日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十二章 北方の島 蝦夷 3 ラボ、瞬時にして完成す 附 僕の好きな俳優時任三郎の先祖がここに登場する事
朝飯後矢田部教授と私とは、長官を訪問した。彼は威厳のある日本官吏である。我々が名乗りをあげるや否や、彼は、文部卿の西郷将軍から手紙を、また文部大輔から急信を受取っている、そしてよろこんで我々を助けるといった。私は彼に向って、言葉すくなく、我々が必要とする所のものを述べた。第一が実験室に使用する部屋一つ、これは出来るならば容易に海水を手に入れ得るため、埠頭にあること。第二が曳網に適した舟一艘。彼は我々を海岸にある古い日本の税関へ向わしめ、我々は一人の官吏につれられてそこへ行った。私は私が実験所として希望していたものに、寸分適わぬ部部屋二つを、そこに見出した。それ迄そこに住んでいた人達は、私の方が丁寧に抗議したのだが、追放の運命を気持よく受け入れつつ、即座に追出された。次に私は遠慮深く彼に向って、私が二部屋ぶっ通しの机を窓の下へ置くことと、棚若干をつくつて貰い度いこととを、図面を引いて説明しながら話した。一時間以内に、大工が四人、仕事をしていた。その晩九時三十分現場へ行って見たら、蠟燭二本の薄暗い光で、四人の裸体の大工が、依然として仕事をしていた。翌朝にはすべて完成、部庭は奇麗に掃除され、いつからでも勉強にとりかかれる。一方長官は、船長、機関士達、水夫二人つきの美事な蒸汽艇を手に入れ、これを我々は滞在中使用してよいとのことであった。私の意気軒昂さは、察してくれたまえ。私は仕事をするための舟に就ても、部屋に就ても、絶望していたのである。然るに十二時間以内に、完全な支度が出来上った。私は江ノ島に於る私の困難と、舟や、仕事の設備をするのに、何週間もかかったことを思い出した。ここでは、この短い期間に、私が必要とする設備は、すべて豊富に準備出来たのである。
[やぶちゃん注:「長官」磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、矢田部良吉の「北海道旅行日誌」の七月十六日の日記には『朝五時函館港ニ着ス……開拓使大書記官時任爲基ニ會ヒ、此度渡航ノ旨趣ヲ話セシ所、甚深切ニ周旋ヲ爲シ、其宜シキ「ラボレートリ」を與ヘ、且つ小ナル汽船ヲ貸セリ。「ラボレートリ」ハ運上所即チ船改所ノ内二室ニテ、海水ニ接近尤(モツト)モ便利ナリ』とある(恣意的に正字化した)。この「開拓使大書記官時任爲基」がモースのいう「長官」で、ウィキの「時任為基」によると、時任為基(ときとうためもと 天保一三(一八四二)年~明治三八(一九〇五)年)は日本の内務官僚・政治家。府県知事・元老院議官・貴族院議員。薩摩藩士時任為徳の長男として薩摩国鹿児島郡鹿児島城下新屋敷通町で生まれ、明治四(一八七一)年八月に新政府に出仕し、東京府典事(知事―権知事―参事―権参事―典事)に就任、翌明治五年七月に開拓使八等出仕となった。明治八(一八七五)年九月には千島樺太交換条約締結に際して理事官としてサンクトペテルブルクへ出張してもいる。その後、札幌本庁民事局長・開拓大書記官(モース来訪時はこれ)・函館県令・北海共同競馬会社会長・函館支庁長などを歴任、明治二〇(一八八七)年一月、宮崎県知事に就任するも五月には元老院議官に転じた。翌年二月には高知県知事、以後、静岡県・愛知県・大阪府・宮城県の各知事を歴任、明治三一(一八九八)年に貴族院勅選議員に任じられて死去するまで在任した。因みに、私の好きな俳優の時任三郎は彼の子孫であるともある。
「文部卿の西郷将軍」西郷隆盛の弟であった第三代文部卿西郷従道(つぐみち)。文部卿の在任期間は明治一一(一八七八)年五月二十四日から明治一一(一八七八)年十二月二十四日まで。因みに、以前に注したが、モースが前年に来日した際には文部卿は不在であった。明治七(一八七四)年五月十三日に台湾出兵に抗議して木戸孝允が第二代文部卿を辞任して以来、実に四年近くに及ぶ間、文部大輔(副大臣相当)の田中不二麿が文部卿の職務を代行していていたのである。これで明治政府に於いて如何に文部行政が軽んじられていたかがよく分かり、しかもそれをよく支えたのがこの文部大輔田中不二麿であったのである。
「文部大輔」このモースの北海道行の時もそのまま田中不二麿が文部大輔を勤めていた(田中の文部大輔在任期間は明治七(一八七四)年九月二十七日から明治十三(一八八〇)年三月十五日までで、司法卿に配置換えとなっている。これは政府内に未就学児の増加と学力低下を招いたとする批判が強まった結果であった。ここまで前の注も含め、ウィキの「文部大臣(日本)」及び「田中不二麿」に拠った)。]