと考えられている。即ち、知られた「行はるや」の推敲上の原型句と考えてよいものである。

 

 高校生になってすっかり漢詩に入れ込んでしまっていた私は、古文でいざ初めて「奥の細道」のこの句に出逢った際にも――これは陶淵明の「歸田園居」(田園の居に歸る)五首の「其一」の「羈鳥戀舊林 池魚思故淵」(羈鳥 舊林を戀ひ / 池魚 故淵を思ふ)や、杜甫の「春望」の頷聯「感時花濺涙 恨別鳥驚心」(時に感じては花にも涙を濺ぎ / 別れを恨んでは鳥にも心を驚かす)の、如何にも出来の悪いインスパイアじゃあないか――ぐらいにしか感じなかったことを思い出す。その頃の私には、どこか滑稽を確信犯とする俳味というものに対して強い反発感があって、それは素朴でしみじみとした感懐をことさらに歪曲したものに過ぎず、おぞましいインポテンツに陥った老醜の猟奇的変態性欲だといったトンデモない印象をさえ持っていたように思われるのである。既に中学二年生で自由律の尾崎放哉に傾倒して『層雲』にも入って、愚にもつかぬ呟きみたようなものを俳句などと思い込んで作っては一人悦に入っていたのだが、それ故にこそ芭蕉を、伝統定型俳句の淵源に厳然として屹立する権化元凶みたようなものとでも錯覚していたのかも知れない(なお、当時、私が典拠と感じたものは今栄蔵氏の「新潮日本古典集成 芭蕉句集」(昭和五七(一九八二)年の本句の注でも発想の典拠として全く同じ二種が掲げられてあって、それを後に知ってちょっと嬉しかった記憶がある)。今はどうかと問われれば、例によって鬼才安東次男が「同時代ライブラリー 古典を読む おくのほそ道」で解析したように、既に本文で「上野谷中の花の梢」に「花」を示した上は花鳥の取り合わせを避けて、しかも『魚が泣いたというところまで言葉が走』らせられれば、流石に事大主義的な今生の別れという『心の詰りが急にほぐ』されて小気味よい(これは私が既に芭蕉の享年を七つも越してしまった老いの心境にあればこそ留別のあからさまな交感の感懐を嫌うようになったということでもあろう)。特に安東の『「も」ではなく「は」と遣ったところに、句走りと留別の』しみじみと微妙に抑制したところの『留別の俳諧がある』と――今は素直に――感じている。また、安東が指摘するように、「春望」のこの頷聯が古くは「花」「鳥」を主語として読んでいた(これは高校時代の恩師蟹谷先生から授業で教わったのを覚えている。だからこそインスパイアと読めたのである)こと、謡曲「俊寛」にも、

   *

時を感じては。花も涙をそゝぎ。別を恨みては。鳥も心を動かせり。もとよりも此島は。鬼界が島と聞くなれ鬼界が島と聞くなれば。鬼ある処にて今生よりの冥途なり。たとひ如何なる鬼なりと此あはれなどか知らざらん。天地を動かし鬼神も感をなすなるも人のあはれなるものを。此島の鳥獸も鳴くは我をとふやらん。

   *

と『裁入れているから、芭蕉もそう呼んだかもしれぬ』とされるのも大いに腑に落ちるのであった。

 なお、私は「春望」が安禄山の乱をテーマとし、この「奥の細道」のコーダが「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」であることについて、ある一つの仮説を持っている。それは「奥の細道」が一方で白居易の「長恨歌」の構成に見立てられているのではあるまいかという漠然とした推理なのだが、未だ細部の検証に至っていない。それはそれ、孰れまた。……

 最後に初案・原形句である「鮎の子の白魚送る別(わかれ)かな」について述べておくと、今栄蔵氏は前掲書で、『「鮎の子」は旧暦三月ごろ海から産卵のために遡る若鮎。「白魚」はそれより早い二~三月ごろ産卵のために遡る白魚の成魚で、芭蕉自身の老いの姿をなぞらえた謙辞』と注しておられる。

 白魚=シラウオは条鰭綱新鰭亜綱原棘鰭上目キュウリウオ目シラウオ科 Salangidae に分類される魚の総称で、狭義にはその中の一種 Salangichthys microdon の和名。時にスズキ目ハゼ亜目ハゼ科ゴビオネルス亜科シロウオ Leucopsarion petersii と混同されるので注意が必要(シロウオは正しくは漢字表記で「素魚」と表記し、シラウオ「白魚」とは区別されるが素人は文字通り、素も白もいっしょくたにしてしまう)。孰れも死ぬと白く濁った体色になって見分けがつきにくくなるが、生体の場合はシロウオ Leucopsarion petersii の方には体にわずかに黒い色素細胞があり、幾分、薄い黄味がかかる。主に参照したウィキのシラウオ」の記載と、シロウオ漁で知られる和歌山県湯浅市公式サイトのこちらのページが分かり易い。その図を見ても判然とするように、シラウオの口は尖っていて、体型が楔形をしていて鋭角的な印象であるのに対し、シロウオやそれに比較して全体が丸味を帯びること、シラウオの浮き袋や内臓がシロウオの内臓ほどにははっきりとは見えないこと、また形態的な大きな違いとして、シラウオには背鰭の後ろに脂びれ(背鰭の後ろにある小さな丸い鰭。この存在によってシラウオガアユ・シシャモ・ワカサギ(総てキュウリウオ目 Osmeriformes)などと近縁であることが分かる)があることが挙げられる。

 ともかくも、如何にも拙劣な比喩表現で、実質上の覚悟の旅立ちの句としては芭蕉が言うように「位あしく仕かえ」たる句で、これはまさに芭蕉が「奥の細道」のためにはどうしても存在自体を捨てねばならなかった忌まわしい句という気さえしてくる。凡そ私も個人的には見たくも知りたくもなかった句ではある。こうしたものさえも掘り起こされてしまうことはまさに詩人の不幸とも言うべきものであろう。

 以下、「奥の細道」の「旅立ち」の段を見ておこう(取り消し線は抹消を示す)。

 

弥生も末の七日元祿二とせにや

明ほのゝ空朧々として月は有

あけにて光おさまれる物から富

士の峯かすかに見えて上野谷

中の花の梢又いつかはと心ほそし

むつましきかきりは宵よりつとひて

舟に乗て送る千しゆと云處

にて舟をあかれば前途三

千里のおもひ胸にふさかりて

幻のちまたに離別の涙をそゝく

  行春や鳥啼魚の目は泪

これを矢立の初として行道

なをすゝます人々は途中に立

ならひて後かけの見ゆるまてはと

見送なるへし

此のたひ奥羽長途の行脚たゝ

かりそめにおもひたちて呉天に

白髮の恨を重ぬといへとも

耳にふれていまた目に見ぬ境

若生て歸らはと定なき賴

の末を樂て其日漸早加と

云宿にたとりて瘦骨

の肩にかゝれる物先くるしむ

唯身すからにと拵出立侍るを帋子

一衣は夜ル臥爲と云ゆかた雨

具墨筆のたくひあるはさ

りかたき花むけなとしたるは

さすかに打捨かたく日々路頭の

煩となれるこそわりなけれ

   *

 

■異同

(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文で、一部に歴史的仮名遣で読みを附した)

〇弥生も末の七日元祿二とせにや→ ●弥生も末の七日

〇此のたひ          → ●ことし元祿二年(ふたとせ)にや

〇定なき賴の末を樂て     → ●定めなき賴みの末をかけ

〇早加と云宿にたとりて    → ●草加といふ宿にたどり着きにけり。

〇唯身すからにと拵出立侍るを → ●ただ身すがらにと出で立ち侍るを

〇帋子一衣は夜ル臥爲と云   → ●紙子一衣(いちえ)は夜(よる)の防ぎ、

〇さすかに打捨かたく     → ●さすがにうち捨てがたくて

〇日々路頭の         → ●路次(ろし)の

 

■やぶちゃんの呟き

 現在の研究では、この「舟に乗て送る」の部分までは実は曾良は同行していない(このことはよく知られていることとは思われない)。「おくのほそ道 総合データベース 俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡」の「出立日についての論議」によれば(同サイトは非常に優れたものであるがリンクした場合の告知要請をしているので一切リンクしない。以下、この注は略す)、理由は不明ながら、曽良だけが先に三月二十日に深川を立って千住に一週間逗留して芭蕉を待ち、芭蕉は本文通りに同二十七日に杉風の別邸採荼庵を出立、千住で曾良と合流し、そこで同日中に初めて連れ立って旅立ったのであった。……一週間は如何にも怪しい。これは何だ?……]

2014/05/15

義父逝去

暫らく……

シンクロニティ「奥の細道」の旅 旅立の予告

前の記事の「こゝろ」じゃないが――明日より芭蕉が詠んだ「その日」――元禄2年当時の西暦1689年の今年の同月同日――にシンクロさせて開始する。それが季を大切にした芭蕉の当季の実景を体感するに最も相応しい仕儀であるという僕の思いに基づくもので、しかも「奥の細道」では捨てた句も含めて鑑賞してゆく。かなりの大仕事なのだが、覚悟を以って旅立つつもりである。――乞うご期待――

朝日新聞の「こゝろ」(「心」)の復刻掲載について

今日は「先生の遺書」(十九)――Kの「變死」が「靜」から「私」に告げられる大事なシーン――

だが……
僕は少々失望しているのだ。……
何故か?――

今回の再連載は当時の連載と同じと名打っているが、実は土日には掲載していないために、既にしてタイム・ラグが生じているからである。例えば今日のそれは、大正3(1914)年5月8日分であって、既ににして致命的に、一週間もの差が生じてしまっているのである。――

僕が2010年にこのブログで同じように連載を試みた時のその最大の核心は、当時の人々が「心」をアップ・トゥ・デイトに、どのような季節や時間やの中で読んだか、それこそが大切だと心得ていた。――
僕はそれを最後まで守った。――

しかし乍ら――一つ、素晴らしいことは――ある。――

それはデジタル版で夏目漱石「こころ」連載当時の掲載紙面全部を読むことが出来る点である(リンク先は「朝日新聞デジタル」の会員登録をしないと見ることは出来ないので注意されたい。無料登録も可能で僕もそれである)。

そこではまさに、記事や広告によって当時当日の世俗が体感出来るからである。今日の同紙面には「米國で低能移民に課する試件驗 人種改良學の影響」という驚くべき記事がすぐ脇に載っているのだ。

是非、ご覧あれ。

杉田久女句集 215―2 飯島みさ子より萩の花を贈らる

 

  みさ子樣の御文あり、萩の花を戴く

 

まどろむやさゝやく如き萩紫苑

 

[やぶちゃん注:「みさ子」『ホトトギス』の大正女流俳人飯島みさ子(明治三二(一八九九)年~大正一二(一九二三)年)と思われる。当時、二十一歳。大阪生まれ。生後間もなく罹患したポリオによって歩行困難となったが、十六歳頃より俳句を長谷川零余子に学ぶ。『ホトトギス』で虚子に認められたが、チフスにより二十五歳で死去した。翌年、句集「擬宝珠」が刊行されている(代表作である「熱の目に紫うすきぎぼしゆかな」に因むものであろう)。やはり久女の評論「大正女流俳句の近代的特色」から久女が引いているみさ子の句を以下に示す(底本その他は同前)。

 

  花びらに深く虫沈め冬のばら    みさ子

  秋蝶や漆黑うすれ檜葉にとぶ    みさ子

  いたゞきにぼやけし實やな枯芙蓉  みさ子

  大輪のあと莟なし冬のばら     みさ子

  櫻餠ふくみえくぼや話しあく    みさ子

  元ゆいかたき冬夜の髮に寢たりけり みさ子

  病み心地の母とよりそひ林檎むく  みさ子

  手にうけて盆提灯をたゝみけり   みさ子

  簪のみさしかえて髮や夜櫻に    みさ子

  春晝や出船のへりのうす埃     みさ子

  大池のまどかなる端や菖蒲の芽   みさ子

  春雷や夜半灯りて父母の聲     みさ子

  雨ふれば雨なつかしみ菊に縫ふ   みさ子

  菊人形ときけど外出の心なく    みさ子

  母に似し眉うれしけれ冬鏡     みさ子

  炭ついでいつかしみじみと語りけり みさ子

  木の芽雨母おうて傘まゐらせぬ   みさ子
 

この評論を認めた時、みさ子は既に白玉楼中の姫となっていた。同俳論の「三 境遇個性をよめる句」では、後半の句を挟みながら久女は『二十幾歳で早世したみさ子氏は、其性白萩の如く優雅純眞。足の固疾に對してもすこしの不平もなく、大正女流中唯一の年少處女俳人』とし、『花のさかりの年頃を引籠りがちに、只俳句を生命として暮し、ひたすら父母をたよる乙女心から父母をよめる句頗る多く』、『一生を父母の慈愛に生き、すなおな落付をもて、女らしいしとやかな佳句をのこしている』と綴っている。先の金子せん女とともに久女にとっては生涯忘れ難い同朋であったことがしみじみと窺われるのである。]

杉田久女句集 215 長谷川かな女、金子せん女、久女を見舞う

 

  草合せの秋草の色々を、かな女せん女の御二方にてわざわざ病床へ御見舞下さる。

 

友禪菊のかげ灯に浮きし敷布かな

 

秋草に日日水かへて枕邊に

 

[やぶちゃん注:「かな女せん女」長谷川かな女と金子せん女(老婆心乍ら孰れも「女」(ぢよ/じょ)と読む)。かな女は当時三十三歳。金子せん女は現在忘れ去られているようだが、かな女の俳誌『水明』でかな女と双璧を成した女流俳人で、本名を金子徳(子)という。句集に「なつくさ」(昭和八(一九三三)年水明発行所刊)。当時の年齢は四十一歳であったと思われる。彼女は実は、大正期に三井・住友・三菱を凌ぐ勢いを持っていた神戸鈴木商店大番頭として丁稚奉公から身を起こした叩き上げの実業家にして「財界のナポレオン」の異名をとった金子直吉(彼自身は土佐出身)の妻であった(未見であるが、つい最近ドラマ化された「お家(いえ)さん」というのは鈴木商店の女主人鈴木よねとこの金子直吉を主人公としたものである)。杉田久女の評論「大正女流俳句の近代的特色」(昭和二(一九二七)年十月稿・昭和三(一九二八)年二月発行の『ホトトギス』所収)で久女が引いているせん女の句を以下に示す(底本の第二巻所収の者を底本としつつ、「虫」以外は正字化し、踊り字「〱」も正字で示した)。

 

 灯におぢて鳴かず廣葉の虫の髭    せん女

 白萩のこまこまこぼれつくしけり   せん女

 山駕にさししねむけや葛の花     せん女

 病んでさへおればひまなり菊の晴れ  せん女

 鈴虫や疾は疾我生きん        せん女

 極月や何やらゆめ見病みどほし    せん女

 病みながら松の内なるわが調度    せん女

 よき母でありたき願ひ夜半の冬    せん女

 極月や婢やさしく己が幸       せん女

 母が手わざの葛布をそめて着たりけり せん女

 わが編みて古手袋となりにけり    せん女

 

なお、「病んでさへ」以下の句は同俳論の「三 境遇個性をよめる句」に所収するもので、そこで久女は『須磨の山莊に久しい宿痾を養つてゐるせん女氏には病の句が澤山ある』(太字は底本では傍点「ヽ」)と記している点に注意したい。

なお、「鈴木商店記念館」の金子直吉事蹟によれば、彼も妻の影響を受けて俳句をやり、

 

 初夢や太閤秀吉那翁(ナポレオン)   白鼠

 天正の矢叫びを啼け時鳥(ホトトギス) 白鼠

 

の句があるとする。この俳号「白鼠」とは主家に献身的な家僕を意味するとリンク先にある。]

杉田久女句集 214 再入院

 

  神田阿久津病院へ入院

 

看護婦つれて秋日浴びに出し露臺かな

2014/05/14

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十二章 北方の島 蝦夷 1 函館到着

 第十二章 北方の島 蝦夷

 

 一八七八年七月十三日

 今晩私は、汽船で横浜を立ち、蝦夷へ向った。一行は、植物学者の矢田部教授、彼の助手と下僕、私の助手種田氏と下僕、それから佐々木氏とであった。大学が私に渡した費用からして、私は高嶺及びフェントン両氏から、ある程度の助力を受けることが出来た。海はことのほか静穏であって、航海は愉快なものである可きだったが、この汽船は、前航海、船一杯に魚と魚の肥料とを積んでいたので、その悪臭たるや、実にどうも堪えきれぬ程であった。船中何一つ悪臭のしみ込まぬものはなく、舳のとっぱしにいて、初て悪臭から逃れることが出来た。この臭気が軽い船暈(ふなよい)で余程強められたのだから、航海はたしかに有難からぬものになった。

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、これは大学の夏期休暇を利用したモースの専門たる腕足類の採取・研究とともに、東京大学動物学教室用の標本採取を主たる目的とするものであった。一行はここではモースを含めて七名のように書かれているが、実際には文中で「助力を受けることが出来た」とするモースの動物学教室の助教であった高嶺秀夫と予備門の英語教師でアマチュア昆虫採集家であったモンタギュー・アーサー・フェントン、さらに医学部製薬学教授ジョージ・マーチンも同船(微妙に同行とはしていない)していることが矢田部良吉の「北海道旅行日誌」によって判明している。従って実際の北海道行のメンバーはモース、植物学教授矢田部良吉、東大動物学研究室助手で大森貝塚発掘にも参加した種田織三、教育博物館動物掛であった波江元吉、教え子で愛弟子の佐々木忠二郎(実はモースは彼の同輩で前に記した最愛の弟子であった松浦佐用彦も連れて行くつもりであった。しかし哀しいかな、この八日前に彼は亡くなってしまったのである)、小石川植物園園丁を勤めていた内山富次郎(この人は本書では「トミ」「矢田部氏の園丁」「矢田部氏の「助手兼従者」などと記される人物出身地も生年も不詳であるが、磯野先生は『姓から考えて東京巣鴨の植木職人の出ではないか』と述べておられる)、これも前に出た動物学研究室雑用係職員(職名は雇)であった菊池松太郎(本書では「小使」「従者」「マツ」と出る)に加えて、高嶺秀夫、フェントン、ジョージ・マーチン、更に磯野先生の調査によれば、この時、フェントンにはやはりモースの教え子で本作の訳者石川欣一氏の父君石川千代松が同行していたとあるから、少なくともこの九重丸にあっては総勢十一名を数える集団であったということになる。

「今晩私は、汽船で横浜を立ち、蝦夷へ向った」磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」には矢田部良吉の「北海道旅行日誌」に基づく再構成日録が載り、向後はこれに基づいて注する(日記本文の引用では恣意的に正字化した。以下、これらの注記は略す)。そこには七月十三日午後『七時三菱汽船九重丸ニテ横濱出港』とある。]

M339

図―339

 

 土曜日の夕方、出帆した時には、晴天だった。日曜日も朝の中は晴れていたが、午後になると我々は濃霧に取りかこまれて了い、汽笛が短い間をおいて鳴った。月曜日には晴れ、我々は日本の北方の海岸をよく見ることが出来た。八マイルから十マイル離れた所を航行していながらも、地形の外面は、はっきりと識別することが出来た。このあたり非常な山国で、高い峰々が雲の中に頭をつき入れている。これ等の火山山脈――蝦夷から日本の南部に至る迄の山脈は、すべて火山性らしい――の、奔放且つ嵯峨(さが)たる輪郭の外形を、一つ一つ浮き上らせる雲の効果は素晴しかった。海岸に沿うた場所は、著しい台地であることを示していた。高さは海面から四、五百フィート、所々河によって切り込まれている(図339)。

[やぶちゃん注:「八マイルから十マイル」一二・九~一六・一キロメートル。

「四、五百フィート」一二二~一五二メートル。

「所々河によって切り込まれている」図から推測するに、これは東北太平洋岸のリアス式海岸ではなかろうか。]

 

 火曜日の朝四時頃、汽罐をとめる号鐘の音を、うれしく聞いた私は、丸窓から外面を見て、我々が函館に近いことを知った。町の直後にある、高い峰が聳えている。船外の空気は涼しくて気持がよい。我我は東京から六百マイルも北へ来ているので、気温も違うのである。領事ハリス氏の切なる希望によって、私は彼と朝飯を共にすることにし、投錨した汽船の周囲に集って来た小舟の中から、一艘を選んで出かけた。この小舟は、伐木業者の平底船に似ていて、岸へ向って漕ぎ出すと、恐ろしく揺れるのであった。三日間、殆ど何物も口にしていない後なので、この朝飯前の奇妙な無茶揺りは、どう考えても、いい気持とはいえなかった。然し太陽が登り、町の背後の山々を照らすと共に、私も追々元気になって行ったが、それでも港内の船を批評的に見た私は、どっちかというと、失望を感じたことをいわねばならぬ。何故ならば、ここに沢山集った大形の、不細工な和船の中で、曳網の目的に使用し得るようなものは、唯の一つも無かったからである。私がやろうとする仕事に興味を持ち出したハリス氏も、同様に途方に暮れたが、或は碇泊中の少数の外国船から、漕舟を一艘やとうことが、出来るかも知れないといった。

[やぶちゃん注:矢田部の七月十五日の日記には『昨日兩度イルカノ群ヲ見タリ』とありる。モース先生は強烈な魚臭さから、眼前の揺れる波間のイルカよりも、早く上陸したいという切望から遙かに離れたどっしりとした海岸線の景観を見やることで不快感を紛らしていたのかも知れない。

「火曜日の朝四時頃、汽罐をとめる号鐘の音を、うれしく聞いた」矢田部日記の十六日に、『朝五時函館港ニ着ス』とある。

「六百マイル」九六五・六キロメートル。東京―函館間は直線距離では六七四キロメートル弱であるが、東京からの直行海路を試算すると、凡そ一〇〇〇キロメートルになるので、これは恐らく海路上の概算計測したもの(若しくは船員の謂い)と私は思っている。

「領事ハリス」アメリカのメソジスト監督教会宣教師で当時は函館におり、また、アメリカ合衆国領事をも兼ねていたメリマン・コルバート・ハリス(Merriman Colbert Harris 一八四六年~ 一九二一年)のこと。自らアメリカ生まれの日本人であると称したほどに日本を愛し、明治期の日本人クリスチャンに大きな影響を与えた人物で、内村鑑三・新渡戸稲造らに洗礼を授け、松岡洋右を信仰に導いた宣教師としても知られる。オハイオ州出身で、南北戦争では北軍に従軍、戦後、アレガニー大学を卒業、結婚して、明治六(一八七三)年にはメソジスト教会宣教師として妻とともに来日、翌年には函館に赴いて、キリスト教を伝道する傍ら、アメリカ合衆国領事をも兼務した。明治一〇(一八七七)年四月にウィリアム・スミス・クラークがハリスに札幌農学校一期生の信仰的指導を仰いで以来、先に掲げた人物ら多くの後の文化人らに洗礼を授けている。明治一五(一八八二)年に夫人の病気治療のために日本を離れ、太平洋ハワイ方面の宣教師として働いた後、明治三七(一九〇四)年に日本及び朝鮮の宣教監督に推挙されて再び来日、そのまま永住、日本で亡くなった。墓は青山墓地にある(以上はウィキの「メリマン・ハリス」に拠った)。

「曳網の目的に使用し得るようなものは、唯の一つも無かったからである」モースは江の島に引き続き、シャミセンガイを始めとする北方系沿岸性底生生物の、本格的なドレッジによる調査を企図していたことがこれで分かる。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 秋名の山

    ●秋名の山

大楠山ともいふ、中西浦村大字秋谷の東北に聳え、仮面を抽(ぬ)く七百二十五尺、群内第一の高山なり、秋谷村より阪路(はんろ)二十町餘、山顚には大樹老木の類なく、之に登臨すれば、眼界豁然として開け、馳望千里、近國の名山悉く指點すべし、萬葉集に歌あり。

 あしかりの秋名の山にひこ舟の

        しりびかしもよこゝはこかたに

と即ち此地の風色(ふうしよく)を詠ぜしものなり。

[やぶちゃん注:横須賀市西部にある標高二四一・三メートルの山(本文の「七百二十五尺」はやや低く二一九・七メートル相当)。三浦丘陵の一角をなし、三浦半島最高峰。ウィキの「大楠山」によれば、『標高は高くないものの周囲に自身より高い山が無く、山頂からの眺望の良さで知られる。三浦半島全域から相模湾、東京湾や房総半島をはじめ、気象条件が良ければ富士山や伊豆半島、東京都心までを眺められる』とある。横須賀市経済部商業観光課公式サイト「ここはヨコスカ」に載る、秋名漁港から頂上までの約三・六キロメートルの「大楠山ハイキングコース(前田川ルート)」である(本文の「二十町餘」は二・二~二・八キロメートル相当でこれはやや短過ぎる)。

「馳望千里」「馳」は音「チ」で眼をはしらせればということであろうが、実はこの冒頭「逗子の部」の「逗子案内」の中の最後の部分の、この秋名の山の解説に既に「馳望(てうぼう)千里」と出る。このルビからは「眺望」の積りであるらしい。

「あしかりの……」これは「万葉集」巻第十四の「東歌」の「相模國の歌」三首の冒頭(三四三一番歌)、

足柄(あしがり)の安伎奈(あきな)の山に引(ひ)こ船の後引(しりひ)かしもよここば來(こ)がたに

である。上句が序詞となっている。

……足柄山のあきなの山、その山の中の巨木を削って造った船、それが出来上がって海へと引き下ろす……その後ろから引き支えながら下すように……後ろ髪が引かれるんだ、お前が恋しくて恋しくて……とてものことに、帰りがたいんだ……

であるが、「足柄」は明らかに現在の神奈川県足柄上・下両郡であろうと思われる(「安伎奈の山」はその山中のピークの名か、今に伝わらぬ)。]

盲目の子   山之口貘

 盲目の子

人樣の按摩をとる時に お前はお前の目蓋にい
 つも如何なことを考へてゐるの?
お前は知つてるかしら お前の指の觸覺(さは
 り)に 如何な感じのながれてくる時女の肉
 體なの? お前と無駄話をする時に如何な聲
 音ではなすのは美人なの?
 また絵はお前に如何な不思議な想像を描かし
 めてゐるの?
おゝ不運はお前の視覺を何處へえぐりとつて行
 つたのだ 馬鹿な愚かな不運は!

盲目の子よ お前はお前の靑い色をもつて私(わ
 し)達の言ふ赤い色と思つてゐはせぬか 不
 思議な惡魔のしわざに視覺を失くしたその眼
 球(たま)に。
おゝ盲目よ だが私(わし)は不思議でならな
 い――
お前はお前の盲目を如何な風にして眠るのか!
 暗い夜が地上に眠りを持つてくる時に、 私
 (わし)達の瞼(まぶた)はだるくなるの
 に おゝ私(わし)は全く不思議でならな
 い お前は如何な術をもつて眠ることが出來
 るのか!

[やぶちゃん注:大正七(一九一八)年~大正一〇(一九二一)年の間(バクさん十五歳から十八歳)に創作された作品。思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と校合した。太字「しわざ」は底本では傍点「ヽ」。「また絵はお前に如何な不思議な想像を描かしめてゐるの?」の頭が一字下げであるのもママ。ブログでの表示を意識して、わざと底本表記に準じて改行をしてみた。底本の連続する次行送りの一字下げを無視して表記すると、

 盲目の子

人樣の按摩をとる時に お前はお前の目蓋にいつも如何なことを考へてゐるの?
お前は知つてるかしら お前の指の觸覺に 如何な感じのながれてくる時女の肉體なの? お前と無駄話をする時に如何な聲音ではなすのは美人なの?
 また絵はお前に如何な不思議な想像を描かしめてゐるの?
おゝ不運はお前の視覺を何處へえぐりとつて行つたのだ 馬鹿な愚かな不運は!

盲目の子よ お前はお前の靑い色をもつて私達の言ふ赤い色と思つてゐはせぬか 不思議な惡魔のしわざに視覺を失くしたその眼球に。
おゝ盲目よ だが私は不思議でならない――
お前はお前の盲目を如何な風にして眠るのか! 暗い夜が地上に眠りを持つてくる時に、私達の瞼はだるくなるのに おゝ私は全く不思議でならない お前は如何な術をもつて眠ることが出來るのか!

のようになる(ルビを除去して示した)。【二〇一四年五月二十四日追記】以上は、二〇一四年五月二十四日に行った新全集との校合によって、一部の表記の特異性が判明したため、全面的に改稿した。

大和本草卷之十四 水蟲 介類 蚌

 

蚌 カラスガヒ。トブガイ并江州ノ方言ナリ琵琶湖ニアリ

長七八寸アリ他州ニモ池塘ニ處々ニアリ海ニハナシ食ス

ヘシ殻ハ蛤粉ノ如クヤキテカヘヲヌル

〇やぶちゃんの書き下し文

蚌〔(ばう)〕 からすがひ。どぶがい。并びに、江州の方言なり。琵琶湖にあり、長さ七、八寸あり。他州にも池塘に處々にあり。海にはなし。食すべし。殻は蛤粉〔(がふふん)〕のごとく、やきて、かべをぬる。

[やぶちゃん注:斧足綱古異歯亜綱イシガイ目イシガイ科イケチョウ亜科カラスガイ属カラスガイ Cristaria plicata 及び同属の琵琶湖固有種メンカラスガイCristaria plicata clessini (カラスガイに比して殻が薄く、殻幅が膨らむ)と、イシガイ科ドブガイ属 Sinanodonta に属する大型のヌマガイ Sinanodonta lauta(ドブガイA型)と、小型のタガイ Sinanodonta japonica(ドブガイB型)の二種。カラスガイとドブガイとは、その貝の蝶番(縫合部)で識別が出来る。カラスガイは左側の擬主歯がなく、右の後側歯はある(擬主歯及び後側歯は貝の縫合(蝶番)部分に見られる突起)が、ドブガイには左側の擬主歯も右の後側歯もない。私の電子テクスト寺島良安の和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部 の「蚌(どぶがい)」及び「馬刀(からすがい)」の項の注で詳細に分析しているので参照されたい。因みに、国立国会図書館蔵の底本と同本には同箇所の頭書部分に付箋があって、

蚌 仙臺ニテヌマカヒト云

とある。

「七、八寸」約二一・二~二四・三センチメートル。

「殻は蛤粉」胡粉(ごふん)。白色顔料。貝殻を焼成し、砕いて粉末にしたもの。成分は炭酸カルシウム。室町以降に用いられるようになった。ここに出るような壁の塗装以外に日本画の絵の具として用いられる。古くはこの字通り、ハマグリの殻を精製して造っていたが、現在はカキ殻を主原料とする。]

飯田蛇笏 靈芝 昭和十年(九十九句) Ⅰ

   昭和十年(九十九句)

 

柑園に雪ふる温泉の年始

 

[やぶちゃん注:「温泉」は「おゆ」か「ゆう」と読んでいるか。]

 

ふるさとの年新たなる墓所の雪

 

餠花に宿坊の爐のけむり絶ゆ

 

抱へたる大緋手鞠に醉ふごとし

 

饗宴にくちべに濃くてさむき春

 

窻掛に暮山のあかね春寒し

 

春寒や栂の枝苔おのづから

 

小野の蔦雲に上りて春めきぬ

 

岨※る禽に雪水ながれけり

 

[やぶちゃん注:「※」(上)「求」+(下)「食」。「※る」は「あさる」と読む。山の崖に採餌する鳥に雪解けの水が滴る景である。]

 

  御嶽昇仙峽

洞門に晝月もある遲日行

 

[やぶちゃん注:「遲日行」は「ちじつかう」と読んでいるか。「遲日」は日あしが延びて暮れるのが遅くなるところから、春日をいう語。]

杉田久女句集 213 退院

 

  退院 二十五日振り目白へ歸宅

 

退院の足袋の白さよ秋袷

 

髮捲いて疲れし腕秋袷

 

面瘦せて束ね卷く髮秋袷

 

病み瘦せて帶の重さよ秋袷

 

帶重く締めて疲れぬ秋袷

 

躾とる明日退院の秋袷

 

[やぶちゃん注:「躾とる」裁縫用語。縫い目や折り目を正しく整えるために仮にざっとあらく縫われた糸を抜くこと]

 

歸り見れば芙蓉散りつきし袷かな

 

秋袷日日病院へ通ひけり

 

敷かれある臥床に入れば秋灯つく

橋本多佳子句集「信濃」 昭和二十一年 Ⅻ 句集「信濃」 了 

 

狐花かたまり咲きて翳なさず

 

狐花わが前に咲き沼に咲き

 

沼波のにごりいく日ぞ狐花

 

狐花莖瑞々と花失せし

 

[やぶちゃん注:「狐花」は曼珠沙華(単子葉植物綱クサスギカズラ目ヒガンバナ科ヒガンバナ亜科ヒガンバナ連ヒガンバナ Lycoris radiata )の異名。ヒガンバナの異名については、私のブログ記事「曼珠沙華逍遙を参照されたい。]

 

曼珠沙華忌日の入日とどまらず

 

[やぶちゃん注:「忌日」夫豊次郎の祥月命日九月三十日。]

 

曼珠沙華海を渡りてなほ鐡路

 

曼珠沙華けふは旅なる吾にもゆ

 

曼珠沙華驛々に咲き旅遠き

 

さそり座をかかげ余して露の宿

 

[やぶちゃん注:「余して」は迷ったが、底本の表記のママとした。後半に出てくる旅は年譜の昭和二一(一九四六)年の十月の項に載る、『戦後はじめて、汽車の混雑甚だしい中を、伊勢、天ヶ須賀海岸に誓子を訪う』とあるそれであろう。天ヶ須賀(あまがすか)は現在は三重県四日市市北部の地区名。ウィキ天ヶ須賀四日市市には驚くべきことに「山口誓子」の独立項があり、『三重郡川越町高松地区にある中小企業の谷口石油の南側の天ヵ須賀』二丁目に彼の邸宅があった。後、「かの雪嶺信濃の国の遠さもて」の句碑が『四日市市民の有志によって建立された。山口誓子は』昭和一六(一九四一)年『に病気となり療養のために四日市市の富田地区の住民となり』、平成六(一九九四)年に九十二歳で死去した。そこには昭和二一(一九四六)年に『天ヶ須賀の須賀浦海水浴場沿いに移住した。天ヶ須賀地区には須賀浦海水浴場があり、海水浴客が宿泊する旅館や別荘地として開発された観光地で天ヶ須賀で考えた俳句があり、天ヶ須賀は自然に恵まれた環境であった。天ヶ須賀は病気の治療や療養には良い土地だった』とある。多佳子の年譜によれば、この誓子の引越は同年六月(四日市市富田より転入)である。当時、誓子は四十五、多佳子、四十七歳であった。]

 

  四日市

 

出水して町に秋燕啼き溜る

 

踏切を流れ退く秋出水

 

蟹の碧秋の出水の町に見る

 

秋燕や高き帆柱町に泊つ

 

  山口波津女夫人に

 

夕燒中ともにをみなの髮そまり

 

[やぶちゃん注:「山口波津女」「やまぐちはつぢよ(やまぐちはつじょ)」と読む。誓子夫人で本名は梅子(明治三九(一九〇六)年~昭和六〇(一九八五)年)。昭和一三(一九三八)年の結婚後に本格的に句作を始め、『馬酔木』同人から夫の主宰する『天狼』同人となった。夫より五つ下であるから、当時、四十歳。多佳子より七つ年下である。。]

 

尾を見せて狐沒しぬ霧月夜

 

母と子のトランプ狐啼く夜なり

 

霧月夜狐があそぶ光のみ

 

[やぶちゃん注:以上で句集「信濃」は終わっている。]

篠原鳳作初期作品(昭和五(一九三〇)年~昭和六(一九三一)年) ⅩⅤ



玉芒全きままに枯れにけり

 

[やぶちゃん注:yahantei氏のブログ「さまざまな俳人群像――虚子・反虚子の流れ――」の『(茅舎追想その十三)龍子の「龍子記念館」と茅舎の「青露庵」』の記載の中で、川端茅舎の句、

 玉芒ぎざぎざの露ながれけり

を掲げて、以下のように解説されておられる(下線部やぶちゃん)。

   《引用開始》

 この句は茅舎の代表句ではなかろう。また、茅舎に関する文献などでも、この句を取り上げて鑑賞しているものも皆無に近い。また、現在では、この句碑が一部不鮮明で、同時の作と思われる「玉芒みだれて露を凝らしけり」と紹介されているものも目にする。

 この句は、昭和七年作で、茅舎の第一句集『川端茅舎句集』では、冒頭の「秋の部」で、「露」の句を二十六句続けて、「露の茅舎」と称えられるのだが、その二十六句のうちの二十二番目に出てくるものである。

 この句の「玉芒」というのは、「玉のような露が宿っている芒」という意で、茅舎の造語であろうか。「芒」(秋の季語)と「露」(秋の季語)の「季重り」であるが、「芒」の句というよりも「露」の句で、この「玉芒」の「玉」がそれを暗示していて、「季重り」を回避しているようで、技巧的な句でもある。「ぎざぎざ」も、畳語の擬態語で、「オノマトペ」(擬音語と擬態語を総称しての擬声語)の「茅舎」と言われるほどに、茅舎が多用している特色の一つで、茅舎ならではの句という印象は受ける。

   《引用終了》

確かに茅舎の句の「玉芒」はこの説明で納得出来るのであるが、どうも鳳作の場合、既出の芭蕉玉を詠ったものがあるために、私には穂がほうける前、芒(のぎ)に包(くる)まったままの芒(「芭蕉玉」ならぬ「芒玉」)がそのままに枯れてしまったと読みたくなった。しかし、それでは景とならない、「芒玉」などナンセンスというのであれば、やはり、開いた芒の穂が露をいっぱい受けながらも、「全き枯れにけり」、白く縮れて完全な骨骸となって枯れたままに佇立しているという意が正しいのであろうか。暫く大方の御批判を俟つものである。]

 

先生も生徒も甘蔗の杖ついて

 

熔岩の上蕨は小手をかざしけり

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「熔岩」は「ラバ」で「ラバのうへ/わらびはこてを」と読む。]

 

火の見番見下しゐるや鷄合せ

 

阿羅漢の白けし顏や涅槃像

 

舊正や屋敷屋敷の花樗

 

[やぶちゃん注:「舊正」当時、鳳作が赴任していた宮古に限らず、大陸文化の強い影響を受けて来た沖繩・南西諸島に於いては、現在でも旧正月に各種祭事が集中し、盛大に執り行われている。「花樗」は「はなあうち(はなおうち)」と読む。既注であるが再掲すると、センダン、一名センダンノキの古名。ムクロジ目センダン科センダン Melia azedarach の花。初夏五~六月頃に若枝の葉腋に淡紫色の五弁の小花を多数円錐状に咲かせる。因みに、「栴檀は双葉より芳し」の「栴檀」はこれではなく白檀の中国名(ビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダン Santalum album)なので注意(しかもビャクダン Santalum album は植物体本体からは芳香を発散しないからこの諺自体は頗る正しくない。なお、切り出された心材の芳香は精油成分に基づく)。グーグル画像検索「栴檀花」。]

 

絵日傘を廻しつつくる禮者哉

 

[やぶちゃん注:前句との並びから推測すると、この「禮者」とは旧正月の挨拶廻りと読めるように思われる。]

2014/05/13

お前の刺客を私に殺たしめよ   山之口貘

 お前の刺客を私に殺たしめよ

 

蔭の道德がお前におべつかをしたの?

否え戀人よ 私(わし)は決して輕薄(かる

 はづ)みな拷問(とひ)をもつてお前の薰

 りの中で乱暴しますまい

 

私(わし)私(わし)の意志を、理性の確信

 をもつて是認せねばならぬ。

駄魔されてはいけない戀人よ お前は私(わ

 し)達の本能の貪欲を 道德が時々卑しめ

 にくる大馬鹿者であることをご存じないの?

 たまらなくなつて内部に燃えてゐるその火

 災(ほのほ)を戀人の胸の壁に破裂させる

 時に、私(わし)達の意志の外部への摸索(て

 さぐ)りを嫉妬(ねたみ)と怒りで害(さま

 た)げてゐるのをご存じないの?

私(わし)達の邪魔物は 周圍の馬鹿な虛飾で

 はないか戀人よ

私(わし)は是非寄り集つた人間達の愚かな小

 細工を お前の真実の側から悉く退治せねば

 ならない。

 私(わし)の再三の嘆願が、生命掛けの心配

  をもつてお前を打守つてゐる。

日は暮れてしまつた――

おゝ私(わし)の戀人よ お前の側にひそかに

 立つてゐるお前の刺客を私に殺(う)たしめよ。

 

[やぶちゃん注:「駄魔されてはいけない戀人よ」の「駄魔」はママ。「私(わし)の再三の嘆願が、生命掛けの心配をもつてお前を打守つてゐる。」の頭が一字下げであるのもママ。ブログでの表示を意識して、わざと底本表記に準じて改行をしてみた。底本の連続する次行送りの一字下げを無視して表記すると以下のようになる(ルビを除去して示す)。

 

 お前の刺客を私に殺たしめよ

 

蔭の道德がお前におべつかをしたの?

否え戀人よ 私は決して輕薄みな拷問をもつてお前の薰りの中で乱暴しますまい

 

私は私の意志を、理性の確信をもつて是認せねばならぬ。

駄魔されてはいけない戀人よ お前は私達の本能の貪欲を 道德が時々卑しめにくる大馬鹿者であることをご存じないの? たまらなくなつて内部に燃えてゐるその火災を戀人の胸の壁に破裂させる時に、私達の意志の外部への摸索りを嫉妬と怒りで害げてゐるのをご存じないの?

私達の邪魔物は 周圍の馬鹿な虛飾ではないか戀人よ

私は是非寄り集つた人間達の愚かな小細工を お前の真実の側から悉く退治せねばならない。

 私の再三の嘆願が、生命掛けの心配をもつてお前を打守つてゐる。

日は暮れてしまつた――

おゝ私の戀人よ お前の側にひそかに立つてゐるお前の刺客を私に殺たしめよ。

 大正七(一九一八)年~大正一〇(一九二一)年の間(バクさん十五歳から十八歳)に創作された作品。【二〇一四年五月二十四日追記】思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と校合した。

北條九代記 卷第六  宇治川軍敗北 付 土護覺心謀略(3)承久の乱【二十六の一】――宇治の戦い

折節、雨降り出て、車軸を流す如くなるに、武藏守泰時、如何思はれけん、家子(いへのこ)芝田橘(きつ)六を召して、河の瀨踏を致せとあり。芝田は槇島(まきのしま)の二岐(ふたまた)なる瀨を中島に游(およぎ)付きて、敵の樣躰迄、善々(よくよく)見果(おほ)せて立歸りて、有樣を申上(まうしあぐ)る所に、佐々木四郎、只一騎、御局(おつぼね)といふ逸物(いちもつ)の栗毛の馬、その長(たけ)八寸(やき)に餘(あまり)たるに白鞍置(おか)せ、彼の二岐の瀨にがばと打入り、瀨枕(せまくら)を切つて金(かね)に渡し、「近江國の住人、佐々木四郎左衞門尉源信綱、今日宇治川の先陣」とぞ名乘ける。是を見て、中山、佐野、浦野、白井、多胡、秋庭(あいば)を初として、小笠原四郎、内海(うつみの)九郎、河野(かうの)九郎、勅使川原(てしがはらの)小三郎、長江、小野寺、關、左島(さしま)を初(はじめ)て、諸軍打入(うちいり)々々渡しけるに、水は堰(せか)れて陸(くが)は海にぞ成りにける。その中にも馬弱きは押流されて死する者も多かりけり。後に人數を尋ぬれば、八百餘人は流れて死にたり。されども大軍なれば、數にもあらず。京方下合(おりあ)うて散々に防ぎ戰ふ。討つもあり。討たるゝもあり。物の色目(いろめ)も見分かず。右衞門〔の〕佐朝俊(ともとし)は、敵に組まれて討死せらる。又京方より緋威(ひおどし)の鎧に、白月毛(しらつきげ)の馬に金覆輪の鞍置きて打乘たる武者一騎、小河太郎に寄合うて、打咲(うちゑ)みたるを見れば、鐵漿黑(かねぐろ)なり。小河、押竝べける所を、拔打(ぬきうち)に甲の眞甲(まつかふ)を打たれて、目昏(くら)みけれども取付きたる所を放たず、馬よりどうど組んで落ちたり。心を靜めて見たりければ、我が組んで抑へたる敵は首もなき髏(むくろ)計(ばかり)なり。「こは如何に人の組んだる敵の首を傍(そば)より取る事やある」と叫(よばは)りしかば、武蔵太郎殿の手の者に、伊豆國の住人平馬(へいまの)太郎某(それがし)、「和殿は誰(た)そ」。「駿河守殿の手の者小川太郎經村(つねむら)」と名乘る。さらばとて首を返す。小川、是を受取らず、後に此由申しければ、平馬太郎が僻事(ひがごと)なりとて、小川に勸賞(けんじやう)賜りぬ。甲斐(かひの)宰相範義朝臣の御首にてぞ侍りける。佐々木太郎左衞門尉氏綱は、同名四郎左衞門尉信綱が甥なり。秋庭(あいばの)三郎に組んで討たれたり。荻野(をぎの)次郎、中條(なかでうの)次郎左衞門も、寄手大勢に取込められ、遂に皆、討たれたり。

[やぶちゃん注:〈承久の乱【二十六】――宇治の戦い〉

「槇島の二岐なる瀨」現在の京都府宇治市槇島町の東端を流れる宇治川にあった大きな分流流路。当時とは流路流域が全く異なり、野暮氏のサイト「近江の城砦」の「槇島城」に載る「天正期当時の宇治川と槇島城」の当時の復元流路図から見ると二つどころか四分岐が認められる。ここから推測すると実は現在の槇島町全体町名通り、その当時は中洲、島であったことが分かる。ここはもっと時代が遡るわけだか、それでもこの復元地図で当時の戦場に近い宇治橋の下流域が巨大な中洲を含む広範囲な氾濫原であったのである。

「中島」前注の中洲の名。

「八寸」「寸(き)」は、昔、馬の丈(たけ)を測るのに用いた語で、四尺(約一メートル二十一センチ)基準とし、それより高ければ一寸(ひとき)・二寸(ふた)から八寸(やき)と数え、九寸(くき)以上は「丈に余る」と呼んだ。。「八寸」は凡そ二十四・二センチメートルであるから「八寸」は四尺八寸(すん)で約一メートル四十五センチに相当する。但し、ここはさらに「八寸に餘たる」とあるから、更に二センチほど高かったものであろう。因みに馬の丈は前足の位置で肩までの高さをいう。

「瀨枕」水が捲いて波の立っている箇所。

「切つて」物ともせずに突っ切り。

「金に渡し」底本頭書に『金に渡し――曲尺なりに渡り』とある。「曲尺(かねじゃく)」は直角に曲がったL字型の例の指矩(さしがね。指金)で、ここは真っ直ぐに渉って、という意味である。

「水は堰れて陸は海にぞ成りにける」それでなくても折からの土砂降りの雨によって増水していた川水が、どっと川に入った兵馬の一隊によって堰き止められるような形になり、急激に中洲や両岸へ浸水と氾濫を起こし、結果、濁流となってこの幕府軍一行を襲ったというのである。

「八百餘人は流れて死にたり。されども大軍なれば、數にもあらず」流石に、「承久記」も「吾妻鏡」もこんなもの謂いはしていない。筆者の、戦場の非情さを誇張するための加筆のようにしか見えないが、実はこれは「承久記」を読むと、多量の溺死者眼前にした総大将泰時が、あまりの凄惨さに、「自分独り、おめおめと生き残って何をするというか!」と、自ら馬に乗って渡河せんとするところを、直前に子息を溺死させて、しかも自らも流されて辛くも郎等に助けられた信濃の武将春日刑部三郎貞幸が、身を挺して泰時の馬を止め、策杖で打たれても放さぬという、入河を防ぐシーンに於いて、春日貞幸が泰時を諌める言葉に由来するものである。是非、後掲する原文を味わって戴きたい。この部分の「北條九代記」の筆者は妙に筆が鈍っていると言わざるを得ない。

「右衞門佐朝俊」藤原朝俊(ともとし ?~承久三年六月十四日(一二二一年七月五日)。廷臣。藤原北家勧修寺流で侍従藤原朝経の子(またはその兄朝定の子とも)。権大納言藤原朝方は祖父。母は中納言藤原親信の娘。常陸介・右衛門佐。後鳥羽上と順徳天皇の近臣として仕える。承応二(一二〇八)年に鳩を取るために朱雀門に昇り、その火が延焼して門が炎上した記事が「明月記」に載り、そこに『ただ弓馬相撲をもつて藝となす。殊に近臣なり』と紹介されていることから、武芸の才をもって重用されていたことが窺われる。積極的に後鳥羽上皇の討幕計画に参加、高倉範茂らとともに宇治方面の防衛に当たった。この宇治川合戦では八田知尚や佐々木高重ら官軍の諸将とともに奮戦したが、乱戦の中で小河経村によって討ち取られた。「六代勝事記」(仮名書の史書。著者や成立年代は不詳。一巻。高倉から後堀河までの六代に及ぶ天皇(仲恭天皇の即位は明治初年になるまで正史では認められていなかった)の代に起こった事柄を列記し、承久の乱の失敗を経験した貴族の悲嘆を述べる。「勝事」は「凶事」と書くのを憚ったためという。序文では貞応年間(一二二二年~一二二四年)に書かれたことになっているものの、諸書からの点綴らしい箇所も多く疑問を挟む考えもある(ここは平凡社「世界大百科事典」に拠った)に於いては、その果敢な戦いぶりが賞賛されている(以上はウィキの「藤原朝俊」に拠る)。

「白月毛」既注。白地の毛に黒や濃褐色のサシの入った、赤みの強い(これが月毛の由来)毛色。

「鐵漿黑」鉄漿(おはぐろ)。凡百のホラー映画も真っ青、いや、真っ黒の描写である。

「武蔵太郎殿」北条時氏。北条泰時長男。当時、満十八歳であったが、この宇治川合戦では敵前を美事に渡河したという。病気のため、惜しくも二十七歳で早逝した。

「平馬太郎某」が首を持っており、その平馬が小河に対して「貴殿はどなたか?」と質した、という文脈である。

「駿河守殿」三浦義村。

「僻事」道理や事実に合わないこと。間違っていること。心得違い。

「甲斐宰相範義朝臣」「範義」は「範茂」の誤り。承久の乱の首謀者の一人であった公卿藤原範茂。但し、彼は宇治川の戦いに実戦参加しているものの、そこでこのような形で討死はしていない。上皇方が敗北した後に六波羅に拘禁され、斬罪と定められ、都での処刑を避けるために北条朝時によって東国へ護送される途中、足柄山麓の早川で沈められて処刑された。これは、範茂が五体不具では往生に障りがあるとして自ら入水を希望した結果という(以上はウィキの「藤原範茂」に拠った)。享年三十八。

「佐々木太郎左衞門尉氏綱」以下に掲げる「承久記」も「氏綱」とするのだが、これは本文以下に先に出た先陣を切った佐々木「四郎左衞門尉信綱が甥なり」とあるから、恐らくは佐々木継綱の誤りではなかろうか? 佐々木信綱の長兄で、父定綱の嫡男であった佐々木広綱は、在京御家人として鎌倉幕府に仕えていたが、後鳥羽上皇との関係を深めて西面武士となり、承久の乱では官軍に属してこの宇治川合戦に参加、敗走したが(敗戦後の七月二日梟首)、参照したウィキの「佐々木広綱」には、『嫡男継綱は』六月十四日(まさに宇治川合戦の日附である)『に戦死し、次男為綱と三男親綱の行方は判らない。四男の勢多加丸は』七月十一日に捕縛されたが、十一歳と『まだ幼い事から助命されるが、信綱に身柄を奪われ斬首された。佐々木氏は後に信綱が継ぐ事となる』とあるからである。何かしらん、哀しい話ではある。

「寄手大勢」言わずもがな乍ら、幕府軍の、である。

 

 以下、「承久記」を引くが、「北條九代記」は勢多合戦から宇治川合戦の場面が相当にはしょられてしまっている。底本の61から81に及ぶ長文になるが、その部分も総て電子化して示す。途中、私自身、半可通なところもあるが、細部に拘ると先へ進めなくなるので、特に思うところ以外は今は注を附さないこととする。悪しからず。ともかくも非常に面白い「承久記」は将来の全文電子化を期して、かく続けたくはあるのである。

 

 武藏守、供御瀨ヲ下リニ宇治橋へ被ㇾ向ケルガ、某夜ハ岩橋ニ陣ヲ取。足利武藏前司義氏・三浦駿河守義村、是等ハ「遠向候へバ」トテ、暇申テ打通ル。義氏ハ宇治ノ手ニ向ンズレ共、栗籠山ニ陣ヲ取。駿河次郎、同陣ヲ雙ベテ取タリケルガ、父駿河守ニ申ケルハ、「御供仕ベウ候へ共、權大夫殿ノ御前ニテ、『武藏守殿御供仕候ハン』ト申テ候へ。暇給リテ留ランズル」ト申。駿河守、「如何ニ親ノ供ヲセジト云フゾ」。駿河次郎、「サン候。尤泰村モサコソ存候へドモ、大夫殿ノ御前ニテ申テ候事ノ空事ニ成候ハムズルハ、家ノ爲身ノ爲惡ク候ナン。御供ニハ三郎光村モ候へバ、心安存候」ト申ケレバ、「サテハ力不ㇾ及」トテ、高所ニ打上テ、駿河次郎ヲ招テ、「軍ニハトコノアレ、角コソスレ。若黨共、餘ハヤリテアヤマチスナ。河端へハ兎向へ角向へ」ナド能々教へテ、郎等五十人分付テ被ㇾ通ケリ。

