生物學講話 丘淺次郎 第十章 雌雄の別 一 別なきもの (2)
海中に住む「うに」・「ひとで」・「なまこ」などは外形を見て雌雄のわかるものは殆どない。解剖して體の内部を調べても、雌雄の別が明に知れぬことさへ屢々ある。このやうな類でも雄の體内には睾丸があり雌の體内には卵巣があるが、睾丸と卵巣とはその在る場處も一致し、見た所も極めてよく似たもので、僅に色が少しく違ふ位である。卵の粒の粗い動物ならば、卵巣は一目して卵の塊の如くに見えるが、「なまこ」などでは卵が頗る小さくて肉眼は到底見えぬから、顯微鏡を用ゐなければ雄か雌かの鑑定がむつかしい。「うに」の卵巣は雲丹を製する原料で、生のを燒いて食ふと甚だ甘い。また「なまこ」の卵巣は「このわた」中の最も甘い處で、これを乾したものを「くちこ」と名づける。いづれ鯛や「ひらめ」の「子」と違つて卵粒は見えぬ。これらの動物には輸卵管とか輸精管とか名づくべきものが殆どなく、精蟲は睾丸から、卵細胞は卵巣から直に體外へ出されるが、その出口の孔にも雌雄の相違は全くない。卵が極めて小さから、その産み出される孔も甚だ小さくて、雄の精蟲を出す孔と何ら異つた所はない。「うに」では肛門の周圍に五つ、「ひとで」では五本の腕の股の處、「なまこ」では頭部の背面の中央に一つ、生殖細胞の産み出される孔があるが、注意して見ぬと知れぬ程の小さなものである。
[やぶちゃん注:「くちこ」ナマコは雌雄異体で(従って厳密にはここ「雌雄の別なきもの」でナマコの話を持ち出すのは少し私には違和感がある。丘先生は外見上及び未成熟体を解剖した際の実体視印象からかく述べておられるのであるが、それでもちょっと文句を実は言いたいのである)、普通はマナマコの紐状の卵巣を指す。成熟した卵巣はナマコの口吻に近い体内に形成されることから「クチコ(口子)」とも呼ばれる。別に「海鼠子(このこ)」「撥子(ばちこ)」とも呼ぶ。ナマコは一月から三月になると産卵期を迎えて発達肥大した卵巣を持つようになる。主な産地としては古くは能登・丹波・三河・尾張の四ヶ所が知られているが、とりわけ能登半島の旧鳳至(ふげし)郡(現在は珠洲郡と統合して鳳珠(ほうす)郡)穴水湾産の「くちこ」は古い歴史を持っている。生でも食すが、一般的には平たく干したものが高級珍味として親しまれている。干口子(ほしくちこ)の製法は、十二月下旬から一月にかけて採取した生口子を一合分(約五十匹分、凡そ十数キログラムにもなる雌ナマコの、その僅かな卵巣が用いられる)塩水でよく洗い、それを纏めたものを、細い磨き藁に掛けたり、簀子の上に並べたり、また上製品では横に渡した糸に跨がせるようにして吊るして干したりする。この時、水滴が早く落ちるように先端を指で纏めるため、高級品の仕上がりは平たい三角形状となるが、これが三味線の撥によく似ていることから、「バチコ」とも呼ばれるのである。述べたように小さな一枚のために使用するナマコが多量に必要なため、非常に高価なものとなる。今、販売サイトを管見しても掌に載るサイズで五千円前後はする。そのままでも食せるが、私は軽く炙ったものをお薦めする。一部参考にしたウィキの「くちこ」には『お吸い物・熱燗に入れても良い』とあるが、勿体なくて残念ながらそれはやったことがない。はっきり言って、料亭などで頼むと目ん玉が飛び出るほど高いが、それでも一度は食してみることをお薦めしたい本邦にのみある珍味の逸品である。]
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