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2014/05/11

北條九代記 卷第六  宇治川軍敗北 付 土護覺心謀略(2) 承久の乱【二十五】――勢多の戦い

去程に東海道の先陣相摸守時房承久三年六月十二日、勢多の橋近く野路(のぢ)に陣を取る。人を遣して見せらるゝに、橋の中(なか)二間(けん)を引落し、搔楯(かいだて)をかき、山田次郎を始として、山法師大勢にて控へたり。相摸守の手の郎等、早川重三郎、階見(はしみの)太郎、佐々目(さゝめの)五郎、足立(あだちの)三郎、讃岐(さぬきの)太郎等(ら)、橋爪(はしづめ)に押寄せて、行(ゆき)げたを渡りて戰ふに、江戸〔の〕八郎、眞甲(まつかふ)を射られて、倒(さかさ)まに落(おち)て流れたり。熊谷(きまがへ)平内左衞門、久目(くめの)左近、吉見十郎、廣田(ひろたの)小次郎、押詰(おしつめ)て三の掻楯を切破り、錣(しころ)を傾けて攻(せめ)掛る。山田次郎、是を見て山の大衆に向ひて、「あれほどの小勢をば、如何に渡させ給ふぞ」といひければ、播磨竪者小鷹坊(はりまのりつしやこたかばう)、心得たり、とて大長刀、水車に廻して寄手六人掻楯の際に薙臥(なぎふ)せたり。熊谷平内左衞門尉、小鷹坊に引組て、首を搔(かゝ)んとする所に、山田次郎が郎等、荒(あら)左近、落合て、熊谷が首を取る。大將相摸守は、「此軍(いくさ)、早り過ぎて、人数を損する事、然るべからず。暫く靜(しづめ)て色を見よ」と下知せられしかば、橋爪を引退(ひきしりぞ)きて、只、矢軍計(ばかり)ぞ致しける。

[やぶちゃん注:〈承久の乱【二十五】――勢多の戦い〉

野路滋賀県草津市野路。琵琶湖北端の南東湖岸。 

「橋の中二間」勢多(瀬田)の唐橋(当時の瀬田川(滋賀県内に於ける淀川上流の呼称)に架橋されていた唯一の長橋)の中央の約三・六メートル分の橋板を完全に割り抜いたのである。当時、東から京に入るにはここか琵琶湖を渡る以外にはなかった。現在のそれは全長二百六十メートルである。

「搔楯」垣楯。「かきだて」の転訛。垣根のようにびっちりと楯を立て並べること。

「行げた」行桁。橋の長い方向に沿って渡した桁で、川に対して直角の、対岸方向に差し渡した、橋板を左右で支えるための橋桁のこと。

「三の掻楯」官軍は抜き落した中央部から西岸方向(現在の唐橋の川岸(川幅は約二〇八メートルある)で試算すると約百メートル弱ある)へ向かってやや間隔を配して掻楯を配した、その中央部から三箇所目のもの。当時は百メートルもなかったものと推測するから、これは殆んど橋の西の袂に近いように思われる。

「あれほどの小勢をば、如何に渡させ給ふぞ」あの程度の小人数(こにんず)の取るに足らぬはずの連中を、どうしてやすやすと渡らせてしまわれるのか、と防戦方への不満を述べたのである。 

 

 以下、「承久記」(底本の編者番号57から60パート。なおここから古活字本は「承久記」下となる)の記載。各パートの後に語注を入れた。官軍方の西岸の陣から抜き落した唐橋の中央部までは岸辺から凡そ百メートル近くは離れていたと私は考えるから、これはもう和弓の狙撃限界とされる距離であり、官軍にはこうした遠距離狙撃に優れた(当時の弓ではこれだけ離れてしまうと、よほどの剛腕でない限り、通常は打ち上げないと届かないから狙撃は遙かに困難となる)複数の弓の名手がいたことが分かる(二百メートル近く離れた瀬田川を挟んだ弓争いでは実に一メートルを超える長大な白箆(しらの)の矢を射て鎌倉方の兜を射た二人の官軍の武士のことが以下に出ており、これは恐るべき剛腕にして正確な射手であった者と思われる)。ともかくここは「承久記」の現場の実況を聴いているような実感記述がもの凄い。