・「武藏守」北条泰時。

・「岩橋」位置不詳。

・「栗籠山」現在の京都府宇治市神明宮西にある神明神社付近。後掲する「吾妻鏡」では「栗子山」で他に栗隈山・栗駒山とも表記するが、これは少なくとも現在は一つの山を指す名ではなく、北は宇治、南は大久保・久津川・寺田の東方を経、富野荘に至るところの、一連の低い丘陵部を総称するものであるらしい。神社から現在の宇治橋西橋詰までは直線で約二・一キロメートルある。

・「前武州」足利義氏。当時、満三十二歳。

・「駿河次郎」会話にも出る通り、三浦義村の次男泰村。彼には生年に諸説あるが、「承久記」の以下の記載(名乗りの数え十八)に従えば十七歳である。

・「三郎光村」三浦泰村の同母弟で義村四男。当時十六歳。

 

 留マル家子ニハ佐野與一、郎等ニハ乳母子ノ小河太郎・同五郎、阿曾太郎・同次郎、山崎三郎・那波藤八、是等也。其中ニ十四騎進テ申ケルハ、「未案内モシラセ不ㇾ給、我等モ存知セズ候。サレバ先樣ニ罷向候テ、事ノ體ヲモ窺ヒ見、川ノ有樣ヲモ存仕候ハン。又大雨ニテ候へバ、御宿ヲモ取儲候ハン」トテ進行。是ハ、海道尾張河ヨリ始テ所々ノ戰ニ、我等モ若黨モ、甲斐甲斐敷軍セヌ事ヲ口惜思テ、「今日相構テ合戰ヲセヨ」トテ、内々心ヲ合セ、指遣シケリ。

 

 其後、駿河次郎、雨ニ餘ニヌレタリケレバ、馬ヨリ下リ、物臭ヌギカへ腹帶シメ直シナドシケル所ニ、カチ人少々走歸テ、「御前ニ進マレ候ツル殿原、ハヤ橋ノ際へ馳ヨリ、御手者名乘テ矢合シ、軍始テ候。某々手負テ候」ト申ケレバ、小川太郎、「足利殿ニ此由ヲ申バヤ」ト申。駿河次郎、「シバシナ申ソ」トテ物臭ノ緒ヲシメヲホセテ、馬ニヒタト乘クツロゲテ行トテ、「ハヤ申セ」トテゾ行ケル。駿河次郎、宇治橋近押寄テ見ケレバ、現ニ軍ハ眞サカリナリ。馬ヨリヲリ橋爪ニ立テ、「桓武天皇ヨリ十三代ノ苗裔、相模國住人、三浦駿河次郎泰村、生年十八歳」ト名乘テ、甲ヲバ脱デナゲノケ、指攻引攻シテ射ケリ。乳母子ノ小川太郎、甲ヲ取テキセケレバ、脱デハ捨、脱デハ捨、二度迄ゾシタリケル。是ハ矢強射ン爲也。小河太郎、主ト同矢束ナリケルガ、始ハ「大將アナガチ手下シ、軍スル樣不ㇾ候」ト諫ケルガ、泰村ニ被ㇾ射テ、敵サハギ各氣色ヲ見テ、「左候ハヾ經景ハ射候ハデ、矢種ツクサデ射サセ進ラセン」トテ、雙デゾ立タリケル。向ノ岸ヘハ普通ノ矢長トヾクベシ共見へヌ所ニ、宗徒ノ人歟ト覺シキヲ、能引ゾ射タリケル。駿河次郎支へテ射矢、二ツ三射マドハサレ、幕ノ中騷アヘリ。急幕ヲ取テ、向ノ堂ノ前へゾノキニケル。後ニ聞へシハ、甲斐宰相中將也。向ノ岸ニ奈良法師・熊野法師、數千騎向タル、其中ニ不動・コンガラ・セイタカ童子ヲ笠符ニ著タル旗共打立テ有ケルガ、河風ニ被ㇾ吹テ靡ケルハ、實ニヲソロシクゾ見へタリケル。武藏前司義氏馳來リ、相加テゾ戰ケル。駿河次郎手者共、散々ニ戰ヒ、少々ニハ手負テゾ引退ク。日モ暮行バ、武藏前司、平等院ニ陣ヲトル。駿河次郎モ同陣ヲゾ取タリケル。

 

 甲斐國住人室伏六郎ヲ使者トシテ、武藏守へ被レ申ケルハ、「駿河次郎ガ手者共、早軍ヲ始テ、少々手負候。義氏ガ若黨共、數多手負候。日暮間、平等院ニ陣ヲ取候。東方、向ノ岸ニ少々舟ヲ浮テ候。橋ヲ渡テ一定今夜夜討ニセラレヌト覺候。小勢ニ候へバ、御勢ヲ被ㇾ添候へ」トテ被ㇾ申ケル。武藏守、「コハ如何ニ。サシモ明ルト方々軍ノ相圖ヲ走ケル甲斐モナク軍始ケンナル此人々、若夜討ニセラレテハ口惜カルベシ。急ギ者共向へ」ト宣ケレバ、平三郎兵衞尉盛綱奉テ馳參リ相觸ケレ共、「武藏守殿打立給時コソ」トテ、進者コソ無ケレ。サレ共、佐々木三郎左衞門尉信綱計ゾ、可罷向曲申タリケル。

[やぶちゃん注:このシーンも面白い。私は、『泰時の家来は殿御自身とともに一気に打って出て、抜け駆けしながら尻を絡げて平等院に逃げ込んだ情けない連中を尻目に、その鼻を明かしてやりましょうぞ、とでもいうのであろう。だから主君泰時の命にも拘わらず、救援に行こうとはしないのであろう。』と読んだのだが、実は次の段に理由が述べられてあって、それどころか、実はバケツをひっくり返したような異様な豪雨や堪えがたい暑気から、家来たちの間に『この敗勢と異様なる天候は、我ら賤しい者どもが畏れ多くも朝廷に対し弓引いたことによるもので、最早我らは命運尽きた』と思ったからだとあるのである。]

 

 六月中旬ノ事ナレバ、極熱ノ最中也。大雨ノフル事、只車ノ輪ノ如シ。鎧・甲ニ瀧ヲ落シ、馬モ立コラヘズ、萬人目ヲ見アケラレネバ、「我等イヤシキ民トシテ、忝モ十善帝皇ニ向進ラセ弓ヲ引矢ヲ放ントスレバコソ、兼テ冥加モ盡ヌレ」トテ進者コソ無ケレ。サレ共、武藏守計ゾ少モ臆セズ、「サラバ打立、者共」トテ、軈テ甲ノ緒シメ打立給ケリ。大將軍、加樣ニ進マレケレバ、殘留人ハナシ。

[やぶちゃん注:「軈テ」は「やがて」と読む。]

 

 又、夜中ニ宇治橋近押寄テ見レバ、駿河次郎、昨日ノ薄手負ノ若黨共、矢合始メテ戰ケリ。武藏前司手者共、同押寄戰、シバシ支テ引退。二番ニ相馬五郎兵衞・土肥次郎左衞門尉・常田兵衞・平兵衞・内田四郎・古河小次郎、押寄テ散々ニ戰フ。少々手負テ引退。三番ニ新開兵衞・町野次郎・長沼小四郎、各、「某國住人、其々」ト名乘テ、橋桁ヲ渡リ搔楯ノ際迄責寄タリケルヲ、敵數多寄合テ、三人三所ニテゾ被ㇾ討ケル。四番ニ梶小次郎・岩瀨七郎、推寄テ散々ニ戰テ引退ク。五番ニ波多野五郎信政、引タル橋ノ際迄押寄クリ。是ハ、去六月、杭瀨川ノ合戰ニ、尻モナキ矢ニテ額ヲ被ㇾ射タリケルガ、未カンバカリハレタリ、進出テ名乘ル。「相模國住人、信政」トテ橋桁ヲ渡シ、向ヨリ敵ノ射矢、雨ノ如ナルニ、向ノ岸ヲ見ント振アヲノキタル右ノ眼ヲシタヽカニ被ㇾ射テ、河へ巳ニ落トス。橋桁ニ取付テ、心地ヲ沈テ向ントスレバ先モ不ㇾ見、歸ントスレバ敵ニ後ロヲ見セン事口惜カルベシト思ケレバ、後ロ樣ニゾシサリケル。橋ノ上へシサリアガリ、取テ返ケル所ニ、郎等則久ソトヨリ肩ニ引懸返リケルガ、河端ノ芝ノ上ニフセテ、二人左右ヨリ寄テ、膝ヲ以押テ矢ヲ拔テケリ。血ノ出事、鎧ニ紅ヲ流テ、誠ニヲビタヽシクゾ見へケル。

[やぶちゃん注:この最後のシークエンスはまるで戦争映画のワン・シーンのように凄絶。まさに「遠過ぎた橋」だ――。]

 

 武藏國住人鹽谷左衞門尉家友、押寄テ戰ケルガ、被射倒ヌ。子息六郎左衞門尉家氏、親ヲ乘越テ矢面ニ立テ戰ケルガ、是モ薄手負テ、父ヲ肩ニ引懸テゾノキニケル。其後、各押寄押寄戰ケリ。宮寺三郎・須黑石馬允・飯高小次郎・高田武者所・大高小太郎・息津左衞門尉・高橋九郎・宿屋次郎・高井小次郎、押寄テ劣ラジ負ジト戰テ、是等モ手負テ引退ク。

 

 東方ヨリ奈良法師土護覺心・圓音二人、橋桁ヲ渡テ出來リ。人ハ遙々渡橋桁ヲ、是等二人ハ大長刀ヲ打振テ、跳跳曲ヲ振舞テゾ來リケル。坂東ノ者共、是ヲ見テ、「惡ヒ者ノ振舞哉。相構テ射落セ」トテ、各是ヲ支テ射ル。先立タル圓音ガ左ノ足ノ大指ヲ、橋桁ニ被射付、ヲドリツルモ不ㇾ動、如何スベシ共不ㇾ覺ケル所ニ、續クル覺心、刀ヲ拔テ被射付クル指ヲフツト切捨、肩ニ掛テゾノキニケル。

[やぶちゃん注:「土護覺心」本章のサブ・キャラクターで最初に述べた通り後述する。しかしこのシークエンスも凄い!]

 

 武藏守、「此軍ノ有樣ヲ見ルニ、吃ト勝負可ㇾ有共不ㇾ見、存旨アリ、暫ク軍ヲトヾメント思也」ト宣ケレバ、安東兵衞尉橋ノ爪ニ走寄、靜メケレ共不ㇾ靜。二番ニ足利武藏前司、馳寄テ被ㇾ靜ケレ共不ㇾ靜。三番ニ平三郎兵衞盛網、鎧ハ脱デ小具足ニ太刀計帶テ、白母衣ヲ懸、橋ノ際迄進デ、「各、軍ヲ仕テハ誰ヨリケンジヤウヲ取ントテ、大將軍ノ思召樣有テ靜メサセ給フニ、誰々進ンデカケラレ候ゾ。『註シ申セ』トテ、盛綱奉テ候也」ト、慥ニ申ケレバ、其時、侍所司ニテハアリ、人ニ多被見知、一二人キカヌ程コソアレ、次第ニ呼リケレバ、河端・橋ノ上、太刀サシ矢ヲ弛テ靜リニケリ。

[やぶちゃん注:臨場感たっぷり!

「ケンジヤウ」既注。「勸賞」で「けんしやう(けんしょう)」「けじやう(けじょう)」とも読み、功労を賞して官位や物品・土地などを授けることをいう。]

 

 武藏守、芝田橘六ヲ召テ、「河ヲ渡サント思ニ、此水底ノ程ニハ一尺計モマサリタルナ。此下ニ渡ル瀨ヤアル。瀨蹈シテ參レ」ト宣ケレバ、「奉リ候」トテ一町計打出タリケルガ、取テ返シ、「檢見ヲ給リ候バヤ」ト申。「尤サルベシ」トテ、南條七郎ヲ召テ被相添。二騎連テ下樣ニ打ケルガ、槇島ノ二マタナル瀨見渡ケルニ、アヤシノ下﨟ノ白髮ナル翁一人出來レリ。是ヲトラヘテ、「汝ハ此所ノ住人、案内者ニテゾ有覽。何ノ程ニカ瀨ノアル、慥ニ申セ。ケムジヤウ申行ベシ。不ㇾ申ハ、シヤ首切ンズルゾ」トテ、太刀ヲ拔懸テ問ケレバ、此翁ワナヽキテ、「瀨ハ爰ハ淺候。カシコハ深候」ト教へケレバ、「能申タリ」トテ、後ニハ首ヲ切テゾ捨ニケル。又人ニイハセジトナリ。其後、馬ヨリ下リテハダカニナリ、刀ヲクワヘテ渡ル。檢見ノ見ル前ニテハ、淺所モ深樣ニモテナシ、早所ヲモノドカナル樣ニ振舞テ、中島ニヲヨギ著テ見レバ、向ニハ敵大勢扣タリ。サテ此河ハサゾ有覽ト見渡シテ取テ返シ、「瀨蹈ヲコソ仕ヲホセテ候へ」ト申ケレバ、佐々木四郎左衞門尉、御前ニ候ガ、芝田ガ申詞ヲ聞モ不ㇾ敢、イツタチ馬ニヒタト乘テ、シモザマニ馳テ行。芝田橘六、アナ口惜、是ニ前ヲセラレナンズト思テ、同馳テ行。佐々木、前ニ立テ、「爰ガ瀨カ爰ガ瀨カ」ト云ケレバ、「未ハルカハルカ」トテ、槇島ノ二マタナル所ノ、我瀨蹈シタル所へ馬ノ鼻ヲ引向、ガハト落サントス。芝田ガ馬ハ鹿毛ナルガ、手飼ニテ未乘入ザレバ、河面大雨降テ、洪水漲落、白浪ノ立ケルニ驚テ、鼻嵐吹テ取テ返ス。引向テ鞭ヲシタヽカニ打テ落サントス。佐々木、是ヲ見テ、コハ如何ニ、カシコハ瀨ニテ有ケル物ヲト思テ引返シ、芝田ガ傍ヨリガハト打入テ渡シケリ。佐々木ガ馬ハ權大夫殿ヨリ給タリケル甲斐國ノ白齒立、黑栗毛ナル駄ノ下尾白カリケリ。八寸ノ馬、其名ヲ御局トゾ申ケル。駄ノヲツルヲ見テ、芝田ガ馬モ續ヒテヲツル。河中迄ハ佐々木ガ馬ノ鞭ニ鼻ヲサス程ナリケルガ、元來馬劣リタレバ、次第ニ被ㇾ捨テ二段計ゾサガリタル。佐々木、未向ノ岸へモ不ㇾ襄シテ、「近江國住人、佐々木四郎左衞門尉源信綱、今日ノ宇治河ノ先陣也」ト高ラカニゾ名乘ケル。同續ヒテ、「奧州住人、芝田橘六兼能、今日ノ宇治河ノ先陣」ト、同音ニ高ラカニゾ訇リケル。佐々木、向ノ中島ニ打上タレバ、子息左衞門太郎トテ十五ニナリケルガ、タウサキニ白キ帷ヲ著、腰刀バカリ指、太刀ヲ頸ニカケ、父ガ馬ノ鞦ノ總ニ取付テ來タリ。父、見返テ、「向ノ河端迄ハアリツレ共、是迄可ㇾ渡トハ不ㇾ覺。如何ナル子共アリ共、己レニマサル子有マジ」ト、親子ガ戰テ、敵ノ矢ニアテジト、馬ヲ横ニ折フサギ、子ヲ陰ニゾ立タリケル。サレ共スハダナレバ、猶痛敷、角テハ如何ガ可ㇾ有ナレバ、「己レイシウモ渡タリ。此後如何ナル愛子ヲ儲共、汝ニ不ㇾ可恩替。急、武藏守殿ニ參テ、『瀨蹈ヲコソ仕ヲホセテ候へ』ト申セ」ト云ケレバ、左衞門太郎、只「御供仕候バ」ト申ケレバ、信綱、ヤハラカニ云ハヾヨモ歸ラジト思テ、「如何デ參ラデハ可ㇾ有ゾ。サテハ親ノ命ヲ背タカ」ト被ㇾ云テ、力不ㇾ及取テ返シテヲヨギ渡リ、武藏守殿へ參テ此由ヲ申テ、又取テ返、親ノ跡ヲ尋テゾ渡ケル。サレバ大河ヲ渡事三度也。洪水瀧漲出タル事ナレバ、流石ニ身モ疲レテ、被押入押入シケレバ、重代ノ太刀ヲ首ニ懸クリケルガ、重カリケル間、惜ハ思へ共、取テ河ニ投入テ、身計ヲヨギ上リテゾ助力リケル。

 佐々木ニ續テ渡者ニハ、中山五郎次郎・佐野與一・浦野太郎・構五郎・白井小太郎・多胡宗内、是等也。秋庭三郎モ同手ニ渡ケレ共、御尋有ケルニハ、佐々木存旨ヤ有ケン、「我等ハ不ㇾ見」トゾ申ケル。後ニ七騎渡スニハ、小笠原四郎・内海九郎・河野九郎・四郎右馬允・敕使河原小三郎・長江與一・平六、是也。軈テ續テ渡シケル若狹兵部入道・關左衞門尉・小野寺中務丞・左島四郎、四騎打入テ渡ケルガ、若キ者共ノ馬強ナルハ、河ヲ守ラヘテ能渡アヒダナ、子細ナシ。關左衞門尉入道、身ハ老者ナリ、馬ハ弱シ、被押落下頭ニ成ケレバ、聟ノ左島四郎見捨ガタク思テ取テ返シ、押雙テ馬ノ口ニ付タリケルガ、被押入二目共不ㇾ見、共ニ流レテ失ニケリ。是ハ、左島四郎、國ヲ立ケル時、妻室云ケルハ、「我親ハ頼敷キ子一人モナシ。我ニ年比情ヲ懸給事ナラバ、此言葉ノ末ヲ不ㇾ違シテ、我父構へテ見放シ給ナ」ト、軍ト聞シヨリ打出ル朝迄、鎧ノ袖ヲ抑へテ云ケル事ヲヤ思ヒ出タリケン、同ク流ケルコソ哀ナレ。故郷ノ者共此事ヲ傳聞テ、「左イハザリセバ、一度ニ二人ニハヲクレマジキ物ヲ」ト、歎ケルコソ甲斐ナケレ。

[やぶちゃん注:途中の改行は底本のママ。ここは所謂、段落番号はないので、そのまま続けて電子化した。

「北條九代記」の本文は実にやっとここからを典拠とする。しかも、どのシーンを見てもこれ「承久記」の作者の方が遙かに才能ががあると言わざるを得ない。筆者はもしかすると既にして「承久記」には負けたとこの辺りで完全降伏してしまった、が、そこはそれ、悔しいから、いいシーンはみなスル―した、という気がしてくるほどに、それぞれのエピソードが生き生きとしていて、実に手に汗握ってほろりとさせるシークエンスではないか!

「此水底ノ程ニハ一尺計モマサリタルナ」これは馬の丈の標準である四尺(約一メートル二十一センチ)にプラス一尺(三〇・三センチメートル)で一メートル五十二センチを超える深さであるというのであろう。先に出た抜きん出た名馬の「八寸」でさえ約一メートル四十五センチであるから、これでは騎馬では渡れない。

「子息左衞門太郎」信綱の長男佐々木(大原)重綱(承元元(一二〇七)年~文永四(一二六七)年)。乱後は第四代将軍九条頼経の近習として仕えた。後の仁治三(一二四二)年に父が死去すると、父の生前に家督と所領を譲られていた弟の泰綱と抗争を起こし、寛元元(一二四三)年には幕府に対して訴訟を起こして勝訴、泰綱の近江国内にあった所領を譲り受けているが、これが結局は佐々木氏の勢力の分散化の濫觴となってしまった(以上はウィキの「佐々木重綱」に拠った)。]

 

 安東兵衞、同一門ナリケル彌藤内左衞門尉十四騎、大勢ノ渡ヨリ下、セバカリケル所ニ實ニ深ク見へケルヲ、爰ヲ渡サバ大勢ヨリモ前ニ向へハ可ㇾ著トテ、ガハト落ス。殊ニ深所ニテ一騎モ不ㇾ見沈ケリ。

 

 武藏國住人、阿保刑部丞實光・鹽谷民部丞家經、同國ノ者トシテ、所領モ堺ヲ雙テ、朝夕申通ズル中ニテ、今日モ一所ニ打連レ云合テ、同心ニ川端ニ進デ渡サントシケルガ、我等ガ子共アマタ有、我コソ空カラメ、子共サへ失ハン事悲クヤ思ケン、武藏守殿へ使ニ進ラセケレバ、是等モ心得テ、「御供ニコソ候ハメ」ト申。「小賢キ奴原哉」トテ追返ス。「我等已ニ八旬ニ及デ、病ニテゾ死ンズラント思ツルニ、今カヽル御大事出來テ、人ノツラニ成テ、此河ニテ命ヲ死ム事、尤本望也。民部丞殿」。「左承候、刑部丞穀」トテ、ガハト落ス。二目共不ㇾ見流ケリ。

[やぶちゃん注:「阿保刑部丞實光」武蔵七党の一つ、丹党の武将で同丹党の流れの安保(阿保)氏の祖である安保実光(あぼさねみつ 永治二(一一四二)年?~ 承久三(一二二一)年)。没した歳は八十歳とも伝えられる。参照したウィキの「安保実光」に、『父は秩父(丹)綱房(のちの新里恒房)で、その次男として二郎実光は生まれる。その後、父から武蔵国賀美郡(現児玉郡西部域)の安保郷(現神川町元阿保)の地を譲られ、居住し、安保(阿保)氏を称した。子息は、安保五郎左衛門尉実房、安保六郎兵衛光重、安保七郎左衛門尉実員などで、この内、五郎実房と六郎光重は、建久元年』(一一九〇年)の頼朝上洛の際の随兵の中に既に名が載り(「吾妻鏡」)、その戦歴は一ノ谷の戦い・奥州合戦・承久の乱と、やはり「吾妻鏡」によって確認出来る。そうしてまさにこの部分についての、『承久の乱の時、二郎刑部丞実光は老齢の身であったが、北条政子の命で参戦した。実光が属した勢力は、美濃の摩免土で官軍の第一線を破り、数十名の関東武士と共に京の宇治川へ向った。そして宇治川の戦いで溺死する事となる。宇治川を渡ろうとする前、塩谷家経』(同じく武蔵七党の一つ、児玉党系塩谷氏二代目統領)と語り合ったとされ、この家経の方も既に七十一歳という『老齢の身であり、実光と同様、重い鎧を着たまま荒れ狂う宇治川の激流に流され、溺死した。これらは老いてもなお武蔵武士の勇ましさを示す事とな』った、という記事が載る。その後の子孫である『安保氏の直系の宗家(惣領家)である安保宗実(入道して道堪)は、鎌倉幕府の滅亡と共に滅び、結果として、実光の七男(実員)の子孫である安保光泰、つまり安保氏の分家筋が宗家を継ぐ形となり、安保氏は鎌倉時代以後も栄える事となる』とある。宇治川の藻屑となった実光にとってこの事実は確かな供養となろう。]

 

 其後、馬次第ニゾ渡ケル。久瀨左衞門次郎・大山彌藤太・善右衞門太郎・安藝庄四郎・片穗民部四郎・山内彌五郎・高田小太郎・成田兵衞・女陰四郎・神澤八郎・奈良八郎・科河六郎太郎・志村彌三郎・豐島彌太郎・伊佐大進太郎・相馬五郎子共三人・物射次郎太郎・下妻小次郎・佐野八郎入道・同二郎太郎・澁谷平三郎・木戸刑部丞・平塚少輔太郎・春日刑部三郎・足濯平内・長江小四郎・飯田左近・鹽谷四郎・土肥三郎・仲藤八・成田次郎・島平三郎・同平四郎・同平四郎太郎・平三五郎・覺島小次郎・大河津小四郎・對馬左衞門次郎・湯原六郎・岡部六郎・飯高六郎・金子與一太郎・大倉六郎・讚岐左衞門六郎・大鹽太郎・浦野四郎・布施左衞門次郎・縣左衞門四郎・片切六彌太・彌藤太左衞門尉・飯島太郎・備前房・大高六郎・岡部介庄三郎・石田左近・飯沼三郎・櫻井二郎・島津二郎・石川三郎・齋藤左近・今泉七郎・鹽谷摧次郎太郎、是等ヲ始トシテ、宗徒ノ者九十六人、打連々々渡シケルガ、助カル者ナク、流者多カリケリ。上下八百餘騎、流レテ死トゾ聞へシ。

[やぶちゃん注:これらの溺死者名簿は「吾妻鏡」にも載らない。次段のシーンも併せて、「承久記」の作者の、戦さに対して持つところの一面の無常感への、深い思いが伝わってくるではないか。]

 

 武藏守、「アタラ侍共ヲ失テ、泰時一人殘止テモ何カスベキ。運盡ヌ共、具ニ相向テコソ死ナメ」トテ、河端へ被ㇾ進ケルヲ、信濃國住人、春日刑部三郎ト云者、親子打入テ渡シケルガ、子ハ流レテ死ヌ、親モ被押入タリケルヲ、郎等未だ岳ニ有ケルガ、弓ノハズヲ入テサガシケル程ニ、無左右取付テ被引上タルヲ見レバ、春日刑部三郎也。川端ニ大息ツキテ休ケル所ニ、武藏守、河端へ被ㇾ進ケルヲ、立揚鞍ニツヨク取付テ、「如何ニ角口惜御計ハ候ゾ。軍ノ習ヒ、千騎ガ百騎、百騎ガ十騎、十騎ガ一騎ニ成迄モ、大將軍ノ諜ニ隨習ニテコソ候へ。マシテ申候ハンヤ、御方ノ御勢百分ガ一ダニ亡候ハヌ事ニテコソ候へ。如何ニ御命ヲバ失ハントセサセ給候ゾ」ト申ケレバ、武藏守、「思樣アリ。放セ」トテ策ニテ腕ヲ被ㇾ打ケレ共ハナサズ。去程ニ御方百騎計、川ノ端へ進ミ前ヲ塞ケル間、力及不ㇾ給。此事鎌倉ニ傳聞テ、「刑部三郎ガ高名、先ヲシタランニモ増リタリ」トゾ宣ケル。

 

 

 駿河次郎同渡ントス。武藏守、「如何ニ、泰時ト一所ニテコソト契給シニ、渡サントハ仕給フゾ」ト宣ケル上、乳母子ノ小河太郎、「守殿御供申ントテ、父ノ供ヲモセサセ給ハヌニ、兎角モナラセ御座申ン樣ニコソ隨被ㇾ申候ハメ」ト申ケレバ、理ニ伏、打テ不ㇾ被ㇾ渡。旗差・手者共、少々打入テ渡シケルガ、流ル、者モ多カリケリ。

[やぶちゃん注:最初のシーンで駿河次郎三浦泰村が父義村と別行動をとることを妙に細かく述べた意図がここにきて明らかとなる。伏線に於いても「承久記」の作者は張り方が上手い。]

 

 武藏守太郎殿ハ其モ渡サントテ、河端へ被ㇾ進ケルヲ、「如何ニ泰時ヲ捨ントハセラルヽ哉覽。表ニテコソ兎モ角モ成給ハメ」ト宣ケレバ、力不ㇾ及シテ留リケリ。サレ共猶渡サンテ、河端へ被ㇾ進ケルヲ、小熊太郎取付テ、「殿ハ日本一ノ不覺仁ヤ。大將軍ノ身トシテ、如何ナル謀ヲモ運シ、兵ニ軍ヲサセ、打勝ムトコソ可ㇾ被ㇾ爲ニ、是程人毎ニ流死ル河水ニ向テ、御命ヲ失セ給テハ、何ノ高名カ可ㇾ候」トテ、水付ニ取付ケルニ、「只放セ」トテ、策ニテ臂ヲシタヽカニ被ㇾ打ケレバ、「サラバ」トテ放シケル。其時、武藏太郎颯ト落ス。關判官代實忠、同渡シケリ。小熊太郎モ渡ス。三騎無ㇾ煩向ノ岸ニ著ニケリ。爰、萬年九郎秀幸ハ、眞先ニ渡シタルゾト覺シクテ、向樣ニゾ出來タル。武藏太郎、是ヲ御覽ジテ、「汝ガ只今參タルコソ、日比ノ千騎萬騎ガ心地スレ」ト宣ケル。

[やぶちゃん注:「水付」「みづつき(みずつき/みずき)」は「七寸」とも書き、轡の部分名。手綱の両端を結び附ける轡の引き手部分をいう。但し、広義に手綱の両端の意でも用い、ここでは小熊が放した反動で泰時が落馬しているから後者であろう。

「萬年九郎秀幸」泰時の御内人。後、保奉行人(ほぶぎょうにん:保々奉行とも。後に執権となった泰時が新たに作った幕府の職制。暦仁元(一二三八)年に上洛して京の警固体制を整備した北条泰時は、鎌倉に帰ると京にならって「保」という行政単位を敷き、保官人である検非違使に習って鎌倉御府内の地域別警備担当者たる保奉行人を置いた。保奉行人であり,仁治元(一二四〇)年に御府内触れられた条例によれば、盗人・悪党以下の雑人の取締りや商売統制を任務の中心としている。その点で御家人を対象とする侍所とは管轄を異にし、雑人の裁判権を持つ政所の指揮下に属していた〔以上は平凡社「世界大百科事典」等に拠った〕)。北畠研究会のサイト「日本の歴史学講座」内の「御内人人物事典」の「万年秀幸」のページによれば、彼は具体的に『鎌倉に夜盗・殺害事件が起こった場合には松明を用意するように市民に布令したり、政所の下級役人や侍所の小舎人による市中騎馬の禁止、押買の禁止も布令している』とある。]

 

 去程ニ、相模國住人、樫尾三郎景高、東方ヨリ宗徒ノ者ト見ル敵ノ呼ヒテ出來ケルニ、押雙ベテ組デヲツ。樫尾未十六歳ニナル小冠者也。敵ハ大ノ男也。取テヲソフ。武藏太郎是ヲ見テ、「アナムザンヤ、樫尾打スナ」トテ、少スキノアリケル所ナレバ、馬ヲハタト出シテ、小笠懸射樣ニ落下テ、敵ガ鎧ノ草ズリノ餘、白ク見へケル所ヲ支テ射給フ。被ㇾ射テヨハル所ヲ、下人寄合テ手反ヲツカンデ引返ス。主從シテ首ヲ取。

 駿河次郎ノ手者共、先樣ニ渡ケルニ、格勤ノ源八男出來テ、「如何ニ次郎殿ハ」ト云フ。「見へサセ不ㇾ給」ト申ケレバ、アナ口惜、サテハ流レサセ給ケルニコソ、一所ニテ兎モ角モ見成進ラセ、見へ進ラセントコソ思ツルニ、何トナラセ給ヌラント思テ、向ノ河端ヲ見渡シケレバ、駿河次郎、先樣ニ渡タル者共サゾ思覽、旗差向ニ渡リタル三浦ノ笠符ヲ弓ノハズニ著テ指擧タリ。先ニ渡ル輩、是ヲ見テ、「アハヤ次郎殿渡サセ給ケルヲ」トテ跳擧リテゾ悦ケル。

 小河太郎、武藏太郎ノ手ニ續ニケリ。先樣ニ渡シタル勢、今續ヒテ渡ス。五百餘騎ニゾ成ニケル。「敵・御方ヲバ如何ニシテ存知スベキ」ト申セバ、「坂東勢ハ、只今河ヲ渡シタレバ、鞦・ムナガヒ・馬モヌレタリ。其ヲシルシトシテ討ヤ、者共」トテ、ヱリ拔ヱリ拔、是ヲ討。

[やぶちゃん注:二ヶ所の改行はママ。これらも段落番号はない。]

 

 京方ヨリ、赤地ノ錦ノ直垂ニ、萌黄ニホヒノ鎧、スノ金物打タルニ、白星ノ甲、キリフノ矢負テ、紅ノ母衣懸、白葦毛ナル馬ニ乘タル上﨟、宗徒ノ人ト見ル所ニ、「是ハ右衞門佐朝俊也。御所ヲ被罷出ケル時、君勝セヲハシマサバ、如何ナル有樣ヲシテモ可ㇾ參。御方負色ニ見へ候ハヾ、討死スベク候也」トテ懸出タリ。駿河次郎手ノ者、小河太郎、能敵ト目ヲ懸テ寄合處ニ、「是ハ駿河殿ノ手者」トテ押ヨケテ通シケレバ、此手ニハ加樣ノ人ハ不ㇾ覺ト思ケレ共、御方ト名乘ケレバ透シテケリ。其後右衞門佐、大勢ノ中ニ懸入、被組落テ被ㇾ討ヌ。

[やぶちゃん注:最後の大働きの策略、簡潔によく描けている。]

 

 又、京方ヨリ、火威ノ鎧、白月毛ナル馬ニ、長覆輪ノ太刀帶テ、呼ヒテ出來タリ。打エミタルヲ見レバ、カネ黑也。小河太郎、押雙ベケル所ヲ拔打ニ、小川ガ甲ノ眞甲ヲ被ㇾ打、目昏ミケレ共、取テ付テ二匹ガ間ニゾ落タリケル。心ヲ靜メテ見ケレバ、我組タル敵ノ首無ケリ。「如何ナル者ナレバ、人ノ組ダル敵ノ首ヲバ取タルゾ」ト呼リケレバ、「武藏太郎殿ノ手ノ者、伊豆國住人、平馬太郎ゾカシ。ワ殿ハタソ」。「駿河次郎ノ手ノ者ノ小河太郎經村」ト云ケレバ、「サラバ」トテ首ヲ返ス。小河、是ヲ不請取後二、後ニ此由申ケレバ、平馬太郎ガ僻事也、小川高名ニゾ成ニケレル。

[やぶちゃん注:纏まって「北條九代記」の筆者が採用した部分であるが、こうしてずっと読んでくると、ここがピックアップするほどには面白くない(もっと他の部分のほうが面白い)ということがお分かり戴けたものと思う。]

 

 又、京方ヨリ、「佐々木太郎左衞門尉氏綱」ト名乘テ懸出タリ。叔父ノ四郎左衞門尉、是ヲ見テ、「太郎左衞門、能散ゾ。中ニ取籠、討ヤ、者共」ト下知シケレバ、太郎左衞門、何トカ思ケン、カイフイテ引所ヲ、三浦ノ秋庭三郎寄合テ、押雙べテ組デ落。秋庭三郎ハ十七ニ成ケレ共、大力成ケレバ取テ押へテ首ヲ取。

[やぶちゃん注:「佐々木太郎左衞門尉氏綱」先に注したように、私は佐々木信綱の兄の長男継綱の誤りではないかと考えている。]

 

 又、京方ヨリ、萩野次郎、懸出タリ。是モ被組落テ被ㇾ討ニケリ。中條次郎左衞門尉ハ、奧州ノ住人宮城小四郎ト河端ニテ寄合テ、押雙テ組デ落。何レモ大力ナリケルガ、御方ニヤ引レケン、次郎左衞門被組伏テ被ㇾ討ケリ。

 

 以下、「吾妻鏡」の承久三 (一二二一) 年六月十三日及び宇治川合戦の一部始終と官軍の敗走を記した翌十四日の条も見ておく。

 

十三日丙寅。雨降。相州以下自野路相分于方々之道。相州先向勢多之處。曳橋之中二箇間。並楯調鏃。官軍幷叡岳惡僧列立招東士。仍挑戰爭威云々。酉刻。毛利入道。駿河前司向淀。手上等。武州陣于栗子山。武藏前司義氏。駿河次郎泰村不相觸武州。向宇治橋邊始合戰。官軍發矢石如雨脚。東士多以中之。籠平等院。及夜半。前武州。以室伏六郎保信。示送于武州陣云。相待曉天。可遂合戰由存之處。壯士等進先登之餘。已始矢合戰。被殺戮者太多者。武州乍驚。凌甚雨。向宇治訖。此間又合戰。東士廿四人忽被疵。官軍頻乘勝。武州以尾藤左近將監景綱。可止橋上戰之由。加制之間。各退去。武州休息平等院云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

十三日丙寅。雨、降る。相州以下、野路より方々の道に相ひ分かる。相州、先づ勢多に向うの處、橋の中二箇間(けん)を曳き、楯を並べ、鏃(やじり)を調(そろ)へ、官軍并びに叡岳の惡僧、列び立つて東士を招く。仍つて挑戰し威を爭ふと云々。

酉刻、毛利入道、駿河前司、淀・手上(たながみ)等へ向ふ。武州、栗子山に陣す。武藏前司義氏、駿河次郎泰村、武州に相ひ觸れず、宇治橋邊に向ひ、合戰を始む。官軍、矢石(しせき)を發(はな)つこと、雨脚(うきやく)のごとし。東士、多く以つて之に中(あた)り、平等院に籠る。夜半に及びて、前武州、室伏六郎保信を以つて、武州の陣に示し送りて云はく、

「曉天を相ひ待つて、合戰を遂ぐべしの由存ずるの處、壯士等、先登に進むの餘りに、已に矢合せを始め、戰ふに、殺戮せらるる者、太(はなは)だ多し。」

てへれば、武州、驚き乍ら、甚雨(じんう)を凌ぎ、宇治へ向ひ訖んぬ。此の間、又、合戰す。東士廿四人、忽ち疵を被(かうむ)り、官軍、頻りに勝ちに乘ず。武州、尾藤左近將監景綱を以つて、橋上の戰さを止むべきの由、制を加へるの間、 各々退去す。武州、平等院に休息すと云々。

・「相州」北条時房。

・「毛利入道」毛利季光。大江広元四男。当時、満十九歳。妻は三浦義村の娘。

・「駿河前司」三浦義村。

・「手上」地名なるも不詳。識者の御教授を乞う。

・「武州」幕府軍総大将北条泰時(三十九歳)。

・「前武州」足利義氏。当時、満三十二歳。

・「橋」宇治橋。

 

・「相ひ觸れず」通告せずに。この「吾妻鏡」の方の記載は明らかに両名にはどこか泰時を軽んずる思いが働いている感じがする(ように書かれているように私には見える。それは主に三浦義村に対して感ずるのである。ウィキの「三浦義村」によれば、泰時の若き日の前妻矢部禅尼〔長男時氏出生後に離縁しているが理由は不詳〕は義村の娘で泰時にとって彼は元舅に当たり、頼朝直参の幕府宿老として後に評定衆に列し、晴れて北条氏に次ぐ家格を獲得するに至る義村は執権となった泰時の定めた貞永式目にさえ反する行動をしばしばとり、「吾妻鏡」にも『傍若無人』と批判されてある)のであるが、ともかくも防衛線の渡渉を容易と判断した確信犯の先陣抜け駆けを狙ったのである(この辺、「承久記」では義村はそれを事前に厳しく制していたにも拘わらず、従軍以来、ろくな勲功をがないことを口惜しく思った家来らの先走った行為が原因となって合戦が始まってしまったとなってはいる。この辺の印象の違いは面白い)。ところが、豈に図らんや、想像を絶する対岸からの雨のような矢の攻勢に遇い、命からがら平等院へと逃げ込んで、結局、膠着状態に陥ってしまったため、慌てて未報告であった泰時に、「暁を待って渡渉総攻勢をかけるとの仰せを受け、河畔に待機して御座ったところが、血気にはやる壮士どもが、つい、先陣を競う気持ちから矢合わせを始めてしまい、すでに戦闘状態に入って御座る。雨の如き敵の矢に味方の者の殺戮せらるることこれ、甚だ多御座る。」という、如何にもな苦し紛れ言い逃れの虚偽報告をしているという風にここは読めてしまう。ちょっと、格好悪いね。

 

十四日丁夘。霽。雷鳴數聲。武州。越河不相戰者。難敗官軍由相計。召芝田橘六兼義。示可尋究河淺瀨之旨。兼義伴南條七郎。馳下眞木嶋。依昨日雨。綠水流濁。白浪漲落。雖難窺淵底。爲水練遂知其淺深。頃之馳皈。令渡之條。不可有相違之由申畢。及夘三刻。兼義。春日刑部三郎貞幸等受命爲渡宇治河伏見津瀨馳行。佐々木四郎右衞門尉信綱。中山次郎重繼。安東兵衞尉忠家等。從于兼義之後。副河俣下行。信綱。貞幸云。爰歟瀨々々々者。兼義遂不能返答。經數町之後揚鞭。信綱。重繼。貞幸。忠家同渡。官軍見之。同時發矢。兼義。貞幸乘馬。於河中各中矢漂水。貞幸沈水底。已欲終命。心中祈念諏方明神。取腰刀切甲之上帶小具足。良久而僅浮出淺瀨。爲水練郎從等被救訖。武州見之。手自加數箇所灸之間。住正念。所相從之子息郎從等。以上十七人没水。其後。軍兵多水面並轡之處。流急未戰。十之二三死。所謂。關左衞門入道。幸嶋四郎。伊佐大進太郎。善右衞門太郎。長江四郎。安保刑部丞以下九十六人。從軍八百餘騎也。信綱獨在中嶋古柳之陰。依後進勇士入水。欲渡失思慮。遣子息太郎重綱於武州陣云。賜勢可令着向岸者。武州示可加勇士之由。與餉於重綱。賜之訖。又歸于父之所。卯刻。雖着此中嶋。相待勢之程。重綱〔不着甲冑。不騎馬。裸而纏帷許於頭〕往還之間。依移尅。及日出之期也。武州招太郎時氏云。吾衆擬敗北。於今者。大將軍可死之時也。汝速渡河入軍陣。可捨命者。時氏相具佐久滿太郎。南條七郎以下六騎進渡。武州不發言語。只見前後之間。駿河次郎泰村〔主從五騎〕以下數輩又渡。爰官軍見東士入水。有乘勝氣色。武州進駕擬越河。貞幸雖取騎之轡。更無所于拘留。貞幸謀云。着甲冑渡之者。大略莫不没死。早可令解御甲給者。下立田畝。解甲之處。引隱其乘馬之間。不意留訖。信綱者。雖有先登之號。於中嶋經時刻之間。令著岸事者。與武藏太郎同時也。排大綱者。信綱取太刀切棄之。兼義乘馬雖中矢斃。依爲水練。無爲著岸。時氏揚旗發矢石。東士官軍挑戰爭勝負。東士已九十八人被疵云々。武州。武藏前司等乘筏渡河。尾藤左近將監令平出彌三郎壞取民屋造筏云々。武州著岸之後。武藏相摸之輩殊攻戰。大將軍二位兵衞督有雅卿。宰相中將範成卿。安達源三左衞門尉親長等失防戰之術遁去。筑後六郎左衞門尉知尚。佐々木太郎右衞門尉。野次郎左衞門尉成時等。以右衞門佐朝俊爲大將軍。殘留于宇治河邊相戰。皆悉亡命。此外官兵忘弓箭敗走。武藏太郎進彼後。令征伐之。剩放火於宇治河北邊民屋之間。自逃籠之族。咽煙失度云々。武州相具壯士十六騎。潛陣于深草河原。右幕下使〔長衡〕來此所云。迄何所有渡乎可奉見由。有幕下命云々。武州云。明旦可入洛候。最前可啓案内者。問使者名。長衡名謁訖。則以南條七郎付長衡。遣幕下之許。可警固其亭之旨。示付云々。毛利入道。駿河前司破淀。芋洗等要害。宿高畠邊。武州依立使者。兩人到深草云々。相州於勢多橋與官兵合戰。及夜陰。親廣。秀康。盛綱。胤義。棄軍陣皈洛。宿于三條河原。親廣者於關寺邊零落云々。官軍佐々木弥太郎判官高重以下。被誅于處云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

十四日丁夘。霽る。雷鳴數聲。武州、河を越えて相ひ戰はずんば、官軍を敗(やぶ)り難き由相ひ計り、芝田橘六兼義を召し、河の淺瀨を尋ね究むべきの旨を示す。兼義、南條七郎を伴いひ、眞木嶋へ馳せ下る。昨日の雨に依つて、綠の水流、濁る。白浪、漲(みなぎ)り落ち、淵底を窺ひ難しと雖も、水練たれば、遂に其の淺深を知る。頃之(しばらくあ)つて、馳せ皈(かへ)り、渡さしむるの條、相違有るべからずの由申し畢んぬ。卯の三刻に及びて、兼義、春日刑部三郎貞幸等、命を受けて、宇治河を渡らんが爲に、伏見の津の瀨へ馳せ行き、佐々木四郎右衞門尉信綱、中山次郎重繼、安東兵衞尉忠家等、兼義が後に從ひ、河俣(かはまた)に副ひて下り行く。信綱・貞幸云はく、

「爰か瀨は爰か瀨は。」

てへれば、兼義、返答を遂ぐ能はず、數町を經るの後、鞭を揚ぐ。信綱・重繼・貞幸・忠家同じく渡す。官軍、之を見て、同時に矢を發(はな)つ。兼義・貞幸の乘馬、河中に於て各々の矢に中(あた)り水に漂ふ。貞幸、水底に沈み、已に命を終へんと欲す。心中、諏方明神を祈念し、腰刀を取りて甲(よろひ)の上帶(うはおび)・小具足(こぐそく)を切り、良(やや)久くして僅かに淺瀨へ浮び出る。水練の郎從等が爲に救はれ訖んぬ。武州、之を見て、手自(てづか)ら數箇所の灸(きう)を加うるの間に、正念に住す。相ひ從う所の子息郎從等、以上十七人、水に没す。其の後、軍兵多く水面に轡(くつばみ)を並べるの處、流れ、急にして未だ戰はずに、十のうち二、三は死す。所謂、關左衞門入道・幸嶋四郎・伊佐大進太郎・善右衞門太郎・長江四郎・安保刑部丞以下九十六人、從軍八百餘騎なり。信綱獨り、中嶋の古柳の陰に在り、後進の勇士、水に入り、渡らんと欲するも思慮を失ふに依つて、子息太郎重綱を武州の陣に遣はして云はく、

「勢を賜はり、向岸に着かしむべし。」

てへれば、武州、

「勇士を加へるべし。」

の由を示し、餉(かれいひ)を重綱に與ふ。之を賜はり訖りて又、父の所に歸る。卯の刻、此の中嶋へ着くと雖も、勢を相ひ待つの程、重綱〔甲冑を着けず、騎馬せず。裸にして帷(かたびら)許りを頭に纏ふ。〕往還の間、尅を移すに依つて、日の出の期(ご)に及ぶなり。武州、太郎時氏を招きて云はく、

「吾が衆、敗北せんと擬す。今に於ては、大將軍の死すべきの時なり。汝、速かに河を渡り軍陣に入り、命を捨つべし。」

てへれば、時氏、佐久滿(さくまの)太郎・南條七郎以下六騎を相ひ具し進み渡す。武州、言語を發せず、只だ前後を見るの間、駿河次郎泰村〔主從五騎。〕以下の數輩、又、渡る。爰に官軍、東士の水に入るを見て、勝に乘ずる氣色有り。武州、駕(が)を進め、河を越さんと擬す。貞幸、騎の轡を取ると雖も、更に拘留するの所無し。貞幸、謀りて云はく、

「甲冑を着て渡すの者、大略、没死(もつし)せずといふこと莫し。早く御甲(おんよろひ)を解かしめ給ふべし。」

てへれば、田畝(でんぽ)に下り立ちて、甲を解くの處、其の乘馬を引き隱すの間、意(こころならずも留り訖んぬ。信綱は、先登の號(な)有りと雖も、中嶋に於いて時刻(とき)を經るの間、岸に著かしむる事は、武藏太郎と同時なり。大綱を排すれば、信綱、太刀を取り、之を切り棄つ。兼義が乘馬、矢に中り斃(たふ)ると雖も、水練たるに依つて、無爲に岸へ著く。時氏、旗を揚げ、矢石を發つ。東士・官軍、挑戰し勝負を爭ふ。東士、已に九十八人疵を被ると云々。

武州、武藏前司等、筏(いかだ)に乘りて河を渡す。尾藤(びとう)左近將監、平出(ひらで)彌三郎をして民屋を壞(こぼ)ち取りて筏を造らしむと云々。

武州、岸に著くの後、武藏・相摸の輩、殊に攻め戰ふ。大將軍二位兵衞督有雅卿・宰相中將範成卿・安達源三左衞門尉親長等、防戰の術を失ひて遁れ去る。筑後六郎左衞門尉知尚・佐々木太郎右衞門尉・野次郎左衞門尉成時等、右衞門佐朝俊を以つて大將軍と爲し、宇治河邊に殘留して相ひ戰ひ、皆、悉く命を亡(うしな)ふ。此の外の官兵、弓箭(きゆうぜん)を忘れ、敗走す。武藏太郎、彼の後へ進み、之を征伐せしめ、剩(あまつさ)へ、火を宇治河北邊の民屋に放つの間、自(おのづか)ら逃げ籠るの族(うから)、煙に咽(むせ)びて度を失ふと云々。

武州壯士十六騎を相ひ具し、潛かに深草河原に陣す。右幕下の使ひ〔長衡。〕、此の所に來て云はく、

「何(いづ)れの所に迄(いた)らば渡り有るや。見奉るべし。」

の由、幕下の命有りと云々。

武州云はく、

「明旦(みやうたん)入洛すべく候。最前に案内を啓(けい)すべし。」

てへれば、使者の名を問ふに、

「長衡。」

と名謁(なの)り訖んぬ。則ち、南條七郎を以つて長衡に付け、幕下の許へ遣はし、其の亭(ちん)を警固すべきの旨、示し付くと云々。

毛利入道・駿河前司、淀・芋洗(いもあらひ)等の要害を破りて、高畠(たかばたけ)邊に宿す。武州、使者を立てるに依つて、兩人、深草に到ると云々。

相州、勢多橋に於いて官兵と合戰す。夜陰に及びて、親廣・秀康・盛綱・胤義、軍陣を棄てて皈洛(きらく)し、三條河原に宿す。親廣は、關寺(せきでら)の邊に於いて零落すと云々。

官軍佐々木弥太郎判官高重以下、處に誅せらると云々。

・「宰相中將範成卿」は「範茂」の誤り。

・「右幕下」右大将西園寺(藤原)公経。彼の屋敷は後に金閣寺が建てられた場所にあった。

・「高畠」現在の京都市伏見区醍醐(だいご)高畑町(たかはたちょう)。]

2014/05/12

ブログ・アクセス570000突破記念 曲馬團 火野葦平

[やぶちゃん注:個人的に私はこのパロディとしての異類婚姻譚の、夢野久作をどこか髣髴とさせる雰囲気を持った、滑稽な中に何か曰く言い難いペーソスを孕んだ一篇が好きである。本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本日を以って570000アクセスを突破した記念として作成公開した。【2014年5月12日 藪野直史】]

 

 

 曲馬團

 

 あしへいさん、私は、例の曲馬團の生き殘りです。あの、二つの曲馬團が、蛭子(えびす)祭の最後の日に、大亂鬪を演じた事件は、相當に、町中の話題となり、新聞面を賑はしたことは、あなたの御承知のとほりですが、噂や報道には、すこしもつたはつてをりません。とくに、肝心要(かんじんかなめ)の大切な點が、全然、忘れられてゐます。それも、その筈でせう。兩者とも、馬鹿々々しいことに、全滅してしまつたのだから、ことの經緯(いきさつ)を知つてゐる者は、だれもゐないわけなのです。新聞でも、巷間でも、警察でも、ただ、二つの曲馬團の商賣上の利害競爭からの衝突、ちよつとうがつた説としても、興行上の繩張り仁義の出入りくらゐのところで、核心をついてゐるものは、一つもありません。あの途轍もない大喧嘩は、そんな簡單なものではなかつたのです。もつと深刻で、ロマンチックなもの、つまり、ラヴ・アフェアだつたのです。

 ものごとの眞相といふものは、えてしてかういふもので、歴史といふものも、眞實は伏せられたまま、誤りつたへられて行くものかもわかりませんから、このまま、ほつたらかしておいてもかまはないやうなものですが、私がかうしてあなたのところに參りましたのは、俗世間はともかく、我々の理解者たるあなたにだけは、ことの次第をぜひ知つておいていただきたいと思つたからなのです。幸ひ、私は、唯一ともいつてよい幸運の生存者ですから、やつて參りました。

 まづ、おしまひまで、お聞き下さい。

 この町の蛭子祭は、昔から近郊近在に鳴りびびいた福運の祭禮でしたから、三日間の期日は毎年、たいへんな混雜をきたすのを例としてゐました。渡船で、灣の入口をわたらねばなりませんが、渡場に押しかける參詣者の行列が、三町、五町に及ぶことは、珍しいことではありません。

 その賑はひが、今年は、また特に輪をかける騷ぎとなりました。それといふのが、例の曲馬團のためだつたのは、いふまでもありません。毎年、祭には、種々の高物がかかり、のぞき、蜘蛛(くも)人間、海女(あま)、ろくろ首、八幡の藪、活動人形、猿芝居、女レスリング、サーカス、など、珍しいものがやつて來て、客を呼ぶのですが、珍しいといつても、毎年來るものの趣好は、大體似たりよつたりで、これはといふものもなかつたわけです。

