戀人よ私に解いて下さいませ 山之口貘
戀人よ私に解いて下さいませ
闇の眞面目な惡戲に、私(わし)は私(わし)
の快感から大切なものを無駄に費しました。
あゝ私(わし)は私(わし)の肉體にめぐり
あふ春の空氣に
だけれど春の草原よ戀人よまぼろしよ 立ち去
れと被仰らずにどうぞ私(わし)の膝がそな
たの膝に触れるように坐らせて下さい
戀人よあの廓の中では 年中春を裝ふた淫亂の
魔物が腐れかゝり 神經が麻痺し
否え私(わし)は決して彼等にたはむれない
つもりでゐる。
あゝ人間と人間とに春がやつて來て私の鼻孔は
膨らみ唇がむくむくうごいてゐます……
戀人よお許し――どうぞ私(わし)の肉體にめ
ぐりあふてゐる春を知らん振りで見逃さずに、
耐え切れない接吻の奥深くへ私(わし)をや
つて下さいませ
私(わし)は櫻の花辨(はなびら)の無駄な想
像に飽いてしまひました
ねえ どうぞ戀人よ第一の新しいこゝろみを人
間と人間との春の接吻の奥深くで私(わし)
に解いて下さいませ。
[やぶちゃん注:大正七(一九一八)年~大正一〇(一九二一)年の間(バクさん十五歳から十八歳)に創作された作品。思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と校合した。一部に特異な改行部があるため、ブログ幅に対応させて以上のような仕儀をとった。問題の箇所は「否え私(わし)は決して彼等にたはむれないつもりでゐる。」で、これは前からの続きではなくて、一字下げになっている独立行からである。一応、全体はこれまでの改行法と同じく改行した部分を一字下げにしたが、この部分に限ってはバクさんはそうしない可能性が高いので(次の「最後の嘆願をもつて」がそうなっている)、ここでもそれに準じた(意味がよく分からない方のために屋上屋すれば、私が「つもりである」の更なる二字下げは行なっていないことを言っている)。底本の連続する次行送りの一字下げを無視して表記すると、
戀人よ私に解いて下さいませ
闇の眞面目な惡戲に、私は私の快感から大切なものを無駄に費しました。 あゝ私は私の肉體にめぐりあふ春の空氣に
だけれど春の草原よ戀人よまぼろしよ 立ち去れと被仰らずにどうぞ私の膝がそなたの膝に触れるように坐らせて下さい
戀人よあの廓の中では 年中春を裝ふた淫亂の魔物が腐れかゝり 神經が麻痺し
否え私は決して彼等にたはむれないつもりでゐる。
あゝ人間と人間とに春がやつて來て私の鼻孔は膨らみ唇がむくむくうごいてゐます……
戀人よお許し――どうぞ私の肉體にめぐりあふてゐる春を知らん振りで見逃さずに、
耐え切れない接吻の奥深くへ私をやつて下さいませ
私は櫻の花弁の無駄な想像に飽いてしまひました
ねえ どうぞ戀人よ第一の新しいこゝろみを人間と人間との春の接吻の奥深くで私に解いて下さいませ。
のようになる(ルビを除去して示した)。【二〇一四年五月二十四日追記】以上は、二〇一四年五月二十四日に行った新全集との校合によって、一部の表記の特異性が判明したため、全面的に改稿した。]
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