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2014/05/31

杉田久女句集 231 節分の宵の小門をくゞりけり

  京都吉田に鈴鹿野風呂氏訪問 一句

  王城、草城、白川御夫婦、雄月氏等

 

節分の宵の小門をくゞりけり

 

[やぶちゃん注:これは編年式編集の角川書店昭和四四(一九六九)年刊「杉田久女句集」から、大正一三(一九二四)年のことであることが分かるが、底本年譜には記載がない。久女三十四歳。

「吉田」は京都府京都市左京区南部の地域名。

「鈴鹿野風呂」(すずか のぶろ 明治二〇(一八八七)年~昭和四六(一九七一)年)は俳人。本名、登。京都生。京都帝国大学卒。高濱虚子に師事し、『ホトトギス』同人。大正九(一九二〇)年の京大三高俳句会を母体として日野草城・田中王城らとともに『京鹿子』を創刊、同誌は後に野風呂が主宰となって関西に於けるホトトギス派の中軸となっていった。俳諧活動の傍ら学校でも教鞭をとり、戦後の一時期には旧制京都文科専門学校の最後の校長を務めている。『京鹿子』発行所でもあった吉田中大路町にあった生家は現在、野風呂記念館となっている(主にウィキ鈴鹿野風呂に拠る)。当時三十七歳。現代俳句協会の「現代俳句データベース」に載る彼の句を掲げておく。

 しぼり出すみどりつめたき新茶かな

 北嵯峨の水美しき冷奴

 雲を吐く三十六峯夕立晴

「王城」田中王城(明治一八(一八八五)年~昭和一四(一九三九)年)は俳人。京都生。本名、常太郎。初め、正岡子規の句風を慕い、中川四明にも学んだ。後に高浜虚子に師事し、『ホトトギス』同人となり、京都俳壇の第一人者となった。大阪俳壇の先進とともに関西全般に多くの門下を育て、また雑誌『鹿笛』を刊行した(思文閣「美術人名辞典」に拠る)。ネット上から句を引く。

 竹伐るやうち倒れゆく竹の中

 水取や廂につゞく星の空

 山茶花のあらたに散りぬ石の上

「白川」『京鹿子』同人の水野白川(本名、武)であろう。彼の句はネットでは次の一句しか見つからなかった。

 京なれやまして祇園の事始

「雄月」不詳。]

山之口貘「加藤清正」を訂正・注改稿

「加藤清正   山之口貘」のミス・タイプを訂正、思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証により注を全面改稿した。

2014/05/30

飯田蛇笏 靈芝 昭和十年(九十九句) Ⅷ

 

綺(かむはた)すをとめがふめる秋の土

  註。綺は神機の義、錦の薄き布を織るなり。

 

[やぶちゃん注:「綺」現代仮名遣では「かんはた」。日本古代の織物の名で幅の狭い紐状の織物。横糸に色糸を用いて織り縞を表している。朝服の帯や経巻の巻き緒(お)に使われている。綺(き)。平凡社「世界大百科事典」では、綾の古名で単色の紋織物を指す。中国では古く戦国時代にすでに「綺」の名称があり。「戦国策」鮑彪の注には『綺は文様のある繒』とある。「繒」は「かとり」で上質の平絹のこと。また「漢書」地理志の顔師古の注に『綺は今日いう細かい綾』とあって、元の「六書故」には、綺は彩糸で文様を織り出した錦に対して単色で文様を表わした織物である旨の記載がある。現存する作例、例えば馬王堆一号漢墓その他の出土例から古代の「綺」の特色を見ると殆んどが平地の経の浮紋織或いは平地の経綾の紋織になっている、とある。]

 

秋しばし寂日輪をこずゑかな

 

新凉の花知る揚羽雲のなか

 

  上高地行

 

秋口の粥鍋しづむ梓川

 

神葬る秋凉の灯に髫髮童どち

 

[やぶちゃん注:「髫髮童」は恐らくこれで「うなゐ」と訓じているものと思われる。本来は「髫髪」で「うなゐ」と読み、元は「項(うな)居(い)」の意かとされ、昔、七、八歳の童児の髪を項(うなじ)の辺りで結んで垂らした髪型、また、女児の髪を襟首の辺で切り下げておく髪型である「うないがみ」を指す。また、その髪型にした童児。若しくはそこから幼い子供の意となった。ここは最後の謂いであろう。]

 

巖がくり齒朶枯れなやむ秋日かな

 

洪水の林の星斗秋に入る

 

[やぶちゃん注:「星斗」は「せいと」で星辰(せいしん)、星のこと。]

 

大巖にまどろみさめぬ秋の山

 

秋猫乎地階の護謨樹に鈴鳴れる

 

渡り鳥山寺の娘は荏を摘める

 

[やぶちゃん注:「荏」は「え」で、シソ目シソ科シソ属エゴマ Perilla frutescens 変種エゴマ Perilla frutescens var. frutescens のこと。]

 

射とめたる稻すゞめ浮く榛の水

 

[やぶちゃん注:「榛」既注。音「ハン」、落葉低木のブナ目カバノキ科ハシバミ属 Corylus ハシバミ Corylus heterophylla var. thunbergii を指すが、実は本邦ではしばしば全くの別種である落葉高木のブナ目カバノキ科ハンノキ Alnus japonica に誤って当てる。先行句の用法から後者であろう。]

 

菩提樹下籠搖るとなく蟲鳴けり

 

桑かげのさやかに蓼の咲きにけり

 

  嵐峽

 

秋蠅もとびて大堰の屋形船

 

[やぶちゃん注:京都嵐山の中心を流れる大堰川(おおいがわ)の、古えの公家の船遊びを真似た観光遊覧の屋形船。明治初期からあった。]

 

雨やんで巖這ふ雲や山歸來

 

[やぶちゃん注:「山歸來」は「さんきらい」で、本来は生薬(地下の根茎を利尿・解熱・解毒薬として用いる)知られる単子葉植物綱ユリ目サルトリイバラ科シオデ属ドブクリョウ Smilax glabra のことを指すが、これは本邦に自生せず(中国・インドシナ・インドに分布)、ここでは同じように生薬として用いられる本邦にも産するシオデ属サルトリイバラ Smilax china の別名である。ウィキサルトリイバラを参照されたい。グーグル画像検索「Smilax chinaも併せてリンクしておく。]

 

團栗をもろに唅める山童

 

[やぶちゃん注:「唅める」の「唅」は底本では「唫」であるが、ようにこれは誤字誤用と思われるので敢えて訂した。]

 

貧農の齒が無い口もと年の暮

 

手をたれて寒くもあらぬ花圃に出ぬ

 

  山賤龍眼肉を啖ふとて、一句

 

死ぬばかりあまく妖しき木の實かな

 

鞴火のころげあるきて霜夜かな

飯田蛇笏 靈芝 昭和十年(九十九句) Ⅶ

 

大漁籃に日雨すぎつつ船の蠅

 

[やぶちゃん注:「大漁籃」は「おほびく」と訓じていよう。普通、捕獲した魚を入れおく「びく」は「魚籠」「魚籃」と書く。「日雨」既注。]

 

やまみづの珠なす蕗の葉裏かげ

 

娘のゑまひ錢をさげすみメロン買う

 

[やぶちゃん注:「買う」はママ。老婆心乍ら、「ゑまひ」は「笑まひ」「咲まひ」でほほえむこと、微笑。現代仮名遣では「えまい」。]

 

月見草墓前をかすめ日雨ふる

 

死火山の膚つめたくて草いちご

 

薤掘る土素草鞋にみだれけり

 

[やぶちゃん注:「薤」は「らつきよう(らっきょう)」若しくは「らつきよ(らっきょ)」で単子葉植物綱サスギカズラ目ネギ科ネギ属ラッキョウ Allium chinense のこと。中七「土素草鞋に」は「つち/すわらぢに」と読む。]

 

鎌かけて露金剛の藜かな

 

[やぶちゃん注:「藜」は「あかざ」と読み、普通に目にするナデシコ目ヒユ科 Chenopodioideae 亜科 Chenopodieae  アカザ属シロザ Chenopodium album 変種アカザChenopodium album var. centrorubrum である。イメージ出来ない方のためにグーグル画像検索「Chenopodium album var. centrorubrumを示しておく。]

 

行き行きて餘花くもりなき山の晝

 

[やぶちゃん注:「餘花」は「よか」で、初夏に入ってもなお咲き残っている桜の花を指す。夏の季語。]

 

   蘆川大溪谷

 

鳶啼けり溪こだまして餘花の晝

 

[やぶちゃん注:「蘆川大溪谷」現在の甲府市古関町にある芦川渓谷。標高一七九三メートルの黒岳に源を発する芦川は笛吹市芦川町から甲府市古関町を経、市川三郷町で笛吹川と合流する延長二十五キロメートルに及ぶ清流で、流域には名勝・奇勝が多く、現在でも自然がそのままに残っている貴重な渓谷である。天然のイワナやヤマメ釣りでも知られ、シーズンには大勢の釣り人が渓流釣りを楽しむ、と「公益社団法人やまなし観光推進機構」公式サイト「ふじの国やまなし 観光ネット」の芦川渓谷の紅葉にある。]

 

聖堂の燭幽かにて花圃の秋

 

[やぶちゃん注:「花圃」は「かほ」と読み、お花畠。花園。これ自体が秋の季語となっている。]

橋本多佳子句集「紅絲」 沼 Ⅴ 事ありて 

   事ありて

 

手繰れど手繰れど海に頭(づ)向けて凧落ちゆく

 

せめて瞋(いか)りあらばやすけし冷ゆる蹄

 

寒星ひとつ燃えてほろびぬ海知るのみ

 

何をか待つ雪着きはじむ松の幹

 

[やぶちゃん注:意味深長な前書であるが、年譜上から如何なる「事」であったかは全く知り得ない。]

杉田久女句集 230 橋本多佳子氏と別離 四句

  橋本多佳子氏と別離 四句

 

忘れめや實葛の丘の榻二つ

 

[やぶちゃん注:「實葛」は「みくず」で常緑蔓性木本のモクレン亜綱マツブサ科サネカズラ Kadsura japonica のこと。ビナンカズラ(美男葛)ともいうが、これは昔この蔓から粘液をとって整髪料に使ったことに由来する。葉は長さ数センチメートルで光沢があり、互生。通常は雌雄異株で八月頃開く花は直径一センチメートルほど。十枚前後の白い花被に包まれ、中央部分に雄蕊或いは雌蕊がそれぞれ多数、螺旋状に集まっている。雌花の花床は結実とともに膨らみ、キイチゴを大きくしたような真っ赤な丸い集合果をつくる。花は葉の陰に咲くが、果実の柄は伸びて七センチメートルにもなることがあり、より目につくようになる。単果は直径一センチメートルほどで、全体では五センチメートルほどになる。果実は個々に落ちて、あとにはやはり真っ赤なふくらんだ花床が残り、冬までよく目立つ(ここまでは主にウィキサネカヅラ」に拠る。グーグル画像検索「Kadsura japonica)。この「丘」とは櫓山荘のあった小倉北区中井浜櫓山(やぐらやま)のことと思われる。]

 

芋畠に沈める納屋の露けき灯

 

遊船のみよしの月に出でたちし

 

脱ぎ捨てし木の實のかさもころげをり

 

[やぶちゃん注:これらは橋本多佳子が、昭和四(一九二九)年十一月、夫豊次郎の大阪橋本組の創立者で父の橋本料左衛門の逝去に伴い、夫が本社(豊次郎は大阪橋本久美北九州出張所駐在重役であった)へ移ることとなり、櫓山荘から大阪帝塚山に転居したことを指す(豊次郎は昭和一二(一九三七)年九月に享年五十で逝去したが、櫓山荘は後の昭和一四(一九三九)年までは多佳子の別荘として使用された)。なお、この十一月二十三日には「ホトトギス四百号記念俳句大会」が大阪中央公会堂で開催され、それに出席した久女は多佳子と再会、多佳子は久女の紹介で多佳子終生の師となる山口誓子に初めて逢っている(この部分は立風書房一九八九年刊の「橋本多佳子全集」年譜に拠る)。久女三十九、多佳子三十歳。

杉田久女句集 229 昭和元年 箱崎にて 七句

  昭和元年 箱崎にて 七句

 

病間や破船に凭れ日向ぼこ

 

間借して塵なく住めり籠の菊

 

炭つぐや頰笑まれよむ子の手紙

 

筑紫野ははこべ花咲く睦月かな

 

山茶花の紅つきまぜよゐのこ餠

 

ゐのこ餠博多の假寢馴れし頃

 

ゐのこ餠紅濃くつけて鄙びたる

 

[やぶちゃん注:「箱崎」現在の福岡県福岡市東区箱崎。福岡市東区南部にあり、現在は東区区役所が置かれている東区の行政上の中心。古い町並みが残っており、筑前国一の宮で旧官幣大社の筥崎宮(はこざきぐう)などの神社や史跡が多く存在する(以上はウィキの「箱崎」に拠る)。底本年譜の大正一五・昭和元(一九二六)年の条に、『十一月、病気療養のため箱崎へ』とあり、『俳句に専心の心を固める』ともある。前掲の坂本宮尾氏の「杉田久女」には『入院治療するほどではなかったのであろう、しばらく福岡の箱崎で部屋を借りて静養』したとある。

「ゐのこ餠」「ゐのこ」は「亥の子」で旧暦十月即ち亥の月の最初の亥の日に行われる祭祀行事で主に西日本で見られるもの。亥の子餅を作って食べて万病除去や子孫繁栄を祈る、子供たちが地区の家の前で地面を搗いて回ったりする。玄猪・亥の子の祝い・亥の子祭りともいう。参照したウィキによると、古代中国で旧暦十月『亥の日亥の刻に穀類を混ぜ込んだ餅を食べる風習から、それが日本の宮中行事に取り入れられたという説』、『古代における朝廷での事件からという伝承もある。具体的には、景行天皇が九州の土蜘蛛族を滅ぼした際に、椿の槌で地面を打ったことに由来するという説である。つまりこの行事によって天皇家への反乱を未然に防止する目的で行われたという。この行事は次第に貴族や武士にも広がり、やがて民間の行事としても定着した。農村では丁度刈入れが終わった時期であり、収穫を祝う意味でも行われる。また、地面を搗くのは、田の神を天(あるいは山)に返すためと伝える地方もある。猪の多産にあやかるという面もあり、またこの日に炬燵等の準備をすると、火災を逃れるともされる』とある。ウィキ亥の子餅には、『名称に亥(猪)の文字が使われていることから、餅の表面に焼きごてを使い、猪に似せた色を付けたものや、餅に猪の姿の焼印を押したもの、単に紅白の餅、餅の表面に茹でた小豆をまぶしたものなど、地方により大豆、小豆、ササゲ、胡麻、栗、柿、飴など素材に差異があり、特に決まった形・色・材料はない』とあって、「摂津国能勢における亥の子餅」という項を設けて、そこには神功皇后と応神天皇に纏わる詳しい伝承が記されてある。応神天皇の誕生は神功皇后が三韓征伐から戻った筑紫での出来事であり、福岡との関連もありそうである。また、箱崎の筥崎宮参道沿いにある真言宗恵光院のタウンページ」記載にある「年間定例行事」の十一月に『初亥の日 いのこ金幣祭』というのがあり、『いのこまつりは地方により祝い方が異るが中国の行事(この日に餅をついて食べると万病がよくなる)を真似て古くは平安時代から伝わる風習があ』り、『いのこ節句というところもあればイロリの焚き初めといい季節の変わり目と考えているところ、稲の収穫を祝うところもある』とし、当院では愛染明王を御神体として、『すし桶と一升桝を用いてその中に明王の金幣を立て、いのこ餅、御神酒を供え季節の野菜や果物を盛りつけて』祀るとある。『すし桶や一升桝を使うのは家庭円満で益々繁昌、良縁、安産を願うという意味』の他に、『イロリを祝うまつり』で、『参詣者には金の御幣と供物のぎんなん、紅白の鏡もち、稲穂』が授けられるともある。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十二章 北方の島 蝦夷 6 和船について

M345
図―345

M346
図―346

 

 今や港は、米を下し魚を積み込む日本の通商戎克(ジャンク)で、一杯になっている。図345はその一つの写生で、割によく出来ていると思う。檣(マスト)のてっぺんは、折れているのではない。何等かの目的で、みなこんな風に傾いているのである。舟には全然塗料が塗ってなく、絵画的に見える。帆走しているのはめったに見当らないので、しょっ中碇を下しているように思われる。そして文字通り平底――竜骨は影も形もない――だから、追手の時だけしか帆走出来ない。舵は船に対して恐しく大きく、使用しない時には、妙な形に水から引き上げておく(図346)。鎖国していた時、政府は外国型の船舶を造ることを許さなかった。これは政府が、日本船のふたしかであることを知り、かかる船は嵐にあうと制御出来なくなるので、日本人はやむを得ず海岸近くを走っていたのだという。沿岸通商で、彼等は海岸に沿うて二日か三日帆走し、聊かでも、風や暴風雨の徴候が見えると、港湾に入り込み、嵐の来ること、或は嵐の吹き去るのを待つ。日本人は我々の船型が優秀であることを、即座に認めた。維新後外国風の船を造ることを禁ずる法律が撤廃され、今や彼等は、外国の船型に従って造船しつつある。この町にも、造船中のスクーナーが六、七艘あるが、いずれもいい形をしている。造船場は我国のと同じように見えるが、而も職工は全部日本人である。

[やぶちゃん注:私は船舶に暗いので、一部の和船関連の注は主に個人サイト「愛知県の博物館」の「菱垣廻船と樽廻船」を参考にさせて戴いた(菱垣廻船と桧垣廻船は孰れも「ひがきかいせん」と読んで同義である)。ここにリンクして謝すものである。

「通商戎克(ジャンク)」(「ジャンク」は「戎克」のルビ)原文は“trading junks”。「戎克(ジャンク)」は中国で古くから用いられてきた木造帆船の名で本邦では「唐船」と呼ばれて建造も行われている。形がやや似ているためにモースはかく書いたもののようであるが、以下に示する菱垣(ひがき)廻船の構造とはかなり異なるように思われる。因みに「Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス」の中でまさに「北前船」が“trading boat”と訳してあるのを見つけた。但し、ウィキの「弁財船」によると、北前船・菱垣廻船・樽廻船は総て弁才(べざい)船であるものの、菱垣廻船・樽廻船はほぼ同じであるのに対し、北前船は両船とは多少の違いを持つともある。ともかくも、図345の舷側に装飾的に付く「垣立(かきたつ)」の菱形(遠見であったからか、モースは菱形ではなく格子状に描いている)の模様から、これは千石船の名で知られた弁才(べざい)船の発展型である菱垣廻船と思われる。なお、この「垣立」というのは、船の中央部である胴(どう)の間(ま)の積載量を増やすため、即ち、荷物を山積みすることが出来るように両舷側部分を高くしたものである。

「檣(マスト)のてっぺんは、折れているのではない。何等かの目的で、みなこんな風に傾いているのである」菱垣廻船(弁財船)の帆の上げ下ろしには帆桁を帆柱の先端の蟬(せみ)と呼ばれる滑車を通して船尾に繩で通じ、轆轤(ろくろ)と呼ばれる人力の巻き上げ機で船室内から行われたが、思うにこの傾いた部分はその蟬(若しくはそれを含む部分)ではなかろうかと私には思われる。別に名称等があるやも知れぬ。識者の御教授を乞うものである。

「平底――竜骨は影も形もない――追手の時だけしか帆走出来ない」「菱垣廻船と樽廻船」の『■「竜骨」と「航(かわら)」』から引用する(一部の改行を省略、アラビア数字を漢数字に、記号の一部も変更させて戴いた)。

   《引用開始》

■「竜骨」と「航(かわら)」

西洋の船が竜骨(キール)という背骨のような構造を持つのに対し、弁材船はそれに相当するものとして航という部材を持っています。航とは敷(しき)ともいい、船首から船尾まで通す平らな船底材です。

▲航(かわら)

航の幅はかなり広く、複数の板を張り合わせた構造であるときもあります。弁材船は竜骨を持たないことで構造的に弱いとか横向きに流れるため逆風でも帆走が不可能とよく言われますが、これも間違い。航は厚さが三十センチメートル以上もあり、非常に丈夫な構造材です。江戸時代後期の千石積級の船で長さ四十六尺(十四メートル)、幅五尺(一・五メートル)が標準でした。また「根棚」とともに船底から大きく張り出しており、横に流れにくい構造になっています。

   《引用終了》

この「根棚」については、説明するよりもリンク先の「造船」の項を見て戴く方が分かりがよい。モースは「追手の時だけしか帆走出来ない」以下、本船の性能の悪さを書き並べてあるが、それらが概ね誤りであることについてはやはりリンク先の「弁才船の性能」の項に、

   《引用開始》

明治になって入ってきた西洋の船に対して、性能が劣っているようなイメージがありますが、実際にはかなりよい性能でした。

●切りあがり角度

弁才船は順風でしか走れないとよくいわれてきましたが、そんなことはありません。横風帆走を意味する「開(ひら)き走り」や逆風帆走を指す「間切(まぎ)り走り」といった語は、すでに十七世紀初頭「日葡辞書」に収録されています。浪華丸の航走実験では向かい風に対しては風の来る方向から左右六十度、横流れを含めても七十度を記録しています。弁才船の逆風帆走性能は、ジャンク(中国船)やスクーナ―型などの縦帆船(じゅうはんせん)に比れば劣りますが、 実習船の日本丸(四本マスト)のようなバーク型などの横帆船(おうはんせん)にややまさっています。弁才船の耐航性と航海技術の向上した江戸時代中期ともなると、帆の扱いやすさとあいまって風が変わってもすぐに港で風待ちすることなく、可能な限り逆風帆走を行って切り抜けるのが常で、足掛け四日も間切り走りを続けた例もありました。

   《引用終了》

と美事に説明されてある(浪華丸というのは大阪市の「なにわの海の時空館」にある実物サイズの忠実に復元された菱垣廻船の名)。モース先生、お分かり戴けましたか?

「舵は船に対して恐しく大きく、使用しない時には、妙な形に水から引き上げておく」「菱垣廻船と樽廻船」の「■舵」に『船体の割には舵は大型でしかも固定式ではなく、水深に合わせて引き上げることができるように吊り下げ式で』あって、これは本邦では『水深が浅い港も多かった』ことから、『岸にできるだけ近づくための工夫で』あったと述べてある。舵が大きい理由については、それが破損しやすく遭難し易い危険性を孕むものであったものの、舵が大きいと『横流れを防ぐウイングキールの働き』『すなわち、荒天時の安全性』を度外視して、航行『性能を重視した設計思想によるもので、今ではちょっと考えられないもので』あると述べられてある。

「ふたしかであること」原文“the unstable character”。何故、平仮名なのか分からないが、ここは素直に「不安定な性質であること」若しくは「航行性能が劣る」と訳してよいところである。

「外国風の船を造ることを禁ずる法律」ウィキの「船」の「歴史」「日本」の「江戸時代」の項に、江戸初期の寛永一二(一六三五)年に「大船建造禁止令」が施行され、船の五百石積以上の建造が禁止されたとある。但し、すぐに商船は対象外となり、鎖国を行っていたがゆえに外航船を建造する必要がなくなった日本では、逆に商船が帆走専用に特化改良され、弁才船が誕生、その発展型の菱垣廻船や樽廻船が江戸期を通じて大いに近海海運を発展させたという主旨の記載がある。この辺りもモースの認識にはかなり誤りが認められる。

「スクーナー」原文“schooners”。二本以上のマストに張られた縦帆帆装を特徴とする、洋式帆船の一種。最初にオランダで十六世紀から十七世紀にかけて使われ、後のアメリカ独立戦争の時期に北米で更に発展した。(ウィキの「スクーナー」に拠った。構造・性能等はリンク先を参照されたい)。]

山之口貘詩集「思辨の苑」――新全集との対比検証開始

思潮社の新全集は「思辨の苑」の底本を後の「定本 山之口貘詩集」(バクさん自身が決定稿と見做していた)版としており、詩集「思辨の苑」初版を底本としている思潮社旧全集によって僕が電子化したものとは冒頭の「襤褸は寢てゐる」から既に微妙な違いがあることが分かった。底本が異なる以上、本文の校合をする訳にはいかないことが分かったので、必要に応じて注記を全面改稿することにした(別に松下氏の書誌解題データも先に使用したPDF論文のものとは異なる追加記載が既にあることも分かった)。先は長いが面白い。また一からバクさんの詩を味わえるのだ。――



先程、本記事をツイッターでツイートしたところ、相互フォローしている「思潮社」アカウントからリツイートされた。これで実に気持ちよく新全集との対比検証を行える。実に実に爽快である。――

2014/05/29

北條九代記 卷第六  京方武將沒落 付 鏡月房歌 竝 雲客死刑(2)承久の乱【二十八】――鏡月房以下三名、詠歌により救わる

二位法印尊長は、十津川に逃籠り、淸水法師鏡月房、同じく弟子常陸房、美濃房三人は搦め捕れて、既に切るべきに極(きはま)る所に、鏡月房一首の歌をぞ詠じける。

  勅なれば身をば寄せてき武士(ものゝふ)の八十(やそ)うぢ川の瀨には立たねど

武蔵守泰時、この歌を感じて「命助けよ」と赦(ゆるさ)れけり。一首の歌に師弟三人命を繼(つが)るゝこそ深き惠(めぐみ)の陰德なれ。

[やぶちゃん注:〈承久の乱【二十八】――鏡月房、詠歌により救わる〉

「二位法印尊長」承久の乱の首謀者の一人。既注。この後、六年間十津川などに潜伏していたが、嘉禄三(一二二七)年六月、京において謀反を計画しているところを発見され、六波羅探題北条時氏の近習菅十郎左衛門周則(ちかのり)によって自害しようとしたところを逮捕、誅殺された。

「淸水法師」「淸水」は「きよみづ」である。

 以下「承久記」の底本通し番号93の中の一部。

 

二位法印尊長ハ、十津河ニ逃籠テ有ケレ共、不ㇾ被搦出。淸水法師鏡月坊、弟子常陸房・美濃房三人、被搦取テ、已ニ切レントスル所ニ、

「聯助給へ、腰折一首仕候ヲ、見參ニ入度」由、申ケレバ、「サラバ」トテ見セ奉ルニ、

  勅ナレバ身ヲバ寄テキ武ノ八十宇治河ノ瀨ニハ立ネド

武藏守、此歌ヲ感テ、「助ケヨ」トテ被ㇾ免。纔ノ一首ニメデ給ヒテ、師弟三人ノ命ヲツガルヽコソ、目出カリケル事也ケレ。

 

 以下、「吾妻鏡」承久三(一二二一)年六月十六日の条。

 

十六日己巳。相州。武州兩刺史移住六波羅舘。如右京兆爪牙耳目。廻治國之要計。求武家之安全。凡今度合戰之間。雖多殘黨。疑刑可從輕之由。經和談。四面網解三面。是世之所讃也。佐々木中務入道經蓮者。候院中。廻合戰計。官兵敗走之後。在鷲尾之由。風聞之間。聞之武州遣使者云。相構不可捨命。申關東可厚免者。經蓮云。是勸自殺使也。盍恥之哉者。取刀破身肉手足。未終命間。扶乘于輿。向六波羅。武州見其體。違示送之趣自殺。背本意由稱之。于時經蓮聊見開兩眼。快咲不發詞。遂以卒去云々。又謀叛衆於所々生虜之中。淸水寺住侶敬月法師。雖非指勇士。從于範茂卿。向宇治之間難宥。献一首詠歌於武州。仍感懷之餘。減死罪。可處遠流之由。下知長沼五郎宗政云々。

 勅ナレハ身ヲハ捨テキ武士ノヤソ宇治河ノ瀨ニタゝネト

今日。武州遣飛脚於關東。依申合戰屬無爲之由也。

○やぶちゃんの書き下し文

十六日己巳。相州、武州の兩刺史六波羅の舘へ移り住む。右京兆の爪牙耳目の如く、治國之要の計りを廻らし、武家の安全を求む。凡そ今度の合戰の間、殘黨多しと雖も、疑しき刑は輕きに從ふべしの由、和談を經(へ)て、四面の網(あみ)、三面を解く。是れ、世の讃へる所なり。佐々木中務(なかつかさ)入道經蓮は、院中に候じて、合戰の計りを廻るらし、官兵敗走するの後、鷲尾(わしのを)に在るの由、風聞の間、之を聞き、武州、使者を遣はして云はく、

「相ひ構へて命を捨つべからず。關東へ申し、厚免すべし。」

てへれば、經蓮云はく、

「是れ、自殺を勸むるの使ひなり。盍ぞ之を恥ぢざらんや。」

てへれば、刀を取り、身肉手足を破る。未だ命を終へざる間、輿(こし)に扶け乘せて、六波羅へ向ふ。武州、其の體(てい)を見て、

「示し送るの趣きに違へて自殺するは、本意に背く。」

の由、之を稱す。時に經蓮、聊か兩眼を見開き、快く咲(わら)ひて詞を發せず、遂に以つて卒去すと云々。

又、謀叛の衆、所々に於いて生虜(いけど)る中、 淸水寺(きよみづでら)住侶(ぢゆうりよ)敬月法師は、指せる勇士に非ずと雖も、範茂卿に從ひ、宇治へ向ふの間、宥(ゆる)し難けれど、一首の詠歌を武州に献ずれば、仍つて感懷の餘りに、死罪を減じ、遠流(をんる)に處すべきの由、長沼五郎宗政に下知すと云々。

  勅なれば身をば捨ててき武士のやそ宇治河の瀨にたゝねど

今日、武州、飛脚を關東へ遣はす。合戰無爲(ぶゐ)に屬するの由を申すに依つてなり。

●「佐々木中務入道經蓮」は頼朝流人時代以来の重臣であった佐々木経高(?(一一四二年~一一五一年の間)~承久三年六月十六日(一二二一年七月七日)のこと。以下、ウィキ佐々木経高によれば、近江の佐々木庄を地盤とする宇多源氏佐々木氏棟梁佐々木秀義の次男。平治元(一一五九)年の平治の乱で父が従った源義朝の敗北により、一門と共に関東へと落ち延び、伊豆に流された義朝三男頼朝に仕えた。佐々木四兄弟は治承四(一一八〇)年に挙兵した頼朝に従い、八月十七日には平兼隆の後見で勇士とされた堤信遠を討つべくその邸宅へと赴き、頼朝と平氏との戦いにおける最初の一矢を放った後、太刀を抜き戦い、兄の定綱と共に信遠を討ち取るが、二十日頼朝に従ったものの、頼朝は石橋山の戦いで敗れる。後、十月二十日の富士川の戦いで平氏は大敗、その挙兵後初の論功行賞に於いて経高ら兄弟は旧領佐々木庄を安堵されている。寿永元(一一八二)年十月十七日には生後二ヶ月余りの頼朝の嫡子頼家の産所から将軍邸へと入る際の輿を担ぎ、建久元(一一九〇)年十一月十一日、大納言(即辞任)に就任した頼朝の石清水八幡宮への参拝に随行している。建久三(一一九二)年九月十七日までに経高は中務丞に任ぜられている。建久四(一一九三)年九月七日、後白河法皇崩御後に荒廃していた御所の宿直を命じられ、建久五(一一九四)年十二月二十六日の鎌倉永福寺の供養、翌年三月十二日の東大寺供養、八月一日の三浦三崎遊覧、八月八日の相模日向山参詣、翌々年五月二十日の天王寺参詣では兄弟らとともに、頻繁に近しく頼朝に随行している。正治元(一一九九)年一月に頼朝が没すると、翌年の七月九日に淡路・阿波・土佐の兵を京に集めたことが後鳥羽上皇の怒りに触れて、八月二日に幕府から淡路・阿波・土佐三ヶ国の守護職を解任される。翌々年に出家して経蓮と称していた経高は、先の京での騒動に対する申し開きと、挙兵の初めに平兼隆を討って以来の自身の履歴を記した書状を長男の高重に持たせて幕府へ送り、それによって赦免を得た経高は十一月十三日、鎌倉へ参じて京で書写した法華経六部を頼朝の月命日に供養、十二月三日の帰京の際には頼家と面会して、先ずは一ヶ国を戻された。その日の後の談話では往時の忘れ難き話を述べては独り涙を拭いて退き、同席した和田義盛らはこれを聞いて貰い泣きしたという。建仁三(一二〇三)年十月に近江国八王子山に拠った比叡山宗徒を攻めよとの勅命を受けた経高は、出家して高野山に在った弟高綱から兵法の助言を受け、弟の盛綱・甥の重綱(高綱嫡男)らと共に軍を発し、宗徒らを退散させている。こうした経緯が泰時の降伏赦免という慫慂の背景にはあったのである。推定生年からは亡くなった当時は若くても六十八、最長で満七十九歳という驚くべき老齢であったのである。この悲惨な僧形の老兵の死を前にし、しかも当時の明恵ら高僧に深く帰依をした泰時であってみれば、これといって感動の巧みもない(逆にその愚直にして素直な詠みっぷりにこそ泰時は惹かれもしたのであろう)和歌をして鏡月房(敬月房)子弟三名の助命をしたという「吾妻鏡」の叙述順列は、すこぶる腑に落ちるという気がする。

●「鷲尾」現在の京都市東山区鷲尾町(わしおちょう)。]

萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「何處へ行く」(18) 「秋より冬へ」(後)

 

こゝろよき朝飯(あさげ)の後のストーブに

林檎を燒けば淡雪のふる

 

[やぶちゃん注:校訂本文は「朝飯」を「朝餉」と『訂』する。採らない。]

 

吉原のおはぐろ溝のほのぐらき

中にひかれる櫛の片われ

 

[やぶちゃん注:「おはぐろ溝」は原本では「おはぐろ構」。誤字と断じて訂した。校訂本文も「おはぐろ溝」とする。この一首は二首前と同じく朔太郎満二十六歳の時、大正二(一九一三)年十月十一日附『上毛新聞』に「夢みるひと」名義で掲載された五首連作の二首目、

 吉原(よしはら)のおはぐろ溝(どぶ)のほの暗(くら)き中(なか)に光(ひか)れる櫛(くし)の片割(かたわれ)

の表記違いの相同歌である。]

 

あはれなる落葉の上の戀がたり

み膝のうへの夕時雨かな

 

藤村のふるき詩集のあひだより

あせし菫の落ちし悲しさ

 

ほのかにも木立の影に煙草の灯

白きベンチのひかる夕暮

 

[やぶちゃん注:校訂本文では「煙草の灯」を「煙草の火」と『訂』する。採らない。]

 

赤城山鹿の子まだらに雪ふれば

故郷びとも門松をたつ

       □

[やぶちゃん注:この一首は朔太郎満二十四歳の時、『スバル』第三年第三号(明治四四(一九〇三)年三月発行)に「萩原咲三」名義で掲載された(「咲二」の誤りで校正漏れか誤植)三首の二首目、

 赤城山鹿の子まだらに雪ふれば故郷びとも門松を立つ

の表記違いの相同歌である。

 なお、表記通り、この次行の前の「門松をたつ」の「を」の位置の左側に『□』が配されて、本「秋より冬へ」歌群の終了を告げる。]

飯田蛇笏 靈芝 昭和十年(九十九句) Ⅵ

 

汗疹して娘は靑草のにほひかな

 

妹に買ふうるしぐろなる日傘

 

蚊遣火や遊里の海は眞の闇

 

[やぶちゃん注:「眞ンの闇」は「しんのやみ」と読んでいるようである。]

 

  興津農林省園藝試作場

 

白靴に場(には)の睡蓮夕燒けぬ

 

[やぶちゃん注:「興津農林省園藝試作場」は明治三五(一九〇二)年に静岡県庵原郡興津町(現在の静岡市清水区)に創られた農商務省農事試験場園芸部が大正一〇(一九二一)年に農林省園芸試験場として独立したもので、現在の茨城県つくば市藤本にある独立行政法人農業・食品産業技術総合研究機構の一つである果樹研究所の前身。ナシの豊水・幸水、リンゴのふじなどを育成、また、アメリカ合衆国首都ワシントンD.C.のポトマック河畔にある桜並木の桜は明治の末に当時の東京市長尾崎行雄が送ったものであるが、その桜の苗木の育成を担当したのは当時の農商務省農事試験場園芸部(現在独立分離したカンキツ研究興津拠点)でこのワシントンの桜と兄弟の桜が興津拠点に現在も植栽されており、薄寒桜と呼ばれて親しまれている、と参照したウィキ果樹研究所にある。]

 

禽むるる大椿樹下に黐搗けり

 

[やぶちゃん注:「大椿樹下」は「だいちんじゆか(だいちんじゅか)」と音読みしているものと思われ、「大椿」大きな椿の謂いであろうが、実は「椿」を「チン」という音は本邦で作られた慣用音で、正しくは「チュン」である。しかも「椿」を「つばき」とするのは国字であって、漢語としての「椿」はツツジ目ツバTheaceae 科テアエアエ Theeae 連ツバキ属 Camellia の常緑高木のツバキ類ではなく、形態も全く異なる落葉高木ムクロジ目センダン科 Toona 属チャンチン(香椿)Toona sinensis であり、しかも「大椿」(慣用音で「ダイチン」)と書くと、現実に存在する木ではなく、「荘子(そうじ)」の「逍遙遊」に出る、一(ひと)春を八千年とする太古のの地上にあったという霊木を指す(そこから「椿壽」で長寿の喩えともする)。また、珍しい出来事を「椿事」と書いて「チンジ」と読むのは似て非なる「樁」(音「トウ」)の「樁事」(漢語で単に「事」の意で「樁」は接頭辞)を「椿事」としてしまい、しかもその慣用音から「珍事」と誤用したという救い難い誤りなのである。因みに、ツバキの科名の“Theaceae”(テアケアエ)というは、以前、この科に含められていた茶、即ちチャ属 Thea に由来するもので、チャ(茶)属Theaは一九七〇年代にツバキ属に統合されて廃止消滅したが、科名としては何故か残った。廃止になった属名がラテン語の科名に使われているというケースはこのツバキ科だけだそうである(最後の部分はウィキツバキ科を一部参考にした)。]

 

僧の綺羅みづみづしくも盆會かな

 

[やぶちゃん注:「みづみづしくも」の「みづみづ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

杣の子に遲れ躑躅と夏ひばり

 

ほたる火を曳きつぶしたる艫繩かな

 

ねみだれて闇むしあつしほたる籠

 

溪下る大揚羽蝶どこまでも

i畫伯   山之口貘

 i畫伯

 

世の虛僞はすべて消滅すべく

i畫伯よ

藝術を眞に汝の生命に見ば

反省せよ、

よくも汝は琉球を馬鹿に見し

嗚呼汝よ!

果てなく續くべきか汝の藝術は、

おれは汝の畫を求めし

人の氣の毒さに

汝の命は海路に絶えかしと祈る

世人を欺きし愚かなゑがき

汝の藝術は

常に虛僞にして、

とこしなへにのこらず、

汝よ、i畫伯よ

汝に欺かれしもの達を見よ――

しぼりしぼれる難苦の汗を

犧牲にせし報酬は

盲人の如く

心なく汝の畫を求めき。

i畫伯よ 汝は罪惡を祕めつゝ

面の皮は人二倍も厚く

そ知らぬ風す、

今のおれはエス樣もいらぬ

汝の罪を告白しなば――

i畫伯よ

汝の藝術の目覺めにもなれかし

 

[やぶちゃん注:底本では末尾に下インデントで『一九二一・七・一五』とある。大正一〇(一九二一)年十月一日附『八重山新報』に前の「情火立つの夜」とともに二篇が並載されたものと思われる。

 「エス樣」イエス様か。

 バクさんにして恐るべき個人攻撃、否、呪詛の詩である。この画家はバクさんの面識のない人物とは到底思えず、かつて親しく交わり心酔していた人物であったにも拘わらず、この時には激しく裏切られたという感懐を持っていたと推定出来ること、バクさんが彼をあえて「畫伯」と呼称していること、旧全集の年譜の大正八(一九一九)年の記載に当時十六だったバクさんがある著名な洋画家と親しく交流した事実が載ること、ところがバクさんの「私の青年時代」「ぼくの半生記」を読んでもその画家についての記載が全く現れないこと――等々から一つの推理が可能だとは思っている。但し、その人物の本名や雅号のイニシャルは「i」ではない。されば、私の憶測はここまでに止めておくこととはする。関心のある向きは旧全集を披見されたい。]

杉田久女句集 228 大正十四年 松山にて 五句

   大正十四年 松山にて 五句

 

上陸やわが夏足袋のうすよごれ

 

夏羽織とり出すうれし旅鞄

 

替りする墨まだうすし靑嵐

 

卓の百合あまり香つよし疲れたり

 

姫著莪の花に墨する朝かな

 

[やぶちゃん注:「姫著莪」は「ひめしやが(ひめしゃが)」で、単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属シャガ Iris japonica の近縁種ヒメジャガ(姫射干・姫著莪)Iris gracilipes 。常緑のシャガとは異なり冬には枯れる。花期は五~六月で直径四センチメートルほどの淡紫色の花を花茎に二、三個咲かせる。外花被片の中央は白色で、紫色の脈と黄色の斑紋があり、鶏冠状の突起がある(以上はウィキヒメシャガ」に拠る。グーグル画像検索「ヒメジャガ)。

 大正一四(一九二五)年五月二十四日の高浜虚子歓迎松山俳句大会出席時の吟詠。

 なお、この一句群の前に打たれたアスタリスクは前の箇所と同じくやはり特異で、しかもその意図が読者には判然としない。やはりこれは久女の中の隠された意識の一つの区切りのようにも思われる。]

橋本多佳子句集「紅絲」 沼 Ⅳ 枯山と狐

 

ラヂオ大きく枯山のふもとに住む

 

  裏山に狐が出て、我鶏舎を襲ふことあり

 

枯れはてゝ遊ぶ狐をかくすなき

 

枯れし木が一本立てり狐失せ

 

[やぶちゃん注:三句とも昭和一九(一九四四)年五月に大阪帝塚山から疎開のために移り住んだ奈良市あやめ池町四丁目(現在は南九丁目)の家の裏山。底本の昭和十九年の年譜記載によれば、『裏の松山に登ると、薬師寺の塔が見える』とあり、これは地図上で見る限り、現在の奈良国際ゴルフ倶楽部のある場所にあったものと推測される。]

橋本多佳子句集「紅絲」 沼 Ⅲ 童女童子

  久々にて洋子、博来る。父亡き後も健かに

  成長せしを喜びて 二句

 

童女童子来てすぐ枯れし崖のぼる

 

童子寝る凩に母うばはれずに

 

[やぶちゃん注:「洋子、博」多佳子の孫と思われ、年譜上の記載からはある程度の推測は可能であるが、不詳としておく。]

2014/05/28

杉田久女句集 227 大正十四年姉死去 二句

   大正十四年姉死去 二句

 

霧しめり重たき蚊帳をたたみけり

 

夏帶やはるばる葬に間に合はず

 

[やぶちゃん注:前書の「大正十四年」は誤記と思われる(底本にも右にママ注記が附されてある)。年譜によれば姉越村靜は大正一五(一九二六)年七月に逝去している。富士見書房平成一五(二〇〇三)年刊の坂本宮尾「杉田久女」によれば、『小倉から駆けつけたが葬儀に間に合わなかった』とあり、『三歳違いの姉は享年三十八』で、『草稿に久女は東京で最後に姉と会った日のことを、「いつになく新橋まで見送つてくれ優しく涙ぐんでゐた姉靜子」としのんでいる』と記す(引用元では「静子」であるが正字化した)。なお、久女には兄二人姉二人の五人兄姉の三女であったが、姉の一人は夭折している。]

情火立つの夜  山之口貘

 情火立つの夜

 

白き日は沈み――

夏野日の眞夜中……

何となくうら寂しい

盲目蛇の孤獨な鳴き聲は

庭の何處を漏れて來る、

孤燈の下に、

淡き光を浴びては

また合うふ日のロミを夢め見る

――優しき膚、熱き血潮、

安息は更にまたきみを描く

我知らず淡きエローの

光に溢るる笑、

嗚呼何となくもの寂しい

連想深き夜中の大氣

なほも なほも……

盲目蛇鳴く眞夜中

我はロミの姿に憧れて行く。

 

[やぶちゃん注:底本では末尾に下インデントで『一九二一・六・二四』とある。前の二作と同日の創作であるが、こちらは大正一〇(一九二一)年十月一日附『八重山新報』に次の「i畫伯」とともに二篇が並載されたものと思われる。但し、この詩にのみ「佐武路」のペン・ネームを附す(巻頭であったからか。但し、この詩が巻頭であったかどうかは底本では確認不能)。「ロミ」不詳。「エロー」はイエローか、はたまた“Eros”か。題名も「ほむらたつのよ」と読みたくなるサンボリスム的な謎めいた詩であるが、妙に気になる詩ではある。]

北條九代記 卷第六  京方武將沒落 付 鏡月房歌 竝 雲客死刑 (1)承久の乱【二十七】――官軍敗北、大臆病の後鳥羽院、帰り着いた武将らに門を開けず

      ○京方武將沒落 付 鏡月房歌 竝 雲客死刑

能登守秀康、平九郎判官胤義、山田次郎重忠は散々に打なされ、郎從どもは或は討たれ、或は落失せて、賴む影なくなり果てて、一院のおはします四辻殿へ參りたれば、武士共は「是より何方へも落行け」とて、門をも開かで突放さる。山田次郎、大音擧げて「大臆病の君に語(かた)はれ、今は内にだに入れられず、憂死(うきしに)せんずるは」とて南を指して打ちけるが、嵯峨野を心に懸けつゝ、西を遙に落行く所に、子息伊豆守に行合(ゆきあう)たり。桂川の邊にて、天野〔の〕左衞門尉、百騎計(ばかり)にて追詰めたり。人手にかゝらじとや思ひけん。山田父子は小竹の中に走り入て、腹搔切りて死ににけり。平九郎判官は、父子只二人、西山の方に行きて、心靜に自害をぞ致しける。天野〔の〕四郎左衞門は、首を延べて出でたりしを、即ち切りて捨てられたり。後藤大夫判官基淸は降人(かうにん)に出でたりしを、御許(ゆるし)なければ、子息左衞門尉基綱、申受(まうしう)けて切りにけり。他人に切せて、死骸を申受けて孝養(けうやう)せんには遙に劣れる事なりと人々、傾(かたぶ)け言合(いひあ)ひけり。駿河大夫判官惟宣は行方なく落失せぬ。

[やぶちゃん注:〈承久の乱【二十七】――官軍敗北、大臆病の後鳥羽院、帰り着いた武将らに門を開けず〉以下、本章も分離する。

「山田次郎重忠」(?~承三年六月十五日(西暦一二二一年七月六日)ここで後鳥羽院を「大臆病」と罵った、承久の乱に於ける官軍の名将であった彼を讃えて特に以下にウィキの「山田重忠」より、その事蹟を引用したい(アラビア数字を漢数字に代えさせて頂いた)。『治承・寿永の乱では父重満が墨俣川の戦いで源行家の軍勢に加わり討死したが、重忠はその後の木曾義仲入京に際して上洛し、一族の高田重家や葦敷重隆らと共に京中の守護の任に就くなどした。義仲の滅亡後、源頼朝が鎌倉幕府を創設すると尾張国山田荘(名古屋市北西部、瀬戸市、長久手市の一帯)の地頭に任じられ御家人に列する。しかし山田氏の一門は伝統的に朝廷との繋がりが深く、重忠は鎌倉期以降も京で後鳥羽上皇に近侍し、建保元年(一二一三年)には上皇の法勝寺供養に供奉するなどしている』。『承久三年(一二二一年)五月、後鳥羽上皇が討幕の挙兵をすると重忠は水野高康(水野左近将監)ら一族とともにこれに参じた。同年六月、京方は幕府軍を美濃と尾張の国境の尾張川で迎え撃つことになり、重忠は墨俣に陣を置いた。京方の大将の河内判官藤原秀澄(京方の首謀者・藤原秀康の弟)は少ない兵力を分散する愚策をとっており、重忠は兵力を集中して機制を制して尾張国府を襲い、幕府軍を打ち破って鎌倉まで押し寄せる積極策を進言するが、臆病な秀澄はこれを取り上げなかった』。『京方の美濃の防御線は幕府軍によってたちまち打ち破られ、早々に退却を始めた。重忠はこのまま退却しては武士の名折れと、三百余騎で杭瀬川に陣をしき待ちかまえた。武蔵国児玉党三千余騎が押し寄せ重忠はさんざんに戦い、児玉党百余騎を討ち取る。重忠の奮戦があったものの京方は総崩れとなり、重忠も京へ退却した』。『京方は宇治川を頼りに京都の防衛を図り、重忠は比叡山の山法師と勢多に陣を置き、橋げたを落として楯を並べて幕府軍を迎え撃った。重忠と山法師は奮戦して熊谷直国(熊谷直実の孫)を討ち取るが、幕府軍の大軍には敵わず京方の防御陣は突破された。幕府軍が都へ乱入する中で、重忠は藤原秀康、三浦胤義らと最後の一戦をすべく御所へ駆けつけるが、御所の門は固く閉じられ、上皇は彼らを文字どおり門前払いした。重忠は「大臆病の君に騙られて、無駄死にするわ」と門を叩いて悲憤した』。『重忠は藤原秀康、三浦胤義ら京方武士の残党と東寺に立て篭もり、これに幕府軍の大軍が押し寄せた。重忠は敵十五騎を討ち取る奮戦をしたが手勢のほとんどが討ち取られ、嵯峨般若寺山(京都市右京区)に落ちのび、ここで自害した』。『重忠の自害後、嫡子重継も幕府軍に捕らえられ殺害、孫の兼継は越後に流され後に出家、僧侶として余生を送った。山田氏は兼継の弟・重親の子孫が継承していった』。「沙石集」では『重忠を「弓箭の道に優れ、心猛く、器量の勝った者である。心優しく、民の煩いを知り、優れた人物であった」と称賛している。また、信仰心の篤い人物であったと云われ領内に数多くの寺院を建立したことでも知られている』。