 そのコスモポリタン曲馬團にしたところで、例年やつて来て、曲目も、冐險も、出すものを出しつくし、この上の工夫も浮かばず、いはばマンネリズムにおちいつてゐたわけですが、この年は、それが、さうではなかつたのです。客が、たれもかれも、コスモポリタン・サーカスを目ざしてものすごい殺到ぶりを示したのは、いふまでもなくあの河童の見世物が、新しく加はつてゐたからなのです。

「ええい、いらつしやい。いらつしやい。世界的サーカス、コスモポリタンの世界的花形、世界中どこを探しても、めつたには見つからぬ珍奇の隨一、正眞正銘の河童の曲藝、本年度隨一の呼びものでございます」

 マイクをとほして鳴りわたる呼びこみの聲は、活氣にあふれ、自信に滿ち、たしかにゐならぶ高物のすべてを壓してをりました。

「河童と申しまする我が國獨特の動物、頭に皿、背に甲羅、手足には水かき、三歳の小兒のごとく、小柄にて、嘴とがる愛矯者、かずかずの珍妙なる曲藝を演じまして、みなさまに御滿足をあたへます。さあ、今今、早いが勝ち、早いが勝ち」

 雜沓のなかで、群衆は口々に、

「河童がゐるなんというとるが、ほんものぢやらうか?」

「別府に河童のミイラがあるが、あれと同じで、こしらへものぢやないか。ほんとにをるわけがない」

「でなかつたら、人間が扮裝(ふんさう)しとるんだ」

「騙(だま)されるな」

 敏感に、さういふ呟(つぶや)きを聞きとつた呼びこみは、いよいよ得意に聲を高めます。

「絶對にインチキではない。正眞正銘の河童のほんもの、びちびちと生きてゐて、藝當をする。さあきあ、論より證據、百聞は一見に如かず。錢は見てのお歸り。インチキだつたら、一錢もいらない。さあ、今今、今今」

 かうして、はじめは半信半疑で、客は入つて來たのですが、それが呼びこみの言葉に、すこしも噓がないとわかると、たちまち人氣は沸騰(ふつとう)し、コスモポリタン曲馬團は人間を吸ひつける巨大な磁石になつたやうな盛況を呈するにいたりました。

 さらに、このことが新聞に出ましたので、祭はそつちのけに、ただ河童を見るだけに、遠方から、汽車に乘り、電車に乘り、般に乘つて、やつて來る者が激增しました、ただ、不思議なことは、新聞に麗々しく記事は出てゐますが、當の河童の寫眞がないことです。かういふ記事には寫眞がつきものであることは、常識でありますのに、それがない。そのため、いくらか疑念をいだく者もあつたのですが、新聞にはそのことについても、釋明はしてありました。新聞社としてはまつさきにカメラマンをつれて行つて、撮影したわけなのですが、現像し燒附してみると、河童が寫つてゐないといふのです。たしかにピントを合はせてシャッターを切つたのに、全然、河童の姿がない。それが技術上の失敗でないことは、河童の周圍のもの、サーカスの舞臺、綱わたりのロープ、河童が手にもつてゐた傘、乘つてゐた一輪車などは、ちやんと寫つてゐるのでわかります。映畫に、透明人間といふのがありましたでせう。ちやうどあれと同じで、寫眞には、河童の實體が出てゐないのです。これは、カメラ・マンを仰天させましたが、このことが、やはり、その河童が、正眞正銘のほんもの、なにかの妖術か神通力かをもつてゐる河童の習性を、實際に示したものだといふことになつて、きらに、人氣を增すに役立らました。コスモポリタンは、連日、押すな、押すなです。

「たしかに、ほんものだ」

 一度見た者は、もう誰ひとり、それを疑ふ者はなく、木戸錢を拂はないといふ者はありませんでした。噂は噂を呼び、人が人を呼んで、コスモポリタンは大賢繁昌です。

 

 

 

 なぜ、河童がこの一座に加はつてゐるかといふことが、はじめはわかりませんでしたが、まもなく明らかになりました。それは、へまをやつて、遠賀川(をんががは)の土堤(どて)でつかまつたのです。

 曲馬團の一行が、この町の蛭子祭にくりこむために、遠賀川に添つた道を歩いてゐますと、一頭の馬が突然うごかなくなり、奇妙な悲鳴に似た斯(いなな)き聲をたてました。をかしなことに思つてゐるうちに、ずるずると川の方へずり落ちて行きます。

「河童だ」

 一行のうちにゐた道化役者(ピエロ)が、さう叫びました。彼はこの川に河童が多いといふことや、その河童が、よく馬や牛を川に引きこむことをも聞いて知つてゐました。豪膽で、強力のピエロは、つかつかと馬の後足のところに近づいて行くと、そこへ、ペつペつと、唾(つば)をはきかけました。すると、いままでなにも見えなかつたのに、唾が散ると同時に、一匹の河童の姿があらはれたのです。河童は馬の後足をつかんでゐましたが、唾がかかると、急に力が拔けたやうに、そこへ、げんなりとへたばつてゐます。

 自由になつた馬は、よろこびに嘶いて、土堤のうへに走りあがりましたが、もつとよろこんだのは、馬に乘つてゐた少女です。一體、この曲馬團は、三十人ほどの一座で、馬が八頭をり、親方といはれてゐる團長を先頭に、足弱のサーカスの少女たちは、いづれも馬に乘つてゐました。その河童に引き入れられようとした馬に乘つてゐたのは、マリ子といつて、一座の人氣者で玉乘り專門、くりくりした二重瞼の眼、ふつくらした頰と、二枚の花びらのやうな唇、ふさふさした黑い斷髮、女輕業師たちのなかで、もつとも美人でした。マリ子ははじめは仰天してまつ靑になつてゐましたが、助かると、うれしさで、ぼろぼろと涙をながしてゐました。

「太え河童だ」

「うち殺してしまへ」

「ふん縛れ」

 團長や、道具方の荒くれ男たちは、口々にわめきましたが、捕へたピエロは、急に、なにか思ひついた風で、にこにこしはじめました。そして、親方にそつと耳打ちをしてゐましたが、それまで佛頂面をしてゐた親方も、にはかに笑顏になつて、

「うん、お前にまかせた」

 といひました。

「こら、不屆な河童奴」

 ピエロは、わざと恐しい形相をつくつて、そこへ這ひつくばつてゐる河童を睨みすゑました。

 河童にとつて、人間の唾と佛飯(ぶつぱん)とは鬼門(きもん)です。ピエロは、そんなことをよく知つてゐたものでせう。唾をはきかけられると、神通力はなくなつてしまひ、かわくまで、身體の自由すらも利きません。しかし、いくらか氣力をとりもどして來た河童は、自分の生命の危險を感じとつて、狼狽し、

「どうぞ、お助け下さい。自分が惡くありましたです。どうぞ、命ばかりはお助け下さい」

 と、必死になつて歎願をはじめました。

「勘所ならぬ。うち殺してくれる」

 ピエロは、棍棒をふりあげて嚇(おど)します。

「どうぞ、どうぞ、一生のお願ひ。命さへ助けて頂けば、どんなことでもいたします」

「ほんたうに、どんなことでもするか」

「はい、河童は一度約束しましたことは、けつして破りません。人間のやうに、噓はつきません」

「餘計なことをいふな。……それでは、命を助ければ、俺のいふことをなんでも聞くといふのだな」

「はい」

「よし、それでは、命は助けてやる。そのかはり、今日から、うちの一座に加はれ」

「あなた方の曲馬團に入るのですか」

「さうだ」

「さうして、なにをするのですか」

「曲藝をするのだ」

 河童は世にも情なさうな顏をしました。しかし、河童のいつたとほり、河童といふものは、一旦約束したことは、絶對に守るといふ美德を持つてゐました。そのときから、河童が一座に加はつたのです。

 ピエロのこの氣轉は大成功でした。寶籤で百萬圓當つたよりも、もつとはげしい當りかたで、それまでどこの興行でも不入り、赤字つづきだつたのが、この町の蛭子祭ではいつペんにすごい成績をあげることができたのです。

 

 

 

 河童は藝當をするといつても、綱わたりをしたり、自轉車に乘つたり、踊つたりするくらゐのことでしたが、いづれにしろ、河童そのものが呼びものなのですから、なにをしなくてもよかつたわけです。客の方は、話にきいたとほりの傳説の動物の實物が、眼前に生きて動いてゐるだけで、滿足なのでした。

 河童は怒濤(どたう)のやうな拍手と喊聲(かんせい)のなかに舞臺に出て、傘をさしてロープをわたつたり、一輪の自轉車を乘りまはしたりしますが、いかにも佛頂面で、愛嬌といふものがありません。まるで、怒つてゐるやうにも見えます。すると、それがかへつて愛嬌になつて、人氣はさらに高まる。

「つないで置かないと逃げやしねえか」

 はじめ團長をはじめ、皆それを心配しましたが、河童は全く信義を守る者でした。足に鎖をつけようとしたり、檻に入れようとしたのを、自分で斷りましたが、逃げる氣配などまつたくなく、おとなしく、神妙に一座のなかで暮すのでした。

「ありがたう。お前のおかげで、コスモポリタンも息を吹きかへした。なんでも食べたいものをいひな。どんな御馳走でもしてやる」

 上機嫌の團長は、よくさういひましたが、その都度、河童は首をふつて、

「なにもいりません。胡瓜と茄子とだけあれば充分です」

 と、靜かにいふのでした。

「それでも、なにか欲しいものがあるだらう。遠慮なく、いつてみな」

 團長がさういひますと、河童の眼がくりくりと動いて、またたきました。その眼に、いひやうもない淋しい光がありました。團長の言葉に、たしかに、心が動いた。なにか欲しいものがある。しかし、それをいひだすことを、強い忍耐と克己心とで押へてゐる、その氣配が見えました。

 團長も氣づいて、

「ほんとに、欲しいものがあつたらいふがよい。できることなら、叶へてやる」

「いいえ、なにもありません」

 そして、河童は悲しげに、うつむいてしまふのでした。

 河童の胸のなかは、千々にみだれてをりました。河童は、戀をしてゐたからです。河童がひそかに思ひをかけてゐたのは、曲玉乘りのマリ子でした。曲馬團一行が遠賀川の土堤を通りかかつたときに、川の中からこれを眺めてゐた河童は、八頭の馬の三番目に乘つてゐるマリ子に目がとまりました。さうして、彼女の乘つた馬の足をつかんで川へ引き入れようとしたのですが、ピエロの智慧と膂力(りよりよく)によつて、不覺をとりました。そのとき、すでに、河童の目的は、馬にあつたのではなくして、マリ子にあつたのでした。

 命を助けられ、一座のなかで暮すやうになつたとき、河童はこの奇貨(きくわ)に、内心はよろこんだのです。マリ子と一緒に暮すことができる、そのうれしさの方が、人間に捕へられて奴隷(どれい)となり、恥さらしな曲藝をしなくてはならぬその苦痛よりも、大きかつたのです。河童はマリ子ひとりのために、日々の憂悶を忘れました。河童の人氣のために、蛭子祭はすんでも、サーカスはロング・ランのヒットをつづけ、一週間、十日と日が延び、同時に、河童のマリ子への慕情は、切なく高まつて行くばかりでした。しかしながら、どうして捕はれの身の河童が、一座の人氣者たるマリ子への戀などを打らあけることができませうか。内氣な河童は、日々つのる胸の焰を、苦しげにおさへながら、心にもない舞臺の日々を送つてゐたのです。

「なんでも欲しいものがあつたらいひな。叶へてやる」

 と、親方にいはれても、そんならと、甘える氣持にもならないのでした。

 きらびやかな衣裳のマリ子が、五彩をほどこした大きな毬を乘りまはしながら、澄んだ聲でうたひ、踊りますと、その美しさはかがやき散るばかりで、大向かふから、

「女王」

「クレオパトラ」

「日本一」

 といふやうな聲がかかります。

 河童は小屋の隅から、それを眺めながら、胸ときめかし、ため息をつき、自分が河童といふ卑賤の身である宿命を歎きます。人間であつたら、なんの引け目もなく、すすんで求愛するのにと、情なくなります。河童は、そして、嫉妬の思ひで、打ちふるへます。マリ子はまだ少女で、夫も男もないことは知つてゐます。しかし、美しいマリ子を、どうして、助平な人間の男たちが、放つておきませうか。何人もの團員が、いく度となく口説き、ものにしようと競爭してゐました。とくに、このごろでは、道化役者がもつとも積極的で、執拗(しつえう)です。

「おい、マリちやん、お前は恩を忘れたか。俺があのとき、河童をとつちめなかつたら、お前は馬といつしよに川の中へ引きこまれてゐたんだぜ。危いとこだつたよ。俺やお前の命の恩人だぜ」

 ピエロには、絶好の理由があるのです。

 河童は、マリ子がピエロから抱きすくめられて、危く自由にされようとしたのを、やつと逃げた場面をなん度か目撃しました。そんなとき飛びだして行くことのできぬ囚虜

しうりよ)の身の自分が、無念でなりませんでした。

 しかし、ともかく、河童は、マリ子がゐることによつて、恥多いサーカスの生活も我慢してゐることができました。河童も、人間も、戀愛感情の純粹さにおいて、なんら逕庭(けいてい)はなく、いや、單純な河童の方が、むしろ、人間よりも、一層、淸純であつたかも知れません。このとき、河童は、不幸と幸福との想念のなかに身をおいて、生き甲斐を感じてゐたのであります。

 ところが、事態は、急轉しました。

 或る日、コスモポリタン曲馬團の天幕を、一匹の河童が訪れて參りました。裏手にある事務所の入口から、この河童は、いんぎんに、仁義を切りながら入つて來ました。

 私はよく知りませんが、興行師などの渡世人には、むつかしい仁義の掟があるさうで、なにか話をしに行くにしても、いきなり、のこのことは、入つて行けぬらしい模樣です。そこで、その河童も、よくさういふことを研究したものらしく、

「ごめんなさい」

 と、聲はかけたが、中に入らず、入口の扉を七分三分の三分だけ開け、腰も七三に曲げて、佇みました。

 すると、曲馬團の方は、仁義の專門家ですから、子分が出て來て、

「お出でなさい」

「西海道は九州博多、渡世宗家の大金看板、コスモポリタン・サーカスの岩熊權八郎親分さんのお座所は、こちらでござんすか」

「御意(ぎよい)にござんす。お入りなさい」

 そこで、三歩下つて、腰をかがめ、

「恐れ入ります、これにて仁義願ひます」

「それにて仁義なりません。お入りなさい」

「どう致しまして、高うござんす。憚りでござんす。失禮さんでござんす。これにて仁義願ひます」

「それにて仁義なりません。御同樣に高うござんす。慣憚りさんでござんす。失禮さんでござんすが、お入りなさい」

「恐れ入ります。ぜひとも、高うござんす。憚りさんでござんす。失禮さんでござんすが、これにて仁義願ひます」

「それにて仁義なりません。高うござんす。憚りさんでござんす。失禮さんでござんすが、ぜひとも、お入りなさい」

「ありがたうござんす。高うござんす。憚りさんでござんす。失禮さんでござんすが、再三のお言葉に甘えまして、ごめんなさい」

「お入りになつたら、お掛けなさい」

 河童はそこではじめて、中に入つて腰かけるわけですが、こんな七面倒な仁義のやりとりなどは省きませう。なんでも、渡世人仲間には、ちやんとした方式があるとのことで、仁義を切りそこなつた方が負けになるので、隨分とやかましいものださうです。やつと中に入つた訪問者も、腰をのばして三歩進み、四歩目に閾(しきゐ)をまたいで、また三歩進み、すなはち表の軒のところから七歩進み、相手の座敷が右ならば右足を、左ならば左足を半分引いて、中腰になり、手拭は四つ折にして左手につかみ、親分が生きてゐたら兩方の拇指を出し、死んでゐた場合には、拇指(おやゆび)を指のなかに握りこみ、脛(すね)のうへに兩手をおき、下駄草履をぬいで、そのうへに足をのせ、中腰になつて――いや、もうやめませう。私がいまこれをいふのは、その日やつて來た河童が、自分たちはその專門家ではないにもかかはらず、相手がさうであるために、ちやんと方式を研究して來て、すこしも間違はなかつた熱心さを、おどろくべきことであると思ふからです。仁義は手のこんだもので、本親付(ちかづき)、三々の親付、ざつくばらんの親付、一口親付、現代式親付、現代一口親付、と嚴密にいへばわけられるらしいのですが、その日の河童は、もつとも格式ばつた本親付の仁義で、そのときやつて來たのです。ともすれば、子分から、親分にとりついで貰つて、用件を切りだすまでには、何時間といつてかかるわけで、馬鹿げたことのやうですが、その理由といふのは、實に涙ぐましいことでした。それは、遠賀川であやまちををかし、人間の虜(とりこ)となつて、サーカスでこき使はれてゐる哀れな仲間河童を、救ひだしたいための一心なのでした。

 河童がつれ去られて以來、川の河童たちは、種々協議して、なんとかつれて歸りたいと、案を練つたあげくに、

「これは、コスモポリタンの團長に辭を低うして、懇請する外に、手はない。もともと、こちらに落度があるのだから、荒立ててはいけない。われわれの神通力をもつてすれば、暴力をもつて奪還(だつくわん)することは、易(い)々たるものであるが、それこそ、河童が信義の動物たることの傳説の掟に反する。本人もかたく約束して、一座に加はつたのである。そこで、こちらからは折れて出て貰ひ下げて來るのが穩當で、唯一のとり得る方法だ。さうすると、相手は名だたる金看板(きんかんばん)の渡世人だから、方式どほりに挨拶をせねば、目的の達成はできない」

 この結果、にはかに、仁義の研究がなされ、それに手間どつて興行現場へ訪問するのが、遲れたわけでした。

 訪問、案内、面會、用談、とすべて型どほりに進められたのですが、そんなことは省略して重點だけを要約しませう。

 サーカスの團長にやつと面會した河童は、

「惡かつた點は、重々おわび申しあげますので、このたびは、特別の御寛恕(ごくわんじよ)をもつて河童を釋放願ひたく、參上いたしました」

 と、丁寧に申し入れました。

 ところが、團長の岩熊權八部親分は、けんもほろろで、

「ならぬ。絶對に歸さぬ」

「御立腹はごもつともですが、奴も、ほんの出來心でありましたのでせうし……」

「何度いつても同じだ。本人が約束したのだから、諸君がさし出口を聞くな」

「本人は、川に歸りたいのは、山々なのでございます。しかし、河童の掟にしたがつて、泣く泣く我慢をしてゐるのでございます。なにとぞ、衷情(ちゆうじやう)が察し下され、特別の御配慮をもつて……」

「うるさい。……おい、若え奴等、こいつをつまみ出せ」

 使者の河童は、五六人の荒くれ男から、天幕の外へ放り出されました。

「とつとと、川へ歸りやがれ。愚圖々々しとると、貴樣もつかまへて、見せ物にするぞ」

 遠賀川の底で、結果を案じてをりました河童たちは、これを聞いて、落膽いたしました。一筋繩でいかぬ手強さを感じ、みんな暗澹とした氣持になりました。首をうなだれ、顏見あはせ、吐息をつくばかりで、名案も出ません。

「一度で挫(くじ)けては、駄目だ。成功するまで何囘でもやらう」

 とどのつまりは、その案に全員が一致、またぞろ、使者が出かけました。今度は別の河童が行つたのですが、前者とまつたく同じに追ひかへされました。その後も、根氣よく入れかはり立ちかはり通ひつづけましたが、とんと效果はありませんでした。それどころか、もう先方では、仁義なども受けつけようとはせず、

「また、來やがつたか」

と、顏を見た途端に挑(いど)みかかつて來て、のちには、河童たちは、蹴られる。叩かれる。つきとばきれる。背の甲羅にひびが入つたり、水かきが破れたり、大切な頭の皿が割れたりする始末で、怪我人、病人が續出するありさまとなりました。

 ここにいたつて、さすがに、おとなしく忍耐づよい、信義に厚い河童たちも、堪忍袋の緒を切つたのです。といつても、暴力に訴へて、捕虜を奪還することは、やはりさしひかへ、智慧者が一案を編みだしました。

「うん、それがよい」

 と、全部が、會心の笑みをたたへて、その案に贊成いたしました。

 

 

 

 蛭子(えびす)神社の廣場に奇妙な光景が現出いたしました。コスモポリタン曲馬團のテントの正面に、もう一つ、ほとんど似たやうな高さの大天幕が張られ、そこでも、サーカスが始まつたのです。

「さあさあ、いらつしやい。いらつしやい。こちらは河童大曲馬團であります。ほんものの河童五十匹の大一座、神變不可思議の大曲藝、大魔術、水遁(とん)、火遁、風遁、雲遁の大忍術。はては、空中飛行、河童レヴュー、歴史上一度もあらはれたことのない珍奇絶妙の大藝術。さあ、今今、お早いが勝ち、料金は無料、どこかのインチキサーカスが、たつた一匹の河童を賣り物にするのとは、似ても似つかぬ大規模の河童一座、さあさあ、お入り」

 メガホンで一匹の河童がしきりに口上を述べます。

 この結果は、想像がおつきでせう。なにがさて、一匹でも珍しかつた河童が、五十匹もで組んで、新に曲馬團をはじめた。しかも、只といふ。只より安いものはない。これに客が殺到しなかつたら、噓です。コスモポリタンどころの騷ぎではありません。客が、雲霞か、海嘯(つなみ)のやうに、どつとこの河童サーカスに押しよせたばかりでなく、コスモポリタンの方は、がらあきになつてしまひしました。入つてゐた客まで、向かふ側がはじまると、風呂の栓(せん)を拔いたやうにどんどん減つてしまつて、前の小屋へ入つてゆくのです。コスモポリタンの方では、ただ、あれよあれよと呆然としてゐるばかりで、いくら聲を嗄(か)らして、客を呼びとめても、歸る筈はありません。

「畜生」

 と、團長の岩熊權八郎は齒嚙みをして、河童サーカスの方を睨みつけます。

 がらんとなつた小屋のなかで、捕虜になつてゐた河童は、仲間の友情に、涙の出る思ひが致しました。恥を忍んで、舞臺に出てゐたのに、もう出演の必要がなくなりました。客が來ないからです。仲間が自分を貰ひうけに何度も來てゐたことを、彼は知つてをりました。そのたびに失敗し、ひどい目にあつてゐるのを知つて、ゐたたまらぬ思ひがしました。とるにも足らぬ自分一人のために、全河童が結束して、救援の道を講じてくれる、その好意は、どんなに感謝しても足らぬほどです。だのに、河童は心の一隅で、そのことに何か不吉を感じてゐました。不吉な豫感がしてならないのです。不幸と幸福との奇妙な混淆(こんかう)のなかにゐながら、生き甲斐も感じてゐた彼の矛盾は、あきらかに、マリ子に對する感情によつたものです。しかも、彼が廣大な寂寥(せきれう)をもつて、この戀をあきらめてゐましたのに、このごろでは、マリ子が彼に好意を示しはじめてゐたのです。さらに、好意だけでなく、河童の愛に應(こた)へようとする態度すらほのめかしてゐたのです。

「團の人たちつたら、みんな、いやらしいわ。獸みたいよ。ことに、ピエロときたら、まるきり、野獸よ。わたし、座の人、誰も彼もきらひよ」

マリ子は、さういふ率直な氣持を、河童に打ちあけるやうになつてゐました、十數日を暮すうち、マリ子も、いつか、河童のいだいてゐる感情、胸のうちを感じとるやうになつてゐたやうです。戀愛感情といふものは、電氣のやうに、或ひは、なにかのエーテルに似たものを、放射するものでせうか。眠が千萬言よりも、ものを言ふからでせうか。マリ子は河童の自分に對する氣持を知り、しかも、それを押し殺してゐる純情に氣づくと、座の連中のいやらしさに對する反動のやうに、急速に、河童へ傾いていつたもののやうです。さうなれば、もう、人間と河童の區別はありません。まだはつきりとは、言葉ではあらはしませんが、心のつながりはできてゐました。

「あんたが、あのとき、馬を川に引きこまうとしたのは、あたしが目的だつたのね」

 マリ子は、そこまで氣づくやうになつてゐました。河童は、羞恥(しうち)で顏が赧(あか)らみましたが、うれしさで、頭の皿の水がたぎり、背の甲羅がひきしまりました。自分の思ひの叶ふ日の近づく豫感に、泣きたい思ひにすらなりました。

 かういふ時期でしたので、仲間たちが自分を救ふために種々畫策し、努力してくれる友情がうれしい反面、迷惑といふのではありませんが、不安は掩(おほ)ひがたかつたのです。すまぬ話ながら、おせつかいは止めて欲しいと思ふこともありました。もうこのままでいい、マリ子と相愛になつてをれるのだから、この曲馬團の奴隷でもいい、いつまでもゐてもいい、と思ふやうになつてゐたからです。

 

 

 

 萬事は終りました。

 二つの敵對する曲馬團が、向かひあつて競爭してゐて、ただですむ筈はありません。しかも、それは競爭ではなくて、河童サーカスの方の一方的勝利、コスモポリタンの急速な凋落(てうらく)なのですから、無事である方が無理です。名だたる渡世人の金看板の岩熊權八郎が、本性をあらはしました。

「畜生、河童の分際で、ふざけた野郎どもだ。岩熊親分に對して、なめた眞似をしやがる。吠面(ほえづら)かくな」

 かうなると型どほりです。

 勢揃ひ、なぐりこみ、猛獸のやうな團長を先發に、コスモポリタンの荒くれ男ども、それに女輕業師の連中まで、手に手に武器をふるつて、河童サーカスになだれこみました。折から、黑山の觀衆が見物中でありましたから、たちまち大混亂、落花狼籍、阿鼻叫喚(あびけうくわん)の巷と化しました。戰鬪が開始されました。

 多分、物識(し)りのピエロの知慧でせう。河童の苦手で、敵とすべき唾、佛飯、忍冬(すいかづら)、蛞蝓(なめくぢ)、さういふものの猛攻擊で、さすがの河童もたじたじとなりました。萬事は騎虎の勢、はげしい格鬪がつづいて、どちらからも、次々に、犧牲者が出はじめました。

 さうして、わづか三十分ほど後には、どちらも、全員横死、すなはち全滅してしまつたのです。馬鹿々々しいことです。

 あしへいさん、これが、このごろ世間を騷がした兩曲馬團衝突の顛末(てんまつ)です。巷間や、新聞記事と、私の話とは、だいぶん違つてをりますでせう。私は、そのころ、事件の中心にをりましたので……いまは、なにを隱しませう。私こそ、その事件の元兇たる河童なのです。私が、最初、遠賀川の土堤を通るコスモポリタン一座のマリ子を見染めたばかりに、かういふ騷ぎが起つたのです。なんといふことでせうか。

 コスモポリタンと、河童サーカスとが、亂鬪をはじめたとき、私とマリ子とは、逸早(いちはや)く、手に手をとつて、不愉快な修羅場を脱出いたしました。いよいよ、二人だけの幸福な生活をいとなむことのできる機會の來たよろこびで、二人とも有頂點でした。私たちは、石峰山(いしみねやま)の下にある池のなかへ逃れ、やれやれと胸をなで下しました。さうして、はじめて、抱擁しあつて、前途を祝福いたしました。

 あしへいさん、須臾(すゆ)の間の私たちの幸福でした。コスモポリタン側も、河童側も、ことごとく全滅といふ悽慘な結果を知るにいたつて、私たちの夢は、一擧にくづれました。多くの人々を犧牲にして、どうして、私たちだけ、生きてゐられませうか。私たちは心中をすることにきめました。……おや、あなたは、なぜ止めるのですか。これは駭(おどろ)いた。なぜ、止めるのです。私たらに生き永らへて、もつと苦しめといふのですか。駭きましたね。あなたが、止めるやうな人だつたのなら、こんな話をするんぢやなかつた。あなたが、いくら止めても、駄目です。これは宿命であり、掟です。あしへいさん、これは、なすな戀といふことでせうか。いいえ、私は滿足です。マリ子が待つてゐますので、もう私は歸ります。ともかくも、これまで、我々河童のよき理解者であつたあなたに、すべてを話して、私も安心しました。氣が輕くなりました。明日は、山のふもとの池に、私とマリ子の死體が浮かぶかも知れませんが、人々は、また、河童が人間の女を誘拐した、だが、しくじつて自分もくたばつた、などといふでせう。なんといはれてもよろしいです。……では、さやうなら。

 

[やぶちゃん注:「蛭子祭」これは祭りに関わる、後の「渡船で、灣の入口をわたらねばなりません」という叙述部分と、作中に「遠賀川」(福岡県筑豊地区から北九州市・中間市・遠賀郡を流れる一級河川)「石峰山」(標高三〇二メートルで北九州市若松区にある山)が登場することから見て、福岡県北九州市若松区浜町にある若松恵比須神社(通称「若松のおえべっさん」)の若松えびす祭と思われる。同神社は洞海湾の西岸にあるが、現在の洞海湾に架かる日本初の長大橋若戸大橋の架橋は昭和三七(一九六二)年で火野葦平没後であり、調べてみたところ現在も若松区と同北九州市戸畑区を結ぶ渡し船若戸渡船(わかととせん)が現存している。北家登巳氏のサイト「北九州あれこれ」の「若松えびす祭」によれば、『若松は、江戸時代福岡藩の米積出港として、江戸時代から昭和まで石炭積出港として繁栄してきました。海上安全の神様として若松恵比須神社は多くの人々の崇敬を集め、商売繁盛の神様として「おえべっさん」と呼ばれ、古くから遠くからも多くの人々がお参りしました。若松恵比須神社は、現在も洞海湾の近くにありますが、明治20年代の初めまで、その北側は海岸でした。船でお参りする人もいたといわれています』とある。この若松恵比須神社の祭りは春季例大祭(四月二日から同月四日)と秋季例大祭(十二月二日から同月四日)があり、孰れも若松えびす祭と呼称している。恋の物語(「ラヴ・アフェア」)、恋の季節ということからはシチュエーションは春か。

「高物」「たかもの」と読み、興行物・見世物・サーカス等をいう。そうした業界での隠語である。

「カメラマン」と後の「カメラ・マン」の表記の違いはママ。

「有頂點」はママ。

「須臾(すゆ)」読みはママ。]

2014/05/11

北條九代記 卷第六  宇治川軍敗北 付 土護覺心謀略(2) 承久の乱【二十五】――勢多の戦い

去程に東海道の先陣相摸守時房承久三年六月十二日、勢多の橋近く野路(のぢ)に陣を取る。人を遣して見せらるゝに、橋の中(なか)二間(けん)を引落し、搔楯(かいだて)をかき、山田次郎を始として、山法師大勢にて控へたり。相摸守の手の郎等、早川重三郎、階見(はしみの)太郎、佐々目(さゝめの)五郎、足立(あだちの)三郎、讃岐(さぬきの)太郎等(ら)、橋爪(はしづめ)に押寄せて、行(ゆき)げたを渡りて戰ふに、江戸〔の〕八郎、眞甲(まつかふ)を射られて、倒(さかさ)まに落(おち)て流れたり。熊谷(きまがへ)平内左衞門、久目(くめの)左近、吉見十郎、廣田(ひろたの)小次郎、押詰(おしつめ)て三の掻楯を切破り、錣(しころ)を傾けて攻(せめ)掛る。山田次郎、是を見て山の大衆に向ひて、「あれほどの小勢をば、如何に渡させ給ふぞ」といひければ、播磨竪者小鷹坊(はりまのりつしやこたかばう)、心得たり、とて大長刀、水車に廻して寄手六人掻楯の際に薙臥(なぎふ)せたり。熊谷平内左衞門尉、小鷹坊に引組て、首を搔(かゝ)んとする所に、山田次郎が郎等、荒(あら)左近、落合て、熊谷が首を取る。大將相摸守は、「此軍(いくさ)、早り過ぎて、人数を損する事、然るべからず。暫く靜(しづめ)て色を見よ」と下知せられしかば、橋爪を引退(ひきしりぞ)きて、只、矢軍計(ばかり)ぞ致しける。

[やぶちゃん注:〈承久の乱【二十五】――勢多の戦い〉

野路滋賀県草津市野路。琵琶湖北端の南東湖岸。 

「橋の中二間」勢多(瀬田)の唐橋(当時の瀬田川(滋賀県内に於ける淀川上流の呼称)に架橋されていた唯一の長橋)の中央の約三・六メートル分の橋板を完全に割り抜いたのである。当時、東から京に入るにはここか琵琶湖を渡る以外にはなかった。現在のそれは全長二百六十メートルである。

「搔楯」垣楯。「かきだて」の転訛。垣根のようにびっちりと楯を立て並べること。

「行げた」行桁。橋の長い方向に沿って渡した桁で、川に対して直角の、対岸方向に差し渡した、橋板を左右で支えるための橋桁のこと。

「三の掻楯」官軍は抜き落した中央部から西岸方向(現在の唐橋の川岸(川幅は約二〇八メートルある)で試算すると約百メートル弱ある)へ向かってやや間隔を配して掻楯を配した、その中央部から三箇所目のもの。当時は百メートルもなかったものと推測するから、これは殆んど橋の西の袂に近いように思われる。

「あれほどの小勢をば、如何に渡させ給ふぞ」あの程度の小人数(こにんず)の取るに足らぬはずの連中を、どうしてやすやすと渡らせてしまわれるのか、と防戦方への不満を述べたのである。 

 

 以下、「承久記」(底本の編者番号57から60パート。なおここから古活字本は「承久記」下となる)の記載。各パートの後に語注を入れた。官軍方の西岸の陣から抜き落した唐橋の中央部までは岸辺から凡そ百メートル近くは離れていたと私は考えるから、これはもう和弓の狙撃限界とされる距離であり、官軍にはこうした遠距離狙撃に優れた(当時の弓ではこれだけ離れてしまうと、よほどの剛腕でない限り、通常は打ち上げないと届かないから狙撃は遙かに困難となる)複数の弓の名手がいたことが分かる(二百メートル近く離れた瀬田川を挟んだ弓争いでは実に一メートルを超える長大な白箆(しらの)の矢を射て鎌倉方の兜を射た二人の官軍の武士のことが以下に出ており、これは恐るべき剛腕にして正確な射手であった者と思われる)。ともかくここは「承久記」の現場の実況を聴いているような実感記述がもの凄い。

 海道ノ先陣相模守時房、同六月十二日、勢多ノ橋近ク野路ニ陣ヲトル。早雄ノ者共、河端ニ押寄テ見レバ、橋二間引落テ搔楯掻、山田次郎ヲ始トシテ、山法師大勢陣ヲ取。相模守ノ手ノ者共、階見太郎・佐々目・早川重三郎三人、橋爪ニ押寄テ戰ケルガ、射シラマサレテ引テノク。二番ニ江戸八郎・足立三郎・讚岐太郎三人、ケタヲ渡リケルガ、餘ニ強ク被ㇾ射テ、二人引退ク。足立三郎、鎧ハヨシ、橋桁ニ鎧ウチ羽ブキテ居タリケルガ、向ヨリ支テ射ケレバ、コラへ兼テ引退ク。三番二村山黨八人、桁ヲ渡リケルガ、其モ餘ニツヨク被ㇾ射テ引退。四番ニ二十人ツレタル兵、橋桁ヲ渡リテ、搔楯カイテノキワへ責ヨセタリケルガ、餘ニツヨク射ケル間、少々引退ク。其中ニ熊谷平内左衞門・久目左近・岩瀨左近・同五郎兵衞・肥塚平太郎・ヨシミノ十郎・子息ノ小次郎・廣田小次郎、太刀ヲ拔テ三ノ搔楯ヲ切破テ、錣ヲ傾責ヨスル。山法師颯ト引テノキニケル。山田次郎是ヲ見テ、郎從等荒左近ヲ使者ニテ、「如何ニ大衆ハ、アレ程ノ小勢ニハ引セ給フゾ。返サセ給へ。後ロヲバカゴマン」ト申ケレバ、播磨豎者、「引議ニテハ不ㇾ候。帶クニテコソ候へ」トテ、返合テ戰ケリ。山法師ハカチダチノ達者ナリ。其上、大太刀・長刀ヲ持テ重クウチケレバ、武士ハ心コソ剛ナレ共、小太刀ニテアイシラヒ戰程ニ、九人ガ中、六人ハ搔楯ノ際ニ被切伏。平内左衞門尉是ヲ見テ、今ハ如何ニモ叶マジト思ヒテ、其中ニ宗徒ノ者ト見へケル播磨豎者ト組デ臥。平内左衞門、取テヲサヘテ首ヲカヽントシケル所ニ、豎者ガ下人ノ法師寄合テ、長刀ヲ持テ、平内左衞門ガ押付ヲチヤウヲチヤウト二打三打シタヽカニ被ㇾ打テ、傾夕樣ニシケル所ヲ、山田次郎ガ郎從荒左近落合テ、平内左衞門ガ頸ヲ取。ヨシミ十郎、子息小次郎ガ被切伏ケルヲ、肩ニ引懸テ河端迄延タリケル。後ヨリ餘ニ強射ケル間、子ヲバ河へ投入、我身モ河ニ飛入。水練ナリケレバ、水ノ底ニテ物具脱捨、ハダカニ成テ我方へヲヨギ歸テタスカリケリ。今ハ久米左近一人殘リテ、身命ヲ捨戰ケル處ニ、ナラノ橘四郎・平五郎、橋桁ヲ渡テ續キタリケルヲ乘越、面ニ立ゾ戰ケル。

・「射シラマサレテ」「白(しら)ます」は「しらまかす」と同じで、相手の勢いを挫く、の意である。

・「ウチ羽ブキテ」「羽振(はぶ)く」は羽ばたきをする、はばたくの意であるから、鎧を頻りにバタバタと動かして(矢の狙撃から急所を外させるために)の謂い。

・「後ロヲバカゴマン」不詳。識者の御教授を乞う。

・「帶クニテコソ候へ」「帶」には巻く・巻き込むの意があるから、退いたと見せて、早やって進んできたのを見すました後、実は四方から取り囲んで殲滅しようと思っていたので御座る、とその作戦を明かしているのである。「北條九代記」本文より、こちらの方が軍略としてずっと面白く納得出来るように書かれている。

・「ヲチヤウヲチヤウ」底本は後半の「ヲチヤウ」は踊り字「〱」。これは「チヤウチヤウ」なのかも知れないが、そうすると「ヲ」が分からなくなるので暫くかく表記しておく。 

 

 爰ニ宇都宮四郎賴業、親ノ入道ヲ待トテ、大勢ニハ三日サガリタリケルガ、勢待付、少々ノ者ヲバ打捨テ上ル程ニ、勢多ノ橋ノ戰、第二番ノ時ニ五十六騎ニテ馳著クリ。橋上ノ軍ヲバセズ、橋ヨリ上、一町餘引上テ陣ヲ取。向ヨリ敵ノ射矢ノシゲキ事、雨ノ足ノ如シ。宇都宮四郎、河端ニ打立テ、タウノ矢ヲ射所ニ、熊谷〔小〕次郎兵衞尉直鎭・高田武者所、馳來加リ戰フ。但小次郎兵衞ハ遠矢不ㇾ射。「何トテ射ヌゾ」ト人ニ被レ云テ、「皆シロシ召樣ニ、一谷ノ軍ニ弓手ノ小カイナヲ射サセテ候間、遠矢ハ不仕得候」トテ、敵ノ矢長ノトヾカヌ程ニ、馬共引ノケ引ノケ扣サセテ、雜色・舍人共ニ敵ノ射捨タル矢共拾衆サセ、主々ノ前ニ打捨々々射サセケリ。熊谷〔小〕次郎兵衞申ケルハ、「一時ニ事ヲキルベキニモナシ。各休給へ」トテ、河端近ク打臥樣ニ鎧打羽ブキテ、皆臥タリ。サレ共、宿敵ハ射止事ナシ。宇都宮四郎ガ臥タリケル甲ノ鉢ヲ射ツケテ、縫樣ニ鉢付ノ板ニシタヽカニ射立クリ。白篦ニ山鳥ノ羽ニテハギタル矢ジルシヽクリケルガ、眞に大ナリケル。宇都宮四郎、甲ノ鉢ヲ被ㇾ射テ不ㇾ安思ヒ、起揚テ見レバ、「信濃國住人、福地十郎俊政」ト矢ジルシアリ。十三束三伏ゾ有ケル。「宇都宮四郎賴成」ト矢ジルシヽタル、是モ十三束二伏有ケルヲ以テ、川端ニ立テ、能引テ丙ト放ツ。川ヲスヂカイ樣ニ、三町餘ヲ射渡テ、山田次郎ガ川端二唐笠サ、セテ軍ノ下知シテ居タリケルニ、危程ニゾ射懸タル。急ギ笠ヲトラセテ壇ニアガル。水尾崎ヲ堅タル美濃ノ豎者觀源、舟ニテ漕來リ、河中ニテ是ヲ射ケリ。其中ニ赤絲威ノ鎧著タル男、殊ニ進ケルヲ、宇都宮四郎、例ノ中差取テツガヒ支へテ射ケレバ、頸ノ骨ヲ被ㇾ射、立モタマラズマロビニケリ。次ニ黑革威ノ鎧著クル法師武者、少モヒルマズ懸ル所ヲ、二ノ矢ツガヒテ射ケルニ、引合篦深ニ被ㇾ射テ、河中へ倒ニ入ニケリ。其後、美濃ノ豎者モ引退ク。

・「扣サセテ」「ひかへさせて」(控へさせて)と読む。

・「白篦」は「しらの」。既注であるが、篠竹の素(す)のまま(征矢はものによってはこれを焦がしたり、漆を塗ったりする)矢柄(やがら)

・「はぎたる」「矧(は)ぐ」は矢竹に羽をつけること。

・「十三束三伏」「じふさんぞくみつぶせ」と読む。拳で十三握りの幅に指三本の幅を加えた長さの矢の呼称。約一メートル一〇センチ相当。普通の矢が十二束(九十二センチ程度)であるのに対し、単にそれより長い矢という意でも用いる。

・「能引テ丙ト放ツ」「丙」の音は「ヘイ」の他に「ヒヤウ(ヒョウ)」がある。ここはオノマトペイア、「ひょうふつと射る」の「ひょう」である。

・「スヂカイ樣ニ」現在の川幅でも二百あるところを、さらに筋交いで「三町」(約三百二十七メートル)も射、しかもそれが官軍大将の陣笠近くに刺さったというのだから、この宇都宮四郎という武将も只者ではない。ここは「賴業」とあるが、これは一般に宇都宮四郎朝業(ともなり 承安四(一一七四)年~宝治二(一二四八)年:養子先の姓で塩谷朝業(しおや)とも。)と呼ばれる人物で、実朝の和歌の相手として知られる御家人である。当時で満四十三歳であった。

・「中差」箙の中に差し入れてある実戦用の矢。上差(うわざし:箙で目立つように差添えた矢。雁股などが用いられ、一種の装飾効果もあった。)以外の征矢(そや)のことをいう。

・「引合せ」広義には鎧や腹巻・胴丸・具足の類の着脱するための胴の合わせ目を、狭義には大鎧の右脇の間隙部分を指す。ここは後者か。 

 

 相模守、刑六兵衞ヲ召テ、「此軍ノ有樣ヲ見ニ、一日二日ニ事行ベキ共不ㇾ見。サレバ矢種ヲ盡シ、サノミ兵共ウタスベキニモ非ズ。シバシ沈バヤト思ハ如何ニ」ト宣へバ、刑六兵衞、河端・橋爪ニ馳向テ、「大將軍ノ仰ニテ候。暫軍ヲシヅメン」ト呼リケレ共、仰ニモ不ㇾ隨、猶モ名乘懸名乘懸戰ケルガ、御使度々ニ及、高ラカニ訇ケレバ、ハゲタル矢ヲ弛シ、河端・橋上ノ軍ハ留リケリ。

[やぶちゃん注:「訇ケレバ」「いひければ」「よばひければ」と読んでいるか。「訇」(音「コウ」「キン」)は、大声で叫ぶことを意味する漢語である。] 

 

 爰に供御瀨へ、武田五郎・城入道奉テ向ケルニ、何クヨリ來トモ不ㇾ覺、上ノ山ヨリ大妻鹿一落テ來レリ。敵・御方、「アレヤアレヤ」ト騷グ所ニ、甲斐國住人平井五郎高行ガ陣ノ前ヲ走通ル。高行、元來鹿ノ上手ニ聞へテハアリ、引立タル馬ナレバ、ヒタト乘儘ニ弓手ニ相付テ、上矢ノ鏑ヲ打番ヒ、シバシ引テハシラカシ、三段計ニツメヨセテ、思白毛ノ本ヲ、鏑ハ此方へ拔ヨト丙ト射ル。鹿、矢ノ下ニテマロビケル。由々敷見へシ。

・「思白毛」不詳。頭部の思白い毛の部分か。識者の御教授を乞う。]

飯田蛇笏 靈芝 昭和九年(百七句) ⅩⅣ ~ 昭和九年 了

 

ほそぼそと月に上げたる橇の鞭

 

[やぶちゃん注:「ほそぼそ」の後半は底本では踊り字「〲」。]

 

寒鯉の黑光りして斬られけり

 

影さして舟の鵜籠や蘆枯るる

橋本多佳子句集「信濃」 昭和二十一年 Ⅺ



蜂の巣にめつきり朝は秋日ざし

 

ひぐらしのしぶけるごとく湖(うみ)暮るる

 

[やぶちゃん注:野尻湖か。]

 

夜の障子木犀の香のとどこほる

 

われに來る木犀の香をひとよぎり

 

木犀のにほひの中に忌日來る

 

[やぶちゃん注:夫豊次郎(昭和一二(一九三七)年逝去)の祥月命日である九月三十日であろう。この昭和二一(一九四六)年のそれは十回忌に当たっていた。]

 

みじろげば木犀の香のたちのぼる

杉田久女句集 212 病床景Ⅶ 母上來る

 

  母上來る

 

老顏に秋の曇りや母來ます

 

歸り路を轉び給ふな秋の暮

篠原鳳作初期作品(昭和五(一九三〇)年~昭和六(一九三一)年) ⅩⅣ

 

揚雲雀風強ければ流れつつ

 

まなかひに逆落しくる雲雀哉

 

南風や出船を送る遊女達

 

大いなる守宮の聲や蚊火の宿

 

炎天や女も馬にうちまたぎ

 

薊咲く古墳の春は闌けにけり

 

奥津城に歩とのあふれて鷄合せ

 

熔岩(イワ)山に囀る鳥の名を知らず

 

慈善鍋三井銀行の扉の前に

 

鬪鷄の人輪に佇てば酒の香が

 

鬪鷄やしめし合せの檳榔林

 

鬪鷄の人輪の中の娼婦かな

 

鷄合せ古墳の庭に始めけり

 

薊咲く古墳の春はたけにけり

私は歌はねばならない唄を   山之口貘

 私は歌はねばならない唄を

 

私(わし)は歌はねばならない唄をうたつてゐる

古沼からは淡い綠(みどり)色の光の音がきこえ

樹々の葉は彼等の金色の幽かな聲でうたひ

西(いり)の空は眞紅(まつか)な口紅を染めてうたひ

黄昏に

雲のうへで惡魔(たれ)かゞこそこそ笑ひ

水底からつめたい女の顏があらはれ

樹々の葉裏には美女の玉の小指が吊るされ

 

あゝ私(わし)がひそかに彼等を見るとき 悪魔(たれ)かゞ私(わし)の胸に耐え切れない寂しさをながしてゐる

だけどあゝ私(わし)は歌はねばならない唄をうたひ

私(わし)は是非訪ねゝばならぬ――私(わし)は私(わし)の歌ふてゐる唄を立ち聞きしたたつた一人の聽人(きゝて)を。

 

[やぶちゃん注:大正七(一九一八)年~大正一〇(一九二一)年の間(バクさん十五歳から十八歳)に創作された作品。「惡魔(たれ)」というのは沖縄方言ではあるまい。不定の一人称の「誰(たれ)」で、それがまた絶妙の効果を生み出している。「誰そ彼」――「黄昏」時――逢魔が時に逢う相手は、往々にして禍々しい「惡魔」である――私はこの一篇を激しく偏愛する。
【二〇一四年五月二十四日追記】思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と校合した。]

明恵上人夢記 39

39

一、同十六日の夜、夢に云はく、成辨、糖二桶を持つ。人に語りて云はく、「前の自性(じしやう)の糖一桶、之を失ふ。今、相應等起(さうおうとうき)の糖二桶、之在り」と云々。

   此の間に世間心に符(かな)はざるに

  依りて散亂す。之に依りて此の如く成ら

  ざる事等有り。然りといへども、相應等

  起の如く悉地(しつち)有るべき相也と

  云々。

[やぶちゃん注:以上のように明恵の附言が後についているが、これはこの「39」夢と次の「40」夢とのインターバルに対する附言ではなく、「39」夢についての覚醒時に於ける明恵自身の夢解釈と思われるので後記扱いとした(後に見るように河合隼雄氏も「明惠 夢に生きる」ではこれを「39」夢の夢解釈と断じておられる)。

「糖二桶」「糖」は飴。河合隼雄氏の「明惠 夢に生きる」の引用では「あめ」とルビを振ってある。水飴であろう。この当時の飴は、「阿米」という記載などからも、米やもやしなど発芽させることで米に含まれる糖化酵素を活性化させてデンプン質を糖化させ、飴を作っていたと推察されている(この製法部分は主にウィキを参照した)。当時は菓子としてではなく、薬や高級甘味料として使用された。ここでは話柄から見て薬と採らねばなるまい。「二桶」最初に持っていたのが、「自性の糖一桶」だったものが、ここでは「相應等起の二桶」に変化しているという。一人称単数的存在の宗教的全一性を持った原型から相応等起という二人称複数的存在の二元的な現実世界に対応した方便(以下の私の「相應等起」の注も参照されたい)への自在な変化を意味するか(以下に引く河合氏は多層的な意味を見出しておられる)。

「同十六日」建永元(一二〇六)年六月十六日。

「自性」そのものが本来備えている(所有している)ところの真(まこと)の性質。真如法性(しんにょほっしょう)。本性と同義。

「相應等起」ある事に応じて、状態に変化が起こり、ある事態が現前すること。所謂、明恵の謂った「阿留辺幾夜宇和(あるべきやうわ)」に関わるキー・ワードと言える。

「悉地」梵語“Siddhi”の漢訳。成就の意。「しつぢ」とも読む。狭義には真言の秘法を修めて成就した悟りを指すが、そこから広く事の成就や完成の意で用いる。

「符(かな)はざる」「符」には割符を合わせたようにぴったりと合う、叶うの意がある。]

 

■やぶちゃん現代語訳

39

一、同十六日の夜見た夢。

「私は飴の入った二つの桶を持っている。そうして私はそれを持ったまま、誰かに次のように語り出す。

『……私は、以前、「自性(じょしょう)の飴――本来私が所有しているところの霊薬としての飴――」一桶を持っていたが、それは失ってしまった。……しかし今、「相応等起(そうおうとうき)の糖――事象の推移に伴って自由自在に変化し完成し成就するところの霊薬としての飴――」二桶を、ここに持してある。』と。……。」

〈私明恵の夢解釈〉

 この夢を見るまでの間に、私はさる世俗に関わる事柄について、私の願いが全く叶わぬという出来事があって、私は内心、取り乱していた。その事態に付随して、私の思い通りにならぬことなども出来(しゅったい)した。しかし、この夢は、確かに今の今まではそうではあったけれども、また、事態に応じて必ず変化が起こり、必ず新しいあるものが出来するという「相応等起」の真理の通り、私の心に願うところのものが、これ、必ずや完成・成就するであろう、ということを示唆しているに違いない予知夢であると思う。……

 

[やぶちゃん補説:この夢は、河合隼雄氏の「明惠 夢に生きる」で「二桶の糖の夢」として、特に取り上げて訳され細かな分析をされておられるので、私の訳と対照して戴くためにも、やや長いが以下に引用させて戴く。

   《引用開始》

 この夢では明恵が糖(あめ)を二桶持っている。そして誰か他人に対して、以前の自性(本来所有)の糖一桶を失ってしまった、今、相応等起(事に応じて出現する)の糖を二桶もっていると語っている。これに続いて一段下げて書かれているのは、明恵自身の解釈である。何か世間のことで心にかなわぬことがあり、心を取り乱していた。それによって自分の思いどおりに成らぬこともあったが、また事に応じて変化が生じ、事が成就するだろうという夢である、と明恵は解釈したようだ。何かを得るためには何かを失わねばならない。何かを失うことは、実は他のものを手に入れる前提なのだ、というのは夢に生じてくる大切なテーマの一つであるが、明恵もそのことを想ったに違いない。

 自性の一桶を失って、相応等起による二桶を得た、とはまったく意味深長である。この二桶というのは、失ったものの倍という意味と、新たに得るものを受けいれるかどうかに葛藤があるという意味と、おそらくそのどちらをも意味しているのであろう。われわれは何か新しいものを得たとき、それによって失ったものについて無意識のことがあんがい多い。新しいものを得て嬉しいはずだ、とか、喜ぶべきだと思っても、心がはずまないどころが、逆にうっとうしい気持ちになったりすることがあるのはこのためである。昇進したり、家を新築したりしたときにうつ病になり、なかには自殺したりする人があるのは、このような心のメカニズムによっていることが多い。われわれは何か新しいものを得たとき、それによる喜びと、その背後において失われたものに対する悲しみとの、両者をともにしっかりと体験することによって、バランスを保つことができる。

