自分 山之口貘
自分
數多の精蟲に打ち勝ちし我は
今自分の生の初めをかへり見る
おゝ 冷たく感ずる危機の刹那
――ほつと吐き出すさだめの溜息
生の中で流汗絶えず――
コツコツして居る自分
これが我に如何ほどの幸福であらう
生れ出づる歡喜!!
嗚呼生れ出し我は
勝利者どもの競爭の巷に
第二の爭鬪をせねばならぬ――
おゝ麗しき美術の持主よ
(將來の我に云ふ)
汝の愛しい美術に……
鍛へ鍛ふよりのこの腕もて
數多の勝利者達よ油斷なく進め
おゝ然らば自身を我は
赤い日の下で――――
汗は止め難き――――
汝等の力の
幾百倍の源を穿つて
寒き日にもまたどんな日も
汗かいて汗かいて
すべての頭を踏みにじり
得難い……好きな――
美術の持主に
[やぶちゃん注:底本では末尾に下インデントで『一九二一・六・二四』とある。前の「私の務」と同日の創作で、同じく大正一〇(一九二一)年八月十一日附『八重山新報』に二篇が並載されたものと思われる。但し、この詩にのみ「佐武路」のペン・ネームを附す(巻頭だからか。
このペン・ネームは本名の山口重三郎の名の「三郎」に由来するものか。
旧全集年譜の、この詩の発表より二年前の大正八(一九一九)年の条に『この頃、仲村渠らっと文芸同人誌「ほのほ」を、宮古島出身の下地恵信らとガリ版刷りの同人誌「よう樹」を創刊。ペンネーム山之口サムロ』とあるから、これは「さぶろ」ではなく「さむろ」と読むものらしい。
因みに、この仲村渠(明治三八(一九〇五)年~昭和二六(一九五一)年)は「なかむら かれ」と読む。那覇生まれの詩人で本名は仲村渠致良(「なかんだかり ちりょう」又は「なかんだかれ ちりょう」と読むものと思われる。「仲村渠」はこの三文字で苗字であって沖縄独特のものである)。「琉球新報」公式サイト「沖縄コンパクト事典」の「仲村渠」によれば、北原白秋主宰の『近代風景』に参加、昭和七(一九三二)年頃、詩人グループ『榕樹』派(先に出たガリ刷同人誌か)を結成、戦後は『うるま新報』記者とある(下地恵信は不詳。)。
「コツコツ」の後半は底本では踊り字「〱」。既に述べたように、この翌年の秋、バクさんは画家を志して上京する。
冒頭「數多の精蟲に打ち勝ちし我は」で始まる激烈にしてストイックなこの一篇、私には――バクさんの「雨ニモ負ケズ」――であるように感じられる。]