「大臆病の君に語はれ、今は内にだに入れられず、憂死せんずるは」――「大臆病の天子に言ってやれ! 今は御所の内にさえ入ることが出来ず、このまま心に染まぬ捕囚となって犬死にするぐらいなら、今一度、敵と対して討ち死にせん!」という意である。「承久記」では「大臆病の君に語らはされて、憂死に死せんずるは」で少しニュアンスが違う感じがする。こちらは「大臆病の天子に騙られて、あたら無惨に犬死をすることとなったわ!」であろう。

「天野左衞門尉」幕府方武将天野政景。

「天野四郎左衞門」これはまさに前注の天野政景の実子で、しかし官軍に就いた天野時景である。梟首となった。

「傾け」非難し。

「駿河大夫判官惟宣」大内惟信(生没年不詳)のこと。清和源氏義光流平賀氏の一族で、大内惟義の嫡男。母は藤原秀宗の妹(承久の乱の首謀者藤原秀康の叔母に当たる)。参照したウィキの「大内惟信」によれば、元久二(一二〇五)年、『叔父の平賀朝雅が牧氏事件に連座して誅された後、朝雅の有していた伊賀・伊勢の守護を継承し、在京御家人として京の都の治安維持などにあたった。帯刀長、検非違使に任じられ、南都神木入洛を防いだり、延暦寺との合戦で焼失した園城寺の造営を奉行するなど重要な役割を果たした』。建保七(一二一九年)に第三代将軍源実朝が暗殺された後、『父惟義から惟信へ家督が譲られたと見られ、惟義の美濃国の守護も引き継いだ。しかし、鎌倉幕府は源氏将軍を断絶させた北条氏主導となり、源氏門葉であった平賀(大内)氏は幕府の中枢から離れていく事にな』り、『承久の乱では後鳥羽上皇方に付いて伊賀光季の襲撃に加わり、子息の惟忠と共に東海道大井戸渡の守りについて幕府軍と対峙した。敗北後、逃亡して』十年近くの間、『潜伏を続け、法師として日吉八王子の庵室に潜んでいた所を探知され』、寛喜二(一二三〇)年十二月に『武家からの申し入れによって比叡山の悪僧に捕らえられて引き渡された』ものの、『一命は許されて西国へ配流となり、ここに』幕府創生時、御家人筆頭であった『平賀義信以降、源氏一門として鎌倉幕府で重きをなした平賀(大内)氏は没落した』とある。

 以下、「承久記」(底本の通し番号86から93の半ばまで)。遙かに凄まじい。

 

 去程ニ、京方ノ勢ノ中ニ能登守秀泰・平九郎判官胤義・山田次郎重忠、四辻殿へ參リテ、某々歸參シテ候由、訇リ申ケレバ、「武士共ハ是ヨリ何方へモ落行」トテ、門ヲモ開カデ不ㇾ被ㇾ入ケレバ、山田二郎、門ヲ敲テ高聲ニ、「大臆病ノ君ニ語ラハサレテ、憂死ニ死センズルハ」トテ訇ケル。平九郎判官、「イザ同クハ坂東勢ニ向、打死セン。但シ宇治ハ大勢ニテアンナリ。大將軍ノ目ニ懸ラン事モ不定也。淀へ向テ死ン」トテ馳行ケルガ、東寺ニ引籠ル。駿河守ノ手者ノ中ニ、佐原次郎・天野左衞門尉馳向フ。次郎兵衞、「敵コソ多ケレ、アノ殿原ト軍シテ何カセン」トテ不ㇾ進。サレ共甥ノ又太郎、二十騎計ニテ馳向フ。平九郎判官是ヲ見テ、「ワ君ハ同一家ト云ナガラ、胤義ニハ芳志可ㇾ有トコソ覺へシニ、進寄コソウタテケレ。惡シ、アレ討トレ、者共」ト下知シケレバ、判官ノ子息太郎兵衞・次郎兵衞・高井兵衞太郎、追懸テユク。佐原又太郎一方ヲ懸破リテ、東寺ノ東ウラヲ南へ向テ落行ケリ。相近ニ追懸テ責ケレバ、「是ハ又太郎ニハ非ズ、藤内行成ゾ」ト名乘ケレバ、「何レ、只ウテヤウテヤ」トゾ責ケル。堀ノ際ニ被責攻テ、少シタメラフ所ヲ、太郎兵衞甲ノ鉢ヲハタト打落ス。又太郎早ワザノ者ニテ、馬ヲバ捨テ、堀ヲヒラト飛越、向ノ深田ニゾ立タリケル。太郎兵衞、「如何ニ狐ノバケハ顯レタリ」ト云へバ、又太郎、「殿原ヲモ見ソダテタリ。景吉ヲ打タリ共、勝間敷軍也。ワ殿原ヲ打テモ無用ノ事也」ト云へバ、判官子共返テ父ニ此由ヲ申ケレバ、各笑テ興ニ入。

●「訇リ」「よばはる」と訓じていよう。

●「佐原」「又太郎」佐原氏は胤義と同族の三浦一党である。「吾妻鏡」の建暦三(一二一三)年正月二日の実朝へ垸飯の儀の進物の役人の「二の御馬」として「三浦九郎左衞門尉」(胤義)と「佐原又太郎」の名が並置されてあり、系図では佐原景連の子に蛭河又太郎景義の名を見出せるが、彼か。

●「見ソダテタリ」「見育つ」は面倒を見て養育するの意であるから、わざわざ討たずに命を救ってやったのだ、の謂いか。

●「景吉」蛭河又太郎景義のことか。

 

 又、安西・金鞠カケシカバ、能登守・山田次郎モ落ニケリ。角田太郎・同彌平次、殊ニ進ケリ。彌平次、判官ニ組マント心懸テ、相近ニツト寄合スル所ニ、判官、馬ヨカリケレバ、ツト通ル。彌平次取ハヅス所ヲ、判官ノ郎等、三戸源八組デ落。互ニシタ、力者ニテ、キト勝負モ無ケル。彌平次ガ乘替落合フテ、三戸源八ガ首ヲ取。判官子息次郎兵衞・高井兵衞太郎、敵ニ被組隔テ、東山へ落行ケルガ、地藏堂ノ奧ナル竹ノ中へ引籠リテ、馬切殺シ、物具切捨、二郎兵衞云ケルハ、「高井殿、御邊ハ同一門ト乍ㇾ云、イトケナキヨリ兄弟ノ契ヲナシ、馳遊デ、御邊十七、兼義十六、只今死ン事コソ嬉シケレ。構テ強ク指給ナ。我モ能指ンズル」トテ、手ヲ取運指違テ、同枕ニゾ臥ニケル。

●「兼義」胤義次男と思われる「二郎兵衞」自身の本名。

 

 山田二郎ハ嵯峨ノ奧ナル山へ落行ケルガ、或河ノ端ニテ、子息伊豆守・伊預房下居テ、水ヲスタヒ飮デ、疲レニ臨ミタル氣ニテ休居タリ。山田二郎、「アハレ世ニ有時、功德善根ヲセザリケル事ヲ」ト云ケレバ、伊預房、「大乘經書〔寫〕供養セラル。如法經ヲコナハセテ御座ス。是ニ過タル功德ハ候ハジ」ト申セバ、山田二郎、「サレ共」ト云所ニ、天野左衞門ガ手ノ者共、猛勢ニテ押寄タリ。伊豆守、「暫ク打ハラヒ候ハン。御自害候へ」トテ、太刀ヲ拔テ立揚リ打ハラフ。其間ニ山田二郎自害ス。伊豆守、右ノ股ヲ射サセテ、生取ニ成テ被ㇾ切ニケリ。

 

 平九郎判官、散散ニ戰程ニ、郎等・乘替、或ハ落或ハ被ㇾ討テ、子息太郎ト親子二輪ニ成テ、東山ナル所、故畠山六郎サイゴノ人マロト云者ノ許へ行テ、馬ヨリ下テ入タリ。疲レテ見へケレバ、ホシイ洗ハセ、酒取出テスヽメタリ。暫ク爰ニ休息シテ、判官、鬂ノ髮切テ九ニ裹分テ、「一ヲバ屋部ノ尼上ニ奉ル。一ヲバウヅマサノ女房ニ傳へ給へ。六ヲバ六人ノ子共ニ一アテ取スベシ。今一ヲバワ御前ヲキテ、見ン度ニ念佛申テ訪ヒ給へ」トテ取スレバ、人マロ泣々是ヲ取、心ノ中コソ哀ナレ。

●「畠山六郎サイゴノ人マロ」畠山重忠の乱(北条義時の謀略)で亡くなった重忠の子「六郎」重保には、ウィキの「畠山重保」によれば、『子に時麿(小太郎重行)があったと伝え、目黒氏を称したという』とあり、この人物か。

●「鬂」鬢(びん)に同じい。

●「裹分テ」「つつみわけて」と訓じていよう。

●「屋部ノ尼上」不詳。彼の乳母か。

●「ウヅマサノ女房」既に注し、「承久記」にも載るように、『胤義の妻は二代将軍・源頼家の愛妾で男子を生んだ女性であり、頼家の死後に胤義の妻となっていた。実朝の横死後に仏門に入っていた妻と頼家の子の禅暁の将軍擁立を望んだが、執権北条氏の画策で将軍後継者には摂関家から三寅が迎えられ、その上に禅暁も殺されてしまう。『承久記』によれば、先夫(頼家)と子を北条氏によって殺されて嘆き悲しむ妻を憐れに思い、鎌倉に謀叛を起こそうと京に上ったと述べている』(引用はウィキ三浦胤義」より)。この女房はこの妻のことであろう。

 

 サテ胤義、ウヅマサニアル幼稚ノ者共、今一度見ントテ、父子二人ト人マロ三人、下簾懸タル女車ニ乘具シテ、ウヅマサへ行ケルガ、コノシマト云フ社ノ前ヲ過ケルニ、敵充滿タリト云ケレバ、日ヲ暮サントテ、社ノ中二親子隱レ居クリ。人マロヲバ草ニノセテ置ヌ。

●「コノシマト云フ社」木嶋坐天照御魂(このしまにますあまてるみたま)神社。京都市右京区太秦森ヶ東町にある。

 

 去程ニ古へ判官ノ郎從ナリシ藤四郎賴信トテアリシガ、事ノ緣有テ家ヲ出、高野ニ有ケルガ、都ニ軍有ト聞テ、判官被ㇾ討テカヲハス覽、尸ヲモ取テケウヤウセントテ、京へ出テ、東山ヲ尋ケルニ、ウヅマサノ方へト聞テ尋行程ニ、コノシマノ社ヲ過ケルニ、「アレ如何ニ」ト云聲ヲ聞ケバ、我主也。是ハサレバト思テ、入テ見レバ、判官父子居給ヘリ。「如何ニ」ト申セバ、「軍破レテ落行ガ、ウヅマサニアル幼稚ノ者共ヲ見ルカト思テ行程ニ、敵充滿タル由聞ユル間、日ノカクルヲ待ゾ」ト云へバ、賴信入道、「日暮テモ、ヨモ叶ヒ候ハジ、天野左衞門ガ手ノ者ミチテ候へバ」ト申ケレバ、「太郎兵衞、今ハ角ゴサンナレ、自害ヲセヨ」。太郎兵衞、「賴信入道ヨ、母ニ申ンズル樣ハ、『今一度見進ラセ候ハントテ參候ガ、叶間敷候程ニ、御供ニ先立、自害仕候。次郎兵衞胤連ハ高井太郎時義ニ被懸隔テ、東山ノ方へ落行候ツルガ、被ㇾ討テ候ヤラン、自害仕テ候ヤラン、行衞モ不ㇾ知候。去年春除目ニ、兄弟一度ニ兵衞尉ニ成テ候へシカバ、世ニ嬉シゲニ被思召テ、哀、命存へテ是等ガ受領・檢非違使ニモ成タランヲ、見バヤト仰候シニ、今一度悦バセ進ラセ候ハデ、先立進ラセ候コソロ惜アハレニ覺候へ』ト申セ」トテ、念佛申、腹搔切テ臥ヌ。未足ノ動ラキケレバ、父判官、是ヲ押へテ靜ニヲハラセテ、「首ヲバウヅマサノ人ニ今一度見セテ、後ニハ駿河守殿ニ奉リ、イハン樣ハ、『一家ヲ皆失フテ、一人世ニヲハセンコソ目出度ク候へ』ト申」トテ、西ニ向十念唱へ、腹搔切テ臥ヌ。

●「動ラキケレバ」「はたらきければ」と訓じていよう。

●「駿河守」幕府軍の兄三浦義村。

 

 藤四郎入道、此首ヲ取テ、社ニ火カケ、二ノ首ヲ持テ泣々ウヅマサへ行テ、女房ニ見セ奉リケレバ、抱キカヽヘテ、人目ヲモツヽマズ、恥ヲモ不ㇾ顧、泣悲事、譬ン方モナシ。藤四郎入道申ケルハ、「只今、敵亂入テ奪取候ナンズ。『後ニハ駿河守殿ニ進ラセヨ』ト被仰置候ツル。今ハ給リ候ハン」ト申ケレ共、力ヽへ惜ミテ不放給ケルヲ、兎角シテ乞取テ、駿河守殿ニ奉ル。一腹一生ノ兄弟トシテ、思合ヒタリシ中ナレバ、實ニ哀レニ覺へテ涙ヲ流シ、ソヾロニ袖ヲゾシボラレケル。首ヲバ「武藏守殿へ進ラセヨ」トテ被ㇾ送。其外ニ、散散ニ落行ヌ。或ハ又所々ニテ生取、被ㇾ切ケル。

●「武藏守」北条泰時。

 

 京方軍破テ、サテモ一院ハサリ共トコソ被思召シカ共、忽ニ王法盡サセマシマシテ、空ク軍破レバ、如何ナル事ヲカ被思召ケン。

 天野四郎左衞門尉、首ヲ延テ出タリケルヲ、相模守、武藏守へ被ㇾ申ケレバ、可ㇾ被ㇾ切トテ被ㇾ切ケリ。後藤大夫判官基淸、降人ニ成タリシヲ、子息左衞門尉基網申受テ切テケリ。「侘人ニ切セテ死骸ヲ申請、孝養シタランニハ、頗ル劣リ也」トゾ人々カタブケ申ケル。駿河大夫判官惟宣ハ行衞モ不ㇾ知落失ヌ。

●途中の改行は底本のママ。ここは所謂、段落番号はないので、そのまま続けて電子化した。

 以下、「吾妻鏡」の承久三(一二二一)年六月十五日の条も見ておく。

〇原文

十五日戊辰。陰。寅尅。秀康。胤義等參四辻殿。於宇治勢多兩所合戰。官軍敗北。塞道路之上。已欲入洛。縱雖有萬々事。更難免一死之由。同音奏聞。仍以大夫史國宗宿彌爲勅使。被遣武州之陣。兩院。〔土御門。新院〕兩親王令遁于賀茂貴舟等片土御云々。辰刻。國宗捧院宣。於樋口河原。相逢武州。述子細。武州稱可拜院宣。下馬訖。共勇士有五千餘輩。此中可讀院宣之者候歟之由。以岡村次郎兵衞尉。相尋之處。勅使河原小三郎云。武藏國住人藤田三郎。文博士者也。召出之。藤田讀院宣。其趣。今度合戰。不起於叡慮。謀臣等所申行也。於今者。任申請。可被宣下。於洛中不可及狼唳之由。可下知東士者。其後又以御隨身賴武。於院中被停武士參入畢之旨。重被仰下云々。盛綱。秀康逃亡。胤義引籠于東寺門内之處。東士次第入洛。胤義與三浦佐原輩。合戰數反。兩方郎從多以戰死云々。巳刻。相州。武州之勢著于六波羅。申刻。胤義父子於西山木嶋自殺。廷尉郎從取其首。持向太秦宅。義村尋取之。送武州舘云々。秉燭之程。官兵宿廬各放火。數箇所燒亡。運命限今夜之由。都人皆迷惑。非存非亡。各馳走東西。不異秦項之災。東士充滿畿内畿外。求出所遁戰場之歩兵。斬首拭白刄不有暇。人馬之死傷塞衢。行歩不安。郷里無全室。耕所無殘苗。好武勇西面北面忽亡。立邊功近臣重臣。悉被虜。可悲。當于八十五代澆季。皇家欲絶。

今日。關東祈禱等結願也。屬星祭々文。民部大夫行盛相兼草淸書。及此期。官兵令敗績。可仰佛力神力之未落地矣。

○やぶちゃんの書き下し文

十五日戊辰。陰る。寅の尅、秀康・胤義等、四辻殿に參ず。宇治・勢多兩所の合戰に於いて、官軍、敗北す。道路を塞ぐの上、已に入洛を欲す。縱ひ萬々の事有りと雖も、更に一死を免かれ難きの由、同音に奏聞す。仍つて大夫史(たいふのし)國宗宿彌(すくね)を以つて勅使と爲し、武州の陣に遣はさる。兩院〔土御門・新院。〕・兩親王は賀茂貴舟(きぶね)等の片土に遁れしめ御(たま)ふと云々。

辰の刻、國宗、院宣を捧げ、樋口(ひぐち)河原に於いて、武州に相ひ逢ひ、子細を述ぶ。武州、院宣を拜すべしと稱して、馬より下り訖んぬ。共(とも)の勇士五千餘輩有り。

「此の中に、院宣を讀むべきの者、候ふか。」

の由、岡村次郎兵衞尉を以て、相尋ねるの處、勅使河原(てしがはら)小三郎云はく、

「武藏國住人藤田三郎は、文博士(もんはかせ)の者なり。」

と。之を召し出だす。藤田、院宣を讀む。其の趣き、

『今度の合戰、叡慮に於て起らず、謀臣等の申し行ふ所なり。今に於ては、申し請くるに任せて、宣下せらるべし。洛中に於いて狼唳(らうえい)に及ぶべからずの由、東士に下知すべし。』

てへり。其の後、又、御隨身(ずいじん)賴武を以つて、院中に於いて武士の參入を停められ畢んぬるの旨、重ねて仰せ下さると云々。

盛綱・秀康、逃亡す。胤義、東寺の門内に引籠るの處、東士、次第に入洛し、胤義と三浦・佐原の輩と合戰すること數反(すへん)にして、兩方の郎從、多く以つて戰死すと云々。

巳の刻、相州・武州の勢六波羅に著く。申の刻、胤義父子、西山の木嶋に於いて自殺す。廷尉の郎從、其の首を取り、太秦の宅へ持ち向ふ。義村、之を尋ね取り、武州の舘へ送ると云々。

秉燭の程、官兵が宿廬、各々放火し、數箇所、燒亡す。運命、今夜に限るの由、都人、皆、迷惑す。存ずるに非ず、亡ずるに非ず、各々東西に馳走(ちそう)す。秦項(しんこう)の災ひに異ならず。東士、畿内・畿外に充滿し、戰場を遁れる所の歩兵を求め出だして、首を斬り、白刄を拭ふに暇(いとま)有らず。人馬の死傷、衢(ちまた)を塞ぎ、行歩(ぎやうぶ)、安からず。郷里(がうり)に全く室無く、耕す所に殘苗無し。武勇を好む西面・北面、忽ち亡び、邊功(へんこう)を立つる近臣・重臣、悉く虜(とら)へらる。悲むべし、八十五代の澆季(げうき)に當り、皇家、絶へんと欲す。

今日、關東の祈禱等の結願也。屬星祭(ぞくしやうさい)の祭文は、民部大夫行盛、草・淸書を相ひ兼ぬ。此の期に及びて、官兵、敗績せしむ。佛力・神力の未だ地に落ちざるを仰ぐべし。

●「寅の尅」午前四時頃。

●「大夫史國宗宿彌」小槻国宗(おづきのくにむね)。「大夫史」は太政官弁官局の大史から五位の位階(大夫)に昇る者。

●「藤田三郎」藤田能国。「吾妻鏡」には寿永三年三月五日に父藤田三郎行康が摂津での平家征伐に先登して討死した勲功によって頼朝が武蔵国の遺跡を『子息能國傳領すべきの旨』命じた記事に初出し、建久三(一一九二)年六月一日にはその『弓馬の藝を繼ぐ故に』恩賞が与えらえおり、建久六(一一九五)年三月十日の頼朝東大寺再建供養には随兵にその名を見出せ、実に文武に秀でた人物であったことが窺える。

●「文博士」狭義には文章博士(もんじょうはかせ)は大学寮の教官であるが、ここが単に文才があることを指しているようである。

●「狼唳」狼藉に同じい。

●「院中に於いて武士の參入を停められ畢んぬる」この「武士」とは朝廷軍のこと。

●「巳の刻」午後四時頃。

●「秦項の災」秦の始皇帝が六国と戦って次々とこれを滅ぼし天下を統一するも、始皇帝の没するや、楚の項羽と漢の劉邦によって国は覆えされ、さらに引き続いて項羽と劉邦との覇権争いが続いた、二、三十年に及ぶ戦災や苛政による人民の禍いをいう。

●「郷里に全く室無く、耕所に殘苗無し」故郷では帰るべき家も完膚なきまでに壊され焼き尽くされなくなってしまい、農地は荒らされて一本の苗さえも残っていない。

●「邊功を立つる近臣・重臣」京を離れた国々を武功として授かった主上の近臣や重臣。前に近衛の衛士であるところの「武勇を好む西面・北面」の武士が出るからそれとの対句表現を狙ったものであろう。

●「八十五代」当時の今上天皇であった仲恭天皇は第八十五代天皇。承久の乱に組した父順徳天皇(当時満二十三歳)の企略に基づき、承久三(一二二一)年四月二十日に譲位され、実に未だ二歳六ケ月での践祚であった。

●「澆季」「澆」は軽薄、「季」は末の意で、道徳が衰えて乱れた世。世の終わり。末世。

●「屬星祭」陰陽道の掌る星祭りで個人の運命を支配する属星を祭り、開運厄除けを祈願する。この場合、直接的個人としては総大将である泰時のそれか。

●「民部大夫行盛」政所執事にして評定衆であった二階堂行盛。

●「敗績」大敗してそれまでの功績を失うこと。]

柴田天馬訳 蒲松齢 聊斎志異 宅妖

 宅妖たくよう

 大司寇だいしこう一の甥にあたる長山の李翁の家には、あやしいことが多かった。
 あるとき、見ると、広間に大きな肉紅色の春櫈こしかけがおいてあるのだ。李の家には、もとから、そんな物はなかったから、怪しみながら近よってなでてみると、手につれて曲るぐあいが、まるで肉のようにやわらかだった。李は驚いてあとずさったが、ふりかえって見ると、四足を動かして、だんだん壁の中にはいって行った。
 また、きよらかな、ながい、白い棒が壁に立てかけてあるのを見て、近よって、それを持とうとすると、ぐにゃりと倒れて、うねうね壁にはいって行き、やがて見えなくなってしまった。
 康熙十七年、王俊升おうしゅんしょうという秀才が、その家で子弟に教えていたが、ある日暮れ、燈火をつけてから、靴をはいたまま寝台に寝ていると、三寸ばかりの小人が外からはいって来て、ちょっとひとまわりして、また、行ってしまった。しばらくすると、二つの小さな腰かけをになってきて座敷にすえた。それはまるで子どもたちがつかう玉蜀黍とうもろこししんでこしらえたもののようだった。また、しばらくすると、二人の小人が、一つの棺をかついではいって来た。棺は長さがやっと四寸ばかりのもので、それを腰かけの上においた。そして、まだかたづかないうちに、一人の女が数人の廝婢めしつかいをつれてやって来た。みんな前のような小人ばかりである。女は※衣もふくをきて、麻ひもで腰をしぼり、頭を白い布でつつんでいたが、袖で口をおおい、おうおうと泣く声ほ、大きな蠅のようだった。[やぶちゃん字注:「※」=「衤」+「衰」。]
 王は、しばらく見ているうちに、からだに霜がかかったように、ぞっとしてきたので、わっといって駆けだそうとした。が、寝台の下にころげ落ちたまま、わなわなして、立つことができなかった。
 うちの人たちは、その声を聞きつけて、みんな集まったが、部屋の小さな人物は、もう見えなかった。

  注

一 清朝の刑部尚書である。

■原文

 宅妖

長山李公、大司寇之姪也。宅多妖異。
嘗見廈有春凳、肉紅色、甚修潤。李以故無此物、近撫按之、隨手而曲、殆如肉耎。駭而卻走。旋囘視、則四足移動、漸入壁中。
又見壁間倚白梃、潔澤修長。近扶之、膩然而倒、委蛇入壁、移時始沒。
康熙十七年、王生俊升設帳其家。日暮、燈火初張、生著履臥榻上。忽見小人、長三寸許、自外入、略一盤旋、即復去。少頃、荷二小凳來、設堂中、宛如小兒輩用梁䕸心所製者。又頃之、二小人舁一棺入、僅長四寸許、停置凳上。安厝未已、一女子率廝婢數人來、率細小如前狀。女子※衣、麻綆束腰際、布裹首、以袖掩口、嚶嚶而哭、聲類巨蠅。[やぶちゃん字注:「※」=「衤」+「衰」。但し、原参考引用元では「※衣」を「衰衣」とする。]
生睥睨良久、毛森立、如霜被於體。因大呼、遽走、顛床下、搖戰莫能起。
館中人聞聲畢集、堂中人物杳然矣。

[やぶちゃん注:私は個人的にこの掌篇の怪異を殊の外、偏愛している。それはその怪異が何らの動機も不吉の前兆ともされずに、ただ投げ出されてあるからである。真に恐ろしい幽霊屋敷、怪談のとはかくなるものをいうと私は信じて疑わないからである。]

耳嚢 巻之八 狂歌秀逸の事

 狂歌秀逸の事

 

 今は故人なり、橘宗仙院は狂歌の才ありて度々その秀逸を聞しが、或日狂歌よみと人のもてはやせし、興名もとの木阿彌といへるおのこ宗仙院へ來りしに、法印いへるは、御身狂歌に妙を得しと聞く、我等も狂歌を詠出せし事あり、一首即席の吟を聞度(ききたし)とありしかば、題給り候樣、木阿彌乞(こひ)けるゆゑ、花といえる事を詠めとありければ、

  散ふかと人みなおもひ煩へば花にも風は百病の長

言下に詠るを、法印も深く感嘆せしとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。狂歌シリーズ。既にお馴染みの面々が登場する。

・「橘宗仙院」冒頭に「今は古人となりし」とあり、「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏であることを考えると、「卷之三 橘氏狂歌の事」に既注済の「橘宗仙院」元孝であるが、彼は延享四(一七四七)年八十四歳で没しており、これ次に示す「もとの木阿彌」の狂歌師としての事蹟からは当て嵌まらないように思われる(元孝の没年には「もとの木阿彌」は未だ二十三歳で狂歌師として知られてはいない)。耳嚢 巻之七 幽靈恩謝する事で同定候補とした同じく奥医で法印であった次代の「橘宗仙院」元周(もとちか 享保一三(一七二八)年~?)なら「もとの木阿彌」の活躍年代と生没年では一致するから最有力か。没年が不詳なのが痛い。彼は寛政一〇(一七九八)年に七十一歳で致仕している(彼の次の代ならば元春になるが、これは「もとの木阿彌」の生没年代との関係からは考え難い)。

・「もとの木阿彌」耳嚢 巻之七 郭公狂歌の事で既注。狂歌師元木網(もとのもくあみ 享保九(一七二四)年~文化八(一八一一)年)。姓は金子氏、通称は喜三郎、初号は網破損針金(あぶりこのはそんはりがね)。晩年は遊行上人に従って珠阿弥と号した。壮年の頃に江戸に出、京橋北紺屋町で湯屋を営みながら国文・和歌を学び、同好の女性すめ(狂名、智恵内子(ちえのないし)。彼女も「耳嚢 巻之三 狂歌流行の事」に既出)と結婚後、明和七(一七七〇)年の唐衣橘洲(からころもきっしゅう)宅での狂歌合わせに参加して以来、本格的に狂歌に親しむようになる。天明元(一七八一)年に剃髪隠居して芝西久保土器町に落栗庵(らくりつあん)を構え、無報酬で狂歌指導に専念した。数寄屋連をはじめ門人が多く、「江戸中はんぶんは西の久保の門人だ」(「狂歌師細見」)と称されて唐衣橘洲・四方赤良(大田南畝)と並ぶ狂歌壇の中心的存在となった。寛政六(一七九四)年には古人から当代の門人までの狂歌を収めた「新古今狂歌集」を刊行している(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

・「興名」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『狂名』。「興」(面白おかしい)でも意味は通らないことはないが、一般名詞としてはないので、訳では狂名とした。

・「散ふかと人みなおもひ煩へば花にも風は百病の長」「散ふかと」は「ちらふかと」又は「ちろふかと」で、

……散ってしまうかと人は皆、心煩う――さすれば花にとっても風は百薬ならぬ百病の長(ちょう)……

「風」に「風邪」を掛ける。「散る」「花」「風」がまず縁語で、しかも「煩ふ」「風(邪)」「百病」を別に縁語として利かす。橘宗仙院は奥医師であるから、病いを全体に配して狂歌師同士の挨拶の一首と巧んだ。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 秀逸の狂歌の事

 

 今は故人となられた、橘宗仙院殿は狂歌の才、これあり、度々その秀逸なる一首をものされては世間に知られておられたが、ある日のこと、狂歌師として世上にてもて囃されておった狂名「もとの木阿弥」と申す男が、この宗仙院の元を訪ねて参った。

 法印の曰く、

「御身、狂歌に妙を得(う)と聞く。我らも狂歌を詠み出だすこと、これあれば、一首即席の吟を聞きとう存ずる。」

との仰せなれば、木阿弥、

「題を給りたく存じまする。」

と乞うたによって、

「されば――花――といえることを詠まれよ。」

との仰せに、

 

  散ふかと人みなおもひ煩へば花にも風は百病の長

 

と淀みなく即座に詠じたを、法印も深く感嘆なされた、とのことで御座った。

柴田天馬訳 蒲松齢 聊斎志異 辛十四娘

 辛十四娘しんじゅうしじょう

 広平こうへいひょう秀才は正徳のころの人で、若い、気がるな酒のみだった。
 あるとき、朝早く歩いていると、美しい娘が、小奚奴ボーイ一を従え、露を踏み、履襪たびをぬらして行くのに会い、いい女だと思ったのである。
 夕がた、酔って帰って来る道ばたに故蘭若ふるでらがあって、その中から出て来たのは、さっきの麗人であった。馮の来るのを見ると、すぐ身をかえして中にはいった。
 馮は、ひそかに考えた、美しい娘が禅寺にいるはずはないと。で、驢馬ろばを門につなぎ、怪しい娘を見届ける気で中にはいった。垣はたえだえにくずれ落ち、階上には細草おぐさが毛氈を敷いたようにはえている。馮がぶらついていると、身なりの小ぎれいな、ごましおの老人が出て来て、
 「客人は、どこから来られたのじゃ」
 聞く。馮は、
 「ふと、この古寺に来たので、ちょっと、うかがいたいと思ったんです。老人はなんでここにこられたんです?」
 「わしは、寄るべがないので、しばらくこの寺を借りて、家内・子どもを落ちつかせているのです。来てくださったんだから、お酒がわりにお茶でもいれましょう。お寄りなされ」
 すすめられてはいって行くと本殿のうしろに一かまえの庭があって、石の路が、きれいに掃除されて草もなく、部屋にはいると、簾幌カーテン牀幌ねだいがけから、香霧が、噴きつけるように漂ってくるのであった。やがて席につくと老人は、
 「わしの姓はしんといいますじゃ」
 と言って姓字をのべた。
 馮は酔いに乗じて、
 「娘ごは、まだ、おつれあいがないと聞きましたので、みずからはからず、鏡台をあげたいと思って来たんです」
 辛は、にこにこしながら、
 「家内に相談してみますでな」
 と言うので、馮は筆を求めて詩を作った。それは、

  千金玉杵せんきんぎょくしょをもとむ。
  いんぎんに手みずからもつ。
  雲英うんえいにもし意あらば、
  みずからため元霜げんそう

 というのである。主人は笑って、そばのものにそれをわたした。しばらくするとじょちゅうが来て、辛に何かささやいた。辛は馮に、待っていてくれとあいさつしてたちあがり、幕を引きあげて奥にはいっていった。そして、こそこそ三口四口話して出てきた。馮は、きっと、よい返事があるだろうと思っていた。しかし、辛はすわりこんで笑いばなしをするばかりで、ほかの事は何も言わないのだ。馮は耐えられなくなって、
 「どうです。聞かせてください」
 と言うと、辛は、
 「あなたは、えらいかたです。久しくしたっているのです。しかし私の考えは言えませんじゃ」
 馮は、かたく話してくれと頼んだ。すると辛は、
 「子どもは十九人で、嫁にいったのが十二人あります。かたづけるのは家内まかせで、わしは取りあわんことになっていましてな」
 と言うのである。
 「小生は、今朝小奚奴をつれて露にぬれながら歩いていた人がほしいんです」
 辛は答えなかった。二人は黙って向かいあっていた。すると、奥からやさしい声が聞こえてきたので馮は酔いに乗じて簾をかかげ、
 「妻にもらえんければ顔でも見て、それで、満足しましょう」
 と言った。簾の鉤の動く音を聞くと、内では、みんな立ちあがって、驚きながめるのであった。そのなかに、袖を振り、かみをかたむけ、すらりと立って帯をいじりながら、はいってくる人を見ている紅い着ものの人がいた。
 部屋じゅうが騒ぐのをみて辛は怒った。そして数人の下男に言いつけ、馮を外に突き出した。馮は酒がいよいよまわってきたので、草の中に倒れてしまった。すると瓦や石が雨のように乱れ落ちてきたが、幸いにしてからだには当たらなかった。
 しばらくていると、驢馬がまだ路ばたで草を食っているのが聞こえたので、起きあがって驢馬にまたがり、ふらふらしながら行くのであったが、おぼつかない夜だったので、途を誤って谷あいにはいった。狼が歩いたりふくろうが鳴いたりするのである。馮は、ぞっと身の毛をよだたせ、うろうろ見まわしたがどこだか少しもわからなかった。と、はるかに木だちの中から、燈火がちらちらもれているので、たぶん村落だろうと思って、そこをさして馳せつけると、仰いで見るような高い門があった。鞭で門をたたくと中で、
 「どこのかたです。こんな夜中においでになったのは」
 と聞く人があった。馮が路に迷ったのだと言うと、
 「お待ちなさい、主人に申しますから」
 馮は足をならべてくぐいのように待っていたが、しばらくするとかんぬきをははずして扉を開き、たっしゃそうな下男が出て来て、馮に代わって驢馬をひいてくれた。
 案内に従って中にはいった。たいそうりっぱな部屋で、座敷には燈火が輝きわたっていた。しばらくすわっているうちに、婦人が出て来て、姓名をたずねた。馬が名を告げると、ややあって数人の靑衣こしもとが一人の老夫人を助けて出て来た。そして、
 「郡君ぐんくん四がおいでです」
と言った。馮が起立して、うやうやしく拝礼しようとするのを老夫人は止めて座につかせ、自分もすわって、
 「おまえは馮雲子ひょううんしの孫ではないかね」
 と言うので、馮が、
 「そうです。どうしてごぞんじなんです」
 と聞くと老夫人は、
 「おまえは、わたしのとお甥なのじゃ。わしは鐘漏並歇としをとっ五て老いさきがないのに、骨肉しんみのなかでいながら、とんとぶさたをしていますじゃ」
 と言うので、馮は、
 「わたしは小さいときに父を失ったもんですから、わたしの祖父のころの人は、十人のなかで一人も知らないくらいなんです。まだお会いした事がありませんが、どうぞ教えていただけませんか」
 と言うと、老夫人は、
 「おまえ、いまにわかるよ」
 と言うので、馮はふたたび聞かなかった。そして向かいあったまま考えていた。すると老夫人が、
 「おまえ、こんな夜ふけにどうしてここへ来たのです」
 馮は胆力を誇ろうと思って、今夜であった事を詳しく話した。老夫人は、にこにこして、
 「たいへんよい事じゃ。まして、おまえは人に知られた秀才じゃから、縁者の恥になりほせぬ。野狐なぞがいばることはでけんのじゃ。おまえ心配するにおよばん。わしが、うまく呼んであげるからの」
 馮は、はいはいと礼を言った。老夫人は側の者に、
 「わしは辛家の女の子を知らんが、そんなに、よいかの」
 すると腰元が、
 「あれには十九人娘があって、都翩々有風格みなひとがらでございます。あなたが娶りたいとおっしゃるのは、何番めですかしら」
 馮は言った、
 「年が、かれこれ十五あまりなんです」
 「それは十四番めの娘でございます。三月ちゅう、母親について郡君あなたをお寿いわいにまいりましたのに、どうしてお忘れあそばしたんです?」
老夫人は、にこにこして
 「そんなら、蓮のはなった高いくつをはいて、履のなかに香くずをいれ、しゃでうえをいて歩いていたのかえ?」
 「そうでございます」
 そこで、
 「あのこは、おめかしが、うまいのだね。そしてほんとに美しかったよ。甥の賞鑒めききは、あやまっとらん」
 と言って老夫人は腰元に向かい、
 「小狸をやって呼んで来さしなさい」
 腰元は、はいと言って部屋を出たが、しばらくたってからはいって来て、
 「辛家の十四娘を呼んでまいりました」
 と言った。
 すぐ紅衣の娘が来て老夫人の前にひれふし、拝礼しようとするのを老夫人は引きとめて、
 「ゆくゆくは、うちの甥嫁じゃ、女中の礼をしなさるな」
 娘は立ちあがって、紅衣の袖を低く垂らし、すらりと立っている、その髪をなでつけて、耳環をいじりながら、
 「十四娘、近ごろうちにいて、どんなことをしてじゃ」
 「ひまな時には、ただ挑繡ぬいとりをしております」
 と答えたが、ふりむいて馮を見ると、はにかんで不安そうな顔をしていた。
 老夫人が、
 「これは、わしの甥で、熱心におまえと縁ぐみをしたがっているのじゃ。なぜ路に迷わせたり、一晩じゅう谷を歩かせるようなめに、あわしたのだえ?」
 と言うと、娘は、うつむいたまま黙っていた。
 「わしがお前を呼んだのは、ほかではない。甥のために、仲人をしようと思うてじゃ」
 娘が黙っているばかりなので、老夫人はねだいを掃除して、ふとんを敷くように言いつけ合巹とこいりをさせようとするのだった。娘は、はにかみながら、
 「帰って父や母に申します」
 「わしがお前のために、仲人をするのじゃ。なんのまちがいが、ありましょうぞ」
 「父母は、郡君あなたのおおせにそむくようなことはありますまいが、こんなに早々では、わたくし、おおせにしたがえません」
 おだやかな顔つきなのだが、どこやらに強い気持ちが漂っていた。老夫人は、にこやかに、
 「小娘ながら志を動かせぬのは、まったく、わたしの甥嫁ほどある」
 と言って娘の頭上から金のかんざしの一つを抜いて馮にわたし、家に帰って吉日をきめるように言いつけた。そして腰元に娘を送りかえさした。遠くの方で鶏のうたうのが聞こえるのである。老夫人は下男に命じて驢馬をひかせ、馮を送り出させた。数歩の外に出て、ふりかえると、村舎いなかやはもうなくなって、ただ松、ひさぎがくっきり黒く、蓬の穂が墓をおおっているはかりだった。馮は、しばらく考えてから、やがてそこが薛尚書せつしょうしょの墓であることに気づいた。薛尚書というのは、もと、馮の祖母の弟であったので、馮を甥と言っていた。馮はゆうれいにあったのだと悟ったが、十四娘が何者であるかわわからなかったので、嘆息して帰ってから、心の中で、でたらめに日どりをきめて待ってはいたが、幽霊の約束が頼みになるとは思われなかった。それでまた蘭若てらに行ってみると、荒涼たる殿宇おどうがあるばかりである。土地の人に聞くと、寺内でときどき狐を見かけると言った。馮はひそかに、もし、あんな麗人がもらえるなら、狐でも、いいと思った。
 やがてその日が来た。馮は思い切れないで、家や路を掃除させ、かわるがわる下男をやってながめさせたけれども、夜半になっても音さたがなった。馮は望みを失ってしまったが、にわかに、門外が騒がしいので、急いで出てみると、ぬいとりをしたほろが庭にとまって、腰元が娘を助け下ろし、靑廬しきじょうちゅうにすわらせた。しかし常例の妝奩きょうだいなどはなくて、ただ二人の髯の長い男が、酒甕ぐらいの大きな撲満ぜにがめ六を一つかつぎこみ、肩を休めると、それを部屋の隅に置いたのである。
 馮は麗人を得たの喜んで、それが異類あることなどは少しも気にしなかった。あるとき女に、
 「君の家では、なぜ死鬼しんだものをあんなに尊敬するんだね」
 と聞くと女は、
 「薛尚書へきしょうしょは今では五都巡環使ごとじゅんかんしで、何百里の間の間の幽霊も狐も、みな尚書に従っているんです。それでお墓にお帰りになる時はまれなんです」
 馮は蹇修なこうど七を忘れなかった。あくる日、お墓に行って祭りをして帰ってくると、二人の腰元がいわいに来て、貝や錦を机の上に置いて帰った。馮が女に言うと、女はそれを見て、
 「これは郡君の物ですわ」
 と言った。
 村に楚という銀台ぎんだい八があって、その公子は小さいときから馮といっしょに学問をした仲でたいそう相狎こころやすかったので、馮が狐の妻をもらったというのを聞いて、披露のしゅうぎ九をおくった。そして披露宴に来て、祝い酒を飲んで帰ったが、数日後また手紙で招いた。女は馮に、
 「いつか公子が来た時、わたし壁の穴から、のぞいて見たんですが、猿のような目で鷹のような鼻で、長くつきあう方ではありません。行ってはいけませんよ」
 と言うので、馮は招宴に行かなかった。すると、あくる日、公子は約束にそむいたといって責めに来て新作をせた。そこで馮は遠慮のない批評をしたが、嘲笑わるくちがまじっていたので、公子は、ひどく恥じ、いやな思いをして帰っていった。その晩、馮がねまで笑いながら話をすると、女は悲しそうに、
 「公子はおおかみのようなかたで、れては、いけないんです。あなた。あたしの言うことを聞かないから、いまに災難が来ますよ」
 と言うのであった。
 馮は、それを聞くと笑いながら謝った。そしてその後、公子に会うごとにお世辞を言って機嫌をとったので、前のへだても少しずつとけていった。
 おりから提学ていがく一〇の試験があった。公子は第一番だったので、へらへら喜んでいた。[やぶちゃん特例注:原文は「會提學試、公子第一、生第二」とあるから、馮は次席であったんである。これを訳から落すとちょっと以下の展開が摑みにくくなるので特に注した。]
 ある日、公子は使いをよこして馮を迎えた。いっしょに飲もうというのである。馮は断わったが、しきりに招くので、しかたなしに出かけて行った。来てみると、それは公子の初度たんじょう一一いわいだった。賀客が満ちあふれ、盛大な宴会が開かれていた。公子は高慢な顔をして試験のかきものを出して馮に見せた。親しい学友たちは肩をかさねて歎賞した。そのうちに酒が幾まわりかして、広間では音楽がかなでられ、笛や鼓の音が入り乱れて、客も主もたいそう楽しかった。と、公子は馮に向かって、
 「ことわざに、場中文じょうちゅうぶんを諭ぜずということがあるが、このことばのあやまりであることをいま知ったよ。ぼくが君より上に出られたわけはだね、はじめの数語が少しまさっていたからなんだね」
 公子がこう言うと、一連の人たちは、みんなほめたたえたが、馮は酔っていたので、こらえきれず大笑した、
 「はっ、はっ、はっ。 君は今になっても、まだ文章のためにこうなったと思ってるのか?」
 馮のことばを聞いて一座の人たちは色を失った。そして、公子は、気が結ぼれるほど恥じもし怒りもした。そのうちに客はだんだん去ってしまった。馮も、やはり逃げるように帰ったが、酒がさめてから後悔して女に話した。女は、わびしげな顔をして、
 「あなたは、ほんとに郷曲いなか儇子あわてもの一二なのね。君子に対して軽はずみなことをすれば、自分の徳をなくなすし、小人に対してすれば自分の身を殺すことになりますのよ。あなたには遠からずさいなんが来るでしょう。あたし、あなたのおちめを見てはいられませんから、これぎり、別れたいと思うんです」
 女は真剣なのである。馮は心配して泣いてあやまり、後悔していると言うと、女は、
  「もしも、あたしを留めようと思うんだったら、これからは、戸を閉めて遊び仲間と手を切る、むだな酒は飲まないと、はっきり約束をしてください」
 と言うので、馮はまじめに女のことばに従ったのである。
 十四娘は勤倹な一面灑脱しゃだつなたちであった。毎日縫いものや織りものに精を出していて、時には里帰りをすることもあったが、泊まってくることはなかった。また、暮らしの金を払った残りは撲満ぜにがめに投げ入れるのだった。こうして毎日、門をしめ、たずねて来る者があれは、下男に言いつけて、ことわらせた。
 その翌日、楚公子から手紙が来たが、女は焼き捨てて馮に聞かせなかった。またその翌日、馮は城内にくやみに行って、死んだ人の家で公子に会った。すると公子は馮の手を取って、飲みに来いと、ひどく誘うのだった。さしつかえがあるからと言って、ことわったが、公子は圉人ばていくつわをひかせてつれて行った。
 公子の家に来ると、すぐ洗腆さけさかな一三いつけた。馮は、また早く帰りたいと言ったけれども、公子は、無理に引きとめ、家の姫を出してことかせ音楽をやらせるのであった。
 馮は根がかまわないたちだったし、先ごろから家に閉じこもって、ひどくいらいらしていたところへ、いきなり、ひどく飲んだので気が大きくなり、なんの考えもなく、酔い倒れてしまった。
 公子の妻の玩氏がんしは、ひどい焼きもちやきで、腰元や妾に化粧をさせないほどだった。二、三日前、女中が公子の書斎にはいっているところを玩氏につかまり、杖で頭を打たれ、頭が裂けて即死してしまった。公子は馮が嘲弄したというので、馮に遺恨をふくみ、毎日しかえしを考えているところへ、この事があったので、酔わして無実の罪に落とそうとはかり、馮が酔って寝ているのに乗じて、女中の死骸を寝台のそばにきこんだ。そして扉を閉めて、行ってしまった。
 馮は朝まだきに酒がさめ、はじめて自分が卓の上に寝ているのに気がついた。起きて枕や寝台をさがし歩いていると、何やら、やわらかいものが足にさわった。手でなでてみると人間なのである。馮は主人が、子供を伴睡とぎによこしたのだろうと思って、また、それを踏んでみたけれども動かないのだ。馮はたいそう驚いて、部屋の外に出て、どなった。すると下男たちが、みんな起きてきた。彼らの持っている燈火で照らし出されたのは女の死骸だった。下男たちは馮を下手人だと言って騒ぎたてた。そこへ公子が出てきてその場を調べ、氷河が逼奸ごうかんしようとし女中を殺したのだと言い張って、馮に無実の罪をきせ、馮をとらえて広平の役所に送った。
 翌日、はじめて、その事を知った十四娘は澘然さんぜんとして、[やぶちゃん特例注:「澘然」は正しくは「潸然」(サンゼン・センゼン)で、涙が流れるさま、さめざめと涙を流すさま、の意。]
 「今日のことがあろうとは早くから知っていた」
 と言った。そして日取りを考えては、獄中の馮に金をおくってやるのであった。
 馮は府尹ふちじに調べられたが、言いひらきができなかった。朝夕拷問を受けるので、皮肉がすっかり落ちてしまった。そこへ女が会いに来た。その顔を見ると、胸がふさがって物も言えなかった。女は落し穴の深いのを知り、冤罪えんざいに服して刑をまぬかれるようにすすめた。馮は泣いてそれに従った。女の行き来を人は咫尺ちかくにいながら見ることができなかった。
 女は帰ってくると部屋にこもって泣いていたが、急に女中をどこかへやって、何日かひとりで暮らしていた。そして仲人婆さんに頼んで、禄児という良家の娘を買った。じゅうごになる花のように美しい娘であった。寝起きから、飲み食いまでをともにして、その、かあいがりようといったら、ほかの子供たちとは、まるで違っていた。
 馮は誤殺を承認したので、絞殺に擬せられた。そのたよりを持って帰った下男は、声もでないほど泣くのであったが、女はそれを聞いても平気で、気に止めぬようであった。が、死刑の日がきまると、女は、はじめて、あわてふためき、夜も昼も出歩いて足を休める間もなかった。そして、いつも寂しいところで泣いていた。寝も食いもしないほどだった。
 ある日、夕がた、狐の腰元が、ひょっこり帰って来た。女はすぐに起ちあがり、手を引きあって人のいないところに行き、ひそひそと話していたが、出て来たときには、すっかり、にこやかになっていて、ふだんのように家事をかたづけていたのであった。
 翌日、下男が獄舎に行くと、馮はことづけたのである、奥さまに一度来て、長の別れをするようにと。で下男はそのとおりを伝えたのであるが、女は、いいかげんな返事をして、少しも悲しまず、平気でいたから、家の者は、ひそかに、むごいと言って非難するのだった。
 楚銀台は免職されて、平陽の観察が特に聖旨を奉じて馮生の事件を裁くことになった、といううわさがわくように言い伝えられた。下男はそれを聞くと喜んで奥さまに知らせた。女も喜んで下男を役所にやって探らせた。下男が行った時には、馮はもう獄舎から出されていて、たがいに悲しんだり喜んだりしているとき、突然、公子が捕まってきた。ただ一鞠ひとしらべですっかり事情がわかったので、馮は許されて家に帰り、妻を見ると、はらはらと涙を流す、女もまた相対して泣くのであった。
 しかしなんで上聞に達したかが、どうしてもわからないので馮が不思議がると、女は笑って腰元を指さし、「これが、あなたの功臣なの」
 と言った。馮は驚いて、わけをたずねた。
 これより先、女は腰元を都にやって、馮の冤罪を宮廷のお聞きに達しようとしたのである。腰元は都についたが、宮中は神さまが守護しているので、御溝おほり一四のあたりをうろつくばかりで、幾月かはいられなかった。で、腰元は、やりそこないはしないかと心配し、一度帰って相談しようと思っていると、天子が大同府に御幸みゆきになるということを聞いたので、腰元は先に行って流れわたりの遊女になって待っていた。そし天子の寵愛を受けたのである。天子は腰元が風塵よのつねの者のようでないのを疑われた。すると腰元は涙を流すので、天子が、どんな、つらい事があるのかと聞かれると、腰元は申し上げた、
 「わたくしは原籍が広平で、生員しゅうさい馮某の娘なのでございます。父が冤罪で牢獄に入れられ死にそうになっておりますので、とうとうわたくしを勾欄くるわに売るようなことになったのでございます」
 花のような顔から、涙の露が、ほろほろこぼれ落ちるのである。帝はあわれに思って、百両の金を賜わった。そして、おたちになる時、冤罪の顚末てんまつを、こまかにおたずねになり、紙と筆を出して姓名を書きとめてから、ともに富貴を受けようではないか、とおっしゃった。
 腰元は申し上げた、
 「ただ父子おやこが、いっしょになりたいと思うばかりでございます。華膴ぜいたくをいたそうとは存じません」
 天子は、うなずいて、おたちになった。
 腰元が事情を話すと、馮は涙に目をひからせ、急いで腰元を拝したのである。
 それからまもなくのことだが、女は、だしぬけに言うのであった。
 「あなたと縁を結ばなかったなら、あたし、どこへいったって心配なんかなかったと思いますわ。あなたがつかまった時あたし戚眷間しんるじゅうを奔走したんですが、一人だって相談にのってくれる人がなかつたんです。その時の悲しさといったら、まったく、お話もできないくらいです。今度塵世よのなかを見て、つくづくいやになりました。あなたのためによいつれあいをいときましたから、あたし、これでお別れいたします」
 それを聞くと馮は泣き伏したまま起きあがらなかった。それで女は思い止まったのである。その夜、禄児を馮の侍寝とぎにやったけれど、馮は拒んで納れなかった。朝になって見ると、十四娘の容光が、めっきり落ちていた。そして一月あまりもすると、だんだんふけて半年ほどたったら、まっ黒ないなかのばあさんみたいになってしまった。けれども馮はだいじにして少しも変わらなかった。すると女は、また別れ話を持ち咄して、
 「あなたには、もういつれがあるじゃありませんか、なんで、こんな鳩盤ばあさん一五に用があるんですの?」
 と言った。しかし馮は前のように、ただかなしみ泣くばかりであった。それから、また一月)ほどして、女はにわかに病気になった。飲み食いもせず、弱って閨闈ねやに寝ているのである。馮は父母にかしずくように侍湯薬かんびょうしたが、まじないもききめがなく、とうとう死んでしまった。馮は死ぬほど悲しんで、腰元に賜わった金で、とむらいをすましたが、数日後、腰元も見えなくなったので、禄児を本妻にした。
 その年がすぎると男の子ができた。しかし毎年不作が続いて、家はだんだん落ちぶれて行くのだ。夫婦ともくふうがつかないので、向かいあって悲しむばかりだったが、ふと思いだしたのは部屋の隅の撲甕ぜにがめあった。十四娘がその中に銭を投げ入れるのをつねづね見ていたが、いまでも、まだあるかと思って、そばに行き、豉具とうふつぼ一六やしおつぼなどが、いっぱい並べて置いてあるのを取りのけて、はしでその中を探ってみたが、堅くて箸ははいらぬのだ。仕方がないので打ち割ると、金があふれ出たので、とみに豊かになったのである。
 その後、下男が太華たいかに行ったら、十四娘が靑騾あおうまに乗り、腰元が駿馬にまたがってついてくるのに会った。下男が胆をつぶしてあきれていると、
 「馮さまはごぶじかえ?」
 と、たずねた。
 「ご主人にいっておくれ。あたしは、もう仙人になっています。喜んでくださいまし、とね」
 言ってしまうと見えなくなった。