 明恵の場合はその道というか、自分本来のものと思っていた何かを失う。しかしそれは、何かそれに代わる(あるいは、それに優る)ものを得るための一種のアレンジメントなのだ、というのである。この夢の解釈を見ても、明恵は夢というものをよく理解していたのだと感心させられる。そして「鰐の死の夢」[やぶちゃん注:電子テクスト第「3。]以来、短時日のうちに相ついで生じた一連の夢は、明恵が後鳥羽院から賜わる地所を受けるための、心のなかでの内的な準備がはじまっていることを示している、と考えられるのである。あるいは、十一月には正式に高山寺の方に居を移しているので、この夢を見たあたりで内々の交渉があったのかも知れない。「此の間に世間心に符(かな)はざるに依りて散乱す」という言葉も、ひょっとして、あくまで一人での求道を続けたい明恵に対して、後鳥羽院からの内々の意向が伝わり、周囲の人たちがそれを受けることをすすめたりして、彼が心を取り乱したりしたことを言うのか、などと思われもするのである。もちろん、これはまったくの当て推量なのであるが。

 明恵にとって高山寺の土地を後鳥羽院より受けとることは、彼の生き方を根本的に変えることになり、大変な覚悟が必要であっただろう。「法師くさい」のが嫌だと言って二十三歳のときに神護寺を出た彼が、約十年を経て、その神護寺の別所を院より賜わって住むことになる。それらすべての事象に、彼は「相応等起」の感をもったであろうし、高山寺に住みつくとしても、それはあくまで自らの求道の姿勢と矛盾するものとはならない、という自信に裏づけられて、彼は院の申し出を受けたのだろう、と思われる。これら一連の夢は、彼のそのような心の動きを反映しているものであろう。

   《引用終了》

先の河合隼雄氏の引用


われわれは何か新しいものを得たとき、それによって失ったものについて無意識のことがあんがい多い。新しいものを得て嬉しいはずだ、とか、喜ぶべきだと思っても、心がはずまないどころが、逆にうっとうしい気持ちになったりすることがあるのはこのためである。昇進したり、家を新築したりしたときにうつ病になり、なかには自殺したりする人があるのは、このような心のメカニズムによっていることが多い。われわれは何か新しいものを得たとき、それによる喜びと、その背後において失われたものに対する悲しみとの、両者をともにしっかりと体験することによって、バランスを保つことができる。


(「どころが」はママであるが、「どころか」の誤植であろう)この河合氏の夢解釈は流石に天網の如く完璧で美事である。]

生物學講話 丘淺次郎 第十章 雌雄の別 一 別なきもの (1)

     一 別のないもの

 

 原始動物中の「ざうりむし」や夜光蟲などは、相接合する二個の細胞の間に何の相違も見えぬから、これらこそは眞に雌雄の別のないものといへるが、その他の動物では、たとい雌雄の別が少しもない如くに見えても、その生殖細胞を見れば、明に卵と精蟲との區別がある。即ち生殖細胞の區別を除いては、他に何の區別もないといふに過ぎぬ。

[やぶちゃん注:『「ざうりむし」や夜光蟲などは、相接合する二個の細胞の間に何の相違も見えぬから、これらこそは眞に雌雄の別のないものといへる』現在、ゾウリムシは有性生殖としての接合を行う際に特定の相手、即ち、雌雄の性差に相当する対象選択限定しており、そこには雌雄二別どころではない、複数の性差、ゾウリムシでは「接合型」と呼ぶが存在していることが判明している。私が高校時分に習った際には参考書の図では三種(確か+/-/±の記号で区別してあったように記憶する。因みに私は文系であったが生物Ⅱまで受講した)であったように記憶していたが、この分野の日本でのパイオニアであられる樋渡(ひわたり)宏一先生の『私の「生」・ゾウリムシの「性」』(「JT生命誌研究館」の「サイエンストライブラリー」内)の記載によれば、異なった遺伝子を持つ接合可能な性別があるという事実は一九三七(昭和一二)年にアメリカのインディアナ大学のソネボーンによって発見されており、しかも雌雄二種どころか、一九四一年の段階では二つの互いに引き合う接合型(これを性とみなす)のペアからなる五つのゾウリムシの性のグループが、アメリカのギルマンによって報告されていたとあり、その後の叙述を見る限りでは現在ゾウリムシには十六の性グループがあることが明らかになっている。本テクストの底本は大正十五(一九二六)年東京開成館刊第四版であるから、ゾウリムシの「性」の発見はこの十一年後のことであった。いや、そもそもモルガンらのグループによってショウジョウバエの四つの染色体上に座す五十個の遺伝子の世界で初めての相対位置が決定・発表されたのは、このたった四年前の一九二二年であったことを、何よりも先に記しておかねばならなかったと言えよう。]

生物學講話 丘淺次郎 第十章 雌雄の別 序

   第十一章 雌雄の別

 

 雌は卵を産む個體、雄とは精蟲を生ずる個體のことであるが、この兩者の相違の程度は動物の種類によつて著しく違ひ、一見して直に區別の出來る程の差別のあるものもあれば、また注意して調べても雌か雄か解かわからぬやうなものもある。動物園に入つて見ても、「くじやく」や鹿は遠方から雄か雌かわかるが、猿や犬は近づいて見なければ確にわからず、「さぎ」や鶴などは側まで來てもなかなか區別が出來ぬ。さらに他の動物を調べると、「なまこ」などの如くに外面からは素より、内部を解剖して見ても雌か雄かが容易にわからぬやうなものもあれば、またその反對に雌と雄とが餘り違ひ過ぎるので、誰も同一種類に屬するものと心附かぬ程のものもある。かくさまざまに違つた種類をなるべく數多く集め、雌雄の差の全くないものからその最も著しいものまで順を追うて竝べて見ると、動物の雌雄の別は、如何なる道筋を經て次第に進み來つたものであるか、大體の有樣を推知することが出來る。

 

 雌雄の身體構造の相異なる個所を調べると、そのなかには卵と精蟲とを相合せしめることに直接に役に立つ部分と、間接にその目的を達せしめるためのものとがある。雄に精っ蟲を送り出す器官があり雌にこれを受け入れる裝置がある如きは、直接に役に立つ方であるが、この種の器官の發達は、卵と精蟲とが如何なる方法で相合するかによって大に違ふ。また特に鋭敏な感覺器を以て異性の所在を知り、美しい色や好い聲を以て異性を引き寄せる仕掛けは、同じ目的のための間接の方便であるが、これは神經系の發達に伴ふことで、最下等の動物では餘り見られぬ。その他、子を保護し育てる動物では雌と雄との役目が違ひ、隨て身體にもこれに準じた相違がある。獸類の牝のみに乳房が大きく、「たつのおとしご」の雄のみに腹に袋がある如きはその例であるが、これは受精の結果を完全ならしめるための補助器官で、子を産み放しにする動物には決してない。

大和本草卷之十四 水蟲 介類 淺利貝

【和品】

淺利貝 小蛤ナリ淺海沙中ニアリ殻ニタテニ皺アリカ

ラウスシ文蛤ヨリ小ニシテ殻ノ膚アラシ花文アルモアリ色々

アリ形ハ同シ淡黄紅白三色マジレルアリ煮テ食ス味淡

美ナリクシニサシテホシテ遠ニ寄ス味淡キ故性カロシ他

ノ蛤ニマサレリ〇波遊アサリニ似テ殻厚シ味淡美殻ニ

花紋アリ甚美ナリ又無花紋モアリ大ナルハ長一寸計

アリ小蛤ナリ

〇やぶちゃんの書き下し文

【和品】

淺利貝(〔あさ〕り〔かひ〕) 小蛤〔(せうがふ)〕なり。淺海の沙中にあり、殻にたてに皺(しは)あり。から、うすし。文蛤〔(はまぐり)〕より小にして殻の膚、あらし。花文あるもあり。色々あり、形は同じ。淡黄・紅・白・三色まじれるあり。煮て食す。味、淡美なり。くしにさして、ほして、遠くに寄す。味淡き故、性、かろし。他の蛤にまされり。

「波遊」あさりに似て、殻(から)、厚し。味、淡美。殻に花紋あり。甚だ美なり。又、花紋無きもあり。大なるは長さ一寸計りあり、小蛤なり。

[やぶちゃん注:マルスダレガイ科アサリ亜科アサリ属アサリ Ruditapes philippinarum 及びアサリ属ヒメアサリ Ruditapes variegatus(アサリよりも殻幅や套湾入が、若干、小さい)。

「淡黄・紅・白」底本では「淡黄」と「紅白」の間には熟語を示す傍線が挿入されているから、厳密な意味で書き下すなら「淡黄・紅白」であるが、それだと直下の「三色」との繋ぎが悪いのでかく中黒を配した。

「遠くに寄す」海から離れた遠地へと送る。

「性、かろし」食物としての滋養や効果が至って穏やかであることを言うか。

「波遊」記載からは有意にアサリ Ruditapes philippinarum とは別種のように読めるから、マルスダレガイ科フキアゲアサリ属オキアサリ Gomphina semicancellata かと思われる(若しくは遺伝的に近似しているために自然環境化では雑種化することがあるとされる同フキアゲアサリ属コタマガイGomphira melanegis 及びその雑種を含む。ここはウィキコタマガイ」に拠る)。ぼうずコンニャク氏の「市場魚貝類図鑑」のオキアサリページの「地方名・市場名」の欄に『ナミアソビ(波遊)』とある。但し、「波遊」は貝類収集家のサイトなどではアサリの別名とする記載もあり、言っておくと先に掲げたぼうずコンニャク氏の「地方名・市場名」の中にも実は『アサリ』及び『ハマグリ』ともある。因みに、国立国会図書館蔵の底本と同本には同箇所に旧蔵本者によるものと思われる付箋があって、

波遊 気仙ニテハマサミチト云

とある。「気仙」(ママ)は気仙沼であろう。「マサミチ」という地方名は現認出来ない。

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 小産石

    ●小産石

長者園より南に行くこと五六町にして、字(あざ)曲輪(くるわ)の海岸に奇巖あり他の巖よりも質(しつ)堅くして時々大小の丸石を産出す、故に子産石の名あり、此石を得んが爲めに、人ありて巖(いはほ)に附着するを強(しい)て拔き去る時は、祟りて難産あるべしと、里人恐怖(おあそ)れて、唯濱邊に落ちたるをのみぞ拾ひ、小兒の玩具とする。大なるは徑五六寸、殆むど護謨球(ごむだま)に髣髴たるも奇ならずや。

[やぶちゃん注:以下の現存物はそのように見えない(私は行ったことがなく現認していない)が、一般的な見解に従えば、これは所謂、「さざれ石」である。ウィキの「さざれ石」によれば、細石(さざれいし)は元来は小さな石を指す一般名詞であるが、長い年月をかけて小石の欠片の隙間を炭酸カルシウムや水酸化鉄が埋めることによって、一つの大きな岩の塊に変化したものをも指す。『学術的には「石灰質角礫岩」などとよばれる。石灰岩が雨水で溶解して生じた、粘着力の強い乳状液が少しずつ小石を凝結していき、石灰質の作用によってコンクリート状に固まってできる』もので、『日本では滋賀県・岐阜県境の伊吹山が主要産地である』とある。

現在の横須賀市秋谷に以下のような形で現存する。横須賀市経済部商業観光課公式サイト「ここはヨコスカ」の「子産石(コウミイシ)」に、『「三浦古尋録」には「曲輪(くるわ)の浜に子産石と云々有年此石より石を分け出す、故に子産石と云ふ」とあり、子を産み出す石ということから、生殖の神、安産の神が宿る石として崇拝されてき』たとあり、『子どもに恵まれない女性が子産石をなで、その手で腹をさすると懐妊するとか、また妊婦が石で腹をなでると安産になるなどの伝承が現在まで残って』いて、子産石バス停近くにある直径一メートルほどの『石が、全体の象徴として市民文化資産に指定されてい』るとある(同リンク先の地図)。「三浦古尋録」は西浦賀村(現在の横須賀市西浦賀町)の文人加藤山寿によって文化 九(一八一二)年に書かれた三浦半島地誌。

「五六町」約五四五~六五四メートル。この距離指定によって上記リンク先の地図で前の長者園があった位置がかなり正確に把握出来る。

「五六寸」一五・二~一八・二センチメートル弱。]

文楽「女殺油地獄」について(平成二六(二〇一四)年第百八十七回文楽公演)

昨日、鑑賞。何ともまあ、遅まきながらの同舞台初鑑賞。かつて映画やドラマは勿論のこと、その梗概もろくに読んだことがないという体たらくでの鑑賞であった。

――こりゃ……いいねぇ……
――フランス人好みだね……
――ジャン・ジュネの……ほれ!……「ケレル」だぜ!……
――「河内屋の段」の入り口の柱に倚りかかった与兵衛の体の角度を御覧な! ありゃ、マーロン・ブランドやジェームス・デーィンのやらかす(というより、あいつらは真っ直(つ)ぐ立てねぇんだな、これが!)体幹の傾斜そっくりじゃあねえか?! いやさ! 与兵衛は実はリー・ストラスバーグのアクターズ・スタジオ出身だったんだねぇ!……

 
ともかく与兵衛はもう今、勘十郎以外には考えられない。
この身軽で鯔背で非道のハネッ返りのピカレスクという特殊な役は、ちょっと玉女には出来ない(ことはないが向かないといえる)。
 
「徳庵堤の段」から人形が出遣いの勘十郎の意識を支配しているのが見える。
 
間違ってはいけない。

僕が言いたいのは、正真正銘――遣っている勘十郎が演技しているのではなく、――与兵衛という稀代の、それでいてどこかそこらの若い不良の中に今でこそ確かに居そうな、しかも不思議に魅力的な悪党、殺しの美学にハマった与兵衛というキャラクターが図らずも遣っている吉田勘十郎という人形遣を演技させている――というのである。

普段、人形と遣い手の仕草のシンクロニティの中でそうした匂いがすることはどの遣い手でもしばしばある(玉女のようなポーカー・フェイスの玉男系ラインに繫がる一部の人形遣では稀である)が、今回の勘十郎(彼は普段から役が遣っている最中にその表情にそれが反映することは有意に多いタイプではある)は最早、「徳庵堤の段」の登場からして段違い――ダンチ――なのである。これはそれが旧来の浄瑠璃の伝統に於いて良いのか悪いのかなどという些末な論議を超えて、凄絶にして――ミリキ的――なのである。
 
そうしてそれは、同時にまた、共演する遣い手にも不思議な影響を及ぼしているのである。

一つ――
普段、そうした遣い手の表情がやや目に障ってしまう(少なくとも私にはそうである。しかし私は彼が好きである)タイプが和生であるが、この外題に限ってはその遣う彼の表情が全く気にならなくなり、寧ろ、好ましく効果的でさえあった。――

一つ――
今日は「河内屋の段」で稲荷法印の玉佳が、内へ上がる際に下駄を引っ掛けて少しよろめいてしまった(音もしたし、思わず、『大丈夫?』と現実の引き戻されてしまうという不測の事態ではあった)。ところが、その辺りから暫く、玉佳は口を半ば空けて明白な笑顔でもって法印を遣い始め、躓きで興醒めしかけた私は、これまた一気に、法印の怪しげな呪言とともに再び浄瑠璃世界に飛んで還って法悦(これはまさにあの場面に相応しい表現だ)を楽しんだのである(私は遣い手があんなにはっきり笑うのを今回の舞台で初めて見た)。最後に与兵衛に追い払われた法印が、頭隠して足絡げ、下手へと走り逃げ去る際にも、玉佳は無言で大笑していた。玉佳は次の「鳴響安宅新関」の玉女の左手を見るまでもなく、このところ注目の堅実なる若手遣手だが、僕はもう、思わず法印の人形ではなく、玉佳の顔を見てかの段を楽しんだ気になったのである。
 無論、そうした現象に対しては批判的な向きもあろうが、僕は文楽の、より進化し得る余地(進化すべき部分)の重大なヒントが、そこにはあったように思えてならないと、ここでどうしても述べておきたいのである。


「鳴響安宅新関」「勧進帳の段」――

英大夫の弁慶と千歳大夫の富樫の丁々発止の修験問答が清介の三味と相俟って素晴らしい。

……ああ……

……また黒沢作品で僕のいっとう好きな「虎の尾を踏む男達」が観たくなったなぁ……

2014/05/10

杉田久女句集 211 病床景Ⅵ 

 

吾子に似て泣くは誰が子ぞ夜半の秋

 

秋の夜やあまへ泣き居るどこかの子

杉田久女句集 210 病床景Ⅴ

 

  兄姉打連れ見舞はれて

 

秋晴や栗むきくれる兄と姉

 

病む我に兄姉親し栗をむく

 

ほつほつと樂しみむくや栗の秋

 

獨り居て淋しく栗をむく日かな

橋本多佳子句集「信濃」 昭和二十一年 Ⅹ 病みて(続) 



うちそとに月の萩むら門を鎖す

 

銀屛に蛾の多き夜や病み臥して

 

頭のみ見えて雀が野分中

 

づぶ濡れて野分の雀われ覗く

 

靑芒月いでて人歸すなり

 

病み臥して夜々のいなづま身にあびる

篠原鳳作初期作品(昭和五(一九三〇)年~昭和六(一九三一)年) ⅩⅢ



月いでて今宵の魚市(イチ)の賑へる(海岸風景)

 

颱風にかまはぬ蟬のしらべ哉

 

颱風や畑畑の石圍ひ

 

春曉の機屋は覺めてゐたりけり

 

織娘等も海へ海へと夕涼み

 

房たるるバナナに支柱くれにけり

 

牡丹の塵こぼしたる机哉

 

南風や葵の花を傾けて

 

蚊遣香焚きつつ客を待ちにけり

 

涼風や悦び走る蚊火煙

 

機窓に咲きのぼりけり立葵

 

ゆらゆらと風鈴咲きや佛桑花

 

[やぶちゃん注:「佛桑花」既注。「ぶつさうげ(ぶっそうげ)」。ビワモドキ亜綱アオイ目アオイ科フヨウ属ブッソウゲ Chinese hibiscus 、即ち、ハイビスカスのこと。]

 

揚雲雀アダンの中へ逆落し

 

[やぶちゃん注:「アダン」阿旦。単子葉植物綱タコノキ目タコノキ科タコノキ属アダン Pandanus odoratissimus 。高さ約六メートルで幹の途中から太い支柱根を出す。熱帯性で沖縄・台湾に自生し、潮風に強い。葉でパナマ帽や籠を、茎で弦楽器の胴を、根で煙管を作る。以下、ウィキの「アダン」によれば、果実は直径一五~二〇センチメートル『ほどでパイナップルに似た外見であり、パイナップルと同様に集合果である。個々の果実は倒卵形で』、長さ四~六センチメートル、幅三~5センチメートル、『内果皮は繊維質、外果皮は肉質』で、『若いうちは緑だが熟すと黄色くなり、甘い芳香を発する』。『葉や幹は利用価値が高く、葉は煮て乾燥させた後、パナマ帽等の細工物としたり、細く裂いて糸とし、筵やカゴを編む素材として利用される。観葉植物や街路樹としても利用される』。『沖縄では古くからその葉で筵やござ、座布団、草履を作るなどの利用があった。凧の糸にもアダンの繊維を撚った糸がもつれにくく適しているという。明治時代以降、加工技術の進歩に伴い、巻き煙草入れや手提げ鞄などが作られるようになったが、その後新たな素材の出現で衰えた。葉を漂白して作られたアダン葉帽子は一時期にブームを起こし、国外にまで輸出されるほどの好評を得た。モーリシャスでは製紙原料とされるとも言う。また、気根を裂いて縄とし、またその縄を編んでアンツクという手提げ鞄とする事も八重山では伝統的に行われ、これに昼食用の芋や豆腐などを入れて畑に出たという』。『防潮林・防風林・砂防林としても利用され、また観賞用に庭園などに栽培されることもある』。『パイナップルのような外観と甘い芳香のため、果実はいかにも美味に見えるが、ほとんどが繊維質で人間が食べるのには適さない。果実の表面に存在する突起の一箇所ごとが種子になっていて、その中心の松の実のような柔らかい白い箇所が可食部である。果実は硬い繊維質に包まれており、可食部を取り出す手間に見合う味と量ではないため、現在の沖縄県で食べる習慣は廃れてしまったが、過去にはアダンの果実でアンダンスーを作った。また、沖縄では昔食用とされたことからお盆には仏前にアダンの果実を供える習慣があったが、現在はパイナップルが使われ』ている。『また、石垣島ではアダンの柔らかい新芽を法事やお盆などの際の精進料理に用いる習慣があ』り、『他の野菜と共に精進煮とし、くせのない若筍のような味だというが、灰汁を抜かないと食べられず、手間がかかるため現在ではあまり食用にされない』とある。]

 

蟻達がほしいままなる座敷哉

彼の女は鈍感だから   山之口貘

 彼の女は鈍感だから

 

誰かあの四辻の角の二階の窓から

私(わし)の戀人の右の乳房を盜んでくれ

不眠症(ねむ)られぬ私(わし)の眼の彷徑(さまよ)ひにお前は痺れた指のやうに鈍感である

 

何故お前は私(わし)の約束を違へたか、しかもお前はお前の耳朶(みみたぶ)から 私(わし)の合圖の口笛を何方へ追ひ返したか

お前の瞳(め)が 井戸の口のやうに狹くなつてると言ふのか

未だ十八のお前だのに、もう髮の毛が一握(ひとにぎり)にでもなつたと言ふのか

おゝお前は私(わし)にあきめくらと言ふのか

否えお前の脈搏(なみう)ちはたつた二十だのに、私(わし)は二百以上も搏(なみう)つてゐる……

 

けつど戀人よ 空虛な私(わし)の胸をお前はどうしたと言ふのだ?

あゝお前の左の乳房から 私(わし)の掌に温い感觸(さはり)の夢がながれてくる……

お前の お前の乳房の吃驚(びつく)らするのは何時だ?私の眼の危い傳言を誰からかお前がきいて。

けつどああ誰かあの四辻の角の二階の窓から

早う私(わし)の戀人の右の乳房を盜んでくれ 吃驚らする彼女の視線の第一を私(わし)に注(そ)らしめてくれ。

 

[やぶちゃん注:大正七(一九一八)年~大正一〇(一九二一)年の間(バクさん十五歳から十八歳)に創作された作品。
 
【二〇一四年五月二十四日追記】思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と校合した。「何時だ?私」は新全集に拠る。




因みに昨日、昨年秋に刊行された思潮社版の山之口貘の新全集版の第一巻詩篇を注文した。
近日中に、それとの再校合と、さらに同新全集で追加された詩群を電子化してお目にかけることが出来る。
乞うご期待――
……というより……僕自身未だ読んだことのないバクさんの新発見詩篇に、僕はいまからもう、わくわくどきどきしているのだ――



追伸:以上をツイッターでツイートしたら、フォローしている当の思潮社の公式アカウントがツイートして呉れた。

よし! これはもう、お墨付きじゃ!

バクさん、ちょっと嬉しか!!

耳嚢 巻之八 奇成癖有人の事

 奇成癖有人の事

 

 赤坂に高九百石領する岡野某といへる人あり。未(いまだ)年若なれど、其氣性他に異なる由。文化寛政の頃、專ら陰德を好む者を稱しけるが、此仁も陰德家にてありしや、御府内(ごふない)の寺々を廻り、墓所にて香花(こうげ)備ふる事もなく苔むし誠に無緣の石牌と思ふをば、召(めし)連れし從者に洗(あらひ)みがゝせ樒(しきみ)などたてゝ祭りけるを樂(たのし)みとなしける由。或時麻布祥雲寺に至り、餘程の石牌苔むして誰(たれ)祭るとも見へず苔に埋れて牌銘さへ見えざれば、例の如く洗磨(あらひみがか)せしに、有馬中務大輔(なかつかさたゆう)娘とありければ、かゝる大家の石牌かく捨(すて)あるこそ不審なれと長歎して、右藩中に知る人ありければ、かゝる石牌なにと云る寺にあり、あまりなる事なれば糺被(ただされ)見候樣申(まうし)けるゆゑ、彼(かの)藩中の者、其筋の役人へ申て糺けれど、しれる者なし。然共(しかれども)歷然牌名ある事なれば、家中は不及申(まうすにおよばず)、國許(くにもと)迄も搜しけるに、數代以前の娘に無相違(さうゐなし)。依之彼(これによつてかの)しれる家來、其譯岡野へ語りければ、いかなる故に捨置(すておき)給ふやと尋(たづね)ければ、是には子細ある事の由。其譯は、右娘身分不相應の不埒ありて、其節の有馬氏手討となし、かゝる不埒者、菩提所へは葬りがたし、何方へ成(なり)とも取置(とりおく)べしとありしゆゑ、家來の内取斗(とりはからひ)、彼寺に葬りしならん。年月右の娘に無相違(さうゐなき)間、家中にも今はしるものなし。其節の主人憤りつよく、決(けつし)てとひ弔致間敷(とむらひいたすまじきと)申傳(まうしつたへ)る由申ければ、さる事もあるべけれど、右不埒は咎め給はゞ、取捨にもなし石牌等殘しおかるべきやうなし、石牌もある上は、其頃こそは憤りも有(ある)べけれ、百年もへて今其儘に捨置、とひ弔ひもなし給はざるは、何共(なんとも)有馬の銘字も彫付之、不審至極の事なりと、理を延(のべ)ければ、彼家來も其通り理(ことわり)に伏し主人へも其事申ければ、せんせうなる人ながら、扨々尤(もつとも)の理也、然る上はとむらひ致し可然(しかるべし)とて、彼寺へ假屋抔立て、住僧へもしかじかの譯を申、大法事行ひけるゆゑ、住僧も大きに悦びて岡野宅へ參り、かゝる事に法事も有之(これあり)候と歡び厚く禮をのべければ、岡野も我志も屆(とどき)、いか斗(ばかり)大悦なりと答へけるに、無程(ほどなく)有馬家より、鮮鯛一折八丈五反(たん)、使者を以て岡野へ送りけるゆゑ、岡野右使の者にあひて、我等御家來へ心付(こころづけ)し御挨拶とて、受納可致(いたすべき)筋曾無之(かつてこれなき)由にて、かたく斷(ことわり)て返しければ、中務大輔甚(はなはだ)其氣性を感じ、しからば懸御目(おめにかかり)、御禮を可申述(まうしのぶべき)間、御出のやう致度(いたしたく)、裏門より小座敷へ内玄關通り被參(まゐられ)候樣、使者にて申(まうし)越しければ、成程(なるほど)參上は可致候得共(いたすべくさふらえども)、岡野も祿職を給はり候て當時御旗本の列たり、格式にて表門より罷越(まかりこし)、表座敷にて被逢(あはれ)候事に候はゞ可參(まいるべく)候、裏門より内玄關通りまいる儀に候はゞ、御目に懸り候事斷之由(ことはるのよし)答へければ、中務大輔聞(きき)て、誠に異人なり、然る上は、表向(おもてむき)にて可得御意(ぎよいをうべき)とて案内をなし、さて表門より座鋪(ざしき)へ通し、家格を以(もつて)對面し、段々忝(かたじけなし)、さて又一通り面會の上、表門より御歸り、改(あらため)て裏門より勝手座敷へ通り給はり候樣申談(まうしだんじ)ければ、岡野も其意に隨ひ右の通りにて勝手座敷へ通りければ、種々の饗應あり、扨々深切の段忝、何ぞ御禮も申度(まうしたく)間、何成(なんなり)とも御好み可有之(これあるべし)、御好に應じ、御馳走謝禮をもいたし度(たし)と、直々(ぢきぢき)申されければ、我等も祿も被下置(くだしおかれ)、存寄有之(ぞんじよりこれありて)て、與風(ふと)右の牌銘を見出し、心付候趣、御家來へ談じ候事にて、御禮可受(うくべき)いわれなし、御馳走の望(のぞみ)も更になき由答へければ、しかれども何ぞ御好みあるべし、いか樣にも饗應いたし度(たし)とありければ、御當家には角力(すまふ)を御抱被置(おかかへおかれ)候由、右角力を拜見致度(いたしたし)とありけるに、角力ども其砌(みぎり)はいづれも大阪等へ參りあり合(あひ)なかりければ、其譯をのべて、追(おつ)て饗應せんと約して立(たち)わかれ歸りけるとなり。其翌日八丈五反大靑(あを)め籠(かご)を有馬より前日來り候禮として贈りければ、忝(かたじけなき)由にて是を請(うけ)、又岡野より八丈七反に、一倍增の靑目籠、答禮なしけるを請て、翌日奧よりざつとしたる交肴(まぜざかな)一折を贈り、以來立入等致給(いたしたまひ候樣申越(まうしこし)ければ、是は請て、忝由答へけるよし。尤なる異人と專ら評しけるなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。

・「奇成癖有人の事」は「きなるくせあるひとのこと」と読む。

・「岡野某」底本の鈴木氏注に、『三村翁「笄橋岡野虎之助六百五十石高、神楽坂岡野弥十郎九百石、いづれにや」』とあるが、岩波版長谷川氏の注では『岡野弥十郎か(三村氏)』とする。

・「文化寛政」言わずもがなであるが、寛政の方が前で、文化との間には享和が挟まる。寛政元・天明九(一七八九)年~享和元・寛政一三(一八〇一)年~文化元・享和四(一八〇四)年~文政元・文化一五(一八一八)年で二十九年間。

・「隱德」底本では右に『(ママ)』注記があるが、陰徳(人に知られぬように秘かにする善行)をかく表現しても十分意味は通ずる。

・「御府内」江戸の町奉行の支配に属した市域。文政元(一八一八)年に東は亀戸・小名木村辺、西は角筈村・代々木辺、南は上大崎村・南品川町辺、北は上尾久・下板橋村辺の内側と定められた。

・「樒」「耳嚢 巻之八 寐小便の呪法の事 附笑談の事」に既注。

・「麻布祥雲寺」サイト「DEEP AZABU.com」の「むかし、むかし8」 の「125.奇妙な癖のある人」(本話の現代語訳あり)に『文中の麻布の祥雲寺とは現在渋谷区広尾(広尾商店街突き当たり)にある祥雲寺だと思われる』創建の『由来は、豊臣秀吉の天下統一に貢献し、後に福岡藩祖となる黒田長政は、京都紫野大徳寺の龍岳和尚に深く帰依していた』ことから、元和九(一六二三)年に長政が没すると、『嫡子忠之は龍岳を開山として、赤坂溜池の自邸内に龍谷山興雲寺を建立』した。それが寛文六(一六六六)年に『麻布台に移り、瑞泉山祥雲寺と号を改め』、寛文八(一六六八)年の江戸大火の後、現在の地に移ったとあり、リンク先の記事の筆者はこの話が書かれた文化頃(「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏)には、この寺は『すでに広尾にあった。おそらく「耳袋」の著者「根岸鎮衛」の間違いだと思われる』と述べた後、追記をなさっておられ、それによれば、『後日の調査で、この広尾の祥雲寺近辺は、江戸初期に宮村町に増上寺隠居所が出来た折、その代地として宮村町が「宮村町代地」として幕府より賜った麻布領であった事がわか』ったとあって、この「麻布」とは飛地の領分であったことを指すということが知れる。

・「有馬中務大輔」筑後久留米藩二十一万石。「卷之八」の執筆推定下限である文化五(一八〇八)年当時は第八代藩主有馬頼貴(延享三(一七四六)年~文化九(一八一二)年)で久留米藩有馬家第九代。藩校明善堂を創設するなど、久留米藩の文運興隆に尽力したが、一方で趣味の犬や相撲に傾倒、小野川才助らを抱えた。江戸では華美な大名火消で知られた。参照したウィキの「有馬頼貴によれば、天明四(一七八四)年に家督を継いで藩主となり、天明四(一七八四)年閏正月に本文に出る中務大輔にすすみ、文化元(一八〇四)年に左少将に遷任されている。『当時の久留米藩は財政難に悩まされていた。ところが頼貴は相撲を好んで多くの力士を招いては相撲を行ない、さらに犬をも好んで日本全国は勿論、オランダからも犬の輸入を積極的に行い財政難に拍車をかけた。このため、家臣の上米を増徴し、さらに減俸したり家臣の数を減らしたりして対処している。しかし幕府からの手伝い普請や公役などによる支出もあって、財政難は解消されることはなかった』とあり、彼も負けずと劣らぬ「奇成癖有人」であることが判明する。しかも、化け猫怪異譚「有馬の猫騒動」の題材にもされた人物である由の記載もあるのである。「有馬の猫騒動」は先に「麻布祥雲寺」で掲げたサイトのブログ版「Blog - Deep Azabu」の「有馬家化け猫騒動」に以下の記載がある(やや長い引用であるが、本注を語るのには是非必要なのである)。

   《引用開始》

これは河竹阿弥の「有馬染相撲浴衣」で、初演は江戸期ではなく維新後の明治13年猿若座と新しく、その筋は藩主有馬頼貴が寵愛した側室「お巻の方」が他の側室の嫉妬で冤罪を被せられそれを苦に自害してしまう。すると「お巻の方」の飼い猫が主人の仇を報いようと奥女中のお仲に乗り移り側室たちを食い殺して火の見櫓にいるのを、有馬家のお抱え力士小野川喜三郎が退治する。

と言う筋書きでした。これ以前に風聞として、明和九(1772)年、大田南畝の「半日閑話」に有馬公の家臣、物頭の安倍群兵衛が怪しい獣を鉄砲で討ち取ったとあり、同じ頃の随筆「黒甜鎖語」にも有馬家では夜な夜な怪異があったが、番犬を置くとおさまるとあり、また怪異とは狐のたたりであると岸根肥前守(寛政10年の町奉行)「耳袋」にもあります。これは、

松平丹波守の家伝の秘薬に「手ひかず」という塗り薬がありその製法を有馬の殿様が所望し遂に処方を伝授された。それは生きた狐を煮込み煎じ詰めると言う製法で、多くの狐が殺された。そのため怨んだ狐が怪をなしたが、番犬により怪が止んだ。

とあります。

「半日閑話」の安倍群兵衛とは誤記で犬上群兵衛であるとも言われ、犬上群兵衛は久留米藩の柔術師範であり麻布狸穴に道場を開いていて、実在した人物です。しかし、晩年粗暴のため閉門中に死去し犬上家は取り潰されてしまいます。

しかし、後日血縁の者が犬上郡次郎を名乗り、先代の怪猫退治をまことしやかに言い立て館林藩に仕官してしまいました。そして八丁堀に道場まで開くこととなりますが、やはり身持ちが悪く、文久二(1862)年上州の博徒、竹居の安五郎の子分に惨殺されてしまいます。

このようにだいぶ芝居の下地となる風聞がそろってきましたが、最後に決定的な事件(事故?)がおこります。

「街談文々集要」文化元年甲7月28日の条に神田にある、

松平讃岐守の上屋敷で火の見櫓の番人が櫓より落ちて死亡した。死体を改めると何かに引っかかれたような傷が無数にあり、腹部も破れてひどい有り様だったので世間では天狗か物の怪の仕業だとうわさした。またこの屋敷の近くにある旗本大森家の飼い猫が変化して人を脅かすので、松平讃岐守邸の事件もこの猫の仕業だと言う評判が立った。

こうなると風聞が伝わるうちに、怪猫、火の見櫓、大名屋敷という部分が強調され有馬家と結びつくのに、それほど時間はかからなかったと思われます。ちなみに松平讃岐守邸の事件の真相は、邸の者によると、火の見櫓の端に腰掛けていた番人が誤って転落し高所からひさしなどに当たりながら落ちたので、惨状になった。物の怪とはまったく関係ないとの事です。

   《引用終了》

知られた鍋島の猫騒動と関連してこの奇怪な流言飛語の発生について、筆者は『鍋島家は主家の龍造寺家を乗っ取る時の恨み、また有馬家は藩主有馬晴信が死罪になって以降のキリシタン信者への弾圧など、両家に遺恨を持つものからの風聞だとしてもおかしくはないと思われ』ると述べておられ、怪談の深層を探って非常に興味深い。是非、全文をお読み戴きたい。してみれば、この「耳嚢」の藩主の実の娘のお手打ちの話というのも実はそうした「化け猫騒動」の濫觴たる流言飛語であったようにも読める。しかし、当時、ここまではっきりと姓名を明かしている以上、これらは総て事実であったと考えられ、そうすると寧ろ、先の藩主のそうした乱心若しくは藩主娘自身の起こした某重大不祥事又は乱心こそが、「化け猫」を生み出す源であったのではないか? などとも感じられるのであるが、如何であろう? 因みに、ウィキで歴代藩主を辿ってみると、この第二代藩主有馬忠頼のページには、『性格に粗暴かつ冷酷な一面があり、その面での逸話も事欠かない。例えば西本願寺の宗徒があるとき、忠頼に対して無礼なことをした。すると忠頼は領内における寺社に対して西本願寺から東本願寺への転派を強要し、それに従わない寺社は次々と潰していったのである。また、百姓に対しては年貢を厳しく取り立てる重税を行い、家臣に対しても冷酷で残忍な態度で当たることが少なくなかった。さらに実子に恵まれず、養子として有馬豊祐を迎えていたが、実子の頼利が生まれると末子として事実上、廃嫡に追い込んだりしている』とあり、しかもその病死とされている死については、真相は『日頃から忠頼につらい仕打ちを受けて耐えかねていた小姓の兄弟が忠頼を恨み、忠頼が洗顔中に背後から斬殺したという』とする驚天動地の記事が載るのである。しかも、十七歳で夭折した次の第三代藩主有馬頼利のページには、『嗣子が無く、弟の頼元が養子となって跡を継いだ』が、『この若すぎる死には毒殺説もあり、この説に従うならば、頼利は承応4年(1655年)に父と共に船内で殺された。しかし忠頼の実子は次男の頼元しか残されておらず、しかも生まれたばかりの幼児である。このため、摂津有馬家の改易を恐れた家臣団が頼利によく似た子供を頼利であるとして身代わりに擁立したものであった(一説に領内にあった大庄屋の息子だったともされている)。しかし頼元が成長したため、家臣団が邪魔になった頼利を殺害したのだとされているのである』という恐るべき記載が現れる。本話の「數代以前の」藩主というのはこの何か油ならぬ血の臭いのする冷酷非情の第二代藩主有馬忠頼(慶長八(一六〇三)年~承応四(一六五五)年)である可能性が一番濃厚な感じではある。文中に「百年もへて」とあるが、単純に「卷之八」の執筆推定下限である文化五(一八〇八)年の百年前は一七〇八年で、その当時は第五代藩主有馬頼旨(よりむね 貞享二(一六八五)年~宝永三(一七〇六)年)である。ところが彼は生涯独身で二十二歳で夭折しているから彼ではあり得ない。その前の第四代藩主有馬頼元(承応三年(一六五四)年~宝永二(一七〇五)年)が当該射程に最も適合することになるが、ウィキなどよりもより詳しい、サイト「くるめもん com.」の「有馬頼元(慈源院)」の記載によると、この頼元は善政を敷こうとした名君であったことが分かる(しかし、だからこそ娘の不行跡を許せなかったから手討にしたという設定は成り立つとは言える)。そうして、このサイトの「有馬忠頼(瓊林院)」を読むと、相応に有意な功績を記すものの、やはり『しかし、藩祖、父豊氏の戦国末期の櫛風沐雨の労を経験せず、春風駘蕩の幸せの中に成長したためか、性格に奔放にして己を押さえることの出来ない疳癖に近い激しいものがあって、臣下に死を賜うこともしばしばであった。小姓の兄弟二人のために不慮の死を遂げたのは、一にこの性格の禍であった』と書かれてある。これは文化五年からは百五十年以上前になり、「百年もへて」という記載とはかなりずれるものの、まあ、丼表現としては許せるように私には思われる(そもそもがそこは齟齬させて娘を手討にした藩主を特定させない意味もあろう)。いや、ともかくも寧ろ、この藩主謀殺の方が「化け猫」なんぞよりもずっとホラーである。

・「決(けつし)てとひ弔致間敷(とむらひいたすまじきと)申傳(まうしつたへ)る由申ければ」実は底本の本文は、

 決てとひ弔致間敷申(旨)傳る由申ければ

とあって、『(旨)』の右には『(尊經閣本)』という傍注がある。これは尊経閣本では、

 決(けつし)てとひ弔致間敷旨傳(とむらひまじきむねつたは)る由申ければ

とあるということであろうが、私は敢えて、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版の、

 決(けつし)てとひ弔ひ致間敷(いたすまじき)と申傳るよし申ければ

 を参照にしつつ、読みを補う形で本文の「申」を生かした。大方の御批判を俟つ。

・「彫付之」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『彫付有之』で「ゑりつけこれあり」でこの方が自然。

・「理を延ければ」底本では「延」の右に『(述)』と補正注がある。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『演ければ』で長谷川氏はやはり『のべ』とルビを振る。

・「せんせうなる」僭上なるで、身分を越えた出過ぎた行いをするような、という謂いであろう。但し、歴史的仮名遣は「せんしやう」(後に「せんじやう」とも)が正しい。

・「八丈」八丈絹。八丈島産の平織りの高級絹織物。紬(つむぎ)織物と練絹(ねりぎぬ)があり、色合いによって「黄八丈」「黒八丈」などと呼ぶ。

・「裏門より小座敷へ内玄關通り被參候」大名家が非公式でプライベートに相応に目下の身分の客を接待する際の一般的な通路なのであろう。

・「御旗本」旗本は徳川将軍家直属の家臣団の内、石高が一万石未満で、儀式など将軍が出席する席に参列することの出来る御目見以上の家格を持つ者をいう。、高家や交代寄合などの一部の例外を除いて若年寄の支配下に置かれ、定府(じょうふ:参勤交代を行わずに江戸に定住して将軍や藩主に仕える者をいう。)が原則であった(以上はウィキの「旗本」に拠る)。

・「靑め籠」青竹を組んで作った笊のような竹細工の籠のことか。それに八丈絹を盛ったものか。

・「交肴」数種類の魚を交ぜて籠に盛った進物をいう。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 奇妙な癖を持った御仁の事

 

 赤坂に石高九百石を領する岡野何某(なにがし)と申す人物がおる。いまだ若年ではあれど、その気質は、これ一風、人と変わっておる由。

 文政から文化の頃は、世間にては、これ専ら、陰徳を好んでする御仁を褒め称えるという風潮が御座ったが、この御仁もこれ、そうした陰徳を家訓とするような家柄ででもあったものか、岡野殿、非番の折りには小まめに江戸御府内(ごふない)の寺々を廻っては、それらの墓所の内にて、香華(こうげ)なんぞ供えることものぅ、いたずらに苔生(こけむ)して朽ちかけたる、所謂、無縁の墓石にしか見えぬものを見つけては、これ、召し連れた従者に洗い磨かせた上、樒(しきみ)なんどを墓前に立てて供養をするを、何と、の楽しみとして御座った由。

 そんな無縁仏探勝の、ある折りのこと、広尾にあった麻布領分の祥雲寺に参ったところ、墓所の中に大層大きなる碑面の、ひどく苔生し、誰(たれ)を祀るとも分からずなったる、これまたびっちりと苔に埋もれてしまい、仔細を記せし墓碑銘さえも全く読めぬようになった崩れ墓を見つけたによって、例の如、従者に洗い磨かせたところが、

――有馬中務大輔(ありまなかつかさたゆう)娘

と彫られてあるを見出した。

 岡野殿、深い溜め息をつきながら、

「……かかる大名家の息女の石碑が、かくも打ち捨てられておると申すは、これ、不審千万……」

と呟くや、同久留米藩江戸屋敷に知れる者の御座ったによって、岡野殿、その日のうちに、

「――かかる墓碑銘を彫ったる墓が、かくかくの寺に御座った。――その墓、驚くべき衰亡の体(てい)を成したる様――これ、あまりといえばあまりのことと存ずればこそ――かくも非道に打ち捨てられあること、これ、しっかと糺しみらるるように――」

といったことを、書面を以って久留米藩邸の知人へと送った。

 されば、それを受け取った藩士は、藩邸内のかかる筋の役人へ命じ、その墓について調べさせたのであったが、これ、当時の藩邸の家中の者の中には、当該の墳墓及びその藩主娘と申す埋葬者について、何か知っておるような者は、これ、一人として御座らなんだ。

 そこで、さらに国元へと飛脚を送り、調べさせてみたところが、何と、確かに数代以前の藩主の実の娘の墓であることが判った。

 そこで岡野殿の知己であった藩士が、その事実を直接に岡野殿へ語ったところが、岡野殿は、

「……しかし、如何なる訳にてそのような高貴なる御方の墓が、かくも、捨て置かれたままになっておるのじゃ?」

と質いた。

 すると、その藩士は、

「……実は……これには……仔細が、これ、御座る。……」

と語り出した。

「……取り調べた藩の者によれば……何でも、この姫、かくなる御身分にあられながら、相応しからざるところの、さる不埒なる御行跡(ごぎょうせき)のこれ、御座ったによって、父君(ちちぎみ)であったその頃の有馬氏御本人が自ら御手討ちとなされ、『かかる不届き者、これ、菩提所へは葬ること、成り難し。何方(いづかた)なりとも、勝手に取り捨て置くべし』との御下知の御座ったによって、家来が内々に取り計らい、結局、かの寺に葬ったと思しい、とのことで御座った。……かくして永き年月が流れ……その娘が、かく暗々裏に葬り去られたことは確かに違い御座らねど……御家名に傷のつくべきことなればとて……今の家中には、そうした事実があったことも、いや、そのような姫がおられたことさえも、これ、知る者は、御座らぬ。……その節の、父君であられた殿の御憤りは、これ、非常に強いもので御座ってのぅ……『決して墓参・弔い・供養一切、これ、致いてはならぬ』というきつい命が下され……それが、その後(のち)の藩主へも代々伝えられて参ったのが、真相、とのことで御座った。……」

 するとそれを聞いた岡野殿は、

「……そのようなる事情であったことは、まずは相い分かった。……分かったがしかし……その姫の不埒なる御行跡と申すが、ほんに天地に許すべからざる悪逆非道の咎であったものならば、これ、遺骸を身分の分からざるように致いて、どこぞその辺へ取り捨てにも成すであろう。……よもや、石碑なんどを残しおくはずも御座るまい? にも拘わらず現に「有馬中務大輔娘」と確かに彫ったる石碑もある以上は、これ、相応に死後を弔わんとしたことは明らかじゃ!――かの出来事より以来(このかた)、とうに百年以上も経ておる今――かつての藩主の姫君が墓を朽つるがままに捨て置き、墓参も供養もなさらぬと申すは――何と申されようと――よろしいか?――墓には「有馬」の姓が墓碑銘として確かに彫りつけられておるので御座るぞ?!――これ! 不審至極以外の、何ものでも御座らぬ!」

と、理を尽くして述べたと申す。

 かの藩士も岡野殿の理詰めの言に返す言葉もなく平伏致いて、その言葉を主家に戻ると、そのまま当代有馬家当主であられた有馬頼貴殿へ申し上げた。

 すると頼貴殿は、

「……他家がことにつきて……如何にも身分を弁えぬ出過ぎた謂いを成す御仁乍ら……さてさて……その謂わんとするところは、これ、いちいち尤もなる正論じゃ。……然る上は、これ、その姫が仏に然るべき弔いを致すが道理。」

と、かの祥雲寺に人を遣わし、墓所を保護する小屋(しょうおく)や法事仕儀のための仮小屋を建てさせた上、住持へも、永く放置しておったことにつき、しかじかの訳を述べ、手厚く礼をなし、向後の永代供養をも頼みおいて、さても、亡き姫がために大法要を執り行って御座った。

 されば祥雲寺の僧も大きに悦び、直かに岡野殿屋敷へも参って、

「かくかくのことにて法事も立派に執り行(おこの)うこと、これ、出来申した。」

と歓喜満面で岡野殿の陰徳に対する礼を述べた。

 岡野殿もそれを聞き、

「我が志しも先方へ届き、いや、これはもう、我らが悦びも一入(ひとしお)で御座る。」

と答えた。

 するとほどのぅ、有馬家より、活(い)きのよい大鯛一尾(び)・八丈絹五反(たん)を、使者を以って岡野家へ送って参った。

 されば岡野殿は、その使者に面会の上、

「我ら、貴藩の御家来衆へ、ただ少しばかり気のついたことを御挨拶程度に述べたまでのこと。かかる御進物をお受致すべき筋合いのことにては、これ、御座らぬ。」

と、固辞して進物を返した。

 されば、それを聞いた有馬家主君中務大輔頼貴殿は、岡野殿の気性を一層、気に入られ、

「然らば、是非とも直かにお目にかかってお礼致したく存ずれば、当家へお越し下さるように致したく、屋敷裏門よりお入り戴き、奥の小座敷へと内玄関を通ってお出で下さるるように。」

と、すぐに再び使者を遣わし、岡野殿方へと申し遣った。

 ところが、岡野はこれを聴くと、

「――なるほど、折角の御招きなれば、参上致したく存ずるれども――拙者もお上より禄を賜わって御座って、只今は御旗本に列して御座る。――相応なる正式な大名家御面会として――表門より参上致いて、表座敷に於いてお目にかかるという礼式に則るので御座れば、これ、伺うことが出来ましょうぞ――しかし――何か、こそこそと裏門より内玄関を抜けて参られよという仕儀にて御座るならば――これ、お目にかかる儀、お断り申し上げまする。」

と応じた。

 とって返した使者の伝言を聞いた中務大輔殿は、

「……これは……なるほど! まっこと、風変りなる御仁じゃ。……然る上は、表向きよりのお入(はい)り、これ、相い分かり申した、とお伝えせよ。」

と案内をなした。

 さて、その来駕の日、中務大輔殿は岡野殿を作法の定規(じょうき)通り、表門より表座敷へと通し、旗本相応の家格を以って厳粛に対面し、

「――この度はかくなる次第――まことに忝(かたじけの)う御座った。」

という、さて、一通りのしゃっちょこばった簡潔な面会を済ませた上、最後に、

「では、表門より定規通り、お帰り下されよ。而して、改めて、裏門より勝手座敷の方へと御通り下されますように。」

と、威儀は崩さず申し述べられたによって、岡野殿もその御意に従い、今度は言われた通りに勝手座敷へと入(い)ってみると、既に座敷内(うち)には種々の饗応が待って御座った。

 再び、少し礼服を寛がせた中務大輔殿が現れ、

「さてさて。この度の古き我らが一族の墓所に対する貴殿の深きお心配りの段、まっこと、忝きことで御座った。何ぞ御礼なども致したく存ずればこそ、何なりとお好みのもの、これ御座いますれば、そのお好みに応じ、御馳走(おんちそう)その他謝礼の儀をも致しとう存ずる。」

と、直々に仰せられたところが、

「我らはお上より禄も頂戴致し、相応の分を守って御座る自身と、僅かなながらも堅実なる一家を持ってこれにて満足して御座いまする。この度はふと、かの墓碑銘を見出だし、少しばかり気のついたことなど御座いましたによって、知れる御家来衆の御方へその思うところを述べただけのこと。御礼など、これ、受くる謂われは御座いませぬ。御馳走と申されてましても、酒も嗜まざる不調法なる野人なれば、これ、望みも更に御座いませぬ。」

とのことで御座った。

 しかし、中務大輔殿は、

「……かく申さるれど、無縁仏を参らるるお好みのある如く、何ぞ、お好みのもの、これ、きっとおありにならるるはずじゃ。……ともかくも、いかようにも饗応致しまするぞ!」

としきりに望まれた。

 すると岡野殿も流石に折れ、

「……御当家には……相撲の力士をお抱えにならるる由、聞き及んで御座るが……その……相撲を一つ……拝見致したく存ずるが……」

と意外な所望をなした。

 ところが、お抱えの力士どもは丁度その折り、一人残らず大阪等へ興行相撲に招かれて参っており、生憎一人もおらなんだによって、その弁解を致いた上、

「いや! 必ずや、追って相撲の饗応を致そうぞ!」

と、中務大輔殿自ら約し、その日はそれでお開きとなったとのことで御座った。

 その翌日、岡野殿が元へ、八丈絹五反を大きなる青目籠(あおめかご)に盛ったものを、有馬家より昨日の御来訪の御礼と称し、贈ってこられた。岡野殿は今度(このたび)は、

「忝い。」

と素直にこれを受け取った。そうして岡野はその日の内に有馬家へ八丈絹七反を盛ったる、先に貰ったものよりも一回りも大きなる青目籠に盛って答礼致いた。するとその翌日、有馬家奥向きより再び、岡野殿が元へ、今度は、水も滴る幾種もの魚(さかな)の詰め合わせ一折りが贈られ、その折りの使者が、

「向後、どうか、当有馬家へ随分親しくお訪ね下さいまするように。」

と、有馬家奥方よりの伝言を伝えた。

 岡野殿はこれも有り難く受け取った上、

「――御厚情――身に過ぎて有り難く――畏れ多きことに御座る。」

と答えた由。

 この話を聴いて世間にても岡野某がことを、

「まっこと、理に叶ったる変人というものじゃ!」

としきりに評判致いて御座ったと申す。

2014/05/09

むかしのお前でないことを   山之口貘

 むかしのお前でないことを

 

最早むかしのお前でないことを私(わし)は知つてゐる

お前はお前の膝から 春情を彼にやつたとのこと

おゝお前は私(わし)にヒステリーの男と言ふのか

 

戀の玩具から、平氣な微笑でお前は私(わし)の胸に觸れてはいけない。お前の瞳の中には五六人の好男子がまゝごとあそびをやつてゐる‥‥‥

もう一週間が一月にもなつて、

お前の唇と私(わし)の眼との間を、多情と嫉妬のかくれんぼが初まつてゐる

今日用がありますから と私(わし)との媾曳を拒んでお前が行つた夜!

