耳嚢 巻之八 雀軍の事
雀軍の事
文化五年四月、遠州見附(みつけ)宿の辰藏といへる者濱松の問屋へ贈りし狀を、予が許へ來る是雲(ぜうん)と稱する法師の語り見せける。其文に、森町大洞院の奧八町計(ばかり)の間、雀合戰のありて、其有樣誠にめづらし。東西に分れ、西方の雀の内に鳩程あるもあり。東は平常の通(とほり)。又凡(およそ)五六町隔(へだて)て鳶烏集りゐ、斃(たふれ)たる雀を取(とり)くわんとするを、鷹來(きたつ)て鳶烏を追ふて相戰ふ。雀の勢ひ強く、鳶も鷹も叶わざる體(てい)なり。一昨日の合戰に、東方の雀を取んとするを、雀一羽鳶の頭へ喰ひつき、其内に外の雀戰ひをわすれて鳶に取かゝる。西方の雀七八羽飛來(とびきたり)、漸く鳶を助けたり。誠に討死せし雀の數多く、今日迄六日程の事に御座候。其近邊茶屋飴賣夥敷(おびただしく)、見物人拾町計の間、誠に爪も立申(たちまう)さず。尤(もつとも)合戰の始(はじま)り、晝七つ時分より入相の鐘をかぎりの由認たり。昔より鳥獸蟲介(ちうかい)の爭ひ戰ふ事もあれど、雀の戰ひ鳶鷹の助力珍し。辰藏が作りし事なるや、奇事なれば爰に記す。
□やぶちゃん注
○前項連関:なし。やや法螺に近い話であるが、鈴木氏の注によるとこうした鳥類の合戦はしきりに語られたものらしく、後の松浦静山(天保一二(一八四一)年没)の随筆「甲子夜話」にも、『湯島のあたりで雀が合戦をしたとの噂を記し』、『よく調べたところ、雀と椋鳥が闘ったのであ』ったと記載があり、雀と椋鳥との合戦という噂話は、幕末の宮川政運の随筆「宮川舎漫筆」(文久二
(一八六二)年)『にもあり、これは文政七』(一八二四)『年七月廿五日のこと。ことわざにも、闘雀人を怖れずというのがある』と記しておられる。
・「雀軍」「すずめいくさ」と読む。
・「文化五年」「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏であるから、ホットな噂話である。
・「遠州見附宿」東海道五十三次の第二十八番目の宿駅。現在の静岡県磐田市中心部。「見附」という名は都から下向すると初めて富士山が見える場所であることに由来するともいう。
・「濱松」浜松宿は見附宿の次の第二十九番目の宿駅。現在の静岡県浜松市中心部。
・「森町大洞院」橘谷山大洞院。曹洞宗。応永一八(一四一一)年にここに錫杖を留めた恕仲天誾(じょちゅうてんぎん)禅師を開山とする。底本の鈴木氏注に、『静岡県周智郡森町大字橘。曹洞宗大本山総持寺直末。足利義持の帰依をえた名刹』とある。森町の公式サイトやその他の記載によれば、境内には森の石松の墓や清水の次郎長の碑があり、寺には「消えずの灯明」「世継のすりこぎ」「結界の砂」など恕仲禅師にまつわる数々の伝説があって「伝説の寺」と呼ばれるとあり、これもそうした伝説の寺に相応しい話柄ではある。
・「八町」約八七三メートル。
・「五六町」約五四五~六五五メートル。
・「拾町」一・〇九キロメートル。
・「晝七つ時分より入相の鐘」当年の旧暦四月の日没時刻を調べてみると、凡そ午後六時四〇分から七時〇三分の間であるから中をとると、午後四時半前後から始まって午後六時五〇分頃まで、この雀合戦は実に二時間半近く、しかもそれが一週間ほども(「今日迄六日程」)続いた計算になる。
■やぶちゃん現代語訳
雀戦(すずめいく)さの事
文化五年四月のこと、遠州見附宿の辰藏と申す者、浜松の問屋を営む知己へと送った手紙を、私の元へよく来る是雲(ぜうん)と称する法師が、なかなか面白いものなればとて見せてくれ、委細を語った話。その文(ふみ)に――
「……森町大洞院の奧の、八町ばかりの広地にて、雀合戦がこれあり、そのありさまは、まことに珍しいものであった。
――東西の軍(ぐん)に分かれ、西方(せいほう)の雀の内には、これ、鳩ほどもある大きなる雀が認められた――東軍は普通通りの雀の群れ――。
――また、その東西の対峙する箇所より、およそ五、六町も隔てて、鳶(とび)やら烏(からす)やらが数多集(つど)っており、雀両軍の、戦さによって斃(たお)れ伏した雀を、これ、取って食おうとするを、そこに鷹が飛び来たって加勢致し、その鳶や烏を追って相い戦う。
――いや、何より、雀の勢いが恐ろしく強く、かの鳶も、かの鷹も、およそ叶わぬ体(てい)で御座った。
――一昨日の合戦にあっては、鳶が、東方(ひがしがた)の討たれたる雀を取らんとするを、雀一羽、その鳶の頭(かしら)へと、ガッ、と喰いついて、暫くすると他の雀も、本来の雀戦さをそっちのけに致し、この鳶へと飛びかかる。
――すると、そこに西方(にしがた)の雀がこれ、七、八羽ほども飛び来たったかと思うと、なんと、その東方の雀に苛まれて御座った、その鳶を、美事、救い出して御座った。
――誠に、討死する雀の数、これ、はなはだ多く、その合戦、この手紙を記しておりまする今日(きょうび)まで――実に六日ほども――続いて御座る。
――また、その戦さ場の近辺には、これ、茶屋や飴売りの仮小屋・屋台が夥しゅう出で、また、この戦さを見んとする見物人、実に十町ばかりの間に、まっこと、立錐の余地もなきほどに押し寄する、という始末で御座る。
――もっとも、この合戦は一日中行われておるのではなく、その始まりは昼七つ時分にして、それより、入相の鐘を限りとして、必ず戦さを停止(ちょうじ)する、という決まりがあることを認(みと)む……」
とあった。
昔より鳥獣や虫や魚介やらの類(るい)が、人の如く争い戦うと申すことは、これ、よぅあることでは御座れど、雀の戦さに鳶や鷹が助力すると申すは、これ、なかなかに珍しきことでは御座る。
これ、辰蔵なる者の作り話であろうか? いや、ないとは限るまい。
奇なる出来事なれば、ここに一応、記しおくことと致す。
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