  注

一 奚は下男。小奚奴は僮すなわち童僕のこと。ボーイと訳しておく。唐の李駕は、小奚奴に古錦囊を負わせ、句を得るとその中に投入したという。[やぶちゃん特例注:この「李駕」は「李賀」の誤りである。]
二 むかし温嶠という人が、妻をうしなって後妻をさがしているおりから、おばの劉氏が、娘のつれあいを見つけてくれと頼んだ。娘を見ると、姿もよしりこうらしくもあるので、住い婿は得がたいが、自分ぐらいでよいか、ときくと、おばは、おまえのようなのは、とても望むことはできないだろう、と答えたのであった。その後、温嶠は報告して、門地や官等が自分より少しも劣らないのを見つけたと言い、結納に玉の鏡台を送ってやった。おばはたいそう喜んだ。それで、いよいよ結婚をする時になって、婿が温嶠自身なのを見た娘は、紗の扇を開きながら、笑って、あたし、もとから、この人だろうと思っていたんですと言った。それから、婿を自薦することを、鏡台をおくる、というのである。
三 昔、裴航という人が、藍橋を過ぎ、のどがかわいたので、ある家の婆さんに、飲むものをくださいといったら、婆さんは娘の雲英に一碗の飲みものを持って来さして、航に飲ました。美しい娘であった。航が妻に欲しいというと婆さんが、あたしは仙人になる霊丹を持っているが、それをく玉製の杵と臼とがないので困っている。もし玉の杵と臼とを持ってきたら娘をあげましょうと答えた。そこで藍航は方方たずねて、やっと玉製の杵と臼とを手に入れ、それを婆さんにやって雲英を娶った。もちろん婆さんは霊丹を飲んで仙人となった。藍航と雲英も、のち、やはり仙人となった。[やぶちゃん字注:「く」は底本では「搗(つ)く」でルビではない。これは底本の注がポイント落ちであるためにルビが読み難くなるためであるが、私のテクストでは同ポイントとしているので向後はこれらをルビ化し、本注記も略すこととする。]
四 漢の武帝が、王太后母蔵児を尊んで、平原郡君としたのが、郡君の始めである。
五 魏の田予が「年七十を過ぎて位にいるのは鐘鳴り漏尽きて夜行くがごとし罪人なり」と言ったので、老人のことを、鐘漏、というようになった。
六 土でこしらえ銭を入れる穴がある、満ちるとうちわって出す、それで撲満というのである。今の貯金玉と思えばよい。
七 伏義の臣蹇修は媒をつかさどっていた。
八 宋史職官志に「銀台天下の奏状を掌収す」とある。通政司である。
九 婚礼後三日めに開く宴会である。
一〇 提学とは、提督学改すなわち学政使のことで、各省の教育をつかさどり、三年を期として、省内をめぐって試験をするのである。
一一 初度は出生した日のことで、誕生の祝日のことをいう。
一二 荀子に、郷曲優子、とあって、注に、軽薄巧慧の子なり、とある。
一三 洗は清潔にすること。腆は厚くすること。書経に、洗腆致用致酒、とある。
一四 長安の御溝は、楊溝ともいう、楊を上に植えてあるからだ。また羊が角で垣墻をいためるのを防ぐために、溝をほって羊をへだてるようにしてあるから、羊溝とも禁溝ともいうのである。そして、終南山の水を引いてあるのが、宮中を通ってくるおんで、御溝ともいう、と中華古今の注にある。
一五 唐の任瓌が、妻の杜正倫をおそれて、女には、三の畏るべき時代がある。その一つは、少妙にして生き菩薩のような時だ。その一つは、児女満前にして九子魔母のような時だ。その一つは、五、六十になって薄く妝粉を施し、あるいは靑く、あるいは黒く、鳩盤荼のような時だ、といった。鳩盤荼というのは、鬼の名である。
一六 豉または豉豆ともいう。黒大豆を蒸してわらで覆い、かびが出たら水をまぜかめに入れて泥で封をしておき、久しくそのままにしておくのである。黴が出てから塩、薑、椒を加えて、甕に入れる遣り方もある。各種の大豆でつくられる。ここでは豉具を、豆腐壺、としておく。[やぶちゃん字注及び特例注:「水をまぜ」の部分、「水を(まぜ)」とあるが丸括弧を除去した。下の「(かめ)」に引かれた記号の衍字と思われる。これは今は比較的知られるようになった、私が殊の外好む調味料「豆豉トウチ」である。ご存じない方はウィキの「豆チ」を参照されたい。]

■原文

 辛十四娘

廣平馮生、正德間人。少輕脱、縱酒。
昧爽偶行、遇一少女、著紅帔、容色娟好。從小奚奴、躡露奔波、履襪沾濡。心竊好之。
薄暮醉歸、道側故有蘭若、久蕪廢、有女子自内出、則向麗人也。忽見生來、即轉身入。
陰念、麗者何得在禪院中。縶驢於門、往覘其異。入則斷垣零落、階上細草如毯。彷徨間、一斑白叟出、衣帽整潔、問、
「客何來。」
生曰、
「偶過古刹、欲一瞻仰。翁何至此。」
叟曰、
「老夫流寓無所、暫借此安頓細小。既承寵降、有山茶可以當酒。」
乃肅賓入。見殿後一院、石路光明、無復蓁莽。入其室、則簾幌床幙、香霧噴人。坐展姓字、云、
「蒙叟姓辛。」
生乘醉遽問曰、
「聞有女公子、未遭良匹。竊不自揣、願以鏡臺自獻。」
辛笑曰、
「容謀之荊人。」
生即索筆爲詩曰、

 千金覓玉杵
 殷勤手自將
 雲英如有意
 親爲擣玄霜

主人笑付左右。少間、有婢與辛耳語。辛起慰客耐坐、牽幕入。隱約三數語、即趨出。生意必有佳報、而辛乃坐與嗢噱、不復有他言。生不能忍、問曰、
「未審意旨、幸釋疑抱。」
辛曰、
「君卓犖士、傾風已久。但有私衷、所不敢言耳。」
生固請之。辛曰、
「弱息十九人、嫁者十有二。醮命任之荊人、老夫不與焉。」
生曰、
「小生祇要得今朝領小奚奴帶露行者。」
辛不應、相對默然。聞房内嚶嚶膩語、生乘醉搴簾曰、
「伉儷既不可得、當一見顏色、以消吾憾。」
内聞鉤動、群立愕顧。果有紅衣人、振袖傾鬟、亭亭拈帶。望見生入、遍室張皇。
辛怒、命數人捽生出。酒愈湧上、倒蓁蕪中。瓦石亂落如雨、幸不著體。
臥移時、聽驢子猶齕草路側、乃起跨驢、踉蹡而行。夜色迷悶、誤入澗谷、狼奔鴟叫、豎毛寒心。踟躕四顧、並不知其何所。遙望蒼林中、燈火明滅、疑必村落、竟馳投之。仰見高閎、以策撾門。内有問者曰、
「何處郎君、半夜來此。」
生以失路告。問者曰、
「待達主人。」
生累足鵠竢。忽聞振管闢扉、一健僕出、代客捉驢。
生入、見室甚華好、堂上張燈火。少坐、有婦人出、問客姓字。生以告。逾刻、靑衣數人、扶一老嫗出、曰、
「郡君至。」
生起立、肅身欲拜。嫗止之坐。謂生曰、
「爾非馮雲子之孫耶。」
曰、
「然。」
嫗曰、
「子當是我彌甥。老身鐘漏並歇、殘年向盡、骨肉之間、殊多乖闊。」
生曰、
「兒少失怙、與我祖父處者、十不識一焉。素未拜省、乞便指示。」
嫗曰、
「子自知之。」
生不敢復問、坐對懸想。嫗曰、
「甥深夜何得來此。」
生以膽力自矜詡、遂一一歷陳所遇。嫗笑曰、
「此大好事。況甥名士、殊不玷於姻婭、野狐精何得強自高。甥勿慮、我能爲若致之。」
生稱謝唯唯。嫗顧左右曰、
「我不知辛家女兒、遂如此端好。」
靑衣人曰、
「渠有十九女、都翩翩有風格。不知官人所聘行幾。」
生曰、
「年約十五餘矣。」
靑衣曰、
「此是十四娘。三月間、曾從阿母壽郡君、何忘卻。」
嫗笑曰、
「是非刻蓮瓣爲高履、實以香屑、蒙紗而步者乎。」
靑衣曰、
「是也。」
嫗曰、
「此婢大會作意、弄媚巧。然果窈窕、阿甥賞鑒不謬。」
即謂靑衣曰、
「可遣小貍奴喚之來。」
靑衣應諾去。移時、入白、
「呼得辛家十四娘至矣。」
旋見紅衣女子、望嫗俯拜。嫗曳之曰、
「後爲我家甥婦、勿得修婢子禮。」
女子起、娉娉而立、紅袖低垂。嫗理其鬢髮、捻其耳環、曰、
「十四娘近在閨中作麼生。」
女低應曰、
「閒來只挑繡。」
囘首見生、羞縮不安。嫗曰、
「此吾甥也。盛意與兒作姻好、何便教迷途、終夜竄谿谷。」
女俛首無語。嫗曰、
「我喚汝、非他、欲爲阿甥作伐耳。」
女默默而已。嫗命掃榻展裀褥、即爲合巹。女然曰、
「還以告之父母。」
嫗曰、
「我爲汝作冰、有何舛謬。」
女曰、
「郡君之命、父母當不敢違。然如此草草、婢子即死、不敢奉命。」
嫗笑曰、
「小女子志不可奪、真吾甥婦也。」
乃拔女頭上金花一朵、付生收之。命歸家檢曆、以良辰爲定。乃使靑衣送女去。聽遠雞已唱、遣人持驢送生出。數步外、歘一囘顧、則村舍已失、但見松楸濃黑、蓬顆蔽冢而已。定想移時、乃悟其處爲薛尚書墓。薛故生祖母弟、故相呼以甥。心知遇鬼、然亦不知十四娘何人。咨嗟而歸、漫檢曆以待之、而心恐鬼約難恃。再往蘭若、則殿宇荒涼。問之居人、則寺中往往見狐狸云。陰念、『若得麗人、狐亦自佳』。
至日、除舍掃途、更僕眺望、夜半猶寂。生已無望。頃之、門外譁然。屣屣出窺、則繡幰已駐於庭、雙鬟扶女坐靑廬中。妝奩亦無長物、惟兩長鬣奴扛一撲滿、大如甕、息肩置堂隅。生喜得麗偶、並不疑其異類。問女曰、
「一死鬼、卿家何帖服之甚。」
女曰、
「薛尚書、今作五都巡環使、數百里鬼狐皆備扈從、故歸墓時常少。」
生不忘蹇修、翼日、往祭其墓。歸見二靑衣、持貝錦爲賀、竟委几上而去。生以告女、女視之、曰、
「此郡君物也。」
邑有楚銀臺之公子、少與生共筆硯、相狎。聞生得狐婦、餽遺爲餪、即登堂稱觴。越數日、又折簡來招飮。女聞、謂生曰、
「曩公子來、我穴壁窺之、其人猿睛而鷹準、不可與久居也。宜勿往。」
生諾之。翼日、公子造門、問負約之罪、且獻新什。生評涉嘲笑、公子大慚、不懽而散。生歸、笑述於房。女慘然曰、
「公子豺狼、不可狎也。子不聽吾言、將及於難。」
生笑謝之。後與公子輒相諛噱、前郤漸釋。
會提學試、公子第一、生第二。
公子沾沾自喜、走伻來邀生飮。生辭、頻招乃往。至則知爲公子初度、客從滿堂、列筵甚盛。公子出試卷示生。親友疊肩歎賞。酒數行、樂奏作於堂、鼓吹傖儜、賓主甚樂。公子忽謂生曰、
「諺云、『場中莫論文。』此言今知其謬。小生所以忝出君上者、以起處數語、略高一籌耳。」
公子言已、一座盡贊。生醉不能忍、大笑曰、
「君到於今、尚以爲文章至是耶。」
生言已、一座失色。公子慚忿氣結。客漸去、生亦遁。醒而悔之、因以告女。女不樂曰、
「君誠郷曲之儇子也。輕薄之態、施之君子、則喪吾德、施之小人、則殺吾身。君禍不遠矣。我不忍見君流落、請從此辭。」
生懼而涕、且告之悔。女曰、
「如欲我留、與君約、從今閉戸絶交遊、勿浪飮。」
生謹受教。
十四娘爲人勤儉灑脱、日以紝織爲事。時自歸寧、未嘗逾夜。又時出金帛作生計。日有贏餘、輒投撲滿。日杜門戸、有造訪者、輒囑蒼頭謝去。 一日、楚公子馳函來、女焚爇不以聞。翼日、出弔於城、遇公子于喪者之家、捉臂苦邀。生辭以故。公子使圉人挽轡、擁之以行。
至家、立命洗腆。繼辭夙退。公子要遮無已、出家姬彈箏爲樂。
生素不羈、向閉置庭中、頗覺悶損、忽逢劇飮、興頓豪、無復縈念。因而酣醉頽臥席間。
公子妻阮氏、最悍妒、婢妾不敢施脂澤。日前、婢入齋中、爲阮掩執、以杖擊首、腦裂立斃。公子以生嘲慢故、啣生、日思所報、遂謀醉以酒而誣之。乘生醉寐、扛尸床間、合扉徑去。
生五更酲解、始覺身臥几上。起尋枕榻、則有物膩然、紲絆步履、摸之、人也。意主人遣僮伴睡。又蹴之、不動而殭。大駭、出門怪呼。廝役盡起、爇之、見尸、執生怒鬧。公子出驗之、誣生逼奸殺婢、執送廣平。
隔日、十四娘始知、潸然曰、
「早知今日矣。」
因按日以金錢遺生。
生見府尹、無理可伸、朝夕搒掠、皮肉盡脱。女自詣問。生見之、悲氣塞心、不能言説。女知陷阱已深、勸令誣服、以免刑憲。生泣聽命。女還往之間、人咫尺不相窺。
歸家咨惋、遽遣婢子去。獨居數日、又託媒媼購良家女、名祿兒、年已及笄、容華頗麗、與同寢食、撫愛異於群小。
生認誤殺擬絞。蒼頭得信歸、慟述不成聲。女聞、坦然若不介意。既而秋決有日、女始皇皇躁動、晝去夕來、無停履。每於寂所、於邑悲哀、至損眠食。
一日、日晡、狐婢忽來。女頓起、相引屏語。出則笑色滿容、料理門戸如平時。
翼日、蒼頭至獄、生寄語娘子一往永訣。蒼頭復命。女漫應之、亦不愴惻、殊落落置之。家人竊議其忍。
忽道路沸傳、楚銀臺革爵、平陽觀察奉特旨治馮生案。蒼頭聞之喜、告主母。女亦喜、即遣入府探視、則生已出獄、相見悲喜。俄捕公子至、一鞫、盡得其情。生立釋寧家。歸見闈中人、泫然流涕、女亦相對愴楚、悲已而喜。然終不知何以得達上聽。女笑指婢曰、「此君之功臣也。」
生愕問故。
先是、女遣婢赴燕都、欲達宮闈、爲生陳冤。婢至、則宮中有神守護、徘徊御溝間、數月不得入。婢懼誤事、方欲歸謀、忽聞今上將幸大同、婢乃預往、偽作流妓。上至句闌、極蒙寵眷。疑婢不似風塵人。婢乃垂泣。上問、「有何冤苦。」婢對、
「妾原籍隸廣平、生員馮某之女。父以冤獄將死、遂鬻妾句闌中。」
上慘然、賜金百兩。臨行、細問顛末、以紙筆記姓名、且言欲與共富貴。婢言、
「但得父子團聚、不願華膴也。」
上頷之、乃去。
婢以此情告生。生急拜、淚眥雙熒。
居無幾何、女忽謂生曰、
「妾不爲情緣、何處得煩惱。君被逮時、妾奔走戚眷間、並無一人代一謀者。爾時酸衷、誠不可以告愬。今視塵俗益厭苦。我已爲君蓄良偶、可從此別。」
生聞、泣伏不起。女乃止。夜遣祿兒侍生寢、生拒不納。朝視十四娘、容光頓減、又月餘、漸以衰老、半載、黯黑如村嫗、生敬之、終不替。女忽復言別、且曰、
「君自有佳侶、安用此鳩盤爲。」
生哀泣如前日。又逾月、女暴疾、絶食飮、羸臥閨闥。生侍湯藥、如奉父母。巫醫無靈、竟以溘逝。生悲怛欲絶。即以婢賜金、爲營齋葬。數日、婢亦去、遂以祿兒爲室。
逾年舉一子。然比歳不登、家益落。夫妻無計、對影長愁。忽憶堂陬撲滿、常見十四娘投錢於中、不知尚在否。近臨之、則豉具鹽盎、羅列殆滿。頭頭置去、箸探其中、堅不可入、撲而碎之、金錢溢出。由此頓大充裕。
後蒼頭至太華、遇十四娘、乘靑騾、婢子跨蹇以從、問、
「馮郎安否。」
且言、
「致意主人、我已名列仙籍矣。」
言訖、不見。

異史氏曰、「輕薄之詞、多出於士類、此君子所悼惜也。余嘗冒不韙之名、言冤則已迂、然未嘗不刻苦自勵、以勉附於君子之林、而禍福之説不與焉。若馮生者、一言之微、幾至殺身、苟非室有仙人、亦何能解脱囹圄、以再生於當世耶。可懼哉。」

2014/05/27

萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「何處へ行く」(17) 「秋より冬へ」(前) 

 秋より冬へ

 

ニツケルのしやぼんの箱にゆがみたる

顏のうつるも悲し初秋

 

ニコライの尼が僧衣のま白なる

カフスのうへにたゞよへる秋

 

[やぶちゃん注:「ニコライ」現在、群馬県前橋市千代田町にある前橋ハリストス正教会亜使徒大主教聖ニコライ聖堂か(同教会公式サイトはこちら)。]

 

いへばえに君がくちびるほのかにも

秋の憂の來りゞよふ

 

[やぶちゃん注:原本は以下の通り。

 

いへばへの君がくちびるほのかにも

秋の憂の來りゞよふ

 

しかしこれでは意味がよく通らない。これは恐らく古語の「言へば得(え)に」の誤りと思われる。「に」は打消しの助動詞「ず」の連用形の古形で、「口に出して言おうとするが、そうするとしかし、うまく言うことが出来ない」の意である。校訂本文もそう採って「いへばえに」と訂する。]

 

夜をこめてまどろみもせむあかつきの

白熱燈の消ゆる侘しさ

 

[やぶちゃん注:「侘しさ」の「侘」は原本では「佗」。誤字と断じて訂した。校訂本文も「侘しさ」とする。]

 

かぎりなく一直線につゞきたる

街を盡くれば白き海みゆ

 

[やぶちゃん注:「冬」は抹消。]

 

ほのかにも瓦斯のにほひの漂へる

勸工場のくらき敷石

 

[やぶちゃん注:原本は「觀工場」。誤字と断じて訂した。校訂本文も「勸工場」。この一首は、朔太郎満二十六歳の時、大正二(一九一三)年十月十一日附『上毛新聞』に「夢みるひと」名義で掲載された五首連作の三首目、

 ほのかにも瓦斯(がす)のにほひのただよへる勸工塲(くわんこうぜう)の暗(くら)き鋪石(しきいし)

の表記違いの相同歌と判断する。この「くわんこうぜう」はママ。底本全集校訂本文では「くわんこうば」と訂するが従わない。誤りとしても朔太郎が音韻上、これで詠んだ可能性を排除出来ないからである。無論、「勸工塲」は正しくは「くわんこうば」が正しい読みではある。老婆心ながら再注しておくと、勧工場(かんこうば)とは明治・大正期に一つの建物の中に多くの店が入って種々の商品を陳列・即売した一種のマーケットのことで、明治一一(一八七八)年一月に政府の殖産興業政策の方針に沿って東京府が麴町辰の口(現在の千代田区内)に常設商品陳列場としての「東京府勧工場」を開設したことに始まる(ここには前年に東京上野公園で開催された第一回内国勧業博覧会に展示された出品物も移されて陳列された。当時の出品点数は合計三十五万点、入場者合計五千二百人に及んだとされる)。後には本格的なデパートの進出により衰退した。勧商場。]

耳囊 卷之八 蛙合戰笑談の事

 

 蛙合戰笑談の事

 

 番町法眼坂(はふげんざか)の邊、折ふし蛙の合戰ありとて近邊の者見物に出(いづ)る事あり。ある時小笠原氏承りて咄(はなし)けるは、一體小笠原など住(すみ)ゐするあたり殊の外蛙多く、屋敷ごとに炭だわらの古きなどへ取入(とりいれ)て、夜ぶん僕(しもべ)など右法眼坂の邊へ捨(すて)けるゆゑ、おのづから數多(かずおおく)、右の内には斃(たふれ)たるも數(かず)あれば、きのふ蛙合戰(かはづかつせん)ありしと、いゝのゝしりけると語りぬ。 

 

□やぶちゃん注

○前項連関:雀軍(いくさ)から「蛙合戰」で直連関。但し、一般に蛙合戦とは蛙の雌雄が多数集まってくんずほぐれつ交尾する群婚を指すが、この話柄は真相暴露物で、ただ蛙がよく出る辺りで獲ってはあの坂の辺りに捨てていたという如何にもな詰まらぬオチである。

・「法眼坂」現在の千代田区三番町と四番町の境にある坂(グーグル・マップ・データ)。現在は東郷坂(東郷平八郎邸西側にあることに由来)・行人坂(目黒のそれとは別)とも呼ぶが、古くはかく呼んだもののようである。

・「小笠原氏」嘉永年間(一八四八年~一八五三年)に板行された尾張屋版切絵図を見ると、法眼坂の南西裏二番町通に面したところに「小笠原金十郎」とある。岩波版長谷川氏注によると、文化(「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏)頃は小笠原政宜(まさのり)とある。この辺り、東の半蔵濠と千鳥ヶ淵、西側の外濠に挟まれており、蛙が確かに多そうに思われる。 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 蛙合戦(かわずかっせん)という笑い話の事 

 

 番町法眼坂(ほうげんざか)の辺りにて、しばしば、蛙の合戦がある、と称しては近辺の者どもが見物に出るという話を聴く。

 しかし、ある時、法眼坂近くに屋敷を構えておらるる小笠原殿がこの噂を耳に致いて、

「……一体、拙者の住まう辺り、これ、殊の外蛙が多く出ましてのぅ……五月蠅いやら、気味悪いやら……近隣の屋敷毎に、庭や縁先に出でたる蛙は、これ、炭俵の古きものなんどへ片っ端から捕っては投げ入れ……どこもかしこも、夜分ともなれば、その満杯になったるを、下僕なんどが、かの法眼坂の辺りの空き地へ、ざあっと捨てるが、日常茶飯のことなれば……自ずからあの辺りの蛙の数、これ、多なって……また、その内には、これ、踏みつけたり、握り潰したり、棒にてしたたかに殴ったり致いたによって既に死んだるものも、これ、数多(あまた)あればこそ……それを知らざる者どもの見て、『昨夜、蛙合戦がまた法眼坂にてあった』なんどと、言い騒ぎ立てて御座るものと存ずる。……」

と私に語って御座った。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十二章 北方の島 蝦夷 5 北海道駒ヶ岳/水夫たちとその舟唄

M342m343

図―342[やぶちゃん注:上図。]

図―343[やぶちゃん注:下図。]

 

 翌日は強風で、岸には大きな波が打ちよせた。私は、これは色々な物が打ち上げられたに違いないと思った。そこで一行勢ぞろいをして、大きに期待しながら出かけたが、このような場合によくある如く、殆ど何も打ち寄せられていなかった。私は漁夫の残物堆から、面白い貝を若干ひろった。漁夫の家は、低くて、厚く屋根を葺いた奇妙な形をしていて、その各々が、屢々えらい勢で吹く風の力をそぐ為の、竹を編んだ垣根でかこまれている(図312)。同じ様に風の暴力にさらされる、ノース・カロライナ州ビューフォートの漁夫の小屋は、函館の小屋に似ている。私の家の外廊からは港がよく見え、二十五マイル向こうにはコモガタケと呼ばれる火山が聳えているが、そのとがった峰は、周囲の優しい斜面と顕著な対照をしている。この火山は、今は休息していて、峰にかかる白い雲のような、静かな煙を出している丈だが、三十年前爆発した時には、火山岩燼や石を入江に投げ込んだ(図343)。

[やぶちゃん注:「翌日」明治一一(一八七八)年七月十七日。矢田部日記には『午前試驗室ニ至リ……明朝探底(ドレヂ)ノ用意ヲ爲セリ』(磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」から正字化して示した。『……』は磯野先生の省略か原本のママかは不詳)とあるから、この昨日完成したラボラトリーに行く前の早朝にビーチ・コーミングに出掛けたものと思われる。

「残物堆」原文は“the refuse piles”。廃物・滓・芥の山。

「面白い貝」データ記載がないのがすこぶる残念。

「竹を編んだ垣根でかこまれている」「函館の古写真10景」というページの上から三枚目(明治九(一八七六)年・背景は函館山)の手前にある建物の周囲にモースのスケッチによく似た垣根が見られる。

「ノース・カロライナ州ビューフォート」ノースカロライナ州南部の東海岸の広大な砂嘴が形成されたところにあるビューフォート。現在はウォーター・フロントのリゾートとして知られているようである。「第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所」の冒頭で、『私は日本の近海に多くの「種」がいる腕足類と称する動物の一群を研究するために、曳網や顕微鏡を持って日本へ来たのであった。私はフンディの入江、セント・ローレンス湾、ノース・カロライナのブォーフォート等へ同じ目的で行ったが、それ等のいずれに於ても、只一つの「種」しか見出されなかった。』と出る(表記はママ)。

「コモガタケ」原文“Komgatake”。底本では直下に石川氏の『〔駒ヶ岳〕』という割注がある。北海道森町(ちょう)・鹿部(しかべ)町・七飯(ななえ)町に跨る標高千百三十一メートルの成層活火山北海道駒ヶ岳。剣が峰と砂原岳からなる双耳峰で私の好きな山容である。

「二十五マイル」四〇・二キロメートル。ちょっと長過ぎる。現在の地図で函館から山頂直線で三十二・九キロメートル、これでは内浦(噴火)湾に突き抜けてしまう。これは寧ろ、当時のモースが所持していた北海道地図が不正確であったことを示すものであろう。

「三十年前爆発した時」「三十年前」は不審。ウィキの「北海道駒ヶ岳」によれば、この明治一一(一八七八)年から二十二年前の安政三(一八五六)年九月二十五日午前九時頃に大噴火し、新たな火口(安政火口)が形成されたとあり、その際の死者は約十九~二十七名。噴出物量は約〇・三平方キロメートルとある(それ以前だと百八十四年も前の元禄七(一六九四)年の大噴火になってしまう。なお、現在見るような双耳峰と馬蹄形カルデラはその当時から二百三十八年前に遡る寛永一七(一六四〇)年に起きた噴火及びそれに先駆けて発生した大規模な山体崩壊によって形成されたもので、その後も何度か噴火を繰り返しているが、モースが見た山容は距離から見ても現在のそれと大きくは変わらないものと思われる。

「火山岩燼」原文“cinders”。「かざんがんじん」と読む。「燼」は燃え残り、燃えさしのこと。“cinder”は地質学用語で火山から噴出した噴石の意。

「入江」北側の内浦(噴火)湾。]

 

 港内をあちらこちらと漕ぐ水夫達は、南の方の水船を漕ぐ水夫達のそれとは全然違う、一種奇妙な歌を歌う。それは音楽的で、耳につきやすい。

M344

図―344

 

 水未達は堂々たる筋骨たくましい者共で、下帯以外には何物も身につけず、朽葉林檎みたいに褐色である。船を漕ぐのに、彼等は橈(かい)を引かず、押すのであるから、従って舳(へさき)の方を向いている。橈の柄の末端には、木の横木がついている。彼等は一対ずつをなして漕ぎ、漕刑罪人を連想させる。橈座は単に舷に下った繩の環で、この中に橈を通す。写生図(図344)は、米を積んだ舟である。舟によっては、片舷に六、七人漕手がいるのもあり、これ等の人々が口々に歌う奇妙な船唄が、水面を越して来るのを聞くと、非常に気持がよい【*】。

 

※ 日本の極南方、鹿児島湾で、私は水夫達が同じ歌を歌うのを聞いた。その後米国へ帰った時、霹国の芸人団がセーラムを訪問し、「ヴォルガ水夫の歌」と呼ばれる歌を歌ったが、これが非常に強く、函館の歌を思わせた。かかる曲節は、容易に北露からカムチャッカへひろがり、千島群島を経て蝦夷へ入り得るであろう。

 

[やぶちゃん注:このシークエンス、モースは日本のヨイトマケの唄等を今まで奇妙で非音楽的と表現してきたことを考えると、重ねて表現しているこの記憶に残る舟唄は極めて例外的にモースの耳に心地良かったことを示唆している。所謂、ソーラン節や江差追分(若しくはその系統の舟唄)の類であろうと思われる。但し、この注にあるようなロシアの舟歌を起源とするというのは如何なものか? 因みに、ウィキの「ソーラン節」では起源を青森県野辺地町周辺の「荷揚げ木遣り唄」から変化したとし、原曲は江戸中期の流行り歌説を挙げ、『当時の御船歌と呼ばれる儀礼の歌や小禾集という俗謡集に"沖のかごめに"と言う一節に酷似した歌詞があり、その流行歌がやん衆』(春の漁期に合わせて東北や北海道各地から西海岸の漁場へ集まって来た出稼ぎ漁師のこと)『とともに、北海道にわたったという』とある。また、ウィキの「江差追分」(コンマを読点に変えた)には、『渡島半島の日本海沿岸に位置する桧山郡江差町が発祥の地で』、『江戸時代中期以降に発生したとされている。信濃の追分節に起源があるとするのが定説のようである』とし、その経緯は『信濃国追分宿の馬子唄が、北前船の船頭たちによって伝わったものと、越後松坂くずしが謙良節』(けんりょうぶし:越後の民謡「松坂」が変化したもので、新潟県新発田市出身の検校松波謙良が作ったとされる。越後の瞽女や座頭・船人たちが「松坂」を各地へ持ち回ったために、日本海側の各県で唄われている。秋田・青森・北海道の一部では、検校が「松坂」を唄ったために「検校節」と呼ばれる。「検校節」の名が、なまって「けんりょう節」になり、松波謙良の名と結び付いて「謙良節」となった。以上は暁洲舎「日本の民謡 曲目解説」に拠った)『として唄われていたものが融合されたとされている。今の江差追分の原形として大成させたのは、寛永年間、南部国の出身で、謙良節の名手であった座頭の佐之市によるものであると云われている。その後,歌い継がれる間に幾多の変遷を経て,浜小屋節や新地節など多くの流派が発生』したとある。モース先生、ロシア起源というのはちょっと戴けませんね。

「橈」原文は“oar”。ウィキの「櫂」には『英語では、ボートなどで使用する船べりに支点を持つものを"oar"(オール)と呼び、カヌーなどに用いる船べりに支点を持たないものを"paddle"(パドル)と言って区別するように、日本語でも、それぞれを「櫂」(かい)と「橈」(かい)と書いて区別することがある』とある。この場合、舷側に固定されて下がった繩を支点とするから、立派なオール「櫂」の類いと言い得るであろう。

「朽葉林檎」原文“russet apples”。朽葉色のリンゴ、表面にサビの入ったリンゴのこと。説明するよりグーグル画像検索「russet applesを見た方が早い。]

飯田蛇笏 靈芝 昭和十年(九十九句) Ⅴ

 

初夏の嶺小雨に鳶の巣ごもりぬ

 

初夏の卓朝燒けのして桐咲けり

 

わが浴むたくましき身に夏の空

 

海黝ろむ艙庫は暑き日を抱けり

 

大槐樹盆會の月のうす幽し

 

虹消えて夕燒けしたる蔬菜籠

 

虹たつや常山木に顫ふ烏蝶

 

[やぶちゃん注:双子葉植物綱シソ目シソ科クサギ(臭木)Clerodendrum trichotomum ウィキの「クサギ」によれば、日当たりのよい原野などによく見られる落葉小高木で、和名は葉に悪臭があることに由来する。『葉は大きく、長い葉柄を含めて』三〇センチメートル『にもなり、柔らかくて薄く、柔らかな毛を密生する。葉を触ると、一種異様な臭いがするのがこの名の由来である。花は』八月頃に『咲く。花びらは萼から長く突き出してその先で開く。雄しべ、雌しべはその中からさらに突き出す。花弁は白、がくははじめ緑色でしだいに赤くなり、甘い香りがある。昼間はアゲハチョウ科の大型のチョウが、日が暮れるとスズメガ科の大形のガがよく訪花し、受粉に与る。果実は紺色の液果で秋に熟し、赤いがくが開いて残るためよく目立つ。この果実は鳥に摂食されて種子分散が起きると考えられている』とあり、また『葉には名の通り特異なにおいがあるが、茶の他に、ゆでれば食べることができ若葉は山菜として利用される。収穫時には、臭いが鼻につくが、しばらくすると不思議なくらいに臭いを感じなくなる。果実は草木染に使うと媒染剤なしで絹糸を鮮やかな空色に染めることができ、赤いがくからは鉄媒染で渋い灰色の染め上がりを得ることができる』とある。「烏蝶」は「からすてふ(からすちょう)」で、鱗翅(チョウ)目アゲハチョウ上科アゲハチョウ科アゲハチョウ亜科アゲハチョウ属 Papilio に属するアゲハチョウ類で、特に選ぶならばカラスアゲハ Papilio bianor を指すと考えてよいか。]

 

深山寺雲井の月に雷過ぎぬ

 

[やぶちゃん注:「深山寺」は「みやまでら」であろうが、こう呼称する地名や寺院は複数ある。福井県敦賀市深山寺か。但し、出雲にも同様の地名がある。識者の御教授を乞う。私は暫く一般名詞として採って鑑賞しておく。それで何らの問題はない。]

 

瀧霧の颺りて樅のこずゑまで

 

[やぶちゃん注:「颺りて」は「あがりて」と読む。]

 

ながれ出て舳のふりかはる鵜舟かな

 

[やぶちゃん注:「舳」は「へ」。舳先。]

自分   山之口貘

 自分

 

數多の精蟲に打ち勝ちし我は

今自分の生の初めをかへり見る

おゝ 冷たく感ずる危機の刹那

――ほつと吐き出すさだめの溜息

生の中で流汗絶えず――

コツコツして居る自分

これが我に如何ほどの幸福であらう

生れ出づる歡喜!!

嗚呼生れ出し我は

勝利者どもの競爭の巷に

第二の爭鬪をせねばならぬ――

おゝ麗しき美術の持主よ

     (將來の我に云ふ)

汝の愛しい美術に……

鍛へ鍛ふよりのこの腕もて

數多の勝利者達よ油斷なく進め

おゝ然らば自身を我は

赤い日の下で――――

汗は止め難き――――

汝等の力の

幾百倍の源を穿つて

寒き日にもまたどんな日も

汗かいて汗かいて

すべての頭を踏みにじり

得難い……好きな――

美術の持主に

 

[やぶちゃん注:底本では末尾に下インデントで『一九二一・六・二四』とある。前の「私の務」と同日の創作で、同じく大正一〇(一九二一)年八月十一日附『八重山新報』に二篇が並載されたものと思われる。但し、この詩にのみ「佐武路」のペン・ネームを附す(巻頭だからか。

 このペン・ネームは本名の山口重三郎の名の「三郎」に由来するものか。

 旧全集年譜の、この詩の発表より二年前の大正八(一九一九)年の条に『この頃、仲村渠らっと文芸同人誌「ほのほ」を、宮古島出身の下地恵信らとガリ版刷りの同人誌「よう樹」を創刊。ペンネーム山之口サムロ』とあるから、これは「さぶろ」ではなく「さむろ」と読むものらしい。

 因みに、この仲村渠(明治三八(一九〇五)年~昭和二六(一九五一)年)は「なかむら かれ」と読む。那覇生まれの詩人で本名は仲村渠致良(「なかんだかり ちりょう」又は「なかんだかれ ちりょう」と読むものと思われる。「仲村渠」はこの三文字で苗字であって沖縄独特のものである)。「琉球新報」公式サイト「沖縄コンパクト事典」の仲村渠によれば、北原白秋主宰の『近代風景』に参加、昭和七(一九三二)年頃、詩人グループ『榕樹』派(先に出たガリ刷同人誌か)を結成、戦後は『うるま新報』記者とある(下地恵信は不詳。)。

 「コツコツ」の後半は底本では踊り字「〱」。既に述べたように、この翌年の秋、バクさんは画家を志して上京する。

 冒頭「數多の精蟲に打ち勝ちし我は」で始まる激烈にしてストイックなこの一篇、私には――バクさんの「雨ニモ負ケズ」――であるように感じられる。]

杉田久女句集 226 秋月とコスモス 五句

 

   秋月とコスモス 五句

 

月の頰をつたふ涙や禱りけり

 

熱涙拭ふ袂の緋絹や秋袷

 

われにつきゐしサタン離れぬ曼珠沙華

 

[やぶちゃん注:曼珠沙華の句では群を抜く久女ならではの佳句である。]

 

コスモスくらし雲の中ゆく月の暈

 

コスモスに風ある日かな咲き殖ゆる


[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年三十二歳の時の句群。久女は前年からメソジスト教会に通うようになり、この年の二月に洗礼を受け、十二月には夫宇内も受洗している。]

橋本多佳子句集「紅絲」 沼 Ⅱ

 

冬の日を鴉が行つて落して了ふ

 

風の中枯蘆の中出でたくなし

 

子を思ふとき詩を欲るときを枯木立つ

 

枝交へ枯れし柘榴と枯れし桜と

 

威し銃おどろきたるは吾のみか

 

威し銃おろかにも二発目をうつ

 

[やぶちゃん注:これら一連の句群には明らかに今まで多佳子が用いたことのない口語的発想や新しい表現方法を模索しようとしている跡がありありと見えるが、未だうまくはいっていない。]

北條九代記 卷第六  宇治川軍敗北 付 土護覺心謀略(4) 承久の乱【二十六の二】――宇治の戦い決し、京方敗走す

土護(とごの)覺心は、散々に戰うて、「今は叶ふまじ。軍(いくさ)は是迄ぞ」とて、南を指して落ちて行く。敵三十騎計(ばかり)にて遁さじとて追掛くる。覺心は元來歩立(かりだち)の達者なれば、三室堂の僧坊まで飛が如くに走入りて、客殿を見れば、住持の僧かとおぼしくて睡居(ねむりゐ)たる、其の前に物具を脱置(ぬぎお)きて、剃刀のありけるに、水甕を取具(とりぐ)して緣に出て頭(かしら)を剃りて居たる所に、敵續きてうち入りつゝ、物具の傍(そば)に居ける僧を、敵ぞと心得て、取て抑へて首を取りてぞ歸りける。一舉の謀(はかりごと)に、無慚ながらも命を助り、奈良の方へ落行きたり。熊野の田邊法印は、子息千王禪師を討たせながら其身は泣々(なくなく)熊野にぞ歸りにける。宇治の渡(わたり)京方已に敗北して、横川(よかは)の橋、木幡山(こはたやま)、伏見、岡屋(をかのや)、日野、勸修寺(くわんしゆじ)に至まで、落人多く道々(みちみち)に討たれたり。供御瀨(ぐごのせ)、鵜飼瀨(うかひのせ)、廣瀨、槇島所々に向へられし京勢共、宇治の北の在家に、火の手の上(あが)るを見るよりも我先にと落失(おちう)せて、殘る兵一人もなし。夜に入りければ、寄手は次第々々に靜に川をぞ越えられける。

[やぶちゃん注:〈承久の乱【二十六】――宇治の戦い決し、京方敗走す〉

「土護覺心」不詳。底本の人物一覧にも出ない。不敵な坊主で興味があるのだが――いや寧ろ、この戦乱の最中に客殿で居眠りをしていて、人違いされ有無を言わさず首を掻かれてしまった三室戸寺の如何にも運のない凡僧、その横で素知らぬ振りで心静かに頭を剃って「愚僧は本明星山三室戸寺住持誰某にて御座る」なんどとうそぶいているシーンにこそ私の興味はある――というべきであろう。識者の御教授を乞うものである。

「三室堂」京都府宇治市莵道滋賀谷(とどうしがたに)にある明星山三室戸寺(みょうじょうざんみむろとじ)。寺院。本尊千手観音。西国三十三所第十番札所。本山修験道別格本山であるが、創建の正確な事情については不詳。公式サイトはこちらで、その略誌では光仁天皇勅願の精舎とする。宇治橋からは東北へ約一・五キロメートル程離れている。しかしここ、「南を指して落ちて行く」というのは不審。「承久記」本文にはないから、「北條九代記」の筆者の筆が滑った位置誤認と思われる。

「田邊法印」熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)の統轄にあたった熊野別当であった快実(?~承久三(一二二一)年)。底本の人物一覧によれば、「紀伊国続風土記」によれば、この「田邊法印」は快実のことであり、「熊野別当系図」によれば、『熊野別当法印湛憲の子とある。別称小松法印。』以下に見るように「承久記」古活字本(流布本)の原文では、『彼が戦いに敗れて後、』ある畠の中に這い隠れて九死に一生を得た話が載る(「北條九代記」ではその詳細はカットされている)が、『乱後捕われて処刑された(流布本・慈光寺本・吾妻鏡等)』とあり、「北條九代記」の次の章の「雲客死刑」でも六条河原で処刑されたとある。