だがあの日お前は何處へ行つたと言ふのだ? そしてあの女をお前でなかつたと言ふのか

氣の毒にお前の唇は大分すりへらされて褪せてゐる

お前の兩手は砂のやうにさらさらあれてゐる

一體お前はあの女を誰だつと言ふのだ?

あゝお前の瞳の中にはどんどん石が投げ込まれて、お前の天水が濁つてしまつた。

私(わし)はお前を責めねばならない 私(わし)は彼等を憎んでしまつた 私の眼には燈火(あかり)が見えなくなつた。

 

[やぶちゃん注:底本(思潮社一九七六年刊「山之口貘全集」第一巻)の「初期詩篇」の第一篇。但し、私のポリシーに従い(これは以下に見るように戦前の作である)、恣意的に漢字を正字化して示した(以下、七篇も同じ。以下ではこの注は略す)。なお、底本では詩句が二行に及ぶ場合は一字下げが施されているが、ブラウザ上の不具合を考え、ここでは無視した。松下博文氏の「稿本・山之口貘書誌(詩/短歌)」(PDFファイル)によると、『草稿に「詩集 中学時代/控原稿 /詩稿 自一九一八年 至一九二一年/八篇(製作順)/山之口貘」の記述』があることから、本篇は大正七(一九一八)年~大正一〇(一九二一)年(バクさん十五歳から十八歳でほぼ沖繩県立第一中学校在学中に相当するが、大正九(一九二〇)年中に退学している。但し、退学事由は主に父重珍の事業失敗による一家離散に拠るものと思われる)の間に創作された作品と注記する。実は私はこのデータを見る今日の今日まで(底本旧全集には松下氏も指摘されているように初出等の書誌データが一切載らないという全集としては致命的な欠陥がある)、これは上京後の放浪時代の失恋を回想した詩作だと思い続けていた。その錯覚の理由はひとえにこの詩の「お前はお前の膝から 春情を彼にやつたとのこと」という表現その他がバクさんが後に書いた「ぼくの半生記」(昭和三三(一九五八)年十一月から十二月にかけての『沖繩タイムス』への二十回連載)の中の、ずっと後(昭和十年代初頭。バクさん三十代初め。バクさんの静江さんとの結婚は昭和一二(一九三七)年十月)にバクさんが附き合った芝(現在の港区芝)の日影町通りにあった、行きつけの喫茶店ゴンドラの女給との恋愛失恋譚のデーティルと、偶然にも恐ろしいまでに美事一致していたからである。今回、この創作年代を知って、この失恋の相手が「ぼくの半生記」の初めに出る、沖繩での中学の時の下級生の姉呉勢(ごせい/沖縄方言では「ぐじー」)との失恋であったことが分かった。……私は実に三十五年以上、とんだ勘違いをしていたわけだ。これはもう、松下氏に心より感謝しない訳にはいかないんである。……

 なお、この底本「初期詩篇」には全八篇が所収するが、前記の松下氏の書誌データによれば、その順列は今までの詩集同様に逆順列編年配列であって、本詩はそれらの中で最も新しいものということになる。
 
【二〇一四年五月二十四日追記】思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と校合した。松下博文氏の同新全集の解題(上記PDFファイル・データと基本的には同じ)によれば、これらの纏まった詩八篇は表紙に「◎詩集 中学時代/控原稿/詩稿 自一九一八年 至一九二一年/八篇(製作順)/山之口貘」と書かれてあり、『以下、製作時期の古い順に「むかしのお前でないことを」から「殺意が押し開けてしまつた」までの八篇を収める』とある。従って、この詩は大正七(一九一八)年~大正一〇(一九二一)年の間(バクさん十五歳から十八歳)に創作された「初期詩篇」群八篇の内、最も古いものということになるので、ここに訂する。

2014/05/08

僕は

あぁ、そうか……僕は誰も彼も……皆……忘れ去ったとでもいうのか?! あなたは!?……

柴田天馬訳 蒲松齢 聊斎志異 鞏仙


 鞏仙きょうせん

 鞏道人きょうどうじんとばかり、名も字もなし、またどこの人ともわからなかった。あるとき、王にまみえたいと願ったけれど、閽人もんばん一が取りつがなかった。ちょうどそこへ中貴人じじゅう二が出て来たので、おじぎをして頼んだのである。中貴人じじゅう二は、そのいやしげなようすを見ていはらわせたが、やがて、また来たので、中貴人は怒って逐いもし打たせもした。そして人けのないところまで来ると、道人は、にこにこしながら百両の黄金を出し、逐って来た者に頼んで中貴人に言わせるのだった、
 「言うてくれ、わしは、もう王さまに会わんでも、いいとな。ただ後苑おくにわ花木うえきや楼台などが、よい景色だと聞いているので、わしをつれて遊ばしてくれさえすれば、まんぞくするとな」
 そして、逐って来た者へも白銀をまかなったのである。その人は喜んで中貴人に、そのとおり報告した。
 中貴人もやはり喜んで道人をつれ、後宰門から入れてくれた。道人は、いろいろな景色を、すっかりへめぐつたうえ、中貴人について楼上に登った。そして中貴人がいまし、窓に寄りかかっているところを、道人が押したので、中貴人は、ただからだが楼の外へ落ちてゆくのを覚えているうちに、細いかつらが腰にからんで、宙につるされた。下を見ると、高深とおいので、目まいがするばかりなのだ。そのうちに、どことなく葛の切れる音がするので、ひどく恐れて、大きな声でどなった。まもなく数人のじじゅうが来て、ひどく驚いたのであった。それが地面からたいそうはなれているのを見て、楼に登ってみんなで見まわすと、葛の一端が楼につながれていた。しかし、ほどいて、それを引きあげるには、葛が細くてもてないのだ。あちこちと道人をさがしたけれど、いないのである。みんなは手をつかねたままくふうがなかったので、魯王に申しあげた。王は来てみてたいそうふしぎがり、楼の下に茅を敷き、またその上にわたを敷くように命ぜられた。そうしてから蔦を断ち切ろうというのである。やっと、それがすむと、からんでいた葛は、ひとりでに切れたが、よく見れば地面をはなれることが尺にも足らぬほどなので、みんな一度にふきだした。
 王は道士のいるところをたずねてみよ、と命ぜられた。しょうという秀才の家に泊まっていると聞いて、そこに行ってたずねると、遊びに出たまま、まだ帰らない、ということだった。が、やがて途中で会ったので、引きつれて、王に謁見させた。王は宴を開き座を賜わってから、作劇てじなを見せてくれと言われた。
 道土は、
 「臣は草野の匹夫ひっぷで、何もできないのですが、かかる優寵を受けましたからは、女楽じょがくをたてまつって大王の寿を祝したいとぞんじます」
 と言って、袖をさぐつて美人を取り出し、それを下に置いて、王に向かっておじぎをした。道士は美人に言いつけて瑤池ようちの宴のひとまくらせ、王の長寿を祝させた。女が登場して数語をうたうと、道士はまた一人を取り出した。その美人は、自分が西王母せいおうぼ三だとそう言った。まもなく王母の侍女の董雙成とうそうせい許飛瓊きょひけい四など、あらゆる仙姫が、つぎつぎにみんな出てきた。そして最後に職女しょくじょがきて拝謁し、一襲ひとかさねの天衣を献じた。絢爛けんらんたる金色の光りが一堂にてりはえたのである。王はにせものだろうと思って、それを見たいと言われた。道士は急に、
「いけません!」
 と言ったが、王はきかずに、とうとう手にとって見たのである。それは、まったく縫いめのないで、人工ではつくることのできないものであった。道士は、わびしげに、
 「臣は誠を尽くして大王のお目にかけたいと思い、しばらくのあいだ、これを天孫たなばた六から借りてまいったのに、いまや人間の濁気に染まってしまいました。どうして故主もちぬしにかえせましょう」
 と言った。王はまた、歌っている者たちは、すべて仙姫だろうと考えて、その中の一、二人を留めたいと思った。そしてよく見ると、すべて宮中の楽妓だったのである。で、前からおぼえているのでもない今の曲を、どうして、うたったのだろうと思って聞いてみると、楽妓たちはぼうぜんとして、自分でもわかりません、と言うのだった。
 道士は、天衣を火にかけて焼いたのち、それを袖の中に納めた。もう一度それをさがさせると、もうなかった。
 それから、王は深く道士をそんけいし、府内に留めておこうとすると、道士は、
 「野人の性として、宮殿は藩籠おりのように思われ、かってな秀才の家が、かえって、ましでござります」
 と言って夜中になるごとに、必ず、そこに帰るのであるが、引き止められると、やはり、宮殿に泊まってゆくこともあった。酒宴の席などで、たわむれに、四時の花木をあべこべに咲かせたりなどもするのであった。
 あるとき王が、
 「仙人でも、やはり情を忘れることはできないと聞くが、そうかな?」
 と聞かれたら、
 「あるいは、仙人はそうかもしれません。しかし臣は仙人ではないのですから、心は枯れ木のようなものです」
 と答えた。
 ある夜、府中に泊まったので、王は若い楽妓に命じて道士を見に行かせた。楽妓は部屋にはいって、たびたび呼んだが返事がないので、燭をつけてみると、寝台の上にすわっていた。ゆすると、をびかりとさせたが、すぐにまた、ふさいでしまった。また、ゆすると、いびきをはじめ、押すと手のままに倒れて、寝こんでしまった。雷のようないびきである。額をほじいてみると指にこたえるほどかたく、鉄の釜のような音がした。楽妓は帰って王に申しあげた。王ははりで刺してみたが、鍼もはいらなかった。で、また押したが、重くて、ゆすれないのだ。十人あまりで持ちあげて床に投げだすと、千斤もする大きな石を、地面に落としたようだった。夜があけてから、のぞいて見ると、やはり地面に寝ていたが、目をさまして、笑いながら言った、
 「ぐつすり寝こんで寝台から落ちたのも覚らなかったとみえる!」
 女たちは、道士がすわっている時や寝ている時など、よく、戯れにでるのであったが、なではじめは、やはりやわらかで、二度めになでるときは、鉄石のように、かたかった。
 道士はしょう秀才の家に泊まっていたが、よく終夜帰ってこないことがあるので、尚が戸をしめ、朝になってから戸をあけてみると、道士はもう部屋へやの中に寝ているのだった。
 これより前のことであるが、尚は曲妓うたひめ恵哥けいかとよい仲で、嫁にゆきましょう、めとろうと誓いあっていたのである。恵はたいそう歌がうまくて、絃索いとではならしたものであった。と、魯王が、その評判を聞いて供奉ぐぶに召し入れたので、とうとう情好いとが絶えてしまった。尚は、たえず恵哥のことを思って、うみちがないのを苦にしていたが、ある夜、道士に向かい、
 「恵寄を見ませんでしたか」
 と聞くと、
 「いろんなおんなをみんな見たけれど、だれということは知らんじゃ」
と、答えた。そこで尚が恵寄の顔や年を話すと道士は思いついたので、尚は一言つたえてくれと頼んだ。
道士は笑って、
 「おれは世外人よすてびとじゃから君の塞鴻ふみづかい七はできん!」
 と言った。それでも尚が、しつこく哀願すると、道士は袖をひろげ
 「やっかいだなあ。ぜひあいたければ、この中にはいりなさい」
 
 と言うので、尚は、のぞいてみた。中はいえのように大きくて、腹ばいになってはいると、光明あかりが透きとおっていて、庁堂やくしょのように広かった。そして机や寝台などないものはなく、中にいて少しもうっとうしい気がしないのある。
 道士は王府に行って王と対奕ごをうちながら、恵哥が来たのを見て、袍の袖でちりを払うようなふりをした。すると、恵哥は、もう袖の中にはいっていた。しかし他人には見えなかった。
 尚はひとりですわって考えこんでいたが、たちまち美人がのきから落ちてきたので、見ると、それは恵哥だった。二人は、たがいに驚喜して綢繆臻至ひつっいてはなれなかった。
 尚は言った。
 「今日の奇縁は、書いておかなければならないね。おまえと連句をやろうじやないか」
で、壁に書いたのが、
 「侯門は海に似久しくゆくえがわからなかった」
と、いうのであった。恵は続けた、
 「だれが知ろう、粛郎に今また逢おうとは」
尚は言った、
 「袖のなかの乾坤てんちは、ほんとに大きい」
 恵は言った、
 「離れている人も、思っている女もことごとく包容する」
 書いてしまった時、角一〇に淡紅色の着ものをきた五人の人がはいってきた。それは、みんな知らぬ人たちで、黙って恵哥をつかまえて行ってしまった。尚は驚き疑うばかりで、さっぱり、わけがわからなかった。道士は帰ってから、尚を呼び出して情事ようすを聞いたが、尚は、かくして、すべてを言わなかった。道士は微笑して衣をぬぎ、袂をうらがえして尚に見せた。よく見ると、しらみのような、かすかな字のあとがある。それは壁に題した句なのだった。
 それから十数日ののち、また袖の中に入れてもらい、前後を合わせて三度も中にはいった。あるとき恵哥が尚に、
 「おなかが動くのよ。あたし、ひどく心配だから、いつもきれで、しつかり腰際したばらをしばってるの。王府は耳目ひとめが多いから、もしも臨蓐おさん一一のときがくれば、泣く児を容れるようなところはどこにもありゃしないわ。ねえ、鞏仙人と相談して、あたしがお産の時には、助けてくださいな!」
 尚は承諾して家に帰り、道士を見て、床にひれ伏したまま起きなかった。道士は引きおこして言うのだった。
 「あんたの言うことは、わしにはもう、わかっとるじゃ。まあ、心配せんでもよい。あんたの宗祧ちすじは、これだけなのじゃから、力ぞえをせずには、おれんよ。しかし、これからは、もうはいってはならん。わしが、あんたに報ゆるゆえんは、もともと私情ではないのじゃ」
 それから数月ののち、道士は外からはいってくると、にこにこして言った、
 「公子わかだんなをつれてきた。早う襁褓むつきを持ってきなさい」
 尚の妻はたいそう賢い女で、年は三十近くであったが、何度も身ごもったけれど、生きているのは、ただ一人で、たまたま生まれた女の子は、ひと月で死んでしまったときであったから、尚のことばを聞くと喜んで、自分で出てきた。
へそ
 道士は袖をさぐって嬰児を取り出した。よく寝ていて、へその緒も、まだ切ってはなかった。尚の妻が受けとって抱いてから、呱々こことして泣くのであった。
 道士は着ものをぬいで言った、
 「産の血が着ものについた。これは道門では最もいやがることなのじゃ。いま君のために二十年の着ふるしを一日にして捨てねはならん」
 尚は道士に衣をかえさせた。道士は言いつけた、
 「その古い物を捨ててはならんよ。銭ほどのきれを焼けば、難産をなおし死胎をおろすことができるでの」
 尚は道士のことばに従って、血のついた衣をしまっておいた。
 道士は、それから長いあいだいたが、あるとき突然、尚に言った。
 「しまってある古い着ものは、自用に少しばかり残しておきなされ。わしが死んだあとでも、忘れてはならんよ」
 尚は道士のことばを不吉だと思った。道士は黙って行ってしまったが、王府にはいって謁見し、
 「臣は死にます」
 と言うので、王が驚いて問われると、道士は言った、
 「これは有定数じょうみょうで、しかたのないことです」

 しかし王は、ほんとにしなかったから、むりに引き留めて手談一局ごをいちめん闘わしたのである。それがすむと道士は急に立ちあがった。王が、また止めると、道士は外の家においてくれと願うので、願いのままに許された。道士は駆けて行って寝てしまった。見ると、もう死んでいた。王は棺をととのえてていねいに葬ってやられた。尚は弔いに行って哀哭した。そして、いつかのことばがまえに告げたのだということを、はじめて悟ったのであった。
 かたみの衣をお産に使うと、すぐに、ききめがあるので、もらいに来る者の絶え間がなかった。はじめのうちは、やはり汚れた袖をやっていたが、やがて襟を切るようになっても、ききめがないということはなかった。道士の言いつけを聞いていたので、妻に、きっと、難産があるのだろうと思い、血のついた布を掌ほど切りとってだいじにしまっておいた。
 と、魯王のきにいりの妃が産気づいて三日も生まれなかった。医者がくふうに困っていると、ある人が尚のことを王に申しあげた。王は、すぐ尚を召された。布の一剤いっぷくで生まれたので、王はたいそう喜んで、銀や綵緞どんすなどを、たくさん贈られた。けれども、尚は、ことごとく、ことわって受けなかった。
王が望みを問われると、尚は言った、
 「申しあげられません」
 で、ふたたび問われると、尚は頓首とんしゅして言った、
 「もし、いただけれは、臣と旧交のある楽妓恵哥を賜われば満足いたします」
 王は恵哥を呼んで、年を問われた。恵哥は言った、
 「あたしは十八で王府にはいり、今で一四年になります」
 王は恵哥が歯長としをとっているのを見て、群妓うたひめたちをみんな呼び集め、尚の選むにまかされたのである。しかし尚は一人も好きなのはないというので、王は笑って、
 「おろかな書生じゃ。十年も前に婚嫁の約束をしておいたのかな」
 尚は、ありのままをお答えした。すると王は輿や馬をりっぱにしたくさせ、尚がことわった綵緞どんすで、恵哥のために着ものを作り、王府から送り出してやられた。
恵哥の生んだ子どもは、秀生しゅうせいと名づけられた。秀とは袖の意味なのである。この時十一になっていたが、日ごとに鞏仙人の恩を思い、清明の節には、そのお墓に詣ることを、おこたらなかった。
 久しく四川しせんに旅をしていた者が、途で道人に会った。すると道人は一巻の書を取り出して、
 「これは魯王府中の物である。来る時に急いでいたので、まだお返しもせずにいる。持っていって返してくだされ」
 と言った。
 旅の人は帰ってきて、道人はもう死んだのだということを聞き、王に、とどけなかったので、尚が代わって、そのことを申しあげた。王が開いてごらんになると、それははたして道士が借りていったものであった。あやしんで墓を発けてみると、棺は、もぬけの空であった。
 その後、尚の長子は若死にをして、そのあとを秀生が受けついだので、尚は、ますます鞏仙人の先見に服したのであった。

  注

一 閽人とは、門の開閉をつかさどる人。
二 前漢、季広伝に「上、中貴人をして広に従わしむ」とあり、注に内臣の貴幸者なりとある。
三 東華至真の気が化して、木父すなわち東王父となり、西華至妙の気が化して、金母すなわち西王母となった。王母は崖嶺(こんろん)の圃、闇風(ろうふう)の苑におり、千里の城、十二の玉機があって、左には瑤池を帯び、右には翠水がめぐっているという。
[やぶちゃん字注:「こんろん」「ろうふう」はママ。ルビではない。注はポイントが小さいための仕儀と思われる。向後はこの注を略す。]
四 董双成も許飛瓊も、ともに王母の侍女である。
五 郭翰が、暑月に織女の下降するのを見たが、その衣に縫いめがないので、たずねると、天衣は、もと、鍼線のつくるところではないからだと言った。ということが、霊性録に出ている。
六 史記天官書に、織女は、天女孫也、とある。
七 昔、王仙客の愛人無双が、塞鴻に手紙を託して、王仙客にとどけたという唐小説がある。
八 西遊記のなかに、悟空等を袖の中に入れる仙人のことが出ている。
九 崔郊に婢があったが、はなはだ端麗で音律をよくした。貧乏になってから、婢を連帥千蝢の家に鬻(ひさ)いだが、郊は思慕やまなかったのである。やがて寒食の節になり、婢は崔の家にきて郊にあい、柳の陰に立って馬上で泣くのだった。崔は詩を贈って言うのであった、「公子王孫後塵を逐う、疑珠垂涙羅布を湿す、侯門一たび入って深きこと海のごとし、これより粛郎これ路人」と。公はその詩を見て、令して崔生を召し、婢に命じて帰(とつ)がしめたということが、全唐詩話に見えている。
一〇 童子のかむる冠の意味。
一一 産蓐に臨むということ。昔は草を敷いて産をした。蓐は、草を敷くこと。
一二 王積薪が、ある夜村の宿に泊まって、女が碁を打っているのを壁ごしに聞いた。翌朝見ると碁の具がないので、たずねると、手談で打ったのです、と答えたということが、群仙伝にある。それから碁のことを、手談というようになった。
[やぶちゃん特別注:この場合の「手談」とは囲碁の打つ手を言葉で言うことではなく、仙術を持った者がヴァーチャル・リアリティの仮想の盤に石を打つ音が聴こえたととるべきであろう。
 私はこの話柄が忘れられない。十七の時、この話を読んだ時に、尚秀才が恵哥と再会したシーンの『二人は、たがいに驚喜して綢繆臻至ひつっいてはなれなかった』という訳文にどきどきし乍らも、すっかり魅了されてしまったからである。だからちょっとだけ語注しておきたい欲求を押さえられない。「綢繆」は「ちうびうしんし(ちゅうびゅうしんし)」と音読みし、「綢繆」の原義は纏わりつくこと・糸などを絡めて結ぶことで、そこから男女が睦み合うこと・馴れ親しむことの意となった。「臻」は「極」と同義で「至」と同じい語であるから、これはもう、男女がくんずほぐれつ(男色も相応に出る「聊斎志異」の中では必ずしも男女である必然性はないのであるけれども)、エクスタシーがその極点に達するということであろうと私には思われるのである。凡愚の十七の私が直感的に感じた何かは、決して誤りではなかったのではあるまいか?]

■原文

  鞏仙

鞏道人、無名字、亦不知何里人。嘗求見魯王、閽人不爲通。有中貴人出、揖求之。中貴見其鄙陋、逐去之。已而復來。中貴怒、且逐且扑。至無人處、道人笑出黃金二百兩、煩逐者覆中貴、
「爲言我亦不要見王。但聞後苑花木樓臺、極人間佳勝、若能導我一游、生平足矣。」
又以白金賂逐者。其人喜、反命。
中貴亦喜、引道人自後宰門入、諸景俱歷。又從登樓上。中貴方凭窗、道人一推、但覺身墮樓外、有細葛繃腰、懸於空際。下視、則高深暈目、葛隱隱作斷聲。懼極、大號。無何、數監至、駭極。見其去地絶遠、登樓共視、則葛端繫櫺上。欲解援之、則葛細不堪用力。遍索道人已杳矣。束手無計、奏之魯王。王詣視、大奇之、命樓下藉茅鋪絮、將因而斷之。甫畢、葛崩然自絶、去地乃不咫耳。相與失笑。
王命訪道士所在。聞館於尚秀才家、往問之、則出游未復。既、遇於途、遂引見王。王賜宴坐、便請作劇。道士曰、
「臣草野之夫、無他庸能。既承優寵、敢獻女樂爲大王壽。」
遂探袖中出美人、置地上、向王稽拜已。道士命扮「瑤池宴」本、祝王萬年。女子弔場數語。道士又出一人、自白、
「王母」。
少間、董雙成、許飛瓊、一切仙姫、次第俱出。末有織女來謁、獻天衣一襲、金彩絢爛、光映一室。王意其僞、索觀之。道士急言、
「不可。」
王不聽、卒觀之、果無縫之衣、非人工所能製也。道士不樂曰、
「臣竭誠以奉大王、暫而假諸天孫、今爲濁氣所染、何以還故主乎。」
王又意歌者必仙姫、思欲留其一二。細視之、則皆宮中樂妓耳。轉疑此曲、非所夙諳、問之、果茫然不自知。
道士以衣置火燒之、然後納諸袖中、再搜之、則已無矣。
王於是深重道士、留居府内。道士曰、
「野人之性、視宮殿如藩籠、不如秀才家得自由也。」
毎至中夜、必還其所。時而堅留、亦遂宿止。輒於筵間顛倒四時花木爲戲。王問曰、
「聞仙人亦不能忘情、果否。」
對曰、
「或仙人然耳。臣非仙人、故心如枯木矣。」
一夜、宿府中、王遣少妓往試之。入其室、數呼不應。燭之、則瞑坐榻上。搖之、目一閃即復合。再搖之、齁聲作矣。推之、則遂手而倒、酣臥如雷。彈其額、逆指作鐵釜聲。返以白王。王使刺以針、針弗入。推之、重不可搖。加十餘人舉擲床下、若千斤石墮地者。旦而窺之、仍眠地上。醒而笑曰、
「一場惡睡、墮床下不覺耶。」
後女子輩毎於其坐臥時、按之爲戲、初按猶軟、再按則鐵石矣。
道士舍秀才家、恆中夜不歸。尚鎖其戸、及旦啟扉、道士已臥室中。
初、尚與曲妓惠哥善、矢志嫁娶。惠雅善歌、絃索傾一時。魯王聞其名、召入供奉、遂絶情好。毎繫念之、苦無由通。一夕、問道士、
「見惠哥否。」
答言、
「諸姫皆見、但不知其惠哥爲誰。」
尚述其貌、道其年、道士乃憶之。尚求轉寄一語。
道士笑曰、
「我世外人、不能爲君塞鴻。」
尚哀之不已。道士展其袖曰、
「必欲一見、請入此。」
尚窺之、中大如屋。伏身入、則光明洞徹、寬若廳堂、几案床榻、無物不有。居其内、殊無悶苦。
道士入府、與王對弈。望惠哥至、陽以袍袖拂塵、惠哥已納袖中、而他人不之睹也。
尚方獨坐凝想時、忽有美人自簷間墮、視之、惠哥也。兩相驚喜、綢繆臻至。
尚曰、
「今日奇緣、不可不誌。請與卿聯之。」
書壁上曰、
「侯門似海久無蹤。」
惠續云、
「誰識蕭郎今又逢。」
尚曰、
「袖裏乾坤眞箇大。」
惠曰、
「離人思婦盡包容。」
書甫畢、忽有五人入、八角冠、淡紅衣、認之、都與無素。默然不言、捉惠哥去。尚驚駭、不知所由。道士既歸、呼之出、問其情事、隱諱不以盡言。道士微笑、解衣反袂示之。尚審視、隱隱有字蹟、細裁如蟣、蓋即所題句也。
後十數日、又求一入。前後凡三入。惠哥謂尚曰、
「腹中震動、妾甚憂之、常以緊帛束腰際。府中耳目較多、倘一朝臨蓐、何處可容兒啼。煩與鞏仙謀、見妾三叉腰時、便一拯救。」
尚諾之。歸見道士、伏地不起。道士曳之曰、
「所言、予已了了。但請勿憂。君宗祧賴此一線、何敢不竭綿薄。但自此不必復入。我所以報君者、原不在情私也。」
後數月、道士自外入、笑曰、
「攜得公子至矣。可速把襁褓來。」
尚妻最賢、年近三十、數胎而存一子。適生女、盈月而殤。聞尚言、驚喜自出。道士探袖出嬰兒、酣然若寐、臍梗猶未斷也。尚妻接抱、始呱呱而泣。道士解衣曰、
「産血濺衣、道家最忌。今爲君故、二十年故物、一旦棄之。」
尚爲易衣。道士囑曰、
「舊物勿棄卻、燒錢許、可療難産、墮死胎。」
尚從其言。居之又久、忽告尚曰、
「所藏舊衲、當留少許自用、我死後亦勿忘也。」
尚謂其言不祥。
道士不言而去。入見王曰、
「臣欲死。」
王驚問之、曰、
「此有定數、亦復何言。」
王不信、強留之。手談一局、急起。王又止之。請就外舍、從之。道士趨臥、視之已死。王具棺木以禮葬之。尚臨哭盡哀、始悟曩言蓋先告之也。
遺衲用催生、應如響、求者踵接於門。始猶以污袖與之。既而翦領衿、罔不效。及聞所囑、疑妻必有産厄、斷血布如掌、珍藏之。
會魯王有愛妃、臨盆三日不下、醫窮於術。或有以尚生告者、立召入、一劑而産。王大喜、贈白金、綵緞良厚、尚悉辭不受。王問所欲、曰、
「臣不敢言。」
再請之、頓首曰、
「如推天惠、但賜舊妓惠哥足矣。」
王召之來、問其年、曰、
「妾十八入府、今十四年矣。」
王以其齒加長、命遍呼群妓、任尚自擇。尚一無所好。王笑曰、
「癡哉書生。十年前訂婚嫁耶。」
尚以實對。乃盛備輿馬、仍以所辭綵緞、爲惠哥作妝、送之出。
惠所生子、名之秀生。秀者袖也、是時年十一矣。日念仙人之恩、淸明則上其墓。
有久客川中者、逢道人於途、出書一卷曰、
「此府中物、來時倉猝、未暇璧返、煩寄去。」
客歸、聞道人已死、不敢達王。尚代奏之。王展視、果道士所借。疑之、發其冢、空棺耳。
後尚子少殤、賴秀生承繼、益服鞏之先知云。

異史氏曰、「袖裏乾坤、古人之寓言耳、豈眞有之耶。抑何其奇也。中有天地、有日月、可以娶妻生子、而又無催科之苦、人事之煩、則袖中蟣蝨、何殊桃源雞犬哉。設容人常住、老於是郷可耳。」

 

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 38 最初の一般講演会の思い出 / 第十一章 了

 私は日本で初めて、日本人だけを聴衆にして行った、公開講義のことを書かねばならぬ。米国から帰った若い日本人教授達が、公共教育の一手段としての、我国の講演制度に大きに感心し、東京でこのような施設を設立しようと努力した。これは非常に新しい考なので彼等は一般民衆の興味をあおるのに、大きな困難を感じた。然しながら彼等は勇往邁進し、ある茶店の大きな部屋を一つ借り受けた。一般民衆は貧乏なので、入場料も非常に安くなくてはならぬ。同志数名が集って、この講演会に関係のある科学、文学、古代文明等に関する雑誌を起し、この人々が私に六月三十日の日曜日に、最初の講演をする名誉を与えてくれた。私は考古学を主題として選んだ。狭い路を人力車で通って、会場へ来て見ると、私の名前が大きな看板に、私には読めぬ他の文字と一緒に、日本字で書いてあった。人々が入って行く。私は通訳をしてくれることになっていた江木氏にあったので、一緒に河に面した部屋へ入って行った。例の方法で畳にすわった日本人が、多くは扇子を持ち、中には煙管を持ったりお茶を飲んだりしているのもあったが、とにかく、ぎっしりと床を埋めた所は巧妙だった。黒板が一つあった。部直中に椅子がたった一脚、それに私は坐らせられた。

[やぶちゃん注:これは既に本第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 50 モース先生一時帰国のための第一回送別会 又は ここにいる二人の自殺者の経歴がこれまた数奇なることに注した、本文に出る、当時、二十九歳であった東京大学予備門教諭江木高遠が、アメリカ留学から帰朝後ずっと温めていた啓蒙のための学術講演会で、この直後の同明治一一(一八七八)年九月二十一日に発足させた会費制学術講演会「江木学校講談会」の濫觴となるものであった。参照した磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、会場は『浅草須賀町(現台東区柳町二丁目)の隅田川べりにあった貸席』『井生村(いぶむら)楼』で、『両国橋を渡ってすぐと東両国(現墨田区両国一丁目)にあった中村楼とともに、当時の講談会、演説会の会場としてしばしば用いられた場所であ』ったとある。なお、この日の講演は同『なまいき新聞』三~五号(同年七月六・十三・二十日号)に要作されており、『それによると、石器時代、青銅器時代、鉄器時代の区分や貝塚について話し、また大森貝塚はアイヌでも日本人でもないと述べ、その人々が食人していたと初めて主張し』たとある。所謂、プレ・アイヌ説であるが、現在では大森貝塚は縄文後期から末期の縄文人の遺跡と認定されており、またカニバリズム説についても否定的であるが、これが明治の初め、外国人が初めて一般大衆に最初に講演した内容であったということは実にショッキングではある。どこまで正確に通訳されたかは疑問ながら、モースにとってはその「拍手」が、いやましに日本人を愛するきっかけとなったことは想像に難くない。

「この講演会に関係のある科学、文学、古代文明等に関する雑誌」前のリンク先注に示した、江木らが発刊した『なまいき新聞』(同六月に生意気新聞社が創刊した週刊新聞で同年十月には『芸術叢誌』と改名して美術雑誌となった)で、明治一一(一八七八)年六月三十日の「『なまいき新聞』発刊記念講演」と称して行われたのが実に本講演であったのである。

「巧妙だった」原文は“a queer sight”。なんとも奇妙な光景であった、である。誤植か?]

 

 井上氏が先ず挨拶をされた。これは、後で聞くと、何等かの伝記的記事から材料を得て、私というものの大体を話されたのだそうだが、彼のいったことが丸で判らぬ私は、いう迄もなく顔一つあからめずにこの試練をすごし、さて聴衆に紹介された。通訳を通じて講演するのは、むずかしかった。会話ならば、これは容易だが、覚書を持たずに講義するとなると、通訳がどれ程よく覚えていることが出来るかが絶えず気にならざるを得ず、従って言論の熱誠とか猛烈とかいうものがすべて抑圧されて了う。私は先ず、考古学の大体を述べ、次に日本に於る広汎な、いまだ調査せられざる研究の範囲を語り、目の先にある大森の貝塚を説明し、陶器のあるものを示し、かくて文字通り一連二歩、主題の筋を辿った。話し終ると聴衆は、心からなる拍手を送った。拍手は外国へ行って来た日本人の学生から、ならったのである。聡明そうに見える老人も何人かいたが、皆興味を持つたらしかった。講義中、演壇の横手に巡査が一人座っていた。

[やぶちゃん注:「井上」井上良一東大法学部教授(イギリス法律学担当)。既注。]

 

 翌日江木氏が私の宅を訪問し、入場料は十セントで学生は半額、部屋の借代がこれこれ、広告がこれこれと述べた上、残りの十ドルを是非とってくれと差出した。こんなことは勿論まるで予期していなかつたので、私は断ろうとした。然し私は強いられ、そこで私は、前日が、そもそも組織的な講演会という条件のもとに、外国人が講義をした最初だと聞いたので、この十ドルで何か買い、記念として仕舞っておくことに決心した。この会は私に、連続した講義をしないかといった。私は、秋になったら、お礼をくれさえしなければやると申し出た。主題はダーウイン説とする。

[やぶちゃん注:最後のそれが「江木学校講談会」に於ける進化論四講として結実することになるのである。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、講演は明治一一(一八七八)年十月二十七日・二十八日・三十一日と十二月二日の四回で、場所はこの時と同じ浅草井生村楼で、広告によると演題は「動物変遷論」或いは「人種原始論(ひとのはじめろん)」あったらしい。通訳は江木高遠と東京大学理学部教授(純正及び応用数学担当)菊池大麓が担当した。モースはそれ以外にも同講談会で「昆虫の生活」「氷河の話」「動物成長の法則「彫刻術」「クモの話」「人と猿」などという演目で講演を行っている)。磯野先生はこの江木の企画した「江木学校講談会」でのモースの進化論講演(本末尾に出る)に絡んで当該書で一章を設けて詳述しておられる。本邦の自然科学とそれに影響されたところの社会学を含む近代啓蒙史の曙としても、是非ご一読をお薦めするものである。]

飯田蛇笏 靈芝 昭和九年(百七句) ⅩⅢ

 

錦木も苅られし籠の山すすき

 

[やぶちゃん注:「錦木」ニシキギ目ニシキギ科ニシキギ Euonymus alatus。日本・中国に自生し、紅葉が美しいため、モミジ・スズランノキとともに世界三大紅葉樹に数えられる。若い枝では表皮を突き破ってコルク質の二~四枚の翼(よく)が伸長するので識別しやすい(翼が出ないもの品種はコマユミ Euonymus alatus f. ciliatodentatus もある)。葉は対生で細かい鋸歯があって枝葉は密に茂る。初夏に緑色で小さな四弁の花が多数つくが、あまり目立たない。果実は楕円形で、熟すと果皮が割れ、中から赤い仮種皮に覆われた小さい種子が露出する。庭木や生垣・盆栽にされることが多い。和名の由来は紅葉を錦に例えたもの。別名ヤハズニシキギとも呼ぶ(以上はウィキの「ニシキギ」に拠った。グーグル画像検索「Euonymus alatus)。]

 

實の熟れて石榴たまたまちる葉かな

 

[やぶちゃん注:「たまたま」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

新月の仄めく艇庫冬眠す

 

乳を滴りて母牛のあゆむ冬日かな

 

橡の實は朴におくれて初しぐれ

 

軍港の兵の愁ひに深雪晴れ

 

[やぶちゃん注:「深雪晴れ」は「みゆきばれ」と読み、深く雪が降り積もった翌日のからりと晴れた景をいう。但し、「深雪」は元来が「美雪」で「み」は美称であるから深雪の景である必要はない。]

 

雪踏んで靴くろぐろと獄吏かな

 

[やぶちゃん注:「くろぐろ」の後半は底本では踊り字「〲」。]

 

山神樂冬霞みしてきこえけり

 

山雪の闇ふかみたる追儺かな

 

  中谷草人星遂に逝く

涙顏鳴呼冷えつらん蒲團かな

 

[やぶちゃん注:「中谷草人星」蛇笏門の諫早農学校教師であった中谷(なかたに)草人星。本名中谷欣三。]

血   山之口貘 / 詩集「鮪に鰯」完結

 

 血

斉藤さんは発音した

だんだんだんだんということを

たんたんだんだんと発音した

それは矢張りのやはりのことを

それはやぱりと発音した

学校のことを

かっこう

下駄のことを

けたと発音した

こんな調子で斉藤さんはまずその

ごじぶんの名前の斉藤を

さいどうですと発音した

争えないのは血なのであるが

かなしいまでに生々と

大陸

大海

大空はむろん

たったひとりの人間の舌の端っこでも

血らは既に血を争っていた

斉藤さんは誰に訊かれても決して

ごじぶんの生れた国を言わなかった

言うには言うが

眉間のあたりに皺などよせて

九州ですと発音した 

 

[やぶちゃん注:【2014年7月22日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。注を一部改稿した。】思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」は本篇では清書原稿を底本としているが、そこでは二連に分かれている。最後の正字化版で再現しておく。

 初出は昭和一六(一九四一)年五月発行の日本詩人協会編『現代詩 昭和十六年春季版』。

「斉藤さん」未詳であるが、明らかに沖繩方言に親しんだ沖繩の人である。よく知られていることであるが、若き日よりバクさんは沖繩方言を愛し、当時行われていた皇民化政策の一環として標準語化政策に激しく反発した。底本全集の年譜の大正六(一九一七)年の項には、四月に入学したバクさん(当時十四歳)について以下の記載がある。『当時は日本語標準語施行のため、方言罰札制度(方言を口にすると罰札を渡されそれをそのまま持っていると操行点一点減点となるもので、方言使用者をみつけてはその罰札をバトンするというもの)が行われていたが、貘は「意識的にウチナーグチ(沖縄語)を使ったりして左右のポケットに罰札を集め、それを便所の中へ捨てたり」(「わが青春記」)する生徒だった』とある(なお、「わが青春記」とあるが、これは昭和三〇(一九五五)年二月九日附『東京新聞』に載った「初恋のやり直し―わが青春記」の一節で、当該旧全集では随筆「初恋のやり直し」と題して第三巻に所収するものである)。その思いは戦後も一貫して主張され続けた。その思いが先の「弾を浴びた島」に如実に現わされていることは言うまでもあるまい。

 以下、正字化版を清書原稿様式で示す。「斉藤」は迷ったがママとした。

   *

 

 血

斉藤さんは發音した

だんだんだんだんということを

たんたんだんだんと發音した

それは矢張りのやはりのことを

それはやぱりと發音した

學校のことを

かっこう

下駄のことを

けたと發音した

こんな調子で斉藤さんはまずその

ごじぶんの名前の斉藤を

さいどうですと發音した

爭えないのは血なのであるが

かなしいまでに生々と

大陸

大海

大空はむろん

たったひとりの人間の舌の端っこでも

血らは既に血を爭っていた

 

斉藤さんは誰に訊かれても決して

ごじぶんの生れた國を言わなかった

言うには言うが

眉間のあたりに皺などよせて

九州ですと發音した

 

   *

 本詩を以って「鮪に鰯」の詩本文は終わり、冒頭に注したように最後に長女ミミコ泉さんの「後記にかえて」が附されてある。]

 

杉田久女句集 209 病床景Ⅳ

 

長病や足荒れて搔く羽根ぶとん

 

許されてむく嬉しさよ柿一つ

 

野路の茶屋の柿下げて來ぬ日暮人

 

腹痛に醒めて人呼ぶ夜半の秋

 

外出して看護婦遲し夜半の秋

橋本多佳子句集「信濃」 昭和二十一年 Ⅸ 病みて(「いなびかり」三句)

  病みて

 

いなびかり病めば櫛など枕もと

 

いなびかり醫師(くすし)の背よりわがあびぬ

 

いなびかり寢しまま髮を梳きくるる

篠原鳳作初期作品(昭和五(一九三〇)年~昭和六(一九三一)年) Ⅻ

 

門川の溢れてゐたる歸省哉

 

一疋は背中に負ひぬ仔豚賣

 

船人と別れをおしむ日傘かな

 

[やぶちゃん注:「おしむ」はママ。]

 

ハブ捕のかもじを卷きし手先かな

 

[やぶちゃん注:「かもじ」は「髢」「髪文字」と書きく。「か」は「かみ(髪)」「かずら(髢)」などの頭音であり、「文字(もじ)」は女房詞に於ける「文字言葉」と呼ばれるもの(語の後半を省き、その語の頭音又は前半部分を表す仮名の下に付いて、品よく言い表したり、婉曲に言い表したりする語で、ある語の頭音の一音乃至二音に「もじ」という語を付けたもの。「そもじ(=そなた)」「はもじ(=恥ずかし)」「ゆもじ(=湯巻)」など。)である。元来は婦人が日本髪を結う際に添える毛、添え髪・入れ髪を指すが、ここは単に髪をいう女房詞の用法(「おかもじ」)であるが、してみると、次の句で「少年」とは出るが、このハブ捕りを沖繩の若(わか)さん女(いなぐ)ととるのも面白い。]

 

いとけなき少年にして毒蛇捕り

 

[やぶちゃん注:前句で女房詞の「かもじ」を用いたのは、しかし、それが少女に見紛う紅顔の美少年であったからと読むのもはたまた面白い。]

 

南風や龍舌蘭の花高し

 

靜かなる芭蕉の玉や靑嵐

萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「何處へ行く」(14) さびしき町

 さびしき町

 

溝板をもるゝ湯の香につゝまれて

逢曳したる夜のおもひで

 

[やぶちゃん注:「溝板」は原本では「構板」。暫く校訂本文に従う。]

 

みだらなる別府の町の三味線と

馬車のラツパと忘られぬ哉

 

煤(すゝ)けたる温泉宿の三階に

呆然として立つ男あり

 

煤黑き温泉宿の立ち竝ぶ

露地(ろぢ)を出づれば冬の海みゆ

 

裏町の床屋が角に張られたる

芝居のびらに吹く秋の風

 

[やぶちゃん注:太字「びら」が原本では傍点「ヽ」。この一首は、朔太郎満二十六歳の時の、大正二(一九一三)年十月十一日附『上毛新聞』に「古き日の秋(昔うたへる歌)」という標題で「夢みるひと」名義により掲載された五首連作の巻首の一首、

 裏街(うらまち)の床屋(とこや)が角(かど)に張(は)られたる芝居(しばゐ)のびらに吹(ふ)く秋(あき)の風(かぜ)

(太字「びら」は底本では同じく傍点「ヽ」)の表記違いの相同歌。]

 

街角に廓がよひの四五人が

佇づみて聽く松前追分

 

[やぶちゃん注:「佇づみて」はママ。「松前追分」「まつまへおひわけ(まつまえおいわけ)」は辞書では江差追分に同じで、北海道の民謡で江差地方の座敷歌。信濃追分が越後から船乗りなどによって伝えられて変化したものというとあるが、個人サイト「線翔庵」の「松前追分」によれば、北海道桧山郡松前町に伝わるそれは微妙に違うとある。確かに『信州中山道と北国街道の分岐点「追分宿」(長野県北佐久郡軽井沢町)で、飯盛女達によって歌われた「追分節」が、全国に伝播したもの。その頃、《馬方節》に三下りの三味線の手がつけられたという意味の《馬方三下り》といった』とあるものの、全国に広がったそれは微妙に地域的変化を示しており、『「蝦夷や松前…」という歌詞から、《松前》(新潟あたりでは転訛して《松舞》などとも…)という曲名に変化したものもあ』るとし、『《江差追分》として現在のような、前唄・本唄・後唄といったスタイルになる前の形の追分は、北海道を初めとして各地に残っています。その一つといえるのが《松前追分》で』、『現在はあまり聴くことは少ないですが、《江差追分》とも若干趣の違う節回しが魅力です』とはっきりと違いが示されてある。リンク先では「江差追分」の音源も聴ける。]

 

夕暮の町にたゞよふアルボース

足竝はやき蕩子らのむれ

 

[やぶちゃん注:「蕩子」はママ。校訂本文は「蕩兒」とする。

「アルボース」ドイツ語“Arbos”。辞書には親水溶性の薄黄色の固体で消毒剤として用いるとあるのだが、今一つ、正体が摑めない。そもそも私の持つドイツ語の辞書にはこの単語が載らない。但し、アルヴォ・ペルトがタルコフスキイに捧げた偏愛するアルバム“ARBOS”でラテン語の意味なら樹木であることは知っていた(羅和辞典を引くと他に檣・舵・船等の意もある。一方では古い海事用語であったらしい)。翻って、アルボース石鹸液というのがあり、実はこれ、我々が学校の手洗い場でお馴染みの、あの緑色の液体石鹸のことである。この短歌の「アルボース」の注としてはあの消毒薬みたような臭いを想起出来ればそれでよいのであろうが、私としては、あんなに見慣れた石鹸液なのに、孰れの辞書も「アルボース」なるものの原料を明記していないのが気になるのである。ラテン語から多分植物由来であろうことぐらいは分かるが、妖しい。アルボース石鹸の販売会社を調べると、消毒効果の主成分は添加するクロロキシレノール(chloroxylenol)と呼ばれるものであることが分かった(毒性その他はウィキクロロキシレノールを参照。そこには強い魚毒性を有するとある。由来原料を記さないところをみるとこれは化学合成物質らしい)。今時、ずっと我々が何の心配もせずに使い続けてきた謎の緑石鹸を問題にしないということはあるまいと検索すると、やはりあった。C62(シロクニ)氏のブログ記事「アルボース石鹸・・・大丈夫?」である。それによれば名前からの想像通り、アルボース石鹸は精製された植物油がベースらしい(それでも何の植物か分からない)。問題はやはり配合消毒成分クロルキシレノール及びエデト酸塩・緑色二〇一号・緑色二〇四号・黄色四号である。そこな書かれた数多くの副作用の危険性があるなど、これ、ゆめ知らず使っていた。蛇足ながら附けたしておく。]

 

格子戸のまへにたゝづみたそがれの

悲しき街を女みて居り

 

[やぶちゃん注:「たゝづみ」はママ。]

 

遠く居る君も忍べと夜なれば

涙流して尺八を吹く

 

裏街(うらまち)の暗き屋竝ぞ忘られぬ

博多少女のあはれなる唄

 

[やぶちゃん注:本歌群は二首目から別府温泉での嘱目吟であることが知れ、底本の年譜で見ると、満二十一歳の明治四〇(一九〇七)年十二月の冬季休暇(当時は熊本五髙第一部乙類英語文科一年で寄宿舎に入寮していた)に友人二人と十日程、別府温泉に遊んだとあるのがそれであろう。当該年譜には滞在中の『ある日、朔太郎がとつぜん笑い出し、何をしても止まらず、同行の二人が氣が狂ったのではないかと思った。また、同郷を名乘る人に金を貸し、三人とも旅費が不足し、各自自宅へ三十圓ほど送金を依賴、春休みの歸省時にともに父親から叱責された』とある。

 いつもと同じく、最後の一首の次行に、前の「あはれなる唄」の「れ」の左位置から下方に向って、以前に示した黒い二個の四角と長方形の特殊なバーが配されて、歌群の終了を示している。]

2014/05/07

大和本草卷之十四 水蟲 介類 蜆

蜆 海潮ノ通スル處或湖水ニモアリ小蜆ヲ取テ泥

溝ノ内池塘ニ入テヤシナヘハ年ヲヘテ大ナリ味亦ヨシト云

〇やぶちゃんの書き下し文

蜆(しゞみ) 海潮の通ずる處、或いは湖水にもあり。小蜆を取りて泥溝の内池塘に入れてやしなへば、年をへて大なり。味、亦よしと云ふ。

[やぶちゃん注:異歯亜綱シジミ科上科シジミ科 Cyrenidae に属する以下の本邦在来三種を挙げておけば益軒の示した食用シジミの総体といえる(ウィキシジミ」に拠った)。

ヤマトシジミ Corbicula japonica

 全国の汽水域の砂泥底に棲息し、雌雄異体で卵生。殻の内面は白紫色。

マシジミ Corbicula leana

 全国の淡水域の砂礫底や砂底に棲息し、雌雄同体で卵胎生で雄性発生をする。殻の内側は紫色。

セタシジミ Corbicula sandai

 琵琶湖固有種で水深十メートル程度までの砂礫底や砂泥底に棲息し、雌雄異体で卵生。殻の内面は濃紫色。

「泥溝の内池塘」水を引いて作った泥土質の人工的に管理出来る養殖用の池沼のことを言っているのであろう。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 37 シャボン玉/表札/独立記念日のジョンの失望 

 しゃぼん玉を吹く子供は、長い竹の管を使い、石鹸と水との代りに、植物の溶液を使用する。この管から彼は速に、二十乃至三十の泡沫(あわ)を吹き出すのだが、それが空中を漂って行く有様は、管から紙片を吹き出すようである。

[やぶちゃん注:モースは「第七章 江ノ島に於る採集」の冒頭近で既にしゃぼん玉売りを描出している。「植物の溶液」等、リンク先の私の注を参照されたい。]

M338

図―338

 営造物の名前の多くは、長い木片に書かれる。日本人は縦に書くので、絵画以外の記牌は、縦の方向に僅かの場所をとる丈である。医学校(これは屋根の上に鐘塔のある大きな建物で、外国風の巨大な鉄門を持っている)の門標は、幅一フィート、長さ六フィートの板に書いてあるが、これは単に学校の名を書いた丈なのである。標札、即ちある家の住人の名前は、木片に書き、入口の横手にかける(図338)。

[やぶちゃん注:「医学校」後の東京大学医学部の前身である東京医学校(旧幕府医学所。法理文三学部は幕府蕃書調所を前身とする東京開成学校)は東京開成学校と合併して東京大学が出来る前年明治九(一八七六)年の末に現在と同じく、不忍の池の西方現東京大学敷地内に既に移転して来ていた。図338の右の表札「加藤弘之」は既にお馴染みの東京大学法文理三学部綜理の彼のフル・ネームであるが、右の「富田幸次郎」(嘉永三(一八五〇)年~昭和元・大正一五(一九二六)年)は岡倉天心の弟子で一九〇七年にボストン美術館で天心の助手となり、一九三一年~一九六二年の永きに亙ってアジア美術部長を努めた人物。本書の緒言で名が出る。

「幅一フィート、長さ六フィート」幅三〇・四八、長さ約一・八三センチメートル。]

 

 七月四日になった時、私の伜は、爆竹をパン・パンやることが許されぬので、大きに失望していた。火事を超さぬ用心として、警察は屋敷内ですら、爆竹や、玩具のピストルや、それ等に類似したものを使用することを、許さなかった。

[やぶちゃん注:「七月四日」底本には直下に石川氏の『〔独立記念日〕』という割注が入る。]

飯田蛇笏 靈芝 昭和九年(百七句) Ⅻ

 

あゆみ出て秋鵜つぶやく日南かな

 

[やぶちゃん注:「秋鵜」は「しうう(しゅうう)」か「あきう」か。あ段音のリズムからなら後者であるが、全体のスマートさからは前者か。]

 

みだれたる秋鵜の羽のしづくかな

 

[やぶちゃん注:この句を見ると「あきう」らしい。]

 

收穫(とりいれ)の薄明りさす添水かな

 

[やぶちゃん注:「添水」は「そうづ(そうず)」。ししおどし。既注。]

 

赤痢搬ぶ路まだ暑氣のさめずあり

 

疫痢の子口あんぐりと醫を迎ふ

 

年寄りて帶どめの朱や秋袷

 

ばさばさと秋耕の手の乾きけり

 

[やぶちゃん注:「ばさばさ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

講宿のねつとり甘き新麹

 

[やぶちゃん注:「講宿」単なる直感でしかないが、これは日蓮宗総本山身延山久遠寺へお参りする講中のための、旅宿のことではあるまいか? 識者の御教授を乞うものである。]