 海道ノ先陣相模守時房、同六月十二日、勢多ノ橋近ク野路ニ陣ヲトル。早雄ノ者共、河端ニ押寄テ見レバ、橋二間引落テ搔楯掻、山田次郎ヲ始トシテ、山法師大勢陣ヲ取。相模守ノ手ノ者共、階見太郎・佐々目・早川重三郎三人、橋爪ニ押寄テ戰ケルガ、射シラマサレテ引テノク。二番ニ江戸八郎・足立三郎・讚岐太郎三人、ケタヲ渡リケルガ、餘ニ強ク被ㇾ射テ、二人引退ク。足立三郎、鎧ハヨシ、橋桁ニ鎧ウチ羽ブキテ居タリケルガ、向ヨリ支テ射ケレバ、コラへ兼テ引退ク。三番二村山黨八人、桁ヲ渡リケルガ、其モ餘ニツヨク被ㇾ射テ引退。四番ニ二十人ツレタル兵、橋桁ヲ渡リテ、搔楯カイテノキワへ責ヨセタリケルガ、餘ニツヨク射ケル間、少々引退ク。其中ニ熊谷平内左衞門・久目左近・岩瀨左近・同五郎兵衞・肥塚平太郎・ヨシミノ十郎・子息ノ小次郎・廣田小次郎、太刀ヲ拔テ三ノ搔楯ヲ切破テ、錣ヲ傾責ヨスル。山法師颯ト引テノキニケル。山田次郎是ヲ見テ、郎從等荒左近ヲ使者ニテ、「如何ニ大衆ハ、アレ程ノ小勢ニハ引セ給フゾ。返サセ給へ。後ロヲバカゴマン」ト申ケレバ、播磨豎者、「引議ニテハ不ㇾ候。帶クニテコソ候へ」トテ、返合テ戰ケリ。山法師ハカチダチノ達者ナリ。其上、大太刀・長刀ヲ持テ重クウチケレバ、武士ハ心コソ剛ナレ共、小太刀ニテアイシラヒ戰程ニ、九人ガ中、六人ハ搔楯ノ際ニ被切伏。平内左衞門尉是ヲ見テ、今ハ如何ニモ叶マジト思ヒテ、其中ニ宗徒ノ者ト見へケル播磨豎者ト組デ臥。平内左衞門、取テヲサヘテ首ヲカヽントシケル所ニ、豎者ガ下人ノ法師寄合テ、長刀ヲ持テ、平内左衞門ガ押付ヲチヤウヲチヤウト二打三打シタヽカニ被ㇾ打テ、傾夕樣ニシケル所ヲ、山田次郎ガ郎從荒左近落合テ、平内左衞門ガ頸ヲ取。ヨシミ十郎、子息小次郎ガ被切伏ケルヲ、肩ニ引懸テ河端迄延タリケル。後ヨリ餘ニ強射ケル間、子ヲバ河へ投入、我身モ河ニ飛入。水練ナリケレバ、水ノ底ニテ物具脱捨、ハダカニ成テ我方へヲヨギ歸テタスカリケリ。今ハ久米左近一人殘リテ、身命ヲ捨戰ケル處ニ、ナラノ橘四郎・平五郎、橋桁ヲ渡テ續キタリケルヲ乘越、面ニ立ゾ戰ケル。

・「射シラマサレテ」「白(しら)ます」は「しらまかす」と同じで、相手の勢いを挫く、の意である。

・「ウチ羽ブキテ」「羽振(はぶ)く」は羽ばたきをする、はばたくの意であるから、鎧を頻りにバタバタと動かして(矢の狙撃から急所を外させるために)の謂い。

・「後ロヲバカゴマン」不詳。識者の御教授を乞う。

・「帶クニテコソ候へ」「帶」には巻く・巻き込むの意があるから、退いたと見せて、早やって進んできたのを見すました後、実は四方から取り囲んで殲滅しようと思っていたので御座る、とその作戦を明かしているのである。「北條九代記」本文より、こちらの方が軍略としてずっと面白く納得出来るように書かれている。

・「ヲチヤウヲチヤウ」底本は後半の「ヲチヤウ」は踊り字「〱」。これは「チヤウチヤウ」なのかも知れないが、そうすると「ヲ」が分からなくなるので暫くかく表記しておく。 

 

 爰ニ宇都宮四郎賴業、親ノ入道ヲ待トテ、大勢ニハ三日サガリタリケルガ、勢待付、少々ノ者ヲバ打捨テ上ル程ニ、勢多ノ橋ノ戰、第二番ノ時ニ五十六騎ニテ馳著クリ。橋上ノ軍ヲバセズ、橋ヨリ上、一町餘引上テ陣ヲ取。向ヨリ敵ノ射矢ノシゲキ事、雨ノ足ノ如シ。宇都宮四郎、河端ニ打立テ、タウノ矢ヲ射所ニ、熊谷〔小〕次郎兵衞尉直鎭・高田武者所、馳來加リ戰フ。但小次郎兵衞ハ遠矢不ㇾ射。「何トテ射ヌゾ」ト人ニ被レ云テ、「皆シロシ召樣ニ、一谷ノ軍ニ弓手ノ小カイナヲ射サセテ候間、遠矢ハ不仕得候」トテ、敵ノ矢長ノトヾカヌ程ニ、馬共引ノケ引ノケ扣サセテ、雜色・舍人共ニ敵ノ射捨タル矢共拾衆サセ、主々ノ前ニ打捨々々射サセケリ。熊谷〔小〕次郎兵衞申ケルハ、「一時ニ事ヲキルベキニモナシ。各休給へ」トテ、河端近ク打臥樣ニ鎧打羽ブキテ、皆臥タリ。サレ共、宿敵ハ射止事ナシ。宇都宮四郎ガ臥タリケル甲ノ鉢ヲ射ツケテ、縫樣ニ鉢付ノ板ニシタヽカニ射立クリ。白篦ニ山鳥ノ羽ニテハギタル矢ジルシヽクリケルガ、眞に大ナリケル。宇都宮四郎、甲ノ鉢ヲ被ㇾ射テ不ㇾ安思ヒ、起揚テ見レバ、「信濃國住人、福地十郎俊政」ト矢ジルシアリ。十三束三伏ゾ有ケル。「宇都宮四郎賴成」ト矢ジルシヽタル、是モ十三束二伏有ケルヲ以テ、川端ニ立テ、能引テ丙ト放ツ。川ヲスヂカイ樣ニ、三町餘ヲ射渡テ、山田次郎ガ川端二唐笠サ、セテ軍ノ下知シテ居タリケルニ、危程ニゾ射懸タル。急ギ笠ヲトラセテ壇ニアガル。水尾崎ヲ堅タル美濃ノ豎者觀源、舟ニテ漕來リ、河中ニテ是ヲ射ケリ。其中ニ赤絲威ノ鎧著タル男、殊ニ進ケルヲ、宇都宮四郎、例ノ中差取テツガヒ支へテ射ケレバ、頸ノ骨ヲ被ㇾ射、立モタマラズマロビニケリ。次ニ黑革威ノ鎧著クル法師武者、少モヒルマズ懸ル所ヲ、二ノ矢ツガヒテ射ケルニ、引合篦深ニ被ㇾ射テ、河中へ倒ニ入ニケリ。其後、美濃ノ豎者モ引退ク。