「夜に入りければ」六月十四日の夜。前に引いた「吾妻鏡」の同日の最後の部分の書き下し文を再掲しておく。『武州、武藏前司等、筏(いかだ)に乘りて河を渡す。尾藤(びとう)左近將監、平出(ひらで)彌三郎をして民屋を壞(こぼ)ち取りて筏を造らしむと云々。武州、岸に著くの後、武藏・相摸の輩、殊に攻め戰ふ。大將軍二位兵衞督有雅卿・宰相中將範成卿・安達源三左衞門尉親長等、防戰の術を失ひて遁れ去る。筑後六郎左衞門尉知尚・佐々木太郎右衞門尉・野次郎左衞門尉成時等、右衞門佐朝俊を以つて大將軍と爲し、宇治河邊に殘留して相ひ戰ひ、皆、悉く命を亡(うしな)ふ。此の外の官兵、弓箭(きゆうぜん)を忘れ、敗走す。武藏太郎、彼の後へ進み、之を征伐せしめ、剩(あまつさ)へ、火を宇治河北邊の民屋に放つの間、自(おのづか)ら逃げ籠るの族(うから)、煙に咽(むせ)びて度を失ふと云々。武州壯士十六騎を相ひ具し、潛かに深草河原に陣す。右幕下の使ひ〔長衡。〕、此の所に來て云はく、「何(いづ)れの所に迄(いた)らば渡り有るや。見奉るべし。」の由、幕下の命有りと云々。武州云はく、「明旦(みやうたん)入洛すべく候。最前に案内を啓(けい)すべし。」てへれば、使者の名を問ふに、「長衡。」と名謁(なの)り訖んぬ。則ち、南條七郎を以つて長衡に付け、幕下の許へ遣はし、其の亭(ちん)を警固すべきの旨、示し付くと云々。毛利入道・駿河前司、淀・芋洗(いもあらひ)等の要害を破りて、高畠(たかばたけ)邊に宿す。武州、使者を立てるに依つて、兩人、深草に到ると云々。相州、勢多橋に於いて官兵と合戰す。夜陰に及びて、親廣・秀康・盛綱・胤義、軍陣を棄てて皈洛(きらく)し、三條河原に宿す。親廣は、關寺(せきでら)の邊に於いて零落すと云々。官軍佐々木弥太郎判官高重以下、處に誅せらると云々。』。

「勸修寺(くわんしゆじ)」私は勧修寺「くわうじゆうじ(かじゅうじ)」と読むのだとばかり思っていたが、ウィキの「勧修寺」によれば、現在の京都市山科区にある皇室と藤原氏に所縁の門跡寺院真言宗山階派大本山亀甲山勧修寺(開基醍醐天皇・開山承俊・本尊千手観音)の寺名は「かんしゅうじ」「かんじゅじ」などとも読まれることもあるものの、寺では「かじゅうじ」を正式の呼称としているとある一方、『山科区内に存在する「勧修寺○○町」という地名の「勧修寺」の読み方は「かんしゅうじ」である』とあり、ここでも本文は明らかに寺名ではなく地名であるからすこぶる正しいルビということになる。由緒ある寺社の名称を地名として用いる場合に漢字表記や読み方を変えて憚るということはしばしば見られる習俗である。

 以下、「承久記」の当該パート(底本通し番号82~85相当)を示す。 

 奈良法師土護覺心、散々ニ戰テ、今ハ叶間敷トヤ思ケン、落行ケルヲ、敵三十騎計ニテ追懸タリ。覺心元來歩立ノ達者成ケレバ、馬乘ヲモ後ロニ不ㇾ著、三室堂ノアル僧房へ走入テ見レバ、坊主カト覺シタテ、白髮ナル僧アリ。彼ガ前ニ物具脱デ置テ、髮ソリノ有ケルニ、水カメヲ取具シテ緣ニ出テ、頭ヲソラセテ居タリ。敵續テ來リケレバ、坊主無何心物具ノソバニ居タリケルヲ、敵ゾト心得テ、取テ押へテ首ヲ取。ムザンナリシ事也。其後、覺心ハ奈良ノ方へゾ落行ケル。

 熊野法師田部法印ガ子息千王禪師トテ、十六歳ニ成ケルガ、親子返合散々ニ戰ケルガ、千王禪師被取籠被ㇾ討ヌ。法印ハ落行ケルガ、馬ヲ捨テ、アル畠ノ中ニ這隱タリ。敵數多續テ上ヲ越ケレ共、是ヲ不ㇾ知ハ、偏ニ權現ノ御タスケニコソト、賴敷ク覺へテ哀ナリ。
・「熊野法師田部法印」先に注した田辺別当家の快実のこと。


 去程ニ京方ノ軍破ケレバ、皆々落行所ヲ、横河ノ橋・木幡山・伏見・岡ノ屋・日野・勸修寺ニ至迄、所々ニテ組落シ組落シ是ヲ討。サレバ坂東勢共、一人シテ首ノ七ツ八、取ヌ者モナシ。惣判官代、宇治ノ北ノ在家ニ火ヲ懸タリケレバ、是ヲ見テ、供御ノ瀨・ウカヒ瀨・廣瀨・槇島、所々ニ向タル勢共、皆落行テ、留マル者一人モナカリケル。少輔入道親廣、近江關寺ヨリ引分レテ行ケルガ、四百餘騎ニ成ニケル。其モ次第々々ニ落散テ、三條河原ニテハ百騎計ニ成ニケリ。爰ニテ夜ヲ明ス。

 武藏守、其子ノ太郎・伊具次郎、僅ニ五十騎計ノ勢ニテ、深草河原ニヲ取。人是ヲ不ㇾ知、駿河守ハ淀近所ニ堂ヲコボチ、桴ニ組デ河ヲ渡シ、高畠ニ陣ヲ取。武藏守、「泰村、爰ニ候。小勢ニテ打寄ラセ給へ。可申合事アリ」ト宣ケレバ、駿河守三十騎計ニテ來リ加ケル。
・「惣判官代」不詳。「吾妻鏡」の叙述と照らし合わせると、火をつけたのは「武藏太郎」泰時長男北条時氏である。
・「桴」「いかだ」と読む。
・「駿河守」三浦泰村。]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅9 黑羽光明寺行者堂 夏山に足駄を拜む首途哉   芭蕉

本日二〇一四年五月二十七日(陰暦では二〇一四年四月二十九日)

   元禄二年四月  九日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年五月二十七日

である。

 

夏山に足駄(あしだ)を拜む首途(かどで)哉

 

  黑羽光明寺行者堂

夏山や首途を拜む高あしだ

 

[やぶちゃん注:第一句目は「奥の細道」。「曾良随行日記」に、

 

一 六日ヨリ九日迄、雨不止(やまず)。九日、光明寺ヘ被招(まねかる)。晝ヨリ夜五ツ過迄ニシテ歸ル。

 

とあるから、四月九日の吟である(「夜五ツ過」午後八時過ぎ)。第二句目は「曾良書留」。

「光明寺」余瀬の天台宗修験寺光明寺。文治二(一一八六)年に那須与一が阿弥陀仏を勧請して建立、その後は廃れて永正年間(一五〇四年~一五二一年)に津田源弘によって修験堂として再興されたが、明治の廃仏毀釈によって廃絶、現存しない。芭蕉が訪れた当時の修験堂先達は第七代権大僧都津田源光(つだもとみつ)法印の妻は浄法寺図書桃雪高勝の妹であった。余瀬の翠桃宅に近かった。

「行者堂」修験道開祖役行者を祀る。一本歯の高下駄が安置されてあった。

 本句と別にもう一句、曾良の「俳諧書留」には、

 

   同

汗の香に衣ふるハん行者堂

 

とが載るが、これ、「雪まろげ」には、

 

光明寺行者堂 汗の香に衣ふるハな行者堂 曾良

 

とあるので採らない。句柄としても「夏山や」の並べるに格が堕ち過ぎる気がする。但し、芭蕉はしばしば捨てた句を曾良に与えた形跡があるように私には思われ、これがそうでないとは言い切れぬとは思うが、曾良作の誤伝とするのが現在の主流のようではある。

 「奥の細道」では前に述べた通り、記載の時系列操作が行われている。煩を厭わず、既に掲げた「黒羽」の段を再掲しておく。

   *

黑羽の舘代浄坊寺何某の方ニ音信ル

おもひかけぬあるしのよろこひ日夜語

つゝけて其弟桃翠なと云か朝夕勤

とふらひ自の家にも伴ひて親属の

方にもまねかれ日をふるまゝに

ひとひ郊外に逍遙して犬追ものゝ跡

を一見し那すの篠原をわけて玉藻の

前の古墳をとふそれより八幡宮に詣

与市宗高扇の的を射し時別ては我

国氏神正八まんとちかひしも此神社

にて侍ときけは感應殊しきりに覚らる

暮れは桃翠宅に歸る

修驗光明寺と云有そこにまねかれて

行者堂を拜す

  夏山に足駄をおかむ首途哉

   *

■異同

(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)

〇与市宗高扇の的を射し時  → ●與市扇の的を射し時]

2014/05/26

橋本多佳子句集「紅絲」 沼 Ⅰ

 沼

 

水鳥の沼が曇りて吾くもる

 

沼氷らむとするに波風たちどほし

 

頭(づ)勝ちなる鳩の身すぐにくつがへる

 

   家近き沼に死にし男女を悼みて 三句

 

凍(い)て死にし髪吾と同じ女の髪

 

金色の焚火一炷二人の死

 

置かれある情死の天の寒き晴れ

 

[やぶちゃん注:二句目の「一炷」は「いつしゆ(いっしゅ)」と読み、一般には香をひと炷(た)きくゆらせること及びまたその香、又は一本の灯心を指すが、ここは情死の現場検証であろうか、そこでたく焚火の火を手向けの香や灯心に擬えたものであろうか。但しこの三句、あまり上手くは詠めていない。素材負けしている。]

 

置かれある情死の天の寒き晴れ

杉田久女句集 225 江津湖の日 十一句

  江津湖の日 十一句

 

[やぶちゃん注:角川書店昭和四四(一九六九)年刊「杉田久女句集」には大正一一(一九二二)年の句群として入っているが、実際にはその前年大正十年九月に熊本の江津湖畔に住んでいた『ホトトギス』で親しくなった斎藤汀女(後の中村汀女。当時二十一歳。久女より十歳若い)を訪ねた際の嘱目吟である(言っておくと同句集の大正十年パートには一句しか載っておらず、明らかに編集上の奇異な感じを与える。ここにはもしかすると、宇内との結婚生活を続けることとなった同年には実母さよから『夫が俳句を嫌うのなら俳句をやめるように説得された』(底本年譜)といった事情も影響しているのかも知れない。即ち、俳句をやめた『振りをしていた』可能性である)。

「江津湖」は「えづこ(えずこ)」と読む。現在の熊本県熊本市東区及び中央区にかかって存在する湖。上(かみ)江津湖と下(しも)江津湖に分かれた瓢簞型を成し、間を加勢川が繋いでおり、上江津湖の東側半分が中央区に属している。「水前寺江津湖公園」公式サイトの
解説を参照されたい。本句群でも水棲植物が多く詠まれているが、特に九州の一部だけに自生する食用の淡水産稀少藍藻類である真正細菌藍色細菌門藍色細菌綱クロオコッカス目クロオコッカス科スイゼンジノリ Aphanothece sacrum の発生地として知られる。スイゼンジノリ(水前寺海苔)は茶褐色で不定形、単細胞の個体が寒天質の基質の中で群体を形成、郡体は成長すると川底から離れて水中を漂う。但し、現在も上江津湖に国天然記念物「スイゼンジノリ発生地」はあるものの、一九九七年以降に於いて水質の悪化と水量の減少によりここのスイゼンジノリはほぼ絶滅したと分析されている(現在、自生地としては福岡県朝倉市の黄金川一箇所のみ)。本種は熊本市の水前寺成趣園の池で発見され、明治五(一八七二)年にオランダの植物学者スリンガー(Willem Frederik Reinier Suringar)によって世界に紹介された。因みにこの種小名“sacrum”は英語の“sacrifice”で「聖なる」を意味する。これは彼がこの藍藻の棲息環境のあまりの清浄なさまに驚嘆して命名したものという。ただ近年では人口養殖に成功し、食用に生産されている他、スイゼンジノリの細胞外マトリックス(Extracellular Matrix:生物細胞の外側を外皮のように覆うように存在している超分子構造体。)に含まれる高分子化合物の硫酸多糖であるサクラン(Sacran:種小名に由来)が重量比で約六一〇〇倍もの水分を吸収する性質を持つことから保湿力を高めた化粧水に応用されたり、サクランが陽イオンとの結合によってゲル化するという性質を利用、スイゼンジノリを原料に生産したサクランを工場排水などに投入してレアメタルを回収する研究などが行われているという(以上は主にウィキスイゼンジノリ及びそのリンク先に拠った)。ここで藻を刈っているのは晩夏初秋の湖に繁茂してしまった水草を刈っているようにも見えるが、その「刈藻の香」というところなど、多量に刈り揚げて干された生臭い雑草としての水草類のそれとは思われず、この食用にされるスイゼンジノリや後の句に掲げられる染料ややはり食用に供されるミズアオイ(後注参照)のイメージを想起してよいものと私には思われる。この句群、さながら、水棲水辺植物博物句集の体(てい)を成してすこぶる附きで私には面白い。さればこそ久女も、ここで句には詠まれていないかも知れぬスイゼンジノリのことを私が長々と注したことを、きっと許してくれる、と私は思うのである。]

 

遊船の提灯赤く搖れあへる

 

藻の花に自ら渡す水馴棹

 

[やぶちゃん注:「水馴棹」は「みなれざを(みなれざお)」と読み、水底に挿して船を進める竿のこと。古語。]

 

水莊の蚊帳にとまりし螢かな

 

藻を刈ると舳に立ちて映りをり

 

藻刈竿水揚ぐる時たわみつゝ

 

[やぶちゃん注:「藻刈竿」藻を刈るために用いる専用の道具。藻刈器。現在ネット上で販売されているものを画像で視認すると、鎌の柄が非常に長い形状を成すものが多い。ここでもその柄が驚くほど長いものを想起出来る。]

 

湖畔歩むや秋雨にほのと刈藻の香

 

舟人や秋水叩く刈藻竿

 

水葱(なぎ)の花折る間舟寄せ太藺中

 

[やぶちゃん注:「水葱」単子葉綱ツユクサ目ミズアオイ科ミズアオイ Monochoria korsakowii の別名。ウィキミズアオイ」によれば、「万葉集」では「水葱」として求愛の歌に詠まれるなどして古くから湖や川辺に住まう人々に親しまれてきたもので、青紫色の花は染物に利用された他、食用に供されることもあり、食用にする場合は若芽や若葉を塩茹でにして流水によく晒し、汁物・煮物・和え物に用いるとある。「太藺中」は「ふとゐ/なか(ふとい/なか)」と読んでいよう。「藺」は畳表に使われる湿地や水中に植生する単子葉植物綱イグサ目イグサ科イグサ Juncus effusus var. decipens のこと。別名トウシンソウ(燈芯草)。夏の季語。]

 

漕ぎよせて水葱の花折る手のべけり

 

藻に弄ぶ指蒼ざめぬ秋の水

 

羊蹄(ぎしぎし)に石摺り上る湖舟かな

 

[やぶちゃん注:「羊蹄」やや湿った道端や水辺・湿地などに植生する双子葉植物綱ナデシコ目タデ科スイバ属ギシギシ Rumex japonicas のこと。若芽や若葉は山菜食用に、根は皮膚薬になる。]

2014/05/25

杉田久女句集 224 櫓山山莊虛子先生來遊句會 四句

 

  櫓山山莊虛子先生來遊句會 四句

 

潮干人を松に佇み見下せり

 

花石蕗の今日の句會に缺けし君

 

[やぶちゃん注:「缺けし君」底本では「缺」は「欠」。]

 

秋山に映りて消えし花火かな

 

石の間に生えて小さし葉雞頭

 

[やぶちゃん注:「雞」は底本の用字。これは大正一一(一九二二)年十月に長崎に西下する高浜虚子を迎えた、橋本多佳子豊次郎夫妻の櫓山荘での句会風景である。実際には既にこの年の三月二十五日に同じ櫓山荘で虚子は長崎旅行の帰途に句会を開いている(底本と同じ立風書房一九八九年刊の「橋本多佳子全集」の多佳子年譜による)。この時、久女の年譜によれば橋本夫妻は句会を見学とあり句会自体には参加していない。従って私は二句目にある「缺けし君」と久女が愛おしんでいるのは、実は多佳子であると思うのである。この後より久女は本格的な久女の句作指導(絵も描かされたと多佳子の言を載す)を受けるようになる。底本の久女の年譜には虚子来訪三月の記事がなく、逆に多佳子の年譜にはこの十月の虚子再訪の記事がない。何か、奇妙である。]

橋本多佳子句集「紅絲」 凍蝶抄 Ⅵ / 凍蝶抄 了

 

冬雲雀そのさへづりのみぢかさよ

 

拠るものゝ欲しけれど壁凍るなり

 

あふれいづる涙冬蝶ふためき飛び

 

掌(て)に裹む光悦茶碗凩堪へ

 

蕗の薹寒のむらさき切りきざむ

 

寒念仏ひゞくやひゞきくるもの佳(よ)し

 

木樵ゐて冬山谺さけびどほし

 

冬の森若人にすぐ谺して

 

空林や流れのあれば紅葉しづめ

篠原鳳作初期作品(昭和五(一九三〇)年~昭和六(一九三一)年) 了 / 篠原鳳作全句電子化終了

 

郊外に住みて野分をおそれけり

 

歸省子のもてる小さきクロス哉

 

龜の子のはひ上りゐる浮葉かな

 

船蟲のひげ動かして機嫌かな

 

[やぶちゃん注:「船蟲」の「蟲」は底本では「虫」。]

 

いねがての團扇はたはたつかひけり

 

蜻蛉追ふ子等の面も夕やけぬ

 

案山子翁裏にも顏のかかれけり

 

渡り鳥仰ぐ端居となりにけり

 

竜胆に今年の雲の早さかな

 

[やぶちゃん注:「竜胆」は底本のママ。
 こ
れを以って初期作品は終わる。以上で底本の俳句編の電子化を終了した。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十二章 北方の島 蝦夷 4 モース先生はやっぱりアメリカ人――ビールとビーフ・ステーキがお好き――

 だが、まだ私の住居の問題が残っていた。私は日本食で押し通すことは出来ないし、この町には西洋風のホテルも下宿もない。役人が二人、町を精査するために差し出された。午後三時、彼等は西洋館に住んでいるデンマーク領事の所で、我々のために二部屋を手に入れたと報告した。そこですぐ出かけて行くと、この領事というのは、まことに愛橋のある独身の老紳士で、英語を完全に話し、私が彼と一緒に住むことになってよろこばしいといった。一方長官の官吏は、下僕二人と共に、椅子二脚、用箪笥、卓子(テーブル)、寝台、上敷、枕、蚊帳その他ブラッセル産の敷物に至る迄、ありとあらゆる物を見つけて来た。かくて私は、私自身何等の経費も面倒もかけることなくして、最も気持よく世話されている。毎日正餐には、いい麦酒(ビール)一本とビーフステーキ――これ以上、人間は何を望むか?

[やぶちゃん注:「ブラッセル」原文“Brussels”。原文でお分かりの通り、ベルギーの首都ブリュッセル。中世、フランドルは優れた織物を産したが、ブリュッセルはその中心であった。]

私の務   山之口貘

 私の務

 

世人よ 汝等よ

見よ!!

日没の頃の我が沈默を

おれの働きの一時の憩ひだ

日よ……

強き強き日輪の光よ

おれは働きつゝ

腹の中で汝に囁く

――おゝ汝のギラギラする

  光の中にあつて

  塵埃の中を盲人

  困難の中を

  偉大な偉大な力を担ひ

  かくて果てなき地平を

  おれはひねもす這ひ行く

  力出せば――

  何處かに甲斐の賜は

  日よ汝の光より

  価價ある光輝を放ち

  苦を忍び來るおれの身を

  手まねきつゝ歡喜湛えて

  幸福の地に呼ぶ

噫々

!! と

たのもしき大自然の地平とを

無言に 只無言に

 

[やぶちゃん注:底本では末尾に下インデントで『一九二一・六・二四』とある。大正一〇(一九二一)年八月十一日附『八重山新報』に次の「自分」と合わせて並載されたものと思われる。「ギラギラ」の後半は底本では踊り字「〱」。

義父の逝去を悼む仙人掌の花の妖精

義父の逝去を悼む仙人掌の花の妖精今朝咲く――

2014052509010000

2014052509030000

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅8 黒羽 田や麥や中にも夏の時鳥  芭蕉

本日二〇一四年五月二十五日(陰暦では二〇一四年四月二十七日)

   元禄二年四月  七日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年五月二十五日

である。

 

  しら河の關やいづことおもふにも、先(ま

  づ)秋風の心にうごきて、苗みどりにむ

  ぎあからみて、粒々(りふりふ)にから

  きめをする賤がしわざもめにちかく、す

  べて春秋のあはれ、月雪のながめより、

  この時はやゝ卯月のはじめになん侍れば、

  百景一ツをだに見(みる)ことあたはず。

  たゞ聲をのみて、默して筆を捨(すつ)

  るのみなりけらし

田や麥や中にも夏の時鳥(ほととぎす)

  元祿二孟夏七日

 

麥や田や中にも夏はほとゝぎす

 

[やぶちゃん注:第一句目は「曾良書留」を諸本の引用と解説により、推定し得る原型に近い状態で再現したが、「曾良書留」は下五が「夏時鳥」であるので、諸本の相似句から「の」を補った。また底本は「麦」とするが正字化した。なお、下五を、

 

田や麥や中にも夏のほとゝぎす

 

とした形で「雪まろげ」にも載る。第二句は「茂々代草」(ももよぐさ:其流/楚舟/秋花編・寛政九(一七九七)年跋・真蹟を模刻したものとする)所収の句形で、句の後に、

 

  右は淨法寺桃雪亭にての吟也

 

と付記するとあり、更に底本注によれば「安達太郎根」(あだたらね:渭北編・宝永元(一七〇四)年成立)には、この句の真蹟が浄法寺にあるとしるす、とある。とすればこれが初案であろう。

 「曾良書留」の前書によって初めてこの句が知られた白河の関を詠んだ能因法師の和歌、

 

 都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の關

 

をベースにした句で、これから越える白河の関の景観に思いを馳せつつ吟じた句ことが分かる。能因の秋の景と今の初夏のそれとの様変わった自然を視覚と聴覚で際立たせた句であるが、事大主義的な長々しい前書なしにはその重層性が読み切れない。山本健吉氏も『表現が未熟で、この句だけでは充分に意味が汲み取れない』と評されておられる。無論、「奥の細道」には不載。]

2014/05/24

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 城蹟

    ●城蹟

木古庭の北小名畠山あり、登八町許、土俗八町坂と呼ぶ、新編相模國風土記に曰、山上芝地にして、濶方十五間、三方に土手の形殘る、何人の居蹟なるかを傳へず、或云、畠山重保の城蹟(じやうせき)と、此地名に據(よつ)て附會せしなるべし、此の山續逸見村の屬に、木戸ケ谷の名あり、是(これ)大手(おほて)の蹟(あと)なるべし、若くは逸見(へんみ)五郎の居蹟ならんか。

[やぶちゃん注:横須賀市公式サイトの「田浦を歩く」の「畠山城跡には、『十三峠の付近に、畠山城跡と伝えられるところがある。これには2つの説があって、一つは、昔ある武将がこの城にたてこもったのを水路を断って亡ぼそうと計ったが、武将は馬を敵の見えるところに引き出して白米をもって馬を洗って見せた。それを遠くから見て米を水と思った敵将はついに水攻めをやめて、軍を解いたという。また、一説には三浦大介の妹の長子である畠山重忠が衣笠城を攻めるときに作った城(または館)だとも伝えられている。この山は、当時畠山勢の進軍の先兵の物見にでも使われたのではないかといわれている。この北方の山の下には、「矢落」(やおちまたはやおとし)と呼ばれる地名も残っている』とある。詳細なルートは「悠歩悠遊」の「畠山」がよく、地図はここがよい。

「畠山重保の城蹟と、此地名に據て附會せしなるべし」と一蹴しているが、私は直前の直近にある「木古庭の不動の瀧」の創建の由来に重保の父重忠が関わっているのがどうも気になって仕方がない彼に所縁の城砦状の屋敷があったとしてもおかしくはないと思われる。

「逸見五郎」「吾妻鏡」の建暦三年五月六日の条の、和田義盛の乱で和田方で討死した名簿の中に逸見五郎・同次郎・同太郎が載る。この人物か。但し、この一族の出自は必ずしも知られた名門甲斐源氏を源流とする逸見氏とは断定出来ないらしい。寧ろ、彼らはまさにこの三浦郡逸見村の出で逸見氏を名乗ったのかも知れないという推測記載が個人ブログ「中世史の見直し」の武田創世その一 逸見光長についてにあるからである。]

飯田蛇笏 靈芝 昭和十年(九十九句) Ⅳ

  四月三日朝、墨石君の案内にて南北君と共

  にサンルイス丸へ遊びにゆく

 

鳶鷗帆も吹きかすむ港かな

 

[やぶちゃん注:「墨石」「南北」ともに門弟らしいが、不詳。「サンルイス丸」個人ブログ「座敷牢」の「ガタルカナル戦日本海軍石油事情(昭和17年度油送船別南方還送油なぜか捕獲オランダ油送船一覧付き)」という記事のデータの中に『到着日時及び入港地 8月6日 大連(満州石油)/船名 サンルイス丸/積載油内容 揮発油及び原油 約12,200』という記事を見出したのみ。どこの港なのかも不明である(感触としては次の二句から淡路島の福良港かも知れない。二句後の「福良港」の注を参照されたい)。二人の人物とともに識者の御教授を乞うものである。]

 

  洲本金天閣にて

 

餘花の峯うす雲城に通ひけり

 

[やぶちゃん注:Yoshiyuki Nakayama 氏のサイト「スバルワールド」の「すばる“旅”レポート」の「淡路人形浄瑠璃と潮風香る島の城下町・洲本を訪ねる」に洲本八幡神社(金天閣)あり、そこに『三熊山北麓の洲本八幡神社に藩主の迎賓館として建てられたものを、明治維新後、城外に移築。大正時代に洲本八幡神社内に移設され』、現在は『県指定の重要有形文化財で、内部の装飾金具や欄間の彫刻には、江戸工芸技術の粋がつくされ』、『建物の各所に見られる卍の印は蜂須賀家の家紋で』あるとある。『三熊山北麓の洲本八幡神社』は淡路島の、現在の洲本市小路谷(おろだに)にある洲本城(別名三熊城)の麓にある、地図上では「上八幡神社」とあるそれと思われる。]

 

  福良港

 

かもめ飛ぶ觀潮の帆の遲日かな

 

[やぶちゃん注:「福良港」鳴門海峡に面した淡路島の南端、兵庫県南あわじ市にある港。天然の良港で、かつて大鳴門橋の開通以前は徳島県鳴門市の撫養港との間に鳴門フェリーがあり、四国と阪神を結ぶトラック輸送の動脈を担っていた時期もあったが、現在では鳴門の渦潮を見る遊覧船(観潮船)の発着港として多くの観光客に利用されている。その他にもかなり大型の船が出入り出来る貨物港と漁港としての機能もあるとウィキ福良港にある。先の停泊していたサンルイス丸に乗船してみたのもここかも知れない。]

 

  四月十八日、鴻翔君と共に國寶展に赴き南

  蠻屛風其他長崎風俗の古名畫を見る。三句

 

寺院(エケレシヤ)の實る寒竹巖に垂る

 

伴天連が蠑螺をのぞく頸の珠數

 

殉教者(マルチリ)に天國(ハライソ)さむき露のいろ

 

官邸の薄暑をいづる花賣女

 

取に大つぶてなる初夏の雨

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十二章 北方の島 蝦夷 3 ラボ、瞬時にして完成す 附 僕の好きな俳優時任三郎の先祖がここに登場する事

 朝飯後矢田部教授と私とは、長官を訪問した。彼は威厳のある日本官吏である。我々が名乗りをあげるや否や、彼は、文部卿の西郷将軍から手紙を、また文部大輔から急信を受取っている、そしてよろこんで我々を助けるといった。私は彼に向って、言葉すくなく、我々が必要とする所のものを述べた。第一が実験室に使用する部屋一つ、これは出来るならば容易に海水を手に入れ得るため、埠頭にあること。第二が曳網に適した舟一艘。彼は我々を海岸にある古い日本の税関へ向わしめ、我々は一人の官吏につれられてそこへ行った。私は私が実験所として希望していたものに、寸分適わぬ部部屋二つを、そこに見出した。それ迄そこに住んでいた人達は、私の方が丁寧に抗議したのだが、追放の運命を気持よく受け入れつつ、即座に追出された。次に私は遠慮深く彼に向って、私が二部屋ぶっ通しの机を窓の下へ置くことと、棚若干をつくつて貰い度いこととを、図面を引いて説明しながら話した。一時間以内に、大工が四人、仕事をしていた。その晩九時三十分現場へ行って見たら、蠟燭二本の薄暗い光で、四人の裸体の大工が、依然として仕事をしていた。翌朝にはすべて完成、部庭は奇麗に掃除され、いつからでも勉強にとりかかれる。一方長官は、船長、機関士達、水夫二人つきの美事な蒸汽艇を手に入れ、これを我々は滞在中使用してよいとのことであった。私の意気軒昂さは、察してくれたまえ。私は仕事をするための舟に就ても、部屋に就ても、絶望していたのである。然るに十二時間以内に、完全な支度が出来上った。私は江ノ島に於る私の困難と、舟や、仕事の設備をするのに、何週間もかかったことを思い出した。ここでは、この短い期間に、私が必要とする設備は、すべて豊富に準備出来たのである。

[やぶちゃん注:「長官」磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、矢田部良吉の「北海道旅行日誌」の七月十六日の日記には『朝五時函館港ニ着ス……開拓使大書記官時任爲基ニ會ヒ、此度渡航ノ旨趣ヲ話セシ所、甚深切ニ周旋ヲ爲シ、其宜シキ「ラボレートリ」を與ヘ、且つ小ナル汽船ヲ貸セリ。「ラボレートリ」ハ運上所即チ船改所ノ内二室ニテ、海水ニ接近尤(モツト)モ便利ナリ』とある(恣意的に正字化した)。この「開拓使大書記官時任爲基」がモースのいう「長官」で、ウィキ時任為基によると、時任為基(ときとうためもと 天保一三(一八四二)年~明治三八(一九〇五)年)は日本の内務官僚・政治家。府県知事・元老院議官・貴族院議員。薩摩藩士時任為徳の長男として薩摩国鹿児島郡鹿児島城下新屋敷通町で生まれ、明治四(一八七一)年八月に新政府に出仕し、東京府典事(知事―権知事―参事―権参事―典事)に就任、翌明治五年七月に開拓使八等出仕となった。明治八(一八七五)年九月には千島樺太交換条約締結に際して理事官としてサンクトペテルブルクへ出張してもいる。その後、札幌本庁民事局長・開拓大書記官(モース来訪時はこれ)・函館県令・北海共同競馬会社会長・函館支庁長などを歴任、明治二〇(一八八七)年一月、宮崎県知事に就任するも五月には元老院議官に転じた。翌年二月には高知県知事、以後、静岡県・愛知県・大阪府・宮城県の各知事を歴任、明治三一(一八九八)年に貴族院勅選議員に任じられて死去するまで在任した。因みに、私の好きな俳優の時任三郎は彼の子孫であるともある。

「文部卿の西郷将軍」西郷隆盛の弟であった第三代文部卿西郷従道(つぐみち)。文部卿の在任期間は明治一一(一八七八)年五月二十四日から明治一一(一八七八)年十二月二十四日まで。因みに、以前に注したが、モースが前年に来日した際には文部卿は不在であった。明治七(一八七四)年五月十三日に台湾出兵に抗議して木戸孝允が第二代文部卿を辞任して以来、実に四年近くに及ぶ間、文部大輔(副大臣相当)の田中不二麿が文部卿の職務を代行していていたのである。これで明治政府に於いて如何に文部行政が軽んじられていたかがよく分かり、しかもそれをよく支えたのがこの文部大輔田中不二麿であったのである。

「文部大輔」このモースの北海道行の時もそのまま田中不二麿が文部大輔を勤めていた(田中の文部大輔在任期間は明治七(一八七四)年九月二十七日から明治十三(一八八〇)年三月十五日までで、司法卿に配置換えとなっている。これは政府内に未就学児の増加と学力低下を招いたとする批判が強まった結果であった。ここまで前の注も含め、ウィキの文部大臣日本及び田中不二麿に拠った)。]

橋本多佳子句集「紅絲」 凍蝶抄 Ⅴ

   夫の兄料左衛門逝く、夫歿後何くれとなく

   暖き手をのべらしれし思ひ悲しさに堪へず

 

肩かけやどこまでも野にまぎれずに

 

肩かけの裡(うら)に息して人の死へ

 

刈田の火赤し人亡しと思うとき

杉田久女句集 223 柿の花 目白實家 五句

  柿の花 目白實家 五句

 

灯れば蚊のくる花柿の葉かげより

 

雨に來ぬ人誰々ぞ柿の花

 

[やぶちゃん注:「來ぬ」ここは無論、久女なればこそ、雨の中、退院した彼女を、わざわざ「きぬ人」、訪ね来てくれた人を、ではなく、「こぬ人」、来てくれないつれない人を、執拗(しゅうね)く数え上げているのである。]

 

花柿に簾高く捲いて部屋くらし

 

障子しめて雨音しげし柿の花

 

苑の柿まだ澁切れぬ會式かな

篠原鳳作初期作品(昭和五(一九三〇)年~昭和六(一九三一)年) ⅩⅨ

町中となりし田圃の案山子かな

 

一刀をた挾む兵兒の案山子かな

 

[やぶちゃん注:「兵兒」は「へこ」と読み、鹿児島地方で、十五歳以上二十五歳以下の青年を指す語である。「へこ」には褌(ふんどし)の意があるが、「日本国語大辞典」には、これは同地方で十五歳になった者に対して正月二日に近親血縁者が祝いに行き、手拭いと褌を贈る儀礼「へこかきいわい」が済んだ男子の意を語源とするか、とある。また、男子や子供用のしごき帯を兵児帯と呼ぶが、これ自体が元は薩摩のまさに前に出した兵児(へこ)が用いた帯びであったことに由来するという、ともある。私の母は鹿児島の出身であったが、これらは私の全く知らない事柄で、まっこと、目から鱗であった。]

 

雨の蘆てらして戻る夜振哉

 

[やぶちゃん注:「夜振」老婆心乍ら、「よぶり」と読み、夏の夜にカンテラや松明などを灯して時に振り動かし、それに向かって寄ってくる魚を獲る漁法の名。火振り。]

 

鰯雲月の面にかかりそむ

 

サボテンの影地に濃ゆき良夜哉

 

石切のほつたて小屋や葛の花

 

潮騷のとほくきこゆる門火かな

自伝 山之口貘 (昭和三〇(一九三五)年五月東京創元社刊「現代日本詩人全集 第十四巻」所収)

[やぶちゃん注:以下は、昭和三〇(一九三五)年五月東京創元社刊の「現代日本詩人全集 第十四巻」に「思辨の苑」「山之口貘詩集」が全篇収録された際(同十四巻は岡崎清一郎・山之口貘・菊岡久利・大江満雄・藤原定・坂本遼・淵上毛銭を収録)に書かれたもの。旧全集の第一巻全詩集の末に「資料」として附されたものを底本とした。]

 

 自伝

 

 本名山口重三郎。明治三十六年九月十言沖縄の那覇の生れである。沖縄県立一中に学んだ。中学の二年生の頃、女性のことを気にするやうになつて、詩を書くことを覚え、詩にこるみたいに初恋にもこり出して、許婚の仲にまでまとめあげた。その頃からぼつぼつ「琉球新報」「沖縄朝日新聞」「沖縄タイムス」等の郷里の新聞に詩を書いたりした。

 大正十一年の秋上京したが、約束の父からの送金がないため放浪状態になつてしまつた。大正十二年の九月一日の関東大震災のおかげで、一時、帰郷したのであるが、当時、父が、鰹節製造の事業失敗したばかりのところで、家を失ひ、家族は四散し、ぼくはぼくで、許婚の女性からは棄てられ、その上、二度目の恋愛にも破れたといふ風なことばかりが重なり合つて、かうした環境が、ぼくの放浪を本定りにしたやうなもので、どうやら、詩にかぢりついて生きたくなつたのもそれからなのである。

 大正十三年の夏、着の着のまゝで詩稿だけを携へて、ぼくはまた上京、昭和十四年の五月頃までの大半を、一定の住所を持たずにすごした。それでも時には、書籍問屋の発送荷造人になつたり、暖房屋になつたり、お灸屋になつたり、汲取屋にもなつてしまつたり、あるひは、隅田川で、ダルマ船の船頭さんの助手みたいになつて、鉄屑の運搬を手伝ひながら水上で暮したり、または、ニキビ、ソバカスの薬の通信販売などの職を転々とした。昭和十四年六月から、二十三年の四月頃までの戦時戦後を通じては、官吏として、職業紹介その他の事務に携つた。現代は、時に、小説に似たもの随筆に似たものなど書いて、兼業にしてゐる。はじめて、詩を発表したのが、昭和六年の四月の「改造」で、「夢の後」「発声」の二篇がそれである。その後は、改造社の「文芸」、「中央公論」「むらさき」「新潮」「公論」「人間」河出書房の「文芸」その他の雑誌、新聞等に発表して今日に及んでゐるのだが、寡作であることと、生活上の止むを得ない事情から、詩の専門誌には、殆ど、発表の機会を持つことが出来なかつた。

 著作には、処女詩集「思弁の苑」がある。昭和十三年に巌松堂の「むらさき」出版部から出版した。昭和十五年には、「思弁の苑」に、新作十二篇を加へて、山雅房から、「山之口貘詩集」として出版した。

 なほ、昭和十五年五月から、十月まで、平田内蔵吉とともに、「現代詩人集」全六巻を編纂して、山雅房から出版した。

 振り返つてみると、大正十一年から十三年のあたりへかけては、前に述べた事情のなかにあつて、生れた土地にゐながら、すでに住む家もなかつた。根は、やけくそなのであつたが、世間に対しては詩人ぶつて、友人知人親せきなどに迷惑をかけて歩き廻り、やがて、爪弾きや後指によつて追ひまくられてしまつて、しまひには、海岸や公園に宿をとつたりするやうになつた。

  恩人ばかりをぶらさげて

  交通妨害になりました

  狭い街には住めなくなりました

とうたひ、その詩稿などを携へて再度上京したのである。その間に、増野三良訳で、タゴールの詩集三冊を読んだ。「新月」「園丁」「キタンヂャリ」がそれであつた。

 しかし、上京はしたものゝ、すぐにはどうにもなる筈がなかつた。しばしば、自殺をおもひ立つのであつたが、そのたびに詩には未練がましく、もう少し書きたいといふ気持をどうすることも出来ないで、とうとう自殺をしたつもりで生きることに決めたのである。この決心は、ぼくから、見栄も外聞も剝ぎとつてしまつて、色色なことをぼくにさせることが出来たのである。それは職歴にも反映してゐるやうだ。

[やぶちゃん注:引用詩は詩集「思辨の花」の掉尾(同詩集中、最も古い創作であることを意味する)の三連からなる詩話」の第二連目である。但し、同誌集では、

 

恩人ばかりを振ら提げて

交通妨害になりました。

狹い街には住めなくなりました。

 

である。]

病んだ日   山之口貘 / 山之口貘新全集による既刊詩集未収録詩篇の電子化に突入

[やぶちゃん注:以下、思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の「既刊詩集未収録詩篇」を底本として、旧全集に載るものにあってはそれも参考にしつつ、新全集の編集権を侵害しないようにするため、ここでは順編年(古い詩篇から新しい詩篇へ、で思潮社版は逆編年形式を採用している)という、我々にとっては馴染み易い(と私は――概ね逆編年に拘るバクさんには悪いが――思っている)形で順次、電子化してゆく。また新全集は正字採用であるが、今まで通り、戦中・戦前の作品については私のポリシーに則り、恣意的に正字化する。なお、私にとって、一般のバクさんの詩篇と同列に扱うことにやや違和感を感ずる一部詩篇(具体的には依頼製作の校歌)については別に纏めて電子化する。]



 病んだ日

 

掠む病の憎々しさ

動けむものは はらはらと

小さき暗きアトリエに

涙はこぼる。

友は皆――――

夏の日を

のんびりとした新綠の原へと

嗚呼羨まし羨まし

彼等活氣滿つものは、

田舍の道に

いかで我は日向とれんや。

悲しきものの貧しき吐息

思ひ寢にきみの顏夢見

ひとしきりまた重たき

涙はこぼる

哀れなものの身のはかなさ

病に戰ふ興奮も湧かぬ

嗚呼…………

虛弱き身の■憊を

名殘■く晴らしてくれよ

眞紅の血潮

神の救ひの情は待ち遠し。

 

[やぶちゃん注:底本では末尾に下インデントで『一九二一・五・一五』とある。底本編者が判読に迷った箇所は編集権を尊重するため■に変えた(底本では、判断に迷った箇所は( )で示されてある。以下、この注は略す)。因みにそれぞれ、底本では「■憊」の「■」は「困」、「名殘■く」の「■」は「な」と推測されてある。松下博文氏の解題によれば(以下同じ)、大正一〇(一九二一)年十月一日附『八重山新報』に掲載された。同誌は石垣島に拠点を置く旬刊地方紙で、この年の三月一日に比嘉統煕(ひがとうき:検索をかけると明治二九(一八九六)年の最初の沖縄県民の米国移民の中に同名を見出せるが同一人物か)によって創刊(実際の創刊号発行は二月。「石垣市教育委員会市史編集課 八重山近・現代史略年表」の八重山近・現代史年表 明治12年~昭和20年8月14日までに拠る)されたもので、以下見るようにバクさんの最初期の詩歌発表の主な舞台となった。バクさん、当時十八歳、旧全集年譜によれば、この前年頃には大杉栄の影響を受け、在学していた沖繩県立第一中中学校(現在の沖縄県立首里高等学校)から目をつけられていた。また当時既に『沖繩朝日新聞』『沖繩タイムス』『琉球新報』などに盛んに詩を発表していたが、家庭的には、父重珍が事業に失敗(この二年ほど後にはバクさんの一家はばらばらになったと推定されている)、バクさんは中学四年で中退(当時の旧制中学校は五年制。バクさんは中学受験に一度失敗しているために一つ年が上になっている)、九月には大正八(一九一九)年に婚約していた呉勢(ぐじー)から一方的に婚約解消を申し渡されてもいた。この詩が発表された凡そ一年後、大正一一(一九二二)年の秋、バクさんは画家を志して最初の上京を果した。本詩に象徴的に現われる屈折した心理は、まさにそうした波乱の前後の心象をよく写しているように思われる。【2014年7月3日追記】『八重山新報』についての解説を追加した。]

山之口貘 初期詩篇(原題「詩集 中学時代」)八篇全面改稿終了 

山之口貘の旧全集の「初期詩篇」――これは実はバクさん自身によって

詩集 中学時代

という表紙が作られてあった――の全八篇について、昨日入手した新全集、思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と校合した。一部では新全集に従わなかった部分もあるが、新全集の松下博文氏の解題によって、この旧全集八篇の順列が編年であって、所謂、バクさんの既刊詩集が採っている逆編年でなかった事実が分かったことは、まず大きな収穫であった。それらも含めて、ブログの電子テクストを八篇総てに亙って改稿したので改めてカテゴリ「山之口貘」の過去記事で、再読して戴けると幸いである(記事自体を新たに起こすことはしなかった)。バクさんとの旅の始まりに相応しい発見が幾つもあった――バクさん、ありがとう 

2014/05/23

生物學講話 丘淺次郎 第十章 雌雄の別 一 別なきもの (2)

 海中に住む「うに」・「ひとで」・「なまこ」などは外形を見て雌雄のわかるものは殆どない。解剖して體の内部を調べても、雌雄の別が明に知れぬことさへ屢々ある。このやうな類でも雄の體内には睾丸があり雌の體内には卵巣があるが、睾丸と卵巣とはその在る場處も一致し、見た所も極めてよく似たもので、僅に色が少しく違ふ位である。卵の粒の粗い動物ならば、卵巣は一目して卵の塊の如くに見えるが、「なまこ」などでは卵が頗る小さくて肉眼は到底見えぬから、顯微鏡を用ゐなければ雄か雌かの鑑定がむつかしい。「うに」の卵巣は雲丹を製する原料で、生のを燒いて食ふと甚だ甘い。また「なまこ」の卵巣は「このわた」中の最も甘い處で、これを乾したものを「くちこ」と名づける。いづれ鯛や「ひらめ」の「子」と違つて卵粒は見えぬ。これらの動物には輸卵管とか輸精管とか名づくべきものが殆どなく、精蟲は睾丸から、卵細胞は卵巣から直に體外へ出されるが、その出口の孔にも雌雄の相違は全くない。卵が極めて小さから、その産み出される孔も甚だ小さくて、雄の精蟲を出す孔と何ら異つた所はない。「うに」では肛門の周圍に五つ、「ひとで」では五本の腕の股の處、「なまこ」では頭部の背面の中央に一つ、生殖細胞の産み出される孔があるが、注意して見ぬと知れぬ程の小さなものである。

[やぶちゃん注:「くちこ」ナマコは雌雄異体で(従って厳密にはここ「雌雄の別なきもの」でナマコの話を持ち出すのは少し私には違和感がある。丘先生は外見上及び未成熟体を解剖した際の実体視印象からかく述べておられるのであるが、それでもちょっと文句を実は言いたいのである)、普通はマナマコの紐状の卵巣を指す。成熟した卵巣はナマコの口吻に近い体内に形成されることから「クチコ(口子)」とも呼ばれる。別に「海鼠子(このこ)」「撥子(ばちこ)」とも呼ぶ。ナマコは一月から三月になると産卵期を迎えて発達肥大した卵巣を持つようになる。主な産地としては古くは能登・丹波・三河・尾張の四ヶ所が知られているが、とりわけ能登半島の旧鳳至(ふげし)郡(現在は珠洲郡と統合して鳳珠(ほうす)郡)穴水湾産の「くちこ」は古い歴史を持っている。生でも食すが、一般的には平たく干したものが高級珍味として親しまれている。干口子(ほしくちこ)の製法は、十二月下旬から一月にかけて採取した生口子を一合分(約五十匹分、凡そ十数キログラムにもなる雌ナマコの、その僅かな卵巣が用いられる)塩水でよく洗い、それを纏めたものを、細い磨き藁に掛けたり、簀子の上に並べたり、また上製品では横に渡した糸に跨がせるようにして吊るして干したりする。この時、水滴が早く落ちるように先端を指で纏めるため、高級品の仕上がりは平たい三角形状となるが、これが三味線の撥によく似ていることから、「バチコ」とも呼ばれるのである。述べたように小さな一枚のために使用するナマコが多量に必要なため、非常に高価なものとなる。今、販売サイトを管見しても掌に載るサイズで五千円前後はする。そのままでも食せるが、私は軽く炙ったものをお薦めする。一部参考にしたウィキこ」には『お吸い物・熱燗に入れても良い』とあるが、勿体なくて残念ながらそれはやったことがない。はっきり言って、料亭などで頼むと目ん玉が飛び出るほど高いが、それでも一度は食してみることをお薦めしたい本邦にのみある珍味の逸品である。]

大和本草卷之十四 水蟲 介類 海鏡

【外】

海鏡 嶺表錄異記ニアリ此地ニテ月日貝ト云大ナリ

其カラ兩片ノ内一片ハ赤ク一片ハ白シ但本草ニハ悉ニ不合

時珍兩片相合成形ト云ニハ似タリ其カタチヒラシ

〇やぶちゃんの書き下し文

【外】

海鏡 「嶺表錄異記」にあり。『此地にて月日貝と云ふ。大なり。其のから、兩片の内、一片は赤く、一片は白し。』と。但し、「本草」には悉〔(すべて)〕に合はず。時珍は、『兩片相ひ合して形を成す。』と云ふには似たり。其のかたち、ひらし。

[やぶちゃん注:「外」とするが、少し同定を試みるならば、まさに名にし負はばなのは本邦でも採れる斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ上科マルスダレガイ科のカガミガイPhacosoma japonicum である。しかし、益軒も指摘するように、この「海鏡」に相当する「本草綱目」の記載である「海月」の条を読むと、カガミガイPhacosoma japonicum では殻の内側は、時珍の述べているように「瑩滑」(艶やかな輝きで滑らか)ではないのである。一方、「海鏡」という文字を見ていると私などは、同じように円形に近く、そのような真珠光沢を持つものとして、真っ先に斧足綱翼形亜綱カキ目イタヤガイ亜目ナミマガシワ上科マドガイ科のマドガイPlacuna placenta が浮かべるのである。こちらはそれこそ、その内側が「雲母」様であり、古くから中国・フィリピン等に於いて家屋や船舶の窓にガラスのように使用され、現在でも、ガラスとは一風違った風合いを醸し出すものとして、照明用スタンドの笠や装飾モビール等の貝細工に多用されているのは周知の事実である。私は「兩片相ひ合して形を成す」という点では、この二種が時珍のいう「海月」=「海鏡」であろうと踏んでいる。実は既に私は「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部 寺島良安」の「海鏡(うみかゞみ)」の項でそのように同定したのである。ところが、実はここでは「月日貝」という呼称とその色彩上の特異さからは、これはもう――少なくとも「嶺表錄異記」の言っているのは――間違いなく斧足綱カキ目イタヤガイ亜目イタヤガイ科ツキヒガイ
Amusium japonicum japonicum であると同定出来るのである。現在の和名も、まさにここに述べられるように、表が夜の如く赤紫色を呈して暗く、裏が真昼のように真っ白であることから月日貝である。グーグル画像検索Amusium japonicum japonicumで確認されたい。『「本草」には悉に合はず』(「嶺表錄異記」と「本草綱目」のいう「海鏡」の解説が以下の、左右が合わさって初めて一つの形を成す(貝殻一方ではある想定される形の不完全な半分にしか見えない)・平たいという二点を除いて、合致しない)と益軒が不満を述べるのは尤もなことで、両者の記載は実は全く異なった貝を「海鏡」と呼んでいるからなのだと私は思うのである。