 

貧農の足よろよろと新酒かな

 

十字架祭洪水の空夜となりぬ

耳嚢 巻之八 いぼの呪の事 / たむし呪の事

 いぼの呪の事

 

 いぼの呪(まじなひ)、品々あるなれど、三ケ月へ豆腐一丁を備へ念頃に斬る時は、その直る事妙なり。右豆腐は川へ流し捨る事なり。あやまつて其豆腐を喰物は、いぼその喰(くひし)物へ生ずる事、又奇妙の由、人の語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。民間療法呪いシリーズで一種のあるが、豆を潰した豆腐と月の痘痕と疣の類感呪術かと考えて見たりするが、どうも疣と豆腐と月の関係が今一つ見えてこない。識者の御教授を乞うものである。

・「いぼの呪、品々ある」以前にリンクしたことがある、静岡市葵区太田町の平松皮膚科医院の院長平松洋氏のサイト内の「いぼとり 神様・仏様」のいぼ取りのおまじないを参照されたい。一番下には本項が取り上げられており、また別リンクで甲斐素直氏の非常に優れた解説名奉行根岸肥前守鎮衛の話を読むことが出来る。孰れも必見。

・「その喰物」底本鈴木氏注に『三村翁注「その喰物は、喰ひし者の誤りなるべし、疣は無花果の成熟せざる実の白き汁を付くればよくとれるものなり。実なければ、葉の茎を折りて汁をつけてもよし。所謂民間療法の一なりけり。」筆者も少年時代にやったが、さしてきかなかった』とある。こういうところが、鈴木棠三先生、大(だぁい)好き♡

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 疣(いぼ)取りの呪(まじな)いの事

 

 疣取りのまじないには実にいろいろあるのであるが、三日月へ豆腐一丁を供えて誠心に祈時は、即座に治ること、これ、実に神妙である。但し、供えたその豆腐は川の中に流し捨てることが肝要である。誤ってその豆腐を食ってしまうと、その喰った者へ疣がうつる。これまた如何にも奇妙乍ら、確かなことであると、ある人の語って御座った。

 

 

 たむし呪の事

 

 田蟲を愁ふる者、唐墨(からすみ)を濃くすりて田蟲の上をぬり、右の上へ紙にて押(おし)候へば右墨紙へうつるを、右紙を燒(やき)すてぬれば、立所にたむし直るとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:民間療法呪いシリーズで直連関。墨には殺菌作用があるから、これは前の豆腐と月より信じられる。

・「田蟲」白癬の一種で、皮膚に小さな丸い斑点が生じ、それが次第に周囲に向かって円状(銭状)に広がって、中央部の赤みが薄れて輪状の発疹となる。痒みが激しい。股間に生ずるものは特に陰金田虫(いんきんたむし)という。銭田虫。

・「唐墨」中国製の墨。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 田虫を治す呪(まじな)いの事

 

 田虫を患っている者は、唐墨(からすみ)を濃く擦って田虫の上に塗りつけ、その上を和紙にて強く押すと、その塗った墨が紙へ移るが、その紙を即座に焼き捨てれば、立り所に田虫は治るということである。

柴田天馬訳 蒲松齢 聊斎志異 妾撃賊


 妾撃賊しょうげきぞく

益都えきと西鄙せいひに某という貴家いえがらの金持ちがあった。一人のめかけをおいていたが、すこぶる美人で、本妻からいじめられむちうたれながら、謹んで仕えている、その心根をあわれに思った某は、ときどきそっと慰めいたわってやった。妾が少しもうらみがましいことを言わないのが、いっそういじらしかったのである。
 ある夜、数十人の集団強盗がへいを乗りこえてはいっで来た。入り口のとびらを激しく突くので、こわれそうになったが、某と本妻とはあわてまよい、ただふるえるばかりで、どうすることもできなかった。
 戸はまさに、こわれようとしている。
 妾は黙って、そっと起きた。閣の中で、しきりに、そこらをさぐつていたが、やがて一本の挑水木杖てんびんぼうをさぐり当てると、いきなりかんぬきを抜いて飛び出した。盗賊の一群が蓬蓆あさのように入り乱れているただなかに立った妾の、白い細い手が動くと、ぼうは風を鳴らして、四、五人の盗賊を一なぎに打ち倒した。目にもとまらぬ早わざである。賊団は、きもをつぶして、みんな浮きあしになり、逃げ出そうと騒ぐのであるが、高い牆がそびえているので、駆けあがることができず、つまずき倒れて、わあわあ言いながら、気ぬけのようになっていた。
 妾は杖を地に突き、にっこり笑って、
 「こいつらはいまかたづけてしまわないと、また賊になるだろうが、あたしは、おまえたちを殺しはしないよ。虫けらを殺したんじゃ、あたしの顔にかかわるからね」
 そして逃がしてやったのである。
 某は、びっくりした。どうして、そんなに強いのだ、と聞くと、妾は恥ずかしそうに、つつましく答えたのである、  「わたくしの父は、もと槍棒の師範を致しておりましたので、すっかり秘術を伝えられたのでございます。百人やそこらの相手なら、なんでもございません」
 妾の話を聞いて、いちばんひどく驚いたのは本妻だった。今まで見さかいもなく打ったり叩いたりしたのを思うと、冷や汗が流れるのだ。で、それからは妾をかあいがり、まったく今までの態度を一変するようになった。が、妾は、やはり忠実に仕えて、少しも本妻に対する礼儀を失うようなことはなかった。ある時隣のかみさんが、妾に向かい、
 「ねえさんたら、あれだけのどろぼうを、まるで豚か犬ころみたいになぐりつける腕まえがありながら、なぜ、おかみさんに、おとなしく打たれていたのさ」
 と言うと妾は答えた、
 「それが妾の身分ですもの。何も言うことはありませんわ」
 聞き伝えた人たちは、ますます妾の賢さをほめたのであった。

■原文

 妾擊賊

益都西鄙之貴家某者、富有巨金。蓄一妾、頗婉麗。而冢室凌折之、鞭撻橫施。妾奉事之惟謹。某憐之、往往私語慰撫。妾殊未嘗有怨言。
一夜、數十人踰垣入、撞其屋扉幾壞。某與妻惶遽喪魄、搖戰不知所爲。
妾起、嘿無聲息、暗摸屋中、得挑水木杖一、拔關遽出。群賊亂如蓬麻。妾舞杖動、風鳴鉤響、擊四五人仆地。賊盡靡、駭愕亂奔。牆急不得上、傾跌咿啞、亡魂失命。
妾拄杖於地、顧笑曰、
「此等物事、不直下手插打得。亦學作賊。我不汝殺、殺嫌辱我。」
悉縱之逸去。
某大驚、問、
「何自能爾。」
則妾、
「父故槍棒師、妾盡傳其術、殆不啻百人敵也。」
妻尤駭甚、悔向之迷於物色。由是善顏視妾。妾終無纖毫失禮。鄰婦或謂妾、
「嫂擊賊若豚犬、顧奈何俛首受撻楚。」
妾曰、
「是吾分耳、他何敢言。」
聞者益賢之。
異史氏曰、「身懷絶技、居數年而人莫之知、而卒之捍患御災、化鷹爲鳩。嗚呼、射雉既獲、內人展笑。握槊方勝、貴主同車。技之不可以已也如是夫。」

耳嚢 巻之八 狸の物書し事

 狸の物書し事

 

 小高(をだか)老翁語りけるは、彼(かの)翁甲州へ御用ありて至りし時、同國黑澤村庄屋珍藏が許(もと)にて、狸の書(かき)たるといふ繪並(ならびに)書を見し。其譯尋(たづね)しに、一人の僧ありて、狸なりといふ事人も知り、己(おのれ)も隱さず、勸化(かんげ)などなして鎌倉建長寺の疊替(たたみがへ)を毎年いたしけるが、建長寺にても、彼は人類にあらずと云(いひ)し。人の爲に災(わざわひ)をも不成(なさず)ありしが、或年大磯宿邊にて犬に喰殺(くひころ)されけるとなり。珍藏咄しの由、物語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:妖狸譚三連発。この建長寺の狸の話は郷土史研究の中で私も知っている民話である。ここでは善玉であるが、和尚を殺して化けた悪い狸という設定の話もある(犬に食い殺されるところはその方が悲惨でない)。この建長寺の狸和尚の伝承について最も包括的で纏まった記載は身延町立図書館の運営する「身延の民話」の中の「類型的なお話のこと―建長寺のたぬき和尚」の記載が最も優れている(リンクは連絡要請を必須としているので一切張らない。グーグル・ヤフーにて「建長寺の狸」で検索を掛けると二〇一四年五月現在はトップで表示されるので是非ご覧あれ)。

・「小高老翁」底本では「小高」の右に『(尊經閣本「小島」)』と注する。底本鈴木氏注に、これは本文の小高が正しいと推定され、『幕臣小高はヲダカで一家しかない。助久であろう』とされ同氏の考察に基づく岩波版長谷川氏注には、『安永七年(一七七八)御勘定、甲斐河川普請で天明元年(一七八一)賞』賜を受け、『寛政十年(一七九八)甲斐に検見』(けみ/けんみ:米の収穫前に幕府又は領主が役人を派遣して稲の出来を調べ、その年の年貢高を決めることをいう。)『で出張』、「卷之八」の執筆推定下限である文化五(一八〇八)年には既に『八十四歳ゆえ老翁とする(鈴木氏)』とある。

・「黑澤村」現在の山梨県西八代郡市川三郷町大門にあった旧村名。富士川(この直上で笛吹川と釜無川他に分流)の東岸で鰍沢の対岸に当たる。

・「珍藏」底本では右に『(尊經閣本「鎭藏」)』と注する。

・「勸化」この場合は寺社・仏像などの建造・修復のため寄付を集めること。勧進(かんじん)のことを指し、以下にある畳替えの費用を募って托鉢しることを指す。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 狸が物を書いた事

 

 小高(おだか)老翁の語られたことには、かの御大(おんたい)、かつて甲州へ検見(けみ)の御用にて至った折り、同国の黒沢村庄屋珍蔵の家にて、狸が書いたと申す絵並びに書を見られた。その面妖なものの由来を訊ねたところが、

「……この地に一人の禅僧の御座いましたが、その僧、実は狸の化けた者であるということ、これ、誰(たれ)もが知り、自身にても特にそれを隠さず、『我ら狸和尚なり』と呼ばわっては勧進(かんじん)など致いては、鎌倉の建長寺の畳の総替えを、これ、きっちりと毎年致いて御座いました。……当の建長寺にても、『かの僧は人の類(るい)にては、これない』と言うておられました由。……また、狸というても、人のために災いを成すわけでも、これ、御座いませなんだ。……が、ある年のこと、勧進にて大磯宿辺りを托鉢致いておったところが……何か……やはり……獣の臭いでも致いたものか……野良犬に襲われ……喰い殺されてしもうたとのことで御座います。……これらは、へぇ、その遺品にて御座いましての……」

との珍蔵の話で御座った由、御大自ら、私に物語られた。

篠原鳳作初期作品(昭和五(一九三〇)年~昭和六(一九三一)年) Ⅺ



矗々と龍舌蘭の薹高し

 

[やぶちゃん注:「矗々と」は「ちくちくと」と読み、直立して伸びるさま・聳え立つさまをいう形容動詞。「薹」は「たう(とう)」で花軸や花茎を指す。]

 

飛魚の霰に逢ひし舳かな

 

向日葵に庇の影のかかりたる

 

南風やうなづきあへる芥子坊主

 

南風や龍舌蘭の花ざかり

 

ハブ壺をもちて從ふ童かな

 

門前の出水けたてて歸省哉

橋本多佳子句集「信濃」 昭和二十一年 Ⅷ

  子が吹く蘆の笛の音面白ければ吾も吹きみる

 

蘆の笛吹きあひて音を異にする

 

[やぶちゃん注:前書及び句の「蘆」は底本では「芦」。]

 

子がねむり重さ花火の夜がつづく

 

蟬に子に夕べながさよ子をよびに

 

濃き墨のかはきやすさよ靑嵐

 

梶の葉の文字瑞々と書かれけり

 

七夕や髮ぬれしままに人に逢ふ

 

[やぶちゃん注:私の偏愛する句。]

杉田久女句集 208 夫出立

  夫出立

 

言葉少く別れし夫婦秋の宵

 

栗むくや夜行にて發つ夫淋し

 

父立ちて子の起伏(おきふし)や柿の家

 

[やぶちゃん注:宇内が見舞いに訪れたその帰還の景と思われる。既に述べた通り、この東京での療養を機に離婚問題が起こっている。年譜の同年の項には『小倉での生活が痛ましすぎると実家では考えた』とある。当時久女三十歳。しかし「栗むくや」を中心にこの三句にはそうした陰影を感じさせながらも、どこか宇内への愛憐の情も強く感じられるように私には思われる。]

生きる先々   山之口貘

 生きる先々

 

僕には是非とも詩が要るのだ

かなしくなっても詩が要るし

さびしいときなど詩がないと

よけいにさびしくなるばかりだ

僕はいつでも詩が要るのだ

ひもじいときにも詩を書いたし

結婚したかったあのときにも

結婚したいという詩があった

結婚してからもいくつかの結婚に関する詩が出来た

おもえばこれも詩人の生活だ

ぼくの生きる先々には

詩の要るようなことばっかりで

女房までがそこにいて

すっかり詩の味をおぼえたのか

このごろは酸っぱいものなどをこのんでたべたりして

僕にひとつの詩をねだるのだ

子供が出来たらまたひとつ

子供の出来た詩をひとつ

 

[やぶちゃん注:【2014年7月22日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。注を一部削除・追加した。】初出は昭和一六(一九四一)年新年号『日本評論』(発行所は東京市京橋区の日本評論社)。前の詩にも注したが、発表時はバクさんは三十八歳。結婚四年目、この六月に長男重也君が生まれている。

   *


 生きる先々


僕には是非とも詩が要るのだ

かなしくなっても詩が要るし

さびしいときなど詩がないと

よけいにさびしくなるばかりだ

僕はいつでも詩が要るのだ

ひもじいときにも詩を書いたし

結婚したかったあのときにも

結婚したいという詩があった

結婚してからもいくつかの結婚に關する詩が出來た

おもえばこれも詩人の生活だ

ぼくの生きる先々には

詩の要るようなことばっかりで

女房までがそこにいて

すっかり詩の味をおぼえたのか

このごろは酸っぱいものなどをこのんでたべたりして

僕にひとつの詩をねだるのだ

子供が出來たらまたひとつ

子供の出來た詩をひとつ


   *]

2014/05/06

言っとくが

柴田天馬訳蒲松齢「聊斎志異」の注を原則、附さないのは――これ――やりだしたら僕の性格からして、とんでもないことになることが解っているから、である。「西湖主」の例外的な注をご覧頂ければお分かりであろう。悪しからず、だ。だってさぁ、ルビ・タグだけでもこれ、結構、面倒なんだぜ(おまけにここのブログのHTML編集は後から編集しようとするとタグがめちゃめちゃになって全部やり直さなくてはならないというさらなる面倒もあるのであるんである)――まあ、電子化している僕が何より「聊斎志異」を精読出来て、すこぶる面白いからいいけどね――

柴田天馬訳 蒲松齢 聊斎志異 西湖主


  西湖主せいこしゅ

 秀才の陳弼教ちんひつきょうは字を明允めいいんといい、ちょくれいの人であった。家が困っていたので、副将軍賈綰かかんについて書記をしていたが、洞庭湖に舟を泊めていた時のことである。水面に猪婆竜ちょばりゅう一が浮かんでいるのを見て、賈がそれを射ると、背中にあたった。すると竜の尾をくわえて逃げずにいる魚があるので、いっしよにとらえてほばしらのあたりにつないでおいた。まだ、かすかに気息はあったが、吻をあけたりとじたりして助けを求めるよぅな竜のようすを見て、陳は、あわれに思い、賈に放してやってくれと頼んだ。そして持っていた金創きんそうの薬を、傷ついたところに塗って水の中に放してやった。竜は浮きつ沈みつしながら、しばらくすると、見えなくなった。
 その後、一年余りたってから、陳は北に帰ろうとして、また洞庭湖を渡った。大風のために舟がひっくりかえったが、幸い籠に取りついていたので、一晩漂ったのち、やっと木にひっ掛かって止まった。岸によじのぼったとき、続いて浮かんでくる屍があった。見ると、自分の使っている堂僕ボーイだったので、引きあげたけれども、もう死んでいた。
 童僕の死体にむかって悲しいきもちですわっていたが、あたりを見ると、みどりの小山がそびえ、細柳いとやなぎが青くゆれるばかり、みち行く人もまれで、道を聞くすべもなかった。
 明けから辰後はちじすぎまで、悲しくすわっていたが、ふと童僕のからだがすこし動いたので、喜んでさすっていると、まもなく、たくさんの水をはいて、生きかえった。
 二人とも着ものをぬいで石の上にほしておいた。ひる近くやっと着られるまでにかわいたが、今度は、すきばらが、ごろごろなって、ひもじくてたまらなくなった。二人は村落があればいいがと願いながら、山を越えて急いで歩いた。
 そして山の半腹に来た時、ひゅうと鳴鏑かぶらやの音が聞こえたので、驚いてじっと聞き耳を立てていると、駿馬に乗った二人の女郎おんなむしゃ二が、豆をまくようなひづめの音をさせて駆けて来た。二人ともあかい絹のはちまきをして、もとどりにきじの尾をさし、袖の小さい紫の着ものをき、腰に綠の錦をつかね、一人は矢弾をさしはさみ一人は手に青い弓籠手ゆごてをしていた。
 嶺を越えて山の南側にでると、榛莽はやしのなかで猟をしている数十騎に出あった。みんな同じ装束の美しい女たちだった。
 陳は立ちどまってすすまずにいた。そこへ馭卒べっとうらしい男が走って来たので、たずねると、
 「西湖公主せいここうしゅ首山しゅざんで猟をなさってるんです」という答えであった。陳は、どうしてここへ来たかを話してから、ひもじくて困っていることをつけ加えた。馭卒は同情して、包みの糧食をといて陳にやって、
 「すぐ遠くのほうへ避けておいでなさい。おなりを犯すようなことでもあれば、死罪ですよ」と言いきかせた。
 陳はこわくなって山をかけおりた。林の中にちらちら殿閣ごてんのようなものがあるので、お蘭若てらだろうと思って近よると、しろへいがめぐらされ、渓水が流れているむこうに、朱塗しゅぬりの門が半ばひらき、石橋で通うようになっていた。扉にのぼってながめると、台樹うてなは雲をめぐらして、御苑にまがうばかりである。陳は貴族の園亭だろうかとも疑ってためらいながらはいっていった。
 藤がって路をさまたげ、花のにおいが、人をうつなかを、いくつにも折れ曲った手すりについてとおってゆくと、また別な院宇にわに出た。数十株の垂楊やなぎが朱塗りののきを高くはらって、山鳥が鳴くごとに花びらが飛び、深苑にそよ風がわたれば、ほろほろと楡銭にれぜに三が落ちる。目をたのしませ、心をさわやかならしめるふぜいはこの世のものではないかのようにさえ思われるのである。小さなちんをぬけてゆくと、一架いちだい鞦韆ぶらんこ四が空高く立っていたが、綱が静かにさがって人かげも見えないのだ。閨閣おくに近いのだろうと思い、恐れて、それから先へは行かなかった。と、その時、門のあたりで、にわかに馬のあがきが聞こえて、女の笑い声がしてきた。陳は童僕とともに花の茂みに身をかくした。
 そのうちに笑い声がだんだん近づいて、一人の女の言っているのが聞こえた。
 「今日の猟はつまらなかったわね。えものが少しで」
 するとまた一人物女が言った、
 「公主ひめぎみが雁をおちにならなかったら、けらいや馬に、むだぼねおりをさせたようなものだったわ」
 まもなく、紅い着ものをきた女たちが一人の女郎おんなむしゃをとりまいて亭の中にすわらせた。見ると、筒袖の武装で、年は十四、五ばかり、霧をおさめた低いまげ、風に驚く細い腰、それは玉蕋ぎぎょくずい五瓊英けいえい六でさえくらべものにならないほどの、けだかさ、美しさであった。
 茶を献じたり香をたいたりしている女たちのようすは、錦をつんだようなきらびやかさだったが、やがて、女は立ちあがって階段をおりはじめた。すると一人の女が、
 「公主、馬でおつかれになりましたのに、まだ鞦韆ぶらんこがおできになりましょうか」
 公主は笑ってうなずかれた。すると肩にのせたり、をとったり、裾をからげたり、靴を持ったり、みなで公主をたすけて鞦韆にのせるのであった。
 公主は白い腕をのべ、かるい靴をはき、飛燕のような身の軽さで、雲に入るかと思うほど高く蹴るのであった。やがて、たすけられておりると、みんなは、
 「ほんとに姫君は、仙人でいらっしゃいます」
 と言って、さざめきながら、行ってしまった。
 陳は見ているうちに、魂がぬけたような気がした。人声がしなくなって出てきたのであるが、鞦韆架ぶらんこだいの下に行って考えながら、うろついていると、垣根の下に紅い手巾てふきが落ちていた。美人のなかのだれかがおとしたものだろうと思って、喜んで袂に入れ、亭にのぼって見ると、卓の上に文具がおいてあったので、手巾をひろげてつぎのような詩を題した。

  たわむるは何人たぞ擬半仙ぎはんせん七
  あからさまなり、たおやめの、つまさきに散る金蓮はなはちす八
  広寒 隊裏つきの 九 おとめ応相妒ねたまれん
  莫信、波便上天のぼりたまいそ 一〇 あまつそら

 いてしまうと、それを口ずさみながらそとに出て、またもとのみちをさがしたが、幾重かの門はすでにとざされていた。陳はしばらく、うろつきまわったけれども、出るくふうがないので、あきらめてまた元のところにかえってきて、楼閣や亭台のあいだを歩きつくしたころ、一人の女がはいって来て、陳を見るなり驚いて、
 「どうして、ここに来ることができました?」
 と聞くので陳は、
 「みちをまちがえたんです。助けてください」
 と揖之えしゃくをして言った。
 「紅いてふきを、ひろいはしませんでしたか?」
 「ありましたけれど、もう玷染よごしてしまったんです。どうしましょう」
 手巾を出すと、女はびっくりして、
 「おまえさん、死んでもおっつかないわ! これは公主がいつも持っていらしゃるものよ。それをこんなにぬりたくったんだから、しかたがないわ」
 陳は青くなって、たすけてくれと泣きついた。女は、
 「宮儀だいりをのぞくことでさえ、もうゆるされない罪なのよ。おまえさんは、おとなしそうな儒冠しょせいさんだから、あたしだけの考えで助けてあげたいと思ってたけれど、悪い種を自分でまいたんだから、しかたがないわ!」
 そう言って手巾を持って急いで行ってしまった。陳はむねをどきつかせ、肌をあわだたせ、羽がないために首をのべて死を待たなけれはならないのが恨めしかった。
 しばらくすると女はまた来て、そっと喜んでくれるのだった。
 「あなた、生きるのぞみがありますわ! 公主は、てふきの文字を三、四へんごらんになると、にっこりなすったの。怒ったごようすがないのよ。もしかすると、あなたを許してくださるかもれないから、わかったら知らせに来ましょう。それまでしばらくじっとしていらっしゃい。木に登ったり、垣をくぐつたりしてはいけませんよ。見つかつたら、こんどは、許されないから」
 日はすでに暮れてしまったが、吉か凶かはきまらないし、飢えは焼くように迫ってくるし、陳は、じりじりして死にたいとさえ思った。
 まもなく女が燈をつけてやって来た。じょちゅうを一人つれていて、それにさげさしたとくりふたものから、酒食をだして食わせてくれた。陳がようすを聞くと女は、
 「さっきあたしおりをみて、お庭の秀才が、許していいものなら放してやりましょう、でないと、餓死をいたしますと申しあげたの。すると公主は、しばらくお考えになってから、深夜よなかだのに、あのひとをどこに行かせるの、とおっしゃって、あなたに食べものをあげるように、お命じになりましたの。悪いたよりではありませんわ」
 陳は心配のうちに終夜ひとよをあかした。辰時向尽はちじごろ、女がまた食べものを持って来たので、緩頰とりなし一一てくれと泣きつくと女は、
 「公主ひめぎみは殺すともおっしゃらないし、許すともおっしゃらないんです。あたしたちみたいな下人げにんは、うるさく申しあげられませんの」
 そのうちに、日ざしは、ななめになって西に転じた。陳は女の知らせをただまちかねていた。すると、女が息をはずませながら駆けてきて、
きさき  「あぶないわ! おしゃべりが、あの事をお妃にもらしたもんだから、お妃は、てふきを広げてごらんになり、地に投げつけて、狂傖きちがい一二め! つておっしゃいましたわ!」
 それを聞くと陳はひどく驚いて面如灰土つちいろになり、女の前にひざまずいて、助けてくれと頼んだ。と、その時、わやわや人声が聞こえてきた。女は手をふり、身をかわして行ってしまった。
 数人の官女がなわを持って、洶々どやどや一三とはいってきた。そのうちの一人の女が、つくづくと陳を見ていたが急に、
 「だれかと思ったら、陳さんじゃありませんか?」
 と言うと、索を持った者をおし止めた。
 「およしよ! お妃に申しあげてくるまで待っといで」
 女は身をひるがえして走っていったが、まもなく帰って来て、
 「陳さんをつれてこい、というお妃のおおせです」
 と言った。陳は、ふるえながら女について行った。数十の門をすぎて、とある宮殿に来ると、美しいおんなが銀のかぎのついたあおいすだれをかかげて、
 「陳さまが、いらせられました!」
 と、高らか堅言った。上座には袍服ほうふくをきて、目のくらむようなよそおいをしたきれいな人がすわっていた。陳は地にひれ伏し、ぬかずいて、
 「万里とおくからまいった孤臣わたくしの命を、どうぞお許しくださいませ」
 と申しあげた。王妃は急に立ちあがって、手ずから陳をひきおこし、
 「君子あなたがいられなかったら、あたしの今日はないのです。おんなどもが何も知らずにだいじなお客さまに失礼をしまして、ほんとにもうしわけありません」
 と言うと、花やかなえんをもうけさせ、ほりをした杯に酒をついで賜わった。陳はぼうぜんとしていた。さっぱりわけがわからないのである。すると王妃は、
 「再生のご恩をかえせないのはざんねんなことです。姫の手巾に詩を題していただいたのは、さだまったご縁だろうと思われますから、今夜から遺奉侍おとぎせます」
 思いもよらぬことだった。陳は神惝恍ぼんやり一四して落ちつくこともできなかった。
 夕方になると一人の官女が、
 「公主ひめぎみは、もうちゃんとおしたくがすみました」
 と言いに来た。そして陳を案内してとばりのなかにつれていった
 たちまち笙管ふえの音が、さかんに起こった。階上には、ずっと葦毛氈じゅうたんが敷きつめられ、いりくちざしきまがきかわやなど、いたるところに、すっかり燈籠がともされた。数十人のうつくしい女たちが公主を助けて、婿礼の交拝をさせた、御殿といわずお庭といわず、麝香じゃこうの香がみちあふれているのである。
 やがて、いっしょにとばりにはいった。深く愛し合っている二人なのだ。陳が、
 「臣は旅のもので、いままでにお目にかかったことがないのです。芳巾おてふきを汚して、死罪にもなるところを免れたのさえ幸いですのに、かえって姻好えんぐみをしていただくとは、じつに思いもかけぬことなのです」
 と言うと、公主は、
 「あたしの母は湖君のきさきで、江陽こうよう王の王女なの。去年お帰寧さとがえりをして、あるとき湖で遊んでいたら、矢が流れてきてあたったのを、あなたに助けていただいたうえ、刀圭之薬おくすり一五までいただいたので、一門のものたちは、ありがたく思って忘れずにおりますの。あなた! 人間でないのを、いやがらないでくださいまし。あたし竜王について長生の法を知ってますから、あなたといっしょに長生きをいたしましょうよ」
 と言うので、陳は女が神人だと悟ったのである。
 「あの腰元は、どうしてあたしを知っていたのです」
 と聞くと、公主は、
 「あのとき、洞庭の舟のなかで、尾をくわえている小さい魚があったでしょう。それがあの女なの」
 と言うので、陳はまた、
 「さいしょぼくを捕えた時、殺さないつもりだったら、なぜ、いつまでも許してくださらなかったの?」
 と聞くと、公主はにっこりして、
 「じつはあなたの才学がすきだったの。でも、かってにできないんですもの。一晩寝なかったわ。ひとは知らなかったけれど……」
 と言うので、陳は歎息して、
 「君は僕の鮑叔ほうしゅく一六だ! 食べものをくれたのはだれです」
 と言うと公主は、
 「あねんといって腹心の女なの」
 「阿念のしんせつに対して、どんな報いをすればいいでしょう」
 公主は笑って言った。
 「これから長い間おそばにいるんですから、ゆっくり、うめあわせを考えたって、おそくはありませんわ」
 「大王は今どこにいらっしゃるんです」
 「関聖かんせい一七について蚩尤しゆうを征伐にいらしたんです。それからまだお帰りにならないの」
 そこで陳は御殿で数日を過ごしたが、たよりのない家中のことを考えると、ひどく気にかかるので、平安だという手紙を持たせて、先に童僕を帰してやった。
 洞庭で舟がくつがえったということを聞いた陳の家では、妻や子が喪服をつけてから、もう一年あまりになっていた。そこへ童僕が帰って来たので、はじめて死なないでいることを知ったが、たよりができないので、さすらいあるいているうちに帰られなくなるのだろうと心配するのであった。
 それからまた半年ほどたって、陳がだしぬけに帰ってきた。りっぱななりをして、宝玉を袋にいっぱい入れていた。それから陳の家は何億という金持ちになり、美声、美色をあつめて、世家といえども遠くおよばぬほどの豪奢ごうしゃぶりだった。七、八年の間に五人の子が生まれ、日々お客を集めて宴をひらいていたが、宮室へやといい、たべものといい、ぜいたくなものだった。ある人が、どういうわけでこんな身分になられたんですとたずねると陳は少しも隠さずに話して聞かせた。
 陳の幼友だちに梁子俊りょうししゅんという人があった。十年あまり南方の役人をして、帰りに洞庭湖をとおると、一隻の画一八を見かけた。それは彫りをした欄、朱塗りの窓という美しい船で、笠や歌の響きをかすかに流しつつ、煙波のなかをゆっくりこいでゆくのだったが、美しい人が窓をおしあけ、欄によりかかってあたりを眺めていたので、梁が船の中に目をそそぐと、科頭かとう一九にした一人の若い男が、あしをかさねてその上にすわり、十六、七の美しい女が、側でさすっているのが見えた。きっと楚襄かほくあたりの貴官だろうとは思ったけれど、おつきがひどく少ないので、よく見ると、陳明允だった。
梁は思わず欄によって、高い声で陳を呼んだ。陳は呼び声を聞いて舟をとめ、鷁首へさき二〇に出て梁を迎え、自分の舟に乗りうつらせた。見ると残りの肴が机にいっぱいおいてあって、洒がぷんぷんにおっていた。陳はすぐに、それをかたづけさせた。しばらくすると四、五人の美しい腰元が、酒を進めたり茶をいれたりした。山海の珍味、それは見たこともないものばかりである。梁が驚いて、
 「十年見ないうちに、どうしてこんな富貴な身のうえになったんだ!」
 と聞くと、陳は笑って、
 「君が見くびっていた窮措大ひんしょせい二一だって出世ができないこともなかろう」
 と言う。
 「いま、いっしょに飲んでいたのはだれだい」
 「家内だ!」
 梁はまた怪しんで、
 「家内をつれて、どこへ行くんだ」
 「西の方へ渡ろうと思う」
 梁がまた聞こうとすると、陳は歌をうたい酒をすすめるように言いつけた。その一言とともに、大鼓がかしましく鳴りはじめ、うたふえ二二が入りまじってもう話が聞こえなくなった。梁は美人が前にいっぱい並んでいるのを見て、酔いにまかせ、
 「明允さん! ほんとうにぼくを消魂まんぞくさせてくれないか」
 と言うと、陳は笑いながら、
 「きみ酔ったね。しかし美しい妾を一人買うだけの金を友に贈ろう」
 と言って腰元に言いつけ、ひとつぶのたまを梁にあたえた。
 「これがあれば緑珠りょくしゅ二三でも難なく買える。ぼくがけちでないことを、明らかにするためだ」
そして、
「ちょっとした用事があって忙しいので、ゆっくり友といっしょにあつまっていられないのだ」
 と言って梁をその舟に送り帰し、ともづなをといて行ってしまった。
 梁は帰ってから、ようすを探ろうと思って陳の家に行ってみた。すると陳が客といっしょに酒を飲んでいるので、梁は、ますますふしぎに思い、
   「昨日は洞庭にいたのに、なんという早い帰りようだ」
 と聞くと、陳は、
 「そんなことはないよ」
 と言うので、梁は、見たままを、くわしく話した。一座の人たちは、ことごとく驚いた。陳は笑って、
 「君のまちがいだよ。ぼくに分身の術なんかあるもんかね」
 と言ったが、みんなは、あやしみながら、ついに、わけがわからなかった。
 のち、陳は八十一歳でなくなった。埋めるとき、棺があまり軽いのを、あやしんで開けてみると、棺の中はからだった。

  注

一 猪婆竜は俗に鼉竜と称せられ、爬虫類で中国の江湖にのみ産するものだという。背、尾、鱗甲すべて※魚に似ていて、後足が半蹼をそなえ、その長さ二丈あまり、岸をくずすに足るほどの力を有し、驚くような声で鳴く。皮は鼓をはるによいという。
[やぶちゃん字注:「※」=「魚」(へん)+(「噩」の最下部の中央の縦画が突出して右に曲がってはねる字画)(つくり)。]
[やぶちゃん注:基本、私は本電子テクストに注を附さないつもりであるが、博物学フリークとしてはこれに注さないわけには参らぬ。まず、この「※」は「鱷」の誤植と思われる。「鱷」は「鰐」の同字である。「半蹼」の「蹼」は水搔きで、指の附け根の間に小さな水かきがあることを意味する。これは爬虫綱ワニ目アリゲーター科アリゲーター属ヨウスコウアリゲーター Alligator sinensis である。ウィキの「ヨウスコウアリゲーター」によれば、中華人民共和国(安徽省・江西省・江蘇省・浙江省(本話の部隊である西湖せいこは浙江省杭州市にある)の長江下流域に棲息する中国固有種のワニで、『アリゲーター科では本種のみがユーラシア大陸に分布する。種小名 Alligator sinensis は「中国産の」の意。和名のヨウスコウ(揚子江)は長江下流域の別名。日本でも大分県安心院盆地にある鮮新世の地層から本種の化石が発見されている』。全長は二百センチメートル以下で、口吻は短く、頸部背面を覆う鱗(頸鱗板という)は四枚、『背面の体色は濃褐色や黒、暗褐色』で、『淡黄色の縞模様が入』り、『腹面の体色は淡褐色』である。『口角が切れあがっており、堅い獲物を噛み砕くことに特殊化し』、『後方の歯が球状』を呈する。『幼体は体色が黄色で、黒い縞模様が入』り、『成長に伴い色彩は黒ずむ』。『流れの緩やかな河川や湖沼、池などに』棲み、『冬季になると複雑な横穴の中で』六~七ヶ月間冬眠する。『食性は動物食で、主に貝類を食べるが』、『魚類、鳥類なども』採餌する。『繁殖形態は卵生。枯草を集めた塚状の巣に』十~四十個の卵を産み、約七十日で孵化する。「淮南子」『を始め人間には無害とされることが多く、人間を襲った確実な記録はない』。『食用や薬用とされることもあ』り、その鰐皮は『利用されることもあるが、皮下に皮骨が発達しているため加工が難しく価値は高くない』とある。『紀元前には太鼓の皮に利用されたこともあり、雅楽の鼉太鼓も本種の皮が用いられていた』『ことが由来とする説もある』。『貝類を求めて水田に侵入して稲を倒したり、灌漑用のダムを破壊する害獣とみなされることもあ』ったが、現在は『開発や農薬による生息地の破壊、食用の狩猟、害獣としての駆除、日本住血吸虫駆除対策における食物である貝類の減少などにより生息数が激減』、『安徽省宣城の施設などにおいて飼育下繁殖が行われ』、『蕪湖などに保護区が指定されている』。一九六〇年代から二百頭の野生個体を基に飼育下繁殖が進められ、一九九一年までに四千頭以上の『飼育下繁殖に成功して』かなり古いが、一九六五年現在の生息数は五十頭と推定されている、とある。この数が増えていないとすればこれはもう絶滅種である。陳は同族のお蔭で長生きしたが、今や、彼らは絶滅しかけているとは、如何にも皮肉な現実ではあるまいか?]
二 男のような女のこと。白居易の詩に、色為天下艶、童女中郎、とある。ここでは、女武者、と訳しておく。
三 楡莢は丸く平たくて銭のようだから、これを楡銭というのである。
四 古今芸術図に、鞦韆はもと山戎の戯れであったが、斉桓の北伐から、この戯がはじめて中国に伝わった。唐以来宮中で多くこれを用いるということが出ている。夢華録みると、鞦韆を蹴って架と同じ高さになったとき、宙がえって水にはいるの水鞦韆というそうだ。また鞦韆は、千秋を偽伝したのだという説もある。
五 王蕋は茶蘼のような蔓で、冬はかれ夏は茂り、柘様の葉、紫色の茎で、ふるくなれば株が合して樹となるのである。花苞は初めのうちははなはだ小さく、月を経てだんだん大きくなり、春の末八方に出る。冰糸のような鬚の上に金粟を綴り、花心に胆瓶に類した碧筒状のものがあって、その中からまた花が出、鬚の上で十あまりとなって開く。まったく玉をきざんだようであるところから、玉蕋と名づけたのだ、と群芳譜にある。上郡の安業坊に、古くから玉蕋花があった。ある日のこと、繡した緑の着ものを着、二つの鬟をたかだかと結った女が、花のもとに立ちよった。異香がぶんぷんする。花を見ていた人たちは、たぶん宮中から来た女だろうと思って近よらずにいると、女は、やや、しばらく立っていたが、やがて侍者に言いつけ、いく本か花を取らせて出ていった。みんながながめた時には、すで箪すでに半空でったので、神仙が遊び来たことが、やっとわかった。その余香は月を経ても、なくならなかった、ということが劇談録に出ている。
[やぶちゃん注:ここも例外的に注する。この「王蕋」自体は不詳であるが、「茶蘼のような蔓」というのがヒントにはある。この「茶蘼」とはネット検索によって、中国原産のバラ科キイチゴ属トキンイバラ Rubus rosifolius var. coronaries の仲間であることが解った。トキンイバラは平凡社の「世界大百科事典」によれば、中国南部では常緑樹(本邦では落葉小低木)で、高さは一メートル内外、茎は直立または斜上し、緑紫色で稜が縦に走り角ばる。枝はまばらで殆ど無毛、扁平な棘を散生する。地下茎で増える。葉は互生し、奇数羽状複葉で小葉は三~五枚、小葉は長楕円形で長さ三~六センチメートル、幅は一~三センチメートルで縁には重鋸歯がある、とある。同種の近縁種か。]
六 瓊英は瓊花のこと。珍しい植物で、昔、揚州の后土祠に、ただ一株あった。唐人が植えたのだという。葉は柔平で瑩沢があり、花は大きくて弁が厚く、色が淡黄で、清いかおりがつねならずたかい。仁宗の禁苑に移したが、あくる年枯れたので揚州にもどしたら、また生きかえったけれども、元の至治ちゅうついに枯死した。いま江西贛南道署にこの花があって、非常に珍重されているということだ。
[やぶちゃん注:これも例外的に注する。weblio 辞書の植物図鑑の「けいか(瓊花)」によれば、半常緑低木のスイカズラ科ガマズミ属 Viburnummacrocephalum f. keteleeri で、『中国の江蘇省、揚州市が原産です。隋から唐の時代、「瓊花(チウンホア)」は「玉蘂」とも呼ばれ、その芳香のある黄白色の花が愛でられたといいます。ただ不稔であったために、「聚八仙」という台木に接ぎ木して増やしていたそうですが、やがて元軍の進入とともに絶え、その後は残った台木の「聚八仙」が「瓊花」と呼ばれるようになったといいます。わが国では、鑑真和上の縁で揚州市・大明寺から贈られたものが奈良県の唐招提寺や飛鳥寺などに植栽されています。「ムーシュウチュウ(木綉球)」の近縁種で、高さは4メートルほどになり、葉は卵形から楕円形の革質で、縁には細かい鋸歯があります。4月から5月ごろ、白色の両性花とまわりに8個の真っ白な装飾花を咲かせます。別名で「ハッセンカ(八仙花)」とも呼ばれます』とある。]
七 擬半仙とは、ぶらんこのこと。半仙戯ともいう。
八 南史に、東昏侯が金で蓮花を作り、それを地上に匿いて潘妃にその上を歩かせ、これが歩々蓮花を生ずだといった、ということが出ている。
九 月の中にある宮殿を広寒宮というのである。
一〇 凌波は、曹植の洛神賦に、凌波微歩、羅襪生塵、とある。それから女の歩みを凌波というようになった。
一一 魏豹が謀反したとき、漢王が酈王に向かい、緩頼頰往きて豹に説き、よくこれを降伏させたなら、汝を万戸侯に封じてやろうと言った、ということが史記に出ている。婉曲にたとえを引いて相手の心をひるがえすことである。
一二 傖は、鄙賤なもの。いなか者といった場合にも用いる。呉人は、中州人を傖と称したという。
一三 洶々は、水の声または衆人の騒がしい声である。
一四 恍は、怳に通ず。失意喜ばざることだが、ここでは、恍惚の意味である。
一五 刀圭は万寸匕の十分の一である。
[やぶちゃん注:特に注するが、注自体の意味が不詳である。「刀圭」は「とうけい」で薬を調合する匙を意味するから、それの上位単位が「万寸匕」(音なら「まんすんひ」)らしいが、実定量が不明である。識者の御教授を乞う。]
一六 真の知己という意味。春秋戦国の管仲が、われを生むものは父母、われを識るものは鮑叔と言ったのは、有名な故事である。
一七 宋の大中祥符七年に解州の塩池、いわゆる河東塩は、この塩池の所産なのであるが、その塩池の水が減少して塩の収入が少なくなったという届けがあったので、皇帝は視察の者を派遣された。すると、その者は帰ってきて、城隍神と自称する老人に会いましたら、塩池の害は蚩尤のなすところだと申しておりました、と奏上した。で、帝は近臣の呂夷簡を解池にやって祭りをさせると、その夜の夢に蚩尤があらわれ、上帝は自分にこの塩地の主宰を命ぜられているのだ、しかるに天子が、自分の讐敵である軒轅の祠を池畔にたてたから、塩池の水をからすのだといった。その事をまた奏上すると、侍臣の王欽若が、蚩尤は邪神であります、信州竜虎山の張天師はよく鬼神を使役すると申しますから、師に命じて、蚩尤を平定させては、いかがでしょう、と申しあげた。で、天師を召しておたずねになった。天師は死後神となった忠烈の士のなかでも、蜀将関某は忠勇を兼備し、いま※門の玉泉に廟食していますから、これにお金じになったらよいでしょう、とお答えした。天子は、それに従われた。まもなく鎧をき、剣を佩いた美髯の人が、空からおりてきた。天師は勅命を伝えた。関公は、臣岳瀆の陰兵を会して蚩尤を掃蕩致しましょう、と答えて消えてしまった。ある日、解池の上に黒雲が舞いさがり、風雨雷電にわかに起こって、空中に剣戟鉄馬の音がしていたが、やがて雲がおさまり晴天となってから、見にゆくと、池水がまた、もとのように満々とたえられていた、ということが、関帝録古記に出ている。
[やぶちゃん字注:「※」=「荊」の(くさかんむり)が(へん)の上にのみ被る字体。]
一八 美しくいろどった屋形船のようなもの。
一九 冠をかぶらずに捲髪のままでいること。
二〇 鷁は水鳥。水神をおそれさせる目的で、船首に描く。普書王濬伝に、濬大舟を造り、鷁鳥怪獣を船首に措き、もって江神をおそれしむ、とある。
二一 昔、貧書生が、醋を馬に駄してアルバイトをやっていた。それから、醋を醋大と変えて書生の称呼にした。窮措大はすなわち貧書生のことである。
二二 肉は肉声、竹は笛声である。普書孟嘉伝に「恒温嘉に謂(い)っていわく、妓を聴くに糸は竹にしかず、竹は肉にしかざるは何ぞや、嘉いわく、漸く近し、これをしてしからしむ」とある。
[やぶちゃん字注:「謂(い)って」は本文のママでルビではない。]
二三 緑珠は、姓を梁といい、白州博白県双角山下に生まれたが、艶に美しかったので、晋の石崇が交趾探訪使となったとき、三斛の緑殊にかえて妾にした。のち孫秀が緑珠をくれといったけれど、あたえなかったため、秀は詔を矯(た)めて崇を捕えた。で、録珠は楼上から飛び降りて死んでしまった。
[やぶちゃん字注:「矯(た)めて」は本文のママでルビではない。なお、これはみことのりを捻じ曲げるの意で、詔勅を故意に曲解させてという意、恐らくは捏造したというのであろう。]
[やぶちゃん附注:各話の最後に附された天馬氏の注は底本では二字下げでポイント落ち、各項の二行目以降は前より一字下げである。]

■原文

  西湖主

陳生弼教、字明允、燕人也。家貧、從副將軍賈綰作記室。泊舟洞庭。適豬婆龍浮水面、賈射之中背。有魚啣龍尾不去、並獲之。鎖置桅間、奄存氣息。而龍吻張翕、似求援拯。生惻然心動、請於賈而釋之。攜有金創藥、戲敷患處、縱之水中、浮沉逾刻而沒。
後年餘、生北歸、復經洞庭、大風覆舟。幸扳一竹簏、漂泊終夜、絓木而止。援岸方升、有浮尸繼至、則其僮僕。力引出之、已就斃矣。
慘怛無聊、坐對憩息。但見小山聳翠、細柳搖靑、行人絕少、無可問途。
自遲明以及辰後、悵悵靡之。忽僮僕肢體微動、喜而捫之。無何、嘔水數斗、醒然頓蘇。
相與曝衣石上、近午始燥可著。而枵腸轆轆、飢不可堪。於是越山疾行、冀有村落。
纔至半山、聞鳴鏑聲。方疑聽所、有二女郎乘駿馬來、騁如撒菽。各以紅綃抹額、髻插雉尾。著小袖紫衣、腰束綠錦。一挾彈、一臂靑鞲。
度過嶺頭、則數十騎獵於榛莽、並皆姝麗、裝束若一。生不敢前。有男子步馳,似是馭卒、因就問之。答曰、
「此西湖主獵首山也。」
生述所來、且告之餒。馭卒解裹糧授之。囑云、
「宜即遠避、犯駕當死。」
生懼、疾趨下山。茂林中隱有殿閣、謂是蘭若。近臨之、粉垣圍沓、溪水橫流。朱門半啟、石橋通焉。攀扉一望、則臺榭環雲、擬於上苑、又疑是貴家園亭。
逡巡而入、橫藤礙路、香花撲人。過數折曲欄、又是別一院宇、垂楊數十株、高拂朱簷。山鳥一鳴、則花片齊飛。深苑微風、則榆錢自落。怡目快心、殆非人世。穿過小亭、有鞦韆一架、上與雲齊。而罥索沉沉、杳無人蹟。因疑地近閨閣、恇怯未敢深入。俄聞馬騰於門、似有女子笑語。生與僮潛伏叢花中。未幾、笑聲漸近。聞一女子曰、
「今日獵興不佳、獲禽絶少。」
又一女曰、
「非是公主射得雁落、幾空勞僕馬也。」
無何、紅裝數輩、擁一女郎至亭上坐。禿袖戎裝、年可十四五。鬟多斂霧、腰細驚風、玉蕊瓊英未足方喩。
諸女子獻茗熏香、燦如堆錦。移時、女起、歷階而下。一女曰、
「公主鞍馬勞頓、尚能鞦韆否。」
公主笑諾。遂有駕肩者、捉臂者、褰裙者、持履者、挽扶而上。
公主舒皓腕、躡利屣、輕如飛燕、蹴入雲霄。已而扶下。群曰、
「公主真仙人也。」
嘻笑而去。
生睨良久、神志飛揚。迨人聲既寂、出詣鞦韆下、徘徊凝想。見籬下有紅巾、知爲群美所遺、喜内袖中。登其亭、見案上設有文具、遂題巾曰、

  雅戲何人擬半仙
  分明瓊女散金蓮
  廣寒隊裏應相妒
  信凌波上便九天

題已、吟誦而出。復尋故徑、則重門扃錮矣。踟躕罔計、返而樓閣亭臺、涉歷幾盡。一女掩入、驚問、
「何得來此。」
生揖之曰、
「失路之人、幸能垂救。」
女問、
「拾得紅巾否。」
生曰、
「有之。然已玷染、如何。」
因出之。女大驚曰、
「汝死無所矣。此公主所常御、塗鴉若此、何能爲地、」
生失色、哀求脱免。女曰、
「竊窺宮儀、罪已不赦。念汝儒冠蘊藉、欲以私意相全。今孽乃自作、將何爲計。」
遂皇皇持巾去。生心悸肌慄、恨無翅翎、惟延頸俟死。
迂久、女復來、潛賀曰、
「子有生望矣。公主看巾三四遍、囅然無怒容、或當放君去。宜姑耐守、勿得攀樹鑽垣、發覺不宥矣。」
日已投暮、凶祥不能自必。而餓燄中燒、憂煎欲死。
無何、女子挑燈至。一婢提壺榼、出酒食餉生。生急問消息。女云、
「適我乘間言、『園中秀才、可恕則放之。不然、餓且死。』公主沉思云、『深夜教渠何之。』遂命餽君食。此非惡耗也。」
生徊徨終夜、危不自安。辰刻向盡、女子又餉之。生哀求緩頰。女曰、
「公主不言殺、亦不言放。我輩下人、何敢屑屑瀆告。」
既而斜日西轉、眺望方殷、女子坌息急奔而入、曰、
「殆矣。多言者洩其事於王妃。妃展巾抵地、大罵狂傖、禍不遠矣。」
生大驚、面如灰土、長跽請教。忽聞人語紛挐、女搖手避去。數人持索、洶洶入戸。内一婢熟視曰、
「將謂何人、陳郎耶。」
遂止持索者、曰、
「且勿且勿、待白王妃來。」
返身急去。少間來、曰、
「王妃請陳郎入。」
生戰惕從之。經數十門戸、至一宮殿、碧箔銀鉤。即有美姬揭簾、唱、
「陳郎至。」
上一麗者、袍服炫冶。生伏地稽首、曰、
「萬里孤臣、幸恕生命。」
妃急起、自曳之曰、
「我非君子、無以有今日。婢輩無知、致迕佳客、罪何可贖。」
即設華筵、酌以鏤杯。生茫然不解其故。妃曰、
「再造之恩、恨無所報。息女蒙題巾之愛、當是天緣、今夕即遣奉侍。」
生意出非望、神惝恍而無著。
日方暮、一婢前曰、
「公主已嚴妝訖。」
遂引生就帳。忽而笙管敖曹。階上悉踐花罽。門堂藩溷、處處皆籠燭。數十妖姬、扶公主交拜。麝蘭之氣、充溢殿庭。
既而相將入幃、兩相傾愛。生曰、
「羈旅之臣、生平不省拜侍。點污芳巾、得免斧鑕、幸矣。反賜姻好、實非所望。」
公主曰、
「妾母、湖君妃子、乃揚江王女。舊歳歸寧、偶游湖上、爲流矢所中。蒙君脱免、又賜刀圭之藥、一門戴佩、常不去心。郎勿以非類見疑。妾從龍君得長生訣、願與郎共之。」
生乃悟爲神人。因問、
「婢子何以相識?」
曰、
「爾日洞庭舟上、曾有小魚啣尾、即此婢也。」
又問、
「既不見誅、何遲遲不賜縱脱。」
笑曰、
「實憐君才、但不自主。顛倒終夜、他人不及知也。」
生歎曰、
「卿、我鮑叔也。餽食者誰。」
曰、
「阿念、亦妾腹心。」
生曰、
「何以報德。」
笑曰、
「侍君有日、徐圖塞責未晚耳。」
問、
「大王何在。」
曰、
「從關聖征蚩尤未歸。」
居數日、生慮家中無耗、懸念綦切、乃先以平安書遣僕歸。
家中聞洞庭舟覆、妻子縗絰已年餘矣。僕歸、始知不死。而音問梗塞、終恐漂泊難返。又半載、生忽至、裘馬甚都、囊中寶玉充盈。由此富有巨萬、聲色豪奢、世家所不能及。七八年間、生子五人。日日宴集賓客、宮室飲饌之奉、窮極豐盛。或問所遇、言之無少諱。
有童稚之交梁子俊者、宦游南服十餘年。歸過洞庭、見一畫舫、雕檻朱窗、笙歌幽細、緩蕩煙波。時有美人推窗凭眺。梁目注舫中、見一少年丈夫、科頭疊股其上。傍有二八姝麗、挼莎交摩。念必楚襄貴官、而騶從殊少。凝眸審諦、則陳明允也。不覺憑欄酣叫。生聞呼罷棹、出臨鷁首、邀梁過舟。見殘肴滿案、酒霧猶濃。生立命撤去。頃之、美婢三五、進酒烹茗、山海珍錯、目所未睹。梁驚曰、
「十年不見、何富貴一至於此。」
笑曰、
「君小覷窮措大不能發跡耶。」
問、
「適共飲何人。」
曰、
「山荊耳。」
梁又異之。問、
「攜家何往。」
答、
「將西渡。」
梁欲再詰、生遽命歌以侑酒。一言甫畢、旱雷聒耳、肉竹嘈雜、不復可聞言笑。梁見佳麗滿前、乘醉大言曰、
「明允公、能令我真箇銷魂否。」
生笑云、
「足下醉矣。然有一美妾之貲、可贈故人。」
遂命侍兒進明珠一顆、曰、
「綠珠不難購、明我非吝惜。」
乃趣別曰、
「小事忙迫、不及與故人久聚。」
送梁歸舟、開纜逕去。梁歸、探諸其家、則生方與客飲、益疑。因問、
「昨在洞庭、何歸之速。」
答曰、
「無之。」
梁乃追述所見、一座盡駭。生笑曰、
「君誤矣、僕豈有分身術耶。」
眾異之、而究莫解其故。後八十一歳而終。迨殯、訝其棺輕。開之、則空棺耳。

