「枕中記」注の一部
私はこの「枕中記」を、富山県立伏木高等学校二年の時の漢文の授業で中年の国語教師の蟹谷徹先生から初めて聴いた時のことが忘れられない。先生は巧みな話術で面白おかしく志怪や伝奇をよく話して下さったものだった。その中でも「牡丹燈記」に次いで面白かったのが、まさにこの「枕中記」であった。ところが先生の「枕中記」は結末がちょっと違うのだ。廬生は高位高官に上り詰めるのだが、冤罪によって失脚し、遂には斬罪に処せられてしまうのである。先生の廬生は刑場に引きずられて行く途中も、情けなく「死にとうない! 死にとうない!」と喚き、断頭台の木の切株の上に首を横たえさせられると、「あらあっ! こんなんやったら、邯鄲の田舎で百姓やっとった方がなんぼかましやった!」と富山弁で叫ぶのである。最後に首切り役人が振りおろした、ぶっとい剣の刃が(蟹谷先生はちゃんと黒板に青銅製の中央に峯のあるごっつい剣の絵を描いて「これは刃は鈍いからぶちっ! と押し切るんですね!」と如何にも楽しそう説明された)廬生の首筋に――ピタッ!――と触れた瞬間――廬生は目醒める――というのが蟹谷本「枕中記」であったのだ。私は授業が終わると早速に図書室に行って二冊ほどの唐代伝奇をはぐったのだが、今さっき、先生の演じられた最も印象的なそこが――ない――私はその日の放課後、廊下ですれ違った先生にそのことを尋ねてみた。不思議に明るいブルーの瞳(無論、先生は日本人なのだが不思議に虹彩の色がそうだったのだ)を少年のようにキラッとさせて、「そうやったけ? 変んやねえ?」と言いながらも、何故か先生はずっと黙って私の顔を見て笑っておられた――そう――呂翁のように――私はあの、スリリングな感動物の蟹谷本「枕中記」を――今も探しているのである……
[やぶちゃん附注:自分にとってはいささか無粋な附注なのだが、実は今回、いろいろと渉猟するうちにこの先生のネタもとではないかと思われるものが分かってしまった。これは恐らく先に掲げた「枕中記」のインスパイアである、清の蒲松齢の「聊斎志異」に載る「続黄粱」を「枕中記」の後半にすり替えたものと思われる。「続黄粱」は「続」とあるが、続編という体裁ではなく、別箇な作で主人公も「曾」という名である。幸い、青空文庫にこれを翻訳した田中貢太郎の「続黄梁」があるので参照されたい(但し、私は角川文庫の鬼才柴田天馬氏の訳を本当はお薦めしたい)。――にしても流石は蟹谷先生、面白さのツボ(夢覚醒のシーンとしてはこれに勝るものはないと私は思っている)を心得ていらっしゃった。やっぱりこれは私を志怪へと導いて下さった呂蟹谷翁(ろけいこくおう)の卓抜な「枕中記」なのだという思いは全く変わらないのである。――]
[やぶちゃん附注:自分にとってはいささか無粋な附注なのだが、実は今回、いろいろと渉猟するうちにこの先生のネタもとではないかと思われるものが分かってしまった。これは恐らく先に掲げた「枕中記」のインスパイアである、清の蒲松齢の「聊斎志異」に載る「続黄粱」を「枕中記」の後半にすり替えたものと思われる。「続黄粱」は「続」とあるが、続編という体裁ではなく、別箇な作で主人公も「曾」という名である。幸い、青空文庫にこれを翻訳した田中貢太郎の「続黄梁」があるので参照されたい(但し、私は角川文庫の鬼才柴田天馬氏の訳を本当はお薦めしたい)。――にしても流石は蟹谷先生、面白さのツボ(夢覚醒のシーンとしてはこれに勝るものはないと私は思っている)を心得ていらっしゃった。やっぱりこれは私を志怪へと導いて下さった呂蟹谷翁(ろけいこくおう)の卓抜な「枕中記」なのだという思いは全く変わらないのである。――]