「嶺表錄異記」唐の劉恂(りゅうじゅん)撰の嶺南地方(中国南部の五嶺(南嶺山脈)よりも南の地方。現在の広東省・広西チワン族自治区・海南省の全域及び湖南省と江西省の一部を含む地方。嶺表ともいう)の地誌物産誌。]

耳嚢 巻之八 雀軍の事

 雀軍の事

 

 文化五年四月、遠州見附(みつけ)宿の辰藏といへる者濱松の問屋へ贈りし狀を、予が許へ來る是雲(ぜうん)と稱する法師の語り見せける。其文に、森町大洞院の奧八町計(ばかり)の間、雀合戰のありて、其有樣誠にめづらし。東西に分れ、西方の雀の内に鳩程あるもあり。東は平常の通(とほり)。又凡(およそ)五六町隔(へだて)て鳶烏集りゐ、斃(たふれ)たる雀を取(とり)くわんとするを、鷹來(きたつ)て鳶烏を追ふて相戰ふ。雀の勢ひ強く、鳶も鷹も叶わざる體(てい)なり。一昨日の合戰に、東方の雀を取んとするを、雀一羽鳶の頭へ喰ひつき、其内に外の雀戰ひをわすれて鳶に取かゝる。西方の雀七八羽飛來(とびきたり)、漸く鳶を助けたり。誠に討死せし雀の數多く、今日迄六日程の事に御座候。其近邊茶屋飴賣夥敷(おびただしく)、見物人拾町計の間、誠に爪も立申(たちまう)さず。尤(もつとも)合戰の始(はじま)り、晝七つ時分より入相の鐘をかぎりの由認たり。昔より鳥獸蟲介(ちうかい)の爭ひ戰ふ事もあれど、雀の戰ひ鳶鷹の助力珍し。辰藏が作りし事なるや、奇事なれば爰に記す。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。やや法螺に近い話であるが、鈴木氏の注によるとこうした鳥類の合戦はしきりに語られたものらしく、後の松浦静山(天保一二(一八四一)年没)の随筆「甲子夜話」にも、『湯島のあたりで雀が合戦をしたとの噂を記し』、『よく調べたところ、雀と椋鳥が闘ったのであ』ったと記載があり、雀と椋鳥との合戦という噂話は、幕末の宮川政運の随筆「宮川舎漫筆」(文久二 (一八六二)年)『にもあり、これは文政七』(一八二四)『年七月廿五日のこと。ことわざにも、闘雀人を怖れずというのがある』と記しておられる。

・「雀軍」「すずめいくさ」と読む。

・「文化五年」「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏であるから、ホットな噂話である。

・「遠州見附宿」東海道五十三次の第二十八番目の宿駅。現在の静岡県磐田市中心部。「見附」という名は都から下向すると初めて富士山が見える場所であることに由来するともいう。

・「濱松」浜松宿は見附宿の次の第二十九番目の宿駅。現在の静岡県浜松市中心部。

・「森町大洞院」橘谷山大洞院。曹洞宗。応永一八(一四一一)年にここに錫杖を留めた恕仲天誾(じょちゅうてんぎん)禅師を開山とする。底本の鈴木氏注に、『静岡県周智郡森町大字橘。曹洞宗大本山総持寺直末。足利義持の帰依をえた名刹』とある。森町の公式サイトやその他の記載によれば、境内には森の石松の墓や清水の次郎長の碑があり、寺には「消えずの灯明」「世継のすりこぎ」「結界の砂」など恕仲禅師にまつわる数々の伝説があって「伝説の寺」と呼ばれるとあり、これもそうした伝説の寺に相応しい話柄ではある。

・「八町」約八七三メートル。

・「五六町」約五四五~六五五メートル。

・「拾町」一・〇九キロメートル。

・「晝七つ時分より入相の鐘」当年の旧暦四月の日没時刻を調べてみると、凡そ午後六時四〇分から七時〇三分の間であるから中をとると、午後四時半前後から始まって午後六時五〇分頃まで、この雀合戦は実に二時間半近く、しかもそれが一週間ほども(「今日迄六日程」)続いた計算になる。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 雀戦(すずめいく)さの事

 

 文化五年四月のこと、遠州見附宿の辰藏と申す者、浜松の問屋を営む知己へと送った手紙を、私の元へよく来る是雲(ぜうん)と称する法師が、なかなか面白いものなればとて見せてくれ、委細を語った話。その文(ふみ)に――

「……森町大洞院の奧の、八町ばかりの広地にて、雀合戦がこれあり、そのありさまは、まことに珍しいものであった。

――東西の軍(ぐん)に分かれ、西方(せいほう)の雀の内には、これ、鳩ほどもある大きなる雀が認められた――東軍は普通通りの雀の群れ――。

――また、その東西の対峙する箇所より、およそ五、六町も隔てて、鳶(とび)やら烏(からす)やらが数多集(つど)っており、雀両軍の、戦さによって斃(たお)れ伏した雀を、これ、取って食おうとするを、そこに鷹が飛び来たって加勢致し、その鳶や烏を追って相い戦う。

――いや、何より、雀の勢いが恐ろしく強く、かの鳶も、かの鷹も、およそ叶わぬ体(てい)で御座った。

――一昨日の合戦にあっては、鳶が、東方(ひがしがた)の討たれたる雀を取らんとするを、雀一羽、その鳶の頭(かしら)へと、ガッ、と喰いついて、暫くすると他の雀も、本来の雀戦さをそっちのけに致し、この鳶へと飛びかかる。

――すると、そこに西方(にしがた)の雀がこれ、七、八羽ほども飛び来たったかと思うと、なんと、その東方の雀に苛まれて御座った、その鳶を、美事、救い出して御座った。

――誠に、討死する雀の数、これ、はなはだ多く、その合戦、この手紙を記しておりまする今日(きょうび)まで――実に六日ほども――続いて御座る。

――また、その戦さ場の近辺には、これ、茶屋や飴売りの仮小屋・屋台が夥しゅう出で、また、この戦さを見んとする見物人、実に十町ばかりの間に、まっこと、立錐の余地もなきほどに押し寄する、という始末で御座る。

――もっとも、この合戦は一日中行われておるのではなく、その始まりは昼七つ時分にして、それより、入相の鐘を限りとして、必ず戦さを停止(ちょうじ)する、という決まりがあることを認(みと)む……」

とあった。

 昔より鳥獣や虫や魚介やらの類(るい)が、人の如く争い戦うと申すことは、これ、よぅあることでは御座れど、雀の戦さに鳶や鷹が助力すると申すは、これ、なかなかに珍しきことでは御座る。

 これ、辰蔵なる者の作り話であろうか? いや、ないとは限るまい。

 奇なる出来事なれば、ここに一応、記しおくことと致す。

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 木古庭の不動の瀧

    ●木古庭の不動の瀧

龍谷山と號す、木古庭の鎭守なり。堂の邊に瀧あり。高一丈七尺、幅三尺、不動瀧と唱ふ。水田に灌漑す。

[やぶちゃん注:以下の引用は、底本では全体が一字下げ。]

新編相模國風土記曰元祿の末、水涸(かれ)て用水に乏しかりしに、寶永四年、本圓寺住職日進。陀羅尼品(だらにほん)を讀誦して祈誓す、依て水舊に復すといふ、此事扁額に記し、今に堂前に掲(かゝ)く、爾來報賽(ほうさい)の爲(ため)、村民等毎月二十七日の夜、此堂に集會し、題目を唱ふ。

[やぶちゃん注:三浦郡葉山町木古庭(きこば)小字大沢に「木古庭不動尊」として現存するが、現在ここは一キロほど離れたところにある日蓮宗大明山本圓寺の持分(境外堂)となっている。本圓寺公式サイトに「瀧不動堂」として詳細な解説があり、それによれば、鎌倉幕府開幕前、不動明王の熱心な信者であった畠山重忠が衣笠城に三浦大介義明を攻めたが、その際、『木古庭の畠山という場所に城を築き、守り本尊の不動明王像を安置して戦勝を祈り、戦ったところ、御利益があって勝利し』『凱旋の後、重忠公が像をこの滝谷山に勧請すると、一夜のうちに山から清水がこんこんと湧き出で、一條の滝となったという』縁起が語られてある。

「元祿の末」元禄は十七年に宝永元年に改元。

「寶永四年」西暦一七〇七年。]

萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「何處へ行く」(16) 「春のたはむれ」(後)

あやうくもこと定まりし別れ路を

またかゝること言ひて泣かせ給ふか

 

[やぶちゃん注:「あやうく」はママ。]

 

荒(すさ)み樽心のこのごろ君をえて

夜も日もわかず消息を書く

 

「許せ」「否輕き眩暈(めまい)す」かの夜の

暖爐はげにもあつすぎしかな

 

[やぶちゃん注:「眩暈」の「暈」は原本では「曇」。誤字と断じて訂した。改訂本文も「眩暈」とする。そのルビ「めまい」はママ。改訂本文は「暖爐」を「煖爐」とするが、従わない。]

 

若き身のわれが奏するマンドリン

ちゝろちゝろと泣くが哀しき

 

キユラソオの淡きにほひの漂へる

くちびるをもて吸はれけるかな

 

[やぶちゃん注:「キユラソオ」フランス語“curaçao”。キュラソー。リキュールの一種。オレンジの果皮から香気をラム酒やブランデーに浸出させた甘い洋酒。カクテルに用いる。元来はのキュラソー島(カリブ海南部ベネズエラ沖にあるオランダ自治領)産のオレンジを用いたことに由来する。]

 

寢室の窓のガラスに息かけて

君が名をかく雪どけの朝

 

[やぶちゃん注:いつもと同じく、最後の一首の次行に、前の「雪どけの朝」の「ど」の左位置から下方に向って、最後に以前に示した黒い二個の四角と長方形の特殊なバーが配されて、「春のたはむれ」歌群の終了を示している。]

飯田蛇笏 靈芝 昭和十年(九十九句) Ⅲ

 

觀潮の帆にみさごとぶ霞かな

 

[やぶちゃん注:「みさご」タカ目タカ亜目タカ上科ミサゴ科ミサゴ属 Pandion のタカ類の総称。主に海岸に棲息し、好んで魚を捕食することから魚鷹(うおたか)の異名を持つ。漢字では「鶚」「雎鳩」と書く。和名は、高空から水中に突入して足で獲物を摑み取ることから「水さぐる(ミズサグル)」「水探(ミクサ・ミサゴ)」「水捜し(ミゾサガシ)」等の意とする説、水沙の際にいることから「水沙(ミサコ)」の意とする説、獲物を捕らえた際の水音に由来するという説等がある。]

 

かすみだつ漁魚の眞靑き帆かげかな

 

[やぶちゃん注:「漁魚」は「ぎよぎよ(ぎょぎょ)」か。]

 

かすみだつ林坰の日をただ行けり

 

[やぶちゃん注:「林坰」は「りんけい」と読み、郊外の意。]

 

陽の碧くむら嶺の風に燕來ぬ

 

下萌や白鳥浮きて水翳す

 

つゆとめし靑麥旭ざす地靄かな

 

八重雲に山つばき咲きみだれけり

 

鵯のゐてちるともなしに溪の梅

 

  昭和十年二月十八日午前十時半、溘焉と

  して長逝し給ふ坪内逍遙先生を悼み奉る。

 

聖逝けり雙柿舎の草靑むころ

 

[やぶちゃん注:「雙柿舎」「さうししや(そうししゃ)」と読み、静岡県熱海市水口町(みなぐちちょう)にある坪内逍遙終焉の屋敷。大正九(一九二〇)年から没する(享年七十六)までの晩年を過ごした。庭にカキの木が二本あったことから、早稲田大学での同僚であった会津八一により命名された。逍遥の没後は早大に寄贈されて現在も大学の管理下にある(以上はウィキ双柿舎に拠る)。]

 

貧農の煙りのうすき花の山

 

靴下の淡墨にしてさくら狩り

 

[やぶちゃん注:「淡墨」は「うすずみ」と読んでいよう。]

 

  動物園

 

花どきの空蒼凉と孔雀啼く

 

  武田鶯塘氏の訃音に接す、われは雲ふか

  かき山盧にこもりゐて。

 

雲しろむけふこのごろの花供養

 

[やぶちゃん注:「武田鶯塘」(たけだおうとう 明治四(一八七一)年~昭和一〇(一九三五)年)はジャーナリスト・俳人。本名、桜桃四郎(おと しろう)、桜桃は俳号。博文館で雑誌『少年世界』『太陽』等を編集、後に『毎日電報』『中外商業新報』等の社会部部長を歴任、俳句は尾崎紅葉の紫吟社に学び、後、俳誌『南柯』を発刊、主宰した。句集に「鶯塘集」(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。]

篠原鳳作初期作品(昭和五(一九三〇)年~昭和六(一九三一)年) ⅩⅧ

 

掌に唾一吐きや年木樵

 

月の菊白とも見ゆれはた黄とも

 

大根干すうなじ打つたる霜雫

 

馳せよりて後ろ押しけり稻車

 

合住みの友を賴りや風邪籠り

 

もろ共に肥えて蝗のめをと哉

 

掛乞のおそれをなして歸りけり

 

[やぶちゃん注:「掛乞」は「かけごひ(かけごい)」と読み、掛け売り(代金後払いの約束で品物を売ること)の代金を取り立てに来る人のこと。]

 

おでん屋の湯氣の中なる主かな

 

書出しを留守のとぼそに挾みけり

 

[やぶちゃん注:「書出し」掛け売りで買い、その溜まっている代金の請求書。特に年末の決済のための請求書。勘定書。つけ。]

 

おでん屋をぬくもり出づるきほひ哉

 

[やぶちゃん注:これらの四句、偶然かも知れないが連続したものとして読め、さすれば、つっぱらかって偉そうにしかも安いおでん如きをつけで食っていた詩人、そのおでん屋の気のいいしかも気の弱い主人というシチュエーションが小気味いい組み写真となるよう思われるのであるが、如何?]

 

斑猫に足の運びを早めけり

 

[やぶちゃん注:「斑猫」は鞘翅(コウチュウ)目オサムシ亜目オサムシ上科ハンミョウ科ナミハンミョウ Cicindela japonica 、所謂、ミチオシエである。人が近づくと一、二メートル程飛んで直ぐ着地するという行動を繰り返し、その過程で度々、後ろを振り返るような動作をする本種の習性をうまく詠み込んでいる。なお、「斑猫」全般については、私の「耳嚢 巻之五 毒蝶の事」の注で詳細を述べておいた。是非、参照されたい。]

 

道をしへ落陽の方へ返しけり

 

畦ゆけば畦ゆけばとぶ螽かな

 

[やぶちゃん注:「螽」は「いなご」と読む。]

 

御佛の小さき障子や洗ひをり

橋本多佳子句集「紅絲」 凍蝶抄 Ⅳ

 

かじかみて脚抱き寢るか毛もの等(ら)も

 

鶏と猫雪ふる夕べ食べ足りて

 

猫歩む月光の雪かげの雪

 

みぞれ雪涙にかぎりありにけり

 

暮れてゆく樹々よこの雪は積らむ

 

[やぶちゃん注:やや読みが不詳。「くれてゆく//きぎよ/この/ゆきは//つもるらむ」と私は読むが、暫く御批判を俟つ。]

 

ねむたさの稚児(ちご)の手ぬくし雪こんこん

 

燃ゆる薪雪に置かれて焰立つ

 

牡丹雪さはりしものにとゞまりぬ

杉田久女句集 222 父の忌 二句

 

  父の忌 二句

 

御僧に門の雪搔く忌日かな

 

御僧に蕪汁あつし三囘忌

 

杉田久女句集 221 燭とりて菊根の雪をかき取りぬ

燭とりて菊根の雪をかき取りぬ


[やぶちゃん注:この句は前の、

  昌子猖紅熱 十二月

北斗凍てたり祈りつ急ぐ藥取り

の句と連作であろう。この雪は熱を冷やすために夜に搔き採っているのであろう。]

杉田久女句集 220 北斗凍てたり祈りつ急ぐ藥取り

 

  昌子猖紅熱 十二月

 

北斗凍てたり祈りつ急ぐ藥取り


[やぶちゃん注:長女昌子は当時満九歳。これは昌子が預けられていた宇内の実家へと病気の急を聴いて駆け付けたその際の景か、それとも小康を得た久女が昌子を宇内の実家から東京へ引き取った後に発症したとすれば東京の景か、孰れかは不詳。後者か。]

殺意が押し開けてしまつた  山之口貘

 殺意が押し開けてしまつた

 

梅雨がお前の髮の毛を濕らせてゐるときに、夕暮が松林に降りてあたりが物寂しくなつたときに、二條の麻繩が私(わし)の手に絡んでしまつた。

もうお前が仕事から歸へらねばならぬ時刻(とき)が來た戀人よお前は冷汗ですつかり白粉を洗ひおとしてしまへ、お前の着物や洋傘をすつかり友達のと取換へてしまへ、お前は變裝せねばならぬ

私(わし)の重たい苦悶の扉を 殺意が押し開けてしまつた。

お前の許婚は遠い南の國の涯で、私(わし)からお前を奪つた誇りを打ち忘れ、彼は彼の学業(まなび)を怠り 心配をすつかり私(わし)の方へ集めてゐる。

私(わし)の詩の愛好者よ 戀人よ 私(わし)はお前が女であることを知つてゐる。よく知つてゐる。そうしてお前の許婚は富豪の息子である。お前の母は頑固な商人である。

あゝお前の許婚はお前のうつくしい世評を奪ひ、お前の知識と情とを ずるずると貪慾の牢に引き摺る
 

夜は都會の隅々にしのびいり 墓場の番小屋には灯がついた

お前の唇から諦らめの憂鬱がのぞいてゐる。私(わし)はお前の目蓋のかすかな皺の心配を知つてゐる

私(わし)はお前の許婚に、私(わし)の一番大切なお前の死を感知させねばならない。癇癪が私(わし)を生命掛けに怒らせてゐる。私(わし)の視線は電氣のやうに顫えあがり 私(わし)の嗅覺は溜息をついて待ちかねてゐる……

あゝ 戀人よ

お前の無言の唇を開けよ。

 

[やぶちゃん注:大正七(一九一八)年~大正一〇(一九二一)年の間(バクさん十五歳から十八歳)に創作された「初期詩篇」群八篇の掉尾にあるもの。逆編年配列である、旧全集の於ける残存すると考えられたバクさんの最も古い詩篇ということになる。一部に特異な改行部があるため、ブログ幅に対応させて以上のような仕儀をとった。問題の箇所は「お前は冷汗ですつかり白粉を洗ひおとしてしまへ、お前の着物や洋傘をすつかり友達のと取換へてしまへ、お前は變裝せねばならぬ」で、これは前からの続きではなくて、一字下げになっているからである。しかも、それが更に改行される場合(最初の「あゝ暗い廢顏の……」の一箇所)には今までの改行法(前行より一字下げ)と異なり、下げずに前行と同じ高さで改行されてあるからである。近々手元に入る新全集詩篇との校合を待ちたい。本詩を以って底本とした旧全集である思潮社一九七六年刊「山之口貘全集 第一巻 全詩集」に載る詩篇の全篇電子化を終了した。
 
二〇一四年五月二十四日追記思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と校合した。新全集では先の「むかしのお前でないことを」で「燈」が使用されており、ここは「灯」となっているので、ママとした。また、松下博文氏の解題によれば、これらの纏まった詩八篇は表紙に「◎詩集 中学時代/控原稿/詩稿 自一九一八年 至一九二一年/八篇(製作順)/山之口貘」と書かれてあり、『以下、製作時期の古い順に「むかしのお前でないことを」から「殺意が押し開けてしまつた」までの八篇を収める』とある。従って、この詩は大正七(一九一八)年~大正一〇(一九二一)年の間(バクさん十五歳から十八歳)に創作された「初期詩篇」群八篇の内、最も新しいものということになるので、ここに訂する。




奇しくも今日、思潮社版の新しい「山之口貘全集Ⅰ 詩篇」を入手予定。まだまだバクさんとの旅は続く――

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十二章 北方の島 蝦夷 2 函館山

M340

図―340 

 やがて奇妙な舟と魚の香のまん中に上陸した我々は、町を通りぬけて、小高い所にある、ハリス氏の住宅へ着いた。ここから見下す町の景色は、実によい。途中私は、路傍の植物にはっていた蝸牛(かたつむり)(オカモノアラガイ科)を一握りつまみ上げた。植物の多くは、我国のに似ている。輸入された白花のしろつめくさ(クローヴァー)は、我国のよりも花が大きく、茎も長く、そして実によい香がする。町は殆ど島というべきで、本土とは砂頸によってつらなり(図310)。火山性の山の、高さ一千二百フィートのを、美しい背景として持っている。町の大部分は低地にあるが、上流階級の家はすこし高い所の、山の裾に建っている。家は重い瓦で覆われるかわりに、板葺の上に、大きな、海岸でまるくなった石をぎつしり並べ、見た所甚だ奇妙である。図341は砂頸へ通じる往来から見た町の、簡単な外見図である。私はしょっ中、メイン州のイーストポートのことを考えている。これ等二つの場所に、似た所とては更に無いが、爽快な、新鮮な空気、清澄で冷たい海水、魚の香、背後の土地はキャムポベロを思わせ、そして私のやっている曳網という仕事がこの幻想を助長する。

M341

図―341 

[やぶちゃん注:図341は現在の赤レンガ倉庫の中央西側の函館湾に面した通り(函館市末広町)辺りから函館山方向を見たスケッチであることが山並みと右手の海、道の左側に建つ赤レンガ倉庫に似た切妻屋根の建物から分かる(グーグル・ストリートビュ北海道函館市末広町13−)。

「ハリス氏の住宅」これは恐らく宣教師としてのハリスが建てた最初の函館美以教会会堂(前年明治一〇(一八七七)年落成)かその近くと思われる。同教会の後身である函館山麓の現在の弁天末広通にある日本基督教団函館教会の位置とかなり一致する。但し、モースのスケッチでは函館湾を見下ろす角度が有意にあるので、もう少し函館山を登った辺りかも知れない。

「蝸牛(オカモノアラガイ科)」原文“snails ( Succinea )”。石川氏は「オカモノアラガイ科」と訳しているが、腹足綱有肺亜綱柄眼(マイマイ)目オカモノアラガイ超科オカモノアラガイ科 Succinea 属であるから「オカモノアラガイ属」が正しい。代表種であるオカモノアラガイ(陸物洗貝)Succinea lauta は長円形の独特の美しいフォルムをしている(「微小貝データベース」のSuccinea lautaを参照されたい)。

「砂頸」原文“sand-neck”。砂州。

「火山性の山の、高さ一千二百フィートのを」函館山。「一千二百フィート」は三六五・七六メートルであるが、現在の函館山の標高は三三四メートルである。ウィキの「函館山」によれば、約一〇〇万年前の『海底火山の噴出物が土台になり、その後の噴火による隆起・沈下を繰り返して大きな島として出現。海流や風雨で削られて孤島になり、流出した土砂が堆積して砂州ができ』、約五〇〇〇年前に『渡島半島と陸続きの陸繋島になった。 函館市の中心街はこの砂州の上にある』とある。

「メイン州のイーストポート」既注であるが、モースの故郷メイン州(彼はポートランド生まれ)はアメリカの本土四十八州中で最東端に位置する州であるが、そのまた最東端の都市が漁師町イーストポートである。ここの沖は西半球最大の渦潮である“Old Sow”(オールド・ソー:年老いた雌ブタ)で知られ、若き日のモースはここでしばしば海洋生物の観察採取を行っていた。]

「キャムポベロ」原文“Campobello”。先のイーストポートからさらに東に行った、北アメリカ大陸の北東端のファンディ湾の中のパサマクウォディ湾内に浮かぶカナダ領のカンポベロ島。但し、地図上で見ると、陸とは国境を跨った橋によってアメリカ側のルーベックとのみ繋がっているという変わった島である。メイン湾の北東端、カナダのニューブランズウィック州とノバスコシア州の間に位置し、ごく一部はアメリカ合衆国のメイン州にも面している。ファンディ湾は世界一潮の干満が激しい場所の一つとして知られており、その潮差は最大十五メートルに及び、海洋生物学者モースにとってはまたとない好調査地であった。さらに言えば、第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所冒頭で、『私は日本の近海に多くの「種」がいる腕足類と称する動物の一群を研究するために、曳網や顕微鏡を持って日本へ来たのであった。私はフンディの入江、セント・ローレンス湾、ノース・カロライナのブォーフォート等へ同じ目的で行ったが、それ等のいずれに於ても、只一つの「種」しか見出されなかった。然し日本には三、四十の「種」が知られている。』と記す通り(『フンディの入江』がファンディ湾のこと)、この湾にはモースの専門であるアメリカでは希少種であるシャミセンガイの一種が棲息していたことから、このカンポベロ島周辺が彼の専門研究対象の棲息する馴染みの採取地でもあったことが分かる。]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅7 奈須雲岩寺佛頂和尚舊庵 木啄も庵はやぶらず夏木立

本日二〇一四年五月二十三日(陰暦では二〇一四年四月二十五日)

   元禄二年四月  五日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年五月二十三日

である。

 

木啄(きつゝき)も庵(いほ)はやぶらず夏木立

 

木啄も庵はくらはず夏木立

 

[やぶちゃん注:第一句「奥の細道」。「曾良書留」には、

 

  四月五日 奈須雲岩寺ニ詣て、佛頂和尚舊庵を尋

 

とある。「曾良随行日記」に、


一 五日 雲岩寺見物。朝曇。両日共ニ天氣吉(よし)。


と記す。「小文庫」「泊船」ともに、

 

  佛頂禪師の庵をたゝく

 

と前書する。第二句目は曾良本「奥の細道」の見せ消ちで、底本は第一句同様に中七を「庵はやぶらず」と改めている。

「奈須雲岩寺」栃木県大田原市雲岩寺にある臨済宗妙心寺派の東山(とうざん)雲厳(うんがん)寺。大治年間(一一二六年~一一三一年)に叟元によって開基され、弘安六(一二八三)年に執権北条時宗を大檀那として梨勝願法印の寄進により仏国国師によって開山されたと伝える。

「佛頂和尚」(寛永一九(一六四二)年~正徳五(一七一五)年)は常陸国鹿島生で元は鹿島の瑞甕山根本寺(ずいおうざんこんぽんじ:茨城県鹿嶋市宮中在)住職、当時は宝光山大儀寺(茨城県鉾田市在。根本寺の北北西約十六キロ)中興開山であった臨済僧。根本寺は直近にある鹿島神宮と領地争いがあってその訴訟のために根本寺末寺で江戸深川にあった臨川庵(後に臨川寺)に長く滞在、天和二(一六八二)年頃、近くに住んでいた芭蕉は彼を師として禅修業をしたと推測され、これより前、貞享四(一六八七)年八月十四日出立の、弟子の曾良と宗波を伴って仲秋の月を見に出かけた「鹿島詣」では、弟子に譲った根本寺に泊めて貰って師と再会している(月見は生憎の雨で果たせず句を作っている)。この仏頂はしばしばこの雲厳寺に山居して修業していた。芭蕉が非常に尊敬し、二歳年長であるとともに、「舊庵」「山居の跡」などとあるが、芭蕉よりも二十一年も長生きした(芭蕉は元禄七(一六九四)年満五十歳で没している)人物(遷化の地はここ雲厳寺ではあったが)であるので注意されたい。

 第一句の「やぶらず」に軍配。「くらはず」は禅味に欠く。

 問題は「奥の細道」では実は時系列が入れ替えられて、これより後の行程で創作された「夏山に足駄を拜む首途哉」が「黒羽」の段の始まりの直後に配されてある。そのため、ここでも前に示した「黒羽」の段と次に続く「雲巖寺」の段の異同その他を示し、「黒羽」の段についても今一度次の「夏山に」の句の注で煩を厭わず全文を附しておくこととする。それが「奥の細道」への礼儀ともなろうと考えるからである。

   *

黑羽の舘代浄坊寺何某の方ニ音信ル

おもひかけぬあるしのよろこひ日夜語

つゝけて其弟桃翠なと云か朝夕勤

とふらひ自の家にも伴ひて親属の

方にもまねかれ日をふるまゝに

ひとひ郊外に逍遙して犬追ものゝ跡

を一見し那すの篠原をわけて玉藻の

前の古墳をとふそれより八幡宮に詣

与市宗高扇の的を射し時別ては我

國氏神正八まんとちかひしも此神社

にて侍ときけは感應殊しきりに覚らる

暮れは桃翠宅に歸る

修驗光明寺と云有そこにまねかれて

行者堂を拜す

  夏山に足駄をおかむ首途哉

當國雲岸寺のおくに佛頂和尚山

山居の跡有

  竪横の五尺にたらぬ草の庵

  むすふもくやし雨なかりせは

と松の炭して岩に書付侍りといつそや

きこへ給ふ其跡みむと雲岸寺に杖を

曳は人々すゝむて共にいさなひ若き

人おほく道の程打さはきておほえす

彼麓に至る山はおくあるけしきにて

谷道はるかに松杉くろく

苔したゝりて卯月の天今猶寒し

十景盡る所橋をわたつて山門に入

さてかの跡はいつくの程にやと後の山ニ

かけのほれは石上の小庵岩窟ニ

むすひかけたり妙禪師の死

關 法雲法師の石室を見るか

ことし

  木啄も庵はくらはす夏木立

ととりあへぬ一句を柱に殘侍し

   *

■異同

(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)

〇与市宗高扇の的を射し時  → ●與市扇の的を射し時

〇佛頂和尚山山居の跡    → ●佛頂和尚山居の跡[やぶちゃん注:衍字と思われる。]

〇後の山ニかけのほれは   → ●後の山によぢのぼれば

 

■やぶちゃんの呟き

「竪横の五尺にたらぬ草の庵/むすふもくやし雨なかりせは」……縦横が五尺(約一・五メートル)にも足らぬ庵ともいえぬ言えぬ庵であるが、そんな小庵を結ぶことさえも私には忸怩たる思いで一杯だ――あぁ! 雨さえ降らなかったなら、こんなものはいらぬのになぁ!……

「十景」雲巌寺には寺内に名勝十景(海岩閣・竹林・十梅林・雲龍洞・玉几峯・鉢盂峯(ぼうほう)・水分石・千丈岩・飛雪亭・玲瓏岩)があった。但し、実際には海岩閣・竹林・十梅林の三つは山門内にある。

「橋」雲巌寺五橋(獨木橋・瑞雲橋・瓜※橋[やぶちゃん注:「※」=「瓜」+「失」。]・涅槃橋・梅船橋)の一つ、瓜※橋(かてつきょう)。ここは角川文庫版本文脚注に拠った。

「石上」は「せきしゃう」と清音で読む。

「妙禪師の死關」「妙禪師」は南宋の臨済僧高峰原妙(一二三八年~一三九五年)。十五年間に渡って隠棲し杭州西天目山(現在の浙江省杭州市)にあった洞窟張公洞師子岩に「死關」という扁額を掲げて門外不出一五年にして五十七歳でそこで遷化したと伝える。

「法雲法師」幾つかの注は南朝梁の高僧法雲(四六七年~五二九年)で、境内の大岩の上を居所とし、終日談論したという人物を当てるが、頴原・尾形注はそれを誤りとし、「続伝燈録」に大寂巌という岩窟(?)に座禅したと伝える宗代の法雲派の禅僧大通善本かとする。前者であるとするなら、順列がすこぶるおかしい気はする。

「石室」石でできた岩窟。

「とりあへぬ一句」即興の一句。

 頴原・尾形両氏は角川文庫版評釈には(引用内引用の分での補正した文字の傍点「・」を省略し、漢文の送り仮名を排し、ここのみ古文・漢文引用部分を総て恣意的に正字化した)、

   《引用開始》

 実際には黒羽滞在の三日目にあたる四月五日の雲巌寺訪問の記事を、「夏山に」の句のあとに別掲したのは、芭蕉がこの郊外引杖(いんじょう)に、黒羽における交歓・観光とは別の意義を認めていたからである。前作『笈(おい)の小文(こぶみ)』には、旅について述べた一節に、「山野海濱(かいひん)の美景に造化の功を見、あるは無依(むえ)の道者の跡をしたひ、風情(ふぜい)の人の實(まこと)をうかがふ。(中略)もしわづかに風雅ある人に出合ひたる、悦びかぎりなし」云々(うんぬん)という文言が見えるが、前章を「風雅ある人に出合ひたる」交歓のよろこびをつづったものとすれば、これは「無依の道者の跡」を慕っての参堂の記ということができる。無依の道者とは、万境に接するも少しも心のとらわれることのない道人をいう。捨身行脚(しゃしんあんぎゃ)をめざした芭蕉にとって、第二の門出に際し、親しく教えを受けた尊敬する師家の、万境を放下した山居修行の跡を尋ねることの意義は小さくなかった。

 本文の運びもまた、最初に仏頂の道歌を掲げ、次いで引杖の次第、禅徒澄心の場の幽邃(ゆうすい)な風景、石上の草庵の形状に及び、「妙禪師の死關」「法雲法師の石室」という対句を置いて、仏頂の道歌に和した「木啄も」の一句をもって結ぶという、さながら「遊雲巖寺老師韵幷序」[やぶちゃん注:「雲巖寺に遊び老師の韵を次ぐ幷びに序」と読む。「韵」は韻を踏んだ台詞であるから、先の道歌を指す。]とでも題すべき、五山禅林の文学を思わせる趣致をたたえている。

   《引用終了》

と評してある。私は寧ろ、「奥の細道」の旅に死出の覚悟をさえ持って出た芭蕉が、内心忸怩たる思いの中で過ごしたこの長逗留の通人の懶惰な一時を自発的に斬り捨てて、再度、覚悟の旅の始まりとして認識した禅機こそがここに「在る」のだと思われてならない。]

2014/05/22

大和本草卷之十四 水蟲 介類 馬刀

馬刀 トブ貝ニ似テ小ナリ泥ミゾニ生ス海ニハナシ色黑キ

故ニ烏貝トモ云本草ニモ蚌ニ似テ小ナリトイヘリ其外

ミゾ貝ニヨク合ヘリ蚌ト一類ニテ小ナリ馬刀ヲマテト訓ス

ルハアヤマレリ。クロヤキニシテ胡麻ノ油ニ和シ小兒ノ頭ノ白禿

瘡ニ付ル驗アリ本草ニハ此方ノセス

〇やぶちゃんの書き下し文

馬刀(みぞがい/からすがい)[やぶちゃん注:右に「ミソガイ」、左に「カラスガイ」のルビ。] どぶ貝に似て、小なり。泥みぞに生ず。海には、なし。色、黑き故に烏貝とも云ふ。「本草」にも蚌に似て小なり、といへり。其の外、みぞ貝によく合へり。蚌と一類にて小なり。馬刀を「まて」と訓ずるはあやまれり。くろやきにして胡麻の油に和し、小兒の頭の白禿瘡〔(しらくも)〕に付ける。驗〔(しるし)〕あり。「本草」には此の方、のせず。

[やぶちゃん注:ここでは有意に小さいという観点からイシガイ科ドブガイ属 Sinanodonta に属する小型のタガイ Sinanodonta japonica(ドブガイB型)に同定しておくが、私は実は「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」の「馬刀(からすがい)(かみそりがい)」ではそれをカラスガイGristaria Plicata 及び琵琶湖固有種メンカラスガイCristaria plicata clessini (カラスガイに比して殻が薄く、殻幅が膨らむ)に同定している。前項「蚌」の私の注も参照されたい。「馬刀」とは斬馬刀のことで、本邦では所謂、長い打刀である野太刀を指す。因みに、国立国会図書館蔵の底本と同本には同箇所の頭書部分に付箋があって、

馬刀 南部遠野川ニアリ石カタガヒトカ云リ

とある。「イシカタガイ」という地方名は現認出来ない。

『「本草」にも蚌に似て小なり、といへり』「本草綱目」の「介之二」の「馬刀」の「集解」の最後に以下のように記す。

時珍曰、「馬刀似蚌而小、形狹而長。其類甚多、長短大小、濃薄斜正、雖有不同、而性味功用、大抵則一。

「其の外、みぞ貝によく合へり」意味がよく分からない。この「馬刀」は本来はミゾガイではないが、よく似た形状であるミゾガイとよく交配し、雑種をつくるということであろうか。それとも「馬刀」はしばしばミゾガイと混同されるという謂いか。識者の御教授を乞う。

「マテ」言わずもがな乍ら、本邦の和名としてのマテガイは海産の斧足綱異歯亜綱 incertae 目マテガイ上科マテガイ科マテガイ Solen strictus である。

「白禿瘡」頭部白癬。主に小児の頭部に大小の円形で白色の落屑(らくせつ)面が出来る皮膚病で白癬菌の感染によるもの。痒みがあって毛髪が脱落する。難治性のものはケルズス(Celsus)禿瘡(とくそう)という。

『「本草」には此の方、のせず』「本草綱目」には「馬刀」の「殻」と「肉」に分けて、主治や処方が載るが、確かにざっと見た所ではこの症例へのこのような処方は見当たらない(疔瘡に肉の生の汁を塗付するというのはある)。本邦独自のものかも知れない。]

耳嚢 巻之八 痳石の事

 痳石の事

 

 淸水勤番をなしける倉持忠左衞門は、森田が門弟にて笛を吹き、予が許へも來りしが、或時暫く來らざる事あり。一體堅直なるおの子なりしが日を隔て來り、不計(はからざる)煩しき事ありてとだへぬ、いゝしに、奇なる病を請(うけ)て大きになやみし由。其譯は、前々痳疾(りんしつ)の愁(うれひ)もありしが、絶(たえ)て其愁ひ忘れしに、與風(ふと)他へ行しに、通じを催しけるに任せ用場(ようば)へむかひしに、いさゝかしたゝり候迄(にて)、通氣はしきりなれど一滴も出ず。陰莖の先につまりて、えぐる如くいたみければ、せんすべなく漸く歸宅して臥りけるが、其夜は眠る事もあたはず。是は小便へいならんと、醫師にも見せ藥用もなし、また人の傳へに、山中に生(しやうず)るさるおがせをめば痳疾に妙なる由故、猿おがせを取寄(とりよせ)細末にして砂糖に和して呑(のみ)けるが、右猿おがせの驗(しるし)にや、餘程通じもつきて少しく難儀を忘れしに、明けの日小用なしけるに、又候(またぞろ)鈴口いたみ、通氣をおさえけるに與風(ふと)手をやりみれば、何か指にさわる尖(とげ)の如くいたむゆゑ、物こそあれと、百計しけるに漸く一物を鈴口より取出しぬ。凡(およそ)長さ貮分(ぶ)程巾(はば)壹分程にて、色うるみ鼠色ともいへる石なり。所謂齒のしほの如く、かたき物なり。夫(それ)より全快して、常に服し、右石を鹽(しほを)以(もつて)よく淸め洗ひて、後世の者の心得のため祕め置(おき)しとて見せけるが、倉持が申(まうす)が如く、諸醫に見せけるが、石痳(せきりん)の石と云(いふ)もあれど至(いたつ)て小さきもの細末なるは見しが、かゝるはいまだ見ずといゝけるよし、倉持かたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:疾病物の尿路結石事例。話柄としては長いが、これも所謂、民間療法シリーズの一種としても見ることが出来る。

・「痳石」「りんせき」と読む。腎臓や尿管・膀胱などの尿路結石を指すものと思われる。ウィキの「尿路結石」をリンクしておくが、ここで主人公倉持の尿道から出たそれは決して特異なものとは思われない。調べてみると、長崎県佐世保市高砂町の「きたやま泌尿器科医院」の公式サイト内の尿路結石のページに、尿路結石の中でも八〇%を占めるものがシュウ酸カルシウムを主成分とする結石で、その形状は金平糖状又は表面がギザギザな形になるため、小さくても尿管に引っ掛かり易く、排出され難い、とある。実際、画像検索でみるとまさに尖った結晶の集合体で、倉持が排出したのはその一片という感じが強くする。訳は以下の淋病との非医学的誤解を避けるために「結石」とした。

・「淸水勤番」「淸水」は清水徳川家。清水家。江戸中期に徳川氏一族から分立した大名家御三卿(ごさんきょう)の一つで、始祖は第九代将軍家重次男徳川重好(他の二家は第八代将軍吉宗次男徳川宗武を始祖とする田安家と同じく吉宗四男徳川宗尹(むねただ)を始祖とする一橋家)。「勤番」は諸大名の家来が交代で江戸・大坂の藩邸また遠方要地に勤めることをいうから、ここは特に御三卿清水家に配された幕臣の警護職ということか。

・「森田」能楽囃子方笛方の森田流。名人笛彦兵衛(檜垣本彦兵衛)を芸祖とし、千野与一左衛門・牛尾玄笛と相伝、流祖森田庄兵衛光吉が一家を成して徳川家康に抱えられた。江戸時代には観世流の座付として活動した。四座筆頭の観世流座付であるところから江戸時代には幕府・紀州藩を始めとして諸藩に森田流の役者が抱えられていた。但し、明治末に宗家は絶えている(以上はウィキの「森田流」に拠る)。岩波版長谷川氏注に『当時七世庄兵衛光浮』とある。

・「いゝしに」底本では右に『(ママ)』注記がある。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では正しく『と言(いひ)しに』となっている。

・「痳疾」淋疾。性病である尿道が炎症を起こして尿が出にくくなる淋病のこと。因みにこの「痳」に字の正字のように見えてしまう「痲」という字は実は音「マ・バ・メ」で、しびれ・痺れるの意で、麻疹(はしか)を指す全く別の漢語であったが、これも「痳」と混用された。

・「いさゝかしたゝり候迄(にて)」底本には本文の「(にて)」の右に『(尊經閣本)』とあってそれによって補った旨の傍注がある。

・「小便へいならん」底本では「へい」の右に『(閉)』と傍注する。

・「尖(とげ)」は底本のルビ。

・「通氣」力むと、体感としては尿道を尿が通じようとしている風には感ずる、ということらしい。

・「さるおがせ」菌界子嚢菌門チャシブゴケ菌綱チャシブゴケ目ウメノキゴケ科サルオガセ属 Usnea の地衣類の総称。樹皮に付着して懸垂する糸状の地衣類で、ブナ林など落葉広葉樹林の霧のかかるような森林の樹上に着生する。その形は木の枝のように枝分かれし、下垂する。日本ではおよそ四十種が確認されており、世界では六百種を超えるとされる。和名は「猿尾枷」「猿麻桛」などと書き、「霧藻」「蘿衣」ともいう(以上はウィキの「サルオガセ」に拠った。グーグル画像検索「サルオガセ」)。

・「長さ貮分程巾壹分程」長さ約六ミリの幅三ミリ程。まさに「尖」、針状の結晶であったらしい。

・「齒のしほ」歯石のことか。

・「石痲の石」これは無論、症状から見ても、倉持がかねてより慢性罹患している淋病とは別な尿路結石である。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 結石の事

 

 清水家勤番(しみずけきんばん)を致いておる倉持忠左衛門は、観世流笛方森田流の門弟にして、笛を巧みに吹き奏で、私のところへもしばしば訪ねて参る者で御座るが、ある時、暫く来訪致さぬことが御座った。がっちりとした体形にて真正直なる男で御座ったが、かなり日が経ってから再来致いて、

「……不測の、煩しきことどもの御座って、まっこと、御無沙汰致いて御座った。」

と詫びた上、

「……実は……まっこと、奇妙なる病いに罹り……いや、もう、大いに苦しみましてのぅ……」

との由。その仔細を聴けば……

   *

……拙者……前々より長患いの淋疾(りんしつ)によって不快な思いずっと続けておりましたが……ここのところはずっと、絶えてかの苦しみものぅなって、淋の病いのこと、これ、すっかり忘れておりました。……ところがある時、ふと、私用にて他所(よそ)へと参り、小用を催したによって何ということものぅ、そこの厠へと向かいました……ところが……ちょろっと……ほんの少しばっかり出て御座っただけにて、ウン! と力めば、尿が出でんとする気配は頻りに御座れど、これ、後は一滴も出でんので御座る。……陰茎の先が明らかに詰った感じが致いて、その先が、これまた、小刀で抉ったかの如く痛み、それがまた消えませなんだによって、せん術(すべ)ものぅ、足元もおぼつかぬ体(てい)にて、ようよう帰宅致いて、横になってはみたものの、一物の激痛、これ、恐ろしいばかりに劇しいものにて、結局、その夜は眠ることも出来ませなんだ。……さても翌日、

「……これはもう……小便の閉(へい)となったに相違ない。……さても死に至る様態じゃ……」

と、早々に医師にも見て貰い、処方を出いて貰(もろ)うては服用もなし、また、それ以外にも、知れる人がりの話によれば、

――山中に生ずるところの猿尾枷(さるおがぜ)と申す草を煎じて呑めば、痳疾本復絶妙――

なる由聴きましたによって、その猿尾枷なるものをも取り寄せ、細かな粉に致いて、砂糖を和しては、日に何度も呑んでおりましたところが……これ、この猿尾枷の効験(こうげん)ででも御座いましょうものか……以前のように、全く普通に小水が出ずるようになり、少しく下(しも)の難儀を忘れて御座いました。……ところが、そんな全快致いたかと喜んだ、翌朝のこと、小用致いて御座ったところが……またぞろ、一物の鈴口が俄かに痛みだし、またまた……何物かが排尿が抑えたる感じの致せばこそ……ふと、竿に手をやってみましたところが……何やらん……触れた指に……これ、陽物のまさに内側より

――ツン!