異史氏曰、「竹簏不沉、紅巾題句、此其中具有鬼神。而要皆惻隱之一念所通也。迨宮室妻妾、一身而兩享其奉、即又不可解矣。昔有願嬌妻美妾、貴子賢孫、而兼長生不死者、僅得其半耳。豈仙人中亦有汾陽、季倫耶。」

柴田天馬訳 蒲松齢 聊斎志異 天馬氏の序言及び例言

[やぶちゃん注:以下、底本角川文庫版の第一巻冒頭から電子化を行う。以下の柴田天馬氏の「序言」及び「例言」については、ルビは( )で読みを示し、傍点「・」は太字とした。ここのみ、一部の語について当該段落末に私の語注を附した。]

 

 序言

 

 聊斎志異は、聊斎によって(誌)るされた怪譚であります。何度読みかえして飽かず、おもしろいので、中国では広く愛読され、訳者が見ただけでも、木版、鉛版、石版等十数種の刊本があります。志異註の著者呂叔清は、聊斎志異を読んで寝食を志るるに至った、と言い、「臣に聊斎志の癖有り」という遊印をほらせておしまくったほどで、それから聊斎癖ということばが生まれたのであります。しかし志異の愛読者は、中国だけに限られてはいません。選訳ではありますが、英訳され、独訳され、露訳され、邦訳されて、西と東へ延びていきました。ケンブリジ大学の教授ジャィルス博士は、志異のおもしろさを、アラビヤン・ナイトに比し、志異の文章を、カーライルだけが並行しうるとさえ言っています。教授もまた聊斎癖の一人でありましょう。

 聊斎志異はその名のように怪異譚ではありますが、濃艶嬌痴(きょうち)の情話が多く、読んでいるうちに、神女、仙女、鬼女、狐女等が、いつか愛すべく親しむべきこの世の佳人のように思われてくるのであります。しかも、神韻縹渺(ひょうびょう)として、濃艶をいっそう濃艶に、嬌痴をいっそう嬌痴ならしめているのは、まったく著者の大才と妙筆によるのであります。

[やぶちゃん注:「濃艶嬌痴」「濃艶」は艶(あで)やかで美しいこと。非常に艶(つや)っぽく美しいことで、「嬌痴」は「おぼこ」の意で、体つきは大人びているものの、未だ色恋を解しないことを指す。]

 志異は全十六巻で、中、小編小説と小話との四百四十五編をおさめ、上は王侯から下はこじきにおよぶまで社会各階級の人物を網羅して、老若、男女、貧富、賢愚、善悪、美醜等が、残るところなく全巻ちゅうにに描写されております。だから志異を注意して読めば、一部の中国風俗絵巻を繰りのべるように、明末清初の風俗習慣が手に取るごとくわかるのであります。明末清初は中国文明の復興期で、その文明を骨格として、今日の中国文化は肉づけられているのでありますから、中国を知るうえにも、好資料なのでありましょう。

 志異をひもとく者は、だれでも、これほど多くの不思議なことを、どうして集めたのたろうと疑いますが、著者の自誌に「人の鬼を談ずるを喜び、聞けば、すなわち筆に命じ、ついにもって編をなす。これを久しゅうして、四方の同人、また郵筒をもって相寄す」とあるので見ると、著者が、人から聞いて書いたものと、諸方の学者たちが提供してくれた材料を書きなおしたものとを合わせて、四百余編の怪奇談を集めえたことが、うかがわれるのであります。材料収集の苦心談として、次のようなことも言い伝えられています。聊斎は家の前に腰かけをすえて、笊(ざる)に入れたたばこをそなえ、旅行者を見ると呼び止めて、奇怪な話をさせた、というのです。これは、聊斎の自誌にある「人の鬼を談ずるを喜び」云々から生まれ出た想像説だ、と一笑に付する人もありますが、一笑に付すること自体も、また想像にすぎません。

 郵筒をもって材料を提供した四方の同人は、大部分が秀才だったろうと思われます。というのは、志異ちゅうの主人公に秀才が多いからであります。

 志異の最初の出版者である趙荷村大守の例言ちゅうに「この編の初稿は鬼狐伝と名づけられた。ところが鬼と狐は、先生の才筆で世間に紹介されるのを恐れ、先生が挙人の試験を受けに試験場にはいると、先生を取り巻いてじゃまをした。で、帰ってから、鬼、狐以外の条項を加えて、志異と名づけた」という一節があります。聊斎は、その試験で落第したので、そんな伝説が生じたのでありましょうが、中国第一の怪奇譚聊斎志異の著者にまつわる伝説としては、興味深いものがあります。

 志異に対して、そのころの学者から寄せられた題詩のなかで、一代の碩学(せきがく)王漁洋の七絶は絶唱と言われていますが、それは「姑(しば)らく妄(みだ)りに之(これ)を聴く、豆棚瓜架雨糸のごとし、料(はか)るに応(まさ)さに人間の語を作(な)すを厭(いと)いて、秋墳鬼唱の詩を愛聴するなるべし」というのであります。前記のように、聊斎は志異の著に没頭したために挙人の試験に及第することができませんでした。しかし、それは応試の文章が悪いのではなく、試験官が不正であるか不明であるからだと思って、不平にたえなかったようです。それで自然、人間というものをあさましく感じ、秋墳鬼唱の詩を聴くことを喜ぶようになったのだろうと、王漁洋は推測したわけなのです。志異に、目まぐるしいくらい多くの典故があるのも、落第した自外の学識を世に示して、鼎(かなえ)の軽重を問わんとしたのだ、と評する人があるのも、やはり同じような推測から生まれた強い同情なのでしょう。しかし、あまりに典故が多いので、志異は難読の書だといわれていましたが、呂叔清が三年の歳月をついやして「聊斎志異註」を著わし、のち、本文の末尾に注釈を加えたものが出版されるようになって、志異の読者は、にわかに増加したのであります。

[やぶちゃん注:「豆棚瓜架」は「とうほううか」と読み、豆や糸瓜(へちま)を支える柱や棚のこと。]

 本巻には、典故を、そのまま用いなければ意味の通じないものだけに注釈を加え、意訳しうる典故は、ただちにこれを意訳してしまいました。読者の煩を避けたいと思ったからです。

 著者蒲松齢(ほしょうれい)は、山東省淄川(しせん)の人で字(あざな)を留仙、号を柳泉といい、聊斎は、その斎号であります。明朝の崇禎十三年(西暦一六四〇年)の生まれで、清朝の順治十五年(西暦一六五八年)十九歳で博士弟子員となり、康熙二十四年(西暦一六八五年)四十六歳で廩膳生に補せられ、翌々年考試を受けて落第しました。康熙五十年(西暦一七一一年)七十二歳で貢生に補せられ、同五十四年(西暦一七一五年)七十六歳で卒しました。聊斎の死年には、七十六歳説(胡適その他)と八十六歳説(魯迅その他)とありましたが、胡適博士が、人をやって聊斎の碑文を石摺(いしず)りにさせて考証したので、七十六歳の正しいことが決定したのであります。

[やぶちゃん注:「博士弟子員」現在の通常の大学の学生に相当する資格と思われる。

「廩膳生」「りんぜんせい」と読む。現在の大学に於ける給費生・奨学生に相当する。明の太祖の時(一三六九年)に府州県に学校を設けたが、その学生を「生員」と呼び、その生員を廩膳生・増広生・附生の三種に分け、トップ・クラスの廩膳生には毎月米六斗が支給された、と「廣漢和辭典」にある。

「考試」科挙考試。科挙試のこと。

「貢生」ウィキの「貢生」によれば、『明清両代に生員(秀才)の優秀な者で、国子監で学ぶことを許可された者を指す。明代には歳貢・選貢・恩貢・細貢があり、清代では恩貢・抜貢・副貢・歳貢・優貢・例貢があった』。毎年或いは三年ごとに『各府学・州学・県学の中から生員を選抜して国子監に送った。これを歳貢と称したため、選抜された生員は貢生または歳貢生と呼ばれた。恩貢は皇帝の即位やその他の慶事があったときに「恩詔の年」として歳貢の枠外で行われた選抜である。抜貢は朝廷が特に優秀な生員を国子監に選抜する制度で』、六年目ごとに行われていた。『副貢とは副榜(郷試の補欠合格者)の中から選ばれた者を指す。例貢は金銭で貢生の資格を取得することである』。『貢生のほかにも国子監には監生がいた。監生は試験によって国子監に入った者ではなく、多くは高官の子弟または功臣の子弟であった』とある。]

 聊斎が何歳で志異を書きはじめたかは明らかでありませんが、二十歳台であったろうと思われます。そして死ぬまで書き続けたもののようです。

        訳者

 

 

 

 例言

[やぶちゃん注:以下、底本では各条の二行目以降は一字下げである。]

 

一 本書各編の順序は、広く行なわれている趙本(聊斎志異最初の刊行書)の順序とは同じでない。趙本の例言ちゅうに「原本は、およそ十六巻であるが、初めは、ただ、そのもっとも雅なるものを選みあつめて十二巻としたけれども、刊すでに竣(おわ)って、ふたたびその余を見ると、愛すべくして捨てることができぬから、ついにこれを続刊した」とある。十二巻までは、わが中編小説・短編小説くらいのものであるが、十三巻以後になると単章隻句に類するものが多く、読む者に竜頭蛇尾(りゅうとうだび)の感を起こさしめる憾みがあるから、本書では十三巻以後の各条を、十二巻以前の各条ちゅうに插入あんばいし、大珠小珠玉盤に落つるの観をなさしめんと欲した。したがって全面的に順序を変更するにも至ったのである。ただし趙本の順序を変更したものは、ひとり本書のみではなく、白話聊斎志異、原本聊斎志異その他、指を屈して一掌にあまるほどである。

[やぶちゃん注:「大珠小珠玉盤に落つる」白居易の「琵琶行」の「大珠小珠落玉盤」の一節。琵琶の音(ね)は大小沢山の真珠が大きな皿の上に散り落つる時の音のようであるの意。]

一 同題異事のものは、〇〇第二則、〇〇第三則として、これを一題下に続記するのが、趙本の編例であるのに、同本第十三巻に雹神の一編があって、第十六巻にも雹神があり、第十四巻に義犬の一題があって、第十六巻にも義犬があり、十巻、十三巻に三生があり、十三巻、十五巻に宅妖があるのは、まったく校讎(こうしゅう)が疎漏と見るべきだ。ただし、原本任和余集の題詞ちゅう、今刻前十二巻は皆そ(趙荷村)の手定で、後四巻は、すなわち、これを付与する者だ、とあるから、校讎の疎漏の責は、趙太守に帰すべきでない。

[やぶちゃん注:「校讎」校合(きようごう)に同じい。文章や字句を比較照合して誤りを正すこと。校讐。校正。

「手定」てずから、自分で定めること。]

一志異各編ちゅう、異史氏いわくとして、著者の短評を項末に付したものがあるが、多くは旧儒的訓戒にすぎず、読後の興味をそぐものが少なくないから、一括これを割愛した。

[やぶちゃん注:既に電子化した「酒虫」のように例外的に訳してあるものもある。]

一 原本には、まま魯魚(ろぎょ)のあやまりがあって、従容(しょうよう)としてはいる、客に従ってはいる、のごとく、判別に苦しむものが少なくない。たいがいは訂正したつもりであるが、もし、あやまりがあったら、高教を賜わりたい。

[やぶちゃん注:「魯魚のあやまり」「魯」と「魚」の字は字体が似ていて誤りやすいところから、間違え易い文字。また、文字の誤り。「魯魚亥豕(ろぎょがいし)」「烏焉馬(うえんば)の誤り」などともいう。]

一 本書は原文を増減せぬようにと心がけ、訳語は、なるべく漢音を避け、通俗平易な和訓をもってしたが、あまり露骨に訳しえぬような章句には、とくに模糊(もこ)たらしめたところもある。

一 本書は、送り仮名の慣例に従わず、一字であるべき送り仮名を、二字にした場合もあるし、句読もなくてよいところに、施した場合があり、長い傍訓を用うれば句詞のととのうところを、短い傍訓でがまんした場合もある。これらは、組み版にさいし、傍訓と傍訓の接触を避けるためで、まことにやむを得なかったのである。

一 本書の注釈は、半ばを呂湛恩の聊斎志異註に取り、半ばは訳者の注釈である。

 

[やぶちゃん注:以下に底本では目次と明末清初中国地図が入る。なお、底本では天馬氏の訳文に勝るとも劣らぬ味のある井上洋介氏の挿絵が挿入されているが、井上氏の著作権は存続しているので省略した。是非、底本を購われて味わって戴きたい。]

2014/05/05

芥川龍之介 酒蟲 附やぶちゃん注+原典+柴田天馬訳

 「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に、芥川龍之介「酒蟲」附やぶちゃん注+原典+柴田天馬訳を公開した。

注釈が恐るべき膨大なものになった芥川龍之介「黄梁夢」公開への前座であるが、サイト版なのでかなり読み易いと思う。ご笑覧あれかし。

橋本多佳子句集「信濃」 昭和二十一年 Ⅵ

 

紫蘇しぼりしぼりて母の戀しかり

 

[やぶちゃん注:先に記したように多佳子の母津留は、この四年前の昭和一七(一九四二)年(多佳子四十三歳)十一月七日、多佳子の看取りを受けて東京で享年八十二歳で逝去している。この句は個人的に涙を禁じ得ない。]

 

もの書けるひと日は指を紫蘇にそめ

 

螢火のこぼれて小石照らさるる

 

珈琲濃しあさあがほの紺けふ多く

篠原鳳作初期作品(昭和五(一九三〇)年~昭和六(一九三一)年) Ⅹ

 

蘇鐡の葉しいてありたる上簇哉

 

[やぶちゃん注:「上簇」は「じゃうぞく(じょうぞく)」と読み、成熟した蚕を繭を作らせるために蔟(まぶし:蚕簿。蚕が繭を作る際の足場にするもので、ボール紙などを井桁(いげた)に組んで区画したものが用いられ、一区画に一つの繭を作らせる。ぞく。)に移し入れることをいう。あがり。上蔟。夏の季語。]

 

提灯につりし小石や川施餓鬼

 

[やぶちゃん注:「川施餓鬼」「かはせがき(かわせがき」は川で亡くなった人の霊を弔うために川辺又は船中で行う仏事。死者の名を記した塔婆や紙片を川に流したりする。秋の季語。]

 

玲瓏と灯る小家や魂祭

 

蘆の艪をつけてありけり精靈船

 

[やぶちゃん注:「蘆」は底本では「芦」。]

 

霧の中眞赤な幹が並びけり

 

[やぶちゃん注:裸子植物(球果植物)門マツ綱マツ目マツ科マツ属アカマツ Pinus densiflora か。]

 

ひやひやと長き廊下や安居寺

 

[やぶちゃん注:「安居」既注。先に掲げた(リンク先)の昭和六(一九三一)年十月発表の句に、

   高野山

飮食(をんじき)のもの音もなき安居寺

十方にひびく筧や安居寺

一方の沙羅の香りや安居寺

の連作があり、この紀州高野山に於ける俳誌『山茶花』夏行に参加するため近畿地方に旅行した際の吟の一つと思われる。]

 

汐ひけば熱きいでゆや避暑の宿

 

噴水の日ざしはどこか秋めきぬ

 

噴水に叩れゐるやオットセイ

 

傘車かけ下つたる河原哉

 

[やぶちゃん注:以下五句は恐らく鹿児島の三大行事の一つとされる曽我兄弟の仇討に由来するとされる伝統行事「曽我どんの傘焼き」(既注)の情景かと思われる。リンク先の「鹿児島三大行事保存会」公式サイトの「傘焼き」の引用はこれらのシチュエーション総てに当て嵌まるように思われる。]

 

玉串のつきさしてあり傘の山

 

拍手の響きて傘火點(ツ)きにけり

 

渉り渉り傘くべにけり

 

旺んなる水合戰も傘火かな

天から降りて来た言葉   山之口貘

 天から降りて来た言葉

 

しゃべる僕のこのしゃべり方が

ぼくの詩にそっくりだという

そこで僕が

またしゃべる

なにしろ僕も詩人なので

しゃべるばかりがぼくの詩に似ているのではないのである

ごはんの食べ方

わらい方

ものをかんがえる考え方

こいの仕方

うんこの仕方まで

どれもまるでぼくの詩なのである

そこでぼくの

詩がおもう

いつまた天にのぼるのかこんな地べたに降りて来た

文語体らにしてみても

かれらが詩になるまでにはどうしても

ひとりぐらいの詩人は要る筈だ

いよいよはげしく立ち騒いでくる文明どもの音に入り混って

なりにけりとか

たりとかと

日常語にまでその文語体らを

生活できる詩人をひとりだ

 

[やぶちゃん注:【2014年7月22日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。注を一部削除した。】初出は昭和一六(一九四一)年九月号『中央公論』。発表時、バクさん三十八歳。結婚四年目、この六月に長男重也君が生まれている。


   *


 天から降りて來た言葉


しゃべる僕のこのしゃべり方が

ぼくの詩にそっくりだという

そこで僕が

またしゃべる

なにしろ僕も詩人なので

しゃべるばかりがぼくの詩に似ているのではないのである

ごはんの食べ方

わらい方

ものをかんがえる考え方

こいの仕方

うんこの仕方まで

どれもまるでぼくの詩なのである

そこでぼくの

詩がおもう

いつまた天にのぼるのかこんな地べたに降りて來た

文語體らにしてみても

かれらが詩になるまでにはどうしても

ひとりぐらいの詩人は要る筈だ

いよいよはげしく立ち騷いでくる文明どもの音に入り混って

なりにけりとか

たりとかと

日常語にまでその文語體らを

生活できる詩人をひとりだ


   *]

オール・スター・キャスト夢(地震にて中断さる)

図書館を併設した特殊な施設のレストランである。【省略したが途中で私が手洗いに中座するシーンがあり、何故かごった返す図書館で迷うシーンがある。】
私はアメリカとロシア合同のクリスマス・パーティに出席している。
オバマもプーチンもメドヴェージェフもいる。
松田優作が、加山雄三が、シュワルツェネッガーが、トミー・リー・ジョーンズもいる。
加山雄三が「君といつまでも」を歌い、シュワルツェネッガーが「ターミネター2」の善玉のそれの衣裳でポーズをとり、トミー・リー・ジョーンズはデビュー作の「ある愛の詩」の頃の面立ちである。【優作は死後に急激に好きになった。ごっつい顔のトミーは昔から私のお気に入りの俳優である。】

私は同じテーブルの松田勇作と、天才マジシャンのアメリカの少年、ロシアのUFOを中心とした超常現象を専門とするサイトを運営する青年【架空人物である】、見知らぬ謎の日本人の美少女【7歳ぐらいか。白と黒のチェックを着ていた。これは多分、私の母だろうと思う。】らと親しくなる。
松田優作が例の斜に構えた感じで寡黙なのだが、そこがまた如何にも魅力的であった。
優作は彼の得意芸とするというキャベツの丸かじりというのを僕らの前で演じてくれたりする。ふて腐れたはねっかえりを演じながら、キャベツを丸ごと二個も齧るのである。【この訳の分からないシーンの面白さを忘れたくないためにこの夢記述をしたと言ってもよい】
終わり頃になって、中座していた松田優作が、ボルサリーノを被ってサングラスに白い背広姿で「ブラック・レイン」の極悪の佐藤よろしく登場、ロシア側の席に近寄ると、やおら同国要人に自動小銃を向ける。相手は背を向けて手を挙げロシア語で叫び、場内は騒然とする。

レーザー・ポイントが男の背中で細かに揺れている。

あのクールな表情のまま、優作は自動小銃を撃つ。

と、それは黄色いマスタードを
「ぴゅう!」
と音を立てて【この音を珍しく私は覚えている】)射出する。
優作はそれで、要人の背広の背中にロシア語と英語で

「メリー・クリスマス!」

と綺麗に書き上げ、また、口をとんがらした表情のまま僕らの席に戻ってくるのである。

ところが、どうもロシア側が今の演出を過剰だと抗議を始め、結局、優作はプロダクションから呼び出しを受けて、相変わらず口を尖らしたまま、憤然と会場を去ってゆく。

私と少女がそれを見送る。

優作がまさにあの感じで、黙ったまま、少女にあの長い右掌を高々と掲げて「またな!」という感じで挨拶をした。
エントランスを消えてゆく優作の背中――

/で/

――結構な揺れで眼が覚めた。地震の間、まだ横になっていた。初期微動が長いから大丈夫だなどと眠ろうとしたが、夢の続きが見られないのが癪に障ったので、丁度、地震が終わった頃に起き出し、これを書き上げた。如何にもギャラが目も眩むような夢であった――――

2014/05/04

篠原鳳作初期作品(昭和五(一九三〇)年~昭和六(一九三一)年) Ⅸ

 

甲板をあるきて春を惜しみけり

 

雪の峰大海原に映りけり

 

颱風に折れ伏す甘蔗となりにけり

 

柵經の僧をのせたる獨木舟(クリギ)かな

 

[やぶちゃん注:「柵經」不詳。これは棚経(たなぎやう(たなぎょう))の誤りで、盂蘭盆会の際に僧侶が精霊棚の前で読経することではあるまいか?]

 

犬つれて岬の春を惜しみけり

 

松風の絶えてはさびし月照忌

 

[やぶちゃん注:「月照忌」既注。]

 

流灯の橋をくぐりてゆきにけり

曲り角   山之口貘

 曲り角

 

産めよ

殖やせよの時勢にふさわしく

国策に副うたと女房は言う

たべものなどにしてみても

好きなわさびを当分はたべないと言い

小魚なんぞは骨ごとたべてしまう

女房の言うこと

為すことには

私的な味がなくなって

おなかばかりが目立ってきた

あるとき

僕はながめていた

桜の木のある曲り角から

おおきなおなかが現われた

むろんそれは一目みて

産めよ殖やせよの見事な国策とわかったが

女房の姿とわかったのは

しばらく経ってからのことみたいで

おなかに遅れてかなしそうに

息を喘いで現われて来た

その眼

その鼻

見てわかった

 

[やぶちゃん注:【2014年7月22日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証済。注を一部追加した。】初出は昭和一七(一九四二)年六月号『新創作』(東京市小石川区小日向水道町の豊國社発行)。長女ミミコこと泉さんの誕生はこの翌年の三月であるから、この胎児は長男の重也君である。彼は昭和一六(一九四一)年六月に生まれたが、翌年の七月に亡くなっている。とすれば、詩のシチュエーションは昭和十五年末から翌昭和十六年六月以前ということになる。

   *


 曲り角


産めよ

殖やせよの時勢にふさわしく

國策に副うたと女房は言う

たべものなどにしてみても

好きなわさびを當分はたべないと言い

小魚なんぞは骨ごとたべてしまう

女房の言うこと

爲すことには

私的な味がなくなって

おなかばかりが目立ってきた

あるとき

僕はながめていた

櫻の木のある曲り角から

おおきなおなかが現われた

むろんそれは一目みて

産めよ殖やせよの見事な國策とわかったが

女房の姿とわかったのは

しばらく經ってからのことみたいで

おなかに遲れてかなしそうに

息を喘いで現われて來た

その眼

その鼻

見てわかった


   *]

柴田天馬訳 蒲松齢 聊斎志異 酒虫

 酒虫しゅちゅう

 長山ちょうざん劉氏りゅうしは飲みすけで、いつも独酌で一かめはあけるのである。負廓くるわそと一の田が三百あって、その半分にはむぎを植え、家は金持ちだったから、飲むために困るということはなかった。
 ある時、がいこくの僧が来たが、劉を見て、彼のからだには、ふしぎな病があると言った。劉が、
 「ないよ」
と答えると、坊主は言った、
 「あんたは、酒を飲んでも、いつも、酔わんじゃないかね」
 「そうだ」
 「それは、酒虫というやつなんだ」
 劉は驚いて、医療りょうじを求めた。坊主が、
 「わけは、ない」
と言うので、どんな薬がいるのか、聞くと、坊主は、
 「いらんよ」
 と言って、日なかに、うつむけに寝させ、手足を縛ってから、五寸ばかり頭を離れたところに、一かめの良い酒を置いただけであった。しばらくすると、喉が、かわいて、ひどく飲みたいと思った。酒のにおいが鼻にはいって、饞火ほしさ三大熾もえていながら、飲めぬのが苦しいのである。と、喉が、にわかに、かゆくなった、と思うと、吐き出した物があって、すぐ酒の中に落ちた。いましめを解いてから、それを見ると、長さ三寸ばかりの、赤いのやつが、魚が泳いでいるように、うじうじと動いていた。口や眼が、ことごとく備わっているのである。
 劉は驚いて、金をやったが、坊主は受けとらず、ただ虫をくれと言うので、何に使うのかと聞くと、
「これは酒の精なのです。甕の中に水を貯え、虫を入れて、かきまぜると、良い酒が、できるのです」
 と言った。劉が試させてみると、果たして、そのとおりだった。
 劉は、それから、酒を、かたきのように、にくんだが、からだが、だんだん瘦せてきて、家も、日々、貧乏になってゆき、のちには、飲み食いも、できなくなった。

 異史氏りょうさいいわく、日に一石を尽くしても、その富をそこなうことがなく、一斗も飲まずに、たまたま、もって貧を増す、というのは、飲み食いが、がんらい、運命で、きまっているのでは、あるまいか。ある人が、虫は劉の福で、劉の病ではないのを、僧が、ばかにして、自分の術を、なしとげたのだ、と言ったが、そうか、そうでないか。

     注

一 城郭に接した良田である。史記の蘇秦伝に、蘇秦が「吾をして負郭の田二頃あらしめば、吾あに能く六国の相印を僻びんや」と言ったとある。ここでは負郭を、くるわ外、と訳しておく。
二 中国の一畝は、わが六畝ほどにあたる。三百畝は、わが十八町歩ぐらいである。
三 饞は、食慾であるが、ここでは飲慾に用いてある。くいたさ、では前文と一致せず、のみたさ、では原字と一致せぬので、ほしさ、と訳した。苦しいのである。

■原文



酒蟲

長山劉氏、體肥嗜飮。每獨酌、輒盡一甕。負郭田三百畝、輒半種黍。而家豪富、不以飮爲累也。一番僧見之、謂、
「其身有異疾。」
劉答言、
「無。」
僧曰、
「君飮嘗不醉否。」
曰、
「有之。」
曰、
「此酒蟲也。」
劉愕然、便求醫療。曰、
「易耳。」
問、
「需何藥。」
俱言不須。但令於日中俯臥、縶手足。去首半尺許、置良醞一器。
移時、燥渴、思飮爲極。酒香入鼻、饞火上熾、而苦不得飮。忽覺咽中暴癢、哇有物出、直墮酒中。解縛視之、赤肉長三寸許、蠕動如游魚、口眼悉備。
劉驚謝。酬以金、不受、但乞其蟲。問、
「將何用。」
曰、
「此酒之精、甕中貯水、入蟲攪之、卽成佳釀。」
劉使試之、果然。劉自是惡酒如仇。體漸瘦、家亦日貧、後飮食至不能給。

異史氏曰、「日盡一石、無損其富。不飮一斗、適以益貧。豈飮啄固有數乎。或言、『蟲是劉之福、非劉之病、僧愚之以成其術。』然歟否歟。」

 

ブログ・カテゴリ 柴田天馬訳 蒲松齢「聊斎志異」 急遽始動 / 続黄梁

ブログ・カテゴリ『柴田天馬訳 蒲松齢「聊斎志異」』を急遽、始動する。芥川龍之介の「黄梁夢」の評釈中、僕の偏愛するその柴田天馬訳がパブリック・ドメインになっていることに気づいたからである。
柴田天馬しばたてんま(明治五(一八七二)年~昭和三八(一九六三)年)は中国文学者・ジャーナリスト。鹿児島県生まれで本名は一郎。東京法学院(現在の中央大学)に学び、後に満州に渡り、当地で出会った「聊斎志異」部分訳を、現地の日本語新聞に連載して大正八(一九一九)年に刊行、新版を出していた第一書房創業者の長谷川巳之吉の強い勧めで、全訳の刊行にかかったが、昭和八(一九三三)年に発禁処分となり、一巻のみで中絶したものの訳作業は続けた。現地の日本語新聞社の重役などを経て、戦時中は南満州鉄道に嘱託で勤務、引き揚げで資産を失うなどの紆余曲折を経る中で、昭和二六(一九五一)年から翌年にかけて「聊斎志異」全訳を完成・刊行、昭和二八(一九五三)年に毎日出版文化賞を受賞した(ここまでの事蹟はウィキの「柴田天馬」に拠った)。
彼の本作の訳は原文の文字列に独特の味わいをもった和訓ルビを施すという画期的なもので、読んでいてあたかも原文を読んでいるような、原文が読めているような不思議な錯覚を惹起させる卓抜な訳である。私は十八の時から耽溺している訳文である。
底本は角川書店昭和五三(一九七八)年刊「聊斎志異」(角川文庫改版十五版)を用い、僕の電子テクストとしての色をつけるために、最後に原文を併載した。原文は中文サイト「開放文學」の「聊齋誌異」に載るものを参考に、句読点や記号を変更・省略して原典表記に近づけ、一部の漢字をユニ・コードの正字に変えた。また、直接話法(若しくはそれに準ずると私の判断した部分)を改行、さらに天馬氏の訳の段落構成に合わせても改行を施し、対照して読めるように便宜を施した。
今回は特に芥川龍之介の「黄梁夢」に合わせ、「続黄梁」を公開する。痛快にして天馬空をくが如き天馬訳を存分にお楽しみあれ!

 続黄梁ぞくこうりょう

 福建のそうという挙人が、みごとに南宮れいふの試験に及第した時のことである。二、三の新貴者きゅうだいしゃたちとともに、郊外に遊びにゆき、ふと昆盧禅院びるでら一に一人の星者うらない二が寓っていると聞いたので、駒をならべて問卜みてもらいに行った。そして室にはいってすわっていると、星者はその意気ごみを見て佞腴せじをいうので、曾はおおぎを動かして微笑しながら、蟒玉やくにん三になる天分があるかないか、とたずねた。すると、星者はかたちを正して、
 「二十年の太平宰相でござります」
 と言った。曾はたいそう喜んで気ぐらいが、高くなった。
 おりから小雨が降りだしたので、遊び仲間とともに坊さんの僧舎に雨やどりをした。しゃの中には、目のくぼんだ鼻の高い一人の老僧がいたが、ふとんの上にすわったまま、偃蹇いば四って礼もしなかった。
 みんなは、ちょっと挙手したままねだいに登って話し合った。卜者を信じているみなの者が、曾に向かって宰相の賀を述べると、曾は高慢らしく仲間に向かって、  「ぼくが宰相になったならば、張年丈ちょうおじさんは江南の巡撫しよう。うちの中表いとこを遊撃隊の参にする。うちの老蒼頭じいやは小千把くらいで本望だろう」
 と言ったので、一座は大笑いをしたのである。
 門外では、ますます雨の降りしきるのが聞こえていた。曾はだるくなったので、ねだいに伏せっていると、二人の中使じじゅう天子手詔てんしかんを持ってきた。国計を定めるために、曾太師を召すとの、みことのりである。曾は得意になってすぐ入朝すると、天子は席をすすませられ、ながいことあついおことばがあったうえ、三品から下のものは、その任免を許すとおおせられ、蟒衣もうい、玉帯および名馬を賜わった。曾は官服を稽首おじぎをして退出したが、家にはいると、それは、もうもとの屋敷で暗なかった。描いた棟木、彫りをしたたるきで、壮麗をきわめていた。曾は、どうして、にわかに、こんなになったのか、自分でも、わからなかった。しかしひげをひねって、ちょっと呼ぶと、雷のようにおおぜいの返事が聞こえた。
 たちまち公卿から海の物を贈ってくれる。背をかがめ足恭きざみあしで歩く者どもが、重なりあって出入りをする。六が来れば、倒履あしをそらにして迎えるが、侍郎なんかは一揖しただけで話し合い、それ以下になると、ただ、うなずくばかり、といういきおいであった。
 山西の巡撫が女の楽手十人を贈ってくれた。みんな美人で、ことにすぐれたのを、嫋々じょうじょう仙々せんせんといい、二人はたいそう曾の寵愛をこうむった。
 曾は科頭かむりもつけず、ゆあみがすむと、毎日、声歌を聞くのを仕事にしていた。
 ある日、自分が微賤のころ、県の紳士王子良おうしりょうが自分を助けてくれたことを思いだし、いまや自分は、こんなに置身靑雲しゅっせしているのに彼はまだ嗟跎仕路ろうにんをしているから、引きあげてやろうと考え朝早く上書して諌議に推薦した。そしてすぐ兪旨おおせを受け、すぐ王を擢用てきようしたのであった。
 曾はまた、郭という太僕が、前に自分に睚眦しろいめをみせたことを思いだして、呂という給と侍御の陳昌などにそう言って旨意むねをふくめておいた。翌日になると弾劾文が、こもごも出たので、おおせを受けて郭を免職にした。これで曾は、恩も怨みも片づいて、さっぱりしたのである。
 ある時、郊外に出て行くと、酔いどれが行列に触れたので、人をやって縛ったま京尹みやこに引きわたした。酔いどれは、すぐさまころされてしまった。隣屋敷や地続きの者たちは、みなその勢いにおそれ、よく肥えている土地や産物を進呈するので、曾の富は国庫にもひとしいほどになった。
 まもなく嫋々と仙々が、つぎつぎとなくなったので、朝夕、思い暮らしているうちに、ふと思いだしたのは、むかし東隣の娘のすぐれて美しいのを見て、買いとって妾にしたいと絶えず考えながらも、綿薄かねがなくて願いのかなわなかったことであった。今日こそこころのままだと、腕のある家来を何人かやってむりに金を受けとらせた。すると、しばらくして娘を籐の輿にのせていて来たが、昔見た時より、ずっとあでやかになっていた。曾は、これで本望だと思った。
 また一年過ぎた。朝廷のひとたちのなかには、内々悪く思っている者があるようだったけれど、みんな為立仗馬くちをつぐんでいたし、曾も慢心していたので、気にもとめなかった。すると竜図閣りゅうとかくの学士でほうという人が上疏をした。それは、ざっと、こういうのであった、
「ひそかに思いますのに、曾某は、もともと酒を飲み賭にふけっていた無頼漢で、市井の小人なのであります。一言のみころにかなえるものがあったために、ひじりのいつくしみを受けるような光栄を有し、父は紫をき、児は朱をはお一〇、恩寵をきわめておりますのに、身を捨て、こうべし、もって万一に報じたてまつることを思わず、かえって思いのままに威福をほしいままにし、死すべき罪は、擢髪難数かみのけよりおお一一いのであります。役目を売りものとし、欠けている官職のよしあしを考えて、価の重軽を定めるので、公卿も将士も、ことごとく彼の門下に走り、あたえをはかって引きたてを求めるさまは、あたかも、あきないのごとく、きげんをうかがいに集まるものは、かぞえられぬほどであります。もし傑士賢臣の彼におもねることをがえんぜぬものがあるときは、軽きは、これを閑散の職におき、重きは、官をはいで平民に組みいれ、はなはだしきは、彼にくみせず、鹿馬よこしまの奸にさからったために、遠く豺狼之地かたいなかに放たれたものもあります。朝士たちは、これがために心を寒からしめ、朝廷は、よって孤立のありさまとなられました。そして平民の膏腴こうゆをほしいままにむさばり食らい、良家の女子を無理にめとるので沴気冤気にくみうらみの雲霧に、暗として天日もないのであります。しもべがゆけば知事も面会し、書函をやれば司院も法をまげ、台所のものや瓜葛之親つづきあいのものさえ出る時は駅伝の馬に乗り、風のごとく行き、雷のごとく動き、地方官の接待が少しでも遅れると、馬上からのむちが立ちどころに至り、人民をいため、役人を追い使い、曾の扈従けらいの臨むところは野に靑草なしであります。しかも某は炎々赫々、寵をたのんで悔ゆるところなく、お召しになれば闕下けっかで承り、萋菲ざんげん一三を君前に申しあげ、役所をさがれば、すぐに後苑でさんざめかし、色にふけり、狗を養い、馬を飼い、昼も夜も荒みたわむれ国計民生は念慮にないのであります。世上になんでこのような宰相がありましょうや。内外は訛伝かでんに驚き、人情は洶々としております。早く死刑にいたさねば、必ず曹操王葬の災いをかもすでありましょう。臣は夙夜しゅくやただそれを恐れて、安んずるところなきために、死をおかして彼の罪を列款かきならべ、宸聴に達し、伏して、奸佞かんねいのこうべ断ち、彼がむさぼれる財産を取りあげ、上は天の怒りをかえし、下は民のこころを快ならしめられんことを祈るのであります。もしはたして臣のことばに、あやまりがありましたならば、刀鋸鼎鑊おもきつみを臣が身に加えたまえうんぬん」
 かきつけが上てんしされたということを聞いて、曾は氷を飲んだように、ぞっとしたが、幸いにして皇上てんしはお許しになり、上疏をおてもとに留めて発表されなかった。しかし続いて科道、九一四が、こもごも弾劾上奏したので、まえには門人と言い仮父おやぶんと称していた者さえ、顔をそむけるようになった。
 やがて、役人が調べに来た。曾がちょうどおおせを聞いて驚いていると、剣を帯び、戈を持った数十人の武士が、ずかずかと内寝いまにはいって来て、曾の衣冠をはぎとり、妻といっしょに縛りあげた。そして何人かの夫役が金を庭に運びだした。金、銀、銭、さつが数百万。真珠、翡翠、玉などが数百こくとばり、幕、簾、寝台などか数千点。子供のむつきから女のはきものまでが、庭の階段に投げだされているのを、曾はいちいち心をいため目を刺されるように見たのである。
 さらにまた、一人が美しい妾をとらえて来た。髪を乱して泣いている、玉のすがたの思い乱れたありさまを見て、悲しみの火が心を焼くのを、曾はがまんして黙っていた。
 やがて楼閣倉庫いえくらが封印されでしまうと、めつけの者はすぐに曾をしかりつけ、取り巻いて引きたてて行くので、夫婦は声をのんで就道たびに出た。ぼろ車でもよいから、とにかく歩く代わりにしたいと頼んだけれど、それも、手にはいらなかった。
 十里あまりを行くと、妻は足弱なので、ころびそうになるのを、曾はときどき片手で引きあい、また十里あまりを歩いた。そのために曾は、自分もすっかり、よわってしまった。
 ふと雲にとどくような高い山が見えた。とても越えることができまいと心配し、ときどき妻の手を引きながら向かいあって泣くのであった。けれども、監視の者は、こわい目をして見にくるばかりで、少しも停駐やすむことを許さなかった。
 夕日は、すでに落ちたが、投止とまるようなところもないので、しかたなく、よろよろと歩いて行った。そして山の腰まで来た時には、妻は、もう力が尽きたと見え、泣きながら路ばたにすわりこんだので、曾も憩止やすんで、監視の者のしかるままになっていた。
 すると、わいわい言いながら、手に手に鋭い刀を持った盗賊の一群がおどり出たので、監視の者たちは驚いて逃げてしまった。曾はひざまずいて、
 「遠くへ流されるもので、何も持っていません、どうぞ許してください」 と言うと群盗は裂眦まなじりいて、
 「おれたちは、みな、きさまのため年寄をこうむった冤民なんだ。ただ佞賊あくにんの頭さえ、もらえば、いいのさ。ほかに取るものはないんだ」
 と言うので、曾は怒って、
 「おれは罪を受けているが、朝廷の役人だ! 泥ぼうめ! なまいきな!」
 としかりつけると、賊は怒って、大きなおので曾の首を斬った。頭は地面に落ちて音がしたようにおもわれた。曾の魂が驚いていると、鬼が二匹来て、曾の手を持って追い立てて行った。数刻いくときか歩いて、ある都会にはいり、また、しばらく歩くと宮殿が見え、その中にはいると、殿上に一人の醜悪な形をした王さまが机によりかかって決罪福さいばんをしていた。曾は進み出て、平伏しておおせを受けたまわった。王さまは大きなほんを開き、二、三行見たばかりで、ひどく怒って左右の者に昔に言った、
 「君をあぎむき国を鳩やまった罪じゃ! かまゆでにいたせ」
 何万という鬼どもの群和こたえる声が雷のように響くと、大きな鬼が曾をさげて、だんの下にやってた。見ると、かなえの高さは七尺あまりもあり、まわりの熾炭すみびで、鼎の足はすっかり赤くなっていた、曾は恐れて泣き悲しんだけれど、逃げる路はなかった。そのうちに鬼は左手で髪をつかみ、右手でくるぶしを握って、骨を鼎に投げ入れた。からだが油の中で浮いたり沈んだりすると思うまに、皮や肉が焦灼やけて痛さが心にとおり、わきたった油が口からはいって肺腑がにえるような気がした。早く死にたいと思うが、どうしても死ぬことができなかった。かれこれ食事をするほどの時間がたつと、鬼は大きなさすまたで曾を取り出し、また堂の前にひきすえた。すると王さまは、また冊籍ちょうめんを調べて怒って言った、
 「勢いをたのんで、人をしのいだのじゃ! 刀山地款の苦しみを受けさせえ!」
 鬼は、また曾をさげて行った。見ると、一つの山があって、あまり広くはなかったが、壁のようにそびえ立っていた。そうして鋭い刃が縦横に乱れているありさまは、密生した筍のようであった。曾よりも先に何人かのものが、その上で腸をけられ腹を刺されていて、その泣き叫ぶ声は、あわれをとどめていた。鬼は登れと言って曾を促がした。曾がたいそう泣いてしりごみすると、鬼は毒錐であたまを刺すのだ。痛みに耐えながらあわれみを請うと、鬼は怒って曾をとらえ、空を望んで力まかせに投げた。からだが雲の上にあるかと思うまもなく、目がくらんで落ちてくると、刃がもう胸に刺さって、言いようのない痛さを感じた。そして、しばらくすると、からだの重みで、刀の穴が、だんだん広くなって、忽焉こつえんとぬけ落ちた。そこで、身をかがめていると、鬼は、また追いたてて、王の前につれて来た。王は会計に言いつけ、曾が、いままでに、官爵を売り、名誉をひさぎ、法律をまげ、財産をうばって手に入れた金銭は、何ほどかを調べさせた。すると、ひげの長い人が勘定して、
 「三百二十一万であります」
 と申しあげたので、王は、
 「彼が既積たくわえただけを飲ませい!」と命じた。
 しばらくすると、金銭を取りよせて、丘のように、階段に積みあげ、それを、つぎつぎと鉄のかまに入れて烈火でとかし、幾匹かの鬼に、かわるがわるひしゃくで曾の口にそそぎこませた。あごに流れると皮膚が臭く裂けただれ、のどにほいると臓腑が煮えかえった。生きている時には、この物の少ないことになやんでいたが、今はこの物の多いのに悩むのだった。
 半日たって、やっと口につぎこむ金銭がなくなると、王は曾を甘州に押送させて、女に生まれかわらせることにした。そこで、数歩いくあしか歩いて行くと、まわりが何尺かの鉄の梁がだいの上にのせてあって、それに一つの大きな輪がかかっていたが、その大きさは幾百由一五かれず、五色のほのおが出て、光が雲霄そらてらしていた。鬼が、なぐって輪に登らせるので、目をふさいで飛び乗ると、輪は足を動かすにしたがってまわっていたが、落ちたように思うとからだじゅうが涼しくなったので、目を開けてたら、自分は、もう嬰児あかごになっていた。しかも女の児なのである。父母は、ぼろをさげているし、室の中にひょうとつえとがあるので、こじきの子になったことが、わかった。毎日そのこじきについて拓鉢もらい歩いたが、いつも腹がごろごろ鳴って不得一飽かつえていたし、やぶれた着ものを着て風が曾を刺すのであった。
 十四の年、という秀才に売られて妾になったが、ただ着て、食っているというだけであった。その上、本妻がひどくわがままな人で、毎日、むちを持ってなぐるのを仕事にしていた。時には赤鉄やけがねで胸や乳をくことさえあった。しかし幸いなことに良人がたいそう優しい人で、かあいがってくれるので、多少は慰められた。
 あるとき東隣の悪少年が、垣を乗り越えて忍びこみ、言うことをきけと言ってせまった。しかし前世の悪孽つみで、あれほど鬼から責められたのだ、いまさら、なんでまた、そんなことかできようと思って、大きな声で叫んだ。その声を聞いて、良人も本妻も皆起きてきたので悪少年は逃げてしまった。
 それから、まもなく、秀才が自分の部屋に泊まらせてくれたので、寝ものがたりに、つらい境遇をはなしていると、ひどい音がして、部屋の戸が、ばっと開き、刀を待った二人の賊がはいって来て、物をも言わず秀才の首を斬り落とした。そして着ものや品物を、せっせとふくろに入れているので、よぎの中に丸くなって隠れたまま声も立てずにいたが、やがて賊が出て行ったので、どなって本妻のへやにかけこむと、本妻は驚いていっしょに泣きながら調べるのであった。調べているうちに妾が奸夫と謀って夫を殺させたのだろうと疑うようになって書面で勅史ちじに訴え出た。厳重な取り調べののち、酷刑の罪案さいばんがきまり、それは四肢を斬り放し、最後にのどを切る凌遅としう残酷な刑罰であった。罪もないのにこんな極刑を受けるかと思うと、うらみに胸がふさがるような気がした。刑場に行く途中も、足ぶみをして冤罪をとなえ、十八地獄でも、こんな闇はなかろうと思って、悲しみ叫んだ。すると、
 「きみ! うなされてるじゃないか」
 と言う声が聞こえた。友人の声であった。はっと目をさまして見ると、老僧はやはり座禅をくんでいるのであった。
 仲間が口々に、
 「日暮れになって腹がへったのに、どうして、いつまでも寝ているんだ」
 と言うので、曾が悲しげに起きあがると、老僧は笑って、
 「宰相の占いはしるしがあったかな?」
 と言った。曾は驚き怪しんで老僧を拝し、謹んで教えを請うと、僧は言った、
 「徳を修め仁を行なえば、火坑の中にも青蓮ありじや。わしには、わからん!」
 曾は来た時は得意であった。そしてがっかりして帰った。それから台閣しゅっせこころうすくなり、山にはいったまま、終わりがわからなかった。

  注

一 毘盧仏を本尊とした寺。
三 人の生年月日によって吉凶を占う星命術である。この術は、唐の季虚中に始まり宋の徐丁平によって完成されたので、術者を子平というようになった。
三 蟒袍玉帯、すなわち官吏の衣服である。
四 楚辞に、霊偃蹇、とある。挙がる形である。したがって傲慢を形容するようになった。
五 参遊は尉官ぐらい、千小把は準士官ぐらい。
六 六卿とは周礼の大事、大司徒、大宗伯、大司馬、大司寇、大司空のことであるが、ここでは、清時の吏、戸、礼、兵、刑、工部等の大臣と思えばよい。
七 わが主馬頭といったところ。
八 各官省を監視する官吏である。
九 唐の杜璡が、宰相李杜甫を弾劾して左遷されたとき、他の諫官たちを、立仗馬すなわち兵営に並んでいる馬のようだ、と罵倒した。爾来、畏れて物を言いえぬ人を、仗馬または立仗馬というようになった。
一〇 父は紫袍、児は朱袍をきるような身分になったのである。
一一 賈の髪を擢んで、賈の罪を数うるも、なお足らずと史記の范雎伝に出ている。
一二 奸臣という意味。秦の二世のとき、奸臣趙高が乱をおこそうと思って、群臣の自分に味方するかどうかを試みるため、鹿を二世に献上させて、これは馬であります、と言った。すると二世は笑って、丞相は、まちがっている、と言って、左右の者に、その方たちは、どう考える、とたずねた。あるものは黙っていた。あるものは趙高におもねって馬だと言った。あるものはまっすぐに鹿だと答えた。趙高は、鹿と答えたものを罪におとした。それから群臣はみな趙高を恐れて、その意に逆らうものがなくなった。
一三 あやまちを集めて罪におとす讒言言のしかたである。
一四 科道というのは、都察院の吏、戸、礼、兵、刑、工六科の給事中、各道の監察御史等のこと。九卿というのは都察院御史、通政司使、大理事卿および六部尚書のこと。
一五 由旬は、仏経中の里数で、大は八十里、中は六十里、小は四十里。