・「扣サセテ」「ひかへさせて」(控へさせて)と読む。

・「白篦」は「しらの」。既注であるが、篠竹の素(す)のまま(征矢はものによってはこれを焦がしたり、漆を塗ったりする)矢柄(やがら)

・「はぎたる」「矧(は)ぐ」は矢竹に羽をつけること。

・「十三束三伏」「じふさんぞくみつぶせ」と読む。拳で十三握りの幅に指三本の幅を加えた長さの矢の呼称。約一メートル一〇センチ相当。普通の矢が十二束(九十二センチ程度)であるのに対し、単にそれより長い矢という意でも用いる。

・「能引テ丙ト放ツ」「丙」の音は「ヘイ」の他に「ヒヤウ(ヒョウ)」がある。ここはオノマトペイア、「ひょうふつと射る」の「ひょう」である。

・「スヂカイ樣ニ」現在の川幅でも二百あるところを、さらに筋交いで「三町」(約三百二十七メートル)も射、しかもそれが官軍大将の陣笠近くに刺さったというのだから、この宇都宮四郎という武将も只者ではない。ここは「賴業」とあるが、これは一般に宇都宮四郎朝業(ともなり 承安四(一一七四)年~宝治二(一二四八)年:養子先の姓で塩谷朝業(しおや)とも。)と呼ばれる人物で、実朝の和歌の相手として知られる御家人である。当時で満四十三歳であった。

・「中差」箙の中に差し入れてある実戦用の矢。上差(うわざし:箙で目立つように差添えた矢。雁股などが用いられ、一種の装飾効果もあった。)以外の征矢(そや)のことをいう。

・「引合せ」広義には鎧や腹巻・胴丸・具足の類の着脱するための胴の合わせ目を、狭義には大鎧の右脇の間隙部分を指す。ここは後者か。 

 

 相模守、刑六兵衞ヲ召テ、「此軍ノ有樣ヲ見ニ、一日二日ニ事行ベキ共不ㇾ見。サレバ矢種ヲ盡シ、サノミ兵共ウタスベキニモ非ズ。シバシ沈バヤト思ハ如何ニ」ト宣へバ、刑六兵衞、河端・橋爪ニ馳向テ、「大將軍ノ仰ニテ候。暫軍ヲシヅメン」ト呼リケレ共、仰ニモ不ㇾ隨、猶モ名乘懸名乘懸戰ケルガ、御使度々ニ及、高ラカニ訇ケレバ、ハゲタル矢ヲ弛シ、河端・橋上ノ軍ハ留リケリ。

[やぶちゃん注:「訇ケレバ」「いひければ」「よばひければ」と読んでいるか。「訇」(音「コウ」「キン」)は、大声で叫ぶことを意味する漢語である。] 

 

 爰に供御瀨へ、武田五郎・城入道奉テ向ケルニ、何クヨリ來トモ不ㇾ覺、上ノ山ヨリ大妻鹿一落テ來レリ。敵・御方、「アレヤアレヤ」ト騷グ所ニ、甲斐國住人平井五郎高行ガ陣ノ前ヲ走通ル。高行、元來鹿ノ上手ニ聞へテハアリ、引立タル馬ナレバ、ヒタト乘儘ニ弓手ニ相付テ、上矢ノ鏑ヲ打番ヒ、シバシ引テハシラカシ、三段計ニツメヨセテ、思白毛ノ本ヲ、鏑ハ此方へ拔ヨト丙ト射ル。鹿、矢ノ下ニテマロビケル。由々敷見へシ。

・「思白毛」不詳。頭部の思白い毛の部分か。識者の御教授を乞う。]

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