と突き刺さるような痛みを感じました。……それは明らかに……指に立たんとする棘(とげ)の如き痛みにて、さればそれは

――何か、ある物が一物の管(くだ)の内につまっておる

といったような感じにて御座いました。されば……いろいろ……その……試みまして……ようやっと、その妖しの一物を鈴口より取り出いたので御座る。

――凡そ長さは――二分(ぶ)ほど、幅は一分ほど

にして、

――色は――水気を持ったる、濁った鼠色といった感じの

「石」で御座った。所謂、歯磨きを怠りますると歯の間に歯石と申すものが出来まするが、丁度、あれに似たようなもので御座って、いや、もう、石の如く固い物にて御座った。……いや……それよりすっかり全快致いて、かくも常(つね)の体(からだ)に服しました。……されば、その石をば塩を持ってよく洗い清め、後世の医師や似たような病いに悩むめる御仁の心得のために、秘かに残しおいて御座いまする。……

   *

と申し、持参致いたそれを私に見せて呉れた。

 確かに倉持の申すが如き不可思議なる物にて、倉持によれば、

「……諸医に見せましたところが、『尿路の結石というものはあるが、それらは至って小さいものにして、砂粒の様なるもの、粉末のようなるものならば、これ、見たことがあるものの、このように太き針のようなるものというは、これ、いまだに見たことがない』

と言うておったとのこと。

 以上は私が直に倉持から聴いた話にして、実物も確かに見せて貰ったもので御座った。

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 秋谷寺

    ●秋谷寺

紫雲山秋谷寺と號す、淨土宗、鎌倉光明寺末なり、開山祐崇、本尊三尊阿彌陀、慶安元年鑄造の大鐘あり。

[やぶちゃん注:紫雲山秋谷寺正行院(しょうぎょういん)と呼んでいる。三浦地蔵尊第二十番札所。私は訪ねたことがない。yun​**a​ke2​00*​氏のブログのかか様地蔵の記事が、この寺の地蔵群の画像も興味深くてよい。ご覧あれ。]

萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「何處へ行く」(15) 「春のたはむれ」(前) 

 春のたはむれ

 

沈みゆくセロの響きに神經の

ふるふがごとき春の夕暮

 

行きづりの袢纏ばらが惡口(わるくち)を

こわがる君とあねもねを買ふ

 

[やぶちゃん注:「行づり」「こわがる」はママ。「袢纏」は原本では「纏」の字が「糸」でなく「衤」であるが、校訂本文を採った。]

 

たゞよへる祭の夜の灯の海に

我等は赤き帆をあげて行く

 

歌舞伎座のかへりに我をつゝみたる

床しきマントわすられぬひと

 

[やぶちゃん注:「歌舞伎座」は原本では「歌舞妓座」。以下に掲げる相同歌で訂した。この一首は、朔太郎満二十六歳の時の、大正二(一九一三)年十月十一日附『上毛新聞』に「夢みるひと」名義で掲載された五首連作の一首、

 歌舞伎座(かぶきざ)のかへりに我(われ)をつつみたる床(ゆか)しきマント忘(わす)られぬひと

の表記違いの相同歌である。]

 

ヰオロンの小夜曲(セレネード)ともきゝ居りぬ

世にも悲しき訴へごとを

飯田蛇笏 靈芝 昭和十年(九十九句) Ⅱ

 

野球見の大日輪に魂醉へり

 

潮干舟新月は帆にほのめきぬ

 

[やぶちゃん注:「潮干船」は「しほひぶね(しおひぶね)」で潮干狩りをする人を乗せる船。春の季語。]

 

  筑波登山、二句

裏筑波燒け木の鳶にうす霞む

 

[やぶちゃん注:「燒け木」落雷に燃え焦げた高木か。]

 

東風吹くや岩戸の神の二はしら

 

[やぶちゃん注:筑波山は男体山と女体山から成る双耳峰で、筑波山神社は筑波山南面の海抜二七〇メートルにある拝殿地以上を社地とし、男体山(標高八七一メートル)の神を筑波男ノ神(つくばおのかみ・筑波男大神)=伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、女体山(標高八七七メートル。こちらの方が高いので注意)かの神を筑波女ノ神(つくばめのかみ・筑波女大神)=伊弉冊尊(いざなみのみこと)とする。但し、厳密には神道では男女夫婦神は二人で一柱と数える。]

 

  淡路別春莊にて

 

能舞臺幕料峭と夜風たつ

 

[やぶちゃん注:「淡路別春莊」現在の淡路島(兵庫県洲本市由良町由良)に厚生寮淡路別春荘という名の建物があるが、同一物かどうかは不明。この能舞台はその旅宿(?)に附設されたものであろう。中七は「まく/れうせうと(りょうしょうと)」と読む。「料峭」とは春風が未だ肌に薄ら寒く感じられるさまをいう。「料」は「撫でる」「触れる」の意、「峭」は山が尖るさまから転じて厳しいことを意味し、「春寒(はるさむ)」とほぼ同義ながら、それよりもより肌を刺すような寒い初春の風をいう。春の季語。以上は清水哲男氏の「増殖する俳句歳時記」のページの記載を参考にさせて頂いた。]

篠原鳳作初期作品(昭和五(一九三〇)年~昭和六(一九三一)年) ⅩⅦ

 

風波の麥生進むが如くなり

 

ほとばしる枝の眞靑や立穗梅

 

[やぶちゃん注:「立穗梅」穂立ちという語があり、これは稲の穂が出ることを指すから、丁度その八月上旬頃の梅木立という謂いか。]

 

大兵でおはし給ふなる寢釋迦哉

 

舊正や屋敷屋敷の花樗

 

芝山やそこここ立てる霜圍ひ

 

海苔採女はだしのままの家路哉

 

[やぶちゃん注:「海苔採女」は「のりとりめ」と読んでいよう。]

 

海苔採りに沖つ白波たちそめぬ

 

海苔採りにあきし心や遠霞

 

醉ざめの面て伏せゐる火桶哉

 

霜圍ひ覗き覗きて園巡り

 

水涕のすすりあへなくなりにけり

 

破(ヤ)れ障子兒澤山と見えにける

 

鏝入れしままの火桶に招じけり

 

寒卵溜るばかりに貰ひけり(微恙)

橋本多佳子句集「紅絲」 凍蝶抄 Ⅲ 雪はげし抱かれて息のつまりしこと / 雪はげし夫(つま)の手のほか知らず死す

 

雪はげし抱かれて息のつまりしこと

 

[やぶちゃん注:多佳子の代表句の一つ。しかし、不倫好みの昨今の風潮の中で、かの多佳子を誤解する向きはもっと多佳子の句を読まねばならぬ。最低でも次の句と並置されていることに気付かねばならぬし、多佳子にしてみれば、この句は独り歩きをさせずに「雪はげし」二句としてペアで読まれなければならないと感じていたはずである。この抱かれた相手は亡き夫豊次郎であり、それ以外には、ない、からである。普通ならば崖淵の危うさを持つ妖しい句が不思議に猥雑に堕すことがないというのも、これ、多佳子マジックなのである。句集上限の昭和二二(一九四七)年当時、多佳子四十八歳。

 

雪はげし夫(つま)の手のほか知らず死す

 

[やぶちゃん注:「夫(つま)」は万葉以来、広義に夫婦や恋人が互いに相手を呼ぶ称でもある。従って事実に即せばこれは「知らず死す」という下五から亡き「夫」豊次郎のことを指した追懐句と読める句ではある。ところが、「夫」という文字と並置される前句の主観性によって導き出されるのはやはり、「つま」である多佳子を主体とした詠である。さすれば――「夫の手のほか知らず死す」ことを既にして決しているところの、凄絶な美しさを持った貞節なる未亡人が、激しく吹雪く雪を凝っと見つめている――という景が自ずと見えてくることになる。少なくとも私はそのようなものとしてこの組み句を読んできたということを申し添えておく。]

橋本多佳子句集「紅絲」 凍蝶抄 Ⅱ

 

箸とるときはたとひとりや雪ふり来る

 

鴉過ぎ怺へこらへし雪ふり来る

 

[やぶちゃん注:「怺へ」は「こらへ」と読む。]

 

雪墜(づ)る音髮を洗ひて眼つむれば

杉田久女句集 219 病後小景

 

山茶花や病みつゝ思ふ金のこと

 

泣きしあとの心すがすがし菊畠

 

母留守の菊にそと下りし病後かな

 

個性(さが)まげて生くる道わかずホ句の秋

 

妬心ほのと知れどなつかし白芙蓉

 

螺線(ねじ)まいて崖落つ時の一葉疾し

 

雞頭大きく倒れ浸りぬ潦

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら。前に注したように「雞頭」は「けいと」と読んでいよう。「潦」は「にはたづみ(にわたずみ)」と読み、雨が降って地上に溜まっては流れる水をいう。]

 

櫛卷にかもじ乾ける菊の垣

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら。「櫛卷」は「くしまき」で女性の髪の結い方の一つ。紐で結んだりせず、束髪を櫛に巻きつけて頭頂部に留めるだけの簡単な髪型。「かもじ」は「髢」「髪文字」。頭の「か」は「かみ(髪)」「かずら(髢)」などの頭音で、「もじ」は文字言葉(ある馴染みの単語の後半部を省いてその語の頭音又は前半部分を表わす仮名の下に付いて品よく言い表したり、婉曲に言い表わしたりする一種の女房詞)。狭義には、婦人が髪を結う際に豊かにするために添える毛、添え髪・入れ髪をいうが、広義には「おかもじ」で髪全般を指す女房詞でもある。ここでの久女は病み上がりであるから、髪全体という意の後者であろう。]

 

夫へ戻す子等の衣縫ふ冬夜かな

杉田久女句集 218 退院

  退院

 

菊に掃きゐし庭師午砲に立去れり

杉田久女句集 217 始めて歩む日

  始めて歩む日

 

病癒えて菊にある日を尊めり

 

菊もわれも生きえて尊と日の惠み

最後の歎願をもつて   山之口貘

 最後の歎願をもつて

 

其處に通りかゝつてゐる女(ひと)よ 私(わ

 し)は私(わし)の前を知らん振りの氣まづ

 い態(なり)で通り過ぎようとするお前を知

 つてゐる

水は私(わし)の跫下でせゝら笑ひ 星辰(ほ

 しくづ)はあをい光を撤らし

 あゝ暗い廢頽の魔術を私(わし)にかけてゐ

 る。しかも人々はみんな私に醜聲をぶつかけ

 て消え去つた。

だのにお前は何故過去の想出の一言(ひとこと)

 でさへ私(わし)の口から出るのを拒まうと

 するのだ?

否え 否え 私(わし)は決して聲をかけない

 つもりでゐる

 世間の拙い連想から 私(わし)の聲をお前

 は迷惑だと思つてゐはせぬか

 そうしてお前は 乞喰になつた私(わし)の

 眼球(めのたま)をお前のあかい舌をもつて

 侮蔑(はづか)しめはしまいか

 

靜寂は市街の涯から涯へのたうち狂ひ

 羞恥(はぢらひ)はお前の耳の側を過ぎ去

 り お前の溜息を奪つて私を苦しめてゐる

けつど其處に通りかゝつてゐる女(ひと)

 よ あゝ私は決して聲でもつて物語らうと

 は思はない。

お前の踵の一瞬(わづか)の躊躇(ためらひ)

 を私(わし)に報告(しら)しめてくれ 

 お前の視線の端を私(わし)におくつてく

 れ

あゝ私(わし)は私(わし)の最後の嘆願の

 口を押し開いてお前に乞はねばならないの

 に

何故知らん振りの氣まづい態(なり)で私

 (わし)の前を通り過ぎようとするの

 だ? 私(わし)の戀人よ!

 

[やぶちゃん注:大正七(一九一八)年~大正一〇(一九二一)年の間(バクさん十五歳から十八歳)に創作された作品。思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と校合したが、以下に示すように一部、新全集ではなく、旧全集の表記に従った部分がある。一部に特異な改行部があるため、ブログ幅に対応させて以上のような仕儀をとった。問題の箇所は「あゝ暗い廢頽の魔術を私(わし)にかけてゐる。しかも人々はみんな私に醜聲をぶつかけて消え去つた。」及び「世間の拙い連想から 私(わし)の聲をお前は迷惑だと思つてゐはせぬか」と「そうしてお前は 乞喰になつた私(わし)の眼球をお前のあかい舌をもつて侮蔑(はづか)しめはしまいか」の三箇所で、これらは前からの続きではなくて、一字下げになっているからである。しかも、それが更に改行される場合(最初の「あゝ暗い廢頽の……」の一箇所)には今までの改行法(前行より一字下げ)と異なり、下げずに前行と同じ高さで改行されてあるからである。

「歎願」題名ではこれで、詩の終わりから三行目では「嘆願」となっているのは、新全集に従った。ここは新全集が解題でわざわざ断っている箇所で、旧全集がかく変えてしまった事実が明らかとなったからである。

「跫下で」「跫下で」の読みは不明。音ならば「キヨウカ(キョウカ)」であるが一般的な熟語とは思われない。「跫(あしおと)の下。足音の元。」という謂いで、意味は通ずるように私は感ずる。新全集ではこれを「足下」とするが、採らない。私は原稿を見ていないが、旧全集がわざわざかく表記しているということは原稿がそうなっている可能性を示唆するものだからである。「跫」と「足」は正字・新字の関係にはないからで、これは新全集の方針にも反することである。但し、確かにそう改変する「そつか(そっか)」で読みは自然とはなるという思いはする。新全集編集者はこれを誤字と採ったものらしい。しかし、やはり私は従えない。「跫下」では読みは不詳なものの、意味が分からなくなるとは言えないからである。

「思つてゐはせぬか」の感嘆符の斜体化は新全集に拠った。最後の感嘆符は表記通り、普通である。

「乞喰」これも新全集は「乞食」とするが、採らない。「喰」は国字であり、「食」とは正字・新字の関係にないからである。これは新全集の方針にも反することである。新全集編集者はこれを誤字と採ったのであろう。しかし、やはり私は従えない。「乞喰」でも、おや? と思いながらも、「こじき」と読み過ごすことが出来、意味が分からなくなるとは言えないからである。

 底本の連続する次行送りの一字下げを無視して表記すると、

 

 最後の歎願をもつて

 

其處に通りかゝつてゐる女よ 私は私の前を知らん振りの氣まづい態で通り過ぎようとするお前を知つてゐる

水は私の跫下でせゝら笑ひ 星辰はあをい光を撤らし

 あゝ暗い廢頽の魔術を私にかけてゐる。しかも人々はみんな私に醜聲をぶつかけて消え去つた。

だのにお前は何故過去の想出の一言でさへ私の口から出るのを拒まうとするのだ?

否え 否え 私は決して聲をかけないつもりでゐる

 世間の拙い連想から 私の聲をお前は迷惑だと思つてゐはせぬか

 そうしてお前は 乞喰になつた私の眼球をお前のあかい舌をもつて侮蔑しめはしまいか

 

靜寂は市街の涯から涯へのたうち狂ひ羞恥はお前の耳の側を過ぎ去り お前の溜息を奪つて私を苦しめてゐる

けつど其處に通りかゝつてゐる女よ あゝ私は決して聲でもつて物語らうとは思はない。

お前の踵の一瞬の躊躇を私に報告しめてくれ お前の視線の端を私におくつてくれ

あゝ私は私の最後の嘆願の口を押し開いてお前に乞はねばならないのに

何故知らん振りの氣まづい態で私の前を通り過ぎようとするのだ? 私の戀人よ!

 

のようになる(ルビを除去して示した)。【二〇一四年五月二十四日追記】以上は、二〇一四年五月二十四日に行った新全集との校合によって、一部の表記の特異性が判明したため、全面的に改稿した。

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅6 黒羽秋鴉亭 山も庭にうごきいるゝるや夏ざしき   芭蕉

本日二〇一四年五月二十二日(陰暦では二〇一四年四月二十四日)

   元禄二年四月  四日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年五月二十二日

である。

 

  秋鴉(しうあ)主人の佳景に對す

山も庭にうごきいるゝるや夏ざしき

 

  秋鴉主人の佳景に對す

山も庭もうごき入(いる)るや夏坐敷

 

[やぶちゃん注:第一句は曾良の「俳諧書留」。第二句は「雪まろげ」(正しくは「雪滿呂氣」・曾良編・周徳校訂・天明三(一七八三)年刊・河合曾良(慶安二(一六四九)年~宝永七(一七一〇)年)没後六十七年後の刊行)のものであるが、今栄蔵氏は新潮古典集成の注で「庭も」は誤記と推定されている。「曾良随行日記」によれば、これは四月四日の句である(以下、注参照)。

「秋鴉主人」黒羽大関藩館代浄法寺図書桃雪高勝の別号。芭蕉はこの四日に余瀬の彼高勝の実弟の鹿子畑翠桃忠治の屋敷から彼の屋敷に招かれ、十一日まで滞在し、十五日にも訪れ、翌十六日に余瀬へ戻って、現在の栃木県那須郡那須町大字高久へと出立した。この句は、恐らくは最初に高勝邸を訪れた今日の挨拶句である。この秋鴉亭について曾良は「俳諧書留」に、

 

淨法寺圖書何がしは那須の郡黑羽のみたちをものし預り侍りて、其私の住ける方もつきづきしういやしからず。地は山の頂にさゝへて、亭は東南にむかひて立り。奇峯亂山かたちをあらそひ、一髮寸碧繪にかきたるやうになん。水の音鳥の聲、松杉のみどりもこまやかに、美景たくみを盡す。造化の功のおほひなる事、またたのしからずや。

 

と記している(引用は山本健吉「芭蕉全発句」に載るものを参考に、一部原本誤字と思われる箇所を補正、正字化して示した)。今氏によれば、この句の「山」はこの秋鴉亭の庭の借景としての遠景にある山を指し、「伊勢物語」七十七段『「山もさらに堂の前に動き出でたるやう」という面白い表現をふまえて趣向した』ものとされる。

 今氏は第二句を誤字とされるが、寧ろ、私は第二句目のダイナミズムの方が吹っ切れて面白い。自動詞・他動詞の五月蠅い国語学的指摘は不要で、ここはまさに――借景の翠なす山々も風雅清涼なる庭も渾然一体となって座敷の中の壺中天となる――と私は読みたい。本句は「奥の細道」には出ない。「黒羽」の段を以下に示す。光明寺の「夏山に足駄をおかむ首途哉」の句は実は時系列では後の句で、そこで再度示して注するので、ここでは本文のみを示して、注はしない。

   *

黑羽の舘代浄坊寺何某の方ニ音信ル

おもひかけぬあるしのよろこひ日夜語

つゝけて其弟桃翠なと云か朝夕勤

とふらひ自の家にも伴ひて親属の

方にもまねかれ日をふるまゝに

ひとひ郊外に逍遙して犬追ものゝ跡

を一見し那すの篠原をわけて玉藻の

前の古墳をとふそれより八幡宮に詣

与市宗高扇の的を射し時別ては我

国氏神正八まんとちかひしも此神社

にて侍ときけは感應殊しきりに覚らる

暮れは桃翠宅に歸る

修驗光明寺と云有そこにまねかれて

行者堂を拜す

  夏山に足駄をおかむ首途哉

   *

■異同

(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)

〇与市宗高扇の的を射し時  → ●與市扇の的を射し時

 

■やぶちゃんの呟き

「犬追物の跡」:後掲される殺生石所縁の妖狐九尾狐の化身である玉藻の前を捕らえるため、犬を騎射する「犬追物(いぬおふもの)」の弓術技を練習した跡とも、狐は犬に似ていることからこの九尾狐退治自体を犬追物と称したとも伝える。

「那須の篠原」これは那須野一円の通称であるが、ここでは現在の大田原市の篠原地区にある玉藻の前の神霊を祭った玉藻稲荷神社がある。歌枕としても知られ、源実朝の、

 もののふの矢並つくろふ小手の上に霰たばしる那須の篠原

辺りの和歌がイメージされていたのかも知れない。

「古墳」は先の妖狐玉藻の前の狐塚で、同稲荷神社の一キロメートルほど北東にあったが、現在は原形を留めておらず、塚跡の標柱のみが残っている。

「八幡宮」大田原市南金丸にある応神天皇を祀る那須総社金丸八幡宮那須神社(略して那須神社と呼称している)。但し、「平家物語」で、この地の出身とされる那須与一宗隆が屋島合戦で義経に命ぜられて扇の的を射る際に祈願したとされるのは、ここではなく、那須湯本にある温泉大明神(ゆぜんだいみょうじん)であるともされる。

 なお、こことこの後の「雲巖寺」の段は実際の訪問の順列をかなり入れ替えて圧縮してある。頴原・尾形両氏は角川文庫版評釈で、この部分の創作的再構成について以下のように高く評価されている。

   《引用開始》

 この半月近い滞在記事の整理ぶりは、まことにあざやかで、四日の雲巌寺訪問の一条を翠桃兄弟を中心とする記事から切り離すとともに、犬追物の跡・玉藻の前の古墳などを巡覧した十二日の篠原逍遙と、十三日の金丸八幡参拝とを、一日の記事にまとめあげ、九日の光明寺参詣をその後へ回してある。桃雪・翠桃かたの往返は、その前にまとめて掲出しているが、主語が次々と転換するテンポの早い叙述が、交歓のよろこびを伝えて効果的だ。

 光明寺参詣を最後に回したのは、「夏山に」の句を配する関係からで、ここを陸奥への第二の出発点として旅に勇む芭蕉の心おどりが、軽快に響いてくる。

   《引用終了》

 旧蹟も玉藻の前と弓術の那須与一という連関をスラーのように続けて美しい。事実、「奥の細道」を読む者は、まさか奥羽へのトバ口でしかない、しかも句も示されていないこの黒羽で」半月にもなんなんとする滞留を続けていたとは実は思わない(但し、「日夜語り續けて」「桃翠など云ふが朝夕(てうせき)勤めとぶらひ」「自らの家にも伴ひて親屬の方にも招かれ」「日を經るまゝに」という畳みかけにそれは匂わされてあり、しかもそれが何か、芭蕉のからすれば実は有難迷惑だったという陰のニュアンスさえも私には感じられるのは深読みであろうか)。]

2014/05/21

戀人よ私に解いて下さいませ   山之口貘

 戀人よ私に解いて下さいませ

 

闇の眞面目な惡戲に、私(わし)は私(わし)

 の快感から大切なものを無駄に費しました。

 あゝ私(わし)は私(わし)の肉體にめぐり

 あふ春の空氣に

だけれど春の草原よ戀人よまぼろしよ 立ち去

 れと被仰らずにどうぞ私(わし)の膝がそな

 たの膝に触れるように坐らせて下さい

戀人よあの廓の中では 年中春を裝ふた淫亂の

 魔物が腐れかゝり 神經が麻痺し

 否え私(わし)は決して彼等にたはむれない

 つもりでゐる。

 

あゝ人間と人間とに春がやつて來て私の鼻孔は

 膨らみ唇がむくむくうごいてゐます……

戀人よお許し――どうぞ私(わし)の肉體にめ

 ぐりあふてゐる春を知らん振りで見逃さずに、

 耐え切れない接吻の奥深くへ私(わし)をや

 つて下さいませ

私(わし)は櫻の花辨(はなびら)の無駄な想

 像に飽いてしまひました

ねえ どうぞ戀人よ第一の新しいこゝろみを人

 間と人間との春の接吻の奥深くで私(わし)

 に解いて下さいませ。

 

[やぶちゃん注:大正七(一九一八)年~大正一〇(一九二一)年の間(バクさん十五歳から十八歳)に創作された作品。思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と校合した。一部に特異な改行部があるため、ブログ幅に対応させて以上のような仕儀をとった。問題の箇所は「否え私(わし)は決して彼等にたはむれないつもりでゐる。」で、これは前からの続きではなくて、一字下げになっている独立行からである。一応、全体はこれまでの改行法と同じく改行した部分を一字下げにしたが、この部分に限ってはバクさんはそうしない可能性が高いので(次の「最後の嘆願をもつて」がそうなっている)、ここでもそれに準じた(意味がよく分からない方のために屋上屋すれば、私が「つもりである」の更なる二字下げは行なっていないことを言っている)。底本の連続する次行送りの一字下げを無視して表記すると、

 

 戀人よ私に解いて下さいませ

 

闇の眞面目な惡戲に、私は私の快感から大切なものを無駄に費しました。 あゝ私は私の肉體にめぐりあふ春の空氣に

だけれど春の草原よ戀人よまぼろしよ 立ち去れと被仰らずにどうぞ私の膝がそなたの膝に触れるように坐らせて下さい

戀人よあの廓の中では 年中春を裝ふた淫亂の魔物が腐れかゝり 神經が麻痺し

 否え私は決して彼等にたはむれないつもりでゐる。

 

あゝ人間と人間とに春がやつて來て私の鼻孔は膨らみ唇がむくむくうごいてゐます……

戀人よお許し――どうぞ私の肉體にめぐりあふてゐる春を知らん振りで見逃さずに、

 耐え切れない接吻の奥深くへ私をやつて下さいませ

私は櫻の花弁の無駄な想像に飽いてしまひました

ねえ どうぞ戀人よ第一の新しいこゝろみを人間と人間との春の接吻の奥深くで私に解いて下さいませ。

 

のようになる(ルビを除去して示した)。【二〇一四年五月二十四日追記】以上は、二〇一四年五月二十四日に行った新全集との校合によって、一部の表記の特異性が判明したため、全面的に改稿した。

篠原鳳作初期作品(昭和五(一九三〇)年~昭和六(一九三一)年) ⅩⅥ



探梅や裏御門より許さるる

 

蜜柑山晝餉の煙上りけり

 

儲けなき鰯をうつて歩きけり

 

枯野道鰯車の續きけり

 

遊び女のながきいのりや東風の宮

 

[やぶちゃん注:「東風の宮」太宰府天満宮のことか。]

 

砂掘りて松露燒く火を育てけり

 

[やぶちゃん注:「松露」菌界ディカリア亜界担子菌門ハラタケ亜門ハラタケ綱ハラタケ亜綱イグチ目ヌメリイグチ亜目ショウロ科ショウロ Rhizopogon roseolu。参照したウィキの「ショウロ」によれば、『二針葉性のマツ属 (アカマツ・クロマツなど)の樹下で見出され、本州・四国・九州』に自生する。『子実体は歪んだ塊状をなし、ひげ根状の菌糸束が表面にまといつく。初めは白色であるが成熟に伴って次第に黄褐色を呈し、地上に掘り出したり傷つけたりすると淡紅色に変わる。外皮は剥げにくく、内部は薄い隔壁に囲まれた微細な空隙を生じてスポンジ状を呈し、幼時は純白色で弾力に富むが、成熟するに従って次第に黄褐色ないし黒褐色に変色するとともに弾力を失い、最後には粘液状に液化する』。『胞子は楕円形で薄壁・平滑、成熟時には暗褐色を呈し、しばしば』一~二『個の小さな油滴を含む。担子器はこん棒状をなし、無色かつ薄壁、先端には角状の小柄を欠き』、六~八『個の胞子を生じる』。『子実体の外皮層の菌糸は淡褐色で薄壁ないしいくぶん厚壁、通常はかすがい連結を欠いている。子実体内部の隔壁(Tramal Plate)の実質部の菌糸は無色・薄壁、時にかすがい連結を有することがある』。『単純な球塊状の子実体を形成することから、古くは腹菌類の一種として扱われてきたが、マツ属の樹木に限って外生菌根を形成することや、胞子の所見・子実体が含有する色素成分などが共通することに加え、分子系統学的解析の結果に基づき、現在ではヌメリイグチ属に類縁関係を持つとして、イグチ目のヌメリイグチ亜目に置かれている』。『安全かつ美味な食用菌の一つで、古くから珍重されたが、発見が容易でないため希少価値が高い。現代では、マツ林の管理不足による環境悪化に伴い、産出量が激減し、市場には出回ることは非常に少なくなっている。栽培の試みもあるが、まだ商業的成功には至っていない』。『未熟で内部がまだ純白色を保っているものを最上とし、これを俗にコメショウロ(米松露)と称する。薄い食塩水できれいに洗って砂粒などを除去した後、吸い物の実・塩焼き・茶碗蒸しの具などとして食用に供するのが一般的である。成熟とともに内部が黄褐色を帯びたものはムギショウロ(麦松露)と呼ばれ、食材としての評価はやや劣るとされる。さらに成熟が進んだものは弾力を失い、色調も黒褐色となり、一種の悪臭を発するために食用としては利用されない』とある。私の亡き母は鹿児島の大隅半島中央の岩川に育ったが、若い頃にはよく兄とともにこのショウロを採りに行ったと語っていた。私は哀しいかな、食べたことがない。]

 

住吉の垣のうちなる松露搔

 

[やぶちゃん注:「住吉」恐らくは現在の鹿児島県鹿児島市住吉町(ちょう)であろう。旧鹿児島城下下町住吉町で鹿児島市の中部に当たり、桜島の対岸の薩摩半島東の根元にある。]

橋本多佳子句集「紅絲」 凍蝶抄 Ⅰ 

句集「紅絲」

[やぶちゃん注:「こうし」と読む。昭和二六(一九五一)年六月一日交目黒書店刊。昭和二二(一九四七)年から同二十六年までの作品四百十三句を収録する。序文は山口誓子。誓子の序文は著作権存続中のため、省略する。なお、これ以降の句集は戦後の作であることから、新字体とする。]

 

 凍蝶抄

 

凍蝶に指ふるゝまでちかづきぬ

 

凍蝶も記憶の蝶も翅を欠き

 

凍蝶を容(い)れて十指をさしあはす

 

凍蝶のきりきりのぼる虛空かな

杉田久女句集 216 再び入院 大正9(1920)年10月

  吾妻病院へ再入院 十月

 

トランプや病院更けて石蕗の雨

 

子等を夢見て病院淋し石蕗の雨

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「石蕗」は「つわ」でキク亜綱キク目キク科キク亜科ツワブキ属 Farfugium japonicum を指す。和名は「艶葉蕗(つやばぶき)」、「艶のある葉の蕗」から転じたとされる。]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅5 黒羽 秣負ふ人を枝折の夏野哉 芭蕉 / 「奥の細道」黒羽の少女「かさね」について

本日二〇一四年五月二十一日(陰暦では二〇一四年四月二十三日)

   元禄二年四月  三日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年五月二十一日

である。「曾良随行日記」によればこの前日四月二日は裏見の滝を見た後、上鉢石町五左衛門方を出立、現在の栃木県日光市の(旧今市市)瀬尾(せのお)及び同市川室(かわむろ)から同市大渡(おおわたり)を経由して、現在の栃木県塩谷郡塩谷村内船入(ふにゅう。鬼怒川の渡し場。船生)へ着き、そこから同村内の玉入(たまにゅう)へ、雷雨の中を午後一時半着、宿が劣悪だったために無理を頼んで名主の家に泊している。この三日は朝から快晴、午前七時半に玉入を出立、鷹内・矢板・沢村(現在は孰れも栃木県矢板市内)から大田原市内を抜け、栃木県北東部の黒羽(旧黒羽町(くろばねまち)。現在、大田原市黒羽)へと辿り着いた。「曾良随行日記」によれば、とりあえずこの句は四月三日の句と推定出来る。

 

  陸奥(みちのく)にくだらむとして、下

  野國(しもつけのくに)まで旅立(だち)

  けるに、那須(なす)の黑羽(くろばね)

  と云(いふ)所に翠桃何某(すいたうな

  にがし)の住(すみ)けるを尋(たづね)

  て、深き野を分(わけ)入る程、道もま

  がふばかり草ふかければ

秣(まぐさ)負(お)ふ人を枝折(しをり)の夏野哉

 

  那須にて

馬草(まぐさ)苅(かる)人を枝折の夏野哉

 

[やぶちゃん注:第一句目は「陸奥鵆(むつちどり)」(桃隣編・元禄一〇(一六九七)年跋)で、句は「曾良書留」にもこの句形で載り、そこでは前書に、

  那須余瀨(よぜ)、翠桃を尋ねて

とする(「那須余瀨」は旧黒羽町の西方の地名)。第二句は「蕉翁句集」(『蕉翁文集第一冊「風一」』・土芳編・宝永五(一七〇八)~六年頃)の句形。後者が実景のように読め、これが初期形であるが如何にも絵葉書のように平面的で、効果的なパースペクティヴを見せる前者が遙かによい。しかし芭蕉は「奥の細道」ではこの自作を切り捨てて、以下に示す掬すべき掌編をものしたのであった。

「翠桃」江戸で旧知であった蕉門鹿子畑豊明(かのこばたけとよあきら)の俳号。彼の実兄は黒羽大関藩館代(留守居役)浄法寺(じょうぼうじ)図書(ずしょ)高勝で、彼も俳句をものして桃雪と号し、兄弟ともに芭蕉を手厚く接待し、芭蕉はここ黒羽で「奥の細道」の旅で最も長い、十三泊(十六出立)という異例の逗留をしている。本句はその挨拶句である。なお、当時二十八、兄は年子で二十九の若さであった。

「枝折」道標べ。目印。

 「陸奥鵆」所収のものは、この第一句を発句とするその折りに巻かれた七吟歌仙で(但しこれは後にかなりの推敲が施されたものらしく、そこからも第二句が初案であったと私は見る)、脇句は、

  靑き覆盆子(いちご)をこぼす椎の葉 翠桃

と主の翠桃が付けている。「覆盆子」は木苺。

 以下、「奥の細道」の今日の当該旅程箇所を示す。

   *

那すの黑はねと云處に知人あれは

これより野越にかゝりて直道を

ゆかむとす遙に一村を見かけて

行に雨降り日暮るゝ農夫の

家に一夜をかりて明れは又

野中を行そこに野飼の

馬あり草刈おのこになけきよれは

野夫といへ共さすかに情しらぬには

あらすいかゝすへきやされ共此野は東

西縱横にわかれてうゐうゐ敷旅人の

道ふみたかへむあやしう侍れは

この馬のとゝまる處にて馬を返し

給へとかし侍ぬちいさきものふたり馬の跡し

たひてはしるひとりは小娘にて

名をかさねと云聞なれぬ名のやさし

かりけれは        曽良

  かさねとは八重撫子の名成へし

頓て人里に至れはあたひを鞍つほに

結付て馬を返しぬ

   *

■異同

(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文。なお、「うゐうゐ」の後半は原本では踊り字「〱」)

〇東西縱横     → ●縱横

〇ひとりは小娘にて → ●ひとりは小姫にて

 

■やぶちゃんの呟き

 私は十六の時、古典の授業でこのシークエンスを習って以来、「奥の細道」中、同じ折りに読んだ「象潟」に次いで、忘れ難い印象的な章段である。

 角川文庫版の頴原・尾形両氏の評釈(この文庫のカバー画はまさにこのシーンである)によれば、本章段は(太字は底本では傍点「ヽ」)、

   《引用開始》

「草刈る男に嘆きよれば」云云の叙述の背後には、陸奥(みちのく)を舞台とした謡曲『錦木(にしきぎ)』の「けふの細道分け暮らして、錦塚はいづくぞ、かの岡に草刈るをのこ心して、人の通ひ路明らかに教へよや」の文言が二重写し的に焼きつけられていよう。その「草刈るをのこ」と、古雅の名を持った「小姫」、それに『蒙求』にも収められて著聞する「管仲随ㇾ馬」[やぶちゃん注:底本には片仮名送り仮名があり、読み下せば「管仲馬に随ふ」。](『韓非子』説林)の話を思わせる「野飼ひの馬」という、この世ならぬ道具立てによって織りなされた夢幻劇は、渺々(びょうびょう)たる那須野の旅の幻想的な風趣を伝えて余薀(ようん)がない。

   《引用終了》

とあり、新潮古典集成の「芭蕉文集」の富山奏氏の注には、「馬のとどまるところにて馬を返したまへ」の部分に「蒙求」のそれと並べて、「奥の細道」でやはりこの後の素材となる謡曲「遊行柳」の「老いたる馬にはあらねども、道しるべ申すなり」などを趣向とした旨の記載がある。安東次男氏は「古典を読む」版ではこの「撫子」は「大和撫子(河原撫子)」(ナデシコ目ナデシコ科ナデシコ属カワラナデシコ Dianthus superbus var. longicalycinus)であるが花は単弁で、八重咲のそれはセキチク(ナデシコ目ナデシコ科ナデシコ属セキチク Dianthus chinensis)の改良種(天然種ではない)であって(分類と学名は私が附したもの)、この曾良の句は『野の撫子に八重はないはずでだが、はて、「かさね」とはよほど慈んで育てているのか、と読んでよい。丹精すればいずれは八重に咲く、という余情もある。セキチクの改良種の実際を知っていないとこういう句は出てこない。大和撫子を女童の愛称に執成(とりな)した例は、『源氏物語』にも出てくる』とし、「帚木」「常夏」の帖の証左を掲げてさえある(なお、個人的にはこの安東の語釈は興味本位の解釈として知的には面白いのであろうが、私はやや生理的不快感を感じることを申し添えておく)。

 しかし乍ら、私にとってこうした典拠詮索は、この章段にいらない。

 芭蕉の「奥の細道」には虚構が多いとされる。それを私も嘗て教師時代に鬼の首を取ったように述べては、荻原井泉水はこれを、現実的事実と文学的真実は違うと言っている、などと分かったようなことを偉そうに語っていた。しかし、私は芭蕉はやはりリアリズムの人であったと今は思うのである。無論、その実体験での感懐をより効果的に示すために、事実や時制に改変は加えられていることは確かな事実であっても(厳密な意味での虚偽記載事実の認定)、一つの創作物である「奥の細道」の中の、印象的なシークエンスには必ず、芭蕉が実際に見聴きし体験した事実という裏打ちがあり、そこでの感懐の核心に於いては何らの虚偽はない、というのが私の今の「奥の細道」への思いなのである(それを「文学的真実」などと呼ぶ必要は実はない。客観的事実とは観察者・測定者によって全く異なるという「事実」は既に原子物理学者らによって認められている科学的「事実」だからである)。

 であるからして私は典拠なんどより何より、この芭蕉と少女「かさね」の出逢いが確かな事実であり、馬を追いながらついてくる彼女、そして「かさね」よりもっと小さな少年である弟の情景が、ありありと見えること、感じることこそが、本文を鑑賞する上で最も、否、唯一、大切なことなのだと信じて疑わないのである。

 これは研究者の間では比較的知られたことであるが、この「かさね」との邂逅は確かな事実であることが、芭蕉のこの「奥の細道」が終わった翌年の以下の文章によって証明されるのである。それは芭蕉が知人から、生まれた女児の名付け親を頼まれた際に(この事実そのものが我々の芭蕉のイメージからはやや意外である)、「重(かさね)」という名を授けたことを述べた文章である(引用は山本胥氏の「奥の細道事典」に載るものを参考に原本の脱字・衍字を補正し、正字化して示した)。

 

みちのく行脚の時、いづれの里にかあらむ、賤(しづ)がこむすめの六つばかりとおぼしきが、いとさゝやかに、えもいはずをかしかりけるを、名をいかにいふとゝへば、かさねとこたふ。いと興有る名なり。都の方にてはまれにもきゝ侍ざりしに、いかに傳て何をかさねといふにやあらん。我子あらば、此名を得させんと、道連れなる人にたはぶれ侍しを思ひ出でゝ、此たび思はざる緣(ゑにし)に引かれて名付親となり

 

     賀ㇾ重(かさねをがす)

 

   いく春をかさねがさねの花ごろも

     皺(しは)よるまでの老(おい)もみるべく

 

 山本胥氏はこの後に、この『「かさね」を、私は旅の恋と感じたが、フランスの詩人ボンヌフォアは、『奥の細道論』の中で、「詩の世界の妖精(ようせい)と考えている」と述べている。言葉こそ違うが、当を得た解釈である』と述べておられるが、私は今回、このボンヌフォアの評言に深く感動した。

 「かさね」はまさしく、私が求め続けている、私の中の永遠の少女であることを気づかせてくれたからである――]



義父の逝去のため、名古屋に6日間いたが、僕はそれ以前に、この6日間のこのシンクロニティ「奥の細道」を三日分、自動更新する設定にしていた。――今になって、
義父は妻だけでなく、僕にさえも迷惑をかけないようにと心遣いをして呉れていたのだったと思うのだ。――心から冥福を祈るものである――

2014/05/20

義父長谷川世喜男会葬御礼 妻より

Gihukaisouonnrei

文中の「一日」というのは、父が最も可愛がっている私の姪(妻の妹の娘)の結婚式の日で、実は式後に見舞いに行くという、式で珍しく昼間からしたたかに酒を飲んだ彼を、私が止めたからであった。

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅4 裏見の瀧 しばらくは瀧に籠るや夏の初め   芭蕉

本日二〇一四年五月 二十日(陰暦では二〇一四年四月二十二日)

   元禄二年四月  二日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年五月 二十日

である。日光の続き。東照宮参拝の翌朝の午前八時頃に上鉢石町五左衛門方を出でて裏見の滝へ向かった。

 

  うらみの瀧にて

しばらくは瀧に籠るや夏(げ)の始(はじめ)

 

  日光山に上り、うらみの瀧にて

郭公(ほととぎす)うらみの瀧のうらおもて

 

うら見せて涼しき瀧の心哉

 

[やぶちゃん注:第一句は「島之道集」(玄梅編・元禄一〇(一六九七)年序)の前書と表記。「奥の細道」では、

 

暫時は瀧に籠るや夏の初

 

という表記である。第二句目は「やどりの松」(助給(雲鼓)編・宝永二(一七〇五)年刊か)、第三句は「宗祇戻」(そうぎもどし・風光編宝暦三(一七五三)年刊)。

 「裏見の瀧」は栃木県日光市清滝丹勢町(たんぜまち)にある瀧。現在は瀧の上部にあった岩が崩落して裏から見ることが出来なくなっている。日光からは西へ約六キロほど離れた峻嶮の地であるが、二人はその日ここを往復し、早くも正午過ぎには鉢石を立っている。

 知られた第一句の「夏(げ)」は夏安居(げあんご)で、元来はインドの僧伽に於いて雨季の間は行脚托鉢を休んで専ら阿蘭若(あらんにゃ:寺。院)の内に籠って座禅修学することを言った。本邦では雨季の有無に拘わらず行われ、多くは四月十五日から七月十五日までの九十日を当てる。これを「一夏九旬」と称して各教団や大寺院では種々の安居行事がある。安居の開始は結夏(けつげ)といい,終了は解夏(げげ)というが、解夏の日は多くの供養が行われて僧侶は満腹するまで食べることが出来る。雨安居(うあんご)とも単に安居ともいう(平凡社「世界大百科事典」の記載をもとにした)。ここは瀧の裏手の岩窟に入って涼んだのを、夏安居の初めと洒落たものである。僧体の芭蕉曾良であればこそ奥羽行脚という夏安居(修行)の始まりにも擬え得るであろう。「奥の細道」では前に曾良の「剃捨て黑髪山に衣更」の句もあって如何にも相応しく響き合う。

 第二句の「うらおもて」について私は、山のあちこちで囀る不如帰の鳴き声が、入った瀧の裏にあっても聴こえ、それが微妙に木霊し合い、まさに瀧音と相俟って、何が「うら」であり、何が「おもて」であるのかという、虚実皮膜も反転するような不可思議にして爽快な思いを抱いたと、芭蕉はいいたいのだと読む。瀧の裏に回ったことがある人にはこれはすこぶる実感としてある。少なくともアイスランドの Seljalandsfossセリャラントスフォスで私はそれを実感したのである(リンク先は私の撮った同瀧の写真。前後に数枚ある)。

 第三句の「うら」は擬人化された瀧の「裏(うら)」「内(うら)」「心(うら)」である。なお、この後の須賀川で書かれた杉風宛書簡(四月二十六日附書簡)には曾良の書簡が添付されていてそこにこの句が載るが、そこでは、

 

   日光うら見の瀧

 ほとゝぎすへだつか瀧の裏表 翁

 うら見せて涼しき瀧の心哉 曽良

 

何と第二句目の異形句が載り、しかもこの「うら見せて」は芭蕉の句ではなく、曾良の句としてあるという(これは「おくのほそ道 総合データベース 俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡」の「おくのほそ道 六 日光山の章段」の注のデータを参照した)。

 以下、「奥の細道」の当該部。

   *

廿余丁山を登(ノホ)ツて瀧有岩洞

の頂より飛流して百尺千岩の

碧潭に落岩窟に身をひそ

め入て瀧の裏よりみれはうら

みの瀧と申伝え侍る也

  暫時は瀧にこもるや夏の初

   *

■異同

(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文で、一部に歴史的仮名遣で読みを附した。今回は自筆本に送り仮名を附した)

〇碧潭に落つ         → ●碧潭に落ちたり]

2014/05/19

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅3 日光 あらたうと靑葉若葉の日の光

本日二〇一四年五月 十九日(陰暦では二〇一四年四月二十一日)

   元禄二年四月  一日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年五月 十九日

である。「奥の細道」の旅ではこの日、日光へ辿りついた。

 

あらたうと靑葉若葉の日の光

 

あなたふと木(こ)の下闇(したやみ)も日の光

 

  日光山にて

たふとさや靑葉若葉の日のひかり

 

  日光山登臨之時

あらたふと若葉靑葉の日の光

 

  日光に詣(けいす)

あらたふと木の下闇も日の光

 

[やぶちゃん注:第一句目は「奥の細道」。仮名遣としては、正しくは、

 

あらたふと靑葉若葉の日の光

 

である。

 第二句目は「随行日記」中の「俳諧書留」の、第三句目は「初蟬」(風国編・元禄九(一六九六)年刊)の、第四句目は「鏽鏡」(さびかがみ・舎羅編・正徳三(一七一三)年刊)の、第五句目は「茂々代草」(ももよぐさ・其流等編・寛政九(一七九七)年刊)の句形で、この第五句は真蹟が伝存する。

 但し、第二句目の「随行日記」中の「俳諧書留」のそれは「室八島」と題して、

 糸遊(いとゆふ)に結(むすび)つきたる煙哉

 あなたふと木(こ)の下闇(したやみ)も日の光

 入かゝる糸ゆふの名殘かな

 [やぶちゃん注:「糸ゆふの名殘かな」を見せ消ちにして次句。]

 入かゝる日も程々に春のくれ

 鐘つかぬ里は何をか春の暮

 入逢(いりあひ)の鐘もきこえず春の暮

と載る。即ち、実は現在、日光山での名吟として知られる本「あらたうと靑葉若葉の日の光」という句の原形は日光ではなく、室の八島で創作されたものなのである。これについて安東次男は「古典を読む おくのほそ道」で、

   《引用開始》

 「あなたふと木の下闇も日の光」は、通説、日光参詣の句(「青葉若葉」)の初案だとされているが、室の八島で出来たと考えるしかあるまい。木花咲耶姫の弥生尽日(花じまい)なら木下闇だとしゃれている。安産の神様よりも糸遊の方に結びつきたがる風情の「煙」の句と合せて読むと、新しい社の前でいささか出鼻をくじかれた俳諧師の春の限が、なかなか面白く現れる。この祭神とこの日に限って「木下闇」という季語をとくべつに許したくなる句だろう。とはいうものの、これを室の八島の段にしるすほど、大胆には流石(さすが)なれなかったか。上・下句をそのまま、中七文字に出闇の工夫をほどこして、このあとの日光の段に移している。つれて「糸遊(煙)」の句は紀行から捨てられた。書留の残三句は室の八島ではないということもあったろうが、先に惜春に寄せた留別吟(「行春や」)がある以上、重出になる。

 結局、室の八島に筆を尽すことなど、どこから考えても無理があったようだ。「同行曾良が曰」の内容は「…謂也」までと読むべきだろうが、以下の記述も含めてこの段には芭蕉自身の興はまったくしるされていない。『ほそ道』中、異例のことである。

   《引用終了》

と述べている。私は先の「室の八島」の最後で、そ『の段自体、「奥の細道」の最初の訪問地であるにも拘わらず発句を示しておらず、まただからこそこの中途半端な博物学的俳文も、作中、極めて例外的に、著しく精彩を欠いているように私には見える』と批判したことに些か内心忸怩たるものを感じていたが、この安東の評を読んで少し安心した。

 初案の「木の下闇」では木蔭の闇にさえも神君家康公の恩沢が余すところなく射し入ってあるという寓意があからさまであったものが、決定稿ではその理窟が字背に後退し、鮮やかな緑にハレーションする陽射しという自然の美が美事に浮き出て来て、まことに美しく、しかも素直な神々しさへの感慨が心地よい(但し、あくまで「自然」に対してであって、「日光東照宮」という建物に対してではない。後述)。

 以下、「奥の細道」の「日光」の段を手前で宿した(虚構。後述)仏五左衛門の章から「裏見の瀧」の手前までを示しておく。

   *

卅日日光山の麓に泊るあるしの

云けるやう我名を佛五左衞門と云

萬正直を旨とする故に人かくは

申侍まゝ一夜の草の枕も打と

けて休み給へと云いかなる佛の

濁世塵土に示現してかゝる

桑門の乞食順礼こときの人を

たすけ給ふにやとあるぢのな

す事に心をとゝめて見るに唯

無智無分別にして正直偏固

のもの也剛毅木納の仁にちか

きたくひ痴愚の淸質尤尊

ふへし

卯月朔日御山に詣拜す往昔此

御山を二荒山と書しを空海

大師開記の時日光と改たまふ

千歳未來をさとり給ふにや今此

御光一天にかゝやきて恩澤八荒に

あふれ四民安堵の栖穩也猶

憚多くて筆を指置ぬ

 あなたふと靑葉若葉の日の光

黑髪山は霞かゝりて雪いまた

白し

  剃捨て黑髪山に衣更  曽良

同行曽良は河合氏にして惣五郎

と云芭蕉の下葉に軒をならへて予か

薪水の労をたすく此たひ松嶋

象泻の眺共にせむ事をよろ

こひ且は羈旅の難をいたはり旅

立暁髮を剃て墨染にさまをか

へて惣五を改て宗悟とす仍て

黑髮山の句有衣更の二字力有て

きこゆ

   *

■異同

(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文で、一部に歴史的仮名遣で読みを附した)

〇順礼            → ●巡礼

〇朴納            → ●朴訥

〇智愚            → ●氣稟(きひん)

〇あなたふと靑葉若葉の日の光 → ●あらたふと靑葉若葉の日の光

〇同行曾良          → ●曽良

〇と云            → ●といへり

〇いたはり          → ●いたはらんと

〇さまをかへて        → ●さまをかへ

 

■やぶちゃんの呟き

「卅日」は虚構。元禄二(一六八九)年三月は小の月で二十九日で終わりで、「卅日」はなかった。但し、これについては頴原・尾形の角川文庫の評釈に、『実際は二十九日であっても「卅日」の字を宛てた例は他にもある』とあり、この日附自体は大きなフィクションとは言えない。しかし問題は他にある。事実は彼らがこの「佛五左衞門」なる人物の宿に泊まったのは曾良の随行日記によって四月一日の夜で、しかも実はそれはその後に書かれている日光参拝と同日であり、芭蕉は時系列を恣意的に入れ替えているのである。

 私は若い時からずっと、この「佛五左衞門」の章が気になっていた。頴原・尾形(その他の諸家も)は角川文庫の評釈で、

   《引用開始》

 その前夜の記事の中で、「いかなる仏の濁世塵土に示現して」といっているのは、仏五左衛門の名に興じ、かれを前ジテの里人、自身を諸国一見のワキ僧に比した、夢幻能の擬態にもとづく〝俳諧〟にほかならない。

