『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 城蹟
●城蹟
木古庭の北小名畠山あり、登八町許、土俗八町坂と呼ぶ、新編相模國風土記に曰、山上芝地にして、濶方十五間、三方に土手の形殘る、何人の居蹟なるかを傳へず、或云、畠山重保の城蹟(じやうせき)と、此地名に據(よつ)て附會せしなるべし、此の山續逸見村の屬に、木戸ケ谷の名あり、是(これ)大手(おほて)の蹟(あと)なるべし、若くは逸見(へんみ)五郎の居蹟ならんか。
[やぶちゃん注:横須賀市公式サイトの「田浦を歩く」の「畠山城跡」には、『十三峠の付近に、畠山城跡と伝えられるところがある。これには2つの説があって、一つは、昔ある武将がこの城にたてこもったのを水路を断って亡ぼそうと計ったが、武将は馬を敵の見えるところに引き出して白米をもって馬を洗って見せた。それを遠くから見て米を水と思った敵将はついに水攻めをやめて、軍を解いたという。また、一説には三浦大介の妹の長子である畠山重忠が衣笠城を攻めるときに作った城(または館)だとも伝えられている。この山は、当時畠山勢の進軍の先兵の物見にでも使われたのではないかといわれている。この北方の山の下には、「矢落」(やおちまたはやおとし)と呼ばれる地名も残っている』とある。詳細なルートは「悠歩悠遊」の「畠山」がよく、地図はここがよい。
「畠山重保の城蹟と、此地名に據て附會せしなるべし」と一蹴しているが、私は直前の直近にある「木古庭の不動の瀧」の創建の由来に重保の父重忠が関わっているのがどうも気になって仕方がない彼に所縁の城砦状の屋敷があったとしてもおかしくはないと思われる。
「逸見五郎」「吾妻鏡」の建暦三年五月六日の条の、和田義盛の乱で和田方で討死した名簿の中に逸見五郎・同次郎・同太郎が載る。この人物か。但し、この一族の出自は必ずしも知られた名門甲斐源氏を源流とする逸見氏とは断定出来ないらしい。寧ろ、彼らはまさにこの三浦郡逸見村の出で逸見氏を名乗ったのかも知れないという推測記載が個人ブログ「中世史の見直し」の「武田創世その一 逸見光長について」にあるからである。]
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