■原文

  續黃粱

福建曾孝廉、高捷南宮時、與二三新貴、遨遊郊郭。偶聞毘盧禪院、寓一星者、因並騎往詣問卜。入揖而坐。星者見其意氣、稍佞諛之。曾搖箑微笑、便問、
「有蟒玉分否。」
星者正容、
「許二十年太平宰相。」 曾大悅、氣益高。
 値小雨、乃與遊侶避雨僧舍。舍中一老僧、深目高鼻、坐蒲團上、偃蹇不爲禮。眾一舉手登榻自話、群以宰相相賀。曾心氣殊高、指同遊曰、
「某爲宰相時、推張年丈作南撫、家中表爲參、游、我家老蒼頭亦得小千把、於願足矣。」
一坐大笑。
俄聞門外雨益傾注、曾倦伏榻間、忽見有二中使、齎天子手詔、召曾太師決國計。曾得意疾趨入朝。天子前席、溫語良久。命三品以下、聽其黜陟。即賜蟒玉名馬。曾被服稽拜以出。入家、則非舊所居第、繪棟雕榱、窮極壯麗。自亦不解、何以遽至于此。然撚髯微呼、則應諾雷動。
俄而公卿贈海物、傴僂足恭者、疊出其門。六卿來、倒屣而迎。侍郎輩、揖與語。下此者、頷之而已。
晉撫餽女樂十人、皆是好女子。其尤者爲嫋嫋、爲仙仙、二人尤蒙寵顧。科頭休沐、日事聲歌。
一日、念微時嘗得邑紳王子良周濟我、今置身靑雲、渠尚蹉跎仕路、何不一引手。早旦一疏、薦爲諫議、即奉俞旨、立行擢用。
又念郭太僕曾睚眦我、即傳呂給諫及侍御陳昌等、授以意旨。越日、彈章交至、奉旨削職以去。恩怨了了、頗快心意。
偶出郊衢、醉人適觸鹵簿、即遣人縛付京尹、立斃杖下。接第連阡者、皆畏勢獻沃産。自此富可埒國。
無何而嫋嫋、仙仙、以次殂謝、朝夕遐想。忽憶曩年見東家女絶美、毎思購充媵御、輒以綿薄違宿願、今日幸可適志。乃使幹僕數輩、強納貲於其家。俄頃、藤輿舁至、則較昔之望見時、尤豔絶也。自顧生平、於願斯足。
又逾年、朝士竊竊、似有腹非之者。然各爲立仗馬。曾亦高情盛氣、不以置懷。
有龍圖學士包上疏、其略曰、
「竊以曾某、原一飲賭無賴、市井小人。一言之合、榮膺聖眷、父紫兒朱、恩寵爲極。不思捐軀摩頂、以報萬一。反恣胸臆、擅作威福。可死之罪、擢髮難數。朝廷名器、居爲奇貨、量缺肥瘠、爲價重輕。因而公卿將士、盡奔走於門下、估計夤緣、儼如負販、仰息望塵、不可算數。或有傑士賢臣、不肯阿附、輕則置之閒散、重則褫以編氓。甚且一臂不袒、輒迕鹿馬之奸。片語方干、遠竄豺狼之地。朝士爲之寒心、朝廷因而孤立。又且平民膏腴、任肆蠶食。良家女子、強委禽妝。沴氣冤氛、暗無天日。奴僕一到、則守、令承顏。書函一投、則司、院枉法。或有廝養之兒、瓜葛之親、出則乘傳、風行雷動。地方之供給稍遲、馬上之鞭撻立至。荼毒人民、奴隸官府、扈從所臨、野無靑草。而某方炎炎赫赫、怙寵無悔。召對方承於闕下、萋菲輒進於君前。委蛇才退於自公、聲歌已起於後苑。聲色狗馬、晝夜荒淫。國計民生、罔存念慮。世上寧有此宰相乎。内外駭訛、人情洶洶。若不急加斧鑕之誅、勢必釀成操、莽之禍。臣夙夜祗懼、不敢寧處、冒死列款、仰達宸聽。伏祈斷奸佞之頭、籍貪冒之産、上回天怒、下快輿情。如果臣言虛謬、刀鋸鼎鑊、即加臣身。」云云。
疏上、曾聞之、氣魄悚駭、如飲冰水。幸而皇上優容、留中不發。又繼而科、道、九卿、交章劾奏。即昔之拜門牆、稱假父者、亦反顏相向。
奉旨籍家、充雲南軍。子任平陽太守。
已差員前往提問。曾方聞旨驚怛、旋有武士數十人、帶劍操戈、直抵內寢、褫其衣冠、與妻並繫。俄見數夫運貲於庭、金銀錢鈔以數百萬、珠翠瑙玉數百斛、幄幕簾榻之屬、又數千事、以至兒襁女舄、遺墜庭階。曾一一視之、酸心刺目。
又俄而一人掠美妾出、披髮嬌啼、玉容無主。悲火燒心、含憤不敢言。
俄樓閣倉庫、並已封誌。立叱曾出。監者牽羅曳而出。夫妻吞聲就道、求一下駟劣車、少作代步、亦不得。
十里外、妻足弱、欲傾跌、曾時以一手相攀引。又十餘里、己亦困憊。
歘見高山、直插霄漢、自憂不能登越、時挽妻相對泣。而監者獰目來窺、不容稍停駐。
又顧斜日已墜、無可投止、不得已、參差蹩躠而行。比至山腰、妻力已盡、泣坐路隅。曾亦憩止、任監者叱罵。
忽聞百聲齊譟、有群盜各操利刃、跳梁而前。監者大駭、逸去。曾長跪、言、
「孤身遠謫、囊中無長物。」
哀求宥免。群盜裂眦宣言、
「我輩皆被害冤民、祇乞得佞賊頭、他無索取。」
曾叱怒曰、
「我雖待罪、乃朝廷命官、賊子何敢爾。」
賊亦怒、以巨斧揮曾項。覺頭墮地作聲、魂方駭疑、即有二鬼來、反接其手、驅之行。
行逾數刻、入一都會。頃之、睹宮殿。殿上一醜形王者、憑几決罪福。曾前、匐伏請命。王者閱卷、纔數行、即震怒曰、
「此欺君誤國之罪、宜置油鼎。」
萬鬼群和、聲如雷霆。即有巨鬼捽至墀下。見鼎高七尺已來、四圍熾炭、鼎足盡赤。曾觳觫哀啼、竄蹟無路。鬼以左手抓髮、右手握踝、抛置鼎中。覺塊然一身、隨油波而上下。皮肉焦灼、痛徹於心。沸油入口、煎烹肺腑。念欲速死、而萬計不能得死。約食時、鬼方以巨叉取曾、復伏堂下。王又檢冊籍、怒曰、
「倚勢凌人、合受刀山獄。」
鬼復捽去。見一山、不甚廣闊。而峻削壁立、利刃縱橫、亂如密筍。先有數人罥腸刺腹於其上、呼號之聲、慘絶心目。鬼促曾上、曾大哭退縮。鬼以毒錐刺腦、曾負痛乞憐。鬼怒、捉曾起、望空力擲。覺身在雲霄之上、暈然一落、刃交於胸、痛苦不可言狀。又移時、身驅重贅、刀孔漸闊。忽焉脱落、四支蠖屈。鬼又逐以見王。王命會計生平賣爵鬻名、枉法霸産、所得金錢幾何。即有鬡鬚人持籌握算、曰、
「三百二十一萬。」
王曰、
「彼既積來、還令飲去。」
少間、取金錢堆階上、如丘陵。漸入鐵釜、鎔以烈火。鬼使數輩、更以杓灌其口、流頤則皮膚臭裂、入喉則臟腑騰沸。生時患此物之少、是時患此物之多也。
半日方盡。王者令押去甘州爲女。行數步、見架上鐵梁、圍可數尺、綰一火輪、其大不知幾百由旬、燄生五采、光耿雲霄。鬼撻使登輪。方合眼躍登、則輪隨足轉、似覺傾墜、遍體生涼。開目自顧、身已嬰兒、而又女也。視其父母、則懸鶉敗焉。土室之中、瓢杖猶存。心知爲乞人子。日隨乞兒托缽、腹轆轆然常不得一飽。著敗衣、風常刺骨。
十四歲、鬻與顧秀才備媵妾、衣食粗足自給。而冢室悍甚、日以鞭箠從事、輒以赤鐵烙胸乳。幸而良人頗憐愛、稍自寬慰。
東鄰惡少年、忽踰垣來逼與私。乃自念前身惡孽、已被鬼責、今那得復爾。於是大聲疾呼、良人與嫡婦盡起、惡少年始竄去。居無何、秀才宿諸其室、枕上喋喋、方自訴冤苦。忽震厲一聲、室門大闢、有兩賊持刀入、竟決秀才首、囊括衣物。團伏被底、不敢復作聲。既而賊去、乃喊奔嫡室。嫡大驚、相與泣驗。遂疑妾以奸夫殺良人、因以狀白刺史。刺史嚴鞫、竟以酷刑罪案、依律凌遲處死、縶赴刑所。胸中冤氣扼塞、距踊聲屈、覺九幽十八獄、無此黑黯也。正悲號間、聞遊者呼曰、
「兄夢魘耶。」
豁然而寤、見老僧猶跏趺座上。
同侶競相謂曰、
「日暮腹枵、何久酣睡。」
曾乃慘淡而起。僧微笑曰、
「宰相之占驗否。」
曾益驚異、拜而請教。僧曰、
「修德行仁、火坑中有靑蓮也。山僧何知焉。」
曾勝氣而來、不覺喪氣而返。臺閣之想、由此淡焉。入山不知所終。
異史氏曰、
「福善禍淫、天之常道。聞作宰相而忻然於中者、必非喜其鞠躬盡瘁可知矣。是時方寸中、宮室妻妾、無所不有。然而夢固爲妄、想亦非真。彼以虛作、神以幻報。黃粱將熟、此夢在所必有、當以附之邯鄲之後。」

2014/05/03

Ⅴ 附言 (1)原典の祖型である六朝志怪 / (2)沈既済「枕中記」について

(1)原典の祖型である六朝志怪
 先の注で述べた通り、芥川龍之介の「黄梁夢」のこの原典「枕中記」は、「太平広記」巻二八三の「引幽明録」に載る以下のたった百四字から成る六朝志怪を更なる原典としていると考えられることが魯迅によって指摘されている(「中国小説史略」第八篇及び第五篇参照)。以下の原文はネット上の魔人姿氏(中国人の方と思われる)のこちらのブログにあるものを加工させて戴いた。訓読文は「枕中記」底本の乾氏の解説にあるものを参考にし、現代語訳は先の「中国古典小説選5」の巻末論文「唐代伝奇について」及び魯迅著中島長文訳注「中国小説史略」(平凡社一九九七年刊)を参考にした。
   *


〇原文

宋世、焦湖廟有一柏枕。或云、玉枕。枕有小坼。時單父縣人楊林爲賈客、至廟祈求。廟巫謂曰、君欲好婚否。林曰、幸甚。巫卽遣林近枕邊。因入坼中、遂見朱樓瓊室。有趙太尉在其中。卽嫁女與林。生六子、皆爲祕郞歷數十年、幷無思歸之志。忽如夢覺、猶在枕旁。林愴然久之。

 

〇やぶちゃんの書き下し文

 宋の世、焦湖廟せうこべうに一つのはくの枕有り。或いは云ふ、玉の枕なりと。枕に小坼せうたく有り。時に單父縣ぜんぽけんの人、楊林、賈客かかくたり、廟に至り祈求きぐす。廟巫べうふ、謂ひて曰く、
「君は好婚を欲するや否や。」
林曰く、
「幸甚なり。」
巫、卽ち林をして枕邊まくらべに近づかしむ。因りて坼中たくちゆうに入り、遂に朱樓瓊室けいしつを見る。趙太尉てうたいいの其の中に在る有り。卽ち女を嫁して林に與ふ。六子を生み、皆、秘書郞と爲る。數十年をるも、幷びに歸らんことを思ふの志し無し。こつとして夢の覺むるがごとくして、猶ほ枕のかたはらに在り。林、愴然さうぜんたること、之れ久しうす。

〇語注
・「宋の世」紀元前一一〇〇年頃~紀元前二八六年。周・春秋・戦国時代に亙って存在した国。都は商丘。周公旦が殷の紂王の異母兄微子啓を封じた国。都は商丘(現在の河南省)。斉・楚・魏の三国によって滅ぼされた。
・「焦湖廟」「焦湖」は現在の安徽省巣湖そうこ市で、巣湖という大きな湖の西端に位置する。そこにあった道教の廟。後に出る林の故郷「單父縣」からは直線距離で南南東約三六七キロメートルに相当する。
・「柏」中国ではヒノキ Chamaecyparis obtuse に代表される裸子植物門マツ綱マツ目ヒノキ科 Cupressaceae や同科のコノテガシワ属 Platycladus 等の常緑樹に対する総称。本邦の双子葉植物綱ブナ目ブナ科コナラ属コナラ亜属 Mesobalanus 節のカシワ Quercus dentate とは異なる。ここでは「ひのき」と訓じておいた。
・「小坼」「坼」は裂け目・罅で、小さな亀裂を指す。
・「單父縣」現在の山東省菏沢かたく市単県。
・「趙太尉」古代の官名。秦と漢初までは武官の最高の者「尉の大なる者」の意(漢の武帝以後は大司馬に変わり、後漢では三公の首に置かれた)。
・「祕書郞」既注。秘書省校書郎の略で宮中の図書を官吏する官。

〇やぶちゃん現代語訳


 六朝は宋の世、焦湖廟しょうこびょうの中に一箇のひのきの木で製せられた――或いは玉製の枕とも――安置されてあった。その枕には小さな裂け目があった。
 ある時のこと、単父ぜんぽ県の楊林という人物――彼は旅商人であった――が廟に参って願掛けをした。
 すると廟の巫女みこが出て来て、林に、
「あなたさまは幸せな結婚をお望みなのでは御座いませぬか?」
と訊ねた。
 林は図星であったので正直に、
「そうなれば、これは甚だ結構なことで御座います。」
と答えた。すると巫女はすぐに林をかの枕辺に近づかせた。
 すると……忽ちのうちに林の体は小さくなって……そのまま……すうっと……裂け目の中に入ってしまった。……
……するとそこに、忽然と、朱塗りの楼閣や玉で飾った美しい部屋が現れるのを見た。
 そこには趙太尉がおられた。そしてすぐに自分の娘を林に逢わせると、その場で林に嫁がせた。
 女は六人の子を生み、皆、秘書郎となった。
 林は数十年を経ても、故郷単父へ帰ろうという思いは起らなかった。――
――と
……ふっと夢から醒めたような気がしたが……
……気がつけば……さっきの……その焦湖廟の枕の傍らに立っていた自分を見出した。…………
 それより永く、林は、哀しみにうちひしがれていた、という。
   *
 これを読むと、こうした志怪小説という形をとる以前に、実はさらなるプロトタイプとしての地方の博物誌としての「不思議な枕」の話が元にあったものではないかと思われる。また林の夢人生は廬生のそれとは異なり、一貫して幸福に満ちたものであり、幻想的な遊仙譚の域を出ないが、不思議な枕というアイテム、その裂け目と両端の孔を異界への通路とする設定、至福の婚姻と子らの出世を綴る辺りを見れば、「枕中記」が確信犯でこれをインスパイアしたと考えてよい。

(2)沈既済「枕中記」について
 (1)の分量の実に十倍(「中国古典小説選5」の巻末論文「唐代伝奇について」に拠れば実に総字数千百三十七字である)膨れ上がった「枕中記」の最大の特徴は、史家沈既済の面目躍如たる夢時間内での虚実皮膜とも言うべき廬生一代記の驚くべき緻密さであろう。実際にはこの私のページを読む多くの読者は、注の煩瑣に退屈される方が多いと想像する。夢オチなのだから実際に地名や実在人物や事件や出来事を検証する必要は実際にはないと感じるであろうし、悲愴な自己拘束をかけた専門の研究者ででもない限り、真剣に語注を読もうとも思うまい(曾ての若き日の私も似たり寄ったりだったことをここに告白する。私は今回のこの電子化評釈で初めて「枕中記」を精読したという気がしている)。しかし、この廬生の事蹟はまさに司馬遷の時代からこの唐代至るまで多くの士官の文学者たちが目の当たりにしてきた、波瀾万丈の、そしてそれ以上数奇にして悲劇的な士大夫階級の現実であったことを、沈は自らの失脚左遷や自身を推挙してくれた上司楊炎の暗殺といった体験の中に痛感していた。今村氏の注の最後には、『作者沈既済が、楊炎の失脚という切実な出来事をからませた政治批判という読み方もなされている(卞孝萱)』(卞孝萱べんこうけん 一九二四年~二〇〇九年:元南京大学中文系教授。文学博士)。『唐代、一種の官界出世双六の要素もあって、広く愛読され、李肇』(りちょう 生没年未詳:唐代の翰林学士。)の書いた「唐国史補(下)」『では、韓愈の「毛頴伝」』(「もうえいでん」と読む。文宝の筆を始皇帝に仕えた人物として擬人化し、その一生を歴史書風に真面目腐って書いた文章である)『とならべておりあげ、唐末の詩人房千里』(生没年未詳)『も、この作品を『列子』とともにとりあげて、作者の本意とは逆に、夢の快楽をそこに見出している』とあって、その読みが古来、多様になされてきたことが分かる。
 「中国古典小説選5」の巻末論文「唐代伝奇について」(これは恐らく黒田真美子氏の執筆になるものと思われる)の本作の構成の上手さを簡潔に記しているが、特にその中でも最終局面の夢の部分から現実へ帰還する部分の卓抜した妙味を述べている部分を是非引いておきたい(引用文中の武田泰淳の末尾には注記号があり、それが勁草書房一九七〇年刊の「黄河海に入りて流る」からであること注されてある)。
   《引用開始》
最後に、上奏文と詔勅が認められているが、この帝への礼を記した併催体の上奏文とそれに答える帝からの見舞いの詔(みことのり)は史官としての沈既済の文才を示して、面目躍如である。だがそのものものしさのすぐあとに「――〈廬生はあくびをして、目をさました〉とつづく絶妙の効果。加うるに〈人生の楽しみとは、こんなもんじゃ〉と老人がつぶやく一語で、廬生と天子が交換した公文章の虚飾は一気にひきはがされるではないか」と武田泰淳は、「唐代伝奇小説の技術」という短文で指摘する。沈既済の価値観が正にここに集約されているといえよう。また、夢の世界と、最初と最後の現実世界との時間の相違を「黍を蒸す」時間を用いて際立たせている。楊林の話にはこの点も欠けているが、これによって現実世界のリアリティが格段に高まり、パラドクシカルな意味で「幻設」が確立するのである。
   《引用終了》
 この武田泰淳の指摘は、沈が本作で最も力を入れて書き、しかも作品のテーマとも直結するキモを剔抉して実に美事である。
 また、同論文はこの直後の部分で総括的に『六朝志怪を祖型としつつも、唐代伝奇は右の如く、作者の存在が大きな意味を持ち、作者の創意の下に時空を備えた虚構世界が構築されていることを認め得よう。また志怪的要素を含んでいてもそこに比重があるのではなく、描こうとするのは人間である。それも生身の欲望や感情を有した個性ある人間を。伝奇における怪異は人間というこの不思議な存在を照し出す鏡にしか過ぎ』ないものであったという鋭い指摘をしている。私は正にその伝統を現代に蘇らせたのが芥川龍之介の「杜子春」であり、この「黄梁夢」であり、そしてそれに続く人間李徴の物語としての「山月記」であったと思うのである。
 「枕中記」一巻の最大のテーマを私は、
人間にとっての「人生の適」=「生きることのまことの悦び」=
そして、その「生」は同時に連続する「死」と一体のものでもあるがゆえに、
「人の生き死に於ける真の自由」とは何か?
という哲学的な問題提起であると考えている。そうして、史書の列伝のような圧縮率の高い夢記述に対して額縁を成すところのこの前後の部分の内、この冒頭の呂翁と廬生の問答形式のシークエンスが何か妙に細かく丁寧な描写となっているのである。「枕中記」は単に「人生これ夢の如し」といった如何にもなテーマなんぞではない。
 夢の中の廬生は一見最終的に、家庭と子孫と権力という総ての社会的幸福の頂点に達して大往生を遂げたように見える。しかし私は、それは見えるだけであって、その夢を見た廬生はそのバーチャルに体験した自己の欲望によって構成演出された自作自演の壮大な叙事詩に、目覚めたその瞬間、大きな空虚感を抱いているのである。でなくして、どうして暫くの間、「憮然」(意外なことに驚き、呆れて)として、次に鮮やかに「此れ、先生の吾が欲を窒ぐ所以なり」! と 歓喜に転ずることが出来よう?
 廬生は夢の中の自身の波瀾万丈の人生に、愛欲・野望・賞賛・猜疑・嫉妬という螺旋の中で行われる、人の欲望に付随する信不信のプラスとマイナスのエネルギーの絶望的な熱交換を知り、結局、その果てに冷却収縮萎縮し、遂には単なる点としてゼロへと収束していくだけの己れの姿、
欲にとらわれた多くの人間の模式を――
人生的時間の中での連続する欲望の徒労という真実を感得した――
のであると信じて疑わないのである。その観点から前半部を見ると、この「適」の字が字背の骨のように配されていることが分かる。全部で八箇所であるが、私は寧ろ、テーマの意味ではない用法としてプレに使用される、廬生が初めて馬に乗って登場する「將適于田」の「適」、及び如何にも心から楽しんで呂翁と談笑するシーンの「談諧方適」に着目する。そもそも何故、呂翁は廬生に目を留めたのか? それはまさに青馬に跨って悠然泰然として「行く」凛々しい青年廬生(三十歳ではあるが)の姿に惹かれたからに違いない。道士が人に惹かれるのは、その人物が仙骨を持っていることを絶対条件とする。とすれば、この美しい廬生の馬に乗って野良仕事へ向かってく姿は呂翁にとってまさに「生死に於ける真の自由」を知り得る仙骨を持った人物(教化の候補者)と映ったのだとしか考えられない。そしてそのプエル・エテルヌス、永遠の少年の面影を持つ彼と茶を喫し、語り、呂翁は、そこで如何にもまさに「のびのびとした自由な」彼の人柄に触れた。だからこそ二人は「心から楽しんで談笑する」のである。そうして呂翁は廬生を教化に値する人物と認定、愚痴を零した彼に対して「談諧方に『適』するに」(今さっきまで面白おかしく喋っておったに)、何がお前の「適」じゃ? と水を向けるのである。この二つの「適」の用字をプレに用いているのは私は偶然ではないと思う。その証拠に、夢記述部分には「適」の字は一切使用されず(それは夢の中の廬生の人生には実は「適」はないという暗示でもあると私は思っている。そもそも廬の見る夢をこれが仙術である以上、呂翁は実は事前に知っているのである。そうしてもしその夢が本当に呂翁が最初に言っているような廬にとって正しく「當に子をして、榮適、志しのごとくならしむべし」というものであったなら、その夢記述の中に「適」の字は用いられるのが当然である。それが出ないのは、とりもなおさず、廬生の欲に基づく夢人生には微塵も真の「適」はないという証左なのである)、再度使用されるのは実にコーダの呂翁の決め台詞「人生のてき、亦、是くのごとし。」一度きりなのである。
 なお、この「枕中記」はその後、多くのインスパイア作品を生んでおり、知られたものでは元の馬致遠「邯鄲道省悟黄梁夢雑劇」・明の湯顕祖「邯鄲記」(劇)・清の蒲松齢「続黄粱」、本邦では世阿弥の謡曲「邯鄲」恋川春町の「金々先生栄花夢きんきんせんせいえいがのゆめ」(但し、田舎出の若者が目黒の粟餅屋で寝入るうち、富商の養子に迎えられて金々先生と呼ばれるお大尽となって吉原や辰巳で栄華な生活を送るも、悪手代や女郎に騙されて元の姿で追い出されるという夢を見て人生を悟るというパロディ)、そして芥川龍之介の本作と、そうした過去のインスパイア作品を換骨奪胎してしかも現代劇に改造した三島由紀夫の「近代能楽集」の巻頭を飾る「邯鄲」などが挙げられる。
 最後に一言、個人的な思い出綴っておく。
 私はこの「枕中記」を、富山県立伏木高等学校二年の時の漢文の授業で中年の国語教師蟹谷徹先生から初めて聴いた時のことが忘れられない。先生は巧みな話術で面白おかしく志怪や伝奇をよく話して下さったものだった。その中でも「牡丹燈記」に次いで面白かったのが、まさにこの「枕中記」であった。ところが先生の「枕中記」は結末がちょっと違うのだ。廬生は高位高官に上り詰めるのだが、冤罪によって失脚し、遂には斬罪に処せられてしまうのである。先生の廬生は刑場に引きずられて行く途中も、情けなく「死にとうない! 死にとうない!」と喚き、断頭台の木の切株の上に首を横たえさせられると、「あらあっ! こんなんやったら、邯鄲の田舎で百姓やっとった方がなんぼかましやった!」と富山弁で叫ぶのである。最後に首切り役人が振りおろした、ぶっとい剣の刃が(蟹谷先生はちゃんと黒板に青銅製の中央に峯のあるごっつい剣の絵を描いて「これは刃は鈍いからぶちっ! と押し切るんですね!」と如何にも楽しそう説明された)それが廬生の首筋に――ピタッ!――と触れた瞬間――廬生は目醒める――というのが蟹谷本「枕中記」であったのだ。私は授業が終わると早速に図書室に行って二冊ほどの唐代伝奇をはぐったのだが、今さっき、先生の演じられた最も印象的なそこが――ない――私はその日の放課後、廊下ですれ違った先生にそのことを尋ねてみた。不思議に明るいブルーの瞳(無論、先生は日本人なのだが不思議に虹彩の色がそうだったのだ)を少年のようにキラッとさせて、「そうやったけ? 変んやねえ?」と言いながらも、何故か先生はずっと黙って私の顔を見て笑っておられた――そう――呂翁のように――私はあの、スリリングな感動物の蟹谷本「枕中記」を――今も探しているのである……
[やぶちゃん附注:自分にとってはいささか無粋な附注なのだが、実は今回、いろいろと渉猟するうちにこの先生のネタもとではないかと思われるものが分かってしまった。これは恐らく先に掲げた「枕中記」のインスパイアである、清の蒲松齢の「聊斎志異」に載る「続黄粱」を「枕中記」の後半にすり替えたものと思われる。「続黄粱」は「続」とあるが、続編という体裁ではなく、別箇な作で、主人公も「曾」という名の、とんでもないはねっかえり者である。しかもその夢中での展開は「枕中記」とは似ても似つかぬもので、佞臣となった曾は爛れきった栄華の頂点から転落の一途を辿り、果ては山賊に殺されて地獄のさんざんな責め苦を受け、最後に女に転生してしかも冤罪で惨たらしい凌遅刑に処される。既にお気づきのことと思われるが、実はこの展開は寧ろ李復言の「杜子春傳」の方に酷似しており、蒲松齢自身が確信犯で「枕中記」と「杜子春傳」をカップリングしたものと思われる(リンク先は私の電子テクスト)。今回、この評の公開に先立ち、私の偏愛する角川文庫版の鬼才柴田天馬氏の訳「続黄梁」をブログに公開したのでお読み戴きたい。――にしても流石は蟹谷先生、面白さのツボ(夢覚醒のシーンとしてはこれに勝るものはないと私は思っている)を心得ていらっしゃった。やっぱりこれは私を志怪へと導いて下さった呂蟹谷翁ろけいこくおうの卓抜な呂蟹谷本「枕中記」なのだという思いは全く変わらないのである。――]

 

「枕中記」原文+訓読文+語注

【2016年9月18日完全版公開告知】

不完全な公開であったここにあったものは、その完全版

黃粱夢   芥川龍之介
 
       附 藪野直史注
       附 原典 沈既濟「枕中記」全評釈
       附 同原典沈既濟「枕中記」藪野直史翻案「枕の中」 他
 

 

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公開し直してある。リンクをクリックして、そちらでお読みあれかし。

但し、データ量厖大なれば――御覚悟――あれ!

黄粱夢   芥川龍之介



 盧生ろせいは死ぬのだと思つた。眼の前は暗くなつて、子や孫のすゝり泣く聲が、だんだん遠い所へ消えてしまふ。さうして、眼に見えない分銅ふんどうが足の先へついてゞもゐるやうに、體が下へ下へと沈んで行く――と思ふと、急にはつと何かに驚かされて、思はず眼を大きく開いた。
 すると枕もとには依然として、道士だうし呂翁ろをうが坐つてゐる。主人のかしいでゐた黍も、未だに熟さないらしい。盧生は靑磁せいじの枕から頭をあげると、眼をこすりながら大きな欠伸をした。邯鄲かんたんの秋の午後は、落葉した木々の梢を照らす日の光があつてもうすら寒い。
 「眼がさめましたね。」呂翁は、髭を嚙みながら、笑をみ殺すやうな顏をして云つた。
 「えゝ――」
 「夢をみましたらう。」
 「見ました。」
 「どんな夢を見ました。」
 「何でも大へん長い夢です。始は淸河せいか崔氏さいしむすめと一しよになりました。うつくしいつゝましやかな女だつたやうな氣がします。さうしてあくる年、進士しんしの試驗に及第して、渭南ゐなんの尉になりました。それから、監察御史かんさつぎよし起居舍人知制誥ききよしやじんちせいかうを經て、とんとん拍子に中書ちうしよ門下平章事へいしやうじになりましたが、ざんを受けてあぶなく殺される所をやつと助かつて、驩州くわんしうへ流される事になりました、其處に彼是五六年もゐましたらう。やがて、えんを雪ぐ事が出來たおかげで又召還され、中書令になり、燕國公えんこくこうに封ぜられましたが、その時はもういゝ年だつたかと思ひます。子が五人に、孫が何十人とありましたから。」
 「それから、どうしました。」
 「死にました。確か八十を越してゐたやうに覺えてゐますが。」
 呂翁は、得意らしくあごひげを撫でた。
 「では、寵辱ちようじよくの道も窮達きうたつうんも、一通りは味はつて來た譯ですね。それは結構な事でした。生きると云ふ事は、あなたの見た夢といくらも變つてゐるものではありません。これであなたの人生の執着も、少しは熱がさめたでせう。得喪とくさうの理も死生の情も知つて見れば、つまらないものです。さうではありませんか。」
 盧生は、ぢれつたさうに呂翁の語を聞いてゐたが、相手が念を押すと共に、靑年らしい顏をあげて、眼をかゞやかせながら、かう云つた。
 「夢だから、猶生きたいのです。あの夢のさめたやうに、この夢もさめる時が來るでせう。その時が來るまでの間、私はしんに生きたと云へる程生きたいのです。あなたはさう思ひませんか。」
 呂翁は顏をしかめた儘、然りとも否とも答へなかつた。



■やぶちゃん注
 最初に「Ⅰ 字注」、次に禁欲的に附した「Ⅱ 語注」を掲げ、次に「Ⅲ 原典」として沈既濟撰の「枕中記」原文・書き下し文・語注をシークエンスごとに附し、「Ⅳ やぶちゃん訳」として私の一部に翻案を施した現代語訳を附した。最後に「Ⅴ 附言」として「枕中記」の祖型である六朝志怪の原文・語注・書き下し文、及び「枕中記」と芥川龍之介の「黄梁夢」についての諸家評その他を簡潔に附した。

Ⅰ 字注
(1)『「眼がさめましたね。」呂翁は、髭を嚙みながら、笑をみ殺すやうな顏をして云つた。』の部分のルビはママで、前にある「髭を嚙みながら」の方にはルビはない。単なる見逃しによるルビの打ち違いとも思えるが、一つの可能性としては、こっちを「髭をみながら」と訓じている可能性を否定は出来ないということだけは言っておきたい。
(2)底本後記にある校異を以下に示しておく。
〇第二段末
(底本)
……眼をこすりながら大きな欠伸をした。邯鄲の秋の午後は、落葉した木々の梢を照らす日の光があつてもうすら寒い。
(初出)
……眼をこすりながら大きな欠伸をした。日があつても、うすら寒い。
〇最後の呂翁の台詞
(底本)
……これであなたの人生の執着も、少しは熱がさめたでせう。
(初出)
……これであなたの人生の執着も、熱がさめたでせう。
〇同
(底本)
得喪の理も死生の情も知つて見れば、つまらないものです。
(影燈籠)
得喪の理も死生の情も知つて見れば、つまらないものなのです。
〇最終行
(底本)
呂翁は顏をしかめた儘、然りとも否とも答へなかつた。
(初出)
呂翁は顏をしかめて、答へなかつた。

Ⅱ 語注
・「黄粱」単子葉植物綱イネ目イネ科キビ亜科キビ連エノコログサ属アワ Setaria italica 。五穀の一つ。東アジア原産で高さ一~二メートル、エノコログサ Setaria viridis を原種とするといわれ、エノコログサとの交雑もよく生ずる。穂は黄色に熟し、垂れ下がる。参照したウィキの「アワ」によれば、『中国の華北・中原において、黄河文明以来の主食は専ら粟米(谷子)であり、「米」という漢字も本来はアワを示す文字であったといわれている』。『また、隋唐で採用された税制である租庸調においても、穀物』『を納付する「租」は粟で納付されるのが原則(本色)であった』。『これに対して、華南では稲米は周の時代から栽培が盛んになった』。『青海省民和回族トゥ族自治県の喇家遺跡では、およそ』四千年前の『アワで作った麺が見つかっており、現在、世界最古の麺といわれている。だが、連作や二毛作を行うと、地力を損ないやすいことや、西域から小麦が伝わってきたこととも相まって、次第に主食の地位から転落することになった。しかし、現在でも中国では粟粥などにして、粟を食べる機会は多い。また、「鉄絲麺」という、最古の麺と同じような麺類を作る地方もある』とある。本邦『では米より早く栽培が始まり、縄文時代の遺跡からも発掘されることがある。また、新嘗祭の供物としても米とともにアワが用いられ、養老律令にも義倉にアワを備蓄するように定められており』「清良記」(軍記物。江戸初期に成立した伊予国宇和郡の武将土居清良の一代記。日本最古ともされる農書としての記述を含むことで知られている)など『にもアワについての解説が詳細に載せられているなど、古くから、ヒエとともに、庶民にとっての重要な食料作物だった』。『だが、第二次世界大戦後には生産量が激減した。日本でもかつてはアワだけを炊いたり、粥(粟粥)にして食べていたが、現在は、米に混ぜて炊いたり、粟おこしとしたりするほか、クチナシで黄色に染めて酢じめしたコハダなどの青魚とあわせた粟漬を正月料理として食べる程度である。また、主食用であったうるちアワよりも、菓子や餅(粟団子や粟餅など)、酒などの原料として用いられてきたもちアワの方が多く栽培されている。家畜、家禽、ペットの飼料としての用途の方が多い』。栄養価としては糖質七〇%・蛋白質一〇%・ビタミンB群を含、お。『鉄、その他のミネラルや食物繊維も豊富なため、五穀米などにして食べる方法が見直されている』ともある。
・「呂翁」八仙の一人として知られた呂洞賓りよどうひんを想起させる名ではあるが、原典である唐代伝奇の「枕中記」では時代設定を開元七(七一九)年とし、以下に示す呂の生年とされる時よりも七十五年も昔である。しかし、ウィキの「呂洞賓」によれば、『名を喦(巌、巖、岩とも書く。煜という説も)といい、洞賓は字である。号は純陽子。純陽真人とも呼び、或いは単に呂祖(りょそ)とも呼ばれる。唐の貞元14年(794年)4月14日に、蒲坂(現在の山西省芮城県)永楽鎮で生まれた。祖父は礼部侍郎の呂渭、父は海州刺史の呂譲』。『師は鍾離権であり、終南山で秘法を授かり、道士となったとされる。その姿は背に剣を負った書生で、青年あるいは中年男性として描かれる』とした後に、『幼い頃から聡明で、一日に万言を記したという。身長8尺2寸』(約2メートル48センチ)、『好んで華陽巾』(正しくは九転華陽巾といい、道士の被る特殊な冠である。ウィキの肖像図の被っているものか)『を被り、黄色の襴衫』(らんさん:唐や宋の頃に着用された裾縁(すそべり)のある着物。グーグル画像検索「襴衫」参照。)『を着て、黒い板をぶら下げていた。20歳になっても妻を娶ろうと』せず、『出世を目指し、科挙を二回受けたが、落第してしまう。長安の酒場にて、雲房と名乗る一人の道士(鍾離権)に出逢い、修行の誘いを受けるが、出世の夢が捨て切れず、これを断った』が、この時、『鍾離権が黄粱を炊いている間、呂洞賓はうたた寝をし、夢を見る。科挙に及第、出世し、良家の娘と結婚し、たくさんの子供をもうけた。そうして40年が過ぎるが、ある時重罪に問われてしまい、家財を没収され、家族は離れ離れとなり、左遷されてしまう』――が――『そこで目が覚めるが、まだ黄粱は炊けていなかった。俗世の儚さを悟り、鍾離権に弟子入りを求めると、十の試練』(リンク先に詳述されている)『を課されることとなる。これを見事こなした呂洞賓は、晴れて鍾離権の弟子となり、しばし修行した後、仙人となった』と伝えるのであるが、まさに『この話は、故事「黄粱の夢」酷似している。また、この「黄粱の夢」に登場する呂翁が呂洞賓のことであるともされる』とし、さらに「八仙得道伝」「八仙東遊記」などの『明や清の章回小説においては、呂洞賓は鍾離権の師である東華帝君の生まれ変わりである、という記述が多く見られる』と続く。そもそもこうした転生説や異なった時代を自在に行き来するのは仙人の朝飯前であるから、私がこの「呂翁」を呂洞賓がモデルだと言っても、強ち時代錯誤も甚だしいなんどと言われる筋合いの話でもないんである。なお、「枕中記」の作者である沈既濟は乾一夫氏の考証(後掲する原典の底本に載る)によれば、玄宗の天宝年間(七四二年~七五五年)かそれより少し前に生まれ、代宗(在位は七六二年~七七九年)の末から徳宗(在位七八〇年~八〇四年)の頃に活躍した人物であるから(官吏にして歴史家で最終官位は礼部員外郎。御多分に漏れず、その人生では「黄梁夢」ではないが推薦者の処罰に連座して左遷も経験している)、まさに仙人呂洞賓とは同時代人であったものの、微妙に前の生まれであるし、呂洞賓伝説はもっとずっと後に形成されたものと考えられるから、沈自身が彼をモデルとした可能性は全くないとは言える。
・「熟さない」「熟す」には、固まっているものを細かく砕くという意がある。蒸し炊いているきびが未だやわらかく煮えていない、の謂いである。
・「邯鄲」現在の河北省南部の地名。以下、ウィキの「邯鄲市」によれば、神話では女媧が邯鄲の古中皇山で粘土を捏ねて人を作ったという。一万年前には既に旧石器文化が存在しており、古えより人類の活動のあった場所ではあった。『都市が形成されたのは殷代であり、殷初には邢(現在の邢台市)、後に殷(現在の安陽市)に都城が設けられ、邯鄲は畿内とされていた。『竹書紀年』には殷末の帝辛(紂王)が邯鄲に「離宮別館」を建設したという記載がある』。戦国時代は趙の都であったが、『前228年(秦始皇19年)、秦軍が邯鄲を攻撃、趙王は秦に降伏し邯鄲は秦国の版図とされ、前221年(秦始皇26年)には秦が趙を滅ぼし、翌年に中国統一を達成すると、邯鄲県が設置され邯鄲郡の郡治とされた。秦末に発生した陳勝・呉広の乱では趙が復興された際、秦将章邯により趙が邯鄲に籠城することを回避すべく、占領後に邯鄲は徹底的に破壊された』。ここ邯鄲は実は始皇帝の出身地でもあった。時間が巻戻るが、戦国時代末期、『秦は趙に対し人質として王・昭襄王の孫、子楚(後の荘襄王)を差し出したが、大商人呂不韋は子楚の非凡さを見抜き身元を救い出し、後に後見人として勢力を振るった。彼は自分の愛人を子楚に与え、生まれた子が政、後の始皇帝であ』った。『始皇帝は生まれてまもなく秦と趙との戦いに巻き込まれ子楚が王になるまでの6年間邯鄲の富豪にかくまわれたという。趙を滅ぼした後一度だけ邯鄲に入城し、生母の敵たちを皆生き埋めにしたと伝わる』。『後漢末の混乱期には、邯鄲県は各勢力による戦火の被害を受け衰退してい』き、『213年(建安18年)、献帝は曹操を魏国公に封じ鄴城に建都すると政治、経済、文化の中心は鄴城に移り邯鄲県は魏郡の一般の県城とされた。221年(黄初2年)、魏により広平郡、晋の時代には再び魏郡の管轄とされている。南北朝時代には東魏により邯鄲県は廃止となり臨漳県に統合されたが、596年(開皇16年)に再設置されその後隋唐代を通じて邯鄲県は小県として洺州、磁州、武安郡、紫州などの管轄とされていた。邯鄲が寂れる一方で、近くの大名府(現在の大名県)は宋代には副都となり河北の大都市となった』とあるから、本話(原典冒頭には盛唐の初期である開元七年(西暦七一九年)とする)の頃の邯鄲は寂れつつあったことが分かる(但し、後掲する乾氏の注では『唐代でも繁華な町の一つとして知られている』とある。しかし、本話や原典のロケーションからはやはり田舎の街道筋という印象で、『繁華』な雰囲気はしない)。
・「淸河」漢代に置かれた郡名。当時は現在の河北省及び山東省の一部をなす広域であった。現在は河北省邢台けいだい市に清河県として名が残る。ウィキの「清河県」によれば、『前漢の文帝の后妃である竇漪(孝文皇后)の祖籍地で』、『556年(天保(北斉)7年)、北斉により設置された武城県を前身とする。586年(開皇6年)に清河県と改称された。1958年に廃止となり管轄区域は南宮県に編入されたが、1961年に再設置され現在に至る』とある。ここは明代初期(一五六六年板行)に成立した「水滸伝」では『は武松の故郷とされ、武松の兄嫁である潘金蓮とその間男・西門慶の住む町でもある。潘金蓮と西門慶を主役とする『金瓶梅』では、清河県が主な舞台となっている』ともある。
・「渭南」現在の陝西省の旧関中道(中華民国北京政府により設置された行政区画)にあった県名。現在は渭南市(西安の五十キロメートル東北に位置する)。
・「尉」は中国の官名であるから「ゐ(い)」と読む。県尉。県内の軍事・警察を統括した。今村与志雄訳「唐宋伝奇集(上)」(岩波書店一九八八年刊)の「枕中記」の「渭南の尉」の注に『渭南県は京畿道』(京師けいし及びその周辺地域)『にあり、そこで渭南の尉も、当時いわゆるいいポストであった』とある。同じ「尉」でも「山月記」の李徴の「江南尉」とは、これ、ラベルが違うということらしい。
・「監察御史」国家の司法・監察機構である御史台の属員。京師の各衙門がもん(官庁)及び官吏を監督し、地方を巡察して行政を視察監視した皇帝の直属官。今の検察庁長官に相当する。
・「起居舎人」皇帝の左右に控えて言行を記録し、国史編纂の資料を収集して史館に提出する官。前記今村氏の注によれば、『清資官といわれて尊重された』とある。
・「知制誥」詔勅の起草などの担当官。ウィキの「知制誥」によれば、『古代から明代に至る中国の官職名。制・誥をつかさどる者、の意』で、『制・誥ともに書経に見え、「天子の言葉」を意味』し、『三代(夏・殷・周)で用いられていたが、秦の始皇帝が「命」を「制」に、「令」を「詔」に改めてからは「誥」は文書に出てこなくなる。唐代までには詔・册・制・勅が皇帝の命令を意味する言葉とな』ったとする。『翰林院が唐代初期に置かれ、学問芸術に優れた人物を集めていたに過ぎなかったが、玄宗の時に中書省の事務が繁雑になり文書が滞留するようになったので、翰林学士という役職を置き中書省の一部の機能を分掌させた。この翰林学士は重用されるようになり、宰相の実質を担うようになるが、専任の官職ではなく定員もなかった。宋代になって詔勅の制度は唐にならい、「誥」が復活され「制」と並んで用いられるようになる。制・誥を書く仕事は翰林学士から分離し、知制誥が設けられた』とある。
・「中書門下平章事」正しくは同中書門下平章事。ウィキの「同中書門下平章事」におれば、『中国唐代から元代に存在した官職。当初は臨時の官であったが、後に常設の官となり、北宋代には宰相とされた。同平章事あるいは平章と略される』。『元々は同中書門下三品という。唐初には中書令・門下侍中・尚書僕射がそれぞれ宰相職とされていたが、それよりも下の、主に尚書省の官僚が宰相に任じられることがあった。この時、中書令などの本来の宰相職より官品が低いのは不都合が生ずるので、臨時に同中書門下三品を授けて、中書令らと同格の正三品官としたのである。高宗の650年に「同中書門下平章事」と改称され、中書令らと共に正式な宰相職とされた』。この話柄の時間の後になるが、『中唐以降、本来の宰相職であった中書令・門下侍中・尚書僕射が名誉職化するにつれ、それに代わって同平章事は事実上の宰相職として権限を強めていった。同平章事に任命される者は、中書侍郎(次官)や門下侍郎や六部のいずれかの尚書など、必ず本来の官職との兼任であった。節度使に対しても名誉称号として同平章事が授けられ、更には塩鉄転運使などにも授けられることもあった』とある。また、今村与志雄訳「唐宋伝奇集(上)」の「枕中記」の同注には、『唐代、宰相の代りの呼称。唐制では、中央政府最高機関の尚書、門下、中書三省の長官、すなわち尚書令、侍中、中書令が宰相として国務を統轄した。太宗以後、尚書令は設けず、侍中、中書令も必ずしも設け』なかったが、そこで『中書、門下二省の長官でない』者に対して同じ権限を与えて委託し、『宰相の職務を代行』させた。『そこで同中書門下平章事(平章は相談する、研究するという意味。事は政事をいう)と称した。唐代、宰相は一般に同時に四、五人置いた』とある。因みに、今村氏の注は知りたいことに飛び抜けて優れている注であると言える。
・「驩州」狭義には現在のベトナム社会主義共和国ゲアン省(ベトナム北中部に位置し、東はバクホ湾に、西はラオス人民民主共和国山岳部に接する)にかつて設置されていた州。設置は唐代初期の六二二年で、行政上の名は五年後の六二七年に演州と改称されている。演州は六三六年に一旦廃止されたが、七五四年に再設置、鎮南都護府(後の安南都護府)の管轄とされた(ここまではウィキの「演州」に拠る。位置はウィキの「ゲアン省」で確認されたい)。「枕中記」の「驩州」の諸注は多く単に「ベトナム」とする。筑摩類聚版芥川龍之介全集の脚注は、限定的に『ベトナム北部の地』とし、更に『当時の唐の領地で流刑地とされた』と孫の手クラスの注を附していて嬉しい。
・「中書令」宮廷の文書・詔勅を掌る中書省の長官であるが、ウィキの「中書令」によれば、『隋と唐早期には、皇帝が出す詔勅の起草を行うという役職から、非常に強い権限を持ち、実質的な宰相職となっていた。唐の太宗の治世では、中書令は參議朝政などの名で国政に参与するようになり、同中書門下三品もしくは同中書門下平章事を兼任しない宰相には実質的権限がなかった』とあり、唐の第二代皇帝太宗李世民の在位は六二六年から六四九年で本話内時間の七十年ほど前のことであり、廬生は失脚前の官職に丸々復帰していると考えてよいから、正しく「同中書門下平章事を兼任」する「宰相」で、「実質的権限」を持った権威者に復帰していたと考えられる。今村氏の注では、『唐代の中書省は、事実上、皇帝の枢要な執務機関で顧問の機構であり、職種が最も高かった』とあって、龍之介の「黄梁夢」の注としても読解をよく助けてくれるものである。
・「燕國公」「燕」は地名としては戦国時代の燕国のあった河北省北部、現在の北京を中心とする一帯を指すが、これは本邦の「〇〇守」同様の称号である。前に示した「枕中記」の今村氏の注に、『唐代、封爵を九等に分け、国公は第三等、秩』(ちつ:官位の順位。)『は従一品で、親王と群王につぐ。燕公国の燕は、称号にすぎない。古代の燕国地方の租税収入が支給されたのではない』とある。目から鱗。
・「寵辱の道」栄達と零落・名誉と屈辱という人生の道程。
・「窮達の運」困窮と栄達・貧困と富貴という人間の運命。
・「得喪の理」得ることと失うこと・成功と失敗という世の道理。
・「死生の情」人間の死と生というものの厳然たる非情な実体。

現在まで出来上がった芥川龍之介「黄梁夢」の一部分散公開

僕は僕が停滞しているように見えるのが如何にも耐えられない。
現在まで出来上がった芥川龍之介「黄梁夢」の一部を、これより分散公開することとする。

芥川龍之介「黄梁夢」の僕の評の冒頭

遅まきながらやっと先程から芥川龍之介の「黄梁夢」の評注に入った。



 さて、芥川龍之介は「枕中記」を読んで何を想ったかから始めねばなるまい。
 まずは気になるのは同じ唐代伝奇をインスパイアした、遙かにスリリングな名作(と私は誰が何と言おうと譲らない)「杜子春」である。ところがしかし、実に本作の発表は大正六(一九一七)年十月で、龍之介は満二十五歳、「鼻」で華々しいデビューをしたのは前年の二月、彼はこの時、未だ独身で文との結婚は翌大正七(一九一八)年二月二日であるから、まさに廬生が独身で暫くして崔家の娘を貰うことと一致しているのである。そして「杜子春」は「黄梁夢」発表の二年九ヶ月後の大正九(一九二〇)年七月で満二十八歳、この三ヶ月前には四月十日には長男比呂志が生まれているのである。龍之介の生活史の夢時間に於ける廬生的転回点がこの間には確かに存在したと言ってよい。

「枕中記」注の一部 その主題について

 「枕中記」一巻の最大のテーマを私は、
人間にとっての「人生の適」=「生きることのまことの悦び」=
そして、その「生」は同時に連続する「死」と一体のものでもあるがゆえに、
「人の生き死に於ける真の自由」とは何か?
という哲学的な問題提起であると考えている。そうして、史書の列伝のような圧縮率の高い夢記述に対して額縁を成すところのこの前後の部分の内、この冒頭の呂翁と廬生の問答形式のシークエンスが何か妙に細かく丁寧な描写となっているのである。「枕中記」は単に「人生これ夢の如し」といった如何にもなテーマなんぞではない。
 夢の中の廬生は一見最終的に、家庭と子孫と権力という総ての社会的幸福の頂点に達して大往生を遂げたように見える。しかし私は、それは見えるだけであって、その夢を見た廬生はそのバーチャルに体験した自己の欲望によって構成演出された自作自演の壮大な叙事詩に、目覚めたその瞬間、大きな空虚感を抱いているのである。でなくして、どうして暫くの間、「憮然」(意外なことに驚き、呆れて)として、次に鮮やかに「此れ、先生の吾が欲を窒ぐ所以なり」! と 歓喜に転ずることが出来よう?
 廬生は夢の中の自身の波瀾万丈の人生に、愛欲・野望・賞賛・猜疑・嫉妬という螺旋の中で行われる、人の欲望に付随する信不信のプラスとマイナスのエネルギーの絶望的な熱交換を知り、結局、その果てに冷却収縮萎縮し、遂には単なる点として零(ゼロ)へと収束していくだけの己れの姿、
欲にとらわれた多くの人間の模式を――
人生的時間の中での連続する欲望の徒労という真実を感得した――
のであると信じて疑わないのである。その観点から前半部を見ると、この「適」の字が字背の骨のように配されていることが分かる。全部で八箇所であるが、私は寧ろ、テーマの意味ではない用法としてプレに使用される、廬生が初めて馬に乗って登場する「將適于田」の「適」、及び如何にも心から楽しんで呂翁と談笑するシーンの「談諧方適」に着目する。そもそも何故、呂翁は廬生に目を留めたのか? それはまさに青馬に跨って悠然泰然として「行く」凛々しい青年廬生(三十歳ではあるが)の姿に惹かれたからに違いない。道士が人に惹かれるのは、その人物が仙骨を持っていることを絶対条件とする。とすれば、この美しい廬生の馬に乗って野良仕事へ向かって適(ゆ)く姿は呂翁にとってまさに「生死に於ける真の自由」を知り得る仙骨を持った人物(教化の候補者)と映ったのだとしか考えられない。そしてそのプエル・エテルヌス、永遠の少年の面影を持つ彼と茶を喫し、語り、呂翁は、そこで如何にもまさに「のびのびとした自由な」彼の人柄に触れた。だからこそ二人は「心から楽しんで談笑する」のである。そうして呂翁は廬生を教化に値する人物と認定、愚痴を零した彼に対して「談諧方に『適』するに」(今さっきまで面白おかしく喋っておったに)、何がお前の「適」じゃ? と水を向けるのである。この二つの「適」の用字をプレに用いているのは私は偶然ではないと思う。その証拠に、夢記述部分には「適」の字は一切使用されず(それは夢の中の廬生の人生には実は「適」はないという暗示でもあると私は思っている。そもそも廬の見る夢をこれが仙術である以上、呂翁は実は事前に知っているのである。そうしてもしその夢が本当に呂翁が最初に言っているような廬にとって正しく「當に子をして、榮適、志しのごとくならしむべし」というものであったなら、その夢記述の中に「適」の字は用いられるのが当然である。それが出ないのは、とりもなおさず、廬生の欲に基づく夢人生には微塵も真の「適」はないという証左なのである)、再度使用されるのは実にコーダの呂翁の決め台詞「人生の適(てき)、亦、是くのごとし。」一度きりなのである。

2014/05/02

「枕中記」注の一部

 私はこの「枕中記」を、富山県立伏木高等学校二年の時の漢文の授業で中年の国語教師の蟹谷徹先生から初めて聴いた時のことが忘れられない。先生は巧みな話術で面白おかしく志怪や伝奇をよく話して下さったものだった。その中でも「牡丹燈記」に次いで面白かったのが、まさにこの「枕中記」であった。ところが先生の「枕中記」は結末がちょっと違うのだ。廬生は高位高官に上り詰めるのだが、冤罪によって失脚し、遂には斬罪に処せられてしまうのである。先生の廬生は刑場に引きずられて行く途中も、情けなく「死にとうない! 死にとうない!」と喚き、断頭台の木の切株の上に首を横たえさせられると、「あらあっ! こんなんやったら、邯鄲の田舎で百姓やっとった方がなんぼかましやった!」と富山弁で叫ぶのである。最後に首切り役人が振りおろした、ぶっとい剣の刃が(蟹谷先生はちゃんと黒板に青銅製の中央に峯のあるごっつい剣の絵を描いて「これは刃は鈍いからぶちっ! と押し切るんですね!」と如何にも楽しそう説明された)廬生の首筋に――ピタッ!――と触れた瞬間――廬生は目醒める――というのが蟹谷本「枕中記」であったのだ。私は授業が終わると早速に図書室に行って二冊ほどの唐代伝奇をはぐったのだが、今さっき、先生の演じられた最も印象的なそこが――ない――私はその日の放課後、廊下ですれ違った先生にそのことを尋ねてみた。不思議に明るいブルーの瞳(無論、先生は日本人なのだが不思議に虹彩の色がそうだったのだ)を少年のようにキラッとさせて、「そうやったけ? 変んやねえ?」と言いながらも、何故か先生はずっと黙って私の顔を見て笑っておられた――そう――呂翁のように――私はあの、スリリングな感動物の蟹谷本「枕中記」を――今も探しているのである……

[やぶちゃん附注:自分にとってはいささか無粋な附注なのだが、実は今回、いろいろと渉猟するうちにこの先生のネタもとではないかと思われるものが分かってしまった。これは恐らく先に掲げた「枕中記」のインスパイアである、清の蒲松齢の「聊斎志異」に載る「続黄粱」を「枕中記」の後半にすり替えたものと思われる。「続黄粱」は「続」とあるが、続編という体裁ではなく、別箇な作で主人公も「曾」という名である。幸い、青空文庫にこれを翻訳した田中貢太郎の「続黄梁」があるので参照されたい(但し、私は角川文庫の鬼才柴田天馬氏の訳を本当はお薦めしたい)。――にしても流石は蟹谷先生、面白さのツボ(夢覚醒のシーンとしてはこれに勝るものはないと私は思っている)を心得ていらっしゃった。やっぱりこれは私を志怪へと導いて下さった呂蟹谷翁(ろけいこくおう)の卓抜な「枕中記」なのだという思いは全く変わらないのである。――]

停滞にあらず

「枕中記」のオリジナル訳を終えたが、「黄梁夢」の評釈で原典の祖型である六朝志怪にまで手を伸ばしてしまい、どうにも止まらなくなった。とことん自分の気が済むまでは止められない、僕の悪い癖。悪しからず。

2014/05/01

枕中記翻案完了

後は芥川龍之介の「黄梁夢」の評を残すのみだが、何だか大きな一仕事を終えた感じはしている。乞うご期待――

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