 「ただ無智無分別にして」云々(うんぬん)という文言の中にも、後ジテの仏の示現への期待が破れ、一介の愚直ないなか者を見いだした失望軽侮の微苦笑と、その世間智に汚れぬ一徹な正直さをたたえる愛情とが、表裏二様に複雑にからみあった形で含まれ、隠微な笑いをかもしている。

 仏の示現を期待した能のワキ僧の姿勢は、右の諧謔(かいぎゃく)のスタイルより謹直のスタイルへと筆づかいを改めた東照宮参詣の条にまで響いていって、「あらたふと」という神威賛仰(さんごう)の声調に結晶する。日光山は皇家鎮護・国土安寧を祈願して開かれた山で、東照権現は江戸時代人にとって、天照大神に次ぐ絶対神格だった。

   《引用終了》

と述べている。複式夢幻のパロディというのは、それはそれで面白い。恣意的に時系列を転倒させたのも、確かにそれを狙ったものに違いない。違いないが、それにしても、かの「神」君家康公を祀る日光の前に『佛五左衞門』『濁世塵土』『桑門の乞食巡礼』『唯だ無智無分別』『偏固』『朴訥』『痴愚』という強烈な表現の羅列はどうか? それ以上に私は素直に納得は出来ないことがあるのである。それはまさに、『猶ほ憚り多くて筆を指し置きぬ』と芭蕉が記すところに、である。もしも諸家が評するように「佛五左衞門」のエピソードが、その後の日光山の神威への夢幻能を洒落た対称的呼び水として機能しているのであるのならば、この、「これ以上は、とてものことに、神威、これ、畏れ多御座るによって筆を措く」なんどと如何にもな弁解を述べ添えた上に、かの名吟を、はたして芭蕉が配するであろうか? という素朴な疑問なのである。どうも私はこの『憚り多くて』という語が好きではないのである。芭蕉にして、ここにその語を使わざるを得ない、何か、内的なアンビバレントな感懐が潜んでいるように思われてならなかったのである。

 今回、このプロジェクトで、永年、積ん読(どく)で放置した数多の芭蕉関連書を、今更ながら斜め読みする機会を得たが、その中の一冊に、まさにこの私の積年の疑問を氷解させて呉れる(納得させて呉れる)ものを見出した。山本※(「亻」+「胥」。さとし)「奥の細道事典」(講談社一九九四年刊)の第二章「未知との出会い」の『「筆をさし置ぬ」の真意』一節であった。非常に長くなるが、私にとって眼から鱗の論なればお許し戴きたく思う。山本氏はまず、先に示した日附の問題を確信犯の虚構と検証した上で、

   《引用開始》

[やぶちゃん注:前略。]『奥の細道』をかなりあとでしたためたとはいえ、芭蕉の思い違いとはどうしても考えられない。さらに、ある種の感動をもって東照宮に接し、その晩五左衛門の家に泊まっているのに、五左衛門宅に泊まった翌日、東照宮に参拝した、と勘違いするはずはない。それにもかかわらず、虚構の三十日をつくり上げ、『奥の細道』全体の構想からすると、とくに必要とは思えない仏五左衛門の話にかなりの量の筆を残したということに意味がある。

 芭蕉が日光を訪ねたのは、紹介状をたずさえたことからしても、前もって日程に組み込んであったはずである。それにもかかわらず、日光についての記載は、空海(くうかい)大師(実は天平神護二年、勝道上人の開基)が名づけた地名の由来の後、「猶博多くて筆をさし置ぬ」と、直接の描写は一言ももらしていない。芭蕉は俳諧を業とする。目や心に映った事象を言葉に託し、他人に訴えるのが職業と解してよい。『奥の細道』をまとめたのも、自分の体験を通して得たものを、人々に知らせたかったからに他ならない。その芭蕉が、「筆をさし置ぬ」と書くのは、「自己否定」にもなりかねない。その危険をあえておかしてまでこう書き残したのは、それを通して、自分の日光に対する気持ちを、読者に読み取ってもらいたかったからに違いない。

「猶憚多くして」という表現は、対象物を悪(あ)しざまに言いたい気持ちを伏せるときに用いることが多い。「今此御光(みひかり)、天にかゝやき」と芭蕉がいう「御光」をおおかたの解説書は東照権現(とうしょうごんげん)の威光と説明している。私もこれまでそう信じていた。ところが再三読み返すうちに、すぐ前にあげている、「日光と改給(あらためたま)ふ」た空海ととるのがもっとも妥当である、と考えるようになった。この「御光」を東照権現とする根拠は、「卯月朔日(うづきついたち)、御山に詣拝す」と書きはじめた「御山」を、東照宮と解するからである。ところが芭蕉は、「むかし御山を二荒(ふたら)山と書いていたが、空海大師開基のときに日光と改めた」と述べている。だから芭蕉が詣拝した御山は、東照宮ではなく、「日光」そのものの自然だった、と読み取れる。

 日光東照宮は、日本人の感覚からすると、異例としかいいようがないほど華美にかざりたてた社である。こういう造作は、どう考えても芭蕉好みとは思えない。

 さらに、仏五左衛門について「気稟(きひん)の清質尤尊ぶべし」と述べた直後、日光の記載に移ったのが気にかかる。「気実の清質」とはうらはらの気持ちを東照宮に対していだいた、と言いたかったのである。そうすれば、わざわざ虚構の期日を付してまで記した仏五左衛門の話を、ここに取り上げた理由ものみ込める。「筆をさし置ぬ」と空白にした、真の東照宮像を読者に伝えるため、と考えてもおかしくない。俳詔は、短い言葉に万感をこめて表現するので、あいまいさが残るものである。」

 

    (ふ)

  あらたうと青葉若葉の日の光

 

 この句は室(むろ)ノ八嶋(やしま)で詠(よ)んだ「あらたふと木の下暗も日の光」を、『奥の細道』執筆のとき手直しした、ということは前に述べた。木の葉越しに、日の光が糸のように降りそそぐ室ノ八嶋は、この句にぴったりのところといえる。この句の「日の光」は、やはり太陽の光でなくてはいけない。自然の光と解釈したほうがわかりよい。木もれ陽(び)を詠んだ句を、わざわざここに持ってきた理由は、「猶憚多くて筆をさし置ぬ」の気持ちの延長線上にあるのではなかろうか。「日の光」を「東照権現」とするのは誤りで、自然をそこなう権力の象徴としか思えない東照宮の日光にも、仏五左衛門のような「日の光」もいる、というように解釈することもできる。いかさま芸術を照らし出す自然の光、と解釈してもよい。

 それにしても、日光描写の前後に、わざわざ仏(ほとけ)と墨染(すみぞめ)という仏教に関係ある人間像をはさんだのも、わけがありそうである。神の名を借りた虚構の偶像を、無智無分別(むちむふんべつ)かもしれないが、清質の人間像ではさみ打ちしたつもりかもしれない。

 もしそうだとすれば、芭蕉はしたたかな反権力主義者とも思えてくる。日光東照宮を通りいっぺんの造型物と見たのではなく、権力の象徴ととらえたのだろう。だから、配される側の代表として、仏五左衛門をすぐ前に演出した。すると、「唯無智無分別」という、ふつうなら悪(あ)しぎまにいう文字の重みがずっしりと響いてくる。さらに、「濁世塵土(ぢよくせじんど)」「正直偏固(へんこ)」「剛毅朴訥(がうきぼくとつ)」と、権力への対抗語が、これでもか、これでもかと言わんばかりに並んでいる。空海大師の「千歳未来をさとり給ふにや」というくだりも、こういう事態を見越しての言葉で、芭蕉自身の主観が少なからず含まれている。

 芭蕉が、故郷の上野(うえの)(三重県)を後に江戸へ出てきた当時、江戸幕府は町づくりの最中だった。芭蕉は水道工事などに従事しながら糊口(ここう)をしのいでいる。苦学しながら、どうにか俳諧を身のよすぎにできた人間だから、今様にいうと、れっきとした労働詩人である。

 よきにつけ、悪(あ)しきにつけ、徳川幕府が後世に残した唯一の遺産は、東照宮だといわれる。しかし私は、この杉並木をおいてないと考えている。芭蕉が辿(たど)ったころは、まだ樹齢三十~五十年くらいで、歴史の重みは感じられなかっただろうが、現在、樹齢約三百四十年の巨大な杉が三七キロメートルにわたり一万五〇〇〇本を数える。もし、芭蕉が現在これを見たとすれば、日光についての感興も異なったのではないか。東照宮をしのぐ建築物なら、他に数多いが、これだけの並木道は世界中どこをさがしてもないし、いくら近代文明を駆使しようが、今後つくることは不可能に近い。

 日光に着いた芭蕉は、まず、江戸から持参した江北山清水(こうほくざんせいすい)寺からの紹介状をもって、養源院を訪ねた。清水寺と深い関係にあった養源(ようげん)院は、水戸頼房(よりふさ)の養母の妹おろくの冥福(めいふく)を祈って建てられた寺院で、日光山の衆徒でもあった。寺そのものは現存しないが、東照宮社務所の裏手を登ったところに、その跡が見られる。

 芭蕉は、養源院の使僧とともに御別所を訪ね、東照宮拝観を願い出た。どうやら日光を訪ねたのは、東照宮拝観が目的で、そのためにわざわざ江戸からの紹介状も準備した。ところが先客があったため、かなりの時間待たされた末、ようやく東照宮を拝観したが、それについて芭蕉は口をとざして語らない。その夜は上鉢石(かみはついし)町の五左衛門方に泊まった。『曾良日記』には、その個所に「壱五弐四」と書き込んであるが、おそらく宿賃なのだろう。仏五左衛門は、誇張があるにしろ、芭蕉にとって感じのよい人物だったようだ。芭蕉は、快晴の翌日、さっさと裏見(うらみ)ノ滝を見物に出かけた。

 

 廿余丁(にじゆうよてふ)山を登つて滝有(あり)。岩洞(がんとう)の頂(いただき)より飛流して百尺(はくせき)、千岩の碧潭(へきたん)に落(おち)たり。岩窟(がんくつ)に身をひそめ入て、滝の裏よりみれば、うらみの滝と申伝(まうしつた)え侍(はべ)る也(なり)。

  暫時(しばらく)は滝(たき)に籠(こも)るや夏(げ)の初(はじめ)

 

 滝の多い日光のうちでも、裏見(うらみ)ノ滝は、華厳(けごん)、霧降(きりふり)とともに日光三名瀑(さんめいばく)と呼ばれてきた。流れをまたいで降り、そそぐ滝の裏手へ近づけるので、裏見ノ滝と名づけられた。明治三十五(一九〇二)年の大風で、滝の上部がくずれたが、芭蕉の訪れたころはいまよりかなり迫力のある滝だったはずである。芭蕉は、「暫時(しばらく)は滝に籠るや夏の初」と涼しげな句を残しているが、「碧潭(へきたん)」と書き留めた流れの青さが目にしみるようだった。

 芭蕉は、裏見ノ滝で日光の自然を代表させているが、『曾良日記』によると、そのあと含満ケ淵(がんまんがふち)を訪ねている。岩や岸を嚙(か)む急流である。「弘法(こうぽう)の投筆」と呼ばれる絶壁にきざまれた梵字(ぼんじ)は、ここを開いて寺を建てた晃海(こうかい)が、修学院山順の書した「憾満(かんまん)」の字をきざませたもので、コウカイがクウカイに転じたものと思われる。芭蕉よりいくらか前の時代の話で、芭蕉が日光を訪れたころ、この含満ケ淵は人のうわさに上るようになっていた。

 あたりには、晃海の弟子がきざんだ地蔵が列をつくるが、いくら数えても、そのたび

ごとに数が異なることから、化け地蔵とも呼ばれる。

   《引用終了》

――まさにこれである! 私は山本氏の主張に激しく賛同する。それ以外にはない。この見解のみが、永年の間、私の心に巣食っていたどうしようもないと思っていた曇りを鮮やかに払拭して呉れるものだからである! どうか、氏の著作をお読み戴きたい。実際に「奥の細道」を踏破された方にのみ見えてくる、とても素晴らしい作品である。]



本記事はシンクロの当日の予約公開を数件登録した際に、登録したと思いこんでいて、その直後に
義父の突然の逝去の混乱があって名古屋に旅立ち、それから10日後も経った今日(5月29日)になって脱漏していたことに気付いた。それでもこの記事は僕にとっての今回の「奥の細道」再読の最初の驚くべき発見でもあるため、シンクロさせないと標題にも反し、何より僕自身が癪なので公開日時は「5月19日00:00」とした。特に先般、楽しみに読んでいますとメールを下さった未知の方には心よりお詫び申し上げねばならない。向後ともよろしくお願い致します。【2014年5月29日記】

2014/05/18

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅2 室の八島 糸遊に結びつきたる煙哉   芭蕉

本日二〇一四年五月 十八日(陰暦では二〇一四年四月二十日)
   元禄二年三月二十九日
はグレゴリオ暦では
  一六八九年五月 十八日
である。「奥の細道」の旅ではこの日、室の屋島へ辿りついている。 

 

 室八島(むろのやしま)

糸遊(いとゆふ)に結(むすび)つきたる煙哉 

 

入(いり)かゝる糸ゆふの名殘かな 

 

入かゝる日も程々に春のくれ 

 

鐘つかぬ里は何をか春の暮 

 

入逢(いりあひ)の鐘もきこえず春の暮 

 

[やぶちゃん注:第一句目は曾良自筆の「随行日記」中の「俳諧書留」の句(なお、そこには三月二十九日という日附が附されてある。最終推敲形としての本句の成立が十一日後のことであったことを指すか。因みに三月二十九日には芭蕉は日光の手前の鹿沼に着いている)。第二句目は同じく「随行日記」中の「俳諧書留」の句で、この句を見せ消ちにして第三句目が改稿として示されてある。第四句及び第五句も同じく「随行日記」中の「俳諧書留」の句で、第五句には真蹟懐紙があり、そこには、

 田家にはるのくれをわぶ

という前書があるという。句の底本としている中村俊定校注の岩波文庫版「芭蕉俳句集」では第四句目の脚注に、前の「入かゝる」の句の別案かとしており、私もこれら第二句以降の四句総てを第一句目の初期稿と見、ここに並べた。但し、安東次男は「古典を読む おくのほそ道」ではこの第二句以降の四句を総て次の鹿沼までの途中吟と断じている。

 「室八島」は栃木県栃木市惣社町にある大神神社(おおみわじんじゃ)で、名の由来は境内にある池の八つの島を指すということになっているが、これはこじつけっぽい(後述)。

 「糸遊」は陽炎(かげろう)のこと。語源は未詳で歴史的仮名遣を「いとゆふ」とするのは平安時代以来の慣用であってその正当か否かは不明である。「糸遊」という漢字表記も、はもともとあった陽炎を意味する和語としての「いとゆふ」若しくは「いとゆう」に、「陽炎」の意の漢語である「遊糸(ゆうし)」という熟語を転倒させて当て字にした表記に過ぎない。晩秋の晴天の日、蜘蛛の子が糸を吐きながら空中を飛び、その糸が光に輝いてゆらゆらとゆれて見える現象が原義であって、漢詩に出る漢語の「遊糸」もそれを指すという、と「大辞泉」にはあるが、語の成立史を見る限りでは私は必ずしも肯んずることが出来ない。

 第一句や第二句の心象は、

……古人は多く歌枕として詠む際、水気の「煙」とともに「室の八島に立つ煙」と詠じたものだが、いまその実景に接してみると、その煙は、今まさに、暮れゆく春の野に燃える陽炎と縺れ合っては、天に立ち昇って、消え行かんとしているかのように見える……

というニュアンスであろう。この「煙」というのが分かり難いが、安東次男の「古典を読む おくのほそ道」の「室の八島に話す。同行曾良が曰」の注に、
   《引用開始》
下野(しもつけ)国の歌枕。栃木市惣社にある大神(おおみわ)神社。「いかでかは思ひありとも知らすべき室の八島の煙ならでは」(詞花集・恋、藤原実方)を初見として、勅撰集が二十二首。かなり通俗な名所である。社前の八島ノ池に立つ水雲を釜(やしま)の煙に豊て、コノハナサクヤビメ伝説に付会したものらしいが、芭蕉たちが尋ねたときの社殿は天和二年(七年前)の再建で(天正十二年に戦火で全焼している)、池の面影なども無かったようだ。
 曾良がこの旅に用意した手控(てびかえ)に、「煙カト室ノヤシマヲ見シホドニヤガテモ空ノカスミヌルカナ」「五月雨ニ室ノヤシマヲ見渡セバ煙ハ波ノ上ヨリゾタツ」の二首(共に千載集)を書抜き、脇に「名ノミ也ケリトモ、跡モナキトモ」と注記がある。「人を思ふおもひを何にたとへまし室の八島も名のみなりけり」(続後拾遺集)「跡もなき室の八島の夕けぶり靡くと見しや迷なるらむ」(新拾遺集)後からの書入でなければ、景勝には初からあまり期待を寄せていなかったか。
 それにしても旅の最初の歌枕で、俳譜師が句の一つもしるさず、予め知っていたか、もしくは行けば自(おの)ずと知れた程度の縁起ばなしを、わざわざ他人の口から語らせて責塞(せめふさぎ)とした書きぶりは気になる。とりあえず同行(どうぎょう)の人柄の一端を見せて楽みは後日にとっておく紹介の手には違ないが、句を詠む興がなかったわけではない。[やぶちゃん注:後略。]
   《引用終了》
として、この後の二句を示しているのが、十分条件を満たす注とは言える。それでも何故、室の八島と「煙」がペアになるかは、今一つ判然としない憾みがあるから、水垣久氏のサイト「やまとうた」の「歌枕紀行 室の八島」から引用しておく。「室の八島」というのは『歌枕の本などをみると、もともと下野国とは何の関係もなく、宮中大炊(おおい)寮(づかさ)の竃(かまど)のことを言ったらしい。「むろのやしまとは、竃をいふなり。かまをぬりこめたるを室といふ。(中略)釜をばやしまといふなり」(色葉和難集)。つまり、竃=塗り込めた釜、を宮中の隠語(?)で「室の八島」と謂い、これがいつしか下野の国の八島に付会された、ということである。そうして、この辺りを流れる清水から発する蒸気が「室の八島のけぶり」と見なされた。これを、恋に身を燃やす「けぶり」に喩えて、多くの歌が詠まれたのである』とある。しかし「清水から発する蒸気」なんて当たり前には想起出来ない。さればこの「煙」も、そしてまた芭蕉の句の陽炎と絡む「煙」も、想像上の「煙り」と採った方が無難である。また、以下に掲げた「奥の細道」の同段の記載もその淵源を匂わせてくれている。即ち、大神神社の主祭神は大物主命であるが、配祭神が木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)であり、彼女についてはウィキの「コノハナノサクヤビメ」によれば、『日向に降臨した天照大神の孫・ニニギノミコトと、笠沙の岬(宮崎県・鹿児島県内に伝説地)で出逢い求婚される。父のオオヤマツミはそれを喜んで、姉のイワナガヒメと共に差し出したが、ニニギノミコトは醜いイワナガヒメを送り返し、美しいコノハナノサクヤビメとだけ結婚した。オオヤマツミはこれを怒り「私が娘二人を一緒に差し上げたのはイワナガヒメを妻にすれば天津神の御子(ニニギノミコト)の命は岩のように永遠のものとなり、コノハナノサクヤビメを妻にすれば木の花が咲くように繁栄するだろうと誓約を立てたからである。コノハナノサクヤビメだけと結婚すれば、天津神の御子の命は木の花のようにはかなくなるだろう」と告げた。それでその子孫の天皇の寿命も神々ほどは長くないのである』とし、『コノハナノサクヤビメは一夜で身篭るが、ニニギは国津神の子ではないかと疑った。疑いを晴らすため、誓約をして産屋に入り、「天津神であるニニギの本当の子なら何があっても無事に産めるはず」と、産屋に火を放ってその中でホデリ(もしくはホアカリ)・ホスセリ・ホオリ(山幸彦、山稜は宮崎市村角町の高屋神社)の三柱の子を産』み、その『ホオリの孫が初代天皇の神武天皇である』とあること、またよく知られるように永遠に煙を登らせ続ける富士山の本宮浅間大社は彼女を主祭神としているから、まさに火煙(ひけむり)とは縁が深いからである。

 第三句・第四句の「春の暮」は入相の鐘の鳴るはずの日暮れである以上に行く春、暮春を意味し、しみじみとした入相の鐘、それを撞かぬ里、それが聴こえぬこの鄙にあって、一体、何を惜春のよすがとすればよいのか、というのであるが、やや陳腐で底が浅い印象は免れない。因みに山本健吉は、「芭蕉全句」で、この二句は「新古今和歌集」の能因法師の和歌、

 山里の春のゆふぐれ來てみれば入相の鐘に花ぞ散りける

を踏まえるという説があると紹介、『意識にはあったであろう』と述べている。

 にしても、第一句・第二句は古歌歌枕に付会させたものの、実景が今一つ見えてこず、句としてのドゥエンデも私には全く感じられない。安東氏や角川文庫版の頴原・尾形氏の評釈にある通り、日光への道程をわざわざ三里(約十一・八キロメートル)も遠回りして折角訪れた歌枕であったが、その実際の景観は残念ながら芭蕉が想像していたものとは大きく異なり、期待は美事に裏切られてしまったというのが真相であったように思われる。既にお分かりのことと思うが、芭蕉はこの句を「奥の細道」には採っていない。既に前の「行く春や」の句で惜春の情を詠じた芭蕉にしてみれば、句格も下がる季重ねは不要と判断したものではあろう。

 以下、「奥の細道」の「室の屋島」の段を見ておこう。 

   *

室の八嶋に詣ス曽良か曰此神は

木の花さくや姫の神と申て冨士一

躰也無戸(ウツ)室に入て燒たまふ

ちかひのみ中に火火出見のみこと

うまれ給ひしより室の八嶋と申又煙を

讀習し侍るもこの謂也將このしろと云魚を禁す

緣記の旨世に伝ふ事も侍し

   *

■異同
(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文で、一部に歴史的仮名遣で読みを附した)

〇曽良 → ●同行(どうぎやう)曾良

■やぶちゃんの呟き

「將このしろと云魚を禁す」「はた、このしろといふうをきんず」と読む。「將」は、また。「このしろ」は条鰭綱新鰭亜綱ニシン上目ニシン目ニシン亜目ニシン科ドロクイ亜科コノシロ Konosirus punctatus。寿司でお馴染みのコハダの成魚である。ここに示された本種の食の禁忌について、私は既に寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚」の「鰶(つなし)」(コノシロ Konosirus punctatus )の項で詳述注をものしているので参照されたい(ここに引用するにはあまりに膨大なので省略するが、この「室の八島」のことにも言及しているので是非ともお読み戴きたい)。また、安永七(一七七八)年に刊行された高橋蓑笠庵梨一の「奥の細道」注釈書である「奥細道菅菰抄(おくのほそみちすがごもしょう)」には以下のような「このしろ伝説」が記されてある(「おくのほそ道総合データベース 俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡」の「大神神社(室の八島)について」に引用されてあるものを参考に恣意的に正字化した)。

   *

むかし此處に住けるもの、いつくしき娘をもてりけり。國の守これを聞給ひて、此むすめを召に、娘いなみて行ず。父はゝも亦たゞひとりの子なりけるゆへに奉る事をねがはず。とかくするうちに、めしの使數重なり、國の守の怒つよきときこえければ、せむかたなくて、娘は死たりといつはり、鱸魚(ろぎよ)を多く棺に入て、これを燒きぬ。鱸魚を燒く香は、人を燒に似たるゆへなり。それよりして此うをゝ、このしろと名付侍るとぞ。歌に、あづま路のむろの八島にたつけぶりたが子のしろにつなじやくらん。此事十訓抄にか見え侍ると覺ゆ。このしろは、子の代にて、子のかはりと云事也。此魚上つかたにては、つなじと云。

   *

なお、文中の「鱸魚」は条鰭綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目スズキ科スズキ Lateolabrax japonicus で全く種が異なり、生物学的には誤った記述である。また、寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚」の「鰶(つなし)」でも述べたが、ここに出るのと同じような各地の伝説に於いてコノシロを焼くと人を焼く臭いがするとするが、全くの誤りである。これは秦の始皇帝の故事を起源とし、始皇帝が真夏の巡行先で死去するも、権力奪取を画策した宰相李斯(りし)と宦官趙高がそれを秘匿、龍馭の中で腐りゆく始皇帝の遺骸の死臭を誤魔化すために大量の魚を積んだ車を並走させたが、その際に一説にコノシロが用いられたとする、それに基づいた誤伝承である。コノシロ(子の代)と祀るコノハナノサクヤビメの伝説及び「コノ」の類音による共感呪術的禁忌のように私には思われる。

 この「奥の細道」の「室の八島」の段は句もなく、特に芭蕉の感懐も記されていないのであるが、ここはまさに「同行」と後から添える、本旅の道連れである門弟河合曾良を紹介し、その碩学ぶりを称揚するためのものであったのだと考えてよい(角川文庫版の頴原・尾形両氏の評釈にもそうある)。曽良は、慶安二(一六四九)年に信濃上諏訪生まれで、芭蕉より五歳年下で元禄二(一六八九)年当時は四十歳)二十の頃に伊勢長島に赴き、岩波庄右衛門のと名乗って藩主松平良尚に仕え、その後、伊勢長島藩を出て江戸移り、神主となるため、後に幕府神道方となる吉川惟足(きっかわこれたる)に就いて学び、広汎な国学の知識や各地方の地誌を身につけていたのであった。

 ともかくもこの「室の八島」の段自体、「奥の細道」の最初の訪問地であるにも拘わらず発句を示しておらず、まただからこそこの中途半端な博物学的俳文も、作中、極めて例外的に、著しく精彩を欠いているように私には見えるということを最後に述べおく。]

2014/05/16

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅1 行くはるや鳥啼きうをの目は泪   芭蕉

本日二〇一四年五月 十六日(陰暦では二〇一四年四月十八日)

   元禄二年三月二十七日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年五月 十六日

である。三百二十五年前のこの日、芭蕉は「奥の細道」の旅に旅立ったのである。

 

  千じゆといふところにて舟をあがれば、

  前途三千里のおもひ、むねにふさがりて、

  幻のちまたに離別のなみだをそゝく

行(ゆく)はるや鳥啼(なき)うをの目は泪(なみだ)

 

行春や鳥啼魚の目は泪

 

行くはるや鳥は啼うをの目は泪

 

  常陸下向(ひたいちげかう)に江戸を

  出(いづ)る時、送りの人に

鮎の子の白魚送る別(わかれ)かな

 

[やぶちゃん注:第一句目は「鳥之道集」(玄梅編・元禄一〇(一六九七)年序)で「奥の細道」「泊船」と相同句形。第二句目は後掲する自筆本「奥の細道」の表記。第三句目は永機本「奥の細道」の句形である。

 第四句目は「俳諧 伊達衣」(等躬編・元禄十二年自序)に載る句で、この句は「続猿蓑」「泊船」では、

  留別

と前書し、また「赤冊子草稿」(土芳自筆・宝永五(一七〇八)、六年頃)には、

 此句松嶋旅立の比送りける人に云出侍れども、位あしく仕かえ侍ると、直に聞えし句也

と記す(位あしく仕かえ」は、品格が悪くて旅立ちの発句としては釣り合わず差し支えがある、といった謂いであろう)であり、現在、芭蕉は「旅立ち」の句として作句したこの発句を捨てて、「行はるや」の句に仕立て直したものと考えられている。即ち、知られた「行はるや」の推敲上の原型句と考えてよいものである。

 

 高校生になってすっかり漢詩に入れ込んでしまっていた私は、古文でいざ初めて「奥の細道」のこの句に出逢った際にも――これは陶淵明の「歸田園居」(田園の居に歸る)五首の「其一」の「羈鳥戀舊林 池魚思故淵」(羈鳥 舊林を戀ひ / 池魚 故淵を思ふ)や、杜甫の「春望」の頷聯「感時花濺涙 恨別鳥驚心」(時に感じては花にも涙を濺ぎ / 別れを恨んでは鳥にも心を驚かす)の、如何にも出来の悪いインスパイアじゃあないか――ぐらいにしか感じなかったことを思い出す。その頃の私には、どこか滑稽を確信犯とする俳味というものに対して強い反発感があって、それは素朴でしみじみとした感懐をことさらに歪曲したものに過ぎず、おぞましいインポテンツに陥った老醜の猟奇的変態性欲だといったトンデモない印象をさえ持っていたように思われるのである。既に中学二年生で自由律の尾崎放哉に傾倒して『層雲』にも入って、愚にもつかぬ呟きみたようなものを俳句などと思い込んで作っては一人悦に入っていたのだが、それ故にこそ芭蕉を、伝統定型俳句の淵源に厳然として屹立する権化元凶みたようなものとでも錯覚していたのかも知れない(なお、当時、私が典拠と感じたものは今栄蔵氏の「新潮日本古典集成 芭蕉句集」(昭和五七(一九八二)年の本句の注でも発想の典拠として全く同じ二種が掲げられてあって、それを後に知ってちょっと嬉しかった記憶がある)。今はどうかと問われれば、例によって鬼才安東次男が「同時代ライブラリー 古典を読む おくのほそ道」で解析したように、既に本文で「上野谷中の花の梢」に「花」を示した上は花鳥の取り合わせを避けて、しかも『魚が泣いたというところまで言葉が走』らせられれば、流石に事大主義的な今生の別れという『心の詰りが急にほぐ』されて小気味よい(これは私が既に芭蕉の享年を七つも越してしまった老いの心境にあればこそ留別のあからさまな交感の感懐を嫌うようになったということでもあろう)。特に安東の『「も」ではなく「は」と遣ったところに、句走りと留別の』しみじみと微妙に抑制したところの『留別の俳諧がある』と――今は素直に――感じている。また、安東が指摘するように、「春望」のこの頷聯が古くは「花」「鳥」を主語として読んでいた(これは高校時代の恩師蟹谷先生から授業で教わったのを覚えている。だからこそインスパイアと読めたのである)こと、謡曲「俊寛」にも、

   *

時を感じては。花も涙をそゝぎ。別を恨みては。鳥も心を動かせり。もとよりも此島は。鬼界が島と聞くなれ鬼界が島と聞くなれば。鬼ある処にて今生よりの冥途なり。たとひ如何なる鬼なりと此あはれなどか知らざらん。天地を動かし鬼神も感をなすなるも人のあはれなるものを。此島の鳥獸も鳴くは我をとふやらん。

   *

と『裁入れているから、芭蕉もそう呼んだかもしれぬ』とされるのも大いに腑に落ちるのであった。

 なお、私は「春望」が安禄山の乱をテーマとし、この「奥の細道」のコーダが「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」であることについて、ある一つの仮説を持っている。それは「奥の細道」が一方で白居易の「長恨歌」の構成に見立てられているのではあるまいかという漠然とした推理なのだが、未だ細部の検証に至っていない。それはそれ、孰れまた。……

 最後に初案・原形句である「鮎の子の白魚送る別(わかれ)かな」について述べておくと、今栄蔵氏は前掲書で、『「鮎の子」は旧暦三月ごろ海から産卵のために遡る若鮎。「白魚」はそれより早い二~三月ごろ産卵のために遡る白魚の成魚で、芭蕉自身の老いの姿をなぞらえた謙辞』と注しておられる。

 白魚=シラウオは条鰭綱新鰭亜綱原棘鰭上目キュウリウオ目シラウオ科 Salangidae に分類される魚の総称で、狭義にはその中の一種 Salangichthys microdon の和名。時にスズキ目ハゼ亜目ハゼ科ゴビオネルス亜科シロウオ Leucopsarion petersii と混同されるので注意が必要(シロウオは正しくは漢字表記で「素魚」と表記し、シラウオ「白魚」とは区別されるが素人は文字通り、素も白もいっしょくたにしてしまう)。孰れも死ぬと白く濁った体色になって見分けがつきにくくなるが、生体の場合はシロウオ Leucopsarion petersii の方には体にわずかに黒い色素細胞があり、幾分、薄い黄味がかかる。主に参照したウィキのシラウオ」の記載と、シロウオ漁で知られる和歌山県湯浅市公式サイトのこちらのページが分かり易い。その図を見ても判然とするように、シラウオの口は尖っていて、体型が楔形をしていて鋭角的な印象であるのに対し、シロウオやそれに比較して全体が丸味を帯びること、シラウオの浮き袋や内臓がシロウオの内臓ほどにははっきりとは見えないこと、また形態的な大きな違いとして、シラウオには背鰭の後ろに脂びれ(背鰭の後ろにある小さな丸い鰭。この存在によってシラウオガアユ・シシャモ・ワカサギ(総てキュウリウオ目 Osmeriformes)などと近縁であることが分かる)があることが挙げられる。

 ともかくも、如何にも拙劣な比喩表現で、実質上の覚悟の旅立ちの句としては芭蕉が言うように「位あしく仕かえ」たる句で、これはまさに芭蕉が「奥の細道」のためにはどうしても存在自体を捨てねばならなかった忌まわしい句という気さえしてくる。凡そ私も個人的には見たくも知りたくもなかった句ではある。こうしたものさえも掘り起こされてしまうことはまさに詩人の不幸とも言うべきものであろう。

 以下、「奥の細道」の「旅立ち」の段を見ておこう(取り消し線は抹消を示す)。

 

弥生も末の七日元祿二とせにや

明ほのゝ空朧々として月は有

あけにて光おさまれる物から富

士の峯かすかに見えて上野谷

中の花の梢又いつかはと心ほそし

むつましきかきりは宵よりつとひて

舟に乗て送る千しゆと云處

にて舟をあかれば前途三

千里のおもひ胸にふさかりて

幻のちまたに離別の涙をそゝく

  行春や鳥啼魚の目は泪

これを矢立の初として行道

なをすゝます人々は途中に立

ならひて後かけの見ゆるまてはと

見送なるへし

此のたひ奥羽長途の行脚たゝ

かりそめにおもひたちて呉天に

白髮の恨を重ぬといへとも

耳にふれていまた目に見ぬ境

若生て歸らはと定なき賴

の末を樂て其日漸早加と

云宿にたとりて瘦骨

の肩にかゝれる物先くるしむ

唯身すからにと拵出立侍るを帋子

一衣は夜ル臥爲と云ゆかた雨

具墨筆のたくひあるはさ

りかたき花むけなとしたるは

さすかに打捨かたく日々路頭の

煩となれるこそわりなけれ

   *

 

■異同

(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文で、一部に歴史的仮名遣で読みを附した)

〇弥生も末の七日元祿二とせにや→ ●弥生も末の七日

〇此のたひ          → ●ことし元祿二年(ふたとせ)にや

〇定なき賴の末を樂て     → ●定めなき賴みの末をかけ

〇早加と云宿にたとりて    → ●草加といふ宿にたどり着きにけり。

〇唯身すからにと拵出立侍るを → ●ただ身すがらにと出で立ち侍るを

〇帋子一衣は夜ル臥爲と云   → ●紙子一衣(いちえ)は夜(よる)の防ぎ、

〇さすかに打捨かたく     → ●さすがにうち捨てがたくて

〇日々路頭の         → ●路次(ろし)の

 

■やぶちゃんの呟き

 現在の研究では、この「舟に乗て送る」の部分までは実は曾良は同行していない(このことはよく知られていることとは思われない)。「おくのほそ道 総合データベース 俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡」の「出立日についての論議」によれば(同サイトは非常に優れたものであるがリンクした場合の告知要請をしているので一切リンクしない。以下、この注は略す)、理由は不明ながら、曽良だけが先に三月二十日に深川を立って千住に一週間逗留して芭蕉を待ち、芭蕉は本文通りに同二十七日に杉風の別邸採荼庵を出立、千住で曾良と合流し、そこで同日中に初めて連れ立って旅立ったのであった。……一週間は如何にも怪しい。これは何だ?……]

2014/05/15

義父逝去

暫らく……

シンクロニティ「奥の細道」の旅 旅立の予告

前の記事の「こゝろ」じゃないが――明日より芭蕉が詠んだ「その日」――元禄2年当時の西暦1689年の今年の同月同日――にシンクロさせて開始する。それが季を大切にした芭蕉の当季の実景を体感するに最も相応しい仕儀であるという僕の思いに基づくもので、しかも「奥の細道」では捨てた句も含めて鑑賞してゆく。かなりの大仕事なのだが、覚悟を以って旅立つつもりである。――乞うご期待――

朝日新聞の「こゝろ」(「心」)の復刻掲載について

今日は「先生の遺書」(十九)――Kの「變死」が「靜」から「私」に告げられる大事なシーン――

だが……
僕は少々失望しているのだ。……
何故か?――

今回の再連載は当時の連載と同じと名打っているが、実は土日には掲載していないために、既にしてタイム・ラグが生じているからである。例えば今日のそれは、大正3(1914)年5月8日分であって、既ににして致命的に、一週間もの差が生じてしまっているのである。――

僕が2010年にこのブログで同じように連載を試みた時のその最大の核心は、当時の人々が「心」をアップ・トゥ・デイトに、どのような季節や時間やの中で読んだか、それこそが大切だと心得ていた。――
僕はそれを最後まで守った。――

しかし乍ら――一つ、素晴らしいことは――ある。――

それはデジタル版で夏目漱石「こころ」連載当時の掲載紙面全部を読むことが出来る点である(リンク先は「朝日新聞デジタル」の会員登録をしないと見ることは出来ないので注意されたい。無料登録も可能で僕もそれである)。

そこではまさに、記事や広告によって当時当日の世俗が体感出来るからである。今日の同紙面には「米國で低能移民に課する試件驗 人種改良學の影響」という驚くべき記事がすぐ脇に載っているのだ。

是非、ご覧あれ。

杉田久女句集 215―2 飯島みさ子より萩の花を贈らる

 

  みさ子樣の御文あり、萩の花を戴く

 

まどろむやさゝやく如き萩紫苑

 

[やぶちゃん注:「みさ子」『ホトトギス』の大正女流俳人飯島みさ子(明治三二(一八九九)年~大正一二(一九二三)年)と思われる。当時、二十一歳。大阪生まれ。生後間もなく罹患したポリオによって歩行困難となったが、十六歳頃より俳句を長谷川零余子に学ぶ。『ホトトギス』で虚子に認められたが、チフスにより二十五歳で死去した。翌年、句集「擬宝珠」が刊行されている(代表作である「熱の目に紫うすきぎぼしゆかな」に因むものであろう)。やはり久女の評論「大正女流俳句の近代的特色」から久女が引いているみさ子の句を以下に示す(底本その他は同前)。

 

  花びらに深く虫沈め冬のばら    みさ子

  秋蝶や漆黑うすれ檜葉にとぶ    みさ子

  いたゞきにぼやけし實やな枯芙蓉  みさ子

  大輪のあと莟なし冬のばら     みさ子

  櫻餠ふくみえくぼや話しあく    みさ子

  元ゆいかたき冬夜の髮に寢たりけり みさ子

  病み心地の母とよりそひ林檎むく  みさ子

  手にうけて盆提灯をたゝみけり   みさ子

  簪のみさしかえて髮や夜櫻に    みさ子

  春晝や出船のへりのうす埃     みさ子

  大池のまどかなる端や菖蒲の芽   みさ子

  春雷や夜半灯りて父母の聲     みさ子

  雨ふれば雨なつかしみ菊に縫ふ   みさ子

  菊人形ときけど外出の心なく    みさ子

  母に似し眉うれしけれ冬鏡     みさ子

  炭ついでいつかしみじみと語りけり みさ子

  木の芽雨母おうて傘まゐらせぬ   みさ子
 

この評論を認めた時、みさ子は既に白玉楼中の姫となっていた。同俳論の「三 境遇個性をよめる句」では、後半の句を挟みながら久女は『二十幾歳で早世したみさ子氏は、其性白萩の如く優雅純眞。足の固疾に對してもすこしの不平もなく、大正女流中唯一の年少處女俳人』とし、『花のさかりの年頃を引籠りがちに、只俳句を生命として暮し、ひたすら父母をたよる乙女心から父母をよめる句頗る多く』、『一生を父母の慈愛に生き、すなおな落付をもて、女らしいしとやかな佳句をのこしている』と綴っている。先の金子せん女とともに久女にとっては生涯忘れ難い同朋であったことがしみじみと窺われるのである。]

杉田久女句集 215 長谷川かな女、金子せん女、久女を見舞う

 

  草合せの秋草の色々を、かな女せん女の御二方にてわざわざ病床へ御見舞下さる。

 

友禪菊のかげ灯に浮きし敷布かな

 

秋草に日日水かへて枕邊に

 

[やぶちゃん注:「かな女せん女」長谷川かな女と金子せん女(老婆心乍ら孰れも「女」(ぢよ/じょ)と読む)。かな女は当時三十三歳。金子せん女は現在忘れ去られているようだが、かな女の俳誌『水明』でかな女と双璧を成した女流俳人で、本名を金子徳(子)という。句集に「なつくさ」(昭和八(一九三三)年水明発行所刊)。当時の年齢は四十一歳であったと思われる。彼女は実は、大正期に三井・住友・三菱を凌ぐ勢いを持っていた神戸鈴木商店大番頭として丁稚奉公から身を起こした叩き上げの実業家にして「財界のナポレオン」の異名をとった金子直吉(彼自身は土佐出身)の妻であった(未見であるが、つい最近ドラマ化された「お家(いえ)さん」というのは鈴木商店の女主人鈴木よねとこの金子直吉を主人公としたものである)。杉田久女の評論「大正女流俳句の近代的特色」(昭和二(一九二七)年十月稿・昭和三(一九二八)年二月発行の『ホトトギス』所収)で久女が引いているせん女の句を以下に示す(底本の第二巻所収の者を底本としつつ、「虫」以外は正字化し、踊り字「〱」も正字で示した)。

 

 灯におぢて鳴かず廣葉の虫の髭    せん女

 白萩のこまこまこぼれつくしけり   せん女

 山駕にさししねむけや葛の花     せん女

 病んでさへおればひまなり菊の晴れ  せん女

 鈴虫や疾は疾我生きん        せん女

 極月や何やらゆめ見病みどほし    せん女

 病みながら松の内なるわが調度    せん女

 よき母でありたき願ひ夜半の冬    せん女

 極月や婢やさしく己が幸       せん女

 母が手わざの葛布をそめて着たりけり せん女

 わが編みて古手袋となりにけり    せん女

 

なお、「病んでさへ」以下の句は同俳論の「三 境遇個性をよめる句」に所収するもので、そこで久女は『須磨の山莊に久しい宿痾を養つてゐるせん女氏には病の句が澤山ある』(太字は底本では傍点「ヽ」)と記している点に注意したい。

なお、「鈴木商店記念館」の金子直吉事蹟によれば、彼も妻の影響を受けて俳句をやり、

 

 初夢や太閤秀吉那翁(ナポレオン)   白鼠

 天正の矢叫びを啼け時鳥(ホトトギス) 白鼠

 

の句があるとする。この俳号「白鼠」とは主家に献身的な家僕を意味するとリンク先にある。]

杉田久女句集 214 再入院

 

  神田阿久津病院へ入院

 

看護婦つれて秋日浴びに出し露臺かな

2014/05/14

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十二章 北方の島 蝦夷 1 函館到着

 第十二章 北方の島 蝦夷

 

 一八七八年七月十三日

 今晩私は、汽船で横浜を立ち、蝦夷へ向った。一行は、植物学者の矢田部教授、彼の助手と下僕、私の助手種田氏と下僕、それから佐々木氏とであった。大学が私に渡した費用からして、私は高嶺及びフェントン両氏から、ある程度の助力を受けることが出来た。海はことのほか静穏であって、航海は愉快なものである可きだったが、この汽船は、前航海、船一杯に魚と魚の肥料とを積んでいたので、その悪臭たるや、実にどうも堪えきれぬ程であった。船中何一つ悪臭のしみ込まぬものはなく、舳のとっぱしにいて、初て悪臭から逃れることが出来た。この臭気が軽い船暈(ふなよい)で余程強められたのだから、航海はたしかに有難からぬものになった。

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、これは大学の夏期休暇を利用したモースの専門たる腕足類の採取・研究とともに、東京大学動物学教室用の標本採取を主たる目的とするものであった。一行はここではモースを含めて七名のように書かれているが、実際には文中で「助力を受けることが出来た」とするモースの動物学教室の助教であった高嶺秀夫と予備門の英語教師でアマチュア昆虫採集家であったモンタギュー・アーサー・フェントン、さらに医学部製薬学教授ジョージ・マーチンも同船(微妙に同行とはしていない)していることが矢田部良吉の「北海道旅行日誌」によって判明している。従って実際の北海道行のメンバーはモース、植物学教授矢田部良吉、東大動物学研究室助手で大森貝塚発掘にも参加した種田織三、教育博物館動物掛であった波江元吉、教え子で愛弟子の佐々木忠二郎(実はモースは彼の同輩で前に記した最愛の弟子であった松浦佐用彦も連れて行くつもりであった。しかし哀しいかな、この八日前に彼は亡くなってしまったのである)、小石川植物園園丁を勤めていた内山富次郎(この人は本書では「トミ」「矢田部氏の園丁」「矢田部氏の「助手兼従者」などと記される人物出身地も生年も不詳であるが、磯野先生は『姓から考えて東京巣鴨の植木職人の出ではないか』と述べておられる)、これも前に出た動物学研究室雑用係職員(職名は雇)であった菊池松太郎(本書では「小使」「従者」「マツ」と出る)に加えて、高嶺秀夫、フェントン、ジョージ・マーチン、更に磯野先生の調査によれば、この時、フェントンにはやはりモースの教え子で本作の訳者石川欣一氏の父君石川千代松が同行していたとあるから、少なくともこの九重丸にあっては総勢十一名を数える集団であったということになる。

「今晩私は、汽船で横浜を立ち、蝦夷へ向った」磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」には矢田部良吉の「北海道旅行日誌」に基づく再構成日録が載り、向後はこれに基づいて注する(日記本文の引用では恣意的に正字化した。以下、これらの注記は略す)。そこには七月十三日午後『七時三菱汽船九重丸ニテ横濱出港』とある。]

M339

図―339

 

 土曜日の夕方、出帆した時には、晴天だった。日曜日も朝の中は晴れていたが、午後になると我々は濃霧に取りかこまれて了い、汽笛が短い間をおいて鳴った。月曜日には晴れ、我々は日本の北方の海岸をよく見ることが出来た。八マイルから十マイル離れた所を航行していながらも、地形の外面は、はっきりと識別することが出来た。このあたり非常な山国で、高い峰々が雲の中に頭をつき入れている。これ等の火山山脈――蝦夷から日本の南部に至る迄の山脈は、すべて火山性らしい――の、奔放且つ嵯峨(さが)たる輪郭の外形を、一つ一つ浮き上らせる雲の効果は素晴しかった。海岸に沿うた場所は、著しい台地であることを示していた。高さは海面から四、五百フィート、所々河によって切り込まれている(図339)。

[やぶちゃん注:「八マイルから十マイル」一二・九~一六・一キロメートル。

「四、五百フィート」一二二~一五二メートル。

「所々河によって切り込まれている」図から推測するに、これは東北太平洋岸のリアス式海岸ではなかろうか。]

 

 火曜日の朝四時頃、汽罐をとめる号鐘の音を、うれしく聞いた私は、丸窓から外面を見て、我々が函館に近いことを知った。町の直後にある、高い峰が聳えている。船外の空気は涼しくて気持がよい。我我は東京から六百マイルも北へ来ているので、気温も違うのである。領事ハリス氏の切なる希望によって、私は彼と朝飯を共にすることにし、投錨した汽船の周囲に集って来た小舟の中から、一艘を選んで出かけた。この小舟は、伐木業者の平底船に似ていて、岸へ向って漕ぎ出すと、恐ろしく揺れるのであった。三日間、殆ど何物も口にしていない後なので、この朝飯前の奇妙な無茶揺りは、どう考えても、いい気持とはいえなかった。然し太陽が登り、町の背後の山々を照らすと共に、私も追々元気になって行ったが、それでも港内の船を批評的に見た私は、どっちかというと、失望を感じたことをいわねばならぬ。何故ならば、ここに沢山集った大形の、不細工な和船の中で、曳網の目的に使用し得るようなものは、唯の一つも無かったからである。私がやろうとする仕事に興味を持ち出したハリス氏も、同様に途方に暮れたが、或は碇泊中の少数の外国船から、漕舟を一艘やとうことが、出来るかも知れないといった。

[やぶちゃん注:矢田部の七月十五日の日記には『昨日兩度イルカノ群ヲ見タリ』とありる。モース先生は強烈な魚臭さから、眼前の揺れる波間のイルカよりも、早く上陸したいという切望から遙かに離れたどっしりとした海岸線の景観を見やることで不快感を紛らしていたのかも知れない。

「火曜日の朝四時頃、汽罐をとめる号鐘の音を、うれしく聞いた」矢田部日記の十六日に、『朝五時函館港ニ着ス』とある。

「六百マイル」九六五・六キロメートル。東京―函館間は直線距離では六七四キロメートル弱であるが、東京からの直行海路を試算すると、凡そ一〇〇〇キロメートルになるので、これは恐らく海路上の概算計測したもの(若しくは船員の謂い)と私は思っている。

「領事ハリス」アメリカのメソジスト監督教会宣教師で当時は函館におり、また、アメリカ合衆国領事をも兼ねていたメリマン・コルバート・ハリス(Merriman Colbert Harris 一八四六年~ 一九二一年)のこと。自らアメリカ生まれの日本人であると称したほどに日本を愛し、明治期の日本人クリスチャンに大きな影響を与えた人物で、内村鑑三・新渡戸稲造らに洗礼を授け、松岡洋右を信仰に導いた宣教師としても知られる。オハイオ州出身で、南北戦争では北軍に従軍、戦後、アレガニー大学を卒業、結婚して、明治六(一八七三)年にはメソジスト教会宣教師として妻とともに来日、翌年には函館に赴いて、キリスト教を伝道する傍ら、アメリカ合衆国領事をも兼務した。明治一〇(一八七七)年四月にウィリアム・スミス・クラークがハリスに札幌農学校一期生の信仰的指導を仰いで以来、先に掲げた人物ら多くの後の文化人らに洗礼を授けている。明治一五(一八八二)年に夫人の病気治療のために日本を離れ、太平洋ハワイ方面の宣教師として働いた後、明治三七(一九〇四)年に日本及び朝鮮の宣教監督に推挙されて再び来日、そのまま永住、日本で亡くなった。墓は青山墓地にある(以上はウィキの「メリマン・ハリス」に拠った)。

「曳網の目的に使用し得るようなものは、唯の一つも無かったからである」モースは江の島に引き続き、シャミセンガイを始めとする北方系沿岸性底生生物の、本格的なドレッジによる調査を企図していたことがこれで分かる。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 秋名の山

    ●秋名の山

大楠山ともいふ、中西浦村大字秋谷の東北に聳え、仮面を抽(ぬ)く七百二十五尺、群内第一の高山なり、秋谷村より阪路(はんろ)二十町餘、山顚には大樹老木の類なく、之に登臨すれば、眼界豁然として開け、馳望千里、近國の名山悉く指點すべし、萬葉集に歌あり。

 あしかりの秋名の山にひこ舟の

        しりびかしもよこゝはこかたに

と即ち此地の風色(ふうしよく)を詠ぜしものなり。

[やぶちゃん注:横須賀市西部にある標高二四一・三メートルの山(本文の「七百二十五尺」はやや低く二一九・七メートル相当)。三浦丘陵の一角をなし、三浦半島最高峰。ウィキの「大楠山」によれば、『標高は高くないものの周囲に自身より高い山が無く、山頂からの眺望の良さで知られる。三浦半島全域から相模湾、東京湾や房総半島をはじめ、気象条件が良ければ富士山や伊豆半島、東京都心までを眺められる』とある。横須賀市経済部商業観光課公式サイト「ここはヨコスカ」に載る、秋名漁港から頂上までの約三・六キロメートルの「大楠山ハイキングコース(前田川ルート)」である(本文の「二十町餘」は二・二~二・八キロメートル相当でこれはやや短過ぎる)。

「馳望千里」「馳」は音「チ」で眼をはしらせればということであろうが、実はこの冒頭「逗子の部」の「逗子案内」の中の最後の部分の、この秋名の山の解説に既に「馳望(てうぼう)千里」と出る。このルビからは「眺望」の積りであるらしい。

「あしかりの……」これは「万葉集」巻第十四の「東歌」の「相模國の歌」三首の冒頭(三四三一番歌)、

足柄(あしがり)の安伎奈(あきな)の山に引(ひ)こ船の後引(しりひ)かしもよここば來(こ)がたに

である。上句が序詞となっている。

……足柄山のあきなの山、その山の中の巨木を削って造った船、それが出来上がって海へと引き下ろす……その後ろから引き支えながら下すように……後ろ髪が引かれるんだ、お前が恋しくて恋しくて……とてものことに、帰りがたいんだ……

であるが、「足柄」は明らかに現在の神奈川県足柄上・下両郡であろうと思われる(「安伎奈の山」はその山中のピークの名か、今に伝わらぬ)。]

盲目の子   山之口貘

 盲目の子

人樣の按摩をとる時に お前はお前の目蓋にい
 つも如何なことを考へてゐるの?
お前は知つてるかしら お前の指の觸覺(さは
 り)に 如何な感じのながれてくる時女の肉
 體なの? お前と無駄話をする時に如何な聲
 音ではなすのは美人なの?
 また絵はお前に如何な不思議な想像を描かし
 めてゐるの?
おゝ不運はお前の視覺を何處へえぐりとつて行
 つたのだ 馬鹿な愚かな不運は!

盲目の子よ お前はお前の靑い色をもつて私(わ
 し)達の言ふ赤い色と思つてゐはせぬか 不
 思議な惡魔のしわざに視覺を失くしたその眼
 球(たま)に。
おゝ盲目よ だが私(わし)は不思議でならな
 い――
お前はお前の盲目を如何な風にして眠るのか!
 暗い夜が地上に眠りを持つてくる時に、 私
 (わし)達の瞼(まぶた)はだるくなるの
 に おゝ私(わし)は全く不思議でならな
 い お前は如何な術をもつて眠ることが出來
 るのか!

[やぶちゃん注:大正七(一九一八)年~大正一〇(一九二一)年の間(バクさん十五歳から十八歳)に創作された作品。思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と校合した。太字「しわざ」は底本では傍点「ヽ」。「また絵はお前に如何な不思議な想像を描かしめてゐるの?」の頭が一字下げであるのもママ。ブログでの表示を意識して、わざと底本表記に準じて改行をしてみた。底本の連続する次行送りの一字下げを無視して表記すると、

 盲目の子

人樣の按摩をとる時に お前はお前の目蓋にいつも如何なことを考へてゐるの?
お前は知つてるかしら お前の指の觸覺に 如何な感じのながれてくる時女の肉體なの? お前と無駄話をする時に如何な聲音ではなすのは美人なの?
 また絵はお前に如何な不思議な想像を描かしめてゐるの?
おゝ不運はお前の視覺を何處へえぐりとつて行つたのだ 馬鹿な愚かな不運は!

盲目の子よ お前はお前の靑い色をもつて私達の言ふ赤い色と思つてゐはせぬか 不思議な惡魔のしわざに視覺を失くしたその眼球に。
おゝ盲目よ だが私は不思議でならない――
お前はお前の盲目を如何な風にして眠るのか! 暗い夜が地上に眠りを持つてくる時に、私達の瞼はだるくなるのに おゝ私は全く不思議でならない お前は如何な術をもつて眠ることが出來るのか!

のようになる(ルビを除去して示した)。【二〇一四年五月二十四日追記】以上は、二〇一四年五月二十四日に行った新全集との校合によって、一部の表記の特異性が判明したため、全面的に改稿した。

大和本草卷之十四 水蟲 介類 蚌

 

蚌 カラスガヒ。トブガイ并江州ノ方言ナリ琵琶湖ニアリ

長七八寸アリ他州ニモ池塘ニ處々ニアリ海ニハナシ食ス

ヘシ殻ハ蛤粉ノ如クヤキテカヘヲヌル

〇やぶちゃんの書き下し文

蚌〔(ばう)〕 からすがひ。どぶがい。并びに、江州の方言なり。琵琶湖にあり、長さ七、八寸あり。他州にも池塘に處々にあり。海にはなし。食すべし。殻は蛤粉〔(がふふん)〕のごとく、やきて、かべをぬる。

[やぶちゃん注:斧足綱古異歯亜綱イシガイ目イシガイ科イケチョウ亜科カラスガイ属カラスガイ Cristaria plicata 及び同属の琵琶湖固有種メンカラスガイCristaria plicata clessini (カラスガイに比して殻が薄く、殻幅が膨らむ)と、イシガイ科ドブガイ属 Sinanodonta に属する大型のヌマガイ Sinanodonta lauta(ドブガイA型)と、小型のタガイ Sinanodonta japonica(ドブガイB型)の二種。カラスガイとドブガイとは、その貝の蝶番(縫合部)で識別が出来る。カラスガイは左側の擬主歯がなく、右の後側歯はある(擬主歯及び後側歯は貝の縫合(蝶番)部分に見られる突起)が、ドブガイには左側の擬主歯も右の後側歯もない。私の電子テクスト寺島良安の和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部 の「蚌(どぶがい)」及び「馬刀(からすがい)」の項の注で詳細に分析しているので参照されたい。因みに、国立国会図書館蔵の底本と同本には同箇所の頭書部分に付箋があって、

蚌 仙臺ニテヌマカヒト云

とある。

「七、八寸」約二一・二~二四・三センチメートル。

「殻は蛤粉」胡粉(ごふん)。白色顔料。貝殻を焼成し、砕いて粉末にしたもの。成分は炭酸カルシウム。室町以降に用いられるようになった。ここに出るような壁の塗装以外に日本画の絵の具として用いられる。古くはこの字通り、ハマグリの殻を精製して造っていたが、現在はカキ殻を主原料とする。]

飯田蛇笏 靈芝 昭和十年(九十九句) Ⅰ

   昭和十年(九十九句)

 

柑園に雪ふる温泉の年始

 

[やぶちゃん注:「温泉」は「おゆ」か「ゆう」と読んでいるか。]

 

ふるさとの年新たなる墓所の雪

 

餠花に宿坊の爐のけむり絶ゆ

 

抱へたる大緋手鞠に醉ふごとし

 

饗宴にくちべに濃くてさむき春

 

窻掛に暮山のあかね春寒し

 

春寒や栂の枝苔おのづから

 

小野の蔦雲に上りて春めきぬ

 

岨※る禽に雪水ながれけり

 

[やぶちゃん注:「※」(上)「求」+(下)「食」。「※る」は「あさる」と読む。山の崖に採餌する鳥に雪解けの水が滴る景である。]

 

  御嶽昇仙峽

洞門に晝月もある遲日行

 

[やぶちゃん注:「遲日行」は「ちじつかう」と読んでいるか。「遲日」は日あしが延びて暮れるのが遅くなるところから、春日をいう語。]

杉田久女句集 213 退院

 

  退院 二十五日振り目白へ歸宅

 

退院の足袋の白さよ秋袷

 

髮捲いて疲れし腕秋袷

 

面瘦せて束ね卷く髮秋袷

 

病み瘦せて帶の重さよ秋袷

 

帶重く締めて疲れぬ秋袷

 

躾とる明日退院の秋袷

 

[やぶちゃん注:「躾とる」裁縫用語。縫い目や折り目を正しく整えるために仮にざっとあらく縫われた糸を抜くこと]

 

歸り見れば芙蓉散りつきし袷かな

 

秋袷日日病院へ通ひけり

 

敷かれある臥床に入れば秋灯つく

橋本多佳子句集「信濃」 昭和二十一年 Ⅻ 句集「信濃」 了 

 

狐花かたまり咲きて翳なさず

 

狐花わが前に咲き沼に咲き

 

沼波のにごりいく日ぞ狐花

 

狐花莖瑞々と花失せし

 

[やぶちゃん注:「狐花」は曼珠沙華(単子葉植物綱クサスギカズラ目ヒガンバナ科ヒガンバナ亜科ヒガンバナ連ヒガンバナ Lycoris radiata )の異名。ヒガンバナの異名については、私のブログ記事「曼珠沙華逍遙を参照されたい。]

 

曼珠沙華忌日の入日とどまらず

 

[やぶちゃん注:「忌日」夫豊次郎の祥月命日九月三十日。]

 

曼珠沙華海を渡りてなほ鐡路

 

曼珠沙華けふは旅なる吾にもゆ

 

曼珠沙華驛々に咲き旅遠き

 

さそり座をかかげ余して露の宿

 

[やぶちゃん注:「余して」は迷ったが、底本の表記のママとした。後半に出てくる旅は年譜の昭和二一(一九四六)年の十月の項に載る、『戦後はじめて、汽車の混雑甚だしい中を、伊勢、天ヶ須賀海岸に誓子を訪う』とあるそれであろう。天ヶ須賀(あまがすか)は現在は三重県四日市市北部の地区名。ウィキ天ヶ須賀四日市市には驚くべきことに「山口誓子」の独立項があり、『三重郡川越町高松地区にある中小企業の谷口石油の南側の天ヵ須賀』二丁目に彼の邸宅があった。後、「かの雪嶺信濃の国の遠さもて」の句碑が『四日市市民の有志によって建立された。山口誓子は』昭和一六(一九四一)年『に病気となり療養のために四日市市の富田地区の住民となり』、平成六(一九九四)年に九十二歳で死去した。そこには昭和二一(一九四六)年に『天ヶ須賀の須賀浦海水浴場沿いに移住した。天ヶ須賀地区には須賀浦海水浴場があり、海水浴客が宿泊する旅館や別荘地として開発された観光地で天ヶ須賀で考えた俳句があり、天ヶ須賀は自然に恵まれた環境であった。天ヶ須賀は病気の治療や療養には良い土地だった』とある。多佳子の年譜によれば、この誓子の引越は同年六月(四日市市富田より転入)である。当時、誓子は四十五、多佳子、四十七歳であった。]

 

  四日市

 

出水して町に秋燕啼き溜る

 

踏切を流れ退く秋出水

 

蟹の碧秋の出水の町に見る

 

秋燕や高き帆柱町に泊つ

 

  山口波津女夫人に

 

夕燒中ともにをみなの髮そまり

 

[やぶちゃん注:「山口波津女」「やまぐちはつぢよ(やまぐちはつじょ)」と読む。誓子夫人で本名は梅子(明治三九(一九〇六)年~昭和六〇(一九八五)年)。昭和一三(一九三八)年の結婚後に本格的に句作を始め、『馬酔木』同人から夫の主宰する『天狼』同人となった。夫より五つ下であるから、当時、四十歳。多佳子より七つ年下である。。]

 

尾を見せて狐沒しぬ霧月夜

 

母と子のトランプ狐啼く夜なり

 

霧月夜狐があそぶ光のみ

 

[やぶちゃん注:以上で句集「信濃」は終わっている。]

篠原鳳作初期作品(昭和五(一九三〇)年~昭和六(一九三一)年) ⅩⅤ



玉芒全きままに枯れにけり

 

[やぶちゃん注:yahantei氏のブログ「さまざまな俳人群像――虚子・反虚子の流れ――」の『(茅舎追想その十三)龍子の「龍子記念館」と茅舎の「青露庵」』の記載の中で、川端茅舎の句、

 玉芒ぎざぎざの露ながれけり

を掲げて、以下のように解説されておられる(下線部やぶちゃん)。

   《引用開始》

 この句は茅舎の代表句ではなかろう。また、茅舎に関する文献などでも、この句を取り上げて鑑賞しているものも皆無に近い。また、現在では、この句碑が一部不鮮明で、同時の作と思われる「玉芒みだれて露を凝らしけり」と紹介されているものも目にする。

 この句は、昭和七年作で、茅舎の第一句集『川端茅舎句集』では、冒頭の「秋の部」で、「露」の句を二十六句続けて、「露の茅舎」と称えられるのだが、その二十六句のうちの二十二番目に出てくるものである。

 この句の「玉芒」というのは、「玉のような露が宿っている芒」という意で、茅舎の造語であろうか。「芒」(秋の季語)と「露」(秋の季語)の「季重り」であるが、「芒」の句というよりも「露」の句で、この「玉芒」の「玉」がそれを暗示していて、「季重り」を回避しているようで、技巧的な句でもある。「ぎざぎざ」も、畳語の擬態語で、「オノマトペ」(擬音語と擬態語を総称しての擬声語)の「茅舎」と言われるほどに、茅舎が多用している特色の一つで、茅舎ならではの句という印象は受ける。

   《引用終了》

確かに茅舎の句の「玉芒」はこの説明で納得出来るのであるが、どうも鳳作の場合、既出の芭蕉玉を詠ったものがあるために、私には穂がほうける前、芒(のぎ)に包(くる)まったままの芒(「芭蕉玉」ならぬ「芒玉」)がそのままに枯れてしまったと読みたくなった。しかし、それでは景とならない、「芒玉」などナンセンスというのであれば、やはり、開いた芒の穂が露をいっぱい受けながらも、「全き枯れにけり」、白く縮れて完全な骨骸となって枯れたままに佇立しているという意が正しいのであろうか。暫く大方の御批判を俟つものである。]

 

先生も生徒も甘蔗の杖ついて

 

熔岩の上蕨は小手をかざしけり

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「熔岩」は「ラバ」で「ラバのうへ/わらびはこてを」と読む。]

 

火の見番見下しゐるや鷄合せ

 

阿羅漢の白けし顏や涅槃像

 

舊正や屋敷屋敷の花樗

 

[やぶちゃん注:「舊正」当時、鳳作が赴任していた宮古に限らず、大陸文化の強い影響を受けて来た沖繩・南西諸島に於いては、現在でも旧正月に各種祭事が集中し、盛大に執り行われている。「花樗」は「はなあうち(はなおうち)」と読む。既注であるが再掲すると、センダン、一名センダンノキの古名。ムクロジ目センダン科センダン Melia azedarach の花。初夏五~六月頃に若枝の葉腋に淡紫色の五弁の小花を多数円錐状に咲かせる。因みに、「栴檀は双葉より芳し」の「栴檀」はこれではなく白檀の中国名(ビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダン Santalum album)なので注意(しかもビャクダン Santalum album は植物体本体からは芳香を発散しないからこの諺自体は頗る正しくない。なお、切り出された心材の芳香は精油成分に基づく)。グーグル画像検索「栴檀花」。]

 

絵日傘を廻しつつくる禮者哉

 

[やぶちゃん注:前句との並びから推測すると、この「禮者」とは旧正月の挨拶廻りと読めるように思われる。]

2014/05/13

お前の刺客を私に殺たしめよ   山之口貘

 お前の刺客を私に殺たしめよ

 

蔭の道德がお前におべつかをしたの?

否え戀人よ 私(わし)は決して輕薄(かる

 はづ)みな拷問(とひ)をもつてお前の薰

 りの中で乱暴しますまい

 

私(わし)私(わし)の意志を、理性の確信

 をもつて是認せねばならぬ。

駄魔されてはいけない戀人よ お前は私(わ

 し)達の本能の貪欲を 道德が時々卑しめ

 にくる大馬鹿者であることをご存じないの?

 たまらなくなつて内部に燃えてゐるその火

 災(ほのほ)を戀人の胸の壁に破裂させる

 時に、私(わし)達の意志の外部への摸索(て

 さぐ)りを嫉妬(ねたみ)と怒りで害(さま

 た)げてゐるのをご存じないの?

私(わし)達の邪魔物は 周圍の馬鹿な虛飾で

 はないか戀人よ

私(わし)は是非寄り集つた人間達の愚かな小

 細工を お前の真実の側から悉く退治せねば

 ならない。

 私(わし)の再三の嘆願が、生命掛けの心配

  をもつてお前を打守つてゐる。

日は暮れてしまつた――

おゝ私(わし)の戀人よ お前の側にひそかに

 立つてゐるお前の刺客を私に殺(う)たしめよ。

 

[やぶちゃん注:「駄魔されてはいけない戀人よ」の「駄魔」はママ。「私(わし)の再三の嘆願が、生命掛けの心配をもつてお前を打守つてゐる。」の頭が一字下げであるのもママ。ブログでの表示を意識して、わざと底本表記に準じて改行をしてみた。底本の連続する次行送りの一字下げを無視して表記すると以下のようになる(ルビを除去して示す)。

 

 お前の刺客を私に殺たしめよ

 

蔭の道德がお前におべつかをしたの?

否え戀人よ 私は決して輕薄みな拷問をもつてお前の薰りの中で乱暴しますまい

 

私は私の意志を、理性の確信をもつて是認せねばならぬ。

駄魔されてはいけない戀人よ お前は私達の本能の貪欲を 道德が時々卑しめにくる大馬鹿者であることをご存じないの? たまらなくなつて内部に燃えてゐるその火災を戀人の胸の壁に破裂させる時に、私達の意志の外部への摸索りを嫉妬と怒りで害げてゐるのをご存じないの?

私達の邪魔物は 周圍の馬鹿な虛飾ではないか戀人よ

私は是非寄り集つた人間達の愚かな小細工を お前の真実の側から悉く退治せねばならない。

 私の再三の嘆願が、生命掛けの心配をもつてお前を打守つてゐる。

日は暮れてしまつた――

おゝ私の戀人よ お前の側にひそかに立つてゐるお前の刺客を私に殺たしめよ。

 大正七(一九一八)年~大正一〇(一九二一)年の間(バクさん十五歳から十八歳)に創作された作品。【二〇一四年五月二十四日追記】思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と校合した。

北條九代記 卷第六  宇治川軍敗北 付 土護覺心謀略(3)承久の乱【二十六の一】――宇治の戦い

折節、雨降り出て、車軸を流す如くなるに、武藏守泰時、如何思はれけん、家子(いへのこ)芝田橘(きつ)六を召して、河の瀨踏を致せとあり。芝田は槇島(まきのしま)の二岐(ふたまた)なる瀨を中島に游(およぎ)付きて、敵の樣躰迄、善々(よくよく)見果(おほ)せて立歸りて、有樣を申上(まうしあぐ)る所に、佐々木四郎、只一騎、御局(おつぼね)といふ逸物(いちもつ)の栗毛の馬、その長(たけ)八寸(やき)に餘(あまり)たるに白鞍置(おか)せ、彼の二岐の瀨にがばと打入り、瀨枕(せまくら)を切つて金(かね)に渡し、「近江國の住人、佐々木四郎左衞門尉源信綱、今日宇治川の先陣」とぞ名乘ける。是を見て、中山、佐野、浦野、白井、多胡、秋庭(あいば)を初として、小笠原四郎、内海(うつみの)九郎、河野(かうの)九郎、勅使川原(てしがはらの)小三郎、長江、小野寺、關、左島(さしま)を初(はじめ)て、諸軍打入(うちいり)々々渡しけるに、水は堰(せか)れて陸(くが)は海にぞ成りにける。その中にも馬弱きは押流されて死する者も多かりけり。後に人數を尋ぬれば、八百餘人は流れて死にたり。されども大軍なれば、數にもあらず。京方下合(おりあ)うて散々に防ぎ戰ふ。討つもあり。討たるゝもあり。物の色目(いろめ)も見分かず。右衞門〔の〕佐朝俊(ともとし)は、敵に組まれて討死せらる。又京方より緋威(ひおどし)の鎧に、白月毛(しらつきげ)の馬に金覆輪の鞍置きて打乘たる武者一騎、小河太郎に寄合うて、打咲(うちゑ)みたるを見れば、鐵漿黑(かねぐろ)なり。小河、押竝べける所を、拔打(ぬきうち)に甲の眞甲(まつかふ)を打たれて、目昏(くら)みけれども取付きたる所を放たず、馬よりどうど組んで落ちたり。心を靜めて見たりければ、我が組んで抑へたる敵は首もなき髏(むくろ)計(ばかり)なり。「こは如何に人の組んだる敵の首を傍(そば)より取る事やある」と叫(よばは)りしかば、武蔵太郎殿の手の者に、伊豆國の住人平馬(へいまの)太郎某(それがし)、「和殿は誰(た)そ」。「駿河守殿の手の者小川太郎經村(つねむら)」と名乘る。さらばとて首を返す。小川、是を受取らず、後に此由申しければ、平馬太郎が僻事(ひがごと)なりとて、小川に勸賞(けんじやう)賜りぬ。甲斐(かひの)宰相範義朝臣の御首にてぞ侍りける。佐々木太郎左衞門尉氏綱は、同名四郎左衞門尉信綱が甥なり。秋庭(あいばの)三郎に組んで討たれたり。荻野(をぎの)次郎、中條(なかでうの)次郎左衞門も、寄手大勢に取込められ、遂に皆、討たれたり。

[やぶちゃん注:〈承久の乱【二十六】――宇治の戦い〉

「槇島の二岐なる瀨」現在の京都府宇治市槇島町の東端を流れる宇治川にあった大きな分流流路。当時とは流路流域が全く異なり、野暮氏のサイト「近江の城砦」の「槇島城」に載る「天正期当時の宇治川と槇島城」の当時の復元流路図から見ると二つどころか四分岐が認められる。ここから推測すると実は現在の槇島町全体町名通り、その当時は中洲、島であったことが分かる。ここはもっと時代が遡るわけだか、それでもこの復元地図で当時の戦場に近い宇治橋の下流域が巨大な中洲を含む広範囲な氾濫原であったのである。

「中島」前注の中洲の名。

「八寸」「寸(き)」は、昔、馬の丈(たけ)を測るのに用いた語で、四尺(約一メートル二十一センチ)基準とし、それより高ければ一寸(ひとき)・二寸(ふた)から八寸(やき)と数え、九寸(くき)以上は「丈に余る」と呼んだ。。「八寸」は凡そ二十四・二センチメートルであるから「八寸」は四尺八寸(すん)で約一メートル四十五センチに相当する。但し、ここはさらに「八寸に餘たる」とあるから、更に二センチほど高かったものであろう。因みに馬の丈は前足の位置で肩までの高さをいう。

「瀨枕」水が捲いて波の立っている箇所。

「切つて」物ともせずに突っ切り。

「金に渡し」底本頭書に『金に渡し――曲尺なりに渡り』とある。「曲尺(かねじゃく)」は直角に曲がったL字型の例の指矩(さしがね。指金)で、ここは真っ直ぐに渉って、という意味である。

「水は堰れて陸は海にぞ成りにける」それでなくても折からの土砂降りの雨によって増水していた川水が、どっと川に入った兵馬の一隊によって堰き止められるような形になり、急激に中洲や両岸へ浸水と氾濫を起こし、結果、濁流となってこの幕府軍一行を襲ったというのである。

「八百餘人は流れて死にたり。されども大軍なれば、數にもあらず」流石に、「承久記」も「吾妻鏡」もこんなもの謂いはしていない。筆者の、戦場の非情さを誇張するための加筆のようにしか見えないが、実はこれは「承久記」を読むと、多量の溺死者眼前にした総大将泰時が、あまりの凄惨さに、「自分独り、おめおめと生き残って何をするというか!」と、自ら馬に乗って渡河せんとするところを、直前に子息を溺死させて、しかも自らも流されて辛くも郎等に助けられた信濃の武将春日刑部三郎貞幸が、身を挺して泰時の馬を止め、策杖で打たれても放さぬという、入河を防ぐシーンに於いて、春日貞幸が泰時を諌める言葉に由来するものである。是非、後掲する原文を味わって戴きたい。この部分の「北條九代記」の筆者は妙に筆が鈍っていると言わざるを得ない。

「右衞門佐朝俊」藤原朝俊(ともとし ?~承久三年六月十四日(一二二一年七月五日)。廷臣。藤原北家勧修寺流で侍従藤原朝経の子(またはその兄朝定の子とも)。権大納言藤原朝方は祖父。母は中納言藤原親信の娘。常陸介・右衛門佐。後鳥羽上と順徳天皇の近臣として仕える。承応二(一二〇八)年に鳩を取るために朱雀門に昇り、その火が延焼して門が炎上した記事が「明月記」に載り、そこに『ただ弓馬相撲をもつて藝となす。殊に近臣なり』と紹介されていることから、武芸の才をもって重用されていたことが窺われる。積極的に後鳥羽上皇の討幕計画に参加、高倉範茂らとともに宇治方面の防衛に当たった。この宇治川合戦では八田知尚や佐々木高重ら官軍の諸将とともに奮戦したが、乱戦の中で小河経村によって討ち取られた。「六代勝事記」(仮名書の史書。著者や成立年代は不詳。一巻。高倉から後堀河までの六代に及ぶ天皇(仲恭天皇の即位は明治初年になるまで正史では認められていなかった)の代に起こった事柄を列記し、承久の乱の失敗を経験した貴族の悲嘆を述べる。「勝事」は「凶事」と書くのを憚ったためという。序文では貞応年間(一二二二年~一二二四年)に書かれたことになっているものの、諸書からの点綴らしい箇所も多く疑問を挟む考えもある(ここは平凡社「世界大百科事典」に拠った)に於いては、その果敢な戦いぶりが賞賛されている(以上はウィキの「藤原朝俊」に拠る)。

「白月毛」既注。白地の毛に黒や濃褐色のサシの入った、赤みの強い(これが月毛の由来)毛色。

「鐵漿黑」鉄漿(おはぐろ)。凡百のホラー映画も真っ青、いや、真っ黒の描写である。

「武蔵太郎殿」北条時氏。北条泰時長男。当時、満十八歳であったが、この宇治川合戦では敵前を美事に渡河したという。病気のため、惜しくも二十七歳で早逝した。

「平馬太郎某」が首を持っており、その平馬が小河に対して「貴殿はどなたか?」と質した、という文脈である。

「駿河守殿」三浦義村。

「僻事」道理や事実に合わないこと。間違っていること。心得違い。

「甲斐宰相範義朝臣」「範義」は「範茂」の誤り。承久の乱の首謀者の一人であった公卿藤原範茂。但し、彼は宇治川の戦いに実戦参加しているものの、そこでこのような形で討死はしていない。上皇方が敗北した後に六波羅に拘禁され、斬罪と定められ、都での処刑を避けるために北条朝時によって東国へ護送される途中、足柄山麓の早川で沈められて処刑された。これは、範茂が五体不具では往生に障りがあるとして自ら入水を希望した結果という(以上はウィキの「藤原範茂」に拠った)。享年三十八。

「佐々木太郎左衞門尉氏綱」以下に掲げる「承久記」も「氏綱」とするのだが、これは本文以下に先に出た先陣を切った佐々木「四郎左衞門尉信綱が甥なり」とあるから、恐らくは佐々木継綱の誤りではなかろうか? 佐々木信綱の長兄で、父定綱の嫡男であった佐々木広綱は、在京御家人として鎌倉幕府に仕えていたが、後鳥羽上皇との関係を深めて西面武士となり、承久の乱では官軍に属してこの宇治川合戦に参加、敗走したが(敗戦後の七月二日梟首)、参照したウィキの「佐々木広綱」には、『嫡男継綱は』六月十四日(まさに宇治川合戦の日附である)『に戦死し、次男為綱と三男親綱の行方は判らない。四男の勢多加丸は』七月十一日に捕縛されたが、十一歳と『まだ幼い事から助命されるが、信綱に身柄を奪われ斬首された。佐々木氏は後に信綱が継ぐ事となる』とあるからである。何かしらん、哀しい話ではある。

「寄手大勢」言わずもがな乍ら、幕府軍の、である。

 

 以下、「承久記」を引くが、「北條九代記」は勢多合戦から宇治川合戦の場面が相当にはしょられてしまっている。底本の61から81に及ぶ長文になるが、その部分も総て電子化して示す。途中、私自身、半可通なところもあるが、細部に拘ると先へ進めなくなるので、特に思うところ以外は今は注を附さないこととする。悪しからず。ともかくも非常に面白い「承久記」は将来の全文電子化を期して、かく続けたくはあるのである。

 

 武藏守、供御瀨ヲ下リニ宇治橋へ被ㇾ向ケルガ、某夜ハ岩橋ニ陣ヲ取。足利武藏前司義氏・三浦駿河守義村、是等ハ「遠向候へバ」トテ、暇申テ打通ル。義氏ハ宇治ノ手ニ向ンズレ共、栗籠山ニ陣ヲ取。駿河次郎、同陣ヲ雙ベテ取タリケルガ、父駿河守ニ申ケルハ、「御供仕ベウ候へ共、權大夫殿ノ御前ニテ、『武藏守殿御供仕候ハン』ト申テ候へ。暇給リテ留ランズル」ト申。駿河守、「如何ニ親ノ供ヲセジト云フゾ」。駿河次郎、「サン候。尤泰村モサコソ存候へドモ、大夫殿ノ御前ニテ申テ候事ノ空事ニ成候ハムズルハ、家ノ爲身ノ爲惡ク候ナン。御供ニハ三郎光村モ候へバ、心安存候」ト申ケレバ、「サテハ力不ㇾ及」トテ、高所ニ打上テ、駿河次郎ヲ招テ、「軍ニハトコノアレ、角コソスレ。若黨共、餘ハヤリテアヤマチスナ。河端へハ兎向へ角向へ」ナド能々教へテ、郎等五十人分付テ被ㇾ通ケリ。

・「武藏守」北条泰時。

・「岩橋」位置不詳。

・「栗籠山」現在の京都府宇治市神明宮西にある神明神社付近。後掲する「吾妻鏡」では「栗子山」で他に栗隈山・栗駒山とも表記するが、これは少なくとも現在は一つの山を指す名ではなく、北は宇治、南は大久保・久津川・寺田の東方を経、富野荘に至るところの、一連の低い丘陵部を総称するものであるらしい。神社から現在の宇治橋西橋詰までは直線で約二・一キロメートルある。

・「前武州」足利義氏。当時、満三十二歳。

・「駿河次郎」会話にも出る通り、三浦義村の次男泰村。彼には生年に諸説あるが、「承久記」の以下の記載(名乗りの数え十八)に従えば十七歳である。

・「三郎光村」三浦泰村の同母弟で義村四男。当時十六歳。

 

 留マル家子ニハ佐野與一、郎等ニハ乳母子ノ小河太郎・同五郎、阿曾太郎・同次郎、山崎三郎・那波藤八、是等也。其中ニ十四騎進テ申ケルハ、「未案内モシラセ不ㇾ給、我等モ存知セズ候。サレバ先樣ニ罷向候テ、事ノ體ヲモ窺ヒ見、川ノ有樣ヲモ存仕候ハン。又大雨ニテ候へバ、御宿ヲモ取儲候ハン」トテ進行。是ハ、海道尾張河ヨリ始テ所々ノ戰ニ、我等モ若黨モ、甲斐甲斐敷軍セヌ事ヲ口惜思テ、「今日相構テ合戰ヲセヨ」トテ、内々心ヲ合セ、指遣シケリ。

 

 其後、駿河次郎、雨ニ餘ニヌレタリケレバ、馬ヨリ下リ、物臭ヌギカへ腹帶シメ直シナドシケル所ニ、カチ人少々走歸テ、「御前ニ進マレ候ツル殿原、ハヤ橋ノ際へ馳ヨリ、御手者名乘テ矢合シ、軍始テ候。某々手負テ候」ト申ケレバ、小川太郎、「足利殿ニ此由ヲ申バヤ」ト申。駿河次郎、「シバシナ申ソ」トテ物臭ノ緒ヲシメヲホセテ、馬ニヒタト乘クツロゲテ行トテ、「ハヤ申セ」トテゾ行ケル。駿河次郎、宇治橋近押寄テ見ケレバ、現ニ軍ハ眞サカリナリ。馬ヨリヲリ橋爪ニ立テ、「桓武天皇ヨリ十三代ノ苗裔、相模國住人、三浦駿河次郎泰村、生年十八歳」ト名乘テ、甲ヲバ脱デナゲノケ、指攻引攻シテ射ケリ。乳母子ノ小川太郎、甲ヲ取テキセケレバ、脱デハ捨、脱デハ捨、二度迄ゾシタリケル。是ハ矢強射ン爲也。小河太郎、主ト同矢束ナリケルガ、始ハ「大將アナガチ手下シ、軍スル樣不ㇾ候」ト諫ケルガ、泰村ニ被ㇾ射テ、敵サハギ各氣色ヲ見テ、「左候ハヾ經景ハ射候ハデ、矢種ツクサデ射サセ進ラセン」トテ、雙デゾ立タリケル。向ノ岸ヘハ普通ノ矢長トヾクベシ共見へヌ所ニ、宗徒ノ人歟ト覺シキヲ、能引ゾ射タリケル。駿河次郎支へテ射矢、二ツ三射マドハサレ、幕ノ中騷アヘリ。急幕ヲ取テ、向ノ堂ノ前へゾノキニケル。後ニ聞へシハ、甲斐宰相中將也。向ノ岸ニ奈良法師・熊野法師、數千騎向タル、其中ニ不動・コンガラ・セイタカ童子ヲ笠符ニ著タル旗共打立テ有ケルガ、河風ニ被ㇾ吹テ靡ケルハ、實ニヲソロシクゾ見へタリケル。武藏前司義氏馳來リ、相加テゾ戰ケル。駿河次郎手者共、散々ニ戰ヒ、少々ニハ手負テゾ引退ク。日モ暮行バ、武藏前司、平等院ニ陣ヲトル。駿河次郎モ同陣ヲゾ取タリケル。

 

 甲斐國住人室伏六郎ヲ使者トシテ、武藏守へ被レ申ケルハ、「駿河次郎ガ手者共、早軍ヲ始テ、少々手負候。義氏ガ若黨共、數多手負候。日暮間、平等院ニ陣ヲ取候。東方、向ノ岸ニ少々舟ヲ浮テ候。橋ヲ渡テ一定今夜夜討ニセラレヌト覺候。小勢ニ候へバ、御勢ヲ被ㇾ添候へ」トテ被ㇾ申ケル。武藏守、「コハ如何ニ。サシモ明ルト方々軍ノ相圖ヲ走ケル甲斐モナク軍始ケンナル此人々、若夜討ニセラレテハ口惜カルベシ。急ギ者共向へ」ト宣ケレバ、平三郎兵衞尉盛綱奉テ馳參リ相觸ケレ共、「武藏守殿打立給時コソ」トテ、進者コソ無ケレ。サレ共、佐々木三郎左衞門尉信綱計ゾ、可罷向曲申タリケル。

[やぶちゃん注:このシーンも面白い。私は、『泰時の家来は殿御自身とともに一気に打って出て、抜け駆けしながら尻を絡げて平等院に逃げ込んだ情けない連中を尻目に、その鼻を明かしてやりましょうぞ、とでもいうのであろう。だから主君泰時の命にも拘わらず、救援に行こうとはしないのであろう。』と読んだのだが、実は次の段に理由が述べられてあって、それどころか、実はバケツをひっくり返したような異様な豪雨や堪えがたい暑気から、家来たちの間に『この敗勢と異様なる天候は、我ら賤しい者どもが畏れ多くも朝廷に対し弓引いたことによるもので、最早我らは命運尽きた』と思ったからだとあるのである。]

 

 六月中旬ノ事ナレバ、極熱ノ最中也。大雨ノフル事、只車ノ輪ノ如シ。鎧・甲ニ瀧ヲ落シ、馬モ立コラヘズ、萬人目ヲ見アケラレネバ、「我等イヤシキ民トシテ、忝モ十善帝皇ニ向進ラセ弓ヲ引矢ヲ放ントスレバコソ、兼テ冥加モ盡ヌレ」トテ進者コソ無ケレ。サレ共、武藏守計ゾ少モ臆セズ、「サラバ打立、者共」トテ、軈テ甲ノ緒シメ打立給ケリ。大將軍、加樣ニ進マレケレバ、殘留人ハナシ。

[やぶちゃん注:「軈テ」は「やがて」と読む。]

 

 又、夜中ニ宇治橋近押寄テ見レバ、駿河次郎、昨日ノ薄手負ノ若黨共、矢合始メテ戰ケリ。武藏前司手者共、同押寄戰、シバシ支テ引退。二番ニ相馬五郎兵衞・土肥次郎左衞門尉・常田兵衞・平兵衞・内田四郎・古河小次郎、押寄テ散々ニ戰フ。少々手負テ引退。三番ニ新開兵衞・町野次郎・長沼小四郎、各、「某國住人、其々」ト名乘テ、橋桁ヲ渡リ搔楯ノ際迄責寄タリケルヲ、敵數多寄合テ、三人三所ニテゾ被ㇾ討ケル。四番ニ梶小次郎・岩瀨七郎、推寄テ散々ニ戰テ引退ク。五番ニ波多野五郎信政、引タル橋ノ際迄押寄クリ。是ハ、去六月、杭瀨川ノ合戰ニ、尻モナキ矢ニテ額ヲ被ㇾ射タリケルガ、未カンバカリハレタリ、進出テ名乘ル。「相模國住人、信政」トテ橋桁ヲ渡シ、向ヨリ敵ノ射矢、雨ノ如ナルニ、向ノ岸ヲ見ント振アヲノキタル右ノ眼ヲシタヽカニ被ㇾ射テ、河へ巳ニ落トス。橋桁ニ取付テ、心地ヲ沈テ向ントスレバ先モ不ㇾ見、歸ントスレバ敵ニ後ロヲ見セン事口惜カルベシト思ケレバ、後ロ樣ニゾシサリケル。橋ノ上へシサリアガリ、取テ返ケル所ニ、郎等則久ソトヨリ肩ニ引懸返リケルガ、河端ノ芝ノ上ニフセテ、二人左右ヨリ寄テ、膝ヲ以押テ矢ヲ拔テケリ。血ノ出事、鎧ニ紅ヲ流テ、誠ニヲビタヽシクゾ見へケル。

[やぶちゃん注:この最後のシークエンスはまるで戦争映画のワン・シーンのように凄絶。まさに「遠過ぎた橋」だ――。]

 

 武藏國住人鹽谷左衞門尉家友、押寄テ戰ケルガ、被射倒ヌ。子息六郎左衞門尉家氏、親ヲ乘越テ矢面ニ立テ戰ケルガ、是モ薄手負テ、父ヲ肩ニ引懸テゾノキニケル。其後、各押寄押寄戰ケリ。宮寺三郎・須黑石馬允・飯高小次郎・高田武者所・大高小太郎・息津左衞門尉・高橋九郎・宿屋次郎・高井小次郎、押寄テ劣ラジ負ジト戰テ、是等モ手負テ引退ク。

 

 東方ヨリ奈良法師土護覺心・圓音二人、橋桁ヲ渡テ出來リ。人ハ遙々渡橋桁ヲ、是等二人ハ大長刀ヲ打振テ、跳跳曲ヲ振舞テゾ來リケル。坂東ノ者共、是ヲ見テ、「惡ヒ者ノ振舞哉。相構テ射落セ」トテ、各是ヲ支テ射ル。先立タル圓音ガ左ノ足ノ大指ヲ、橋桁ニ被射付、ヲドリツルモ不ㇾ動、如何スベシ共不ㇾ覺ケル所ニ、續クル覺心、刀ヲ拔テ被射付クル指ヲフツト切捨、肩ニ掛テゾノキニケル。

[やぶちゃん注:「土護覺心」本章のサブ・キャラクターで最初に述べた通り後述する。しかしこのシークエンスも凄い!]

 

 武藏守、「此軍ノ有樣ヲ見ルニ、吃ト勝負可ㇾ有共不ㇾ見、存旨アリ、暫ク軍ヲトヾメント思也」ト宣ケレバ、安東兵衞尉橋ノ爪ニ走寄、靜メケレ共不ㇾ靜。二番ニ足利武藏前司、馳寄テ被ㇾ靜ケレ共不ㇾ靜。三番ニ平三郎兵衞盛網、鎧ハ脱デ小具足ニ太刀計帶テ、白母衣ヲ懸、橋ノ際迄進デ、「各、軍ヲ仕テハ誰ヨリケンジヤウヲ取ントテ、大將軍ノ思召樣有テ靜メサセ給フニ、誰々進ンデカケラレ候ゾ。『註シ申セ』トテ、盛綱奉テ候也」ト、慥ニ申ケレバ、其時、侍所司ニテハアリ、人ニ多被見知、一二人キカヌ程コソアレ、次第ニ呼リケレバ、河端・橋ノ上、太刀サシ矢ヲ弛テ靜リニケリ。

[やぶちゃん注:臨場感たっぷり!

「ケンジヤウ」既注。「勸賞」で「けんしやう(けんしょう)」「けじやう(けじょう)」とも読み、功労を賞して官位や物品・土地などを授けることをいう。]

 

 武藏守、芝田橘六ヲ召テ、「河ヲ渡サント思ニ、此水底ノ程ニハ一尺計モマサリタルナ。此下ニ渡ル瀨ヤアル。瀨蹈シテ參レ」ト宣ケレバ、「奉リ候」トテ一町計打出タリケルガ、取テ返シ、「檢見ヲ給リ候バヤ」ト申。「尤サルベシ」トテ、南條七郎ヲ召テ被相添。二騎連テ下樣ニ打ケルガ、槇島ノ二マタナル瀨見渡ケルニ、アヤシノ下﨟ノ白髮ナル翁一人出來レリ。是ヲトラヘテ、「汝ハ此所ノ住人、案内者ニテゾ有覽。何ノ程ニカ瀨ノアル、慥ニ申セ。ケムジヤウ申行ベシ。不ㇾ申ハ、シヤ首切ンズルゾ」トテ、太刀ヲ拔懸テ問ケレバ、此翁ワナヽキテ、「瀨ハ爰ハ淺候。カシコハ深候」ト教へケレバ、「能申タリ」トテ、後ニハ首ヲ切テゾ捨ニケル。又人ニイハセジトナリ。其後、馬ヨリ下リテハダカニナリ、刀ヲクワヘテ渡ル。檢見ノ見ル前ニテハ、淺所モ深樣ニモテナシ、早所ヲモノドカナル樣ニ振舞テ、中島ニヲヨギ著テ見レバ、向ニハ敵大勢扣タリ。サテ此河ハサゾ有覽ト見渡シテ取テ返シ、「瀨蹈ヲコソ仕ヲホセテ候へ」ト申ケレバ、佐々木四郎左衞門尉、御前ニ候ガ、芝田ガ申詞ヲ聞モ不ㇾ敢、イツタチ馬ニヒタト乘テ、シモザマニ馳テ行。芝田橘六、アナ口惜、是ニ前ヲセラレナンズト思テ、同馳テ行。佐々木、前ニ立テ、「爰ガ瀨カ爰ガ瀨カ」ト云ケレバ、「未ハルカハルカ」トテ、槇島ノ二マタナル所ノ、我瀨蹈シタル所へ馬ノ鼻ヲ引向、ガハト落サントス。芝田ガ馬ハ鹿毛ナルガ、手飼ニテ未乘入ザレバ、河面大雨降テ、洪水漲落、白浪ノ立ケルニ驚テ、鼻嵐吹テ取テ返ス。引向テ鞭ヲシタヽカニ打テ落サントス。佐々木、是ヲ見テ、コハ如何ニ、カシコハ瀨ニテ有ケル物ヲト思テ引返シ、芝田ガ傍ヨリガハト打入テ渡シケリ。佐々木ガ馬ハ權大夫殿ヨリ給タリケル甲斐國ノ白齒立、黑栗毛ナル駄ノ下尾白カリケリ。八寸ノ馬、其名ヲ御局トゾ申ケル。駄ノヲツルヲ見テ、芝田ガ馬モ續ヒテヲツル。河中迄ハ佐々木ガ馬ノ鞭ニ鼻ヲサス程ナリケルガ、元來馬劣リタレバ、次第ニ被ㇾ捨テ二段計ゾサガリタル。佐々木、未向ノ岸へモ不ㇾ襄シテ、「近江國住人、佐々木四郎左衞門尉源信綱、今日ノ宇治河ノ先陣也」ト高ラカニゾ名乘ケル。同續ヒテ、「奧州住人、芝田橘六兼能、今日ノ宇治河ノ先陣」ト、同音ニ高ラカニゾ訇リケル。佐々木、向ノ中島ニ打上タレバ、子息左衞門太郎トテ十五ニナリケルガ、タウサキニ白キ帷ヲ著、腰刀バカリ指、太刀ヲ頸ニカケ、父ガ馬ノ鞦ノ總ニ取付テ來タリ。父、見返テ、「向ノ河端迄ハアリツレ共、是迄可ㇾ渡トハ不ㇾ覺。如何ナル子共アリ共、己レニマサル子有マジ」ト、親子ガ戰テ、敵ノ矢ニアテジト、馬ヲ横ニ折フサギ、子ヲ陰ニゾ立タリケル。サレ共スハダナレバ、猶痛敷、角テハ如何ガ可ㇾ有ナレバ、「己レイシウモ渡タリ。此後如何ナル愛子ヲ儲共、汝ニ不ㇾ可恩替。急、武藏守殿ニ參テ、『瀨蹈ヲコソ仕ヲホセテ候へ』ト申セ」ト云ケレバ、左衞門太郎、只「御供仕候バ」ト申ケレバ、信綱、ヤハラカニ云ハヾヨモ歸ラジト思テ、「如何デ參ラデハ可ㇾ有ゾ。サテハ親ノ命ヲ背タカ」ト被ㇾ云テ、力不ㇾ及取テ返シテヲヨギ渡リ、武藏守殿へ參テ此由ヲ申テ、又取テ返、親ノ跡ヲ尋テゾ渡ケル。サレバ大河ヲ渡事三度也。洪水瀧漲出タル事ナレバ、流石ニ身モ疲レテ、被押入押入シケレバ、重代ノ太刀ヲ首ニ懸ク